21世紀への視点
吉本隆明『超「20」世紀論 下』アスキーおよび『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準」筑摩書房等に基づく
「本当の革命」は尖端的な資本主義国(アメリカ)から始まる世界同時革命の形態にあるとしたマルクス自身の革命思想から言えば、1991年12月のゴルバチョフの辞任と、各連邦共和国の独立によるソ連の崩壊から、レーニンのロシア革命は「本当の革命」ではなかったことが、事実的な出来事において証明された。したがって、スターリンの「一国社会主義論」は、全く嘘の考え方であったことが証明された。したがってまた、スターリニズムもファシズムも修正資本主義も、人間が三つの存在様式をもって生き生活する・また国家よりも断然に規模の大きい・現実的な社会を第一義・価値とするのではなく、観念の共同性に過ぎない国家を第一義・価値とする〈国家〉社会主義として同じ位相にあるものである。すなわち、権力は実体ではないから、観念の共同的形態・共同幻想を本質とする法・政治的国家の解体・揚棄を包括していない理念・革命思想は、究極的包括的永続的課題を持たない、部分を全体化・絶対化・宗教化する、根本的な誤謬に「普遍性や組織性をかぶせて語」られた嘘の考え方である。「戦後日本の知識人たちや日本共産党などは、エリート主義で、自分たちは民衆の『前衛』であり、民衆の指導者だと思ってきた」。そこには、多くの「ウソがあり、自己欺瞞」があった。すなわち、その知識においては、理念と宗教が分離されず、理念が宗教になったり、宗教が理念になって、「ウソ」と「自己欺瞞」が自己増殖されていく。したがって、ソ連崩壊までは、「ロシア・マルクス主義は善であり、ファシズムは悪である」と信じられていたが「それは迷妄にほかならない」。それは、現実的な社会を第一義的に価値とするのではなく、人間にとって部分でしかない観念的な国家を第一義的に価値とする国家社会主義として同類(「双生児」)である。修正資本主義も同類である。日本では竹中・小泉路線がそれであったが、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義も、国家を第一義(価値)とする経済的自由至上主義であり・至上市場主義経済化でしかないから同類であるから、一切駄目で・容認できないものある。それでは、宗教が理念となる場合は、どうか? 自然神学の系譜に属する神学・キリスト教について、バルトは、「和解者としての聖霊」で、次のように述べています――「キリスト者の生活における聖霊の欠如とでも結論づけなければぬほどの」、「近代のキリスト教主義が、よく用」いる、「キリスト教的世界観」、「キリスト教的道徳」、「キリスト教的政党」、「キリスト教的結社」、「キリスト教的施設」、「キリスト教的企画」、キリスト教的進歩史観的歴史哲学、キリスト教主義的学校等は、まさしく、その概念・知識において理念と宗教が分離されていない、宗教の理念化である。それらは、「ウソ」と「自己御欺瞞」に満ちたものである。現在の社会が資本主義経済を中枢に置き、自由主義国家を標榜し、消費資本主義段階にあるとき、人間の意志が通用するのは半分だけであって後はその時代水準に規定されてしか生きられないとすれば、例えば「キリスト教的施設」やキリスト教主義的学校であっても「資本の論理」(利潤追求の最大化)が働いているわけで、部分としての「綺麗事」・「愛」・「奉仕」を全体化・絶対化したならば、その瞬間「ウソ」と「自己欺瞞」に陥ることになる。法・政治的国家の役割は、現在の経済社会構成体は資本主義経済にあって、そこから生じる矛盾や利害対立の法的・政治的調整にあるから、「キリスト教的政党」・その議員は、それに縛られずにはおられない。それを「愛」的・「奉仕」的・「善」的・「正義」的政党・議員だと言ったら、「ウソ」と「自己欺瞞」に陥る。「キリスト教的政党」も「キリスト教的」議員も、法・政治の問題は、観念の共同性にあるから、国家の揚棄を伴う社会的現実的な人間の究極的総体的永続的な解放の理念・革命思想を必要とする、党派的思想・絶対的思想・党派的共同性の揚棄を必要とする。宗教的社会主義の根本的究極的な限界性の体験と認識により、そこから離脱した体験を持っているバルトは、そのことに自覚的である。
吉本は、次のように述べています。
