本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

吉本隆明「フロイトおよびユングの人間把握の問題点について」

 私が、キリスト教についてはカール・バルトに、人間学については吉本隆明に、依拠し固執するのは、彼らの神学なり知識なり思想なりが、キリスト教の総体性を、人間の総体性を、世界の総体性を、世界史・人類史の総体性を、全く普通の私に対して、本質的に認識し理解する方向へと導いてくれる世界的な水準にあるものだからです。そして、私の読み方・認識の仕方・理解の仕方は、あくまでも単純にしかし根本的にそしてトータルに、という点にあります。重箱の隅をつつく、ようなことは全くしていません。神学についてだけで言えば、それだけで十分、近代<主義的>な(その対極にあるエコロジーも含めて)・自然神学的なキリスト教的神学者や牧師や著述家に対して、根本的にトータルに対応可能なわけです。例えば、青年時、私も次のような経験をしました――神学者か牧師かは知りませんが、『神学者カール・バルト』の訳者の蘇は、その「訳者あとがき」で、時系列的判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、したがって自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)を許す『父の霊』は考えられていない」と断定的に書いていたことを、鵜呑みにしていた時期がありました。しかし、自分自身でバルトの主要著作を読んでいく過程で、その蘇の理解・解説は、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて語られたものでしかないことを知りました。このことがどういうことかと言えば、蘇の言うようなことは、良質なキリスト論的集中神学と三位一体論等々で構成されたバルト神学においてはあり得ないことである、ということです。すなわち、聖霊論を含めて神と人間との無限の質的差異の一貫性においてその神学の認識方法と概念構成をしているバルトの場合、「父ト子トヨリ出ズル御霊」としての「父の霊」に対して排他的にならなくても、「自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)」を防ぐことはできますし、もっと根本的なことで言えば、バルトの三位一体論における神の「存在の本質」の概念から言えば、蘇の言う「父の霊」への「排他」性は本質的に成立しないわけですし、蘇の言うバルトの「キリスト自身の霊的臨在」の強調は、あくまでも『教会教義学 和解論』がイエス・キリストの「存在の仕方」に関わる事柄だからであり、その場合バルトは、神性を本質とするイエス・キリストの「存在の仕方」に重点を置いて論じているだけだからです。
 さて、吉本は、人間の存在様式、その人間の「基層心理を含めて」「観念の働きがもっている世界」を、三つの様式(存在の仕方)・三位相において考えています。その吉本の考え方を、簡潔に整理してみれば、次のように言うことができると思います――
 「人間の観念がうみだす総体の世界をおさえ切るということが、それだけで人間を救済するわけではない」が、「それぞれ異なった次元を構成する観念の総体性をおさえることは、それをのっぺらぼうの世界とみなすことからくるすべての錯誤から、人間を脱出させることは確か」なことである。したがって、「錯誤から脱出するということは、すくなくとも現在の課題としては、ほとんどすべての課題の発端である」ということができる 。そして、自己幻想とは何かという問いは、個体の自立や個体概念・個体性の哲学の構成を要請する。こう、吉本は述べています。

 

  どういう軸をもってくれば、全幻想領域の構造を解明する鍵がつかめるか。
  僕の考えでは一つは共同幻想ということの問題がある。つまり共同幻想の構造という問 題がある。それが、国家とか法とかいうような問題になると思います。
  もう一つは、(中略)対幻想、つまりペアになっている幻想(中略)そういう軸が一つある。それは……家族論であり、セックスの問題、つまり男女の関係の問題である。そういうものは大体対幻想という軸を設定すれば構造ははっきりする。
