吉本にとってのマタイ福音書
『<信>の構造PART2 吉本隆明全キリスト教論集成』「マチウ書試論」春秋社等々に基づく
神学者で思想家でもあるバルトはもちろんですが、キリスト者の私も、先ず以て聖書を、信仰の書として読みます。しかし、聖書は、思想の書としても、文学の書としても読めるように、いろいろな読み方ができます。なお、この機会に述べておきたいのですが、私は、理解し易くするために重複表現(これは前回も見たとか、これは以前に見たとか、という重複表現)を行っています。
文芸批評家で思想家でもある吉本にとって聖書は、先ず以て、思想の書としてある。また吉本にとって、聖書の史実性は大した問題ではない――「〈奇跡〉(中略)……は自分流の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、「鶏が三度なく前に私を否むだろう」と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の〈悪〉というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです(吉本隆明『〈非知〉へ―〈信〉の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」春秋社)。「ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります」(吉本隆明『信の構造2―全キリスト教論集成』春秋社)。「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的〈事実〉であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」弓立社)。
この文芸批評家で思想家でもある吉本の語りに対して、神学者で思想家でもあるバルトは、次のように述べている――聖書は、旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わる。この聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての第一次的な啓示の実在=イエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である。なぜなら、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからである。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」(『啓示・教会・神学』)。そして、聖書的証言の本来的テーマは、「三位一体の第二」の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている点にある。神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル=「神われらと共にいます」という存在の仕方で、顕現・自己啓示した。このことは、神性を存在の本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」としての神が、その「存在の仕方」において子として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。またこのことは、神自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、また神自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義をさえ持つことはできないことを意味している(『教会教義学 神の言葉』)。また、復活の出来事は、無空間的無時間的な神話としてでもなく、史実時空においてでもなく、歴史物語時空において起こっている。したがって、聖書の歴史・歴史物語あるいは古譚・「原歴史」・「史実以前の歴史」は、まさに一つの年代的および地誌的地域的時空の中で起こったことであるが、証明されることもされないこともある。しかし、バルトは確信を持って、「<史実的に>確定することのできることだけがじっさいに時間の中で起こり得たに違いないというのは、迷信に基づく。<歴史家>たちがそれとして確証できるすべてのことよりも、はるかに確実に、じっさいに時間の中で起こった出来事というものがたしかにあり得る」のであり、「そのような出来事の中にとくにイエスの甦りの歴史が属していると受けとるべき根拠」をもっている、述べている(『教会教義学 神の言葉』)。またバルトは、『カール・バルト著作集1 説教集〈下〉』「主を見た時 ヨハネ」において、復活の出来事が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験に依拠して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」。したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけである、と述べている。カトリック作家の小川国夫も、吉本の「あなたはキリストの復活、再臨を信じているのですか」という問いに対して、「信じています」と答えている。
さて、私は、『福音と律法』論を、バルトのその存在様式の総体性、また個と類および歴史的現存性と現実的現存性との不可避的な同在性(構造)、という観点から構成した。私は、このことからも、「福音と律法のテーマ」は、神学者たちが述べているような「教会闘争という時代背景を抜きにしては考えられない」という一面的・皮相的な通俗性にはない、と述べた。すなわち、バルトのその神学の認識方法と概念構成の在り方は、思想家・吉本と同じように、いつも、キリスト教に固有な自己表出性である、イエス・キリストにおける啓示の出来事と神自身のその都度の聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づて初めて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識、すなわち聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の<歴史的現存性(時間的連続性・歴史性)>を前提としていた。