教育社会学者で名古屋大学准教授の内田良の言う、「公立校教員は『他職種より長時間労働』」を強いられているが、それにもかかわらず「『残業代なし』」である(ヤフー・ニュース)という言い方は、本当に、実際的に、事実的に、正しいのであろうか、教員だけがサービス残業を強いられているという言い方は、正しいのであろうか?
このヤフーオーサーアワード2015を受賞したという准教授は、「教員の長時間労働に関する認知と『残業代なし』の認知との関係性」、公立校教員の「長時間労働」と「残業代なし」の問題性について、次のように語っている――
(1)「厚生労働省が先月末に発表した『過労死等防止対策白書』。その調査に際して重点業種の一つにあげられたのが、学校の教員であった。(中略)教員の長時間労働はいま、教育界内部の問題ではなく、労働者全体が考えるべき課題として、注目を集めている」。
この准教授の言うように、長時間労働は労働者全体が考えるべき課題であるならば、教員の問題と同時に非正規雇用の労働者の問題も包括して扱うべきであるだろう。何故ならば、「厚生労働省の平成28年の賃金構造基本統計調査によると、正社員のボーナスの平均は年間約138万円なのに対し、正社員以外(契約社員や派遣社員を含む)は年間約30万円」(法的には違法とならないから、ボーナスが出ない支給されない人もいるのではないだろうか)ということをも考慮しなければならないであろうからである、また労基法によって非正規社員に対しても時間外勤務手当は支給されることになっているとしても、算定基礎となる給料月額が非正規社員は正規社員に比べて極めて低いから時間外勤務手当の額の格差も歴然であろうからである。
12月3日のヤフー・ニュースには次のような記事もあった――中国人やベトナム人等「失踪した外国人技能実習生2870人分の『聴取票』(法務省)を精査したところ、7割近い1939人が最低賃金未満の時給で働いていた可能性があると発表した。『過労死ライン』とされる月80時間以上の残業をしていた実習生も292人いたという」。
(2)「学校の働き方改革が進む」中で、教員が保護者から「『先生も少しは休んで下さい』と声をかけられるようになった」という「話を、よく耳にする」。「仕事で疲れ切っていては、教員も子どもに向き合う余裕がなくなる。保護者にとって、教員の長時間労働は、ひとごとではない。そもそも教育は、社会の根幹を支える営みであるからには、教員の働き方は保護者や地域住民を含む社会全体の課題である」。
小泉純一郎や竹中平蔵による上からの構造改革路線以降特に顕著になったと思うのだが、現在も非正規雇用労働者は増加傾向にあって、現存する経済社会構成を支えている労働者の内、非正規雇用労働者は2,036万人(役員を除く雇用者全体の37.3%で、25歳から64歳まででのそれは1,480万人、72,7%である)、正規雇用労働者は3,423万人(62.7%)となっている(平成29年の総務省「労働力調査(詳細集計)」)。そうした中で、社会全体の問題を考えることは、社会的な、すなわち現実的な個体的自己としての全人間全体が幸福にならなければ本当の幸福とはならないということを念頭に置いて問題を考えることでもあるから、(1)との問題との関係性を引き寄せなければならない。もっと言えば、消費税増税の問題についても、名古屋市長の河村たかしのように、財政赤字は政府債務残高のことであるから、その赤字の責任は全面的に制度としての官僚・政治家・支配上層にあるというふうに思惟し語ることができなければならない。
(3)教員の「長時間労働は分かっているが、けど『残業代なし』は知らない」。「(中略)『教員の平均的な労働時間が、他の労働者に比べて長時間となっていること』を『知っている』と答えた民間の労働者は59.7%にのぼる。(中略)さらに踏み込んで、『公立学校の教員が時間外に行っている部活動指導・授業準備・テストの採点などは残業代』」が「『支払われない』こと」については、「『知っている』は38.7%にとどまり、『知らない』が61.3%である。公立校の教員は、公立の義務教育諸学校等(≪小中高≫)の教育職員の給与等に関する特別措置法(いわゆる給特法)により、法的には残業をしていないことになっている」。「教員の長時間労働のことは見聞きしているけれども、その際の時間外労働がじつは『不払い』によって担われていることについては、多くの労働者がまだ『知らない』状況である」。
