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吉本隆明の超資本主義的段階(消費資本主義的段階)論について――思いつくままに

吉本隆明の超資本主義的段階(消費資本主義的段階)論について――思いつくままに

 

 吉本は、講演「像としての都市」(日本鋼管主催、1992年)で、資本主義の高次化としての消費資本主義的段階(超資本主義的段階)における消費社会の指標を、個人所得の内の個人消費における選択的消費の割合に置いた。一方で、企業の設備投資の前年同期比の増減に置いた。
 さて、現在でも、平均的な日本人の個人所得の内、個人消費における衣食住という基礎的消費(必需的消費)に対する旅行・趣味・娯楽・教育等という選択的消費の割合は40%以上である――吉本の講演当時のそれは50%を超えていた。すなわち、国内で生産された財貨やサービスの減価償却前の合計であるGDP(国内総生産)に対するGDE (国内総支出)において一番大きな割合を占めているのが、その50%以上を占めている個人消費支出であるが、現在でも、その個人消費支出の内の40%以上を選択的消費(過剰消費)分が占めている、ということである。したがって、消費資本主義的段階においては、衣食住を保持したままでこの選択的消費(過剰消費)分も持っている個人消費者が、企業に対してだけでなく国家に対しても、<実質的>な経済的<主権>を持っている、と言うことができる。なぜならば、全国民が、大多数を占める被支配としての一般大衆が、
@ほんとうは、マルクスや吉本によれば、逆立的に対象化された市民社会の自己意識の共同の幻想的形態・共同幻想を本質とする法・政治的近代国家である国家共同性には第一義性・価値はないこと、またほんとうは、国家は国家共同性をどこまでも国民に開いていく必要があること、先ず以ては<社会>を第一義とする社会主義的国家――ナチズムも全体主義もスターリニズムも修正資本主義も<国家>を第一義・価値とする国家社会主義であってすべて駄目である。半西欧半アジアのロシアマルクス主義も農本主義的な中国のそれも国家社会主義で駄目であった。また、竹中・小泉路線がそれであったが、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義も、国家を第一義(価値)とする経済的自由至上主義であり・至上市場主義経済化でしかないから駄目である。したがって、これら現在を包括し止揚したそれ――が過渡的課題であること、そして社会的現実的な人間の解放が革命の究極的総体的永続的課題であること、また、
A知識における思想的課題を自覚し持たないまま、その知識の即自的な自然過程において必然的に政策(的言語)や法(的言語)によって国家(体制)に加担していく知識人の知識やメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしないで、あくまでも自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づく自立した生活思想の構成が重要であること、
を認識し自覚し、意志して、この選択的消費(過剰消費分)権をある期間行使すれば、すなわち選択的消費をある期間<停止>すれば、消費資本主義的段階においては、企業も国家も成立できなくなるからである。もっと言えば、例えば集団的自衛権の反対運動を、大多数の被支配としての一般大衆が、インターネット等の通信手段を通して全国的に連帯し、相互了解と相互承認の下で意志して、選択的消費権をある期間行使すれば、すなわち選択的消費をある期間<停止>すれば、出鱈目さとペテンに満ち満ちた共同幻想を本質とする政治における選挙行動よりももっと主体的にもっと直接的にもっと強力に、反体制の抗議行動となり得る、と言うことができる。すなわち、消費資本主義的段階における消費者は、潜在的には、ほんとうは、国家の暴挙・圧政を打倒できる強力な経済的<主権>を持っている、ということである。「国民大衆の経済的な潜在実力は、どんな政府支配をもってきても統御できないレベルに到達しているということだ」・「近代経済学の理念もマルクス経済学の理念も総じて支配を中心としてかんがえる経済理念」――すなわちそうした支配の経済学は、消費資本主義的段階においては、言わば「アメリカ、日本、EU(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)」においては通用しなくなっているのである(吉本隆明『超資本主義』徳間書店)。もう一つの指標から言えば、外在的な経済環境から企業の意志において設備投資を控えた場合、やはり経済規模を縮小させる要因となる。さらに、消費者が意志的に選択的消費を控えれば、企業は国内での設備投資を控えることになるから、経済規模は縮小する。したがって、個人の選択的消費と企業の国内設備投資という二重の観点が必要なのである。そして、現在、後者の問題から言えば、外在的な経済環境から強いられて企業の意志は、東証1部に上場する企業の企業投資の内、設備投資よりも投資有価証券投資の方の割合が上回る傾向を示している、と言われている(2014年2月26日大和総研記事参照)。

 

