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2019年を迎えて考えたこと――対立的に構図された<ポピュリズムとエリート主義>の問題および<知識人――大衆>関係の諸問題

2019年を迎えて考えたこと――対立的に構図された<ポピュリズムとエリート主義>の問題および<知識人――大衆>関係の諸問題>
(3−1)対立的に構図された<ポピュリズムとエリート主義>の問題
 アゴラ(2018年11月6日)や日本経済新聞(2018年11月15日)等によれば、英国のEU(欧州連合)離脱問題について、2019年3月29日とされる英国のEU離脱は、交渉で「条件や手続きを定める離脱協定に合意」しても「議会などの同意が必要」であるから、「10月中の協定合意を目指してきたが難航して」おり、それは、「関税の問題」が存在しているからである。「そこにアイルランドの問題が絡んできている。英国の正式名称は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国である。アイルランドと英国領である北アイルランドには国境が当然ある。しかし、英領北アイルランドと接するアイルランドは関税同盟と単一市場に参加しており、現在、国境には検問所や税関がない。英国とEUはこの国境開放を維持することで一致しているが、国境を管理しないでいかに通関手続きを行うことが可能なのかがネックとなっているのである」。
 さて、EUの創設を定めた1992年調印のマーストリヒト条約に基づいて「エリート層が強引に推進してきたのが近年の統合プロジェクトの実態である。その典型は、1999年の単一通貨ユーロの導入」である。「EUは人、物、資本、サービスの『4つの移動の自由』を原則に掲げる。しかし、「エスタブリッシュメント層」は、「ユーロを欧州統合という理想の輝かしい象徴としてアピールしていたのである」が、「英国の離脱決定で、相互依存を深める世界で国境のない新たな統治モデルを築くという『ヨーロピアン・ドリーム』は色褪せてしま」い、「金融政策は加盟国で統一しながら、財政政策」は民族国家単位でという「構造的な大欠陥」は、「ユーロ危機の発生後、厳しき批判」に晒されている。ここで、「エスタブリッシュメント層」は、支配の側に属する制度としての官僚・政治家・資本家、その勢力、その社会構成・支配構成(体制)、特権階級、アメリカのWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)、学者(知識人)、日本の鎌倉時代に引き寄せて言えばその当時の鎌倉幕府(武家政権)であり尖端的な知識を所有していた僧等のことである。したがって、ここで「エリート層」は、エリート主義がポピュリズム(大衆主義、大衆迎合主義、衆愚政治)と対立的に論じられているように、エリート、知識人、前衛が、単純で無知な大衆に対して、上からの構造改革を志向し目指すものであれ・下からの構造改革を志向し目指すものであれ、ヘゲモニーを持って外部から知識を注入し、大衆を政治的に啓蒙していこうとする思想傾向および行動形態を持った者たちのことである。北海道大学教授・山口二郎『知恵蔵』朝日新聞出版(2007年)によれば、「ポピュリズム」について、「政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶ。ポピュリズムは諸刃の剣である。庶民の素朴な常識によってエリートの腐敗や特権を是正するという方向に向かうとき、ポピュリズムは改革のエネルギーとなることもある(≪しかし、いずれにしても、下からの構造改革にしても上からの構造改革にしても、ただ単なる<政権交代>で終わるだけである≫)。しかし、大衆の欲求不満や不安をあおってリーダーへの支持の源泉とするという手法が乱用されれば、民主政治は衆愚政治に堕し、庶民のエネルギーは自由の破壊、集団的熱狂に向かい得る」から、「リーダーの役割(≪結局はエリート層の役割≫)」が重要である、と述べられている。また、2015年12月23日『朝日新聞 朝刊』(2外報)によれば、「ポピュリズム」について、「一般的に、『エリート』を『大衆』と対立する集団と位置づけ、大衆の権利こそ尊重されるべきだとする政治思想(≪大衆主義、大衆同化主義、大衆迎合主義≫)をいう。