2019年を迎えて考えたこと――対立的に構図された<ポピュリズムとエリート主義>の問題および<知識人――大衆>関係の諸問題
2019年を迎えて考えたこと――対立的に構図された<ポピュリズムとエリート主義>の問題および<知識人――大衆>関係の諸問題
(3−2)――<知識人――大多数の被支配としての大衆>関係の諸問題
「この(≪1960年5月20日の朝の出来事について、「私は新聞を見てがく然とした。興奮状態のまま満員電車に揺られ、話し相手を求めて会社にかけ込んだ。ところが……私の職場ではタダの一言も今回の政府の暴挙は話題にならなかった(中略)全くいつもとかわらぬ日常業務に浸った。(中略)ゆっくりとペンを走らせるのが、一番自然に思えてくるのだ。一言でいえば、企業体のもつ一種特有なムードに押されてしまったということだ」と書いたサラリーマン≫)レポートは、ビルの内側の動かない部分を遅れた部分とし、安保行動に参加した部分を進んだ部分として、前者を傍観者とみることの不当性を指摘している点で、市民・民主主義のどの思想家・知識人(その集団)の擬制をも超えている。しかし、このような実感的な「民主」を身につけながら、ビルの内側が現実の日本の経済を担った実務のプログラムが進行している場所であり、責任をとる場所であるというように……このレポートの筆者は実感的な<私的優先>感が、擬制の「民主」に傾いているちょうどそれだけ、自分の生活の生産を資本家的な<公益優先>のなかにのめりこませている」。ここでは、大衆が、本当の民主主義の契機となり得る民衆主体の「私的優先感」を実感しながら、その「民主」に擬制の「民主」を残存させている分だけ、企業組織内部で「公益」を「優先」させていく生活者大衆について語られている。この生活者大衆にも自立の課題があることが語られている。すなわち、大衆が国家を止揚し・無化し・死滅させるためには、「知識人を模倣することをやめるほかない」し、「公」よりも「私」を、「共同性」よりも「個体性」を、支配上層、知識人、政治家よりも自らを含めた大多数の被支配としての「民衆」(一般大衆)を優先させていくことが必要であることが語られている。
戦後知識人は、第一に「民主化の契機をもつがゆえに現行の憲法は擁護」されるべきだと考え社共の周辺に群がった「戦後民主主義者」と、第二に「『自由』の契機が少ないがゆえに、より『自由』な意志によって憲法は改定」されるべきだと考え自民の周辺に群がった「自由民主主義者」に大別できる。「現在の制度から提供されている機会を享受し、その可能性を最大限に活用する能力のない」丸山真男(「戦後民主主義」知識人、東大教授)によれば、大衆には未来を担当する能力がないとされる。しかし、その大衆は、「『現在の制度』を越える可能性を行為と理念によって持ちうるし、その大衆は『幻想』(≪観念・知識≫)をはなれた具体的な生活過程においては、丸山を凌ぐ優れた現実認識者であり得るのである。丸山の思考法は、知識人の思想的課題であり、また戦争があたえた最大の教訓である『大衆の原像をたえず自己思想のなかに繰り込む』という(≪観念・知識に重きを置く)知識人における思想の自立の課題を放棄すると同時に、それゆえに知識や知識的集団を大衆から閉じていく戦前期の様式に復古していく在り方である」。丸山は、戦前の知識人の存在様式を越えることなく、知識人における思想の自立の課題から遠ざかったのである。すなわち、知識を学業的学問的知識として知識内部に閉じたのである。また、竹内好の市民民主主義においては、「岸政権による安保単独採決からとつぜん独裁という概念がとびだす。そして、これに対立する概念として民主主義がとびだす。ブルジョアジーは独裁のために(≪擬制民主主義としての≫)議会民主主義をひつようとするということは、採決が紳士的におこなわれようが暴漢的におこなわれようが、それとは無関係であるという最小限度の常識がここでは奇妙な混乱をしめした。竹内好はここで独裁という概念と民主という概念に実体をつけずにひきまわしている。(中略)独裁とは具体的にどのような実体としてあらわれ、民主とはどのような実体としてあらわれるかという問題はぬけおちたのである」。ここで吉本は、第一に、「民主」の「実体」は大多数の被支配としての一般大衆にあることを述べている。第二に、戦後過程において、自由主義国家制度の成熟と資本主義制度の高度化により、大衆の意識内部に、「公」や「社会の利害」よりも「私」的利害を優先させていく「私」的利害の優先原理を浸透させていったことを述べている。