本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

オカルトの迷妄性

『超「20世紀論」 下巻』アスキーに基づく

 

1)ノストラダムの1999年7月「大王降臨」預言の破綻
 『ノストラダムスの大予言』を書いた五島勉も、未来の予言をする「幸福の科学」の大川隆法も、未来・現在・過去を「実体化」する絶対的な思考を前提としているのだが、時間は実体化できないから、その前提は根本的に誤謬であり、したがってその予言も「あり得ない話」となる。なぜなら、人間のその個とその生誕から死への時間累積をもつ現存性は、不可避的に、人間のその類・その原始未開から西洋近代の現在までの時間累積を持つ歴史的現存性を生きるからである。自然史の一部である人類史の自然史的過程は進歩発展を基調としており、そこから生み出された諸観念はそれ自体の自体的展開と自己増殖過程をもって累積されていく。したがって、原始未開性への復古も、アジア的段階性への復古も可能である。「歴史とは個々の世代(《個体的自己の成果の世代的総和》)の継起にほかなら」(『ドイツ・イデオロギー』)ない。神学的に言えば、それらは、人間の自由事項や決定事項ではないことに対する自覚、人間の理性・思惟・構想の究極的限界の自覚、終末論的限界の自覚、自己相対化視座の自覚、の欠如によっている、と言える。
2)経済社会構成体の高度化と迷妄なる精神の併存
 経済社会構成体の高度化における迷妄なる精神は、日本に例をとれば、経済社会構成の産業構造がアジア的な農耕を基盤とする第一次産業の段階から、西洋的な生産工業(製造業)を基盤とする第二次産業の段階、さらには運輸・サービス・情報等を基盤とする第三次産業へと高度化しても、宗教としての天皇制が根強く残存し続けている点に見い出される。したがって、西洋近代においても、習俗としてであれ、宗教としてであれ、樹木崇拝は併存可能である。反天皇制を掲げるキリスト教内部においても、天皇制的な意識構造を残存させていることはあり得る。プロテスタントの哲学的神学者の滝沢克己やローマ・カトリック主義的な日本人神父等は、「草木・……・山河・大地・大海皆是れ……仏なり」・草木国土悉皆仏性・「草木国土悉皆成仏」を説いた天台本覚論(アジア的日本的な自然思想)のような原理に基づいて、その自然神学がアジア的日本的変容を受けることがあり得る。何故こういうことがあり得るかと言えば、時間は、実体ではなく、重層的な累積にその本質があるからである。科学が予測できるのは、人間の精神現象が関与しない自然現象についてであって、その場合も、あくまでも現在の科学の発達段階の知識に基づく予想という自覚の下でであって――ヘーゲルやマルクスの直線的な進歩史観は通用しなくなった。したがって、モルトマン等の人間学的神学的な進歩史観も全く通用しない――、予言とは違う。自然科学については、長いスパンで判断することは可能であっても、人間の精神が関与する社会や歴史については、短いスパンにについて、蓄積された体験や知識によって構想力を働かせ予想を建てる必要がある。なぜなら、社会や歴史は、科学的に扱える部分――すなわち自然史の一部としての社会や歴史の自然史的過程の部分と、そこから疎外された観念諸形態の精神現象が精神現象を生み出す自体的展開・自己増殖過程という精神的現象が関与するために科学的に扱えない部分とが混在しているからである。前者の科学的に扱える部分を、マルクスは、『資本論』で次のように述べています――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」。
 マルクスのいう歴史法則は、歴史を動かす主因は経済社会構成体、その経済現象にあって、経済社会構成体の発達段階・その経済現象(物質的、実体的な現象)に見合って社会構成・支配構成、また文明や文化は変化(進歩・発展)する、というものである。例えば、地代形態も経済現象に見合って労働地代→生産物地代→貨幣地代へと物質的・実体的に変化した。ところで、現実性とは具象性と抽象性の総体構造(意識された現実、現実の意識)としてあり、その現実性を空間化するとき感情作用の問題があり、その現実性をさらに時間化していくとき・時間累積していくとき・抽象の抽象をしていくとき・現実性におけるその概念の頂きに向かって抽象に抽象を重ねていくとき・概念構成の高度化へ向かう時、その観念はその自体的展開と自己増殖過程を持つことになるから、その尖端的な貨幣地代は前二者を時間的・観念的・概念的に包括し止揚した観念の共同性であり、またその時間累積としてもあるから、その時間累積された観念の共同性においては、それは、労働地代も生産物地代も重層的に累積させたそれであることになる。したがって、事実、現在でも、田畑を貸して、その地代を生産物で受け取ることが行われている。日本の国家も現在その尖端性を、現実的・社会的・経済的には資本制国家に置き、観念的・法的・政治的には自由主義国家に置いているが、その時間累積された観念の共同性の国家としては、宗教性としての天皇制を残存させた国家でもある。まさに、ここにおいて、政府主催の「主権回復」式典で「天皇陛下万歳」を唱えた阿部晋三は、その宗教としての天皇制を免罪符として政治的に利用しようとしているだろうし、それに基づいて、道徳教育の強化と戦争放棄の解除と徴兵制や自衛隊の実践的兵力としての海外派遣と特定秘密保護法による抑圧統制を行おうとしているように見える。