……こうした考えの政治家はポピュリストと呼ばれる。複数の集団による利害調整は排除し、社会の少数派の意見は尊重しない傾向が強い。『大衆迎合』『大衆扇動』の意味でも使われる。……」、と述べられている。ここで論じられている内容は、結局は、対立的な<知識人・エリート層――非知識人・大衆>関係において、少数の支配としての政治的エリート層、知識人による社会構成・支配構成・文化的構成を守り維持するために、そのための擬制民主主義でしかない議会制民主主義としての民主政治を守り維持するために、知識・エリートへのベクトルを持つ知識人主義、エリート主義が必要であるということである。

 

(3−2)<知識人――大衆>関係の諸問題
 世界性を持つ生活の普遍性と生活の不可避性に生きる大多数の被支配としての一般大衆、非知識人、非エリート層、非エスタブリッシュメント層と対立的に論じられるところの、宗教としての「ポピュリズム」に対する宗教としての知識主義・知識人主義、前衛論、外部注入論、「エリート主義」、「エリート層」、「エスタブリッシュメント層」についての学者や知識人やメディアの普遍性や組織性の後光をかぶせて語られた知識や情報を、われわれは、決して、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいことは確かなことなのである。このことについて、吉本隆明(少し長くなるが、思想の課題としての<知識人―大衆>関係についての吉本の様々な論じ方)に依拠して書いてみたい――
 吉本は、<戦争――敗戦――戦後>体験の反省から得られた<知識人―大衆>関係における諸課題について、次のように述べている――経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく社会的存在の自然基底である「大衆の原像をくりこむことを、思想の課題として強調するという考え方を、今度は体験的な云い方からひき出してみます。戦争中に、国家の政策(≪大多数の被支配としての一般大衆の個人やその家族やその親族やその友人やを死に追いやったそれ≫)を、知識人(≪メディアとしてはNHKも朝日新聞も加担した≫)があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進するという様式が、なによりも敗戦後の反省の材料でした。それならば、戦後は、昨日あらゆるこじつけで国家の政策を広宣した知識人が、左翼思想や市民主義思想に乗りうつり、国家の欠陥をあげつらい、大衆が知的にそれを模倣し、行動的には模倣以上のことをするという様式は、まったく、国家に迎合することの逆ですから肯定されるべきでしょうか。これは大変な疑問におもわれました。そこには<構造>的な変容がなにもないからです。大衆が国家を<棄揚>するためには、知識人を模倣することをやめるほかないとおもいました。知識人を模倣することをやめた大衆は、その知的な関心をどの方向にむければよろしいのでしょうか。いうまでもなく(≪生活思想の還相的な意識的自覚的な過程における≫)その<生活圏>自体の考察へであって、(≪観念・知識の往相的な自然過程における≫)どんな政治的な、あるいは知識的な上昇へ、ではありません。『党派性の止揚という問題』に関連して、わたしが考えたことは、おおざっぱにいえばふたつの方向がありますが、そのひとつは、いま申述べたところに帰します。この方向をつきつめていったとき、どんな問題がでてくるのでしょうか。<閉じられた>共同性から、たえず、<大衆の原像>をくりこんだ<開かれた>共同性へ、ということです。もうひとつは、(≪知識、知識人、知識的集団、文学的集団、政治集団の自立の根拠である、思想にとっての普遍的な価値基準を、経済的社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく社会的存在の自然基底である大衆の原像に置くという≫)「価値」そのものの転倒が、<大衆の原像>を志向するというその思想性にあります」・「人間の生き方、存在は等価だとすれば、その等価の基準は、大衆の<常民>的存在の仕方にあるとおもいます。