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『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-1)-2

カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(下)』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-1)-2(3-16頁)

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-1)-2

 

 「昔の教会において為された……神の単純性のための戦い」は、「三位一体性の認識およびイエス・キリストの中での神性と人間性の間の関係の認識のための戦いと同一であった」。「その当時、教会は、神のみ子と聖霊が父と本質が同一である(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質する≫)ことに照らして、またイエス・キリストの中で神的性質が人間的性質と分けられない・しかしまた混同され得ない仕方で一つである単一性(≪イエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする三位一体の神の「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方である、この神の本質の区別を包括した単一性、神の本質の単一性と区別≫)に照らして、神の単純性を明らかにしたし、また逆に」、神は「全き、分割されない仕方で、ご自身であり給う」、また「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする三位一体の神はその三つの存在の仕方である「父、子、聖霊の神的位格の相違性の中ででも、ひとりの方であり給う」という神の「単純性に照らして、神的本質の中でみ子と聖霊が同じ本質を持ち給うこととイエス・キリストの中での両性が一つである単一性を明らかにした」のである。「事柄に目を向けるならば、ここでは完全な一致が成り立っている。三位一体の神の単一性、イエス・キリストにあっての神のみ子が、人間(≪その存在の仕方における、神の子の受肉・言葉の受肉≫)と一つである単純性」――これこそが、「神の単純性である」、神は「全き、分割されない仕方で、ご自身であり給う」、また「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする三位一体の神はその三つの存在の仕方である「父、子、聖霊の神的位格の相違性の中ででも、ひとりの方であり給う」。「このことが単純ナ性質である。スナワチ、ソレガ失イウル何モ持ッテオラズ、持ッテイルコトトソレノ内容ガ別デナイトイウコトデアル……それ故に、またこのことの中で神は単純デあり給う。スナワチ、神ニトッテ存在スルコトト生キルコトガ(アタカモ神ニトッテ生キナイデ存在スルコトガデキルカノヨウニ)別ナコトデハナク、マタ神ニトッテ生イキルコトト理解スルコトガ(アタカモ理解スルコトナシニ生キルコトガデキルカノヨウニ)別ナコトデハナク、マタ神ニトッテ理解スルコトト聖福ノ状態ニアルコトガ(アタカモ聖福ノ状態ニアルコトナシニ理解スルコトガデキルカノヨウニ)別ナコトデハナク、ムシロ神ニトッテ生キルコト、理解スルコト、聖福ノ状態ニアルコトハ生キルコトデアルトイウコトデアル(アウグスティヌス)」。また「カンタベリーのアンセルムスこう述べている」――「神の中ではソレラノウチノドノ一ツモスベテ(ソレガ同時ニトラレヨウト別々ニトラレヨウト、スベテ)と同ジデアル……然ラバ、汝ハ如何ニシテコノヨウナ全部デアリ給ウカ。ソレトモソレラハ汝ノ部分デアルノカ、或ハムシロソレラノ何レノ一ツデモ、汝ガアリ給ウトコロノ全体デアルノカ。ケダシオオヨソ部分ノ結合ニヨッテ成立ッテイルモノハ、全然、一デハナク、何ラカノ意味デ多デアリ、ソレ自体ト相違シ、且ツ現実ニオイテカ、或ハ知性ニヨッテカ、トモカク分解セラレルコトガデキルカラデアル。シカシコレハ、ヨリ善ナルモノガ決シテ考エラレ得ナイトコロノ汝トハ相容レナイ。ソレ故ニ汝ノ中ニハ如何ナル部分モナク、主ヨ、マタ汝ハ多デモマシマサズ、如何ナル点ニオイテモ汝自身ニ似ザルトコロノナイホド、シカシ全ク一ニシテ、汝自身ト同一デアリ給ウ。否、汝ハ如何ナル知性ニヨッテモ分解セラレ得ザル統一ソノモノデアリ給ウ」、「あるいは一種の数学さえも持ち出しながら、点ノ中デノ点ハ全クタダノ点デシカナイ。(場所的に、あるいは時間的に理解された)その点ハ、ソノ方(神)ノ永遠性ヲ瞑想スルノニ少ナカラズ役立ツ若干ノ類似性ヲモッテイル」。「これと似たような基礎づけと説明の仕方をもって」、「古プロテスタントの正統主義」における「例えばJ・ヴォレプ」は、「神の単純性」について、「単純性ハ、ソレニヨッテ神ガイカナル構成モナシニ、マコトニ存在スル一者デアルトシテ認識サレルトコロノモノデアル」というように定義している。われわれは、「これらの思想の歩みの論理学、形而上学、数学に対して」、「次の理由で、まじり気のない喜びをもって読むわけにはいかない」。何故ならば、それらの認識は、起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの)、その第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)、またそれに信頼し固執し連帯した教会の宣教における「三位一体論とキリスト論の神からして考えられ、議論されるのではなく」、人間の自己意識・理性・思惟の類的活動において対象化された「マコトナル唯一ノ実体という一般的な概念からして、考えられ議論されている……」からである、また「そのように把握された神論の神概念から」、「古プロテスタント主義の教義学のこの部分を疑いもなく特徴づけ、その弱さを形作っている特有な光沢のなさと形態のなさが固有なものとして身についてしまわざるを得ない属性論を基礎づけるに当たって、(≪神の単純性の認識の非聖書的な、それ故に「非キリスト教的な基礎づけの宿命的な帰結である≫)あの唯名論と半唯名論(≪下記【注】を参照≫)にまで来てしまったからである」。