それは、否定的側面と肯定的側面を持っているのであるが、その肯定的側面を「発展的に変形」すれば、革命の究極像としてある国家の死滅(無化)への契機となるものである。したがって、そのような日本の大衆の成熟を、戦後的価値として、観念・知識に重きを置く知識人が自らの思想に繰り込むところに思想の課題があることを述べている。この場合、否定的側面と肯定的側面を持った「私的利害の優先原理」は、相対的に評価できる戦後的価値であるから(相対的に評価できるというのは、個人主義は、他者を現実的に侵害しないところで成立するものであるが、「私的利害の優先原理」は利己主義化への否定的側面も持っているから)、またそれは革命の物質的基礎(革命的契機)であるから、それを戦後的価値として媒介しない限りは、擬制民主主義としての議会制民主主義を包括し止揚して・そこから超え出ることはできない。市民主義的知識人は、市民社会における個人の特殊原理としての「個人の原理はすべてに優先する」という。そして、その「個人の原理は国家の原理を超える」という。しかし、法的中枢の憲法規定における個人原理は、「恣意性のうえに成りたった個人原理、恣意的自由、(中略)のうえに成りたつ自由であるから、市民社会における個人の特殊原理を尊重するというのは、まさに(中略)近代国家の意識というもの、つまり近代国家というものを想定せずしては成りたたないもの」である。「そういう個人原理が近代国家の原理を超える」ことはあり得ない。何故ならば、近代国家なくして個人原理はないからである。近代国家、自由国家は、政教分離に基づく国家の宗教からの解放・国家の宗教からの自由を標榜する国家のことである。したがって、人間は社会的現実的に自由ではないし・解放されてはいないのである、それ故に人間は恣意的に自由であるに過ぎない。
「僕は……田川健三、宮内豊、土井淑平、彼らに代表される神学思想、エコロジー、左翼思想……に対して、全面否定を展開しようと思ってどっかに時間があったら、してみようと思ってきました。(中略)三者に共通しているところ(中略)それは何かっていうと、一つは、(中略)大多数の一般大衆といいましょうか、市民社会といいましょうか、その動向が不満であれ……市民社会の大多数を占めている(≪被支配としての≫)一般大衆の考えている事柄(≪いわば革命の物質的基礎・現実的な革命的契機ともいうべき、現存する市民社会の中枢にある経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく一般大衆の大衆像と大衆的課題≫)を自分の思想に繰り込むという考えが全くないことです。だから、(中略)こんなものはほんとは(≪まさにリアリティなき観念的な遊びであって≫)市民社会に通用しないっていうことです。この人たちに共通しているのは、(中略)大衆はこうであるに違いないという先験的な理念に左右されていることです。(中略)それからもう一ついいますと、この人たちが持っているのは、一種の党派的思想なんです。(中略)現在本当に党派的思想が成り立つのは、世界党派(世界権力)に対してだけだと思っています。(中略)一般大衆の党派性とは何かといえば、世界権力に対する党派性です。それ以外にない。それは一般大衆によって体現される究極の党派性(≪世界性を持つ生活の普遍性と生活の不可避性に生きる、生活に重きを置く大多数の被支配としての一般大衆における究極の党派性≫)です。この段階の課題は何かっていったら、大衆につくことです。(中略)国家と資本が対立した場面では、資本につくっていうのがいいんです。分かりますか。だから、国鉄(≪国有鉄道≫)が民営化分割されるっていうんだったら、原則としてその方が正しいんです(≪それ故に、総務省が所管する外郭団体である特殊法人のNHKも、放送されている内容や質が今や民間放送局と全く変わらなくなったから、民営化する方が正しい≫)。その方が大衆的なんです。(中略)今度は、資本と労働者、つまり組織労働者(総評みたいのでいいのですが)対立するときには、労働者につかなければいけないわけです。その先に、もう一つあります。組織労働者と一般大衆の間に利害の激しい対立が生じた場面では、(≪大多数の被支配としての≫)一般大衆につくのが、左翼思想の究極の姿なんです(≪何故ならば、革命の究極像は、観念の共同性を本質とする国家の止揚・無化・死滅を伴う、個体的自己としての全人間の、社会的な、すなわち現実的な、総体的永続的な解放にあるからである、宮沢賢治が『よだかの星』や『農業芸術概論要綱』で述べているように、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとならないし、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」からである≫)。(≪彼らには、≫)そういう原則的なことすら全然わかっていない(中略)」。
