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2019年を迎えて考えたこと――通用しなくなった経験則、貧富の格差の拡大と貧困者の増大

2019年を迎えて考えたこと――通用しなくなった経験則、貧富の格差の拡大と貧困者の増大

 

 太宰治は、『右大臣実朝』で、暗さを包括していない「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ(≪暗さを包括していない「アカルサ」は、「ホロビノ姿デアロウ」≫)。人モ家モ、暗イウチハ(≪明るさを包括した暗さをあるいは暗さを包括した明るさを認識し自覚しているうちは≫)マダ滅亡セヌ」、人や家の日々の生活日常について、人は、笑いの背後に涙をあるいは明るさの背後に暗さを認識し自覚していなければならない、というように書いた。しかし、現存する社会やその中枢にある経済社会構成が様々な場面で深刻な状況のただ中にあるのに、何故か人々が架空の時空の明るさの中で生きているように、異常に明るいし、軽薄に明るいように感じられる。私にはそのように感じられ、現存する様々なことに対して異和を感じてしまう。このような訳で、下記の記述は、そういう私の実感に基づいて書かれている。

 

(1−1)「大卒22歳で『人生決まらない』時代に生きる術」の記事について――
 東洋経済オンライン(2018年12月16日)によれば、かつては「企業の大半が終身雇用を原則としていたため、社員に不安を感じさせることはなかった」し、年功序列型賃金体系の下で概ね将来設計を見通すことができた。その意味で、人類史のアジア的段階の日本における良き伝統であった終身雇用制と年功序列型賃金制(日本企業における終身雇用と年功序列の人事給与制度)が衰退・解体してしまった現在、大多数の被支配としての一般大衆に、不確実性と「不安」のただ中を生きることを強いている。戦後過程における自由主義国家制度の成熟と資本主義制度の高度化は、人々の間に恣意的自由と私的利害(近代市民社会における「私意・私利」の精神)の優先意識を生み落としたが、それは、必然的に、家族や地域や職場等における関係意識の衰退・解体、人類史のアジア的段階における相互扶助意識の衰退・解体をも惹き起こすことになった(それ故に、軽薄な明るさの下、メディアで流通している何かにつけ付加される絆や恩返しや感謝はその裏返された表現であると言える)。本当のことを言えば、日本の労働者は、全労働者の問題(全労働者全体が幸福とならなければ本当の幸福とはならないという問題、もっと敷衍して言えば世界性を持つ生活の普遍性と生活の不可避性を生きる大多数の被支配としての一般大衆全体が幸福にならなければ本当の幸福とはならないという問題)として、相互扶助意識に基づいた相互了解・相互承認の下で日本の良き人事給与制度を破壊するのではなく発展的に変形させるべきだったのである――「もしもロシアが世界において孤立しているとしたら、ロシアは、西ヨーロッパが原始共同社会の存在以来現状にいたるまでの長い一連の発展を経過してはじめて獲得した経済的征服を、独力でつくりあげなければならないであろう。(中略)しかし、……、ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的(≪人類史のアジア的段階における相互扶助意識等の肯定的側面≫)である形態を破壊しないで、それを発展させ変形することができる」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)。
 いずれにしても、現在、現存する「この時代を生きるほとんどの人たちが、将来に対して漠たる不安を抱いている」。「1991年のバブル崩壊以降、リストラという名の人員削減は、中小企業のみならず大企業においても珍しいことではなくなった。2008年のリーマンショックの際にも多くの企業が倒産し、会社の存続のため大幅な人員削減が実施」された。「契約社員や非正規社員という雇用形態が常態化し、長期の安定した雇用を保証されないまま、不安定な立場で働く人はいまや勤労者の4割近く。しかもその数は、年々増加の傾向にある」。「それだけではない。AI(人工知能)技術とロボット技術の発展により、近い将来には機械が人間の仕事を代替するようになり、多くの人が職を失うという予測もある」。人は、「そもそも大企業に勤めていたとしても、必ずしも安泰」ではない時代を生きることを強いられている。このような時代状況の中で、今や、貧富の格差は拡大し、貧困者は増大し、バブル崩壊前の9割前後以上の人々が日本の良き伝統の人事給与制度の下で中流意識を持ち得て社会が安定していた時代は終わってしまった。