したがって、われわれは、神の単純性の認識を、「もっと明瞭な仕方で、聖書的に、それ故にキリスト教的に(≪キリスト教に固有な類・歴史性に基づいて、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその最初の直接的な第一の聖書的啓示証言に基づいて≫)基礎づけなければならないであろう」。この神の単純性の認識は、「それとして、神の独一無比性の基礎づけとして、神の完全性の相違性と単一性(≪神の本質の区別を包括した単一性≫)の説明として、最後に神と被造物の関係を理解してゆくための標準として、放棄されてはならない強固な地盤の上に立っている」のである。

 

 

【注】バルトは、すでに、「神の完全性の多数性、個別性、相違性の真理」を、「その唯名論的な否定およびその半唯名論的な緩和……と対決しつつ」、次のような「三つの説明的な命題の中で展開」している。
 聖書的啓示証言「Ⅰコリント二・八、ヤコブ二・一によれば、イエス・キリスト」は、「<栄光>(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)の<主>であり給う」――「そのような方として、認識され承認され」ている。しかし、このことは、「自明的ではない」。すなわち、このことは、「常に」、主と栄光とを切り離して認識する「切り離し」の「危険」性に曝されている、一面あるいは部分を拡大鏡にかけて全体化する「危険」性に曝されている、一面あるいは部分を抽象して形而上学的固定的に論じる思惟と語りの「危険」性に曝されている。
 第一に、神は、その<栄光>を後景へと退けられた仕方で、「<主>として、点的にあるいは線的に見られ理解される……」というようにである、換言すれば神は、先行するわれわれ人間の「定義に従って、過度に愛し、過度に自由な仕方で存在」し、「そのようなものとして……集約的な……また無限に狭い本質」――すなわちそのようなものが、「多種多様の動きを持った世を、特に人間」を、「相対して持つようになり、それとの関係の中で(≪神は後続的に≫)自分自身動きを受け取ることでもって初めて生きたものとなり、そこで初めてわれわれにとって、内容充実、具象性、明瞭性、それと共に実在性を得て来る本質として見られ理解される」というようにである。したがって、ここでの「神的対処の仕方」は、「神の性質の中に基礎づけられ」た常に先行する神の「本来的な」「神的対処の仕方」ではないところの、換言すれば「経綸」――すなわち徹頭徹尾、存在的にも、認識的にも、内在的にも、外在的にも、その完全さ・その自由さにおいて常に先行するところの、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(啓示者・創造主・その全き自由の愛の行為の出来事としての神の存在)、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(啓示・和解主・起源的な第一の形態の神の言葉、その全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在)、愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方である聖霊(啓示されてあること・救済主・その全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在)なる神の「本来的な」「神的対処の仕方」ではないところの、われわれ人間「自身の性質の中に基礎づけられている一種の神的対処の仕方」(人間が、<主>として先行した、すなわち人間的理性や人間的欲求が対象化した「存在者レベルでの神」の対処の仕方、「対策的な経綸」、その神の名と呼びかけによる救いや平和や幸福の企て)なのである、それ故に常に先行する神の「本来的な」「神的対処の仕方」(性質、動き、働き、業、行為、行動)を後景へと退けた停止させたそれなのである。このように、「もしも(≪自存性としてのキリストにあっての≫)神が栄光の主であり給わないならば」、またキリストにあっての神がわれわれ人間の「言葉のすべての比喩的な性質にもかかわらず、何の留保もなしに事実います」というのでないならば、またキリストにあっての神が「ただ単に(≪われわれのための神として≫)われわれにとってだけでなく、また(≪ご自身の中での神として≫)自分自身の中ででもいます」というのでないならば(「神の内三位一体的父の名」、「父なる名の内三位一体的特殊性」、「三位相互内在性」として存在していないならば)、換言すればキリストにあっての神が、存在的にも認識的にも、内在的にも外在的にも、その全き自由・自存性において「います」と言うのでないならば、「そのことは、神を信じる信仰にとって危険なことであり、最後的な根底において致命的なことである……」のである。したがって、「聖書は、われわれに対して」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストを、その完全さ・自由さにおいて、「<栄光>の<主>であり給う」というように、その「全体性」・総体性・神の本質の区別を包括した単一性神の本質の単一性と区別の中で証ししているのである。すなわち、聖書的啓示証言は、われわれに対して、「神の栄光を証しすることによって、まさに(≪イエス・キリストが≫)栄光に満ちた方……として本来的なまことの神(≪旧約聖書における「ヤハウェ」、新約聖書における神・「テオス」あるいは主・「キュリオス」≫)であることを証ししている」のである。このようにして、「聖書は、われわれを、(≪あのキリスト教に固有な起源的な第一の形態の神の言葉自身の自己運動・自己展開・時間累積、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)神ご自身を信じる真剣な、本来的な信仰へと呼び出す」のである。このような訳で、「<主>がその<栄光>と一つであるというこの聖書的な単一性(≪イエス・キリストは、「<栄光>の<主>であり給う」という「全体性」≫)を証しし記述することが、神的完全性についての教説の課題」なのである。
