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インターネットの本質とその陥穽

『超「20世紀論」 下巻』アスキーに基づく

 

 インターネットは、情報科学や情報工学の発達に伴って発達してきたものである。その源泉は、記号論や情報論の軍事情報技術(例えば、「敵国に解読できない暗号を考え出す」)の発達を促した特に第二次世界大戦にある。大戦後におけるその情報科学や情報工学の元祖が、「メディアはメッセージである」と唱えた『メディア論』のマクルーハンである。そのマクルーハンと情報科学や情報工学の専門家たちの、その根本的な誤謬は、「感覚」と「精神や心」とを同一化して、「感覚の発達が人類の精神や心を発達させるという考え方」にある。この部分を全体とする考え方自体に、インターネットの陥穽がある。
1)さて、情報科学や情報工学の任務が「人間の感覚を拡大させ多様化させること」にあるように、インターネットの本質は、その感覚に関わる部分でのコミュニケーションの拡大と多様化を点にある。すなわち、同じ次元の仲間同士や産業同士の交通やコミュニケーションの段階から、「個人と大企業」、「個人と国家」というように異次元
の交通やコミュニケーションの段階まで付加し拡大し多様化する点にある。
2)情報科学、情報工学、インターネットの発達は、知識や生活の利便性を拡大させ増大させ、人間の精神や心にも「影響を与える」面もあるるしても、その人間の精神や心を発達させることはできない。情報科学、情報工学、インターネットが発達したとしても、「人間の喜怒哀楽」はなくならないし、「カッとして人を……殴るということは昔も今も」これからもなくならない。
3)「自己表出」と「指示表出」の構造としての言語論に即して言えば、次のように言うことができる。「指示表出」の第一義的な典型は、指示性の最も強度な名詞、代名詞にある。情報を記号として扱う情報科学や情報工学やインターネットの目的は、人間の感覚的部分に関わるコミュニケーションの拡大と多様化にある。このベクトルは、言語の「指示表出」のベクトルと同じである。したがって、それらの発達は、言語の「指示表出」の機能も発達させ拡大させ多様化させる。
 しかし、一方には、人間の精神や心の部分に関わる「自己表出」としての言語がある。「自己表出」の第一義的な典型は、「『あっ!』といった感嘆詞」(サルから分化した人間の初源の言葉)にあるし、また助詞もそれである。この場合、その言語の指示性は第二義的である。この人間の精神や心に関わる部分の言語の「自己表出」は、情報科学、情報工学、インターネットの発達に伴って発達することはないし、本質的発達させることはできない。
 さて、吉本は、次のように述べています(『詩人・評論家・作家のための言語論』メタローグ、『心とは何か』・『人生とは何か』弓立社、『ハイ・エディプス論』言叢社等に基づく)
 言語の本質は、自己表出(その度合)と指示表出(その度合)の構造である。胃痛で「うっ」と発語された場合、それは、反射的に発せられたもので、表現された〈結果〉として周りの人に伝わるかもしれないとしても、その第一義性は他者とのコミュニケーションを目的としてはいない。ここに、他者への伝達目的によるのではない、自己自身の「内側だけ」から惹き起こされ自己自身の「内側だけ」に反響している表現である自己表出の本質がある。この自己表出は、大脳を中枢としない植物神経系(大腸・肺・心臓・血管等)・自律神経系に関わる「人間の内臓の働き」と、それに基づく情緒・情感・情念等「心(精神)の動き」とを基盤としている。それに対して、指示表出の本質は、風物を視覚(感覚)的に受け入れ了解し「美しい」と感じたことを表現し他者に伝達するところに第一義的な目的がある。すなわち、指示表出の本質は、他者に「何かを指し示す」こと・意味や物語を構成することを第一義的な目的とする点にある。このように指示表出は、大脳を中枢とする動物神経系・反射神経系に関わる感覚器官の動きと、それに基づく感性→悟性→理性へと上昇する「心(精神)の動き」との結びつきである。もちろん、他者とのコミュニケーションを第一義的な目的とする指示表出も、花を視て反射的に美しいと自己自身の心を第二義的に動かす自己表出性を持つのであるが、その場合も、指示表出の第一義的な目的はあくまでも他者への伝達のための意味や物語の構成にある。このように、「人間の身体は植物部分、動物部分、そして人間固有の部分(≪内臓器官に依存したそれと、感覚器官に依存したそれとの、二重構造としてある心・精神≫)」を含んでいる。そして、それらは、それぞれの固有性と、胃腸・心臓等の内臓病で顔にその表情が出るように、大脳と内臓との相互規定性とをもっている 。このような言語論や個体概念の構成は、〈部分〉でしかないものを〈全体〉として押し出す錯誤や誤謬から人間を解放してくれるものである。