  もう一つは自己幻想、あるいは個体の幻想……という軸を設定すればいい。芸術理論、文学理論、文学分野というのはみんなそういうところにいく。(『吉本隆明全著作集11』「共同幻想論」勁草書房)

 

 したがって、これら三つの世界の、その内部構造と、その表現された構造と、その相互関係がどうなっているのか、そういうことを解明していけば、全幻想領域の問題というものは解きうる、と吉本は考えたわけです。
1)人間存在には、第一に自己が自己自身に関係する〈個体〉的個人の世界がある。それは、「他人には理解できない内面を含めた、その人の心のもち方」の世界である。またそれは、他人と通じ合うことは第二義的な個体の内面世界のことである。この内面世界は、自己表出の世界と言ってもいい。それゆえ、この世界においては、他者の意見は参考にしかならないから、各人の内面の問題は各人で解決していくよりほかない世界である。
◎人間の「心・精神」の世界は、「意識領域」と「無意識領域」との構造としてある。また、その無意識領域は、「核」・意識領域との境界にある「表層面」・核と表面層の間にある「中間層」との構造としてある。無意識領域が「現実世界」と接しているという場合、それは、無意識領域の「表層面」を指している。特に無意識領域の核の出自は、胎児期と生まれてから一年間の乳児期における母親との関係の在り方によって形成される。このような総体的・構造的把握は、個体の問題や家族問題を扱う上で重要なものである。というのは、家族問題を扱う場合、そのことに自覚的でない場合、家族問題を無意識の「表層面」の問題として錯誤したり、「表層面」と「核」を混同して論じてしまう錯誤に陥るからである。言い換えれば、病的な異常さを呈した個体的自己=個体における自己の問題、家族的自己=家族における自己の問題の究極的総体的永続的な救済は、当事者の「心・精神」における無意識の「核」にある傷を治癒することにあるから、その「核」に傷を負った当事者の個体史を乳児期から胎児期にまで溯って究明していくところにある。しかし、コミュニケーション論のほとんどは、実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)と「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識の外化」としての〈表現〉された言語に偏向しており、部分を全体とする錯誤と誤謬のもとにある。
◎メルロ・ポンティでは「対象的に関係づけられて存在するのが個体」であるとしている。しかし、それは、個体性の哲学にとって本質的な誤謬であって、「個体は個体として自己に関係づけられるから、はじめて対象的に関係づけられる」という点に、個体性の哲学の本質がある。例えば、個体の知覚作用に基づいて、「自体的な識知」=「生理過程の〈変容〉」(《空間化》)と「対象的識知」によって〈この対象は森だ〉と了解(《時間化》)されるのであるが、それに伴う「歓びや悲しみや選択をともなう」感情作用は、その内在化された対象の空間化・「〈内観〉的作用」に属している。したがって、「感情作用は〈知覚〉そのものに伴うとしても〈知覚〉とはかかわりないもの」である。すなわち、対象了解された対象(内在化された対象)を抽象(時間化)する時には概念構成(《了解の抽象化度・時間化度》)の問題として現われるのであるが、感情作用は対象了解された対象を再び空間化する過程において現われる。
2)個体的自己が対(その原型は男女であり、夫婦がその核であるが、それに限らないところの対、兄弟姉妹間、友人間等)として振舞う世界であり、また対幻想の共同性である「〈家族〉の一員としての個人」として振舞う世界である。したがって、対関係を本質とするから、三角関係においては、不可避的に一人が省かれ排除されていかざるを得ない世界である。