 さて、この記者(その記者が依拠したビジネス本の著者)は言う。タイトルの「22歳で人生は決まらない」ということには、「2つの意味」があって、「新卒で希望通りの会社に就職できたとしても、それで人生が安泰」な訳ではない(悲観性)という意味と、「不本意な就職をしたとしても逆転のチャンスはいくらでもやってくる」(楽観性)という意味である。すなわち、「希望が失われた時代にも希望はある」。したがって、この記者は、往相的な楽観性の側面にだけ依拠して、「誰であれ、仕事を通して成長する『機会と場』を得ることさえできれば、必ず成長することができる。成長することができれば働き続けることができる」と書いている。しかし、人は、個、対(その対なる観念から疎外される対的共同性としての家族)、共同性(社会、そこから疎外される観念の共同性を本質とする法的政治的国家)という人間存在の三様式(下記の【注】を参照)を生きるのであって、それ故に企業組織・企業労働の中でだけ生きているわけではないし、企業組織・企業労働においてだけ成長するわけではないにも拘らず、この記者は、人間にとって一部分でしかない企業組織・企業労働(共同性)に対する至上意識から個体性を超えたところでそう書いているのである。この記事を書いた記者は、人間の存在様式の一部分だけを抽象して、そしてその部分を全体化し、企業共同性を価値化して、形而上学的抽象的な思惟と語りをしているのである。すなわち、次のようにである――エンジニアの派遣会社・「メイテックの<エンジニア>たちは、メイテックの社員であるものの、実際に働いているのは派遣先の企業」である、「派遣社員として働きながら、プロのエンジニアとして成長してきた人たち」である、「力が認められなければ契約を打ち切られることになるのだから、つねに緊張感と背中合わせである(≪私から見れば、この言葉から読み取ることができるのは、利潤追求のために働かされているということ、余裕がないということ、酷使されているということ、無茶苦茶大変だなということ、疲弊してしまうだろうなということ、そういうことしか感じ取ることはできない、「希望」なんて少しも感じられない≫)」、「また、3〜4年のローテーションで職場を転々とすることになるため、数年ごとに転職を繰り返しているようなものでもある。しかし、だからこそ、ちょっとやそっとでは倒れることのない強さが身に付くのかもしれない(≪私から見れば、それぞれのエンジニアたちは、生活の不可避性から、本当のことを言わない沈黙の中で、自分や家族の生活のために、そのために耐えて頑張っているという姿だけを感じ取ることができる、余裕感のある生活を全く感じることができない≫)」、「いずれにしても、そのように『企業の枠を超えて』働き続けている彼らのプロフェッショナルとしての生き方には、“働き続けるためのヒント”が数えきれないほどある」、「そこで本書では、著者自身がメイテックのエンジニアたちから学んだ『企業の枠を超えて生涯働き続ける』ためのヒントを伝えている」、「ターゲットは、これから労働市場に出ていこうとしている人たち、会社という組織のなかで成長を願っている人たち、転職を考えている方々、そして仕事人生の終盤を迎えた人々。いわば、なんらかの形で労働に携わる、すべての人に対するメッセージとなっている」。「会社という組織のなかで成長を願っている人たち」、「なんらかの形で(≪企業組織における≫)労働に携わる、すべての人に対するメッセージ」と大見得を切った書き方をしているのであるが、その思惟と語りの在り方は、人間の存在様式の一面だけを抽象し、その面だけを拡大鏡にかけて全体化し、企業共同性を価値化した、形而上学的抽象的な思惟と語りにあるのである。すなわち、実際は、「すべての人」(すべての職種の人)を包括した思惟と語りとはなっていないのである。このことは、次の記事に見出すことができる。

 

