本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

迷妄性の只中から超出していく道程

 吉本隆明は、迷妄性の只中から超出していく、私たち(彼自身)の道程について、正直に誠実に次のように述べている――
1)太平洋戦争期に、「日本の社会が暗かったというのは、戦後左翼や戦後民主主義者の大ウソであって、日本社会は、非常に……明るく、ムダがなく、建設的だった」。家族には団欒もあった・笑いもあった。また、「古代ギルシャに見られた……太陽に向かう健康さ≠ノ憧れをもった」ヒトラーのドイツも、「大真面目に健康で、建設的だった」。そうした健康さが、ドイツでは「ユダヤ人狩り」・ユダヤ人「大量虐殺」を生んだ。したがって、私たちは、「そういう健康さには用心した方がいい」し、そういう健康さは「アテにはならない」ものであるということについて、自覚的である必要がある(『超「戦争論」下』)。吉本は『作家論T』で、「実朝的なもの」を次のように述べている――太宰中期の「理想像は、キリスト・イエス」(『駆込み訴へ』)であって、『右大臣実朝』でそれを再現した。「実朝の生涯」を規定していた「全国的な戦乱」の「世情」は、「明るい危うさであった」。そして、太宰の生を規定していたものも、戦争期の「明るい危うさと、<建設の槌音>との健康さがもつ退廃」であって、太宰は、その時勢や時流に「どこかでついてゆくことができなかった」。吉本は、この太宰の実朝像から、往相的に上昇していく「明るいもの」(明る過ぎるもの)、「健康なもの」(健康過ぎるもの)、「建設的なもの」(建設的すぎるもの)は「すべてまやかし」・「錯覚」「であり、疑いをもったほうがよいというかんがえ」を受け取った。この思想の往還と弁証法が重要なのである。現在、社会には、軽率な明るさが蔓延しているのであるが、支配は、そこを標的としているに違いない。

 

2)現在も、「いかにもマスコミ受けするような、明るくて建設的なことをいっている政治家とか知識人とか文化人とかが、一杯います」。しかし、「そんなやつらは、一番ダメで、そんなやつらこそ、一番危ないんです。いざとなった、真っ先に、『戦争をやれっ、やれっ』っていうのは、そんなやつらに決まっています」。したがって、軽率な明るさで以て、「そんなやつらを信じちゃいけねえということだけは、確実にいえます」。また、「政治家」だけでなく、「企業家」や「金融機関」の指導層は、現在は消費が主体の高度消費資本主義段階であることを認識し自覚せず、したがって、企業に対する法人税減税の優遇措置の政策(政策的言語)を支持する一方で、慣行としてほんとうは温存すべき良き制度であった終身雇用制度(年功序列型賃金体系を含む)も制度として崩壊・廃止・弱体化させてしまっている状況の中で、他方では家庭(家計)に対しては、消費税増税(消費税率の引き上げ)を敢行し、所得税減税や保険料負担等の軽減措置等は行わないで、年金支給額の引き下げや所得控除項目(額)の削減、また保険料負担額の引き上げ等を政策課題として、一切の責任・一切の負担・一切の重荷を、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民に責任転嫁することで負担させ・重荷を負わせて、旧態依然とした「公共投資」等に基づいて「景気の後退は底をついた」と「ウソ」をつき通しているのであるから、そうした彼らの言葉(政策的言語あるいは法的言語)を、そのまま「真に受け」たり・鵜呑みにしたり・模倣したりしてはいけないのである。

 