 したがって、政府側や反政府側を含めて、「経済専門家や学者や経済政策を立案している官庁」の官僚における、既存の支配の経済学による経済分析とその政策は、根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」られたものに過ぎない、と言うことができる。なぜならば、知識・学における思想的課題を自覚せず持たない彼らは、「なまの現実の政治経済や社会経済を分析し、経済政策や社会政策に反映させようと企てる」場合、必然的に、いつも、「支配の学」の一方通行的一面的な「発想」と「政策」をとらざるを得ないからである。また、そうした政治や社会の政策を執行する地位にある支配上層の彼らは、その「政策」を「国民大衆の方が無条件に受け入れ、大なり小なり忠実にしたがうこと」を「前提」としているからである。言い換えれば、彼らは、「マルクス主義的な用語でいえば前衛集団が政治や経済の政策を打ち出すと、労働者や民衆はそれを受け入れ、文句もいわずに実行するだろう」ということを前提としているからである(前掲書)。
 さて、吉本によれば、企業体は経常利益体であるから、経常利益の減少が倒産に結びつかない限り、経常利益の前年同期との伸び率の差異性が、不況を判断する指標とはならない。それでは、不況かどうかを判断し得る指標、すなわち「不況を判断する経済的基準」は何か?――それは、先ず以て、選択的消費(支出)が個人や企業の血肉(身体)とまでなっている消費資本主義的段階においては、消費(支出)は「遅延または先行された生産にほかならない」から、後者においては、経済環境から強いられた企業の意志的行為である「設備投資の前年同期に対する伸び率比の増減」にある。したがって、この増減の度合が、「いちばんはっきりと企業体についての不況の度合」を判断する指標となる。一方で、最も重要なのは、家計における選択的消費(支出)の前年同期比の増減の度合が、不況の度合を判断する指標となる。さらに、産業構造が、第三次産業中心(国内総生産からみた産業の構成比で50%以上)となっている現在、公共投資というケインズ型不況対策は不況脱出の決定打とはなり得ない、という観点が重要である。したがって、不況対策には、企業の側の問題でいえば、吉本によれば公共投資として「投入する公共費の半分以上……を第三次産業関係に向ける」ことが重要である、ということになる。また、経済社会構成体の高次化は自然史的過程に属しているから、「スターリン主義者の清貧主義やエコロジストの文明退化主義」も、「勤倹節約」も、根本的に駄目なのである。なぜならば、超資本主義的段階(消費資本主義的段階)にある地域国家(「アメリカ、日本、EU(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)」経済先進国)においては、政府側(体制側)や反政府側(反体制側)よりも、言わば「経済専門家や学者や経済政策を立案している官庁」の官僚よりも、「諸国民個人や企業体のほうが優位」性・経済的主権を持っているからである。したがって、現在のような先進国の不況の要因は、社会的生産の主体が第三次産業に移ってしまった構造的転換にある、すなわち消費資本主義的段階における社会構成や文化構成の構造的転換にあるからである。言い換えれば、この消費資本主義的段階において、「不況を離脱するには、ほんとは……先進国では諸国民と企業体を経済と経済政策の主体においた方策をとるほかにありえない」、ということである(同書)。

 

 現在、人民民主主義であれ、社会民主主義であれ、自由民主主義であれ、「<民主主義>という名の政策決定につきまとう限界」は、政治過程の政策決定が、「一般民衆の人格の総和」として決定されず、水面下で「政策者の人格にかかわる内密さ親疎や偏向」に依存して決定され、その決定された政策が公開されてくるという点にある。この限界性の中にある「世界政治の現状で一般民衆の大多数の政治意志が同意しなければ、どのような政策決定もできないという真正の民主主義ができるためにはふたつの方法しかない。ひとつは一般大衆の無記名直接の投票によって政府(政策決定の最高機関)が、いつでもリコールできる法的な装置を持っていること」と、ふたつには「一般大衆の大多数の経済的な実力が、いつでも政府をリコールさせるだけの力能まで成長すること」である。この後者の「力能の成長」については、アメリカ、日本、EU(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)経済先進国においては、すでに達成されているのである。このように、ほんとうは、経済先進国の大多数を占める被支配としての一般大衆は、後者に依拠して意志して連帯すれば、政府を打倒する力能を潜在化させているのである。この認識と自覚が必要なのである。

 

