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2019年を迎えて考えたこと――対立的に構図された<ポピュリズムとエリート主義>の問題および<知識人――大衆>関係の諸問題

2019年を迎えて考えたこと――対立的に構図された<ポピュリズムとエリート主義>の問題および<知識人――大衆>関係の諸問題
(3−2)<知識人――大衆>関係の諸問題
 吉本は、一般大衆に対してエリート意識を持っている学者・知識人の蓮見重彦の「一般大衆」に対する感性的在り方について、蓮見の述べた言葉を引用しながら、次のように述べている――(蓮見の感性の在り方と観念の在り方)「『マスとかいわゆる一般大衆とかいうものとは関係なしに生きたいと思う瞬間というのは、……私には完全にあるわけです』。10パーセントの雨の確率予報に『ごく忠実に慎ましく傘をかかえ』『電車のホームをうずめつくしている。これがまず気に入らない』。『主義として』ではないが、『排除と差別への誘惑の程度』で、『ああいう連中と同じ電車に乗るのは絶対に恥じであるから家に帰ろうと思うわけです』。(吉本の感性の在り方と観念の在り方)「『左翼と認め』てもらいたいために『共産党や社会党を応援する』蓮実における『一般大衆にたいする隔離の願望』は、左翼における(≪非知に属する大衆を、知に属しながらその往還思想を持たずに、それ故に観念・知識の自然的な往相過程を一方通行的に知的に上昇していくだけの知識人、知識的集団、前衛が外部から知識を注入すべき啓蒙の対象であると考えるところの≫)『エリート官僚による一般大衆支配』と一致している」。社会的存在の自然基底である大衆の原像を思想にとっての普遍的な価値基準と考える吉本の場合は、「主義主張以前に、理屈ぬきで『一般大衆』とか『マス』とかが好きで、そこにまみれてまぎれて生きたいという願望を我慢して、耐えながらそこから(≪観念・知識の思想の往還において知識的に≫)逸脱を余儀なくされている」。「逸脱を余儀なくされて」、すなわち資質的にか状況的にかあるいは内在的にか外在的にか強いられてという仕方で、観念・知識・非日常の世界に足を踏み入れ、一般大衆が厳しい日常を生き抜いているように非日常の世界を思想の往還において生き抜いている。したがって、思想・知識・知識人としての場所(観念的な非日常の側)から、観念・知識の思想の往還において、一般大衆を『応援』している(『情況へ』)。したがって、吉本は、次のように述べている――「わたしは、文学の世界に身を寄せても文学者の世界に身を寄せることはもっとも少ない人間である」、「思想の世界に身を寄せても、思想者の世界に身を寄せることのもっとも少ない人間である」。ここで吉本は、「日常生活の世界に身を寄せても、日常生活者の世界に身を寄せることのもっとも少ない人間であろうか」と自問する。この自問において、吉本は、思想の往還を念頭に置いて、意識的自覚的にその思想の還相過程において「日常生活者の世界に、もっとも多く身を寄せよう」とする。「ここで、わたしにとっての日常生活の意味は必然的に転倒されなければならないという思想的課題に直面する」。思想的な課題である「日常生活の意味」の「転倒」とは、繰り返しの日常生活を「死」や「無意味」や「無価値」と位置づけ、観念的知識的な世界への登場や観念・知識の世界や富や名誉や社会的地位に価値があるとする意味づけや物語化や思想的立場を転倒させることである(『前掲書』)。言い換えれば、それは、思想にとっての客観的で普遍的な価値基準を、経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく社会的存在の自然基底である大衆の原像に置くという思想的立場の表明である。
 「ぼくは日常性の中では、市民社会の法律に違反しないように生きていますが、精神の表現の世界では、法律なんか一切考慮していません。精神の違法性=i≪人間的欲求、人間の自己表出を本質とする文学作品の世界の中にある違法性のように≫)といいましょうか。際限なく違法性があるのが人間性≠セと思っています(『超20世紀論』)・「『日常性』のなかに深淵を、裂け目を、背信や裏切りや殺人や退廃を視る眼をもっているつもりです。亭主が早くしんでくれたらとか、女房を殺してやりたいとか、友人を奈落の底に蹴落して、素知らぬ貌をして土に埋めるとか、(≪一方で絆、感謝、恩返しと言いながら、他方であだで返したり裏切ったりするとか、一方で助けが必要な人、いじめられている人、除け者にされている人を観て不憫に思い助けてあげたいと思うと同時、他方でその場面に出くわした時その傍を通り過ぎていくとか≫)いうことが、『日常性』のなかの<眼に視えない>(それは「非日常」の特徴ですが)劇として行われていることを視ることができるつもりです。