 したがって、コミュニケーションは、内在的な「内コミュニケーション」と外在的な「外コミュニケーション」との構造である。「内コミュニケーション」とは、「一歳未満まで、人間は言葉というものを持っていない」のであるが、「言葉を介さずに、思いや考えが伝わる伝わり方」のことである。それは、胎児期と乳児期において獲得される。受胎後5、6ヶ月で、胎児と母親との母胎内における表意的な言葉によらない内コミュニケーションは成立し、胎児期から1歳未満までに「相手の考えやイメージを察知する能力」、すなわち表意的な言葉によらない内コミュニケーション能力の原型や「内コミュニケーションの過敏さ、鋭敏さ」の「原型」が形成される。ここで、察知能力とは思い込み能力のことである 。これは、巫女における託宣能力の根拠となるものである。母胎内では、世界の全てである母親と胎児との間で「栄養の交換、感情の交換、こころの交換」が行われている。乳児にとっては、「栄養摂取、排便、睡眠の世話」をしてくれる「母親あるいは母親代理」との関係が世界の全てである 。人類史における未開・原始は、「人間の個体の発生でいえば、胎内的な段階」のことである。この胎内的段階は、仏教でいえば「前世」のことであるが、科学的には「胎内体験」(体験は、自然時間に規定されているから、一回性をその本質とする)のことである 。それゆえ、人類史における未開・原始における「言葉(表意文字)以前の心の世界」あるいは未開・原始社会の「コミュニケーションの世界」は、胎児期や1歳未満の乳児の心の世界あるいは内コミュニケーションの世界を考察することと同じである 。そして表意的な言葉を覚えて以降は、「内コミュニケーション」から「外コミュニケーション」へと移行していくことになる 。
 したがってまた、病的な異常さを呈した個体的自己や家族的自己における究極的課題は、当事者の無意識の「核」にある「心・精神」の傷を治癒することにあるから、無意識の核に傷を負った当事者の個体史を胎児期や乳児期にまで遡って究明していくところにある。統合失調症(精神分裂病)における作為体験としての妄想・幻覚は、「思い込み」の過剰・体系化(幻覚の占有)として、「内コミュニケーション」の異常によるものである。この「幻覚」と同時に、顔を水の中につけて、顔をあげずにそのまま死ぬことができるという「意味の異常」がある。すなわち、その精神の異常は、幻覚というイメージの異常か意味の異常としてある。もちろん、正常な人間でも神経過敏な人は「対手が何を考えているか表情ですぐ分かる」ことができる。男性は、愛する対手の女性に対して、思い込みを含めて、女性が何を感じているかを表情や仕種の変化で感じ取ることができる。そうすることができる根拠は、胎児期や乳児期における「母親との内コミュニケーションの体験」を根拠としている。つまり現在を生きる個体の考え方や感じ方や行動の仕方の原型は、胎児期や乳児期における母親との「内コミュニケーション」の体験に依拠している。同じように、このことを人類史に敷衍すれば、現代を生きる人間の考え方や感じ方や行動の仕方の原型は、人類史の原型である「未開・原始の時代」の人間に依拠している。例えば現在においても、テロにおいて残虐な斬首や皮剥があるとすれば、それは、その実行者における意識や思考や認識や行為が「未開・原始の時代」における意識や思考や認識や行為に「退化」しているか、あるいは自分が生きている地域が依然としてそういう人類史の段階を残存させているからである。また、そうした行為に対して、「ひどい」、「耐えられない」、「理解できない」と考えたり感じたりする場合は、そういう残虐性を払拭すべく社会の構成を意志してきた人類史の尖端性にある西洋近代の意識や思考や認識や行為に依拠しているからである。このことを考えれば、確かに西洋近代も包括され止揚されるべきではあるが、天然自然や原始未開の状態等が全面的に肯定されたり理想化されたりすべきでもないのである。
 「内コミュニケーション」に対して、表意的な言葉を覚えて以降の「外コミュニケーション」は、現実の世界と意識領域との関係における、感覚に依存する「心・精神」の働きによるコミュニケーションである。それゆえ、冷たい接し方や冷たい言葉を「持続的にある期間」繰り返し受けた場合、その人間の「心・精神」は大きな傷を受けることになる。逆に、温かく優しい接し方や温かく優しい言葉を受けた場合、感覚に依存する「心・精神」の働きによるコミュニケーションは、良好な相互了解や相互理解を生み出し得ることになる。すなわち、逆に言えば、感覚に依存する「心・精神」の働きによるコミュニケーション世界において心に傷を負った者は、「心・精神」の傷の原因となったコミュニケーションの改善によってその病を治癒させることができる 。しかし、人間は感覚に依存する「心・精神」の働きが疎外する意識領域だけでなく、内臓に依存する「心・精神」の働きが疎外する無意識領域をもっているから、感覚に依存する「心・精神」の働きによるコミュニケーションを円滑に行うだけでは、相手の「心・精神」を掴むことはできないので、相互に「心・精神」を通い合わせ相互了解し相互理解することはできない部分も有している。すなわち、相手の「心・精神」の無意識の層やある場合には無意識の「核」にまで下降していかなければ、本当は相手の「心・精神」は掴めず、相互了解し相互理解することは不可能なのである。それゆえ、ある個体の無意識の「核」に「心・精神」の病や異常がある場合は、その「核」にまで遡及・下降してその傷を取り除かなければ治癒させることは全く不可能なのである 。