【注】人間の三つの存在様式とは、「他人には理解できない内面を含めた、その人の心のもち方の世界」、他人と通じ合うことは第二義的な「個体の内面世界」、すなわち自己が自己自身に関係する<個体>的自己の世界、及び<個体>的自己が一対の男女(性)として振舞う世界、そこから疎外される対幻想の共同性である「<家族>の一員としての個人」(<個体>的自己)として振舞う世界、並びに<個体>的自己が社会と関わる「<社会>的な個人」(<個体>的自己)としての世界(具体的には、仕事・納税・消費・選挙行動等において自分は<個体>的自己としてどう振舞うかという世界である。この領域に関わる国家を含めた集団構成の問題は、集団の基本単位である三人の集団構成から類推していくことが必要な世界)、のことである。
例えば、「老人問題」は、<個体>的自己の死の迎え方の問題を有するそれぞれの老人個々人の個人領域における問題を本質としながら、関係意識が希薄化している家族的領域における問題でもあり、経済的生活の面では法的政策的制度的行政的問題でもある。したがって、行政的解決は部分としての解決でしかないのである。したがってまた、老人問題の究極的課題と究極的解決の方途は、意識的自覚的に、人間存在の三様式の総体性において、その差異性と関係性において取り扱う点にあるのである。「専業主婦」は、その<個体>的自己が「家族の一員としての個人」(<個体>的自己)の部分に重きを置いている在り方なので、「社会的な個人」(<個体>的自己)としての部分には重きを置いていない在り方であり、「仕事人間」というのは、その<個体>的自己が「社会的な個人」(<個体>的自己)の部分に重きを置いている在り方なので、「家族の一員としての個人」(<個体>的自己)の部分には重きを置かず家族問題に無関心な在り方である。これらの在り方に対して、人間存在の三様式から言えば、<個体>的自己の内面の問題に重きを置くことで、家族領域や社会領域における問題に無関心な在り方もあるのである。<個体>的自己の自己幻想(自己観念)を本質として創作活動をする夏目漱石や太宰治や宮沢賢治等の「優れた文学者はいつも痛ましさの感じを伴っている」。「文芸作品を読むものに、じぶんだけのためにかかれているように感じさせる要素は文学者が創作のためにたんに労力や苦吟を支払ったからではなく」、「恋人」か「家庭」か「社会の序列」か「現実にいきてゆくために必要な何かを棒にふってしまったことと対応している」(『文芸的な、余りに文芸的な』等)。

 

(1−2)「15%を超える貧困率(等価可処分所得が中央値の半分を下回る相対的貧困者の割合)が社会問題となっている日本……その予備軍の増加も深刻化している。“ほぼ貧困”状態にあるアラフォー単身者のリアルに迫った」――
 2018年のヤフー・ニュースに、次のような記事があった。
(ア)「一橋大学大学院を出た二人の男性」
 「独身OLであるわたし」は、一方で、「いっしょに合コンを開催していた男友だち(30歳……一橋大学大学院卒業・外資系勤務……ハイスペの持ち主)」が、「コンパで知り合った23歳のゆるふわ女子」と「電撃婚」していく姿と、他方で、「同じ一橋大大学院卒の30歳でも『無職、職業訓練校に通う日々』の男性の姿を見た。後者の男性は、「一橋大学商学部に現役で入学し、大学院まで」出て、「人気絶頂だったソーシャルゲームを扱う会社に入社し……営業に配属され、入社1〜2年は、順風満帆な社会人生活」を送っていたが、「業績が悪化し……開発を手がけるエンジニアは社内でも重宝されたものの、営業の男性は、会社でお荷物扱いになり部署をたらいまわしにされ……会社で自分は必要とされてないのかもしれない」と思い、「ふと小さいころの夢が漫画家だということを思い出し……漫画を描く時間を確保」するために、「しばらくは退職金や失業保険で食いつないで」いこうと考えそうしたのだが、最後的に「底は尽き」ることになった。「そこで足を運んだのがハローワーク」で、その男性は、「ハローワークですすめられ……“職業訓練校”に通うこと」になり、「国から月10万円を支給」され「調理科コースへ入学することにした。それが2017年8月」のことであった。その男性によれば、「クラスメイトは“社会不適合者”ばかり」で、「お互いに仲良くなろうともせず、なぜここに通っているのか話し合うこと」もなかった。「そんな“社会不適合者”のなかには、こんな人物」もいた。その人物は、「幼少期からテニスの英才教育を受け、“神童”と呼ばれていたが、どうしてもプロの壁を越えられず、高校卒業と同時にテニスを辞めることになった。そのとき初めて、自分にはテニス以外になにもできないことに気付」いたという。また、その男性によれば、「『社会不適合者の集まり』というが、遅刻する生徒は1人もいない。なぜなら、入学する際のガイダンスで『君は、税金で通っているのだから無遅刻・無欠席は当たり前。もし遅刻をしたら、一発で退学』と釘を刺されて」いたからである。「職業訓練校には3月まで通えるらしいが、それ以降はどうするつもりなのか……。『成り行きで生きていく』」という。