また、『非日常性』のなかに、<眼に視える>『日常性』の存在を視ることもできます」、「『日常性』が現在の世界で国家の秩序に荷担したものでしかないことは、たれにとってもその通りで、これを摘発しても、しなくても、免かれることはできません。……だからこそ『非日常性』の思想をもつことを、人間は<強いられる>のではないでしょうか。また、その共同性がもとめられるのではないでしょうか。(中略) 『日常性』と『非日常性』は、人間の総過程として<在る>もので、あらためてそれを見直すかどうかという意味は、『日常性』のなかに『非日常性』を、『非日常性』のなかに『日常性』を<視る>ことができるかということで、市民社会の具体的な場面に政治的な意味づけを与えようとすることではありません(『思想の基準をめぐって』)。
 さて、この吉本は、「<革命の可能性>あるいは<革命の不可能性>を定めるのは、まずはじめに」、経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく社会的存在の自然基底である「<原像>としての<大衆>」(大衆現像)であると述べている。「日常性」が「現在の世界で国家の秩序に荷担したものでしかない」から、国家に加担しない共同性を求めるのであるが、その共同性もあくまでも過渡的形態としてあるものであり、それ故にその共同性は常に大衆に開かれた共同性であるべきであり、究極的には止揚されるべきものである。そして、その究極像は、第一に、外部世界としての共同性が個体的自己や大衆に対して完全に開かれているところにある。また、第二に、個体的自己や大衆の内部世界においては、その共同性に対してあくまでも過渡的形態でしかないものとして認識し自覚し、たえずそれから対象的になって距離をとり無化への契機を持つところにある。このとき、価値は、外部世界の共同性にあるのではなく、内部世界の個体にある」(『前掲書』)。「自己の生活圏から行動においても思考においてもでてゆかない存在とは、それ自体が原基である存在」であり、原像としての大衆である。したがって、「<行動においても思考においても>」、意識的自覚的に生活思想の還相過程において「自己の生活圏を下降する方向を課せられたとき、転倒された、『価値』の過程がかんがえられる」。「自己の生活圏から行動においても思考においてもでてゆかない存在」と、「事があればワツとウルトラにゆきすぎる存在とは、いわば<価値可能性>の両面とみるべき」であり、大衆の後者の面は、自然発生的なものであって、「<政治力>が身近にやってきたとき、たしかにまず<大衆の原像>と<知識人>とが、何ごとかの可能性に向かって力を集中する」。しかし、自然発生的な大衆の後者の面は「ここでいう<価値>」ではない。何故ならば、そこには価値への意志や自覚がないからである。それに対して、大衆の前者の面は、生活に重きを置く大衆自体が自己の生活圏に向かって生活思想的に生活過程を下降していくという、生活の意識的自覚的な過程、すなわち生活の価値過程である。生活に重きを置く「大衆が(≪意識的自覚的に≫)大衆自体の<生活圏>に向かって(≪その生活思想の還相過程において≫)思想的に下降したとき、また、知識人が(≪意識的自覚的に≫)<大衆の原像>を(≪自らの観念・知識の還相過程に≫)繰りこむという(≪思想の≫)課題に向かって出発をはじめたとき、すでに<政治力>が身近に来るか、<政治力>に向かって接近するかどうかにかかわりなく、<政治力>はすでに手中に包括されてある」。そこには、<開かれた>「政治力」がある。そこには、意識的自覚的に生活思想の還相過程において自立した大衆と観念・知識の還相過程において自立した知識人による開かれた<政治力>、開かれた<政治>、開かれた<共同性>がある。日本の大衆は、「日本の社会が西欧型の高度資本主義社会に高度成長して変化したとき、言語と映像の世界の水位の上昇と氾濫で、完全に浸されてしまった(≪知的大衆へと大きな変容をとげた≫)。だから、非言語的、非映像的な存在としてはなくなってしまった」。大衆は、自分の意志においてではなく、外部世界、状況の方から無意識的に、知識的大衆として知識的世界に、あるいは知識人として知識的世界に登場させられることになったのである。
