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吉本隆明:ダイアナの死

ダイアナの死

 

 ダイアナの死

 

 吉本は、<ダイアナの死>に関することについて、出版社のインタビューに答えて、次のように述べています。
1)イギリス王室は、離婚問題解決のために、ローマ・カトリックから離脱し、イングランド国教会・英国聖公会を成立させたヘンリー8世に代表されるように、離婚だけでなく浮気も平然と行う、という意味で日本の皇室とは違って、開放度がある点が特異である。王室特有の面倒くささ(しきたり、家訓)があることは当たり前であるにもかかわらず、ダイアナは、なぜ好き好んで王室に嫁いだのか? したがって、「死者は平等である」という意味で、ダイアナの死は、一方で「かわいそうだな」という思う反面、他方では半分はダイアナの意志も関与しており「自業自得じゃないか」という思いがある。したがってまた、ハーバード大学で経済学を勉強し、東大法学部に学士入学し、外務公務員採用1種(上級)試験に合格し、外務省に入省し、という小和田雅子は、イギリス王室よりもさらに面倒で自由もないところに嫁いでしまったのか、と当たり前に考える。もし嫁いでいなければ、精神の病の苦痛もなく、高級官僚としての道を邁進していたに違いないだろう。吉本はこのことから、「女の人の教養とか判断力ってのは、アテにならないなあ」と感じた、と述べています――「上野千鶴子や田嶋陽子」は、「小和田雅子的な生き方に対して、とても肯定的なことをいっていた」けれど、「なんだ、この人たちのフェミニズム(≪教養力・判断力≫)って、こんなものか」と感じた、と述べています。
 「相手が自分より社会的に圧倒的に優位である、あるいはその逆である」関係が、「男女の恋愛感情」・婚姻関係に「入り込んできたとしたら」、それは、「ダメだと思います」。
2)ダイアナとは「縁もゆかりもない人」が、「花束を捧げたり、記帳したりする」のが「僕には解せません」、と吉本は述べて、「日本でも、わざわざダイアナの葬儀をテレビで放映したりして、マスコミは輪をかけて騒ぎ、これに追従して」いたことも解せない、と述べていました。私自身も、正直なところを言えば、あの騒ぎ方を見ていて、よく分からないなあ、と思いました。竹中平蔵と結託して日本をアメリカ流に私物化し、日本の<よき>伝統である終身雇用制を破壊した小泉純一郎を、国会議員を辞めた後も小泉の自宅近くまで追っかけて、小泉さんと手を振っているおばさんがテレビ映像に映し出された時、私は正直なところ、即座に、バカなおばさんだなと思いました(小泉は、そのおばさんを無視していました。ああ! なんというみじめさだ!!)。このバカなおばさんの明るさ・軽薄さ、この明る過ぎる・この軽薄過ぎる雰囲気の社会全体への蔓延、これでは、日本はよくなるうわけがない、と思いました。自分の無力さと自分の意志だけではどうしようもできない社会構成や支配構成の動向に対する人間の究極的限界を感じました。
 いずれにしても、このような心的傾向は、人間一般にある「順序化」・「序列化」する意識、に基づいている。その意識は、時代状況が自分に味方をしたかしなかったという運・不運分によって、すなわち「精神的な富」の外化された知名度・名声の度合によって、王室や皇室は一般人より「偉い」、総理大臣は一般人より「偉い」、「東大の学長は法政大学の学長より偉い」、知識人は一般人より「偉い」、有名人は無名人より「偉い」、という序列化を無意識にうちに惹き起こす。この意識は、人間一般、万人共通にあるから、「よほど意識して否定していかない限りは、なくすことはできないもの」である。すなわち、個体の意志力だけでは不可能であって、そうした意識を不可避に生み出す資本主義のシステムそのものを根本的に包括し止揚して、その世界史的・人類史的段階から超出していくほかはない。
 ドイツの大衆紙の「ビルト」が事故直後の写真を掲載し、大衆から批判を浴びたことに対して、吉本は、ダイアナ自身とマスコミの関係は利用し利用される関係で相互に利害を共有しており、写真掲載は自由である、そのことよりも、「むしろ、なぜ大衆は人によって差別するのかということのほうが本質的な問題だと思います」、と述べています。すなわち、資本主義のシステムが生み出す共同の幻想・集合的無意識として、自分の意志だけでは払拭できない、序列化する意識・心的傾向に本質的な問題がある、というわけです。私は、この意見を、首肯します。なぜなら、「割腹自殺した三島由紀夫の首の写真」が掲載されても、「けしからんという世論は起きなかった」からです。したがって、このことを延長して考えれば、三島と一般市民の関係においても、序列化・差別化が行われる、でしょう。ほんとうは、普通に考えて、こういう序列化する意識・差別化する意識はおかしいでしょう、と言わざるを得ないにもかかわらずです。
 当然にも、こういう意識は、信仰・神学の世界においても生み出されます。例えば、教会における信仰や神学について、一般信徒と、大学の神学者や教義学者や著述家や牧師とを序列化するでしょう。一般信徒のそれよりも、大学の神学者や教義学者や著述家や牧師のそれを上や正しいと考えるでしょう。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉』において、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」、教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである、と述べました。バルトは、その信仰・神学の認識方法と概念構成において、そういう序列化を志向しない信仰・神学・教会の宣教の根本的な完全な開放性を目指しました。バルトの場合は、口先だけではないのです。
3)富や社会的地位が有利に現れるのは、「資本主義のシステム」自体がそうだからである。資本主義は、生活を豊かにし・生活の利便性を増したけれでも、本質的に「欲望を無限に増大することを肯定するシステム」であり、差別・格差は「永久になくならないシステム」である。したがって、資本主義のシステムが支配する社会に生きている限り、そういう心的傾向・共同の幻想・集団的無意識が生み出されていく。システム自体がそうであるから、人間の個体の意志によってそういう心的傾向・共同の幻想・集団的無意識を否定できるのは半分だけである。したがって、そういう心的傾向・共同の幻想・集団的無意識を根本的・永続的に克服するためには、個人の意志・善意・倫理(その積み重ね)によっては無理なので、その資本主義を根本的に包括し止揚して、その段階から超出していくほかはない。しかし、それも人間的営為である以上、また新たな矛盾が生じてしまうに違いないでしょうが……。
4)総理大臣は一般人より「偉い」、「東大の学長は法政大学の学長より偉い」、知識人は一般人より「偉い」、有名人は無名人より「偉い」、という心的傾向・共同の幻想・集団的無意識は、日本においては注意を要します。「特定秘密保護法」は、アジア的な日本においては特に注意を要します。阿部首相は、宗教としての天皇制の下で政治的権力を遂行する構想を思い描いていると思いますが、アジア的な日本においては、アメリカの伝統とは違って、いつも共同体至上意識が個体性を超えていきますから、もしも「特定秘密保護法」が成立してしまうと、国家・社会秩序保持のためにという名目で、相当の表現の自由の抑制・抑圧が生じてくるに違いありません。

ダイアナの死