『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 一 神の単一性と遍在」(その6-2)-2
『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 一 神の単一性と遍在」(その6-2)(16-33頁)
「三十一節 神の自由の様々な完全性 一 神の単一性と遍在」(その6-2)-2
われわれは、ここで、キリストにあっての「神はひとりの方であり給うという命題を、もっと深く基礎づけ」、「この命題の意味を、これまで為されたよりももっと根本的に、換言すればもっと厳密に詳細にわたって把握しようと試みなければならない」。われわれは、「神の単一性の概念」を、「先ず神の(≪完全な≫)自由の(≪自存性の≫)、換言すればそれ自身の中に基礎づけられ、そのようにして(≪神とは異なる≫)すべてのそのほかの存在に対して徹頭徹尾立ちまさった本質のひとつの規定として理解する」。ここで、われわれが、「神はひとりであり(≪神は「失われない単一性」を存在の本質とし≫)、神は独一無比であり、単純であり給うと……言う時、われわれは、別のものに対して単一性を帰している時とは……別のことを言っているのである」。何故ならば、その現にあるがままの現実的な人間存在の「われわれが単一性を帰することができるすべてのほかのもの」は、「そのものと比較」することができ・「そのものと一緒にひとつの種類に属しているひとつあるいは多くのもの」として、「ひとつあるいは多くのもの……と並んでのひとつのもの」だからである、「それは、ひとつの類の中の事例である」、それ故に「それは、ただ相対的に独一無比であるだけである」。この事例に対して、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された「神は、何かあるひとつの類の中での事例ではあり給わない」。言い換えれば、キリストにあっての神は、「いかなる概念をもってしても言い表すことができない」(下記の【注】を参照)「独一無比な……仕方で、すなわち神は絶対的な仕方で、独一無比であり給う」。また、神とは異なる「すべてのそのほかのものは、ただ相対的にだけ単純である」。しかし、キリストにあっての神は、「内的あるいは外的組み立てのいかなる可能性もない仕方で、単純であり給う」、「徹頭徹尾分けられない方であり給う」、すなわちキリストにあっての「神は、絶対的に単純であり給う」。このような訳で、キリストにあっての「神は、その独一無比性に関しても、その単純性に関しても、まことにひとつのものであるただひとりの方であり給う」、「失われない単一性」を存在の本質とし給う。この「神の単一性」は、「神の自由、神の自存性、神の神性である」。「われわれが、神に対して単一性、独一無比性、単純性を帰する時」、そこでは、「ただ神の神性だけが……大事であり得る」。したがって、われわれは、そのような「単一性、独一無比性、単純性」という「概念を用いて」、「ただ神の神性だけを……賛美しようと欲することができるのである」。したがってまた、われわれは、「それらの概念が徹頭徹尾神の神性を通して規定されていることを」、「また限界づけられていることを許容しなければならない」のである。したがってまた、われわれは、「逆に、神の神性が、われわれが自由に処理できる単一性、独一無比性、単純性の諸概念によって限界づけられることを許容してはならない」。何故ならば、キリストにあっての「神の完全性が問題である時、(≪神の神性が、単一性、独一無比性、単純性の概念を規定するという≫)主辞と賓辞の関係はひっくり返すことのできない関係」だからである(≪ちょうどイエス・キリストにおける啓示の真理・啓示の時間(救済史)は、人間における世俗的真理・人間の時間(歴史)の、「常に」、「外」・「彼岸」にあるというように、またちょうど神は人間と無限の質的差異にあるというように≫)。このことは、「神の自由のすべての規定におけると同じように、特に厳密に注意しなければならない」。何故ならば、「そうでなければ、われわれは、まさに神の尊厳性の秘義を敬おうと欲しながら、かえってそれを傷つけることになるであろう」からである。したがって、われわれは、キリストにあっての「神は、絶対的にひとりの方であると言わなければならない」、しかしイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての神は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方において三度別様に父、子、聖霊なる神――すなわち<三位一体の神>であるから、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」であるとは言えないのと同様に、「絶対的にひとりのものは神であると言うことはできない」のである。このことから、キリストにあっての神は、神の本質の区別を包括した単一性――すなわち「失われない単一性」(神の存在の本質のそれ)と「失われない差異性」(その本質の性質としての神の存在の仕方のそれ)との全体性において存在するイエス・キリストにおいて自己啓示された三位一体の神(聖書的啓示証言におけるそれ、それ故にその証言に信頼し固執し連帯した教会の宣教における三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である)という認識と信仰を後景へと退けたところでの、人間の自己意識・理性・思惟の類的活動によって対象化され客体化された形而上学的一面的固定的抽象的な<唯名論>的命題およびその対極にある<半唯名論>的命題(これら命題については、既に論述済である)の主張とは徹頭徹尾異なっているように、「まさに一神教そのものを、それとして光にあて、中心点に移したということから成り立っている」「イスラム教」のそれとも徹頭徹尾異なっていると言うことができる。したがって、このことから、「絶対的にひとりのもの」は、人間の自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって規定された神(ひとりの「存在者レベルでの神」)、対象化された人間の思惟能力の無限性や感情能力の無限性としてのひとりの「存在者レベルでの神」、「人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が現実化され対象化された」「絶対的な本質(存在者)」、「被造物的な単一性を……絶対化」した「神々のひとつ(≪一神、一神教≫)を思惟し、宣べ伝えるだけ」の「被造物的な単一性の映像である」。
