本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

人工知能(AI)および情報科学や情報技術の進歩・発展・高度化は、フェイクニュースにさらに悪しき力と方向とを持たせて、それを増大させて行く!!

人工知能(AI)および情報科学や情報技術の進歩・発展・高度化は、フェイクニュースにさらに悪しき力と方向とを持たせて、それを増大させて行く!!

 

 下記に整理したヤフーニュース、JIJI.COM、2019年2月10日配信(AFP=時事)の記事によれば、総括的に、人工知能(AI)および情報科学や情報技術の進歩・発展・高度化は、その否定的側面において、フェイクニュースにさらに悪しき力と方向とを持たせて、それを増大させて行く、と言う。この人工知能(AI)および情報科学や情報技術の進歩・発展・高度化の問題は、肯定的側面と否定的側面とを持っているのであるが、自然史の一部である人類史の自然史的過程における経済社会構成の拡大・高度化、科学や技術の進歩・発達、その知識の増大、生活の利便性の向上という事柄と同じように、自然史的必然であるから、自然史的必然の問題として取り扱うべき事柄である。

 

 その記事を整理してみると、次のようになる(記事の中で、(≪≫)の記述および下線と太字は、私が加筆したものである)――
 「もし、ある政治家が普段は絶対しそうにない発言をしたり、ハリウッドのスター女優が、あり得ないB級アダルトビデオに出演したりする映像を目にしたら……」、このように「未来の『フェイクニュース』」は、「近年の人工知能(AI)の進化で、実際の映像を巧みに加工する『ディープフェイク』動画のクオリティー」が「より精巧になっている」から、「実はそのようなものになるのではとの考え」があり、「その影響から、新たな種類のデマや虚報が破滅的な結果をもたらす危険性も同様に高まりつつある」と言う、ちょうど「しっかりとした筋書きのディープフェイクをタイミング良く広めることができれば、選挙結果を覆したり、暴動寸前の都市で混乱を生じさせたりすることが可能」となるように、「また、敵対する相手の残虐行為を主張する反政府派の声を強化したり、社会の政治的分断を悪化させたりすることもできる……」ように。
 「米シンクタンク『外交問題評議会』(Council on Foreign Relations)」のブログでそう警告するのは、米テキサス大学のロバート・チェスニー教授と、メリーランド大学のダニエレ・シトロン教授だ」。また、「AIと安全保障問題を専門とするシンクタンク、新米国安全保障センター(CNAS)の上級研究員、ポール・シャーラー氏は、これからの選挙では対立候補を陥れたり、実際の映像をうそであると人々に思いこませたりするために、ディープフェイク動画が活用されることはほぼ防げないと指摘する。見た目に信用できそうなフェイク動画が拡散すれば、『人々は自分が信じたい方、自分が求めている主張に合った方を選ぶことになる。これはひどく気がかりだ』とシャーラーは話す」。
 「動画の加工は数十年前から行われており、無害な遊びや、時にはエンターテインメントにもなる。映画業界では『チャーリー・チャップリン』のように死去した有名俳優をスクリーンに復活させることもできると期待が寄せられている」と、米カーネギーメロン大学の研究者、アーユシュ・バンサル氏は言う」。「だが、『誰であろうと、なんでも言わせることができる。これほど恐ろしいことはない』と指摘するのは、ディープフェイクの検出を専門に研究するニューヨーク州立大学オールバニ校コンピューターサイエンス学教授のシーウェイ・リュウ氏だ」――「そのようなことが可能になれば、真実とうその見分けがつかなくなってしまう。情報が本物かどうか信頼できないという状態は、情報が全くないのと同じくらいひどい状態だ」。
 「研究者らはこの間、グーグルのような民間企業や、2015年にフェイクニュース捜査を開始した米国防総省の研究技術機関、国防高等研究計画局(DARPA)のような政府機関の支援を得て、ディープフェイクの検出技術を向上させてきた。だが、画像に映る人がまばたきをする割合からフェイク画像を突き止める方法などを研究しているニューヨーク州立大のリュウ氏は、フェイクニュースを発見するだけでは、それが拡散し、混乱を生じさせないための対策として十分でないと認める。『動画の分析よりも大事なのは、拡散プロセスを阻害することだ』。「ここ数年でディープフェイクが進化を遂げる中、米国で昨年4月に話題になった動画があった。前大統領のバラク・オバマ氏が、現大統領のドナルド・トランプ氏を口汚くののしる動画だ。これは、映画監督のジョーダン・ピール氏と米ニュースサイト『バズフィード』が作ったフェイク動画だった」。「こうした状況について新米国安全保障センターのシャーラー氏は、ディープフェイクを作る側と、それを検出する効果的なツールを開発しようとしているセキュリティー研究者との間で、激しい攻防が起きていると語る。しかし、シャーラー氏いわく」、「動画が拡散してしまった後では、それによって引き起こされる社会的有害事態への対処も難しくなるから」、「ディープフェイクへの対処策として最も重要なのは、(≪この事態は、自然史的必然からやって来る事態であるから、換言すれば善悪の判断、倫理の問題ではないから、≫)人々の意識を高めることと、これまでは『動かし難い証拠』にしか見えなかったものに対しても、より疑い深くなる姿勢だという(≪したがって、世俗的真理に関わる時には、大学社会やメディア界の知識人の知識やメディア界の情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、トータルな世界認識の方法に基づいて知識や思想を構成した吉本隆明と共に、様々な事柄に対して、たとえ拙くとも、自らで思惟し掘り下げて、自立した知識や思想の構成を志向し目指していく必要がある。それと同時に、われわれは、「イエス・キリストの名」にのみ感謝をもって信頼し固執し固着するキリスト者であるから、そういうキリスト者であるわれわれは、大学社会やメディア界の神学者や牧師やキリスト教的著述家の知識やキリスト教メディア界の情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、たとえ拙くとも、徹頭徹尾「イエス・キリストの名」にのみ感謝を持って信頼し固執し固着して、それ故に具体的には徹頭徹尾聖書的啓示証言にのみ信頼し固執し連帯して、教会の宣教にとって最善最良の信仰・神学・教会の宣教を構成したバルトと共に、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください」という祈りと共に、自ら信仰・神学・教会の宣教について思惟し掘り下げ、最善最良の信仰・神学・教会の宣教の構成を志向し目指していくことが必要である≫)」(【翻訳編集】 AFPBB News)。

