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太宰治『駈込み訴え』におけるイスカリオテのユダ

 『駈込み訴え』で太宰は、イスカリオテのユダを、次のように描いています。
1)ユダは、心の「美しい」・「子供のように慾が無」い「精神家」であるイエスを、独占したいほどまた嫉妬するほど、「ほかの弟子たち」とは「比べものにならないほど」、「深く愛している」・「純粋に愛している」。
2)ユダは、自分の「寂しさ」を、ただイエス一人が「お分かりになって下さったら、それでもう、よいのです」と思っている。
3)ユダは、「あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は誰のものでもない。私のものだ」・「私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めていればそれでよいのだ。……私とたった二人きりで一生永く生きていてもらいたいのだ。あああ、そうなったら! 私はどんなに仕合せだろう」、と思っている。
4)ヨハネ12章で、純粋で非常に高価なナルドの香油をマリヤが「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」。そのことに対して、ユダが、その高価な香油を売れば貧しい人々に施せたのにと叱責した時、イエスは、「この人のするままにさせておきなさい」、「この女のひとりだけは知っている。この女が私のからだに香油を注いだのは、私の葬いの備えをしてくれたのだ」。この時、ユダは、合理主義的に発言をしている、人間的な部分的相対的救済の主張をしている、人間の自主性・自己主張・自己欲求・意味的世界・自己プログラム・無神性に基づいて発言をしている。しかし、マリヤは、あくまでも、究極的包括的総体的永遠的救済を完了・完成させる神の側の真実=イエス・キリストにのみ信頼し固執している。ユダは、マリヤの行為を支持する・マリヤに寄り添ったイエスを見て、「胸を掻きむしりたいほど、口惜しかった」。ユダは、マリヤに「ジェラシー」を感じた。
5)そうした過剰な嫉妬によって、ユダは、「あの人だって、無理に自分を殺させるように仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。私の手で殺してあげる。他人の手で殺させたくない。あの人を殺して私も死ぬ」、とそう思うようになる。そのユダの言い分は、あの人は、「禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは酒杯と皿との外を潔くす、然れども内は貪欲と放縦とに満つるなり。禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまな穢れとに満つ。斯くのごとく汝らは外は正しく見ゆれども、内は偽善と不法とに満つるなり」と教えて、「殺されがって、うずうずして」いるという点に見出している。
6)そして、ユダは、イエスを祭司長たちに「引き渡す」(裏切る)ことを決意する。「私は永遠に、人の憎しみを買うだろう。けれども、この純粋な愛の貪欲のためには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題ではない。私は私の生き方を生き抜く」。これは、西欧的なもの、西洋近代、人間の自主性・自己主張・自己欲求・意味的世界・自己プログラム・無神性に信頼し固執する宣言である。
7)しかし、「あの人は私の足をも静かに、ていねいに洗って下され、腰にまとって在った手巾で柔らかく拭いて、ああ、そのときの感触は、そうだ、私はあのとき、天国を見たのかも知れない」と感じたイエスによる洗足に際してユダは、「あなたは、いつでも優しかった……いつでも正しかった……いつでも貧しい者の味方だった……そしていつも光るばかりに美しかった。あなたは、まさしく神の御子だ。私はそれを知っています。おゆるし下さい。私はあなたを売ろうとしてこの二、三日、機会をねらっていたのです」、と自分の「無法なこと」を知らされる。この時、ユダは、「きょうまで感じたことの無かった、一種崇高な霊感に打たれ」た。
8)しかし一方で、ユダは、すぐに、洗足によって「みんな汚れの無い、潔いからだになったのだ。けれども、」「みんなが潔ければいいのだが」、とイエスに言われて、それは「私のことを言っている」と思い、またすでにイエスに「見抜」かれていたことを知り、ほんとうに「あの人に心の底から、きらわれている」と思い、「売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。そうして私も共に死ぬのだ、と前からの決意に再び目覚め」、「完全に、復讐の鬼」となる。
9)このように、ユダの心情は混乱している、混在した心情の只中にいる、ユダは自分を揶揄うように考える発言する。「金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! いいえ、ごめんなさいいただきましょう」。「私は優美なあの人から、いつも軽蔑されてきたのだっけ。いただきましょう。私は所詮、商人だ」。「私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。おお、それにちがい無い」。「私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」、で終わります。
 吉本隆明は、『日本近代文学の名作』と『<知>のパトグラフィー』で、『駈込み訴え』について、次のように述べています。
1)「落ちこぼれからの聖書理解」、すなわち「ユダから見たキリスト」を描き出すことで聖書を理解しようとした。この意味で、太宰は、その試みが西欧的な核の総体を意味しないにしても、「西欧の人間観の根本になっているキリスト教的な考え方」・「西欧の人間観の核を初めて本格的に自分の文学の作品の問題にした」。
2)『斜陽』の「毅然として動じないで滅んでゆく唯一の登場人物」である母親は、「おっとりしているのに何ごとも心得ていながら、黙っていて気品も細かい気配りももっている」・「自分の死ぬ運命を察しながら、それをおくびにも出さず、のほほんとした顔で悲劇を受け入れ」ていく、太宰の理想的な男性像である。それはまた、『右大臣実朝』の源実朝であり、『駈込み訴え』のユダから見られたイエス・キリストである。