【注】イエス・キリストにおける「神の自己啓示によれば、神は、神とは異なる実在の内部で、神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」。「よく注意せよ。それは、神の現実存在」を、それ故に神とは異なる「実在全体」(宇宙を含めた天然自然、自然の一部としての自己意識・理性・思惟を持った自己身体および他者身体、人間化された自然である人間的自然・非有機的身体)における「存在者レベルでの神」の現実存在をでは決してなくて、徹頭徹尾神「自ら証明する自由」における「存在者の存在」――すなわち「神の現実存在」(イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された三位一体の神の愛の行為の出来事としての神の存在、その起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――創造主・啓示者、父が子として自分を自分から区別したその第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――和解主・啓示、キリストにあっての神の「最高の法則であり、最後的な実在である」愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――救済主・啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・キリスト教に固有な類と歴史性)を「自ら証明する自由を持ち給う」ということである、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」ように。「それであるから、神のこの現実存在」が、「人間も属している……実在(≪天然自然、自然の一部である人間の自己身体および他者身体――この身体は身体を座とする自己意識・理性・思惟を持っている、感情能力・思惟能力・想像能力・表象能力を持っている、人間化された自然である人間的自然・非有機的身体≫)の中で、またその実在と異なるその全くの相違性の中で、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で≫)人間によって認識されることができる」のである。また、「それであるから」、「神の自己証明」が、それ自身聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を措定し、またそれを、われわれ人間の宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として措定し、またそれを、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「人間によって認識……承認」させ、「人間の認識行為の枠内で繰り返させる(≪媒介・反復させる≫)」のである、換言すればキリスト教に固有な類・歴史性を構成するのである。これらすべてのことは、「明らかに、(≪イエス・キリストにおける≫)神の啓示が起こり、信仰を造り出し、見出すことによって、起こるのである」、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)において起こるのである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会における宣教、その思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識(≪すなわち信仰≫)として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項なのであって、われわれ人間の決定事項ではない」のである。したがって、教会の宣教、その一つの機能である教義学の在り方 は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。したがってまた、人間学的神学者の日本基督教団立東京神学大学・実践神学者である小泉健が、同じ人間学的神学者の実践神学者であるルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」というように聖霊や聖霊の言葉を「わがまま勝手に」恣意的独善的に実体化させて述べていた時、中世的思考に退行して人間学に対する神学の優位性を主張していた小泉は、逆に神学に対する現存する人間学の優位性の陥穽に陥っているのである、換言すれば観念の遊びをしているだけなのである。実際的事実的には、自然神学としての神学と人間学との混合神学・人間学的神学は、近代以降においては、誰のそれであっても、現存する人間学に対して優位性を主張することはできないのである――「イエスの肉体に於いてインマヌエルの事実が始めて生成した」とするバルトに対して、その人間イエスの出来事・「イエス自身の言葉と行為」は、その源泉である「神われらとともにいます」という「根本的事実」・「インマヌエルの事実」から生成された「生ける徴」であって、第一次的なものではないから、バルトの「錯覚」でしかないと述べて、「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神において永遠に決定されていることなのだ(『カール・バルト研究』)と主張した人間学的あるいは哲学的神学者・滝沢克己の「インマヌエルの事実」という概念も、未だ区別や分節化がされていない未分化のままの総合や自然や宇宙の概念と呼んでもいいものであり、換言すれば人類史のアジア的段階における自然原理に依拠したものと呼んでもいいものであり、それ故に滝沢は、マルクスのように「自然」とは呼ばないで、自然神学の段階において、そうした自然あるいは宇宙を「根本的事実」・「インマヌエルの事実」としてキリスト教的に概念規定したのである、こういうことは自然神学の段階で停滞と循環を繰り返しているルドルフ・ブルトマン等々にも言えることであるから、ハイデッガーは、ブルトマン(その学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪結局は、現実化され対象化された人間の自己意識・理性・思惟の類的本質に過ぎない≫)存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)と述べたのである。