(中略)一般的には、生まれ、成長し、婚姻し、子を生み、……賃金を獲得し、(≪家族を養い、≫)老いて死んでいくという生涯について、人々は<空しい生>(≪現存する高度消費資本主義社会下、高度情報社会下においてはなおさらこと<空しい生>と感じさせられる≫)の代名詞として使おうとします。けれど、(中略)どんな時代でも、こういう平坦な生き方を許しません。大なり小なり波瀾はどこにでも転がっていて、個人の生涯に立ち塞がってきます。だから、人間は大なり小なり平坦な生き方の<原像>からの逸脱としてしか生きられません。この逸脱は、まず、生活圏からの知的な逸脱(≪義務教育制度等を介した、観念・知識の往相的な自然過程における知識的な上昇、学業的知識への登場≫)としてあらわれ、また、(≪資質や状況にあるいは内在的な要因や外在的な要因に≫)強いられた生存の仕方の逸脱としてあらわれます。そうだとすれば、かつてどんな人間も生きたことのない<原像>(≪大衆原像≫)は、価値観の収斂する場所(≪思想にとっての価値基準としての社会的存在の自然基底≫)として想定してよいのではないでしょうか」。(『思想の基準をめぐって』)。
 さて、「国家を<棄揚>する」課題に対する「理想的な共同体」や「堕落しない共同体」についての考察は、思想にとって「過渡的」な考え方・「緊急的課題」に属している。しかし、思想にとっての「究極的課題」は、「共同体あるいは共同体を観念的に支配する共同的な幻想」を「結局は全部」止揚し無化していくところまで考察を推進していくところにある(『マルクス――読みかえの方法』)、ちょうど目前にした飢餓で困窮している人あるいは飢餓で困窮している人々に対して食料を提供することは思想にとって過渡的な考え方・部分的緊急的な課題に属しており、その場合飢餓で困窮するすべての人々を救済することはできないから、思想にとっての究極的な考え方・総体的永続的な課題は、飢餓で困窮するすべての人々を現実的に社会的に解放するところまで考察を推進していくところにあるように。前述した<知識人――大衆>関係における「開かれた」知識・共同性を志向し目指す<構造>的な変容とは、次のことを意味している――第一に、自立の思想にとっての普遍的な価値基準としての経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく大衆原像を、自らの観念・知識過程に意識的自覚的に絶えず繰り込んでいくところにある。したがって第二に、人は歴史的現存性と現実的現存性の交点において生きることが不可避である以上、経済社会構成の時代水準と、その経済社会構成の時代水準が変容させる時代と共に変容する大衆像と大衆的課題を、自らの観念・知識の還相過程に意識的自覚的に繰り込んでいくところにある。第三に、<価値>は、観念・知識の往相的な自然過程における<観念>的<知識>的な世界の豊富化(知識の増大、意味の増大、物語の増大)としての観念的知識的な上昇や<特権>的な社会的地位や<富>の獲得の方にあるのであって、平凡で平坦な<生活>的日常の繰り返しの方にはないとする市民社会に流通している既存の常識・価値観(共同幻想)を転倒させていくところにある。第四に、歴史の主体・主人公は書かれた歴史に登場する支配上層や英雄や学者や知識人やエリート層にあるとする歴史観を転倒して、書かれた歴史には登場しない大多数の被支配としての一般大衆――人は誰であれ、日常と非日常、生活と観念(知識)の総体を生きることを強いられており、大なり小なり生活に重きを置くか知識に重きを置くかという差異性があるだけであり、その中で生活に重きを置く一般大衆)――を歴史の主体・主人公として成立させ得る歴史観の構成を志向し目指していくところにある。こうした仕方で知と非知を、知識と生活を、非日常と日常を、知識人と大衆を架橋していくことを志向し目指していく知識・知識人の在り方に、「『価値』そのものの転倒が、<大衆の原像>を志向する」という「思想性」がある。