 

 吉本隆明は、次のように述べている――
 現存する老いから若きまでその思惟と語りと行動は、その生活に常にまとわりついている欠如感・憤懣の全てを忘却させてしまい得るような熱気あふれる一過性を求めているように見える。しかし、それが一過性のそれであるが故に、現存する欠如感・憤懣は、払拭されることはなく、そこに残されたままである。このように、現存する社会の時代水準は、「流行、瞬間的な感覚の解放、瞬間的なイメージの反応、次の瞬間には消えてしまうもの、そういう刹那的なイメージしかつくれない」という点にある。瞬間芸を主とする大衆芸のように、そうした大衆芸が受けいれられ流行するということは、現存する社会の時代水準がそうした状況を生み出していると同時に、そうした大衆芸を下から支える現存する社会の時代水準に影響を受けた大衆に、瞬間的な刹那性の無意識(共同幻想)があるということである。瞬間芸を主とする大衆芸だけでなく、レンガを積み上げるように十分に蓄積された芸等々に裏打ちされていない、現存する大衆的人気(共同幻想)やメディア的後光(組織性)にだけ依存しがちな日本の脚本家、監督、役者の作品にもそういうところがある。このことは、レンガを積み上げるように十分に蓄積された芸等々に裏打ちさた脚本家、監督、役者が作品化した中国58集ドラマ「開封府」を何回か観ていて、痛感したことである。
 経済社会構成がサービス産業など第三次産業中心の高度消費資本主義社会下(高度情報社会下)においては、労働と生産物との関係は間接的で労働時間と生産量の間も不可視的になる。例えば、流通産業においては、商品をAからBに移動させるだけで価値を生み出すようになっている。また、労働量・労働時間が同じ同量同質の商品も、容器がありきたりか美しいかというイメージの違いによって商品の価値に差異を持たせることができる。こうした経済社会構成に生きる人間の関係は、間接的で不可視的であるから関係意識を希薄化させていく。すなわち、人々を個人的な世界に内閉化させていくことになる(それ故に、一面的な絆、感謝、恩返し等の強調された言語的身体的表現はその裏返された表現である)。そうした状況を生きてきた若い世代にとっては、それがどのような人間であれ皆、等距離、等質、等価値、同じ重さの存在でしかなくなっている(資本主義が行き着く果て――その尖端性はアメリカを見ればよく分かることであり、そしてその卑近な例を一つ挙げれば、アメリカにおける逃走犯を追跡するパトカーと逃走する逃走犯の車とのカーチェイスは、今や、日本においても日常茶飯事となっている)。
 社会的な伝達欲求に基づく意味や物語や情報や知識の量的増大化は、対他的な言語の指示表出性として「意味」を構成する。したがって、情報科学や情報技術の発達により言語的・映像的・音響的なマス・メディアの発達した高度情報社会下における対他的な感覚の発達と知識の増大は、無意味ではなく「意味」を構成する。しかし、それは、「価値」を構成するものではない。この指示表出性とは違って、内在的な人間的欲求、喜怒哀楽の感情、生老病死の苦悩、男女間の恋愛感情や嫉妬心や闘争心等、対他性を拒絶した個体の対自性から湧出した言語の自己表出性は、時代性を超えて人間の類(人類)の「中心で連帯」し「時間的な連続性」を有し言語の「価値」を構成する。この言語の自己表出性に、古代の詩歌等が現代においても対自的な個体の心・精神・情感性・情緒性を充たし得る根拠がある。すなわち、「価値」としての言語の自己表出性に関わる対自的な「人間の精神や心」は、経済社会構成の拡大・高度化、科学や技術の進歩・発達・高度化、その知識の増大、生活の利便性の向上に伴って発達はせず、「ギリシャ・ローマ時代や万葉時代から」変化をしていない部分として今も現存している。現在でも本当に好きになった一人の女性が、「ある男性の心臓の鼓動を高まらせ」たり、ある男性にとっては世界の全てであり、その関係の破綻がある男性の自死をもたらしたりことがあるのである。これらのことは、万葉集の時代に生きた人も現代人も変わらないこととしてある。また、現在に引き寄せて言えば、他者を現実的に侵害することを平然化させている利己主義が蔓延した現存している社会においては、男女関係のいざこざや破綻が悲惨で残虐な殺傷事件を惹き起こしたりもしているのであるが、この時、少なくともその利己主義的な感情を邁進している人間は、理性的に思惟し行動でき得ていないのであり、理性的に話し合えば相互認識・相互理解・相互承認し合える存在でもないのである。
