本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

吉本隆明、C・G・ユングの「ヨブ記」論

 なぜ、以下のような簡潔な整理が必要かと言えば、一切の近代主義、人間学、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会・キリスト教を包括し止揚し得る、信仰・神学の認識方法と概念構成が現在的に不可避だからです。バルトは、聖書に依拠した次にあるような良質な三位一体論と聖霊論等々の不可避性について、何度も述べています。
1)「聖書の主題」であり「哲学の要旨」である、神と人間との無限の質的差異――この事柄に対する自覚
2)神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」・その「死と復活」・インマヌエル=イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)、天然自然や人間的自然、時流や時勢、人間自身の恣意性主観性・自己主張・無神性・不信仰、人間論や人間学、の盛衰によって左右されない啓示、の客観的現実性――この事柄に対する自覚
3)「聖霊は、人間精神と同一ではない」。また聖霊によって更新された理性も、聖霊と同一ではない、という概念と自覚。
4)聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」神性・単一性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがってまた、神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由である。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(《隠蔽》)、あわれみ(《顕現》)、愛(《父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり》)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」に対応している。この神は、「隠蔽」と「顕現」において、またその都度の自由な決断において、「人間に対して」自己啓示する。バルトは、この「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」(諸個人)と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避け」て、「存在の仕方」と呼んだ――この事柄に対する自覚。
5)神の自己啓示 =イエス・キリストにおける啓示=啓示の実在 =啓示の真理 、永遠 =超歴史 =啓示の時間 =救済史は 、常に 、人間が人間的に所有する人間の啓示認識 ・概念 ・教義 、人間の時間 ・歴史の 、彼岸 ・外にある。この信仰・神学の認識方法と概念構成それ自体にある、自己相対化視座――この事柄に対する自覚
 さて、フォイエルバッハの宗教批判・キリスト教批判は、次に引用する通りです。

 

  人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である。  (中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である。
  (中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、「神学の秘密は人間学以外の何物でもない!」……。(L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質 上・下』船山信一訳、岩波書店)

 

 このようにフォイエルバッハは、人間の自由な自己意識の無限性・人間に内在する神的本質に基づいてキリスト教を哲学的に論じましたが、ユングは、無意識・「元型」・「集合的無意識」に基づいてキリスト教を心理学的に論じています。ユングの神概念・啓示概念は、次の引用にある通りです(C・G・ユング『ヨブへの答え』林道義訳、みすず書房)。

 

  ヤーヴェは、……一人で両者、迫害者にして助け手であり、どちらも同じように真実である。

 

 このように述べるユングの神概念は、天然自然と同じ位相のように思われます。なぜなら、天然自然は、すべての人間に対して恩恵や豊穣や治癒をもたらすと同時に、突然に気まぐれな無慈悲で過酷で悲惨な災害ももたらすからです。吉本は、全自然・全宇宙を造ったユダヤ教、特にヨブ記の神は、世界史・人類史におけるアジア的段階の「自然」と同である、と述べています。なぜなら、自然は、善人に対しても悪人に対しても、「おなじように災害をもたら」すからです。そして、吉本は、ヨブ記の「『オリエント的』な自然観」と、アジア的・日本的な自然観の差異について、次のように述べています(『ほんとうの考え・うその考え 賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって』春秋社)。
1)アジアの「極東地域」・「ポリネシア」・「ミクロネシア」の「自然観」の古形は、万物すべてに神は宿る、という考え方にある。
2)したがって、「花を咲かせる樹木」は「木花の佐久夜毘売(ヒメ)」、「滝」は「滝つ比売(ヒメ)」、「風」は「科戸の神」である。動植物、山川草木、国土、すべて神である。
3)しかし、オリエントの自然観は、一人の主なる神の意志によって、すべての「森羅万象、自然現象がおこるという考え方」にある。
4)この差異は、世界史・人類史のアジア的段階における「自然観」の差異であって、世界史の別段階における差異ではない。
 さて、ユングは、さらに次のように述べています。