 科学・技術や生産様式の発達は、遅延させることはできても逆行させたりすることはできない。この意味で、エコロジーの極限に想定される天然自然主義は錯誤でしかないものである。と同時に、人間存在の総体性にとっては、「経済的範疇というものもまた部分」にすぎず、科学主義における「科学が発達し、技術が発達し、未来が描けるというような考え方」は、部分でしかない科学を全体として錯誤するところにある。人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが〈良きもの〉であれ、〈悪しきもの〉であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかない(」ものである。歴史的現存性とは、人間化され非有機的身体化された全自然・人間的自然を、それが良きものであれ悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことである。したがって、個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にない。したがってまた、個人としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、いったんそうした「現実に衝突してからは」人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個の現存を刻んでいく。すなわち、人間の歴史は、「すべての個人としての〈人間〉が、或る日、〈人間〉はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが〈実現する〉という性質のものではない」。吉本やマルクスに依拠して整理すれば、このように言うことができます。
3)気功について
 吉本は、以前カトリック作家の小川国夫に「あなたはキリストの復活、再臨を信じているのですか?」と聞いたとき、「信じています」と答えたと述べて、自分のような信仰をもたない者はからすると「信じなかったら、それまで」ということになると語っています。しかし、聖書の奇跡については、腰痛の痛みをとるための気功術(キリスト教の牧師の人たちがやっているということです)を受けた体験から、自分の信じる領域を「少し拡大した」・「そういうことはありうる」と思うようになったと語っています。気功は「素質」と「修練」の度合によって効力に違いがある、と語っています。東大に留学して物理学を研究している中国人が、気功で東京から北京にある水槽の温度を上げることができるかどうかの遠隔実験をして成功させた中国人の気功師の気功についての論文について、吉本は、その成功の事実は事実として認め受け入れる必要がある、と語ってから、ただ現在の科学の発達段階ではそのことを明確に説明することは不可能であるから、科学的に未解決の問題として、その問題を将来に「開いておくこと」が必要である、と語っています。
4)念力・霊視・UFOについて
 念力・霊視は、人に対する「精神的感応性」・「心理的共感性」の鋭敏な人・鋭敏な感知能力をもった人にはあり得る。イラストレーターの横尾忠則には、「UFOを見る能力」があって、横尾と一緒にいる人もUFOを見ることができる、ということは、横尾には心理的共感能力があって、その心理状態が一緒にいる人に転移することであって、これらの事例は「ありうる」と語っています。すなわち、UFOは心理現象(集団的無意識・神話的無意識・原始未開の共同的無意識)だ、と言ったユングの言い方までならあり得る、と語っています。したがって、自殺願望の患者をカウンセリングした当日、その患者を担当したユング派のカウンセラー自身が、プラットホームに入ってきた電車に飛び込みたくなった心理は、患者の心理が転移したことによる、と語っています。
 ベルグソンは、「生きている人のまぼろしと心霊研究」で、夫人が夫の戦死状態をまざまざと見た光景の話を未知の力である「念力」に想定したが、今の科学の発達段階では明確に説明はできないから、そのことは事実として認め受け入れることにとどめておいた方がいい。それと同じように、科学には、両者を架橋する、科学における思想の問題があるのだが、ベルグソンのように未知の力である「念力」に解決を求めてしまうのではなく、むしろ、現在の科学の発達段階では解決不可能な未解決の問題として将来に「開いておくこと」が必要である。
5)「霊界」を実在とみなすスウェーデンボルクについて
 吉本は、高村光太郎の「死ねば死に切り、自然は水際立っている」という言葉が好きだ、と言う。そして、「肉体が滅びたら精神が滅びるというのは疑いのないこと」であるが、「先祖の霊が見える」等という人もいることに対して現在の科学の発達段階からは明確に説明することは困難であるから、部分を全体として片付けてしまうことはしないで、それは未解決の問題として、将来に「開いておくこと」が最良最善の方法である。霊を実体化したスウェーデンボルクについては、心霊体験を通して段階的にこと細かに描いたものはほかに見当がつかないから「よくも、ここまでやったものだ」と感じると同時に、「あまりにも、おあつらえ向きにできていて、こんなアホらしいことはない」と思ったとも語っています。
6)死に対する恐怖の根拠
 死は人間にとって不可避な出来事であるという認識を持っていても、考える余裕もなく一瞬のうちにやってくる死でない限り、死に対する恐は浮遊して残る。その死は、他人の死を通してしか経験することはできない。すなわち、死は、感覚や知識を内容とする経験を通してしか扱えないものであって、私たちは、自分自身の死を体験することはできない。なぜなら、死を体験した場合、その時には自分の感覚や意識において死を対象的に扱うことができないからである。したがって、吉本によれば、死への恐れは、生まれることへの恐れと同じである。妊娠した母親は、母性愛に満ちているとはいえ普通の人間であるから、子供にとって一番いい慈愛に満ちた育て方はできないから、すなわち夫との関係・身近な人との関係・生活環境等によってその母親に惹き起こされる喜怒哀楽の感情や態度が胎児に刷り込まれていくことになる。それが胎児にとって心に無意識の傷として残り、その「心残り」が、死に臨んだときにおける死への恐れとなる。したがって、母親から「慈愛に満ちた完璧な育て方」をされた子供は、「死に対する恐怖感」はないだろう。あるいはまた、自殺願望も持たないだろう。また、来世や現世や前世の本質は、胎児期に段階的に形成される「無意識」の現象形態である。