 第二に、「神の<栄光>(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)は、(≪『福音と律法』によれば、神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求という「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」によって≫)分散され、解消され、<主>のない仕方で、見られ理解される」という、「危険」性に曝されている、換言すれば「神の栄光」は、キリストにあっての「神自身と関わり」のない、その「神性と関わり」のない、「表向き」だけの「神の栄光」、すなわち「実際には」、「人間的な願望と恐れの客体化された投影としての世的な世」、「結局はそのほかの世および人間自身と比べて何ら遜色のない仕方での……世的な世」、人間自身による「理念の力、支配、支配の力、権力の世」であるという、「危険」性に曝されている。したがって、その場合、神は、人間の身体および精神を介した普遍的で実践的な類的活動、人間の自己意識・理性・思惟の類的活動によって対象化された類的本質を「主人」・主とする、それ故に主なしにも、「神なしにも、神的なものである」ところの、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「あらゆる種類の表向き最高のもの、最後的なもの」でしかないものなのである、人間自身が対象化し客体化した「存在者レベルでの神」でしかないものなのである、自然史の一部である人類史の自然史的過程における経済社会構成の拡大・高度化、科学・技術の進歩・発達に基づく人間にとって部分でしかない経済分野あるいは科学分野を全体化し絶対化した近代の宗教的形態としての経済主義あるいは科学主義でしかないものなのである。もしもこのような栄光が「神の栄光である」としたならば、それ故にその「名目上の礼拝、名目上の敬虔性」は、「奴隷的束縛を意味している……」と言うことができるのである、それ故にその場合「われわれの服従」は、その「背後に……(≪キリストにあっての神への≫)反逆」を潜ませているのである。したがって、「ここでもまた、もしも(≪キリストにあっての≫)神が栄光の主であり給わないならば」、また「天上においても、地上においても、まことに栄光であり給わないならば」、それ故に「力、善、義、知恵等であることができるすべてが神ご自身とは違っておらず、ほかならぬ神ご自身であるということに対する保証を持っていない」ならば、「そのことは(≪「イエス・キリストの名」にのみ感謝をもって信頼し固執する≫)信仰にとって危険なことであり、最後的には致命的なこと」なのである。したがってまた、最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての神の言葉の第二の形態である「聖書は、われわれに対して、神の栄光を証しすることによって」、「神のすべての栄光は、栄光の主としての(≪キリストにあっての≫)神ご自身の中に集中され、集約され、統一されている」ということを証ししているのである、それ故に人間の書かれた歴史に登場する「あらゆる種類の主権者」・「主人たち」、「世界史的個人」、さまざまな「神の代理者および奉仕者」を証ししているのではないのである(Ⅰコリント3・21-23――「ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」および3・11――単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」、栄光の主としての<純粋>な「イエス・キリストの名」、その<純粋>なキリストの福音、その<純粋>なキリストにあっての神を証ししているのである)。このような訳で、われわれは、「聖書の中で、……神が全く特定の性質、完全性の満ち溢れを持ち給うことによって」、「決してそれとしてのそれらの性質あるいは完全性そのもの(≪内在的な単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互内在性」≫)と関わるのではなく」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(創造主・啓示者)、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(和解主・啓示)、第三の存在の仕方である父と子の交わりとしての聖霊(救済主・啓示されてあること)なる全き自由の神の存在としての神の愛の行為の出来事――この「神の性質あるいは完全性としてのそれらのもの」と、そして「そのようにして常に直接神ご自身と関わらなければならない」のである。単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示は、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである、そのような信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を要求する啓示なのである。したがって、「聖書は、……(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化された≫)あらゆる種類の最高のものおよび最後的なものを肯定することからは成り立って」いるのではないのである。