 吉本によれば、社会構成や文化構成の転換期は、「1973年(昭和48年)ごろから1975年(昭和50年)ごろにかけて存在」していた(吉本隆明『見えだした社会の限界』コスモの本)。すなわち、それは、第二次産業における経済成長率の後退・倒産や失業率の増加と、産業の高次化――経済的社会構成が第二次産業中心から第三次産業中心へと、生産資本主義的段階から消費資本主義的段階へと、第三次産業を中心とした高度化し複雑化して広がっていく産業の重層化という新しいシステムの登場へと、移行していく時期に存在していた。それは、ビルの超高層化、すなわち都市の超都市化を伴う。マルクスが生きた資本主義興隆期においては、天然自然の水や空気は使用価値はあっても交換価値はないものとされていたが、1973年以降「天然水『No.1』」(商品)として売り出されることになり交換価値を持つようになった。また、工場や田畑のように横へと延長していく在り方から、縦へと延長していく「超高層ビルの出現」や「コンビニエンス・ストアの出現」は、「農業と製造業が中心の社会から、サービス業・流通業・小売業が中心の社会に転換しつつある社会の象徴」であった。その具体的事態は、次のようなものである――1973年における「サッポロビール、天然水『No.1』の発売」、「海外旅行ブーム(二百万人突破)」、「電通広告取扱い高、世界第一位」、ビルの超高層化等にある。1974年における「新宿に『朝日カルチャー・センター』開設」、「台東区にコンビニエンス・ストア第一号『セブンイレブン』開店」、「産業構造審議会、知識集約型産業への転換を答申」、「週休二日、民間企業の50%で実施」、「栃木県小山市に十六戸の兼業農家連合が発足。農業経営の現代化」にある。1975年における「環境庁、緑の国勢調査、国土の八割開発・純粋天然自然二割」、第三次産業移行期に伴う「不況深刻化(完全失業者百万人突破)。前年度倒産一万六千件で戦後最高」・「経済企画庁の調査で、日本経済初めてのマイナス0.2%成長」にある――このような状況下において、「日常生活をおくっているあいだに、どこかでこういう光景に触れていたり、こんな感覚の氾濫の渦中にいたり、こんな場所で購買したりしている一般の人々が、新しいシステマティックな感覚を、大なり小なり身につけないはずがなかった。70年代から80年代にかけての『新』人類的な文化現象のあらわれは、こんな社会的な構造を背景にしているというのが、わたしの推測が到達した結論だった」(同書)。 

 

 吉本はさらに、1989年(昭和64年=平成元年)から1991年(平成3年)までの状況についても挙げている。例えば、それは、1990年に絞って具体例を挙げれば次のような点にある。第一に、「中国天安門事件に始まるソ連・東欧における共産党国家権力の解体過程」にある。第二に、「第三次産業中心の疲労病、テクノストレス、境界性精神障害問題」の発生にある。第三に、「現在および将来の生活問題の中心が住生活・余暇・趣味・教育に移行した」ことにある。第四に、「知識集約産業が、製造業・建設業中心から商業・金融・流通・サービス業(娯楽・教育・医療など)中心に移行した」ことにある。そしてこのような状況が文化現象に与えた影響とその文化現象の把握において考慮すべき点について、次のように述べている。「『新』人類的な文化と社会の感覚」は、現在「活字・画像・映像・音響のすべての分野」で、「文化の様々なあらわれを理解する基底」である(同書)。吉本は、「生きがいや、充実感」が得られる根拠についての統計資料に基づいて、「家族団らん」や「休養」や「雑談」や「趣味・スポーツ」等の「大衆文化」に根拠を置く人が60%前後なのに対して、「勉強や教養に従事」・社会的他者の欠如を充足させる「社会奉仕や社会活動」の「高度文化」に根拠を置く人が6%前後であることを挙げている。この統計資料に基づいて吉本は、高度文化を創造する者の側から高度文化について述べている。高度文化は、本質的には人間にとって「自己を慰安するための動機から創られ」、それを享受・「消費して愉しむ人々や受けいれて心の糧にする人々を集める」というその積み重ねにおいて発展してきたが、それは、「それがなければ飢えて死ぬとか生活」ができなくなるというような必須のものではない。つまり、高度文化の創造の本質は、生活にとって必須ではないという「無用さ」と、「飽くことのない探究心や好奇心」にある。しかし、高度文化と大衆文化との境界が崩れてきた転換期以降の文化の課題は、大衆文化について言えば、生活にとっての「有用さ」と、経済的生活の充実や娯楽等の「過剰」さが結びついた大衆文化はあり得るのか、また、高度文化について言えば、生活にとっての「無用さ」と、「探究心と好奇心の解体(≪知の自然的上昇と非知への意志的下降≫)」とが結びついた高度文化はあり得るのかにある(同書)。情報技術とメディアの発達により、大衆には高度文化に対する大衆文化との等価の無意識(共同幻想)が蔓延している。この等価の無意識に基づいて作詞し作曲し歌う若者の詩概念と、「明治の新体詩以来の伝統をもった現代詩というものを詩だとかんがえ、その世界に目をむけている」吉本の詩概念との間には、「無関係なほど距離感」がある。両者には「別々の考え方と独立した感覚」がある。両者は、互いの詩概念に対して互いに「興味なく」済ませている。価値意識は多様化し、文学作品の物語構成においても、現在「全社会に響きあうような物語」がつくれなくなっている。第三次産業を中心に産業構造の重層化が進み、マルクスの生きた興隆期の資本主義時代のように、第二次産業の重工業部門を単一的に扱えば済むことができなくなっている。例えば、第二次産業の生産物である自動車には、第三次産業の電子制御装置や情報装置の搭載が必須であり、高級車には第一産業の木工製品も搭載されている。また、「富や権力は資本家に集中するというよりも、現在では国家や産業の管理システムに集中」している。すなわち、制度のメカニズムからは、産業の管理システムとしての資本主義と国家の管理システムとしての社会主義の区別はなくなっている。資本主義制度においては、国家の経済社会構成への関与が増大している。逆に、社会主義制度においては、経済社会構成への国家からの関与を縮小させている。すなわち、新たな管理システムが現在を動かしているのである。