 前述した記事にある形而上学一面的固定的抽象的な思惟と語りでは、営業職のこの男性を包括することはできないのである。
(イ)「年収100万円未満、高学歴プアの絶望と諦観」
 「現在、首都圏の某国公立大学の研究員として働く、大阪府在住のTさん(男性、36歳)」は、「早稲田大学卒業後、研究者の道を目指して博士課程に進」んだが、「文系は研究職の需要が少なく……勤め先がない」ために、「結局、大学の研究室に籍を置かせてもらい、名ばかりの研究員」となった。「研究員としての収入は年間十数万円ほど」である。「それ以外の時間に治験や着ぐるみのバイトを入れて、生活費を捻出」し、「昨年の年収は96万円だった」。「これではとても生活できないので、数年前に大阪にある実家に戻り」、「大学に用があるときだけ、格安の深夜バスで大阪から東京まで通って」いる。「『ふがいないな……と思います。タクシー運転手の父親の収入と合わせてもせいぜい年300万円程度。研究で身を立てたいと思ってここまできましたが、最近は就職を考えるようになりました。でも、年齢的にもう難しいですよね』、そんな彼を追い詰めるのが、まったく返納できていない奨学金」である。「『学生時代に借りた奨学金が500万円近く。現在は、収入がないことを理由に返納を猶予してもらっています。いざ働き始めたら、奨学金の返済にも苦労するのは目に見えています……』、自身の年齢に奨学金の返済、老いていく親、いずれも猶予はない。……年収300万円家族の苦悩」である。
 やはり前述した記事にある形而上学一面的固定的抽象的な思惟と語りでは、この男性も包括することはできないのである。
(ウ)「東京大学卒(偏差値75) 年収300万円」
 「『東大卒だから一生安泰』の油断が招いてしまった転落人生」を余儀なくされているこの「介護士のOさん(男性、40歳)」は、「職場の同僚には東大卒であることを一切伏せている」。東大に「入れば、比較的将来は安泰に思えるが『なかには私みたいな低所得の人間もいますよ』と自虐的に話す。『卒業後は大手生保に勤め……年収は700万円を超えていましたが』、『昔からの夢だった世界一周の旅に出るため……後先考えずに27歳で退社』した、……『東大を出ているので、何とかなると思って』いたから」。「世界各地を放浪後……居心地のよかった……タイ……の日系企業」に、「東大ブランドのおかげもあり、一社目であっさり採用され……再就職」した。「ただ現地採用なので年収は約250万円」だった。「日本の本社採用の上司からは『東大卒なのにもったいない』とよく言われ」た。そして、「2008年に起きたリーマン・ショックによる経営不振で突然解雇されてしまった」。「このときすでに32歳」で、「海外放浪による2年間の職歴空白期間、その後の現地採用も契約社員待遇だったため、どの会社も評価してくれず、東大ブランドも地に堕ち」ていた。その後は、「保険会社代理店の契約社員や市役所の臨時職員を転々とした後、4年前に介護士として働き始めた。『年収は300万円と安く、昇給も期待できません。こうなるなら、最初の大手生保を辞めるべきじゃなかったんでしょうね』」。「世界一周旅行という夢を叶えてしまった代償は、あまりに大きかった」(東大卒「高学歴貧困の正体」)。
 前述した記事にある形而上学一面的固定的抽象的な思惟と語りでは、この男性をも包括できないことは当然のことであるが、東大卒であっても一つ判断を誤ると安泰ではない時代に入っており、また高校あるいは大学を卒業し、ある会社・ある企業に就職し、定年まで働くことという流れでの経験則は完全に通用しなくなっているように見える。
(エ)「ここ5年ほどで、銀行員の転職が急増している」