そうではなくて、聖書的啓示証言は、われわれを、ただ起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動・自己展開・時間累積、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「唯一の、まことの、われわれに対して立てられた(≪「神ご自身においてのみ実在であり真理である」自由・自存性・≫)主権の肯定(≪それ故に「奴隷的な屈従とは何らかかわりのない、いかなる恐れをも、……また反逆のいかなる萌芽をも、自分の中に含んでいない肯定」≫)から成り立っている信仰へと呼び覚ますことができる」のである。したがって、「この主に対する反逆」は、「ただ奴隷状態、名目だけの礼拝、(神の栄光でないところの拡散した栄光にわれわれが捧げるべきだと考える)名目だけの敬虔性」に、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に退行する形でだけ・「逆戻りする形でだけ存在する」のである。このような訳で、「すべての栄光がそれの主と一つであるという聖書的な単一性(≪イエス・キリストは、「<栄光>の<主>であり給う」という「全体性」≫)を記述してゆくこと」――このことが、「別な側面から見て、神の完全性についての教説の課題である」。
 「われわれは、この事柄(≪前述した第一と第二の事柄≫)において、三位一体論の関心事と、正確に平行的な事象と関わらなければならない……」。したがって、「栄光の主」は、「三つの存在の仕方の中での一人の神」(換言すれば「三神」・「三つの神性」・「三つの対象」・「三つの神的我」では決してないところの、「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神)と「対応している」ということに、「よく注意」しなければならないのである。したがってまた、「三つの存在の仕方を、ただ単に様態論の意味で経綸的に理解」したら誤謬に陥るのであって、あくまでも単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(創造主・啓示者)、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(和解主・啓示)、第三の存在の仕方である愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊(救済主・啓示されてあること)なる神の存在としての神の愛の行為の出来事、「まさにそのみ業の経綸の中での神的現臨と働きの真剣さに対応しつつ、(≪三位一体の神として、すなわち「失われない単一性」を本質とする≫)一人の永遠的な神ご自身の(≪「失われない差異性」における父、子、聖霊という三つの≫)存在の仕方として理解することが決定的に重要である」ということに、「よく注意」しなければならないのである。このような訳で、キリストにあっての神のその栄光・その完全性は、「神に固有な」三つの存在の仕方のそれであるということを、また同時的に、その「全体性」において、「神に固有な」存在の本質の、すなわち「永遠の」それであるということを「認識することが決定的に重要」なことなのである。神の言葉の第三の形態に属する全く人間的なイエス・キリストをのみ主・頭とする教会にとっては、「神の栄光とその完全性を、ただ単にそれだけでそれとして理解する」だけでなく、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「(その方だけがその栄光とそれらの完全性をまことの栄光として構成させ、啓示し、確認することができる主の)栄光として理解することが決定的に重要」なことなのである。その教会にとっては、「神の性質あるいは完全性は、言わば神的な言葉の文字である。したがって、ただ(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいた≫)それらの文字のつながりと統一を通してだけ」、「それらのつながりと統一の中でだけ」、「それらの文字は(≪起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動・自己展開・時間累積における≫)言葉(≪起源的な第一の形態の言葉であるイエス・キリスト自身、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯したところの、第三の形態における全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)であることができる」のである。このような訳で、「神の完全性についての教説は、一歩ごとに、ただ神の本質についての教説の展開と確認から成り立っている……」。「われわれは、事実、ただ神は(≪自存性として≫)自由の中で愛する方であると続けて言うことができるだけである……。しかし、神の完全性についての教説の中では、まさに神の本質についての教説の、この展開と確認にまで、……来なければならないのである」。

 

 さて、「失われない単一性」(神の存在の本質のそれ)と「失われない差異性」(神の存在の仕方のそれ)との全体性において存在するイエス・キリストにおいて自己啓示された三位一体の神について、差異性・「相違性が、客観的に神ご自身の中に存在しているということ」は否定されるべきだとして前者だけを形而上学的一面的固定的に抽象して(一面だけを拡大鏡にかけて全体化し絶対化して)それだけが「唯一の本来的な(神の存在の)表示」であると理解したために、それ故に「神の完全性」の「差異性」・「相違性」としての「多数性」・「個別性」は、「非本来的なもの」として「キリスト教的神論の中で、広い戦線にわたって多かれ少なかれ首尾一貫して、……事柄において明確に否定されてきた」。