「おれは、『第三世界で飢えに苦しむ人がいるのに日本でチャラチャラ遊んでいるのは何事だ、というような議論は間違っている、なぜなら、一方は生産を主体に考えるべき地域の問題で、他方は消費を主体に考えるべき地域の問題だから』などといった覚えも、そんな『講演録』など出版した覚えもまったくない。(≪そのように浅田彰の述べていることは≫)完全なデマだ。ところでもっと許し難いのは『だけど、そういう日本の消費社会というのは、まさに第三世界の貧困の上に成り立っているわけでしょう』などと、まさにスターリニストと寸分ちがわないことを、レイレイしく口走ってることだ。現在第三世界だろうと(≪民族国家の枠組みを超えようとする試みであった≫)ヨーロッパ共同体(≪現在は欧州連合≫)の世界だろうと、世界史は依然として労働も労働力も、労働者もその交換も、主として(≪民族≫)国家(権力)の管制下に、国境によって区切られてしか、存在しない。この認識を抜きにして労働の移動や労働価値の不等価交換などをいくら論じたって、まったく無意味だということは自明なことだ。第三世界の貧困のギセイの上に日本のような先進資本主義国の民衆は『チャラチャラ遊んでいる』などという議論は、途方もない嘘で、第三世界の民衆の貧困は、第三世界の(≪民族≫)国家(権力)に第一の責任(≪その実体としての政府、支配上層に第一の責任≫)があり、日本の民衆が『チャラチャラ遊んで』いられるほど豊かである」とすれば、それは、「日本の(≪民族≫)国家(権力)に第一の責任(功績といってもいい) (≪しかし、現在、貧富の格差が拡大し、貧困にあえぐ人々が増加しているその第一の責任は、まさに日本の民族国家・権力にある、その実体としての政府、支配上層にある≫)があり、この二つの(≪民族≫)国家(権力)の皮膜を通過しないで、日本の民衆の繁栄と第三世界の民衆の飢えや貧困を連結するのはまったくホラだという議論なら、おれは埴谷雄高との論争でたしかにやった」。「日本の<天才>(≪学業の優等生≫)や頭脳流出組や頭脳往復組は、たった一年や二年ですぐにメッキが剥がれちゃって、ちゃちなことをいい出すんだからな。(中略)浅田彰が京大助手として『チャラチャラ遊んでい』られる給料は、おれたち<国民>の貢納的な税金の搾取の上に成り立っている。(中略)秀才ぶった馬鹿どもは、人類の叡智と民衆の解放の方向につくのではなくて、軽薄な党派的な心情の好悪に駆られて、けっして口走ってはいけないし、正義に守護されているとおもい込んで口走ってはならない虚偽を口走っているスターリニストの理論に媚を売っている。(中略)メッキが剥がれてゆく。(中略)かって中野重治や三好達治や小林秀雄のメッキが剥がれていった時期がいっせいにやってきたようにね」。「僕の考え方は、いわゆる大衆主義と違います。(中略)自分で大衆の場所に行くとか行かないとか(≪大衆と同化・同調・迎合するとか≫)というのが問題ではないのです。つまり、……大衆に同化する必要はない(≪大衆に同調・迎合する必要はない≫)。(≪この論述で何度も書いたように、≫)ただ違う場所の問題を含めて、自分の場所での課題に、あるべき大衆の課題をイメージとして繰り入れていかなければならない。(中略)大衆的な課題というのは、それぞれの時代や国家や社会の情勢の変化で違ってくるものです。しかし、その課題を繰り込んでいくということは、いつの時代でも変わることはありません。(中略)インテリがインテリでなくなったり、文学者が文学以外のことをしたりという考えは、全然意味がないと考えています。『自分のいる場所』――それは知識の場所とか、文学の場所とか政治の場所(≪とか、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としての神学の場所≫)でもいいのですが、……そういう自分の場所に、大衆がいま何を考えているのか、大衆の課題は何なのかというイメージを入れてみなければ駄目ではないか、と考えているのです。