 さて、対自的な言語の自己表出性は、時代性を超えて人間の類(人類)の「中心で連帯」し「時間的な連続性」を有し言語の「価値」を構成するとは、前述したことであると同時に、言語の第一義性に関わるものであり、それは個体的自己としての「自分自身との交通の欲望及び必要から発生した」ものであるということでもある。「文学作品の価値本体は、(中略)人類のうみだした表現体の連続性(≪個体の内在的な自己表出性≫)のうえで占める位置と、現在の情況があたえている切実な課題(≪個体の内在的な指示表出性≫)との交点に存在しており、それは、わたしたち個々のA・B・Cが<好み>としての前提(≪文学作品の<創造>過程・内部過程・意識過程は外化され表現されたとき、その表現された作品は、表出(創造)と表現(享受)という表現の構造を介して、客観的な対象として百人百様の<享受>の対象となる≫)からその交点にむかって接近することによって、はじめて価値にとうたつすることができるものである」。
 前述したように、言語の本質は、自己表出(その度合)と指示表出(その度合)の構造である。胃痛で「うっ」と発語された場合、それは、反射的に発せられたもので、表現された<結果>として周りの人に伝わるかもしれないとしても、その第一義性は他者とのコミュニケーションを目的としてはいない。ここに、他者への伝達目的によるのではない、自己自身の「内側だけ」から惹き起こされ自己自身の「内側だけ」に反響している表現である自己表出の本質がある。この自己表出は、大脳を中枢としない植物神経系(大腸・肺・心臓・血管等)、すなわち自律神経系に関わる「人間の内臓の働き」と、それに基づく情緒・情感・情念等「心(精神)の動き」とを基盤としている。しかし、そうした自己表出も、外化され表現されれば表現された結果として、第二義的であれ他者にも伝わるから指示表出性も持つということができる。その場合、あくまでも、指示表出性を第一義的な目的とはしていない点に、すなわち指示表出の本質であるコミュニケーションを第一義的な目的としていない点に、自己表出の本質がある。それに対して、指示表出の本質は、風物を視覚(感覚)的に受け入れ了解し「美しい」と感じたこと(この感情作用は、知覚によって内在化された対象の空間化としての<内観>的作用である。それ故に、それは、知覚そのものに伴うとしても、知覚とは関わりのないものである)を表現し他者に伝達するところに第一義的な目的がある。すなわち、指示表出の本質は、他者に「何かを指し示す」こと・意味や物語を構成することを第一義的な目的とする点にある。このように指示表出は、大脳を中枢とする動物神経系、すなわち反射神経系に関わる「人間の感覚器官の動き」と、それに基づく感性→悟性→理性へと上昇する「心(精神)の動き」との結びつきである。もちろん、他者とのコミュニケーションを第一義的な目的とする指示表出も、花を視て反射的に美しいと自己自身の心を第二義的に動かす自己表出性を持つのであるが、その場合も、指示表出の第一義的な目的は、あくまでも他者への伝達のための意味や物語の構成にある。このように、「人間の身体は植物部分、動物部分、そして人間固有の部分(≪内臓器官に依存したそれと、感覚器官に依存したそれとの、二重構造としてある心・精神≫)」を含んでいる。そして、それらは、それぞれの固有性と、胃腸・心臓等の内臓病で顔にその表情が出るように、大脳と内臓との相互規定性とを持っている。このような言語論や個体概念の構成は、個体的自己としての人間にとって<部分>でしかないものを拡大鏡にかけて<全体化>する誤謬、ある<部分>を形而上学的に抽象し固定化し<全体化>する誤謬、<部分>でしかないものを<全体>とする錯誤や誤謬から人間を解放してくれるものである。