この意味で、オリジナルな思想というものはないのである。したがって、バルトは、その不可避的なキリスト教に固有な歴史的現存性に連帯したのである。このような、バルトの終末論的限界の自覚の下での啓示認識論の根本的な概念は、第一に、神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示=イエス・キリストにおける啓示の出来事=啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてある、第二に、この啓示の「概念の実在」は、その「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)においてある、である。ここに、キリスト教に固有な自己表出の歴史性がある。したがって、「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神において永遠に決定されていることなのだ」 (『滝沢克己著作集 第二巻 カール・バルト研究』)と滝沢克己が書いた時、その時滝沢は、キリスト教から根本的に離反したのであり、人間的な滝沢教を成立させたのである、あるいは滝沢自身の意味的世界としてのアジア的日本的な自然思想への復古性に依拠した学問的宗教を成立させたのである。このように、近代主義の洗礼を受けながらも滝沢は、無意識の深層に残存するアジア的日本的な自然思想への帰属意識を手離せなかったのである。この滝沢とは違って、西洋近代のスイスで生誕し・その西洋近代のただ中を生きたバルトの場合は、フーコーのように「西欧の合理性の歴史とその限界」・「西欧思想の危機と帝国主義の終焉」の問題を、キリスト教に固有な神学における思想において扱わなければならなったのである。したがって、バルトは、啓示の「概念の実在」の歴史性を媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程(《客観的な信仰告白と教義》)の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」(『啓示・教会・神学』)たのである。また一方でバルトは、その信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に、個性や時代性を刻んだのである。すなわち、バルトは、世界的な神学者として・牧師として・思想家として、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を包括し止揚して、そこから超出して、自立的なオリジナリティに富んだ信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を刻んだのである。
吉本は、次のように述べている。
ある種の<日本的>な作家や思想家は、よく西欧には一神教的な伝統があるが、日本には多神教的なあるいは汎神論的な伝統しかないなどと安っぽいことを流布しているが、もちろん、でたらめをいいふらしているだけである。一神教的か多神教的か汎神論的かということは、フロイトやヤスパースなどがよくつかう概念でいえば、<文化圏>のある段階と位相を象徴するものであって、それ自体はべつに宗教的風土の特質をあらわすものではない。<神>がフォイエルバッハのいうように至上物におしあげられた自己意識の別名であっても、マルクスのいうように物質の倒像であっても、このばあいにはどうでもよい。ただ(≪フォイエルバッハの言う≫)自己幻想かあるいは(≪マルクスの言う≫)共同幻想の象徴にしかすぎないということだけが重要なのだ。そして人間は文化の時代情況のなかで、いいかえれば歴史的現存性を前提として自己幻想と共同幻想に参加していくのである。(『共同幻想論』「巫女論」勁草書房)
一神教的か多神教的か汎神論的かという問題は、人類史的段階の問題として扱われなければならない。それは、「文化の時代情況」において、「歴史的現存性を前提」として、扱われなければならない。言い換えれば、現存する私たちは、不可避的に、逆立的に対象化された、物質の倒像である貨幣物神における「私利」・「私意」の精神に基づく市民社会の自己意識の類的本質、共同意識、共同の幻想的形態、法・政治的近代国家の歴史的現存性の中に生きている。その共同幻想を疎外した私たち人間は、そこでは第一義性・価値性を奪われて、すなわち社会的・現実的な個人的生活を奪われて、第一義化・価値化された公共的・非現実的な公民・公的共同体の一員・国民の一人として存在する。このように、私たち人間は、自分の意志とは関係なく、ある支配構成や社会構成や文明や文化の時代水準、すなわち歴史的現存性のただ中に生誕するのであって、その歴史的現存性を前提として、その中で、私のその存在・その思考・その実践を刻んでいく――「歴史とは個々の世代(《個体的自己の成果の世代的総和》)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪言語・知識・思想、性・夫婦・家族≫)を(≪不可避的に≫)利用(≪媒介・反復≫)する」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)。このように、私たちの意志の通用する範囲は半分しかないのであるから、「為せば成る……」の故事は、半分は全くうそ、でしかないのである。一生懸命努力しても、時代状況が許さなければ、その尽力は徒労に終わることはあるのである。そのような故事を言ったり・テーマにしたりする知識人やメディアの、うそ、は、自分自身の体験(体験思想)を介すれば、すぐに分かるだろう。吉本は、現実的現存性の概念について、分かり易く述べている――科学・技術や生産様式の発達は、遅延させることはできても逆行させたりすることはできない。この意味で、エコロジーの極限に想定される天然自然主義は錯誤でしかないものである。と同時に、人間存在の総体性にとっては、「経済的範疇というものもまた部分」にすぎず、科学主義における「科学が発達し、技術が発達し、未来が描けるというような考え方」は、部分でしかない科学を全体として錯誤するところにある。「社会の経済的な、あるいは生産的な、あるいは技術的な発達」に対して、情念や非感覚的部分や喜怒哀楽の感情は、それに伴って発達するわけではない。