 岩井克人は、「上っ面の言語の世界からまったく無傷なかたちで、しかしながら確固とした生活実感をもっている」ような「大衆の原像」が、「高度成長期にほぼ実体として消えた」と吉本を批判した。それに対して吉本は、次のように論じている。岩井の大衆原像が「確固」としたものではないという言い方は、当然なことを意味ありげに述べているに過ぎないことは、常民が転向したらどうなるかといった柄谷とおなじように「思想的な無知」によるものである。つまり、「転向を考える必要がないから『常民』」なのであり、「常民」(大衆の原像)とは「支配制度の経済社会的な構造に対応する無意識の深層として、いつも制度の経済社会的な構造と一緒に変化しつづける大衆をさしている」、経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく大衆を指している。それが、「思想の自立する根拠であることは、いまでも確固としたことだ」、と述べている。したがって、「支配の制度があるかぎり」、思想の自立の拠点としての大衆原像は、知識人における自立の課題としてたえず繰り込んでいくべき対象としてある。何故ならば、「大衆の原像にしか、反権力、非権力の理念が包括すべきものは存在しない」からである。反権力、非権力、反体制の理念は、大多数の被支配としての「原像としての大衆」(いわば革命の物質的基礎というべきものである、経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していくその現存する大衆像と大衆的課題)を包括していなければ成立し得ないのである。何故ならば、そうでなければ、支配が被支配を逆立した鏡として成立している支配(権力、体制)を超えることはできないからである。しかし、「現在にいたるまで、知識人あるいは政治的集団である前衛によって大衆の名が語られるとき、それは倫理的かあるいは現実的な拠りどころとして語られている。大衆はそのとき現に存在しているもの自体ではなく、かくあらねばならぬという当為か、かくなりうるはずだという可能性としての水準にすべりこむ。大衆は平和を愛好するはずだ、大衆は戦争に反対するはずだ、大衆は未来の担い手であるはずだ、大衆は権力に抗するはずだ、そして最後にはずである大衆は、まだ真に覚醒をしめしていない存在であるということになるのだ。(中略)こういう発想はまったく無意味である。(中略)大衆は平和を好まないはずだ(中略)大衆は未来の担い手でないはずだ(中略)といってもおなじだからである。あらゆる啓蒙的な思考法の動と反動はこのはずである存在を未覚醒の状態とむすびつけることによって成立する」。「大衆は政治的に啓蒙されるべき存在にみえ、知識を注ぎこまねばならない無智な存在にみえ、自己の生活にしがみつき、自己の利益を追求するだけの亡者にみえてくる。これが現在、知識人とその政治的な集団である前衛の発想のカテゴリーにある知的なあるいは政治的な啓蒙思想のたどる必然的な経路である」。「しかし、わたしが大衆という名について語るとき、(≪観念・知識の往相的な自然過程において≫)倫理的なあるいは政治的な拠りどころとして語っているのでもなければ、(≪観念・知識の往相的な自然過程において≫)啓蒙的な思考法によって語っているのでもない。あるがままに現に存在する大衆を、あるがままとしてとらえるために、(≪観念・知識の還相的な意識的自覚的な過程において≫)幻想(≪還相の観念、還相の思想、現存する経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく大衆の大衆像と大衆的課題≫)として大衆の名を語るのである」。「たとえ社会の情況がどうあろうとも、政治的な情況がどうであろうとも、さしあたって『わたし』が現に生活し、明日も生活するということだけが重要なので、情況が直接にあるいは間接に『わたし』の生活に影響をおよぼしていようといまいと、それを考える必要もないし、かんがえたとてどうなるものでもないという前提にたてば、情況について語ること自体が意味がないのである。これが、かんがえられるかぎり大衆が存在しているあるがままの原像である」。「大衆がその(≪生まれ、成長し、婚姻し、子を生み、賃金を獲得し、家族を養い、老いて死んでいくという≫)存在様式の原像から、知識人の政治集団の方へ知的に上昇してゆく過程は、レーニンやトロツキーの考察とはちがって、(≪観念・知識にとって≫)じつはたんなる自然過程にしかすぎない。したがって『倫理的威容』の問題ではない。もし現実的な条件がととのっていると仮定すれば、大衆から知識人への上昇過程は、どんな有意義性ももたない(≪観念・知識の往相的な≫)自然過程である。(中略)大衆が国家の幻想性によって制約されずに(世界)連合が可能であるという根拠は、社会の構成を生活過程の水準をはなれてはかんがえることがないという点にみとめられる。社会の構成のおもな過程が世界性としての経済過程であるため、生活水準としてけっしてそこからはなれられない大衆の(生活)思想は、世界性(≪世界性を持つ生活の普遍性と生活の不可避性≫)という基盤をもっているのだ。これが、労働者に国境がないということの本質的な意味である。