しかし、聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)の完全さ・自由さにおいて「三度別様」にイエス・キリストの父(創造主・啓示者・起源的な第一の存在の仕方における全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在)、子としてのイエス・キリスト自身(和解主・啓示・第二の存在の仕方における全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在)、愛に基づく父と子の交わりである聖霊(救済主・啓示されてあること・第三の存在の仕方における全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在)なる神であって、その神の愛の行為の出来事としての神の存在は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である、それ故に決して「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」・「三つの神性」ではないのである。したがって、われわれは、「性質の多様性」を、「神の本質の単一性と対立」させ「非本来的なものとして」主張すべきではないのであり、また「神の本質の単一性」を、「それだけが唯一の本来的な(神の存在の)表示として主張」すべきではないのである。言い換えれば、神の本質の区別を包括した単一性、神の本質の単一性と区別、神の本質の「全体性」という認識、思惟と語りを求められているのである。

 

唯名論的な命題と半唯名論的な命題について――
 「失われない単一性」(神の存在の本質のそれ)と「失われない差異性」(その本質の性質としての神の存在の仕方のそれ)との全体性において存在するイエス・キリストにおいて自己啓示された三位一体の神(聖書的啓示証言における、それ故に教会の宣教におけるこの三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である)という認識と信仰を後継へと退けた「極端な対立」の主張は、「古代においては、エウノミオスによって、中世においてはウィルヘルム・v・オッカムおよびカブリエル・ビエルによって代表された厳格な<唯名論>的命題」に見ることができる。エウノミオスによれば、「神は事実ただ裸ノ本質(≪神の本質は、概念的に、第一義的、最後的、本来的に「単純なものである」という事柄の不可避性から、「そのほかのすべての言明は、認容、単に副次的な意味でだけ有効な真理の性格以外の性格を持つことができない固有ナコトである神の裸の本質」、神の本質そのもの≫)として言い表される」、また「教皇ヨハネス二二世に非教会的な教えとして断罪された」「マイステル・エックハルト」によれば、「神ゴ自身ノ中デハイカナル区別モアリ得ナイシ、イカナル区別モ認識サレ得ナイ」と言い表された、また同じようにシュライエルマッヘルによれば、「われわれが神(その方の本質は、彼によれば、原因性の中で尽されてしまう……神)に帰するすべての性質(≪「差異性」・「相違性」としての「多数性」と「個別性」≫)は、神の中での特別なものを言い表しておらず、……ただ宗教的な自己意識の様々な段階において、絶対依存の感情を神に関連づける際の関連の付け方における特別なことを言い表している」とされる、またR・ゼーベルクによれば、「神の絶対的な単一性に対応しつつ、われわれは、性質(≪「差異性」・「相違性」としての「多数性」と「個別性」≫)の中に、それ自身徹底的に単一的な神性の(われわれの思惟にとって避けることのできない)表現以外の何ものも見て取ることないであろう」、と言い表される。このように、彼らの言明は、内在的な「失われない単一性」と「失われない差異性」との全体性として存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互内在性」の「否定」性にある。
 しかし、「神学的伝統の主な流れ」は、前述したような「厳格な唯名論とは違って」、「神の完全性」の「多数性についての言明」は、「われわれ(≪われわれ人間、すなわち神の自由・自存性・内在性を後景へと退けたところの、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動における認識主体≫)の神認識についての言明である……ということの方に、強調点が置かれている」(<半唯名論>的命題)。「イレナエウスは、神の(≪多数性の≫)性質」を、「『人間ニトッテ神ニツイテ聞キ、語ルコトガ可能デアリ、フサワシイモノデアル限リ、ソノヨウナ完全サノ名』のことであると定義した」。「トマス・アクィナスは、……神ニツイテ語ルニアタッテ、ソノ自存性ヲ表示スルタメニハ、具体名辞ヲ用イルノデアッテ、ソレハ、ワレワレノ世界ニオイテハ自存シテイルノハ複合的ナモノノミデシカナイカラデアル。ソシテ、他方、神ノ単純性ヲ表示スルタメニハ、ワレワレハ抽象名辞ヲ用イルノガ常デアル。ダカラ、タトエ『神性』トカ『生命』トカ何ラカコウシタモノガ神ノウチニアルトイワレルコトガアッテモ、コウシタ措辞ハ要スルニ、ワレワレノ知性ガ神ヲドウ取ルカノ相違ニ起因スルモノと解サレルベキデアッテ、決シテ事柄ソノモノニオケル何ラカノ相違ニ基ヅクモノトサレルベキデハナイ」、「イマ、ソレ自ラニオイテ考エラレル限リ神ハ完全ニ一ナル者、単純ナル者であるが、然シナガラ、ワレワレノ知性ハ、神ヲソレ自ラニオイテアルガママニ見ルコトガデキナイタメ、様々ナ観念ニ従ッテコレヲ認識スル。ダガ、タトエ、神ヲ捉エルノニ様々なナ観念ノモトニオイテスルトハイエ、知性ハヤハリ、単一ニシテ同一ナ単純ナモノガコレラスベテノ観念ニ対応シテイルモノナルコトヲ認識シテイル」、「チョウド様々ナ事物ガ、神デアリ給ウ単一ナモノニ、様々ナ形ヲ通シテ似ニセラレルヨウニ、ワレワレノ理解ハ様々ナ概念ヲ通シテ、ヒトツノ単一ナモノニイクラカ似サセラレル。……ソレ故ニヒトツノモノニ関シテ多クニコトヲ理解スルワレワレノ理解ハイツワリデモナケレバ空シクモナイ。何故ナラバ、アノ単一ナモノガ神的デアル際ノ固有ナ在リ方カラシテ多種多様ノ形に従ッテソレラノ概念ハソノモノニ似サセラレルコトガデキルカラデアル」、と述べている。