マルクスが、人類の歴史において、経済的範疇は「第一次的に重要なもの」である、「そしてその他のものはそれに影響される」と述べた時、「幻想領域の問題は、そういう経済的範疇を扱う場合には大体捨象できるという前提」に立脚して述べているのである。すなわち、マルクスは、経済決定論者ではないし、観念の自体構造・自己増殖過程を否定したわけではない。このように、観念の本質は時間であるから、退歩や復古もあり得るという点に、西洋近代における自然宗教・アニミズムとしての「樹木崇拝の名残り」の根拠がある(フレイザー『金枝篇(一)』岩波書店)。こうした点を、マルクスは、ギリシャ古典芸術の「永遠の魅力」に言及しながら、「困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない規範(《人類的成果・歴史的現存性》)としての意義をもっているということを理解する点にある」、と述べている。その自覚の下で、人類は、経済的社会構成と観念諸形態において、歴史的段階に対応したさまざまな文明と文化の諸形態を持つ、と述べたのである。そして人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかない」ものである。歴史的現存性とは、人間化され非有機的身体化された全自然・人間的自然を、それが良きものであれ悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことである。したがって、個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである。したがってまた、個人としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、いったんそうした「現実に衝突してからは」人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個の現存性を刻んでいく。すなわち、人間の歴史は、「すべての個人としての〈人間〉が、或る日、〈人間〉はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが〈実現する〉という性質のものではない」のである。吉本やマルクスに依拠して整理すれば、このように言うことができる(『吉本隆明全著作集11』「共同幻想論・『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」筑摩書房、マルクス『経済学批判』岩波書店)。
さて、吉本は、福音書の中で、マタイ福音書が「いちばん好きだった」。また、吉本にとって、マタイは、「原始キリスト教の最大の思想家」であった(『<信>の構造PART2』「マチウ書試論」)。このことを、吉本は、「人はだれでも、故郷とか家とかでは、ひとつの生理的、心理的な単位」に過ぎず、「故郷や家では、軽蔑される」という「近親憎悪」の思想性に見ている――「原始キリスト教のユダヤ教にたいする憎悪と敵意とは、思想的な近親憎悪と言うことができる」。そのマタイ福音書から、吉本は、信・知と不信・非知を分離する関係・関係意識・思想・共同性は、絶対的思想化した党派的意識・党派的思想・党派的共同性である、と述べている。したがって、吉本は、その絶対的思想、すなわち党派的意識・党派的思想・党派的共同性を包括し止揚して、そこから超出するためには、両者の空隙を埋める思想の構成を必要とする、と考えた(『<信>の構造PART2』「現代キリスト教思想の諸問題」)。
吉本によれば、マタイ福音書は、「血なまぐさい現実と、苛酷な思想的な抗争」のただ中で、「ユダヤ教にたいする憎悪と嫌悪」の倫理化に依拠した、「ヘブライ聖書にあらわれている後期ユダヤ教のメシア観を一人の人物」・イエス・キリストの「意味のなかに集成」して、「ユダヤ教……に、原始キリスト教」を接木した位相にあるもの、ということになる。そして、吉本は、マタイは、後期ユダヤ教の思想から、現実的な秩序が強いてくる「存在の危機を実存の条件」とする「被虐的な思考の型」・現実的な「秩序の抑圧から逃れて、心情の「秩序のなかに安定」性を見い出す「思考の型」を抽出した、と述べた。マタイ(原始キリスト教)は、この「思考の型」において、ユダヤ教が律法(「信仰という神と人間との関係」)を生活規範化・律法の社会化された倫理(「人間と現実との関係」)とすることで世俗化したことに対して、「神と人間とのあいだの、心情の律法……を選択し、拡大していった」。例えば、姦通は「ユダヤ教の概念では、社会倫理的な禁制としてある」が、マタイ・「原始キリスト教……は、姦通にたいする心理的な障害感覚」・罪の内在化・内在的な罪・「自意識の倫理化」を問題とした。この「被虐倫理」は、「欠如の自覚」を根拠としている。ここに、原始キリスト教の人間理解がある。また、吉本によれば、「原始キリスト教が導き出した罪の概念は、……(≪執拗で苛酷な≫)迫害からの被害感を論理化したものであるが、彼らは、「近親の裏切り、人間に対する猜疑心、秩序の重圧、これらの交錯するみじめな心理状態のうちに、人間性の暗黒を支配するその教義を確立していった」点にある、。当然のことであるが、この思想家・吉本が、マタイ福音書から導き出した罪概念と、神学における思想家・バルトが、『福音と律法』において論じた、神と人間との「混淆」・「共働」や「神人協力説」に見られる人間の自主性・自己主張・無神性・不信仰という人間の「真実の罪」の概念とは全く異なっている。
さて、「マチウ書試論」において、吉本が言いたいことは、「関係の絶対性」(党派的思想・党派的共同性から超出する、真理性の客観的規準)ということであるが、その概念は次のことを意味している。先ず以て、吉本は、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題である」(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)、と述べている。バルトも、神学における思想家として、「(≪私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(《学派・教派・宗派・思想傾向・時流や時勢・社会的政治的な言説や運動》)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない」(『教会教義学 神の言葉』)。それは、例えば信と不信、知と非知、キリスト者と非キリスト者との対立を超える問題である、その空隙を埋める問題である、その空隙を架橋する問題である、信・知・キリスト者を不信・非知・非キリスト者に対してそのあるがままで完全に開く問題である。