このような訳で、「情報科学や情報技術の専門家たち」が、その区別(差異性)を包括せずに、大脳を中枢としない植物神経系、すなわち自律神経系に関わる「人間の内臓の働き」(心・精神)と大脳を中枢とする動物神経系、すなわち反射神経系に関わる「人間の感覚器官の動き」(心・精神)とを「同じものであると信じて疑わないことが問題」なのである。何故ならば、「情報科学や情報工学の発達」は、人間の感覚部分に関わる心・精神を発達させ知識を増大させたけれども、人間の情念、非感覚部分の心・精神というものを発達させることはできなかったからである、古代から「人間の喜怒哀楽は変わらない」し、経済社会構成の拡大・高度化、科学や技術の進歩・発達・高度化、その知識の増大、生活の利便性の向上に伴って、人間の非感覚部分の心や精神は豊かにならなかったからである。
 科学や技術や生産様式の発達は、自然史的必然として、遅延させることはできても逆行させたりすることはできないものであるから、エコロジーの極限に想定される天然自然主義は錯誤でしかないものである。と同時に、人間存在の総体性にとっては、「経済的範疇というものもまた部分に過ぎず」、宗教としての科学<主義>における「科学が発達し、技術が発達し、未来が描けるというような考え方」は、部分でしかない科学を全体として錯誤する(信仰する)ところにあるのである。「社会の経済的な、あるいは生産的な、あるいは技術的な発達」に対して、 情念や非感覚的部分や喜怒哀楽の感情は、それに伴って発達するわけではないのである。マルクスが、人類の歴史において、経済的範疇は「第一次的に重要なもの」である、「そしてその他のものはそれに影響される」と述べた時、「幻想領域の問題は、そういう経済的範疇を扱う場合には大体捨象できるという前提」に立脚して述べているのである。すなわち、マルクス自身は、経済決定論者ではないし、唯物<主義>者でもないのであり、それ故に宗教としての唯物<主義>に立脚して<観念>の自体的構造と<観念>の自己増殖過程を否定したわけではないのである――「人間の心的な過程が存在するためには、身体の存在は絶対的条件である(≪すなわち、唯物的である≫)。それにもかかわらず、人間の心的な過程の内容は必ずしも身体の存在の反映ではない(≪すなわち、<非>唯物的である。換言すれば、いったん疎外された観念は、その自体的構造と自己増殖過程を持つ≫)」。(『詩人・評論家・作家』、『老いの流儀』、『戦後思想の価値転換とは何か』、『超「20世紀論」』、『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『行動の内部構造』等)
 このような訳で、吉本が、「戦争中に、国家の政策(≪大多数の被支配としての一般大衆の個人やその家族やその親族やその友人やを死に追いやったそれ≫)を、知識人(≪メディアとしてはNHKも朝日新聞も加担した≫)があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進するという様式が、なによりも敗戦後の反省の材料でした。それならば、戦後は、昨日あらゆるこじつけで国家の政策を広宣した知識人が、左翼思想や市民主義思想に乗りうつり、国家の欠陥をあげつらい、大衆が知的にそれを模倣し、行動的には模倣以上のことをするという様式は、まったく、国家に迎合することの逆ですから肯定されるべきでしょうか。これは大変な疑問におもわれました。そこには<構造>的な変容がなにもないからです」と述べていたように、人工知能(AI)および情報科学と情報技術が進歩・発展・高度化した高度情報社会下においては、なおさらのこと、大学社会やメディア界の知識人の知識やメディアの情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、たとえ拙くとも、トータルな世界認識の方法に基づいて最善最良の知識や思想を構成した吉本隆明と共に、様々な事柄に対して自ら思惟し掘り下げて、自立した知識や思想を志向し目指していく必要があるのである。