このような訳で、「ポラーヌスは、……神ノ本質的ナ性質ハ、(実際ニ区別サレルノデハナイヨウニ)事物の本性カラシテ区別サレルノデハナク、……理性ニヨッテ区別サレル。更ニモットヨイ言イ方ヲスレバ、ワレワレノ概念ト理解デモッテ、アルイハワレワレノ認識ノ仕方ニシタガッテ、区別サレル」、と述べている。また、「クエンシュテットは、ワレワレノ有限ナ理解ハ、神ノ無限ナ、最モ単純ナ本質ヲ、ヒトツノ全キ概念ヲ用イテ全キ仕方デ心ニ思イ浮カベルコトガデキナイノデ、ソコデワレワレノ理解ハ、ソレヲ不完全ナ仕方デ表示シテイル様々ナ、不十分ナ概念ヲ用イテ神ノ本質ヲ把握スル。ソレラノ不十分ナ概念ハ、神ノ性質オヨビ属性ト呼バレル」、と述べている。「ヴェークシャイダー」は、これらの不完全な仕方での、不十分な認識、概念構成について、人間的「精神ノ虚弱サ」に根拠づけている。これらの言明の「強調点は、……神ご自身が、その性質のあの多様性の中で認識されることによって、身を落としてわれわれに合わせ、われわれの認識能力に適合し給うたということの上に置かれた。このことを、「ダマスコのヨハネは、……神は名を持ち給わない、『しかし、善意からして、われわれに対応させつつ、ご自分を呼ばしめ給う』」、と述べている。このような訳で、「カルヴァンは、……神の性質は、『神ガ神自身トシテ何デアルカ』デハナク、『ワレワレニ対シテ何デアルカ』を語っている」、「ソノタメ、神ニツイテノコノヨウナ認識ハ、空虚デ見掛ケ倒シノ思弁ヨリモ、ムシロ生キ生キシタ感動ノウチニアル」、と述べている。このような訳で、「ヴォレプは、……神的ナ属性ハ……ソレニヨッテゴ自身ヲ虚弱ナワレワレニ対シテ認識スベク提示シ、マタ被造物カラ区別サレル神ノ性質ノコトデアル」、と述べている。また、「C・I・ニッチ」は、「神の性質は、自己意識および世界意識の運動および変化を契機に、性質として開示される」、と述べた。このように「それとしての神の性質そのものを……主張しようと望んだ」「これらすべての命題の背後」には、「唯名論的な背景および意味」が隠れているのである(<半唯名論>命題)。「トマス・アクィナス」はもちろんのこと、「シュライエルマッヘルもそのことをしているのであり」、その「地盤の上に身を置いたプロテスタント正統主義はなおさらそうなのである」。これらの言明はすべて、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたところの、内在的な「失われない単一性」と「失われない差異性」との全体性(神の本質の区別を包括した単一性、神の本質の単一性と区別)として存在している、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の<内>三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互<内在性>」を、後景へと退けているのである。したがって、それらの言明においては、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする聖性・秘義性・隠蔽性において存在する神の不把握性ということに対する、それ故にそのことに基づく終末論的限界ということに対する認識と承認と自覚が欠けているのである。したがってまた、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、復活したキリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動・自己展開、その時間性としてのキリスト教に固有な類の歴史性(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてのみ終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に対する認識と承認と自覚が欠けているのである。こうした中で、クエンシュテットは、「神ノ属性ハワレワレノスベテノ知的活動以前ニ、神ノ中デマコトデアリ、固有ナモノデアルという命題……でもって唯名論的な根本的な見方」を「見かけ上だけ破砕」したのである。ここで「見かけ上だけ破砕」という意味は、その命題の主張には一貫性がなかったからである。すなわち、クエンシュテットは、この命題を「翻して、……モシモワレワレガ、本来的ニ、正確ニ語ロウト欲スルナラバ、神ハイカナル固有性モオモチニナラズ、……事実的ナ区別モ、イカナル(事柄ニシロ流儀ニシロ)合成モユルサナイ純粋ナ、最モ単純ナ本質……デアリ給ウ。何故ナラバ、ワレワレハマコトニ最モ単純ナ神ノ本質ヲヒトツノ全キ概念ヲ用シテ完全ナ仕方デ心ニ思イ浮カベルコトハデキナイカラデアル。ソレ故ニ、不十分ナ仕方デ神ノ本質ヲ表示シテイル不十分ナ、様々ナ(……属性ト呼バレル)概念ヲ用イテ不十分ナ仕方デ神ノ本質ヲ理解スル。ソノヨウニワレワレノ理解ハ、事柄ノ側カラハ区別サレテイナイコトヲ区別スル」、と述べているからである。何故こうなってしまうかと言えば、彼らは、人間の側からする、神と人間との混淆・混合(神の人間化あるいは人間の神化)、神学と人間学との混淆・混合(人間学的神学)を志向し目指しているからである、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を志向し目指しているからである。ポラーヌスも、クエンシュテットと同じ轍を踏んでいる。ポラーヌスは、「神ノ本質的ナ性質ハ永遠カラ永遠ニワタッテ神ノ中ニアル……神ノ本質ヨリモ後デアルトイウコトハナイ。何故ナラバ、ソレラハソレ自体デ同一ダカラデアル……。神ノ本質的ナ固有性ナシニハ、神ハ(ゴ自身ナシニ存在サレナイヨウニ)存在スルコトガデキナイ」と述べながら、「その後直ちに(≪この命題を翻して≫)、……本来的ニ言ウナラバ、神ノ中ニハ多クノ性質ガアルノデナク、タダヒトツノ性質ガアルダケデアル。ソレハ、神ノ本質ソノモノ以外ノ何モノデモナイ。