 吉本は解剖学者の三木成夫の学問的成果(「大脳」は「感覚の母胎」をなし、「内臓」は「それ以外のものの母胎」をなす)を踏まえながら、人間には三つの器官あることを述べている。第一には、生体の植物的機能器官、植物神経系に属する自律神経器官、呼吸器官・循環器官・消化器官等「植物器官」としての「内臓器官」である。第二には、生体の動物的機能器官、動物神経系に属する視覚・聴覚等の「動物器官」としての「感覚器官」である。第三には、「心・精神」としての「人間固有の器官」である。この「人間固有の器官」である「心・精神」は、感覚に依存する「心・精神」と内臓に依存する「心・精神」との構造としてある。また感覚に依存する「心・精神」の働きと内臓に依存する「心・精神」の働きの起源は、筋肉などの「体壁から神経がつながっている感官器官」と、植物系の神経で動かされている「腸とか肺とか胃とか心臓とか」の「内臓器官」とが分離されたところにある。さらに遡って言えば、原始的な感覚器官である臭覚機能が、内臓器官の一つである呼吸器官から分離されたところにある。人間の「心・精神」の働き(内面の構造)は、内蔵器官に依存した「心・精神」の働きによる表出と、感覚器官に依存した「心・精神」の働きによる表出の構造としてある。このことを根拠に、森林セラピー――人が樹木の中に佇み「心・精神」を落ち着かせたり癒されたりするのは、個体の自己身体にある植物系の神経を根拠としているからである――と、また、動物セラピー――人が犬等の動物によって「心・精神」を落ち着かせたり癒されたりするのは、個体の自己身体にある動物系の神経を根拠としているからである――とを理解し説明することができる。
 吉本によれば、自己慰安のためだけの言語、他者への伝達は第二義的な他者とのコミュニケーションを目的としない言語、自律神経系の内臓器官と深く関わる言語、自己自身に対して価値をもたらす言語、内在的に自分自身だけが了解可能な言語、「感覚を刺激するのではなく、内臓に響いてくるような言葉」が、価値としての自己表出としての言語である。それは、ほんとうの文学としての言語でもある。
4)立花隆は『インターネットはグローバル・ブレイン』で、「インターネットは人間の大脳の神経系を地球規模に拡大したものである」、と言う。それは、自転車や自動車や船や飛行機が農機具が身体の延長・拡大であるように、大脳・感覚の延長・拡大であるとしても、人間の精神や心を発達させることはできない。立花の思考方法や論述の根本的な欠陥は、例えば頭痛がしたり「胃腸が悪くなると憂鬱になる」ということは古代から現代まで変わらない事柄、そのことを追究しそのことに答えていないという点にある。
5)東大教授の西垣通と三菱総研相談役の牧野昇との共著『インターネット社会の「正しい」読み方』で、西垣は、その根拠を明確にせず、「贈った」とか、無償でもらったとかいう「軽い意味合い」で「インターネットは贈与の世界」、と言う。人類史において原始未開における贈与制は、「有形物と無形物」との交換経済を意味していた。それは、「絶対的権威の王は、絶対的無権威の民衆に対して、無償」で自らの所有物である土地や生活物資等を与えるのだが、そうした王の贈与に対して民衆は「精神的」な「絶対的帰依」(己の「生殺、労働、生活、生存は王の意志」に任せる)を贈与する、というものである。またそれは、貨幣を媒介とする貨幣経済における等価交換を基本とした「近代主義経済の等価交換とは違う等価交換」である。インターネットは贈与経済である、と言うためには、インターネット上で自分が相手方から無償で利益贈与を得たのであれば、必ずそれ相応分の利益贈与を相手方に与える必要がある。すなわち、現在の等価交換の貨幣経済を拡張した贈与概念を構成する必要がある。革命論として言い換えれば、世界普遍性としてある人類史の原型・母型であるアフリカ的縄文的段階における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明と、民族国家の枠組みを超えた世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論を構成する必要がある。この時、この贈与価値論は、資本制的生産様式(交換価値論)を包括し止揚しそこから超出できる新たな価値論となる。
 いずれにせよ、「ARPA(アメリカ国防省高等研究計画局)に属するアメリカの技術者たちが、軍事用にネットワークを構築したことは、純粋に科学技術の問題」であって、「産業」の問題ではない。したがって、その科学技術・知識の高度化・拡大・増大を目指す「科学技術」としてのインターネットの問題と、利潤追求・価値増殖を目指して経済活動する「産業」としてのインターネットの問題(例えば、流通コスト等が極力抑えられる百科事典等の電子書籍化等)は区別する必要がある。