3)「こういうウソと付き合っていると、話がどんどんバカ話になってしまいますが、……自分だけが迷妄から免れているというつもりはありません。……迷妄から免れている人など、いないのです」。自分のことをエリートだと自画自賛して、大見得を切り偉そうなことを知ったかぶりして喋っている連中を含めて、私たちは誰であれ皆、高が知れた、唯の人間でしかないのである。したがって、吉本は、次のように述べている――「僕には、戦中と戦後とでは自分の考え方をガラッと変えてしまったということに対する反省があります。だから、戦後は、そんな変節はもうしないようにしようと考え、それなりの努力はしてきたつもりです」(『超「戦争論」下』)。この吉本は、自らの戦争体験を自省することによって得られた知識人の敗北の在り方を、「国家の政策を、知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配(国家・政治的権力)に直通していく大衆の存在様式を把握できなかった点においた。この体験思想を介した吉本の自立的知識人論は、こうであった。一方で、@世界をトータルに把握できる「世界認識の方法」を持つことが必要である。また、A庶民が出征時に町内会の見送りを受けて「<家>からでてゆくとき、元気で御奉公してまいります」と挨拶する「紋切型」の重たさの意味を把握できる往還思想の構成が必要である。そして、そのためには、「支配の制度」がある限りその知識の原理・その知識の認識方法および概念構成において、知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準を、時代とともに変容する社会的存在の自然基底としての大衆原像(具体的には、ある時代水準における大衆像とその大衆的課題を確定すること)に置くことが必要である。なぜなら、知識人は、この価値としての大衆原像から知識的に上昇し逸脱していく知識の自然的な往相過程に成立する概念だからである。したがって、知識人の自立的思想は、その知識の自然的な上昇過程から再び意識的に下降する還相過程において、その価値としての大衆原像を、すなわち大衆の生活基盤である社会構成・支配構成・文明・文化の時代水準を確定し、またその時代水準によって変容していく大衆像と大衆的課題を確定し、それを自らの知識に繰り込み包括していくところに成立するのである。また、この時はじめて、観念としての知識は、そのリアリティを獲得することができるのであり、反体制的でもあり得るのである。したがって、この知識の往還は、大衆迎合や大衆同化や大衆啓蒙とは全く違う位相にあるものなのである。他方で、B吉本は、敗戦時に、自分たちを戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層に対して、徹底的な抗議や反抗をすることなく、むしろそうした権力を天然自然の災害と同じように受け入れていく在り方に、大衆の敗北の在り方を見たのである。この吉本に依拠して言えば、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民が、知識人の知識やメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、あくまでも自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づいて、自立した生活思想を構成していくことが必要である、と言うことができるのである。
 したがってまた、吉本は、次のようにも述べるのである――一方で「自分は必ずしも正しくないかもしれないという視点」を自覚的に持っていない場合には、すなわち「エリート意識」に依拠して自己相対化の視点を持たない場合には、いわばその「エリート意識」に依拠して一方通行的で往相的な視点だけしか持たない場合には、「いつも自分は正しくて、自分がいっていることはいつも正義である」というようになってしまうのである。そういう語り方、そういう言説になってしまうのである。その場合、「本当の自分」(「内側」・内部)には蓋をして語ってしまうことになるから、恣意的に正しいこととして・正義として一方通行的に往相的に語っていること(「外側・外部」)と「本当の自分」(「内側」・内部)が、「どんどん乖離」していくことになってしまう。またその場合、大言壮語の大見得を切る・ウソを言うことになってしまう。したがって、吉本自身は、「本格的にモノをいうときには、……自分に対しても、他人に対しても、自己相対化ということを意識しますね」と述べ、したがってまた「自己相対化されていない主張には、俺は同意しない」とも述べている(『超「戦争論」下』)。このことは、バルトのことで言えば、何度も出てくる<終末論的限界>という概念・観点に相当するものである。その具体的な事例は、外部と内部の観点から禅思想を評価するフーコーの言説と、内部の観点からのみ禅思想を評価する臨在禅の僧の言説に見ることができる――「禅はキリスト教の神秘主義とは全く違うものだ(中略)キリスト教の精神性と、それに結びついた技術においてきわめて印象深いのは(中略)いや増す個別化が探究されているということです。個々人の魂の奥底にあるものを、その個人に把握させようとするのです。『おまえが何者であるのか、私に語れ』――これこそがキリスト教の精神性なのです。禅においては、精神性にまつわる一切の技術は、逆に個人を非個別化する――個性を破る傾向があるように思えます」(M・フーコー『思考集成 VII』「フーコーと禅」)。 フーコーのこの世界認識の方法は、内部と外部とから世界を眺め把握できる構造になっている。「個別化」と「非個別化」(全体化)という把握は、首肯できるものである。現在は横へと拡散し衰退しているとはいえ、アジア的日本的な特徴は、共同体至上意識がいつも個体性を超えていくところに想定できるからである。フーコーは、普遍性(哲学・思想・革命・人間・社会の概念)の誕生の場であった「西欧の危機」を念頭において、禅思想を、その内部とアジアの外部としての西欧から「禅においては、精神性にまつわる一切の技術は、逆に個人を非個別化する―個性を破る傾向がある」と把握しているのである。しかし、臨済禅の僧は、外部の観点を持たないまま、そのアジア的日本的な禅思想の即自的・直接的な言葉で、「からだと心とが一つになるという体験、自分とそとの世界とが一つになるという体験、それは世界的に普遍なものですね。禅が国際性を持ち世界性を持つということは、その点からも十分わかるわけですね」、と述べてしまうのである。言い換えれば、その僧には、「精神と自然との直接的な統一の段階」というものは、世界史のアジア的段階においてのみ、世界普遍性を持ち得たという外部からの把握ができ得ていないのである(ヘーゲル『哲学史序論――哲学と哲学史』武市健人訳)。

