本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 三神の忍耐と知恵」(その5-4)-1

カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 三神の忍耐と知恵」(その5-4)-1(327-337頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「六章 神の現実 三十節 神的愛の完全性 一神の恵みと神聖性」
「六章 神の現実 三十節 神的愛の完全性 一神の恵みと神聖性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神の愛の神性は、神がご自身の中で、またそのすべての業の中で、恵み深く、あわれみに富み、忍耐強くあり給うこと、まさにそれと共にまた神聖で、義しく、知恵に富み給うことから成り立っているし、またそのことの中で確証される。(129頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 一神の恵みと神聖性」(その2-1)-1で行っていますので、参照してください(2018年5月21日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「三十節 神的愛の完全性 三神の忍耐と知恵」(その5-4)-1
 少しだけ前回の整理をするとすれば、次のような点が重要である――先ず以て、キリストにあっての神の忍耐と知恵という神の本質の区別を包括した単一性、換言すれば「神の本質の単一性と区別」における「神の忍耐」は、「被造物の存在、行為、運命の傍らに、無関心な態度で離れて立つということ……はあり得ない」。したがって、キリストにあっての神は、個体的自己としての全人間「多くの者を、彼ら自身の道を行かせ給うとすれば」、「彼らにその自由を与え、彼らに繰り返し(≪場所と≫)時間(とその時間の中での食物)を与え、すべてのことの中で繰り返し彼らを待っておられるとすれば(≪彼らの正しい悔改めとキリストにあっての神への立ち帰りを待っておられるとすれば≫)」、神は、「そのことを、……神がひとりの方、ご自身のひとり子の中で、既に彼ら被造物に追いつかれ(≪既に彼ら被造物に先行して≫)、彼、ひとり子の中でご自身の道を、の自由の中で、の時間の中で、既に彼らと共に進み行かれ」、これからも「彼らと共に終わりまで進み行かれるということに基づいて為し給う」し、そのことを神は、「ご自身を彼らすべての者に対して与え給うたひとりの方の中で既に神のみ手の中にあるということに基づいて為し給う」。「何故、神は恵み深く、あわれみ深くあり給う」のかと言えば、「神は、知恵に富み、何故・何のために恵み深くあるかを知り給」うからである――「まさにこのことこそ」が、「それ自身で(≪神の秩序ある≫)意味深い、計画に合った事実……である……」。その完全さ全き自由さにおいて、キリストにあっての神は、「秩序の神であり給う」。したがって、キリストにあっての「神は、恵み深く、あわれみ深くあることによって」、「決して神聖性と義を放棄し給わないのと同様」に、「決して無思慮さや思惟上の過失を犯し給わない」のである。「まさに、(≪ご自身の中での神として≫)神ご自身の中で、また(≪われわれのための神として≫)そのすべての業(≪父――創造主・啓示者、子――和解主・啓示、聖霊――救済主・啓示されてあることという神の存在としてのその神の愛の行為の出来事≫)の中で恵み深くあわれみ深くあり給うということ」が、「それ自身で神の秩序であり、神の知恵の秩序である」。キリストにあっての神は、「知恵に富み給うが故に(≪知恵に富み給う、<だから>≫)、恵み深く、あわれみ深くあり給う」。「この線は、神の完全な神聖性と義の方向に向けても引かれなければならない」。「何故、神は神聖で義であり給うのか、まさにそれと共に何故、恵み深くあわれみ深くあり給うのか」と言えば、ご自身の中での神として「神ご自身の中での知恵の『だから』が存在する」からである、「神の神聖性は強情と何の関わりもないし、神の義は暴政と何の関わりもない」し、「神の恵みと神聖性の一致、そしてあわれみと義の一致」は、「人があれほどしばしば語ったように」「『逆説』と何か関りがあるわけ……ではなくて、われわれがそれらすべての中で確かに出会う秘義は、神ご自身の中で持ち給う」、神の恵みと神聖性、神のあわれみと義、神の忍耐と知恵という神の本質の区別を包括した単一性あるいは「神の本質の単一性と区別」におけるご自身の中での神としての神の秩序ある「理性と意味の秘義、神の知恵の秘義である」からである。このような訳で、「もしも神が知恵に満ちてい給わないならば」、「恵み深く、あわれみ深くあり給わないように」、「神聖で、義しくあり給わないであろう」、「ましてや(≪神の本質の区別を包括した単一性における神の恵みと神聖性、神のあわれみと義、神の忍耐と知恵という≫)一致の中でそれら両方のものであり給ないであろう」。言い換えれば、神の恵みと神聖性、神のあわれみと義、神の忍耐と知恵という神の本質の区別を包括した単一性において、キリストにあっての「神は、知恵に満ちてい給うが故に、知恵に満ちてい給うことによって、神聖にして義であり給う」、それと共に忍耐強く、「恵み深く、あわれみ深くあり給う」。このような、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、キリストにあっての神の「理性、意味、秩序の認識に基づいている」から、「信頼」と「解放を意味する」。何故ならば、「信頼」と「解放」は、ただ神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられるキリストにあっての神の「理性、意味、秩序の認識を通してだけあるのであって、決して混乱、偶然、恣意の直観を通して存在するのではないからである」。「人は、もう一度、徹頭徹尾、すべてのことは、われわれが神を(≪神の恵みと神聖性、神のあわれみと義、神の忍耐と知恵という神の本質の区別を包括した単一性における≫)知恵として認識するということによってもってかかっているということを言わなければならない……」。キリストにあっての「神は、そのすべての行為が、神によって意志されたものとして、また神によって考え抜かれたものとして、起源的な正しさと完全性の中で考え抜かれ、それ故に意味深い、まさにそれと共に信頼に値する、解放する行為である限り、知恵に富み給う。(≪われわれのための神として≫)その業の中での神の行為について(≪父、子、聖霊という神の存在としての完全な全き自由の神の愛の行為の出来事について≫)、そして(≪ご自身の中での神としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」、「三位相互<内在性>」という≫)その内的な行為、神の神存在の固有な現実性について、神は知恵に富み、神の中に知恵があり、神の中にまことの知恵があるということが言われなければならない。神はご自身知恵であり給う」。「神の全能の知が神の知恵の知であるということ」は、「本当のことである」。「しかし、ここで、神の知恵は神のの意味であり、神の理性(≪人間の人間的な理性ではない。下記の【注】を参照≫)であるということが、まず第一にそれ自身で見てとられなければならない。ただそのようにしてだけ、そこから、神の知恵はまた全能の認識と知識の規定として理解」することができる。また、「神の知恵は、神的な、それ故に隠された知恵として、すべての人間的な認識と知識にまさるということだけを語ることができる」ということも、「本当である」。しかし、「神の知恵」は、「すべての神的な完全性の場合と同じように、神の自己啓示の内容であり、それ故に(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証の力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる≫)信仰の対象であり、その限り結局また(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証の力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる≫)人間的な認識(≪人間の直観と言語を用いての人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)の対象であるということについて何ら事情を変えるものではない」のである。