(中略)その自分の場所から見ることの社会と、その場所にいる課題を追求していけばいいのです。ただしそこで、大衆は大衆の場で何を考え、何を課題にしているのかを、自分の場所に翻訳して持ってきて、繰り込んでいけなかったら、どんな場所にいても、それは先細りになってしまう」。「国家」、具体的には「政府」、それ故に「日本国の政府の首脳たち」、支配上層、官僚・政治家について、「いざとなったら、本当にあてにならない」し、福田和也や小林よしのりが『私』よりも『公』のほうが大事だという場合も、「そこには迷妄とウソがある」。また、キリスト教会の世俗的な運動におけるそれを含めたあらゆる市民運動の欠陥およびその運動の信頼性のなさは、その運動の共同性とそのリーダーの大部分が、「職業的人間としてくりかえし日常生活を行うことによってしか、自分の生存をやっていけないということこそが、資本主義社会における平和というものの実体だということを自己思想のなかにくりこまない」ところにあり、資本主義は特権的な関係性の社会であるから「そこでは無意識のうちに特権性というものが前提されて」おり、市民運動の共同性やそのリーダーたちが、「職業的、日常的生活過程のくりかえししか生きていけない(≪経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく、思想にとっての普遍的な価値基準としての社会的存在の自然基底である≫)大衆の原型(≪大衆の原像、母胎、母型≫)を、自己思想」の中に繰り込めないところにある。市民運動やそのリーダーの大部分は、「ラディカルな運動(家)なら共産党、そうでなければ社民党の方針を正しいと思って(≪この著作が書かれた時の市民運動やそのリーダーの大部分の在り方≫)、その枠組みからはみ出さない」ようにして、大多数の被支配としての一般大衆に対して、自分たちの感覚で外部注入的に「不安感や恐怖感を作り出」し、「あらゆるこじつけを駆使して合理化し」、それに基づいて大衆を啓蒙しようとするところの、大衆から閉じられた知識・知識的集団・共同性を構成する。それに対して、自分たちの感覚で外部注入的に「不安感や恐怖感を作り出」さない在り方とは、例えば「原発の問題」について言えば、「技術的可能性によってしか原発の問題」は解消されない、という点にある。すなわち、それが肯定的側面と否定的側面とを持っているとしても、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としてある経済社会構成の拡大・高度化、科学・技術の進歩・発達、その知識の増大、そのことによる生活の利便性の向上というその「技術の中に思想を侵入させるべきではない」し、「思想の中に技術を侵入させるべきではない」、という点にある。灌漑用水等「純然たる<社会>問題は、巨大であればあるほど、最高の<政治>権力によってのみ解決されるというのが、アジア的様式の特徴」であるが、公害問題等「純然たる<社会>問題」の「解決の方法は社会過程にある。いいかえれば、市民社会のなかに、また、その核心である経済社会構成の個々の場面にある」。それは、社会過程の個々の技術的問題であり、個々の企業の予算化の問題である。産業廃棄物問題や生活ゴミ処理問題も同様である。核廃棄物も、一つの方法として安全性を科学的に確認したうえで「ロケットに乗せて宇宙」(最遠の宇宙)に棄てるという問題である。自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然から登場した地球温暖化問題の本質は、その自然史的必然を出自とした観念の共同性を本質とする法的制度的規制にはなく、現実的な企業や政府の環境保全予算に裏付けられた科学的技術的解決の問題である。したがって、それが為し得ていないとすれば、それは、企業や政府の環境保全予算の不措置の証左であり、企業や政府の責任の問題である。また技術的には、例えば「通常の植物に比べて、約5倍も二酸化炭素の吸収量の多い藻類の人工栽培技術の開発等の問題」である。大多数の被支配としての「一般大衆が歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき反物語はたくさんあるのです。