 東洋経済オンライン(『週刊東洋経済』は2018年5月28日発売号)によれば、「支店長を目指して勤め上げる出世すごろくは崩れ、銀行を離れる人が続出している……」。「都内のメガバンク支店で法人融資を担当する30代の男性は打ち明ける。支店長代理は、早ければ入行8〜9年目で昇格できる最初の役席(ポスト)。本店でいえば調査役に相当する。同期との出世コースの分かれ目になるポストで、昇格すれば30代前半で年収1000万円が見えてくる。男性が入行したのはリーマンショック直前の年、バブル入行組(1990年前後入社)のほかに大量採用されたもう一つの世代だ。エリア統括店や本店を経験し、営業成績も同期より高かったが、支店長代理の昇格試験は通らなかった。『銀行は減点主義。リスクを取って新しい取引先を開拓するよりも、上ばかり見るヒラメ社員が出世する。この先20年を考えると、支店長になりたいと思わなくなる』」。「メガバンク支店で個人向けリテールを担当する30代の女性。銀行員の評価は定性評価のコンピテンシー(行動特性)と定量評価の営業成績で決まる。差がつきやすいのは営業成績で、期末までに目標を達成できるかが、出世や賞与の査定に響く。金利収入が細る中、投資信託や保険など金融商品の窓口販売による手数料収入が、リテール部門の収益柱になっている。だが、『販売手数料が高く、顧客にとってメリットが少ない商品を“お願い営業”で買ってもらわなければ、ノルマを達成できない。まじめな人ほど、耐えられずに辞めていく』……首都圏近郊の地銀行員は、『3前から給与体系が改定され、ほとんど定期昇給がなくなった。……3年離職率は3割を超えている』と話す」。
(オ)「外国人実習生、3年で69人死亡 6人は自殺 法務省資料で判明」
 「低賃金や長時間労働が問題になっている外国人技能実習生について、2015〜2017年の3年間に69人が死亡していたことがわかった。うち12人が実習中の事故によるもので、6人が自殺し、殺害された人も4人いた。立憲民主党の長妻昭・政調会長が毎日新聞ニュースサイト『政治プレミア』に寄稿して明らかにした。技能実習適正化法などに基づき、技能実習を実施していた事業所が報告したものを法務省がまとめた。実習中の事故で死亡した12人は「フォークリフトの運転中に誤って横転し、下敷きとなった」「貨物と台車に頭を挟まれた」など作業中の事故が大半をしめる。「水道工事中に掘削中の溝が崩れ、生き埋めになった日本人従業員を助けようとして巻き込まれた」などの事例も報告されている。自殺は明記された6人以外にも、『踏切内に進入し電車にはねられた』『殺虫剤を飲んで死亡』など自殺の可能性のある事例もあった。殺害された4人のうち2人は同僚の技能実習生に刺されたものだった。技能実習生は全国に約26万人いるとされ、劣悪な労働環境が問題化している。2017年には7000人以上が失踪した。長妻氏は寄稿で『死亡事案だけが初めて明らかになったが、死亡の背景や責任の所在は明らかになっていない。今回の新制度は技能実習制度を土台にしている。現状把握が著しく不十分だ』と指摘している。
(カ)「カルロス・ゴーン容疑者の逮捕で揺れる日産自動車で、新たな品質検査関連の不正」
 2018年12月6日のJIJI.COMニュースの記事によれば、「ゴーン体制、19年の功罪=検査不正では姿見せず。『コストカッター』と呼ばれたゴーン容疑者が1999年に日産の実権を握って以降、同社の生産現場では、採算性を過度に重視する傾向が強まった。データ改ざんなどの不正が起きたのは、品質検査を担う人員や設備が不十分で、現場に作業をやり直す余裕がなかったことが一因」とされる。「日産の不正に関する第三者委員会が今年9月に公表した報告書は『2000年代以降に排ガス測定値の書き換えが常態化した』と指摘。不正の背景について、コスト抑制に力点を置くあまり、「工場の維持・発展に不可欠な要素が失われた」と利益偏重に傾く企業体質を批判した」。
(キ)東洋経済オンライン「30歳年収『東京都トップ500社』ランキング」
 例えば69位の日立製作所の平均年齢と平均年収は、41.7歳、871万円であり、75位の住友林業のそれは、42歳、867万円であり、110位のKDDIのそれは、42歳、936万円であり、124位の三井化学のそれは、41.6歳、866万円であり、232位のキャノンのそれは、43.5歳、782万円である。