3)個体的自己が社会と関わる「〈社会〉的な個人」としての世界がある。これは、「共同性の中の個人」・「共同の観念が流布されている中での個人の観念の世界」のことである。具体的には、仕事・納税・消費・選挙行動等において自分はどう振舞うかという世界である。国家概念も、「大勢のなかのひとり」という関係・共同的関係の中に置かれた個体としての人間、というところに成立する。この領域に関わる国家を含めた集団構成の問題は、集団の基本単位である三人の集団構成から類推していくことが必要な世界である。
 このような人間の観念の総体的把握は、人間の観念世界を「のっぺらぼうの世界とみなすことからくるすべての錯誤から、人間」を解放させてくれることは確かなことでしょう。その例示――
 老人問題は、自己の死の迎え方の問題を有する老人個々人の個人領域における問題(子どもと一緒に暮らしたい、孫と一緒に暮らしたい、夫婦で暮らしたい、一人で暮らしたい、畳の上で死にたいという自分の死の迎え方の問題等百人百様の老人個々人の内在的問題)を本質としながら、関係意識が希薄化している対幻想の共同性である家族的領域における問題(親孝行という観念等が衰退している現代家族の内在的問題等)でもあり、経済的生活の面では社会的問題、共同的・法的・制度的・行政的問題でもある。このように、人間は、「のっペらぼう」な均質な空間において存在しているわけではない。それゆえ、共同的な行政的解決は部分としての解決でしかないものである。したがって、老人問題の究極的永続的解決のためには、人間存在の三位相において扱う必要がある。また、「専業主婦」の概念は、「家族の一員としての個人」の部分に重点が置かれており、社会の一員としての個人の部分に重点が置かれていない在り方を意味している。そしてまた、「仕事人間」の概念は、社会の一員としての「社会的な個人」の部分に重点が置かれており、「家族の一員としての個人」の部分に重点が置かれていないから、家族の問題に対して無関心な在り方を示していることになる。したがって、個体の内面の問題に重点が置かれる場合には、家族領域や社会領域における問題に対して無関心な在り方を示すことになる。したがってまた、個体の自己幻想(個体の観念世界)を本質として創作活動をする「優れた文学者はいつも痛ましさの感じを伴っている」。そして、「文芸作品を読むものに、じぶんだけのためにかかれているように感じさせる要素」は、「文学者が創作のためにたんに労力や苦吟を支払ったからではなく」、「恋人」か「家庭」か「社会の序列」か「現実にいきてゆくために必要な何かを棒にふってしまったことと対応している」からである。
 自己資質や職業や生活や思想や信条や意志や感情等をもった個体の対自的で対他的な総体性をもった自己意識は、個体の自己幻想、個体の対幻想、個体の共同幻想を生み出す。その個体の対自性は、自己が自己に関わる自己関係・自己幻想や、自己が対・性として他者に関わる対関係・対幻想の領域を構成する。この対幻想の共同性が家族の領域を構成する。また、個体の対他性は、自己が社会や政治に関わる共同関係・共同幻想の領域を構成する。この個体の共同幻想は、歴史的に累積されてきた共同幻想とは異なり、自己身体を座としているから、それが個体の自己幻想・対幻想と逆立し自己疎外的で抑圧的なものかどうかを、自己検証し自己確認し自己修正していくことが可能なものとしてある。すなわち、個体の対自性における個・対を価値とし、個体の対他性における共同性に価値を置かないことができる。文学が個体の自己幻想を本質とするという場合、この自己身体を座とする個体における対自的で対他的な観念の総体性のことである。また、人間の類・歴史性と連帯している言語の自己表出性が関わっているのは、価値としての個体の対自性・自己表出性の部分である。したがって、吉本が、『万葉集』のなかの柿本人麻呂の詩歌「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」を、「ぼくが最もいい詩のひとつだとおもう」と評価するとき、吉本は時代を超えた言語の自己表出性に関わっている。私は、こう理解しています。
