2019年を迎えて考えたこと――「世も末」、政治家たちの実態、擬制民主主義としての議会制民主主義の実態
2019年を迎えて考えたこと――「世も末」、政治家たちの実態、擬制民主主義としての議会制民主主義の実態
(2−1)――「逮捕者26人の『関西生コン』は『辻元清美』のスポンサーだった!?」
デイリー新聞新潮(2018年12月20日)によれば、辻元清美は、次のような人物ということである――「生コン業界の労組『全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部』の逮捕者26人は、恐喝未遂や威力業務妨害」の「容疑」で捕まった。しかし、「そんなコワモテも、彼女(≪立憲民主党の辻元清美国対委員長≫)には連帯感を抱くらしい」。「『近年、警察は彼らに手を焼いていましたが、今夏から順次、大阪府警と滋賀県警が逮捕しました』、また『生コン業界の“ドン”と呼ばれる執行委員長の武建一』は、『政治家のカネも票も握っているとされます』と、『社会部デスク』は言う。「政治部記者の話」によれば、「彼女が公に関係を認めることはありませんけれど、1999年の辻元氏の政治資金管理団体『ポリティカ=きよみと市民』の収支報告書には、関西生コンがパーティー券50万円分を購入したことが記載されている。翌2000年にも、幹部2人が計100万円の寄付をしていることが記載」されている、また「それ以降、関西生コンは、収支報告書に出てこないが、『国対委員長は決して、“関西生コンとの関係はない”と言わない』」から、「それが、両者の関係が続いている、スポンサーである証拠だと見る政界関係者は多い」。「ならば、関西生コンは辻元議員をどうとらえているのか。幹部が軒並み逮捕されたものの、関係者の言葉は力強い。『運動面で、彼女も含めて当時の民主党とか社民党とかの方と、お付き合いさせてもらってます。組織としては献金できませんが、運動面で協力させてもらってます。個人で献金している者がいるかどうか? 個人的には、いてますよ』」。「運動面とは? 『たとえば演説するときにみんなで聞きに行くとか、声を上げるとかそういうことさせてもらいます。怒鳴り散らすとかじゃなくね』。『辻元』の名は口にしなかったものの、関係を認めた格好だ」。このような「辻元議員のことを、『そんなことだから、世論の支持が得られないんです』と、政治アナリストの伊藤惇夫氏が指摘する」。これが、表向きは平和や国民の幸福を標榜しているのだが、裏では権力、金、(自分の歳費、報酬を含めた)既得権益の保持にだけに尽力する擬制民主主義としての議会制民主主義下のわが日本の議会政治家たちの実態である。
(2−2)――文春オンライン、「片山さつき政治資金で『入浴剤』爆買いと500万円不正計上疑惑」
前述したように、表向きは平和や国民の幸福を標榜しているのだが、裏では権力、金、(自分の歳費、報酬を含めた)既得権益の保持にだけに尽力する擬制民主主義としての議会制民主主義下のわが日本の議会政治家たちは、辻元だけではない。「週刊文春」10月18日発売号によれば、片山さつきは、次のような人物ということである――「『国税100万円口利き疑惑』を皮切りに、片山さつき地方創生担当大臣(59)の疑惑が噴出。特に政治資金をめぐる疑惑は尽きず、収支報告書の訂正は40カ所以上、総額は500万円を超えている。そしてまた『週刊文春』の取材によって、新たに2つの疑惑が発覚した。100円ショップで3万円を超える支出。洗顔シートなども政治資金で購入、1つめは、政治資金の私的流用疑惑。情報公開請求によって入手した片山氏の資金管理団体『山桜会』の領収書によれば、2014年2月、12月の2度にわたって、浜松市内の100円ショップに22890円、10800円を支出している。だが領収書の品目には「きぐるみアザラシバスボール」など10個の入浴剤、『開運だるま貯金箱』など5個の貯金箱、『ヒアルロン酸ウェットティッシュ』や洗顔シートなど28パックといった、政治活動と無関係と思える商品名が列挙されている」。「『山桜会』の政治資金収支報告書を確認すると、名目は『消耗品代』『お土産用袋代』として、まとめて記載されていた。キャラクターグッズがお好み? 2つめは、膨大な領収書の不正計上疑惑だ。