 

 上述したような状況下において、企業や国家において集積された剰余価値の分配は、それ自体では価値法則の止揚を意味しない。しかし、剰余価値を分配された者のその使用時における質的差異性の意識を衰退させている。すなわち金持ちは、例えばイメージとしての商品であるブランド品の靴を何足も持ち、下層・中流の者は一足しか持てないとしても、同じブランド品を持つことができ、同じようなブランド品を持っているということで充足した意識を持つことができる。しかし、他方で、メディアから毎日のように流される新しい情報によって、豊かで美しいイメージとしての商品に対する欲望は果てしなく続くから、いつまでも充足感を得ることはできない。このとき、充たされない欠如感は大衆の無意識に刻み込まれることになる。こうした欠如感が、若者たちの生活に常にまとわりついている嫌なこと全てを忘却させてしまうような熱気あふれる一回性や一過性を本質とする身体表現の祭典の根拠となる。しかしその祭典が終われば、欠如感が依然存在していることに気づかされる。「流行、瞬間的な感覚の解放、瞬間的なイメージの反応、次の瞬間には消えてしまうもの、そういう刹那的なイメージしかつくれない」ところに、現在の社会構成の水準がある。瞬間芸を主とする大衆芸のように、蓄積していく永続性がない。こうした大衆芸が受けいれられ流行するということは、社会構成の時代水準がそうした状況を生み出していると同時に、そうした大衆芸を下から支える社会構成の時代水準に影響を受けた大衆に、瞬間的な刹那性の無意識(共同幻想)がある、ということを意味している。同じように、家族的絆のイメージも、一方で、<家族ごっこ>的な家族一緒の旅行・買物用のワゴン車に象徴される、メディアで外在的に演じられている家族の絆のイメージに対して、他方で、内在的には親殺し子殺し祖父母殺しにあるように、現在、その家族的絆は瞬間的に消え去る危うさをいつも隠し持っている。経済的社会構成が製造業中心の生産資本主義的段階の社会においては、ひとつの生産には様々な媒介的労働があり、その過程でのある労働とある生産物との間には直接的関係性があり、労働時間と生産量の間も可視的であった。したがって、生産の場における人間関係も直接的で可視的な関係性を有していた。しかし、経済的社会構成がサービス産業など第三次産業中心の消費資本主義的段階の社会においては、労働と生産物との関係は間接的で労働時間と生産量の間も不可視になる。例えば、流通産業においては、商品をAからBに移動させるだけで価値を生み出すようになっている。労働量・労働時間が同じ同量同質の商品も、容器がありきたりか美しいかというイメージの違いによって商品の価値に差異を持たせることができる。消費資本主義の「高度な資本システム」的必然がもたらす無意識世界(システム価値・共同幻想)が人を動かしている事態である。すなわち、その「システム化された文化の世界」(無意識世界の共同性)は、意識的に対応可能な「制度、秩序、体系的なもの」・「物の系列」に「マス・イメージ」を付加することを強いて、「虚構の価格上昇力」を形成する。前述したように、労働量・労働時間が同質・同量の化粧品であっても、見た目に美しい色や形の容器に入れることで実質的な交換価値とは別のイメージ価値が付加される。しかし、その場合、その商品は、衣食住に必要な商品である前にイメージとしての商品・ブランドとしての商品である(『マス・イメージ論』)。こうした経済的社会構成に生きる人間の関係は、間接的で不可視であるから関係意識を希薄化させていくことになる。すなわち、個人的な世界に内閉化していくことになる。そうした状況を生きてきた若い世代にとっては、「山口百恵」も「長嶋茂雄」も「アメリカ大統領」も、「マルクス」も「レーニン」も同質の対象となっている。すなわち、現在彼らにとって、それらは全部、等距離、等質、等価値、同じ重さの存在でしかない。しかし、それとは異なり吉本にとってマルクスは、「生まじめになって思想の生死を賭ける重さ」で考える対象であったし、マルクスの「一言一句をどう理解するかということは」、「自分の一生」を左右する事柄でもあった。それに対して、吉本にとって、逆に、映像に流れる「山口百恵」は、「休息」時に「ボンヤリ」とながめる対象でしかなかった(吉本隆明『マルクス―読みかえの方法』)。また、情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、高度消費資本主義社会は現実的な衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、身体的な肺病等に代わって正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落している――マルクスの時代の第二次産業病は「結核とか肉体に障害を受ける」ことにあったが、現在の第三次産業病は「全面的に精神がおかし」苦なるのではなく、「何時間はおかしいけれど、何時間はおかしくない、何かをやっているときはおかしいけれど、それ以外ではおかしくない、そういう精神状態に陥っている人がとても増えています」(『〔吉本隆明が語る戦後55年〕別巻 高度資本主義国家 国家を超える場所』三交社)。