 教育社会学者で名古屋大学准教授の内田良が、その呼称にだけこだわって教員には残業代が支給されていない(実際的には、呼称が違うだけで、教員には、残業代、すなわち時間外勤務手当の代替措置として、至れり尽くせりの教職調整額という手当が支払われている。その詳細については、私の2018年12月4日の記事を参考にされたし)と呼称の一面だけを抽象し全体化して論じていたのであるが、上述した大手民間企業の年収と比較衡量してみても、教員は標準以上の年収をもらっているにもかかわらず(上を見たらきりがない)、内田がそれでもその教員の問題を全労働者の問題(究極的問題としては、社会的に、すなわち現実的に、個体的自己としての全人間が幸福にならなければ本当の幸福とはならないという問題)として扱うべきだと言うのであれば、本当は、先ず以て、前述した1−1、1−2の(ア)・(イ)・(ウ)・(エ)・(オ)・(カ)すべてのことを包括した上で思惟し語らなければならないのである。それだけでなく、大多数の被支配としての一般大衆・一般国民・一般市民の生活を直に圧迫し不安定にし、直に彼らの生活の安心を脅かす消費税増税問題等々についてはその問題を包括して思惟し語らなければならないのである。したがって、神の言葉の第三の形態の全く人間的な教会が、純粋なキリストの福音だけでなく、それとは独立して現実的な社会的問題や社会運動に関わらなければならないというのであれば、そうした対応をしなければならないのである、ただ表向きだけ一面的なだけの身体的行動をしていればいいわけではないのである。純粋なキリストの福音の問題を後景へ退けたところで、それと独立して社会的問題(その過渡的――究極的な問題)を明確に提起しないまま行うところの、表向きだけの社会的運動(行動)が問題である、教団共同性あるいは教会共同性における指導者たち(神父、牧師、神学者)が、自分たちの戦争責任の問題(自らの問題として、自らの敗北の構造を明確に提起する問題)を提示しないまま行うところの、また戦争の元凶である民族国家の葬送の問題(その過渡的――究極的な問題)を明確に提起しないまま行うところの、またそれから対象的になって距離を取ることなく擬制民主主義でしかない議会制民主主義における国家の言語である法的政策的な言語に即自的に依拠して行うところの、表向きだけの法的政治的な平和運動(絵に描いた餅に過ぎない平和運動)が問題である。言い換えれば、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会を志向し目指すことなく、それ故にまた「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言を、第三の形態の全く人間的な教会の宣教(その一つの機能である神学)における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことなく、それ故にまたそういう仕方で純粋なキリストにあっての神、純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」、すなわち純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち神の命令・要求・要請、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわち<すべての人々>が現実的に純粋なキリストの福音を所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すことなく、それ故に経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いている世界の中で戦争の元凶である民族国家の葬送の問題を明確に提起することなく、それ故にまた結局は国家の言語に包摂されてしまう以外にはない国家の言語である法的政策的言語に依拠して表向きだけ平和主義を掲げている日本基督教団の「戦争責任の告白」や最近の「戦後70年にあたって平和を求める祈り」やカトリック教会の「抗議声明」は、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯し時間累積することは全くできないそれでしかないものであるということが問題である。