本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

吉本隆明のマルクス論一つ

 吉本は、次のように述べています。
 科学・技術や生産様式の発達は、遅延させることはできても逆行させたりすることはできない。この意味で、エコロジーの極限に想定される天然自然主義は錯誤でしかないものである。と同時に、人間存在の総体性にとっては、「経済的範疇というものもまた部分」にすぎず、近代の宗教としての科学主義における「科学が発達し、技術が発達し、未来が描けるというような考え方」は、部分でしかない科学を全体として錯誤するところにある。「社会の経済的な、あるいは生産的な、あるいは技術的な発達」に対して、情念や非感覚的部分や喜怒哀楽の感情は、それに伴って発達するわけではない。マルクスが、人類の歴史において、経済的範疇は「第一次的に重要なもの」である、「そしてその他のものはそれに影響される」と述べた時、観念領域・「幻想領域の問題は、そういう経済的範疇を扱う場合には大体捨象できるという前提」に立脚して述べているのである。すなわち、マルクスの思惟は、唯物的ではあっても唯物主義的ではないし、したがって経済決定論者ではないし、観念の自体構造・自己増殖過程を否定したわけではない。そのことをマルクスは『経済学批判』で、ギリシャ古典芸術の「永遠の魅力」に言及しながら、「困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない規範(《人類的成果・歴史的現存性》)としての意義をもっているということを理解する点にある」と述べている。その自覚の下で、人類は、経済的社会構成と観念諸形態において、歴史的段階に対応したさまざまな文明と文化の諸形態を持つ、と述べたのである。そして人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが〈良きもの〉であれ、〈悪しきもの〉であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかない」ものである。歴史的現存性とは、人間化され非有機的身体化された全自然・人間的自然を、それが良きものであれ悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことである。したがって、個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである。したがってまた、個人としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、いったんそうした「現実に衝突してからは」人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個の現存性を刻んでいく。すなわち、人間の歴史は、「すべての個人としての〈人間〉が、或る日、〈人間〉はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが〈実現する〉という性質のものではない」のである。私は、体験としても、論理としても、この両者を首肯します。