意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒もふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかりです。知識は非知識より優るとか知識人(≪エリート≫)が非知識人(≪非エリート≫)を導くというようなかんがえ方は、絶対に転倒されなければいけないとおもいます。一般大衆が政治的政党の綱領に導かれていくこともまた転倒されるべきです」。(『思想の基準をめぐって』、『情況とはなにか』、『模写と鏡』、『情況とはなにかY』、『情況へ』、『マルクス―読みかえの方法』、『民主主義の神話――擬制の終焉』、『自立の思想的拠点』、『国家・家・大衆・知識人』、『いま、吉本隆明25時』、『遺書』、『超戦争論』、『大情況論』および吉本隆明・辻井喬『千九九〇年代の文化』等)。
親鸞の「非僧・非俗」における「非僧」は、「無」知ではなく「非」知である。人類史のアジア的段階における鎌倉時代においては、知識は宗教という形態をとり、僧は知識の担い手としての知識人・学者であった。親鸞はそうした僧・知識人から対象的になる思想的立場に立った。すなわち、親鸞は知識人として、観念・知識の「知」という往相的な自然過程に、「非」知という意識的自覚的な還相過程を導入したのである(『最後の親鸞』)。観念・知識は、学べば学ぶほど知識的に上昇し、「その時代の世界思想の最高水準」にまで至らざるを得ないものである。この意味で、親鸞は、人類史のアジア的段階における世界思想――浄土教理の尖端にまで到達したのである。人類史のアジア的段階が世界の全てであった鎌倉時代に生きた親鸞は、浄土教理(知識)において、アジア的段階の思想の枠組の中で「世界思想の最高水準」に到達したのである。「正定聚」の世界は、阿弥陀仏の本願力と称名念仏への信が確定したときに往ける死後における浄土(「真仏土」)概念に対する、「生きながらにして<浄土>への通路は実現されている」という意味での現世的な浄土概念におけるそれである(『親鸞の教理ついて』)。このような思想的立場に、既存の僧とは異なった親鸞の還相的・「非僧」的な在り方がある。「十方衆生」で、衆生はさまざまであるから、教理的浄土への観念的知識的な上昇である往相回向だけでなく、意識的自覚的な還相過程(還相回向)の視線が必要である。すなわち、念仏を称えても救われた実感や喜びが沸きあがってこない衆生の現実に対して、還相過程で答えを出し、救済への通路を敷いていく必要がある。そこに思想の意識的自覚的還相的な「究極の課題」がある。このような訳で、往相過程と還相過程を構造化でき得る場所が、「正定聚」の位置である。「人間に知識を追求していく過程があるとすると、知識に対して上昇的であったらそれは<往相>であって<還相>ではない(中略)もし知識を本当の知識として獲得できるとすれば、知識を獲得することが同時に反知識、非知識、あるいは不知識というものを包括」していなければならない。「知識を獲得すればするほど、知識でないものを包括」していかなければならない(『前掲書』)。したがって、観念・知識・教理の往相的な自然過程において、信的に上昇していけば行くほど、還相的な意識的自覚的過程において、不信を包括していかなければならない。このことを<大衆――知識人>関係に引き寄せて言えば、現存する経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく大多数の被支配としての一般大衆の大衆像や大衆的課題に意識的自覚的に下降していくところに観念・知識・思想の還相過程はあるから、知識人は、大衆に対する<教化>、<啓蒙>、<同調>、<同化>、<迎合>という概念を徹底的に放棄していかなければならないということである。何故ならば、それらの概念は、観念・知識の自然的な上昇過程(往相過程)からしか生まれてこないからである。観念・知識の自然的な上昇過程(往相過程)は、観念・知識の総体性(観念・知識・思想の往還、観念・知識・思想の往相過程と還相過程の総体性)に無自覚であるから、それ自体では知識的でも思想的でもないものなのである。言い換えれば、それは、ただ「知識が欲望する(≪観念・知識の≫)<自然>過程」にしかすぎないものなのである。したがって、その観念・知識の自然過程は、<他者>の現実的な根源にかかわることができない「往相、方便の世界」においてある知識である(『最後の親鸞』)。