大多数の被支配としての大衆の「あるがままの原像」・「本質的な存在様式」は、「社会の構成を生活過程の水準をはなれて」考えることはないし、「社会的・政治的な情況に着目しないために、それら情況に対して現象的な存在としてある」。このことから、現存する大衆は、「強固な巨大な生活基盤」と「微小な幻想」(現在は、高度情報社会の下に規定されて、知的大衆へと大きな変容を受けている)に生き生活するところにある。ここで考慮すべきことは、ふたつある。第一は、観念的知識的に上昇して、大衆から知的大衆へ、知的大衆から知識人へと逸脱していく過程は、観念・知識にとって還相的な意識的自覚的な価値過程ではなく、観念・知識における往相的な自然的な意味過程であって、「どんな有意義性ももたない」ということである。第二は、社会の構成の中枢にある経済過程は世界性を有しているから、経済社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく大衆が、生活の普遍性と生活の不可避性という世界性を持つ自らの<生活圏>自体の考察によって獲得していく生活思想の還相的な意識的自覚的な過程においては、民族国家の幻想的な枠組みを超えた「世界連合」が可能となるということである。ある国家において大多数の被支配としての一般大衆が貧困と飢餓に困窮しているとすれば、それは、その民族国家(政府)支配上層の責任である。何故ならば、「この世界に、(中略)実在するのは、少数の支配層と多数の被支配層との差別と矛盾だけであり、この実在する矛盾は、現在のところ各国の国家本質の実体(≪政府、支配上層≫)のもとにあり、それ以外のところには存在していない」からである。したがって、観念の共同性を本質とする国家の止揚・無化を志向し目指す知識人、知識的集団、前衛における「大衆がたえず噴出させる」大衆像と大衆的課題の把握は、「ただここから源泉をくみ、ここから出発」しなければならないのである。一方で、生活に重きを置く一般大衆の方は、自らの思考や知的関心を、自らの<生活圏>自体の考察に向け、そうすることによって獲得していく生活思想の還相的な意識的自覚的な過程において、民族国家の幻想的な枠組みを超えた「世界性」を獲得し、世界の大多数の被支配としての一般大衆と連帯でき得るのである。
 吉本は、ヘーゲルの『精神現象学』に依拠して、次のように述べている――ヘーゲルにとって、「夫・妻の関係は互いに認め合う相互認識関係」であるが、「自然的認識の水準にあるもので人倫的認識ではなく、精神の可能態であっても精神の現実態ではない」。したがって、「この関係は、子供という他者において現実となる」。ここでは、「個人は市民としてのみ現実的であり、家族の一員としては非現実的で無力な幻想である」。しかし、事実はヘーゲルの考察とは逆である。「人間は<家>において対となった共同性を獲得」し、ただ自然的関係である「家において現実的であり、人間的であるにすぎない」。「市民の概念は、最高の共同性としての国家の理念なくしては成りたたない」。したがって、「国家の本質をうたがえば、人間の存在の基盤はただ<家>においてだけ実体的なものであり、ただ大衆の原像においてだけ現実的な思想をもちうるにすぎない」。吉本は、自らの思想的立場として「平坦な生き方」・「平坦な生涯」を持つ原像としての大衆(大衆原像)に「権威と権力を収斂させ」、大衆が歴史の主人公・主体となり、大衆が社会的現実的にかつ総体的永続的に解放されるところに、歴史の究極像をおく。「『大衆の原像』にしか反権力、非権力の理念が包括すべきものはない」。しかし、経済的社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく「常民」性における大衆は、その生活(生活思想)の自然過程においては、「その時代の権力に過不足なく包括されてしまう存在」である。したがって、大衆的であることそれ自体では、「物神化すべき意味はなにもない」のである。それと同様に、「常識的な歴史の記述は、知的な巨人、政治的な巨人、権力的な巨人を、より多く記述のなかに登場させます。これは、価値の極限をこういう<巨人>の生き方、仕事においているからです。しかし、これらの<巨人>は大なり小なり価値の源泉(≪社会的存在の自然基底としての大衆の原像≫)からの大きな逸脱に過ぎません」、すなわち、それらの巨人は、価値ではない。このような訳で、「歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を持つ人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に着せられます」。「大衆は、その(≪大衆の経済的社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく≫)<常民>性を問題にする限り、その時代の権力に過不足なく包括されてしまう存在です。だから大衆的であること自体はなにも物神化すべき意味はないとおもいます。そしてこのような存在であることは、そのままその時代の権力を超えてしまう可能性に開かれている存在であることをも意味しています。つまり権力に抗いうる可能性というよりも<権力に包括され過ぎてしまう>という意味で、権力を超える契機をもっている存在ということです。だからあらゆる<政治的な革命>は、大衆の<され過ぎてしまう>から例外なく始動されてゆきます」。「このような大衆の存在可能性を<原像>とかんがえれば、そこに価値のアルファとオメガをおくよりほか、ありえないとおもいます」。