この准教授は、時間外労働と時間外勤務手当(残業代)という呼称の一面だけを拡大鏡にかけて全体化し、そのことを強調して教員の「時間外労働がじつは『不払い』によって担われている」と述べているのであるが、教員の時間外手当の代替措置として教職調整額(給料月額の4%)が毎月支給されていることについては、ここで語ろうとはしないのである。呼称が違うだけであって、実際的に事実的に毎月支払われる教職調整額(給料月額の4%)は、教員の時間外勤務手当と言い換え可能のものなのである(これは、行政職員の実績支給とは違って、多くの教員がそうであるように勤務時間終了後の1時間以内に帰宅していてもすべての教員に支払われるものである)。
(4)「保護者も知らない『残業代なし』」。「(中略)小中高のいずれかに通う子どもがいる保護者のなかで、公立校教員の『残業代なし』を『知っている』のは39.8%、他方で小中高の子どもがない労働者において『残業代なし』を『知っている』のは38.4%と、両者の間にほとんど差がない。(中略)毎晩遅くまで、職員室に明かりがついている。基本的にそれらの風景は、残業代なしの不払い労働を示すものである。そして子どもや保護者は、その不払い労働の受益者でもある」。
この准教授は、恩着せがましく、いかにもすべての教員がそうしているように語っているのであるが、実際のところはすべての教員が残っているのではないということも語るべきである。何故ならば、何もなければ(そういう日の方が多いと思う)、大体が勤務時間終了後1時間以内には帰宅しているだろうし、残っている職員は、大体が管理職、当日の学校管理の当番教員、熱心な部活動指導教員、何らかの話が弾んで残っている教員だけの場合がほとんどだと思われるからである、教材研究・「授業準備・テストの採点」といっても、採用されたばかりの新任教員は慣れるまでは確かにある程度の時間を要するであろうが、慣れてきたら、またベテランの教員ならば、すぐにできてしまうことだろうからである。また、管理職の方が土日の部活動を控えるように依頼しても、強い体育系のクラブ活動の指導教員は、その指導が好きだから、自ら意欲を燃やして、自ら進んで、その部活をやっている人がほとんどだと思われるからである。
(5)「残業代の不払いについては、別の調査から、教員本人は9割が『残業代がほしい』と回答している」。
そのように要求する教員は、教職調整額の意味とその特典を知らないだけである(後述する)。したがって、そのことを知っているにもかかわらず、「『残業代がほしい』と回答している」教員がいるとすれば、その教員は児童生徒に対して道徳教育や生活指導を行いながらも、ただ金に汚いだけの教員である。
一面だけを拡大鏡にかけて全体化し、そしてその点だけを強調して論じる論じ方を行うこの名大准教授の上記の指摘は、総体的に考えた場合、実際的に、事実的に、本当に正しいことと言えるだろうか。私自身の大学生活の期間を除いた学校(小中高)の教育体験やいろいろな資料を介して述べてみたい。
そのような訳で、前述したことを、もう少し詳しく書いてみよう。
(ア)呼称は違うが、時間外勤務手当の代替措置として支給される教員の教職調整額について
私の記憶によれば、教員の給与等の改善は、昭和47年施行の公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法(給特法――給料月額の4%を支給するという教職調整額の規定、またこれは給与と見做すという規定が為された)、昭和49年制定の人材確保法、田中角栄内閣(田中角栄+自民党文教族)の時にまで遡る。
この毎月すべての教員に給与と見做されて支給される教職調整額(給料月額の4%)は、行政職員にその実績に応じて支給される時間外勤務手当(給与と見做されない)の代替措置として支給されるものである。「地方一般行政職と小・中学校教職員の年齢別給料月額の比較」(中教審初等中等教育分科会の資料)における、財務省配布資料の「年齢別で見ても、教員の給与は一般行政職に比べて全ての年齢層で高い」という指摘と、文科省配布資料の平成15年度ベースで「40歳以上の教員の給与は一般行政職より低い」という指摘とを比較衡量してみる時、財務省の指摘の方が、実際的に事実的に正しい指摘と言えるのである。このことは、生涯賃金に引き寄せて考えてみると、よく理解することができる――教員の教育調整額(給料月額の4%)は、呼称が違うだけで、実際的に事実的には、時間外勤務手当の代替措置としての手当なのである。この教育調整額は、勤務時間外の実績の有無にかかわらず、すべての教員に毎月支給されるものである。