キリストにあっての神は、「それらすべてに対して……自由を持ち給う」、「その(≪イエス・キリストにおける≫)啓示の中で、ご自身で(≪現にあるところの方として、すなわち聖性・秘義性・隠蔽において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三つの存在の仕方において「三度別様」に、イエス・キリストの父・創造主・啓示者、子としてのイエス・キリスト自身・和解主・啓示、愛に基づく父と子の交わりである聖霊・救済主・啓示されてあること、としての三位一体の神として≫)事を初める自由を確証し、実証し給う」。この「神の自由」は、そのような「ご自身の現実存在そのものによって」、「ご自身の現実存在そのものの中で」(「父なる名の内三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互内在性」の中で)、「神の現実存在を基礎づける自由である」、神の「自存性」である。神「ご自身」が、この「神の自由を確証し実証するということ」は、このようにして、神と人間との無限の質的差異の下で、「神と異なっている」「実在の存在」の「ただ中において……起こるのである」。神は、このことを「証明する自由をその(≪イエス・キリストにおける≫)啓示の中で確証(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)し実証したもう」。このことが、「イスラエルの選びと支配の中であらかじめ示されたイエス・キリストにおける神の受肉(≪受肉は、決してその存在の本質としての神性の受肉ではなく、その第二の存在の仕方における言葉の受肉である≫)の自由、神の言葉の自由、神の霊の自由、神の恵みの自由である」。この神の「自由は、全線にわたって、(≪その自存性において≫)神が為し給う(≪常に先行する神の≫)存在証明……の自由である」。したがって、「すべての人間による神の存在証明」は、そしてそれが聖書的啓示証言におけるキリストにあっての「神の存在証明」であるとすれば、自己身体を座とする人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動の成果(例えば、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間論、コミュニケーション論等)を先行させても「絶対的」に不可能であるとすれば(何故ならば、単一性・神性・永遠性を本質とするキリストにあっての三位一体の神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在しており不把握性を本質としているから)、「ただその(≪「神が為し給う存在証明」の、完全に自由な自己証明の≫)後に従って」のみ為し得ることができるだけであり、その先行する「神が為し給う存在証明」に後続してはじめて、「(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)写し」、模写であることができるだけなのである(Ⅰコリント13・12)。したがって、それは、学業的学問的な「単なる知識」ではなく、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「認識」である――すなわち、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰である。
イエス・キリストにおいて自己啓示されたキリストにあっての神は、「被造物に対するご自身の意図の中で、決定的に、無限に違った仕方で現臨すべく自由であり給う」。したがって、「神と世界との関係と交わり」は、三位一体の「神がその永遠の存在の中で」、すなわち「父なる名の<内>三位一体的特殊性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とするその永遠の存在の中で、その完全な自由さ・自存性の中で、「また、外に向かってのその行為の中で」、すなわちイエス・キリストにおいて自己啓示された聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方(性質、働き、業と行為、完全に自由な神の愛の行為の出来事としての神の存在)であるイエス・キリストの父(創造主、啓示者、言葉の語り手)、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(和解主、啓示、語り手の言葉)、第三の存在の仕方である愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊(救済主、啓示されてあること、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)の中で、その完全な自由さ・自存性の中で――このような三つの存在の仕方の「失われない差異性」の中で「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする「一神」、「一人同一なる神」である(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)ことによって、「現にあるところの方」である。