 それに対して、この個体の自己幻想と逆立する直接的に自己身体を座とする自己意識に回収できない歴史的に累積・重層化されてきた共同幻想とは、次のようなものである。すなわち、それは、自己身体を座とする個体の対他性における共同幻想を出自とする。しかし、そうして疎外された共同観念はその自体的展開と自己増殖過程を持って歴史的に累積されていくのであるが、そうした共同幻想のことである。例えば、日本的な天皇制的諸観念(宗教、儀礼、言語、法、制度等)は、最下層の共同幻想である自然規定、風俗・習慣、心性、文化等を包摂して歴史的に時間累積されてきたものです。したがって、西洋近代の現在でも、その観念は温存されているわけです。宗教性としての天皇制の根強さは、現在でもあるわけです――埼玉大学教授である長谷川美千子は、生き神様としての天皇の憲法への規定を復古的に語り、憲法の象徴天皇制の規定は「曖昧な言葉」だとして、その規定は、もっと明確に「『無私』の心を持って」「われわれのために祈って下さる」「祈る者」としての天皇という宗教的側面におくべきことを生真面目に論じているのです(『文芸春秋3月特別号』平成17年) 。そして、個体の自己幻想は、歴史的に累積・重層化されてきた共同幻想と逆立するけれども、個体の共同幻想とも逆立する。そしてまた、この前者の歴史的に累積・重層化されてきた共同幻想(観念の共同性)は、その歴史的過程を批判的に遡及して検証していかなければ、その共同幻想を止揚し無化することができない。私は、こう理解しています。
 さて、これらのことを前提として、吉本は、フロイトとユングの人間理解の問題点について、次のように述べています。
1)フロイトは、個体としての人間の基層にある「リビドーが根源的」に、人間精神の様式・在り方を決定している、と考えた。このことは、フロイトが、一人の個体と他の一人の個体が「関係したときに現れてくる心の世界」を人間存在にとって基本的で根本的なものである、と考えたことを意味する。このように、理解した方がいい。すなわち、フロイトは、対的関係・対的幻想(観念)に重点を置いていた、ということでしょう。
2)それに対して、ユングは、個体としての人間の「個人的無意識」(その核は、胎児期と生まれてから一年間の乳児期における母親との関係の在り方によって形成される)の「もっと底の方に<集合的無意識>の領域」がある、と考えた。そして、ユングは、この集合的無意識を、人間存在にとって基本的で根本的なものである、と考えた。ユングは、「いわば個人の属さない共同性が決定する無意識の世界があって、それが人間を規制するだろう」、と考えた。しかし、人間の三つの存在様式・存在の仕方・三位相から言えば、その集合的無意識とは、「個人の心の世界」・個人的無意識・個体的観念が「共同の心の世界」・集合的無意識・共同的観念と関係する在り方の位相にあるものである、と理解した方がいい、ということになるでしょう。
3)フロイトの考えをユングの集合的無意識の世界に拡張していくと、「神話の世界」になる。それは、「東南アジアとか南中国とかマレーとか」の神話の複合を基本としている日本の神話は、「洪水神話」である。洪水があり、「兄と妹」・「姉と弟」という「異性の兄弟」で、それが婚姻し、人間が増加していく、というものである。また、それは、日本の神話における、姉のアマテラスが天上(宗教的権力)を支配し、弟のスサノオは地上(政治的権力)を支配する、というものである。しかし、フロイトの対なる世界とユングの共同の世界には位相差がある。家族意識が国家へと超出するためには、近親相姦の禁忌による「親族(社会学でいう血縁共同体)への展開」が必要となる。次に、経済社会構成に強いられて経済的理由からその地域から離れる出すと地縁共同体へと超出していく。しかし、この地縁共同体は、国家の段階ではない。すなわち、対なる世界を拡大拡張しても、国家共同体とはならない。したがって、戦争中、「比喩」として「天皇と大衆とは親と子のような関係」という言われ方をされたが、それは、全くの誤謬で虚偽である。ヘーゲルも述べているように、中国の原理は自然原理としての「天」であり、それは「道」であり、未分化のままの政治制度(共同性)と道徳(個体性)との混在である、その自然原理の体現者は、徳あるものとして天命を授けられた専制君主(親・父)で、そのもとに臣民(子)がいて相互に徳を実践することによって、「修身斉家治国平天下」が成立する、この場合、個や家族や社会は地続きに国家に包摂され、被支配層は支配の暴政や抑圧や暴挙に対しても、天然自然の災害を受け入れるように受け入れていくことになる。