 

 さて、ニュース記事ではAI技術を使った不可視な観念物の捏造、捏造された虚偽の情報の悪用について述べられていたが、意志された自然物としての自己身体の顔立ち、目、鼻、口等の整形も、火傷や病気や事故による全く以てやむを得ない不可避的な整形ではないのであるから、意志された自然としての自己身体の顔立ち、目、鼻、口等の整形は、その対象を見ている側の方はその整形の事実を知らないのであるから、それは、意志された可視的な自然物の偽造、意志された可視的な自然としての自己身体の顔立ち、目、鼻、口等の偽造(美人風あるいは美男風の模造)と言うこともできる。したがって、もしも意志された自然としての自己身体の顔立ち、目、鼻、口等の整形的人間が7、8割を超えるような社会になれば、その社会は、自然としての自己身体の顔立ち、目、鼻、口等に関しては、自然として自己身体の顔立ち、目、鼻、口等を持たない、意志された可視的な自然物の偽造、意志された可視的な自然としての自己身体の顔立ち、目、鼻、口等の偽造された社会、すなわち人工的な顔を持った社会と言うことができるから、そういう美人<風>あるいは美男<風>の者に対して、必然的に不可避的に、自分が面と向かって対象とした人に対して、この人の自然としての自己身体の顔立ち、目、鼻、口等は本当にこの通りなのだろうか・全く違っているのではないだろうか、という疑念や不信が誰に対しても、すなわち自然として自己身体の顔立ち、目、鼻、口等を持った人に対しても湧いてくるようになるに違いないのである。したがって、そのような疑念や不信がある社会においては、たとえ美人<風>あるいは美男<風>の者と婚姻したとしても、何の喜びも楽しみも持ち得ないと言うことができる。作家の中村うさぎは、「私は消費社会の漂泊者でいたい」と「顔で原型をとどめているのは口と鼻先の二カ所だけ」だと述べていたこと(「朝日新聞」夕刊、2006年9月22日)に即して言えば、高度消費資本主義段階下において、自然としての自己身体の顔立ち、目、鼻、口等までも消費の対象とする時代に突入していると言うことができる。前述したニュースの記事も、こういう事態も、何か非常な不気味さを感じさせる。