たとえば、2014年の『自民党浜松支部』が発行した6万円の領収書の宛名は、『片山さつき後援会』。つまり、片山氏の政治団体『片山さつき後援会』から『自民党浜松支部』に6万円が支払われたことを示す領収書だ。だが、当の『片山さつき後援会』の収支報告書には記載がない。一方、『山桜会』には6万円の記載があるのだ。このように領収書の宛名などに『片山さつき後援会』と記載されているにも関わらず、別の政治団体である『山桜会』に計上されている領収書などは、2014年から2015年にかけて実に約130件、金額にして約550万円にも上る。民間の商取引では考えられない経理処理だ。『山桜会』に付け替えられた領収書」。「政治資金に詳しい神戸学院大学の上脇博之教授はこう指摘する。『収支報告書記載の根拠となっている領収書の宛先が別の政治団体というのは、政治資金規正法を遵守する気がないと言っていいでしょう。今回のケースは収支報告書の虚偽記載となります。仮に領収書がウソのものだった場合でも、提出すべき領収書を徴収できなかった不徴収ということになり、これも政治資金規正法違反の疑いがあります』」。また、「事務所費の架空計上の疑い」――「使用実態のない事務所費の計上問題もあり、このことについても、政治資金に詳しい神戸学院大学の上脇博之教授が言う。『事務所としての使用実態がないのであれば、賃料を政党支部で支払う義務がなく(「150万5千円」の内の「90万円は、政党交付金、つまり税金から支払われている」)、虚偽記載が疑われます』」。
(2−3)――「河野大臣が代表を務める政治団体『河野太郎事務所』の収支報告書」
デイリー新潮(2019年1月7日)によれば、河野太郎は、次のような人物ということである――「河野大臣が代表を務める政治団体『河野太郎事務所』の収支報告書を見てみると、飲食店の領収書がやたらと目に付く。それらは『事務所費』という項目の中に『食事代』として計上されている」。「総務省が作成した『収支報告の手引』によれば、事務所費とは『事務所の維持に通常必要とされるもの』と定義され、例として挙げられているのは事務所の家賃、火災保険料、電話料金など」である。しかし、食事代として、「例えば、牛丼並盛が380円の吉野家で1万円を超す支出」されている、「実に28人もの胃袋を満たす食事代だ。いったい河野事務所には何人の職員が働いているのだろう」、「あるいは神奈川県平塚市内の、大臣の自宅にほど近い寿司店。……お造りや握りにビールと味噌汁も付けて7千円弱。味は抜群。年数回、こんな“福利厚生”にありつけるとは、ホワイトな事務所である」、「赤坂ではリブロースステーキに換算して1600グラムほどの肉を平らげ、築地のイタリア料理店では24万円分の大宴会。同店ではお1人様1万円ほどでコース料理を楽しめるから、やはり河野事務所は相当な大所帯のようだ。時には、事務所から遠く離れた千葉のファミレスまで“遠征”することも」。「外遊帰りの大臣に、事務所を維持する上でのステーキの重要性について問うたが、空港では完全無視。後で電話取材に応じたものの、『法に則って適正に処理している、それ以上は答えない』の一点張り」。<ザル法>でしかない「政治資金規正法は、金の出処を規制する一方、使い道は問わない。ですので、これらの食事代も実は違法とは言えないのです」が、「多すぎると舛添前都知事のように公私混同を疑われることも。李下に冠を正さず、と言いますしね(日大法学部の岩井奉信教授)」。大多数の被支配としての一般大衆が、貧富の格差の拡大と、貧困者の増大という厳しい現実の中で生きることが強いられているにもかかわらず、こういう連中がほとんどの擬制民主主義でしかない議会制民主主義の下で、馬鹿げた出鱈目な政治が行われているのである。本当は、本質的に、貧富の格差の拡大と、貧困者の増大は、国家支配上層の責任なのである、ちょうど財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は全面的に官僚・政治家、政府支配上層にあるように、それ故に名古屋市長の河村たかしが指摘していたように消費税増税は本末転倒も甚だしいように。このように多くの事柄が無茶苦茶に処理され動かされている。