……シカシワレワレノコトヲ顧慮シテ、アタカモ多クノ性質ガアルカノヨウニ言ワレル。ソレハ、ワレワレノ中ニ多クノ性質ガアルカラデアル」、と述べている。このような訳で、「ペトロス・v・マストリヒトも、……ワレワレガマズ第一ニ神ノ本質ヲ……ソコカラ属性ガ出テクル根ノヨウニ理解スル限リ、属性ハ神トアタカモ言ワバ第二ノ本質ニオイテ合致スルヨウニ、神ニ合致スル。何故ナラバ、ワレワレハ、神ハアワレミアリ、智恵ニ富ミ、正シイ方デアルト理解スルコトガデキル前ニ、神ハ存在スルト理解スルカラデアル」、と述べている。「この認識ノ方法は、<事柄ノ中ニ含マレルスベテノ基礎>(≪このことは、「トマスの後に続いたカトリックの教義の中でも……多くのことが語られた」≫)ヲ欠イテイナイ」・「ただ単に人間の情に合わせてだけでなく、マコトニ、固有ナ仕方デ、神の性質について語るべき権利と必然性を基礎づけた」が、「しかしながらこの基礎ということで何が理解されるべきであるかについて、人は、立ち入って説明しようとしなかった」し、「そのことを立ち入って説明することはできなかった」。何故ならば、「神の本質ということで……それとしての神の本質essentiaそのものが、換言すれば根本においては結局……それが単純なものであるということが概念的に見て第一のこと、最後的なこと、本来的なことであり、この事柄において語られなければならず、それに相対してすべてのそのほかの言明は、認容、単に副次的な意味でだけ有効な真理の性格以外の性格を持つことができない固有ナコトである神の裸ノ本質が理解されなければならないという前提が確立されていたからである」。「ポラーヌス、クエンシュテット、v・マストリヒト」たちは、「聖書が性質的に規定された神の本質について語った際の重要な意味づけに対して公正であろうと努力した」のであるが、すなわち「神ノ独自ナ性質は神の本質の属性アルイハ偶性ではなく、この本質そのものであるという命題は、まさに昔の属性論の中心命題として言い表わ」すことができるのであるが、「この命題の解釈は、……全線にわたって独自ナ性質に不利な仕方で為された」のである。言い換えれば、「独自ナ性質がその本来性(≪「失われない差異性」≫)を、最後的には本質(≪「失われない単一性」≫)を有利にする仕方で」喪失させてしまったのである。したがって、その「命題の解釈」は、「それに対するわれわれの関係の中に基礎づけられているとして説明されたのである」。「人が、神の本質を、あの純然たる存在の中に見出すと考えたということは、人が、彼の神概念を(≪「神論の決定的に重要な構成要素」であり「啓示の認識原理」である聖書的啓示証言における≫)三位一体論から定義せずに、……一般的な神概念(人間的理性や人間的欲求やによって規定された神としての、すなわち「偶像」としての「古代ストアおよび新プラトン主義の神概念」、すなわち人間自身が対象化し客体化した「存在者レベルでの神」)からして定義したということ」であり、それ故に「そのことが、……悪い報いを受けたのである」。<悪しき>成果でしかなかったということを自己暴露したのである。「アウグスティヌスも、多様(≪「主的であること」、父、子、聖霊という「失われない差異性」の中での「三度別様」な「存在の仕方」――すなわち全き自由の「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の父・子・聖霊なる神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)ノ単純性(≪「主」、「本質」、全き自由の「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神≫)あるいは単純ナ多様性についてのその言葉でもって、……主と主的であること、主的であることと主との間の神の中にあり勝利を収める単一性を実り豊かなものとすることはできなかった」。彼らは、その一面を形而上学的固定的に抽象し全体化(絶対化)する原理的な根本的包括的な誤謬に陥ってしまったのである。このように、「神的な性質」を徹頭徹尾内在的に神の側に神の自存性に根拠づけられずに、「非本来的ニ解釈」したが故に、「D・F・シュトラウスがあざけったように、『不幸な真中』に身を置いたということは、……否定されるべきもないことなのである」、ちょうどキリスト教信仰・神学・教会の宣教は、「哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、……哲学的試みが終わるところから始まる」のであり、「方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」にも拘わらず、「新約聖書の釈義に役立つ新しい鍵」を前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマンが、当然にもハイデッガー自身から「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」と「揶揄」・批判されたように。

 

 このような訳で、「十九世紀におけるドイツの神学者の内のある者たち(≪F・H・R・フランク、G・トマジウス、J・A・ドルナー≫)」が、前述したような「<全面的な唯名論>と原則的に手を切っただけでなく」、「<トマス的およびプロテスタント的――正統主義的な伝承の半唯名論>とも原則的に手を切ったということは、彼らの名誉となることである」――「F・H・R・フランク」は、キリスト教「信仰は、もしも神に対して永遠性と全能と神聖性の属性を神にとって<客観的>に固有なものとして帰さないとしたら、神を全く、現実のもの、絶対的なもの、一つのものとして承認していないことになろう」、「これらの性質についての教義学的な把握」は、一方での、「多種多様な性質、そしてその概念によれば一つのものに帰せられてしまうことのない性質(≪総括的に言えば、「失われない差異性」の中で「三度別様」にイエス・キリストの父――「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