さらにこの教育調整額は、給特法により給与とみなされるから、地域手当としての毎月の調整手当(東京特別区は20%、その他は大体10%と思う)、ボーナス(期末勤勉手当、人事院勧告によって変動するのであるが現在支給率4.3月/年前後だと思う)、退職手当、退職年金にも跳ね返り、それらの算定基礎ともなる特典のあるものなのである。このように、実際的に事実的には、教員の時間外勤務手当(残業代)の代替措置である教職調整額(この手当は、呼称は教職調整額となっているが、時間外勤務手当と読み替え可能の手当である)は、至れり尽くせりの手当なのである。因みに、行政職員の時間外手当は、給与と見做されないから、毎月の調整手当、ボーナス(期末勤勉手当)、退職手当、退職年金に全く跳ね返ることはないのである、それ故にそれらの算定基礎とはならないのである。実際的に事実的に、このような事情であるにも拘わらず、名大准教授は、この至れり尽くせりの時間外勤務手当の代替措置としての教職調整額については一言も語らず、その普遍性とメディア的組織性の後光をかぶせて、教員には時間外勤務手当(残業代)が支給されないと主張しているだけなのである。
一般行政職は残業の実績がなければ時間外勤務手当は支給されないのは当然であるが、会計年度の時間外勤務手当の予算は決められているから、予算がなくなれば仕事の処理の都合上でどれだけ残業をしたとしても、その残業はサービス残業となるのである。その場合は、その分の回復措置は与えられるとしてもである。教員の場合は、その分の回復措置は、例えば長期休業中において自宅研修制度等を使ってとることができる。
さて、前述したように、教職調整額は給特法によって<給与>とみなされるから、教員の給料の月額は給料月額+教職調整額となり、この<給与の月額>(給料月額+教職調整額)は、毎月の地域手当である調整手当(<給与の月額>+扶養手当×東京特別区20%あるいはほかの多くは10%前後)、6月期および12月期の期末勤勉手当および退職手当並びに退職年金にも跳ね返り、それらの算定基礎ともなるのである。さらに、すべての教員には、毎月義務教育教員特別手当概ね7,000円が支給される仕組みになっている。因みに、宮城県の資料(平成25年4月1日現在)によれば、「宮城県、国、都道府県平均」から考えて、給料月額は、一般行政職の場合、42.9歳で概ね332,000円、小中高の教育職の場合、44.6歳で概ね383,000円である。したがって、教員の給与の月額は、給料月額383,000+教職調整額(383,000×0.04=15,320)=398,320円である。また、扶養手当は、家族構成が妻・子(高校生)・子(大学生)として、36,500円である。また、地域手当としての調整手当(多くは10%)は、給料月額+扶養手当を算定基礎としており、教育調整額は給特法により給与と見做されるから、教員の場合の調整手当は、(383,000+教職調整額概ね15,000+扶養手当概ね36,000)×0.1=43,400円である。また給特法により教育調整額が給与と見做される教員の場合の期末勤勉手当(人事院勧告によって支給率は変動する)の内の
6月期期末手当は、(給料月額383,000+教職調整額概ね15,000+調整手当概ね43,000+扶養手当概ね36,000)×支給率1.225前後=584,325円
6月期勤勉手当は、(給料月額383,000+教職調整額概ね15,000+調整手当概ね43,000)×支給率0.87前後=383,670円
12月期期末手当は、(給料月額383,000+教職調整額概ね15,000+調整手当概ね43,000+扶養手当概ね36,000)×支給率1.375前後=655,875円
12月期勤勉手当(給料月額383,000+教職調整額概ね15,000+調整手当概ね43,000)×支給率0.87前後=383,670円
である。
これらに、住宅手当、通勤手当、遠足・修学旅行引率や部活等に従事した時に支払われる教員特殊業務手当が支給される。