これらのことは、氷山の一角であって、どの政党もあるいはどの議員も、受けがいいから、表向きは平和や国民の幸福を標榜しながら、裏では権力、金、(自分の歳費、報酬を含めた)既得権益の保持にだけに尽力する擬制民主主義としての議会制民主主義下のわが日本の議会政治政党や議会政治家たちの実態である。このような連中がほとんどを占める議会制民主主義の下では、大多数の被支配としての一般大衆・一般国民・一般市民の幸福や平和(戦争の廃絶、民族国家の葬送の問題)を実現できる政治が行えないことは自明なことなのである。このような訳で、衆議院議員を目指した横粂勝仁や名古屋市長の河村たかしのような議員を見つけ出すのは難しいのである。権力欲・金欲・既得権益欲から対象的になって距離を取っている横粂勝仁や名古屋市長の河村たかしのような議員あるいはそういう議員たちの政党であるならば、相対的にではあるが、ある程度は将来に期待を持てるような気がするが……。したがって、支持する政党や議員がいないと判断したならば、投票行動ではなく、棄権行動(一つの抗議行動)を選択する以外にはないのである。
先に書いたことと少し関わることであるが、昨年、北宋の真宗および仁宗時代に実在した一人の官僚・政治家である包拯(包公・包青天)を主人公とした中国58集連続ドラマ『開封府』(中国語は美しいという意味だけでなく、作品的に、絶対に、中国語版、字幕・日本語、で観るべき作品)を観た。私は、今年72歳になんなんとする者であるが、私にとって今までこれほど面白い連続ドラマを観たことはなかった。当然にも革命の究極像――人間を現実的に、すなわち社会的に究極的総体的永続的に解放するための観念の共同性を本質とする国家の無化という問題は扱われていないのであるが、権謀術数の渦巻く宮廷の中で翻弄されて生きることが強いられている様々な人たちの生と死(その理不尽な生と死を含めて)を扱いながら、一方で官僚・政治家である主人公・包拯と范仲淹が、民の幸福を第一に考え法や政策によって、権力・金・既得権益の保持のために不正・不法を働く国にはびこる官僚・政治家たちを一掃しようと尽力する、という物語である、しかし結局最後的には、ハッピーエンドに終わらず、その尽力は徒労(尽力者・范仲淹の左遷)に終わる、という物語である。このドラマの面白さの質的な良さと高さの根拠は、脚本家や監督(演出家)や役者たち(演技の修練を積み重ねながら演技力を高めていることが良く分かる演技をしている)の総体的なそれぞれの質の良さと高さにあると思う(ただ、仁宗の実母役の演技は、観ている側に、その母性が自然な演技にまで昇華されていないと感じさせるものだった。何度か登場するのであるが、観ていていつもそう感じた)。いずれにしても、この作品は、洗練されたユーモアも所々に置き、男女関係もさらりとした映像に仕上げ(すなわち、男女関係の身体表現をねちっこい映像に仕上げることをせず、不要な部分をそぎ落とした映像に仕上げ)、ドラマの展開のさせ方も抜群に良く、監督(演出家)や自然の演技にまで昇華させた子役を含めたそれぞれの役者の質の良さと高さも十分感じさせ、それ故に涙を誘うに十分な感動もさせ、終わらせ方も非常に良い作品であった。私にとってはこのことは確信を持って言えることであるが、現在の大衆的人気(共同幻想)やメディア的後光(組織性)にだけ依存しがちな日本の脚本家や監督(演出家)や役者たちでは、『開封府』のような脚本も監督(演出)も演技もできないに違いないと思った。かつてテレビを観ていたら、何か健康に関する番組かで流された映像を観ている場面で、「誰か」が、主役よりも脇役の方が上手いと言った時に、渡辺徹がそのことを否定していたのだが、私は逆にその「誰か」の意見の方が正しいと思ったことをよく覚えている。事実、その脇役の演技は上手だった。司馬遼太郎の『燃えよ剣』や『新撰組血風録』は映画やテレビドラマにもなってし、私もテレビで数度観たが、その役を演じた多くの役者(その中にはメジャーな役者もいた)の中で、役者としてのメディア的位置づけはメジャーではなかったと思う栗塚旭(土方歳三役)、舟橋元(近藤勇役)、島田順二(沖田総司役)、左右田一平等の演技は、その質の高さと良さにおいて、メジャーな役者のそれよりも断然よかったということを、すなわち自然な演技にまで昇華させたその質の良さと高さを持っていたことをよく覚えている。