 

 さて、吉本が述べていたことを、キリスト教会のわれわれに敷衍すれば、大学社会や教会やメディア界の神学者や牧師やキリスト教的著述家の知識やキリスト教的メディアの情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、たとえ拙くとも、徹頭徹尾「イエス・キリストの名」にのみ感謝を持って信頼し固執し固着して、それ故に具体的には徹頭徹尾聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯して、教会の宣教にとって最善最良の信仰・神学・教会の宣教を構成したバルトと共に、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください」という祈りと共に、自ら信仰・神学・教会の宣教について思惟し掘り下げ、教会の宣教にとって最善最良の信仰・神学・教会の宣教を志向し目指していくことが必要である。そのためには、バルトが『バルトとの対話』で述べているように、われわれは「哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、(≪純粋なキリストにあっての神、純粋なキリストの福音、その信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰を尋ね求める、教会の宣教における一つの機能である≫)神学は哲学的試みが終わるところから始まる」し、その神学も理性的な知的営為ではあるが、その「神学は方法論的には、ほかの学問(≪人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間論、コミュニケーション論等≫)のもとで何も学ぶことはない」のであるから、次のような方法しかないのである――神の言葉の第三の形態に属するイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会を志向し目指す全く人間的なわれわれの教会(われわれキリスト者、神学者や牧師を含めた全成員)は、本当は、徹頭徹尾、常に<先行>するイエス・キリストにおける神の愛の下で、あくまでもそれに<後続>して、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言)を、その宣教、その思惟と語りと行動における<客観的>な原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、あくまでもそのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)――すなわち、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していかなければならないのである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していかなければならないのである。何故ならば、聖書的啓示証言によれば、バルトが述べているように、本当は、われわれ人間の、その類・歴史性(歴史的現存性)と個・現存性(現実的現存性)の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、「失われない単一性」・神性・永遠性をその存在の本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方である、神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストのほかにはないからである――(1)「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限 り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている」・「この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても(≪神学が教会の一つの機能である限り、牧師としても≫)召されている」(『福音主義神学入門』)、(2)それ故に、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)、(3)教会の一つの機能である教会「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。何故ならば、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示は、啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与能力を、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それ故に教会の宣教、その思惟と語りと行動における<客観的>な原理・規準・法令・審判者・支配者としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を持っているから、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである(換言すれば、教会の宣教、その牧師や神学者たちの思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、われわれ人間、教会、その牧師や神学者たちの「決定事項ではない」のである)。教会の牧師や神学者、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」のである。すなわち、(≪大学社会における神学者や教会にける牧師を含めた≫)教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や(≪牧師や≫)著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の(≪純粋なキリストにあっての神、純粋なキリストの福音を尋ね求める≫)教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。まさにこういう仕方でしか、この高度消費資本主義段階下、高度情報社会下においてはなおさらのこと、ただの人間・誰々神学者<教>、ただの人間・誰々牧師<教>等を増産し消費するだけのキリスト教の段階を克服し、更新された次の段階の本当のキリスト教へと移行することはできないのである。