スポーツ関係等々の職種の破格の所得をメディアを通して知らされる時、一般的な普通の仕事に一生懸命に従事している人々にとっては、普通の仕事を一生懸命することが馬鹿馬鹿しくなってしまいそうになると思うのだが、上を見ればきりがないので、また自分の訴えや力ではどうすることもできないので、相対的に取り敢えずは、一般的な普通の仕事の中でも普通以上の所得があるのであれば満足しようというふうに考えた方が馬鹿馬鹿しくならなくてすむに違いない。前述したように、教員は、一般的な普通の仕事に従事している人々の中でも普通以上の所得がある所得層に属していると言える。さらに大多数の被支配としての一般国民・一般住民に属する者として本当のところを言えば、国民や住民が苦労して働き稼ぎ支払った税金で暮らしている国や地方の政治家・議員たちは、人間的にも学識的にも決して偉くも何ともない、ただ権力と既得権益と金だけをむさぶりとろうとしている議員であるとしたら、にも拘らず法的に仕方なしに議員報酬を支払はなければならないとしたら、国や地方の財政は逼迫しているのであるから、消費税増税を言い決定し施行する前に、名古屋市長の河村たかしの言うように、議員の報酬の年収はボーナスを含めて800万円位にすべきであるだろう。小泉純一郎の次男・小泉進次郎の強固な地盤を崩すために、2009年の第45回衆議院議員総選挙で神奈川県第11区から立候補した横粂勝仁もそういう思惟と語りをしていたと記憶している。しかし、私には不思議でしょうがないことであるのだが、大多数の被支配としての一般国民・一般住民は、自らの生活実感と身近な生活過程の考察に基づいて投票行動を行うのではなく、メディアや学者や評論家や政治家たちの情報に流されて、わざわざそういう良き資質の政治家を、自分の方から落選させてしまうのである。このことは、全く不思議なこと、私にはよく理解できないことである。
(イ)教員の研修制度について
教育公務員特例法(教特法)に「授業に支障がない限り、本属長(校長)の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる」と規定されていることによって、教員は、長期休業中に簡単で形式的な研修計画書を校長に提出すれば自宅研修制度を利用することができる。また自宅研修取得後、簡単で形式的な研修報告書を提出すればよく、論文形式の研修報告の提出やその研修成果については問われない仕組みになっている。このような自宅研修制度にどれだけの意義があるのか、非常に疑問である。何故ならば、教員には、日常の業務(授業)に困ることがないように、教科書会社が発行している教師用の教科書指導書やその重点や問題の解答が朱書きで書かれた赤本が与えられているからである。したがって、その教材に慣れてきて、また慣れてしまえば、そしてそれで問題はないことが分かり、そのように判断すれば、教材研究(自己研修)に努める必要がなくなるからである。したがってまた、児童生徒のためにそれ以上の内容の授業を行いたいと考え、そのような教材研究(自己研修)を行う教員は少数であると思われる。したがってまた、長期休業中に研修計画書を添えて研修承認簿に記載し、自宅研修をし、事後に校長に対して簡単で形式的な研修報告書を書けばよいだけであるから、勤務場所を離れて教材研究とは別のことをしていても困ることはないというのが現状であると言える。このような訳で、教員の場合は、この長期休業中の自宅研修制度によって、実際のところ事実として、普段の勤務時間外の労働時間分は十分に相殺されるだろうし・相殺されていると言える。
私の小中高における学校教育の体験から言って、例えば議会制民主主義(擬制民主主義でしかない民主主義)を説明する場合、民主主義を守り充実させるために国民あるいは住民は、必ず国政あるいは地方の選挙に参加し、(支持する政党・議員がなくても、相対的に何らかの政党・議員を選んで)、投票行動を行うべきであるということを教えられたように記憶している。言い換えれば、相対的に投票してもよい政党・議員が全くいない場合の<棄権>行動についての問題についは全く扱われなかったと記憶している。現在、私の場合は、相対的にでも投票してもよい政党・議員が全くいないから、<棄権>行動を選択している。ただ一度だけ、上からのあるいは下からの構造改革に過ぎないとしても、既存の政治体制に対して否の意志表示を行うために、過渡的な相対的な意味で政権交代を期待し、2009年の第45回衆議院議員総選挙の時に投票したことがある。この時、政権交代は実現したが、私の期待は全く裏切られる結果となった。やっぱりな、という結果に終わってしまった。また例えば、一方通行的に一面的に平和だけを抽象して全体化し絶対化する形而上学的な平和<主義>教育を行われたように記憶している。この場合、民族国家が戦争の元凶であるということは教えられなかったし、擬制民主主義でしかない議会制民主主義下においては、大多数の被支配としての一般国民に対して国家をどこまでも開いていくことが必要があるということとそのための方途については教えられなかったと記憶している。