 

【注】ヘーゲルにとって、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、<自然>から超出した精神であるから、その頂・頂点を極めた全き<自由>の「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」。これを支えているものが、無限と有限との統一としての「究極的同一性」である。言い換えれば、それは、人間の自己意識・理性・思惟の類的本質の最後的形態としての神と人間との無限の質的差異の揚棄であり、人間の神化あるいは神の人間化である(この延長線上に、バルトが『バルトとの対話』で述べているように、教会の一つの機能である「神学は方法論的には、(≪「哲学、歴史学、心理学等」≫)ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」にもかかわらず、神学の人間学との混淆・混合・協働・共働・折衷に基づいた神学の人間学化がある)。したがって、この「究極的同一性」において、「神の理性」のその属格理解における理性は、神と人間との無限の質的差異の下における人間の理性が神を思惟する理性から、神の理性が思惟する理性に転化され、人間の理性の思惟は、神の理性の思惟と等価性を持つことになるのである。「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々(≪ブルトマン、ブルンナー、モルトマン、滝沢克己、八木誠一、カトリック主義的キリスト教、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教等々≫)の所でも、……このヘーゲルの強力な痕跡(≪近代以降の、自己への信頼としての「自信自恃の哲学」、その現にあるがままのわれわれ「人間の時代の哲学」、神学の領域に引き寄せて言えば近代主義的プロテスタント主義的キリスト教の段階、自然神学の段階、自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における思惟と語りの痕跡≫)に遭遇するであろう」(『ヘーゲル』)。

 