 前述したような思想にとっての普遍的な価値基準としての大衆の原像は、「社会的存在としての自然な基底」であると同時に、観念・知識・思想の自立の根拠であるが、それは、個体的自己の具体的で現実的な社会的な在り方、すなわち社会的存在として生きる人間の在りの、原型・客観性・普遍性・基準性・価値性として対象化された像である。いわば、それは、自らの思考や知的関心のベクトルを、「生活圏」にのみ置き続ける社会的存在の対象化された像・抽象された像である。そして、それは、不可避的に歴史的現存性と現実的現存性の交点において生きるものであるから、経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく存在でもある。例えば、既存の義務教育制の導入された社会においては、また現存する情報科学・情報技術が発達した高度情報化社会下においては、すなわち情報技術・映像技術・音響技術の発達した社会においては、それらを介して言語的・映像的・音響的な存在として生きることが強いられ、人は誰であれ大衆原像からの逸脱(<生活的>ではなくて<知的>大衆化)を加速させられており、そうした中で、一般大衆も知識人も、生活圏に重きを置くか、観念的な知識世界に重きを置くかによって差異化されて生きることができるだけである。このような訳で、社会的存在の自然基底である大衆原像からの、観念・知識の往相的な自然過程における観念的知識的な上昇による逸脱において登場する知識人(≪それ故に知識人と大衆は、対立的に一面化固定化することはできないのであって、知識人の出自、原型、母胎は、大衆の原像であり、経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容してきた大衆である≫)は、観念・知識の<自然過程>に重きを置き、自らの思考と知的関心のベクトルを、観念的・知識的・抽象的な世界に置き続ける者のことである。このような知識・知識人、知的集団・知識人集団、前衛は、結局は「党派性の止揚」・「<構造>的な変容」という思想の課題を、自らの観念・知識・思想の課題として意識的自覚的に扱うことを放棄した者たちであり、<既存>の知識・知識人・大学知識人を保守するものたちと言うことができる。このような<既存>の知識・知識人・大学知識人、前衛の保守性は、高度消費資本主義社会や高度情報化社会が、<純>文学を衰退・解体させ、<純>文学と<大衆>文学の枠組みを無くしていったように(芥川賞と直木賞の間の自己表出度と指示表出度という文学的な質的差異を衰退・解体させていったように、しかし商業出版社である以上、利潤の追求は必至であるから、非常に儲かる企画として、両賞の差異性がなくなった現在でも年2回の両賞に分けた文学賞を温存させ、無理にでも両賞の受賞者を決めているように)、知識的領域においても<大衆―知識人>の枠組みを衰退・解体させ、既存の知識・知識人・大学知識人・前衛を衰退させ無化させていく社会現象・文化現象からやって来る状況的な危機意識にあると言うことができる。
 さて、観念・知識の「自然過程の一番根本」は、「より近くの対象からはいっていって、より遠くの対象へ手をのばしてゆく」ところにある(1976年『現代思想 1月号』)、すなわち観念は果てしなき対象遠隔性を持つものなのである。したがって、その極限に想定されるものは、観念・知識の自然過程(自体的展開過程、自己増殖過程)の果てにある尖端的な観念・知識、世界思想であり(しかし、フーコーが述べていたように、現在、人類史の西欧的的段階の近代以降において世界普遍性を獲得した地域、すなわち「普遍性誕生の場」である西欧・「西欧思想の危機と帝国主義の終焉」の下で「時代を画する哲学者は一人もいない」のである。したがって、メルロ・ポンティの身体性の概念と神学との混合神学を目指す神学・神学者は、第一義的にはその<自然神学>性が問題であるが、それだけでなく死語化した身体性に呪縛された神学であることが問題でもある)、国家の共同性であり、支配であり、社会的地位であり、富であり、名誉であり、書かれた歴史である。(『思想の基準をめぐって』、『情況とはなにか』、『模写と鏡』、『情況とはなにかY』、『情況へ』、『マルクス―読みかえの方法』、『民主主義の神話――擬制の終焉』、『自立の思想的拠点』、『国家・家・大衆・知識人』、『いま、吉本隆明25時』、『遺書』、『超戦争論』、『大情況論』および吉本隆明・辻井喬『千九九〇年代の文化』等)。