また例えば、国語か道徳の授業で、太宰治の『走れメロス』のテーマは、今でも友情物語にあると教えられていると思うのだが、最後の方の三行についても考えさせる授業は為されていないだろう。この最後の方の三行を見れば、この作品が単なる友情物語でないということが分かる。吉本隆明が述べているように、この最後の方の三行によって、太宰はこの作品を単なる友情物語に終わらせなかったと言える(最後の方の三行――「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」)、この嫉妬した娘さんはメロスを独り占めにしたいのだ。このようなことは、教員から教えられたことはないのである。
このような一方通行的で一面的な授業では、将来を生き自ら問題を考え自ら問題を掘り下げる児童生徒を育成することはできないであろう。そのような訳で、多くの教員(すべてとは言わないが)は、長期休業中の自宅研修制度を利用して、自分なりに自ら問題を考え自ら問題を掘り下げていこうとする児童生徒を育成することができる内容作りのための教材研究をしていないと言うことができるのである。
太宰治は、『正義と微笑』で次のように書いている――「(中略)学校で修身の講義を聞きながら、ぼんやり窓の外を眺めていた。(中略)『偉い人になれ!』と小学校の頃からよく先生たちに言われて来たけど、あんないい加減な言葉はない。何がなんだか、わからない。馬鹿にしている。全然、責任のない言葉だ。中学校の教師だって、その裏の生活(≪日常性≫)は、意外にも、みじめなものらしい。漱石の『坊ちゃん』にだって、ちゃんと書かれているじゃないか。高利貸の世話になっている人もあるだろうし、奥さんに怒鳴られている人もあるだろう。人生の気の毒な敗残者みたいな感じの先生さえ居るようだ。学識だって、あんまり、すぐれているようにも見えない。そんなつまらない人が、いつもいつも同じ、あたりさわりの無い立派そうな教訓を、なんの確信もなくべらべら言っているのだから、つくづく僕らも学校がいやになってしまうのだ。(中略)先生御自身の失敗談など、少しも飾らず聞かせて下さっても、僕たちの胸には、ぐんと来るのに、いつもいつも同じ、権利と義務の定義やら、大我と小我の区別やら、わかり切ったことをくどくどと繰り返してばかりいる。今日の修身の講義など、殊に退屈だった。英雄と小人という題なんだけど、金子先生は、ただやたらに、(≪政治も哲学も観念の自然過程の為せる業だ、すなわち観念的な非日常性に生きる≫)ナポレオンやソクラテスをほめて、(≪現実的な日常性に生きる≫)市井の小人のみじめさを罵倒するのだ。それでは、何にもなるまい。人間がみんな、ナポレオンやミケランジェロになれるわけじゃあるまいし、小人の日常生活の苦闘にも尊いものがある筈だし、金子先生のお話は、いつもこんな概念的で、なっていない。こんな人をこそ、(≪人間をその日常性と非日常性の往還において考えることができない、換言すれば人間をその一面だけを拡大鏡にかけて全体化して抽象的形而上学的にしか考えることができない≫)俗物というのだ」・「(中略)実際、教師と生徒の仲なんて、いい加減なものだ。(中略)教員室の空気が、さ。無学だ! エゴだ。生徒を愛していないんだ。(中略)勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチユアというのは、公式や単語をたくさん暗記していることではなくて、心を広く持つという事なんだ。(中略)学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ」。
ここまで述べてきて私が言いたいことは、この名大准教授が、教師の時間外勤務の問題の一面だけを、その普遍性とメディア的組織性の後光をかぶせて語ってしたということである。このような、一面だけを拡大鏡にかけて(抽象して)全体化し、そのことを強調して論じる論じ方に対しては、私たちは十分に注意する必要があるということである。私たちは、吉本も述べていたように、政治家、官僚、学者、評論家、宗教家、教育学者等観念の自然過程に生きる知識人のその知識や情報、メディア的情報等をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることはしないで、拙くてもいいから自らで問題を考え問題を掘り下げていくことが必要なのである。このことは、信仰・神学・教会の宣教を考える時にも必要なことである。