1)生活過程から極限にまで逸脱した絶対的思想・党派的意識・党派的思想・党派的共同性を包括し止揚して、そこから超出するためには、「相対性の極限」である大衆原像を思想にとっての普遍的な価値基準として設定する必要がある。人間にとって、生活は不可避である。思想にとっての普遍的な価値基準としての時代水準によって変容する社会的存在の自然基底である大衆原像を設定する時、知識・知識人は、一方通行的な知識の自然的な知的上昇過程に登場する者たちであること、そしてそのことは生活過程からの逸脱でしかないこと、知と非知の分離であること、そしてまた、その知識の自然的過程は知識の頂きまで上昇していく点に本質はあるから一方通行的な往相過程しか持たないことが分かる。この一方通行的な知識の在り方は、生活の規模と比して小さい人間にとっては一面的であり部分的である意味的世界を価値化して絶対的思想・党派的意識・党派的思想・党派的共同性を生み出していくほかないものである。現在、高度情報社会下で生活者大衆は、言語的・映像的マス・メディアの発達によって、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなってしまった。言い換えれば生活者大衆は、量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場する知的大衆へと大きな変容を受けてしまった。とは言え、現在でも社会的存在の自然規定であるその存在は、「支配の制度」がある限り、知的大衆や知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準であって、時代状況によって変容していくその大衆像と大衆的課題を、自らの神学・知識に繰り込み包括していくところに知的大衆や知識人の自立思想は成立するのであり、その神学・知識のリアリティを獲得できるのであり、その神学・知識が反体制的でもあり得るのである」(『自立の思想的拠点』「日本のナショナリズム」)。
さて、吉本によれば、党派的・学派的思想とは、思想にとっての普遍的な価値基準としての大衆原像に対して閉じられていく思想のことである。党派的・学派的集団とは、その集団構成が大衆原像に対して閉じられていく共同性のことである。同伴知識人とは、あるイデオロギー・権力・政党・市民主義的集団に対してシンパシーを持って同伴する知識人のことである。大学知識人とは、市民社会的な常識や価値観に依拠して社会的な特権的地位を与えられた学問研究の場である大学を構成する知識人のことである。バルトは、時流や時勢に迎合・同化することはしない、大衆迎合や大衆同化や大衆啓蒙をしない、流行の哲学的原理や認識論や世界観に迎合・同化をしない。バルトは、その神学の認識方法と概念構成において、終末論的限界の自覚の下で、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、それに依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識に信頼し固執し、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白と教義である啓示の「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)に連帯したのであるが、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではない」(『教会教義学 神の言葉』)という在り方で、絶対的思想・党派的意識・党派的思想・党派的共同性を超えることを語っている。もっと根本的な神学における思想の問題で言えば、一切の天然自然や人間的自然(人間的契機)が関与しない、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」という教義・思想において、絶対的思想・党派的意識・党派的思想・党派的共同性を超えたのである。バルトは、そこにおいて、信・知・キリスト者と不信・非知・非キリスト者の空隙を架橋したのである、信・知・キリスト者を不信・非知・非キリスト者に対してそのあるがままで完全に開いたのである、宗派を・教派を超出したのである。したがって、バルトは、バルトを根本的に誤解し曲解している神学者や牧師や著述家たちのように、わざわざエキュメニカル運動を実体化させてそれに奔走せよと声高に決して叫ばないのである。ねぜならば、バルト自身は、神学における思想において、すでに根本的に架橋<済>だからである。
さらに言えば、バルトに対する他律的な二者択一の倫理(善悪の判断)・「賛成」か「反対」かを強いたラインホルド・ニーバーの「啓蒙の恐喝」は、典型的な党派的思想・党派的共同性からする党派的同伴知識人の在り方を示していた。このように、ニーバーには、党派的思想・党派的共同性を超えようとする神学における思想が全くないのであるが、バルトは、そのことに対して自覚的である。すなわち、不可避性における政治家バルトは、そのニーバーの政治的強要や政治的陰謀と他律的な二者択一の倫理を強いる〈啓蒙の恐喝?〉に対して、東西イデオロギー・権力のどちらにも加担せず、また「一言も答え」えず、断固として拒否する在り方で対応したのである。このバルトの党派的思想・党派的共同性を超えようとする神学における思想的在り方は、様々な言い方でなされている――「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的―批判的学問の判決に、依存させてしまう」べきではない。「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとすべきではない。ある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとすべきではない。「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、西洋近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならない。「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」。「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である。したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」。