 

  人間愛と並んで、キリストの性格には、ある種の怒りっぽさが目立っており、情動的性格の人々にしばしばみられるように、自己反省の欠如が目立っている。(中略)(≪しかし≫)この法則にはただ一つ重大な例外がある、すなわち十字架上での絶望的な「わが神よ、わが神よ、あなたはなぜ私をお見捨てになるのですか?」である。ここにおいて、すなわち神が死すべき人間を体験し、彼が忠実な僕ヨブに耐え忍ばせたことを経験する瞬間に、彼の人間的な存在は神性を獲得するのである。ここ(≪神の自己反省・道徳性・正義の具現化≫)においてヨブへの答えが与えられる。

 

 このユングの心理学的(人間学的)な認識方法と概念構成を包括し止揚できる信仰・神学の認識方法と概念構成はどのようにしたら可能か、またその認識方法と概念構成それ自体に自己相対化視座を持たせるにはどうしたらいいのか? この問いに対する答えが、前述した1)から5)までの事柄なわけです。神の「存在の本質」である「キリストの神性についての教義」・思想は、一切の近代主義・自然神学的な信仰・神学や教会の宣教およびヘーゲルやフォイエルバッハやユング等に抗することができ、またそれらを包括し止揚することができるそれである、とバルトは述べています。私もそう考えます。なぜなら、その信仰・その神学の認識方法と概念構成が、そうでない場合、、イエス・キリストは、「下からの半神」・「超人」・人間の「最深の本質」・「最高の理想」・人間の自由な自己意識の無限性として内在する神的本質・人間の集合的無意識(元型)という単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまうからです。すなわち、聖書によれば、啓示と和解(イエス・キリストの「存在の仕方」)が、「キリストの神性」の根拠ではなく、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である神性性が「啓示と和解を生じさせる」、ということでしょう。そして、この啓示認識は、あくまでも啓示の出来事と信仰の出来事を必要とする、ということでしょう。心理学的なヨブ論やキリスト論を展開するユングですが、決して合理主義者としてヨブ論やキリスト論を論じていません。なぜなら、ユングは、宗教というのは、神の人間化(「神は人間になることを欲した、そして今も欲している」)・「われわれを永遠の神話(≪「元型」としての「集合的無意識≫)に結び付ける機能」であると述べているからであり、したがって合理主義的なキリストの「脱神話化」の試みを批判しています。
 このように、ユングの神概念・啓示概念は、人間的な集合的無意識の意識化である。ユングは、子供(おそらくはカトリックの子供)が「マリアの幻視」を多く見ているのは、そこに「集合的無意識が働いているからである」、と述べています。カトリックの「法王自身も……神の母の幻視を何度も見た」ことも述べています。このことは、カトリックにおいては、自己の「強力な元型的な発達」・集合的無意識の発達(「深み」)が起こっている証拠だ、とも述べています。逆に、神の人間化の原動力である聖霊に注意を払わないプロテスタントは、劣っているとも述べています。この場合、ユングは聖霊を「自己の元型」としての集合的無意識と結び付けることで、聖霊を人間的に実体化しているわけでしょう。やはり、ユングの聖霊論は、聖書に依拠した、啓示の出来事と信仰の出来事に基づくそれではなく、あくまでも心理学的な聖霊論(「人間に内在する」それ)と言えるものでしょう。
 さて、ユングのその心理学的な認識方法と概念構成に欠けているものがあるとすれば、一体それは何でしょうか? それは、ユングが、その認識方法と概念構成それ自体に自己相対化視座を持たせていない点にあるのではないでしょうか。すなわち、ユングのそれは、人間学としても、それ自体において、党派的思想・絶対的思想の問題を包括し止揚していない点にあるのではないでしょうか。この問題については、その2において、吉本隆明の「フロイトおよびユングの人間把握の問題点について」を参考にして展開してみたいと思います。また、もう少し詳しい吉本のヨブ論はその3で簡潔に整理してみたいと思います。