このキリストにあっての神は、神性の受肉では決してないところの起源的な第一の形態の神の言葉としてその「言葉の受肉の中で、人間性を神の永遠のみ子との一致の中へと、み子の神的な存在との交わりの中へと、一回的に無比な仕方で取り上げることの中で」、先ず以て「神の恵みのより広いみ国の中で、……教会と神の子らの生の中で」、すなわちイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された神の言葉の第二の形態である予言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備されたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書的啓示証言)の中で、あくまでもこの神の言葉に信頼し固執し連帯した教会の宣教としての「説教と聖礼典の力の中で」、「聖霊によって」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事(起源的な第一の形態の神の言葉の出来事、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で「人間が信仰へと新たに生まれる力の中で」、「また世界と人間の現実存在と具体的存在の」「中立的な実在であるところの」「創造、保持、支配の中で」、「さらにまた未来における完成(≪終末≫)の中で、(≪復活した≫)キリストの再臨の中で、死人の甦りの中で、最後の審判の中で」、それら個別的なすべての時空におけるイエス・キリストご自身の「それぞれ別な関係と交わりである」。「神は、預言者たち……(≪その人間性と共に神性を賦与され装備された聖書的啓示証言、神の言葉の第二の形態の≫)使徒たち……説教」・「聖礼典の中で」、「聖書……教会の教父たち、(≪教会の客観的な≫)信仰告白(≪および教義≫)の中で」、「それぞれ違った仕方で行動し、語り給い、また昨日と今日と明日とではそれぞれ違った仕方で行動し、語り給う」。「神は、天使たちとの関係と交わりの中では、……ほかの世界との関係と交わりの中でとは違った仕方で存在し、人間との関係と交わりの中では、そのほかの精神、自然の世界との関係と交わりの中でとは違った仕方で存在し、信仰者たちとの関係と交わりの中では、一般に人間との関係と交わりの中でとは違った仕方で存在し、教会史の中でと世界史そのものの中でとそれぞれ違った仕方で存在し、最後に天使一人一人、事物一つ一つ、人間一人一人、信仰者一人一人に対して、すべてのそのほかのものに相対する場合と、違った仕方で存在し給う」。これらは、そのすべての時空におけるイエス・キリストご自身の「それぞれ別な関係と交わり」における完全に自由な神の愛の行為の出来事としての神の存在である。しかし、このようなわれわれのための神としての「外に向っての神の行為の……無制限な個別的な取り扱い方だけが存在するのではなく、その根拠として」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神ご自身の存在と意志の中に、そのみ心の中に」、「父なる名の内三位一的」な、内在的な、すなわち起源的な第一の存在の仕方である父は子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源であり、それ故にその区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源であるというように、「神の決定と遂行の階級制度(≪秩序性≫)全体が存在している」のである。しかし、この場合、「神の決定と遂行の相違性」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「神の単一性を廃棄」しないのである。すなわち、その場合、それは、「自然力あるいは精神原理の単一性と区別された神的な単一性としての単一性(≪神の本質の区別を包括した単一性における単一性≫)を確証しているのである」。ちょうど、次のようにである――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異性がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。したがって、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の三つの存在の仕方の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」、「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において「第二の神的行為を遂行」したのである、すなわち完全に自由な神の存在としての第二の神的愛の行為の出来事を遂行したのである。この神の三つの存在の仕方「失われない差異性」における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者、言葉の語り手≫)と言葉(≪啓示、語り手の言葉≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父」に先行することはできないのである。しかし、父と子は共にその存在において「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているから、その従属的な関係は、存在の本質の差異性を意味しているのではなく、存在の仕方の差異性を意味しているのである、というように。したがって、人は、そのような「区別の満ち溢れの中で現にあるがままの一人の方である」という「神の自由」と「神の自己区別」に対して「拒否したり」・「反抗していないかどうかよく注意」しなければならないのである。何故ならば、「教会の教えの純粋性と充実のために中止されてはならない」ところの、そのことに対して拒否したり反抗したりする神学者や牧師の教会教義学における思惟と語りは、「思弁」であり、「許されざる単純化、神の偶像化を意味する」からである、「また、神の内在性のあの啓示された多様性の内の一つでも見逃し、否定し、消し去り、何らかの一般的なもの……に平均化することは、教会にとって、個々人の信仰にとって、またそのものの永遠の救いにとって、致命的なこと」だからである。言い換えれば、そこでの神は、対象化され客体化され神学者や牧師・人間自身の自己意識・理性・思惟の類的本質(意味世界、物語り)ではあっても、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯したキリストにあって神ではないからである。