「知識の課題、つまり今日よりも明日知識がふえ……向上する……という問題(≪観念・知識の往相的な自然過程の問題≫)のなかに、大衆の原像(≪現存する経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく大多数の被支配としての一般大衆の大衆像や大衆的課題≫)を、(≪観念・知識の還相的な意識的自覚的な過程において≫)仏教的にいえば煩悩の旺盛な凡夫の課題をたえず繰り込んでいる、それが知識における<還相>の課題」である。「知識の課題は、けっして今日より明日向上したら……終わる」ものではないから、この「還相の課題」・「浄土の慈悲」に「永遠の課題」(究極の課題、総体的永続的な課題)があるのである。他方で、例えば公害問題は、自然史の一部である人類史の自然史的過程における技術的な「緊急の課題」として、科学・技術の進歩・発展という観念・知識の自然的な往相過程で技術的に解消していくべき課題である(何故ならば、科学・技術の発達、その知識の増大は、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としてあるものであるから)。このような「往相の課題」・「聖道の慈悲」に、「緊急の課題」・過渡的課題・部分的課題がある(『未来の親鸞』)。
さて、「<衆生>とは、たんに<僧>たるものが<知>の放棄によって近づいていく生やさしい存在」ではない。言い換えれば、「非僧」とは、「<俗>ではなく<非俗>である」(『最後の親鸞』)という俗と非俗とを架橋する思想において自立する知識人の在り方のことである。また、「非俗」とは、自然なあるがままの「煩悩具足の凡夫」がそのままで「煩悩具足の凡夫」ではない、という意識的な自覚化にある。何故ならば、生活(生活思想)の自然過程は、「煩悩具足の凡夫」・大衆原像からの逸脱としてあるからである。したがって、あるがままの「煩悩具足の凡夫」自体に対して「逆向きに対自的にならなければ」<非俗>にはなり得ないのである。
思想は、僧と俗、信と不信との空隙を埋め架橋するところに登場する。「親鸞の浄土真宗の信仰」を、「信仰」としてではなく「思想」として扱えば、「浄土真宗は信・不信にかかわらず全部の人(≪一切の衆生≫)をおおうことができる」(『親鸞復興』)思想である。すなわち、親鸞における浄土真宗の教義は、信と不信の枠組みを解体することで、信と不信の空隙を埋めていく思想である。言い換えれば、既存の僧や俗の間で流通している観念・知識や価値観から対象的になって、その外へ出たということである。それは例えば具体的な行為としては、妻帯禁止や肉食禁止という僧の戒律を破ることであり、他方では、知識や富や地位を得ることは価値があることで善いことである、という市民社会的な常識や価値観から対象的になって、それらの外に出ることでもある(『今に生きる親鸞』)。ここには、知識の往相的な自然過程(意味性)と知識の還相的な意識的自覚的過程(価値性)という知識の総体的構造の把握が展開されている――「<知識>にとって最後の課題は、頂を極め、その頂に人々を誘って蒙を開くことではない。頂を極め、その頂から世界を見おろすことでもない。頂を極め、(≪観念・知識・教理の意識的な還相過程において≫)そのまま寂に<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば(≪意識的≫)自覚的に<非知>に向かって還流するよりほか仕方がない」のである、「親鸞は、<知>の頂を極めたところで、かぎりなく<非知>に近づいてゆく還相の<知>をしきりに説いているようにみえる」、「ここには往相浄土だけでなく、還相浄土のことが云われている。念仏によって浄土を志向したものは、仏になって浄土から還ってこなければならない。そのとき相対的な慈悲は、絶対的な慈悲に変容している。なぜなら、往相が自然的な上昇であるのに、還相は自覚的な下降だからである。自然過程にあるとき、世界はすべて相対的である。よりおおくの慈悲や同情や救済を差し出すこともできるし、よりすくない慈悲や救済をさし出すこともできる。しかし、さし出された慈悲が、実現するかしないか、有効か否かは、慈悲をさし出す側にも、慈悲を受け取る側にもかかわりがない。ただ相対的であるこの現世に根拠があるだけである。自覚的な還相過程では、慈悲をさし出すものは、慈悲を受けとるものと同一化される。慈悲をさし出すことは、慈悲を受けとることであり、(中略)衆生でないことが、衆生であることである」(『最後の親鸞』)。