方・創造主・啓示者、子としてのイエス・キリスト自身――父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方・和解主・啓示、聖霊――愛に基づく父と子の交わり・救済主・啓示されてあること、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)としての属性の<客観的>な現実性」と、他方での、「それへと性質が遡っている、否、それらの性質をまさにその多種多様性の中で現にあるところのものにするところの神の破壊されることのない単一性(≪総括的に言えば、全き自由の聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない単一性」≫)」が、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、「認識にとって姿を現わし、互いに矛盾することなしに結び合わされる時にだけ、信仰の意識に対応する」ことができる、と述べている。また、「G・トマジウス」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神の性質は、神の本質以外の何ものでもないという命題は正しい」、「またそれらの性質(≪全き自由の神の存在としての多種多様な神の愛の行為の出来事≫)の中で他者に対する神の関係が知らされるというもう一つ別な命題も正しい」、「しかし、これら二つの命題は互いに『あたかも他者に対する神の関係がそれらの性質の中で告げ知らされるが故に、それらの性質はそれだけ僅かに神的本質であるとかあるいは全く神的本質でないとか』」と、「『二つの命題を対置させることは正しくない』」と述べているし、「『あたかもそれらの属性が事実神的本質であり、また神的本質を表現しているということによって』」、自由・自存性として、対自的で自在な「失われない単一性」という命題と対他的で他在な「他者に対する神の関係」性としての「失われない差異性」(多種多様性)という命題を、これら『二つの命題を、対置させることは正しくない』」。「『何故ならば、もしもそれらの属性がそもそも神的性質であり、神的であるすべてのものが神にとって、神自身ではないほかのものから成長してくるものでないならば、それらの属性は、どうしても神的本質に属しており、神的本質を構成し、表示していなければならないからである』、『もしも神がただ世との関係の中に立ち給うだけであれば、また神の性質はすべてただ外に向かっての関係、啓示、活動の仕方でしかない。……このような見方は、神が世に依存し給わない神の独立性(≪キリストにあっての神の全き自由・自存性≫)を危うくする。何故ならば、その時、神は世との関係を通して初めて現にあるところのものとなるからである。……しかし、(≪自存性として、全き自由の「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互内在性」としての≫)ご自身に対する神の関係があるのである』」、それ故にわれわれは、「『まさに、そのことの上に、神の内在的なあるいは本質的な性質を確認』」していく作業(聖書的啓示証言で、イエス・キリストにおいて自己啓示された「失われない差異性」と「失われない単一性」との全体性において存在する三位一体の神を「神論の決定的に重要な要素」・「啓示の認識原理」として、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を志向し目指していく作業)をしていかなければならないのである、と述べている。これと「同じ正しい線上で、J・A・ドルナーも、……『もしも神がわれわれに対して、そのご自身の中での存在(≪全き自由の「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互内在性」としての神ご自身の中での存在≫)についての知識を与えることができず、あるいは与えようと欲せられず、ただ世界の中での神の存在についての知識だけを与えることができ、与えようと欲せられるならば、神は、世界の中で――(≪その場合、神は、≫)ご自身を啓示されないのであるから――必然的にご自身以外のほかのものを啓示』」することになってしまう、しかし「『神は現にあるのと違った仕方に見えることを欲し給うことができず、また二元論的な力が彼の啓示意志を妨げることもないので、ただ……神ご自身の啓示の中で、(神が現にないところのもの、そのようではないところのものについてではなく)神が現にあり給うこと、現にどのようであり給うかについての啓示を見てとることしか残っていない』。……(≪このことが、≫)われわれがこれからさらに思惟をすすめてゆかなければならない線である」。言い換えれば、第三の形態に属する全く人間的な教会のわれわれは、神の側の真実としてある、それ故に客観的な現実性としてある・「永遠的実在として」ある、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和・幸福そのものであるイエス・キリストにおける客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動・自己展開・時間累積、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与える力等を自ら保持しているところの、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示(具体的には、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、神の言葉の第二の形態である聖書的啓示証言)をわれわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに絶えず繰り返し聞き教えられことを通して教えるということしか残っていないのである。