 さて、神の恵みと神聖性、神のあわれみと義、神の忍耐と知恵という神の本質の区別を包括した単一性における「神の知恵」は、「実際に生きられつつある神的な生が、それとして(≪ご自身の中での神としてのそれとして≫)、また(≪われわれのための神として≫)その業の中で、自分自身が正しいことを証明(≪自己証明≫)し、確認(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)」するところの、「また神的な生がすべての正しいことと明瞭なことの起源、総内容、尺度であるところの内的な正しさと明瞭さのことである」。キリストにあっての神は、「この……内的な正しさと明瞭さの中で……(≪その完全さ全き自由さとしての「尊厳さ」の中で≫)愛し給う」。「この内的な正しさと明瞭さの中で、神は同時にその神的な現実存在と行為の正当さ、必然性、十全性を証明(≪自己証明≫)し給う」。「その知恵の中で、神は栄光に満ち給う」。言い換えれば、その知恵の中で、「神は、ご自分を、知恵として証しされることの中で(≪自己証明されることの中で≫)、神として証しし給う(≪自己証明し給う≫)」。「知恵(≪ラテン語のサピエンティア≫)の基本的語義は、美的鑑賞力という意味である」、「知恵(≪ギリシャ語のソフィア≫)の基本的語義は、熟練さという意味である」、「知恵(≪ドイツ語のヴァイスハイト≫)の基本的語義は、方向を定めるという意味である」。「これらの言葉」が、「それぞれ神の知恵に当然含まれている特定の賓辞を正しく強調している限り」、「神の知恵の事実正しい解釈であるということは明らかである」。しかし、ヘブル語の「知恵(≪コクマー≫)の基本的語義は、堅固にするおよび堅持するという意味である」。したがって、われわれは、「まさにこの方向の中で」、「神の知恵について語り、何か他の知恵について語ろうと欲しない」ところで、その思惟と語りを「はじめなければならないのである」。何故ならば、「神的な鑑賞力、神的な熟練さ、神的な方向を定めることがなんであるかということ」は、「ただ、まさにこの旧約聖書的言葉が示しているところからして、明らかになる」からである。このような訳で、キリストにあっての「神が知恵に富み給うということ」は、「神の神聖性および義の場合と同様に」、「神がご自分を堅固にされ、ご自身を堅持されるということを意味しなければならない」、ちょうど単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、われわれ人間のために・われわれ人間に代わって、われわれ人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯 一回なし遂げ給うた」(律法の成就)ところのインマヌエルの出来事は、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に 、「何ら価値や力や資格もない」「罪によって暗くなり・破れた姿」のわれわれ「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆(≪混合・共働・協働≫)されぬように、(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異の下で≫)統一し給うた」ように(『ローマ書』および『福音と律法』)。「まさにそのことの中でこそ」、神とは異なる「外(≪全自然、その一部としてのわれわれ人間≫)からは何も聞く必要を持ち給わない神」は、また「恵み、あわれみ、忍耐」が神の「最も内的な本来的な本質であることが確かである限り」、神とは異なる「外にあるもの」・「実在(≪われわれ人間≫)の語るのを聞くこと」が「できるし、実際に聞き給うところの神」は、すなわちキリストにあっての神は、「理性的であり給う」。ご自身の中での神として「神がご自分の語るのを聞き給い」、「自分自身を確認し(≪自分自身を自己認識・自己理解・自己規定し≫)、ご自分の栄光をほめたたえ、その限りご自分を堅固にし、ご自分を堅持しつつ、ご自身の中で、正しく、明らかな仕方で生き行動し給うということ」が、そして「それから、(≪われわれのための神として≫)外に向かってのその行為の中で、そのみ業の中で」、換言すれば単一性・神聖・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(創造主、啓示者、言葉の語り手)、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(和解主、啓示、語り手の言葉、起源的な第一の形態の神の言葉)、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊(救済主、啓示されてあること、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性の関係と構造・秩序性、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰の授与の出来事)なる神の愛の行為の出来事としての神の存在の中で、「最高の、最後的に唯一の目的に役立つ鑑識力として」「明らかとなる」ということ、「それらのみ業をこの目的に奉仕させる神の熟練さとして」「明らかとなる」ということ、「それらのみ業の中で」「神が方向を与えること……指導することとして」明らかとなるということ、「それらのみ業を司る摂理および支配として明らかとなる」ということが、「神の知恵である」。「人はよく注意せよ。まさにそれだからこそ、神の知恵は、神の行為全体を信頼のできる解放する行為として、人が信頼を置くことをゆるされ、信頼を置くべき行為として……規定しているのである」。何故ならば、「神の知恵は、神ご自身を堅固にされ、ご自分を堅持されること、神的ナフサワシサあるいは神的ナ一致が満足されることから成り立っているし、また常にそのことの中で最後的にその効果が現れる」からである。キリストにあっての神は、「あらゆる事情の下で」、「そのような仕方で、(≪秩序ある合理的な≫)意味であり、理性であり、そこのところからして計画し、決議し、それに基づいて語り、行動する方として」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「認識されることによって(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰されることによって≫)」、このキリストにあっての「神認識」は、「われわれが神に信頼することがゆるされるということを意味しており」、「偶然的なもの、非合理的なもののすべての不確実さと闇からの解放」を、「そのような不確実さと闇の終焉を意味している」のである。

 