2)人間の存在様式(「三つの軸」――個、対、共同性)の総体性についての自覚的な扱い方が必要である。例えば、吉本によれば、マタイ(原始キリスト教団)は、社会的倫理としての「汝、姦淫するなかれ」というユダヤ教の律法を、人間の内面の罪の問題にまで拡張したとき、それは「人間の<観念の世界>を、……総体的な単一性と見做」すことであって、その場合、その観念は絶対的教義・絶対的思想・党派的意識・党派的思想・党派的共同性として、絶対服従か絶対拒否か神人協力論での「懺悔」かの決断を迫るものとなる。したがって、吉本は、姦淫の罪の掟は、ほんとうは、「人間の個体が他の一人の個体と関係する仕方の世界でだけ通用する」ものであると理解する必要がある、と述べた。この吉本の語りに対して、メディア的センセーショナリズムにおいて「火宅の人 バルト」と書いただけの著述家の佐藤優は、神学における思想において、根本的に対応することはできないのである。バルトの場合、こういうことに対しても自覚的であったから、『福音と律法』で、罪の本質は人間の自主性・自己主張・無神性にあるのであって、「余りに性急に、余りに熱心に、念頭に置いて来た」「性的リビドー」(「『死んでいる』罪の成果の一部」)にあるのではない、という言葉を置いた。バルトにとって、「真実の罪」は、主格的属格としての「イエスの信仰」から規定された、人間の自主性・自己主張・無神性・不信仰(キリスト者自身も、すべてそうである)にある。
なた、吉本は、次のように述べている――「人間は、どんな社会でも具体的に生き、かつ生活しという場合には、どうしても相対的に生きていくわけです。つまり相対感情」・相対意識で生きている。「あるいは相対思想で生きている。だからこそ逆に絶対思想を生みだすとか、それにひかれるということがありうる」。この場合、その思想それ自体に自己相対化視座を持たない場合、その思想は、そしてその共同性は、絶対的思想・党派的意識・党派的感情・党派的思想・党派的共同性に過ぎないものとなっていく。しかし、バルトの場合は、その神学の認識方法と概念構成自体に、終末論的限界の概念、自由・主権は神自身においてのみ「実在であり真理である」という概念等々の自己相対化視座を持っていた。また、信・知・キリスト者と不信・非知・非キリスト者とを架橋する、神学における思想を持っていた。この時、そのバルトの神学は、自立している、と言うことができる。
そしてまた、吉本は次のようにも述べている――絶対的感情・絶対的意識・絶対的思想は、それが人間的な観念の世界である限り、現実的な相対的世界との関係の中で、自己欺瞞に陥らざるを得ない。バルト研究者の寺園喜基は、「イエスの信仰」を目的格的属格として理解しているために、ただ往相的な一方通行の信の上昇過程の場所からのみ、諸民族は「イエスキリストを信ずる信仰へと呼びかけられている」のであるから、諸民族をその希望である「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ところに、キリスト者とキリスト教会の責務がある、と述べていた。私は、その時、寺園は、現実的に生き生活している中で、ほんとうに信じているのだろうか、と思った。その一方通行的な語り方には、どこか自己欺瞞が貼りついているように思った。私は、バルトの信と不信を架橋した語り方においてしか、自己欺瞞を、また党派性を超えることはできないと思った――マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」・「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」。「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である。「そこにはただ、神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」。これは、まさしく不信をそのあるがままに包括し止揚した・克服した、信における還相的な言葉である(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)。次に引用する言葉もそうだ。
「もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている」その通り―一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を「持っている」、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが「できる」と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が―つまり『自分の理性や力によっては』―全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)「わたくしは信じる」とかれが言うのは、「主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい」という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『カール・バルト著作集10』「福音主義神学入門」)
「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、私たちを「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことである。なぜなら、人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではない。したがって、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」(『福音と律法』)。ここにおいてなら、自己欺瞞も、党派性も超えられるのである。