これらのことは誤謬であり、共同的な錯誤である。「大勢のなかのひとり」という関係の中に個体としての人間が置かれたところに成立する国家共同性を単純に根本的に考えれば、その場合、先ず以て三人以上の複数の人間が納得する、すなわち相互承認・相互制約の規範的共同性を構成することになるでしょう。それは、国家であれば法でしょう。しかし、最小限の共同性であっても、個人的、家族的、社会的、経済的理由から、その自らが構成した規範・法が抑圧となって、諸利害・諸矛盾が生じてくることが分かります。すなわち、その自ら構成した共同性から、「みずからが抑圧されるという感じ」にさせられたり、事実抑圧されたりすることが生じてきます。
4)ユングは、「個人の無意識の世界」、「共同的な無意識の世界」、「人間が太古から神話として考えたであろう世界」を「集合的無意識」の「元型」と考えた。ほんとうは、集合的無意識は、「非個人的な世界」・「非個人的な無意識」であるから、集合的無意識に「力点」を置いて、すなわち共同性の中での個人の位相に「力点」を置いて、「個人の精神の世界」・個人の無意識世界を論じるユングは錯誤をおかしているのだが、そこにユングの「危うさ」がある、と吉本は述べています。と同時に、ユングの集合的無意識は、「文学と神話学の分野」では「大きな貢献をしている」、とも述べています。
5)フロイトにとって、夢は対的な無意識の「心的願望の表現」として、それは現実の表現ではないので、「歪」んだり「逆」になったりして表れる。すなわち、夢は「直接」的な表れ方をしない。しかし、ユングの場合、夢は、「未来を語っている」・その人が「未来におこなうだろう行為とか意味つけ……というものを表現している」、と考えた。すなわち、共同的な集合的無意識が個人の世界を「予知」する、と考えた。その1でも書いたように、ユングは、集合的無意識が個体に幻視を見させると述べているわけで、子供(おそらくはカトリックの子供)が「マリアの幻視」を多く見ているのは、そこに「集合的無意識が働いているからである」、と述べています。また、カトリックの法王自身が「神の母の幻視を何度も見た」ことも述べています。このことは、カトリックにおいては、自己の「強力な元型的な発達」・集合的無意識の発達(「深み」)が起こっている証拠だ、と述べています。すなわち、「種族」・「部族」・「民族」の「神話的原型」・集合的無意識の「元型」が、人間の「個人の振るまい」・「心の世界」を決定する主要なものである、ということでしょう。しかし、夢も、人間の三つの存在様式・存在の仕方・位相の差異がある、と吉本は述べています。なぜなら、他の人にとっては無意味な夢であっても、その夢を見た個人にとっては重要で固有な夢があり得るからです、そういう夢があるからです。
6)日本でもヨーロッパでも、「種族」・「部族」・「民族」に関係なく、「橋の夢」は普遍性のある夢である。橋は、此岸と彼岸、生と死とを隔てるもの、あるいは架橋するもの、という世界の象徴である。吉本は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を例として、次のように述べています――この作品が読んだ者に感銘を与えるのは、その「橋の話を知っていると否とにかかわらず」、共同的意識として存在している、すなわち集合的無意識として時間累積されてきた、「集合的な歴史的な意識」を積み重ねきた、「橋」の向こう側に、「海の向こう」側に、「天の星」空に、あるだろう「きれいな世界」を、「リアルに描写しているから」である、と。
7)人間の位相の異なる三つの存在様式・存在の仕方から言えば、部分としての対の世界あるいは共同の世界に「力点」を置いて、他の世界を論じる場合、その思想は党派的・絶対的になってしまうのではないでしょうか。ここでも、やはり、自らのその思想の認識方法と概念構成それ自体に、自己相対化視座を持っている必要があるのではないでしょうか。その一つが、吉本にとっては、この、それぞれ位相の異なる人間の三つの存在様式・存在の仕方という認識方法と概念構成にある、と言えるのではないでしょうか。