 神の忍耐と知恵という神の本質の区別を包括した単一性における「神の知恵が、聖書的な認識によれば事実神の忍耐と関連していること」は、「神の知恵が、聖書の中で、……幾分明瞭に説明されているところでこそ、いずれにしても世界を創造し、保持し、支配する知恵として、まさに神の摂理の本来的な手段として記述されているということから生じてくる」。キリストにあっての神は、「自分を義しい者として確認し証しする(≪自己認識・自己理解・自己規定、自己証明する≫)正しさ明瞭さそのものであり給うが故に」、「何らかの不確実さ、危険、不忠実さなしに」、「自身と並んで」、神とは異なる「ほかの者に対して」、「このほかの者の主として」、「ご自分の栄光のために」、「正しい悔改めと神への立ち帰りを待」つところの「時間、場所、現実存在を与え、許容することができるのである」。「この正しさと明瞭さの中で、神は、(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証の力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)それらすべてのことを為し給う」。「そのようにして、神の知恵」は、「神が与え、持ち給うことの意味である」、「世界の意味である」。「人はよく注意せよ。まさにそのようにしてであって、決してそれと違った仕方においてではない」。キリストにあっての神は、神とは異なる「それとしての世界そのものに内在的な意味(≪われわれ人間の個と類、現存性と歴史性に内在する意味≫)ではあり給わない」。言い換えれば、「それとしての世界」は、あくまでも「意味を持ち、意味であり給う方から意味を与えられて手に入れる限り」においてのみ、「意味を持っている」、意味を持つことができる。したがって、「聖書的な知恵が、ストア、フィロン等の世界理念と区別される相違点」は、その「知恵は、聖書の中では神の忍耐を超えて神の恵みあわれみまで遡って関連づけられており」、またその「知恵は、既にヘブル語の表現においても、神の神聖性および義と至極密接に結びつけられているので、世界説明と世界説明の原理を求めての……ギリシャ的な要求から知恵の概念が現れてきたと受け取ることは不可能であるということを明らかにする時に明瞭となる」のである。前述した知恵の「主な箇所が旧約正典の第三部に属しており、歴史的には確かにイスラエルとギリシャ文化の出会いを多かれ少なかれ明らかにしているということ」は、「異質な興味と表象をそのまま譲り受けることが起こったということを意味してはおらず」、「むしろそこでイスラエル的な神概念とそのような異質な興味および表象との間に格闘と対決が起こったということを意味している」のである、換言すれば「イスラエル的な神概念」によって「異質な興味および表象」を包括し止揚し克服するということが起こったということを意味しているのである。したがって、「イスラエルの神が、恵みとあわれみおよび忍耐の神であるとするならば、その時には」、「一方において……神の忍耐の中で」、すなわち「神ご自身の故に、神ご自身の栄誉のために、神は存在するすべてのものを造り、保持し、支配し給うということが言われることができるし、言わなければならない」のである。すなわち、「神は、存在するすべてのものを、神の行為の舞台であるよう定め給うた。そのような訳で、存在するすべてのものが、神を通して規定されていることと……神を通して造られ・保持され・支配されている……関連性が神の知恵である」。「イスラエルの神が、恵みとあわれみおよび忍耐の神であるとするならば、その時には」、「他方において……被造物の事実的な存在と存在の中で決して偶然と恣意が支配しているのではなく」、「被造物を神の行為の舞台に定め、そのようにして無から創造され、今日なお保持し、支配する神の忍耐が支配しているということ」が「言われることができるし、言わなければならない」のである。「そのような訳で、被造物の事実的な存在……とこの被造物の定め」との「関連性」が、「神の知恵である」。『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』では次のように言われている――「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。この完全な全き自由の神の存在としての神の愛の行為の出来事としての創造は、「契約の外的根拠」として、イエス・キリストが始原であり中心であり終極である「恵みの契約の歴史のための場所設定」である、また恵みの契約の歴史は、「創造の内的根拠」として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり中心であり終極である「イエス・キリストご自身」である。それは、父なる神と子なる神と「父と子より出ずる御霊」という三一論的な神ご自身の自己啓示、自己認識・自己理解・自己規定である。このような訳で、「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である(『ローマ書』に引き寄せて言えば、「イエス・キリストにおける神の愛」は、神自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」)。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、父が子として自分を自分から区別した神の子としてのイエス・キリストの「新しい神の業」であるということである。それは、「神的な愛の力」、「和解の力」である。このイエス・キリストは、和解主として、創造主の後に続いて、神の第二の存在の仕方において啓示・和解という「第二の神的行為」を遂行したのである。この神の三つの存在の仕方の「失われない差異性」における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者、言葉の語り手≫)と言葉(≪啓示、語り手の言葉、起源的な第一の形態の神の言葉≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主としての父に先行することはできないのである。しかし、父と子の存在は、共に「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているから、この存在の仕方における従属的な関係は、その存在の本質の差異性を意味しているのではなく、あくまでもその存在の仕方の差異性を意味している。