 

 さて、芹沢俊介は、『消費資本主義論』(新曜社)で、消費資本主義的段階の社会における貨幣について、次のように述べている――
1)消費社会に適応する貨幣の典型は、クレジットカードである。それは、第一に「個人化された貨幣」であり、第二に「移動ないし運動しない貨幣」、すなわち持続した「欲望」を喚起させる貨幣である。クレジットカードが貨幣であるということは、この「カードが商品」であり、この消費資本主義的段階の社会において、「一般等価物(貨幣)」としての共同幻想性を獲得しているからである。作家の中村うさぎは、1992年新宿伊勢丹のシャネルで「衝動買い」したときから、「眠っていた欲望」が暴走し始めた、その後、60万円の革のコートを購入するのだが、その代金を「カードで支払った時、すさまじい快感に襲われ」た、「以来、海外ブランド物を買いあさる」、一度に買い込む金額は、100万円、200万円とエスカレートしていき、「印税が底をつき、カードが使用停止」になった、「自宅の水道やガス、電話が料金未納で止められたこと」もあった、買物依存症がおさまったとき、今度は美容整形に走り、現在「顔で原型をとどめているのは口と鼻先の二カ所だけ」となった、「以前なら年をとれば容貌が劣化し、静にあきらめていけた。現代人はあきらめられない地獄に突き落とされている」、「私は消費社会の漂泊者でいたい」、と述べている(「2006年9月22日、朝日新聞」夕刊)。
2)経済学者の岩井克人が、クレジットカードは貨幣ではなく借金であると、芹沢を批判したのに対して、芹沢は「お粗末な理解」や「情けない認識」しかできない経済学者だと、それは「借金には違いない」が、消費資本主義的段階における「経済学的には新しい状況の出現」である、と根本的な批判をしている。クレジットカードの支払いにおける「経済学的な新しい状況」とは、それは、第一には遅延された支払いであり、第二には支払いにおけるクレジットカード会社の介在である。すなわち、それは、信用商品であるそのカード使用による「掛売り(掛買い)」の「新しい市場の形成」を可能としたことである。
3)したがって、岩井の「貨幣論も眉に唾つけて読む必要」がある、ということである。芹沢は、「岩井氏のものだけでなくて誰のものに対しても、ぼくら素人はそうすべきでしょうね」、と述べている。このことの必要性・重要性は、人間学的領域における学者や著述家のその言説に限ったことではない。
 その信仰・神学の原理およびその認識方法と概念構成それ自体に神の隠蔽性・神の不把握性・終末論的限界の認識と自覚を持たない、すなわち自己相対化視座を持たない、人間中心主義的・主観主義的・内面主義的な<自然神学的>信仰・神学・教会の宣教・キリストにおける、人間の恣意性に基づく「神の名……神の呼びかけ」における(E・トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)・また「神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法」における、そして根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」られた、出鱈目な言説や、馬鹿げた似非使徒たちの言説や、神学者・著述家・牧師たちの言説や、ペテン師たちの言説に対して、私は・私たちは、カール・バルトに関わる者として、この芹沢の言葉を全面的に首肯する――「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである。「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「神の言葉の三形態」に基づいて、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉』)。