 

4)西部邁の戦争の論理は、「近代以降の戦争は、弱い非戦闘員を大量に殺すことによって相手の力を削ぐのは当然になっている」から、「弱い非戦闘員を大量に殺してもいい」というような論理となっているけれども、その戦争の論理は、そういう「現実を自分は無条件に肯定する」・即自的に事実的に肯定するという水準にあるものである。この西部の戦争論には、「国家がやる戦争であれ、テロであれ、弱い非戦闘員を大量に殺すこと」は、いずれの場合であっても「『悪』であり『犯罪』であって、許されないことであるという理念もなければ」、「戦争自体が悪」であるという「理念」もない。その戦争論は、「ただ、無条件的に戦争を肯定し、戦争の現実を肯定しているだけ」のものである。それに対して、吉本は、戦争は「勝ったほうも、負けたほうも、民衆が大勢死ぬだけで、いいことなんか一つもない」から、「僕は戦争はなくすべきであると考えていますし、憲法九条も改正すべきではないと考えています」が、このことは「太平洋戦争を自覚的に経験した」「僕らが(≪その戦争体験の思想化・≫)経験から得たものであって」、能天気な「平和主義とは違います」、と述べている。ほんとうのところは、すなわち「太平洋戦争を自覚的に経験した」者は、現在、「国家を守るためとか称して、『公』のために自分の生命を投げ出せるかといえば、僕はもちろんそんなことはできませんし、普通の人間にはそんなことはできっこないと思います」、というところにあるだろう(『超「戦争論」下』)。ほんとうのところは、田山花袋の『一平卒』体験にあるだろう。吉本は、次のように述べている――ほんとうのところは、「前線の原隊にたどりつこうとして、途中で『脚気衝心』でたおれた」日露戦争の一兵卒が、「末期の眼にうつしたものは、母の顔、妻の顔、……郷里のおおきな家、うらの磯、あおい海、漁夫の顔」であった、というところにあるだろう。吉本は、この生活者の「一兵卒」体験と、知識人の丸山真男の一兵卒体験の差異性について、次のように述べている――生活者の「一兵卒」と違って、知識人の「一兵卒」丸山が敗戦のあとに感じたのは、「『どうも悲しそうな顔をしなけりゃならないのは辛いね』という余裕であった」。ここでの一兵卒体験の両者の差異性は、第一に、それは、時代の差異性に帰することはできない、第二に、それは、「生活によって大衆であったものと、思想によって知識人であったものとの抜きがたい断絶」にある。また、それは、私たちは日常と非日常とを生きる「総体的な存在」であるから、その場合、人が日常性(「生活」)に重点を置いて生きる時、すなわち「『生活』によって大衆であるとき、その『思想』を現実的な体験のうしろにおしかくす」のであるが、人が非日常性(「思想」)に重点を置いて生きる時、すなわち「『思想』によって知識人であるとき、その現実的な体験を『思想』のうしろにおしかくす」、という点にある(『吉本隆明全著作集12』「丸山真男論」)。

 

5)「人類にとって重要な課題は、……『全き自由(完全な自由)の社会』は実現できるか」、人間の社会的現実的な究極的総体的永続的解放は実現できるか、にある。なぜならば、「人類の歴史、世界史とは……本当をいえば、個々人の生活史や精神史の総和」にほかならず、したがって、書かれた歴史には登場しない「『大衆』という理念を欠いた人類の歴史、世界史というのは意味がないということになる」からである。これは、「歴史とは個々の世代(≪諸個人、個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪あるいは言語、性(夫婦・家族)≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』)というマルクスの読み替えである。したがって、ロシア革命も失敗であった、ヤマギシ会も失敗であった。したがってまた、それらは、歴史的批判的に調査・解明がなされなければならないのである。この観点から言えば、アメリカのためになることをするにはどうしたいいのか・「アメリカの報復戦争に協力するにはどうしたらよいのか」等々という問題は、「人類の歴史にとって最低の課題」でしかないものであるし、また「アメリカの言い分に振り回されて、有事法制をつくろう」等々という問題も、「人類の歴史にとって最低の課題」でしかないものなのである(『超「戦争論」下』)。