1)状況認識、情勢判断において、「情報通的な知識」は必要としない、「テレビや新聞の情報」だけで十分である。ただし、それをそのまま「鵜呑みにしたり模倣したり」してはいけない。すなわち、その場合、自分自身の「実感に即して考える」ことが必要である。したがって、吉本は、例えば、自らの戦争体験を自省することによって得られた知識人の敗北の在り方を、「国家の政策を、知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配(国家・政治的権力)に直通していく大衆の存在様式を把握できなかった点におきました。そして、その体験の自省から、世界をトータルに把握できる「世界認識の方法」を持つことの必要性と、庶民が出征時に町内会の見送りを受けて「〈家〉からでてゆくとき、元気で御奉公してまいります」と挨拶する「紋切型」の重たさの意味を把握できる往還思想の構成の必要性を受け取りました。そしてまた、そのことから、知識人の自立的な思想は、その知識の自然的な上昇過程から再び意識的に下降する還相過程において、価値としての大衆原像――ほんとうは最も価値ある生き方としての、知識人の出自である「純粋生活人」・生まれ成長し婚姻し子を生み育て子から離れ老いて死んでいく生活者大衆のこと。知識人は、この純粋生活人・大衆原像からの、知識の自然過程における知的上昇・知的逸脱に想定される者たちのことである――を、すなわち大衆の生活基盤である社会構成・支配構成・文明・文化の時代水準を確定し、その時代水準によって変容していく大衆像と大衆的課題を、自らの知識にたえず繰り込み包括していくところに成立するという原理を受け取りました。それだけではありません。すなわち、そのことから、吉本は、敗戦時に、自分たちを戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層に対して、徹底的な抗議や反抗をすることなく、むしろそうした権力を天然自然の災害と同じように受け入れていく在り方に、大衆の敗北の在り方を見ました。またそのことから、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民が、知識人の神学・知識やメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、あくまでも自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づいて、自立した生活思想を構成していくことの必要性を受け取りました。
2)人間の個体性の究極的な価値は、どこにあるかと言えば、その個体の対他性・言語の指示表出性・コミュニケーションには関係のない、すなわち他者に「それが伝わるかどうかということとは関係」のない、その個体の対自性・言語の自己表出性・沈黙の言語的有意味性にある。したがって、「理念が終わる究極的な地点」は、法・政治的国家が揚棄された、現実的な「個人の全的自由の実現」、諸個人が自由に生存可能な社会構成にある。そのことが人間にとって、人類にとって実現可能かどうかは別として、マルクスも、人類史も、そこを目指している。したがって、現在の支配構成・社会構成の中での目標は、先ず以て、「個人の自由を奪う制約」には、全面的に「否」と言うこと、すなわち「個人の解放」にある。したがってまた、現在の資本主義段階では、金持ちになりたい人間がいてもそれを責めることはできないだろう、自分は標準の生活水準でいいと言う人はそれはそれでいいだろう……、という<恣意的>自由によるほかないであろう、資本主義制度が包括され止揚されない限りは。
3)物事を考える際の「原理」は、自分の思考の視点を、「固定された」対立・論争の外側に置く点にある。例えば、アメリカとイラクとでは、あるいはアメリカとイランとでは、歴史的な発展段階の差異があるから、アメリカは善でイラクは悪だ・イランは悪だという言い方はすべきではない。またイラクは善で・イランは善でアメリカは悪だという言い方もすべきではない。すなわち、両国家の支配上層の視点から外側に出たところでの、「高度な世界的視点」からの情勢判断が必要である。吉本は、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」であると述べていますが、そのことです。信と不信の問題、知と非知の問題、キリスト者と非キリスト者の問題も、その思想の原理それ自体において、その思想の認識方法と概念構成それ自体において、その両者の対立を包括し止揚して、そこから超出していく必要があります。その思想の原理それ自体において、その思想の認識方法と概念構成それ自体において、そのあるがままの不信や非知や非キリスト者に対して、完全に開いて・また完全に開いておく必要があります。バルトは、神学領域においてそうしました。「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、私たちは、西洋近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならない。このように、神学者で思想家でもあるバルトは、歴史的な発展段階の差異の認識と自覚が必要であることを述べています。これだけで、私たちは、その認識と自覚において、状況論的にも思想的にも、バルトが、ユンゲル神学やモルトマン神学等々に比して、良質で優れていることをすぐに理解することができます(『カール・バルト著作集』「ヘーゲル」)。