 「<帝力我に於いて何か有らんや>」=「支配者がどうかわろうとそんなことはおれに関係ない。おれはきょう耕してそれで収穫し、あすまた耕して収穫し、それで自分が食べていければ政治がどうなろうと、そんなことおれの関知するところではない」というところに、「常民」概念はある。この柳田國男の常民概念は、「大衆の原像」の意味と一致する。しかし、差異は次のところにある。大衆の原像は、(ア)経済的社会構成の時代水準に規定されて時代と共に変容していく、(イ)不可視な「権力の網の目のなかに」入ってしまう保守性、すなわち、納税行為や住民票・戸籍登録等において無自覚的に権力の網の目にはめ込まれていく保守性を持つ、ちょうど戦中の出征時において「元気で御奉公してまいります」という紋切型の挨拶における権力を無自覚的に受け入れていった保守性のように。しかし、大衆のアモルフ(amorph)な存在様式は、「情況や権力に過不足なく包括されてしまう存在」(保守性)でもあり、「情況や権力を超えてしまう可能性に開かれている存在」(革命性)でもあるという在り方にあり、この後者の側に革命の可能性の契機がある。思想にとっての普遍的な価値基準としての社会的存在の自然基底である大衆の「<原像>に思想の基準をおく根拠は、一般に知識と関心を拡大し、自己の生活圏の外に向かって知的な空間を拡げ、判断力を獲得しようとする過程は、観念にとっては(≪意識的自覚的な還相過程、<価値>的過程ではなくて、往相的な<意味>的過程としての≫)<自然過程>にすぎないという思想的なモチーフに基づいています」。人は、この観念・知識の往相的な自然過程を、「教育的、自覚的、あるいは啓蒙的な過程とみなしますが、わたしは観念にとって<自然過程>だとかんがえます。そうすると、当然、観念にとって教育的、自覚的、あるいは啓蒙的な過程は、たんに<生活圏>の別名であるように存在している大衆を、<原像>としてとらえかえす過程におくよりほかありません。現在も以前も、認識力によって大衆と区別される存在は、具体的な<生活圏>を大衆の近くに移行させるべきだという理念があります。かくして知識人は日雇い労務者に、あるいは農業の人民公社に移行されるというわけです。なるほど、それは新しい経験主義です。しかし、経験が人間をたすけるか、あるいは駄目にするかは、まったく個々の人間の恣意にゆだねられ、それ以上でもそれ以下でもありません。馴れない仕事で身体を損傷し、その代わりに倫理を肥大させ、馬鹿なことをいいだせばだすほど、意識を改造した人間ということになります。(≪観念・知識・思想に重きを置いて、生活的日常と観念的知識的非日常との総体を生きる≫)わたしが大衆の<原像>を(≪観念・知識の還相的過程において、すなわち意識的自覚的な価値的過程において≫)思想的に繰り込むことをいったとき、すこしも具体的にその<生活圏>に身柄を移行させる、ということを意味していなことは明確です。そんなことは、どうでもいいことですし、(≪自らの資質や状況あるいは内在的な要因や外在的な要因に強いられて、不可避的に観念・知識の世界に足を踏み入れた観念・知識に重きを置く≫)人間は<強いられた現実>しか、生き抜くことはできないことにきまっています。色々な生活の仕方の可能性というのは、もともと観念内部にとどまっている<観念>か、余裕のある<観念の遊び>(≪例えば(1−1)に出てくるエンジニア派遣会社メイテックの経営者の発言のように「観念の遊び」≫)か、のいずれかに過ぎません」。大衆原像は、社会的存在としての「自然」規定、すなわち、「人間の生き方、存在」における普遍的な等価な基準、「価値観の収斂する場所」としての「有意味化された価値基底」、思想にとっての普遍的な価値基準である。したがって、思想の課題としての観念・知識、自己意識・理性・思惟における意識的自覚的な過程(価値的過程)は、この「大衆の<原像>を包括すべく接近」し、その大衆の原像を、自らの観念・知識に繰り込んでいくところに想定できる。したがってまた、この思想的立場は、「具体的にその<生活圏>に身柄を移行させる」という、下放運動でも大衆同化でも大衆物神でも大衆迎合でも大衆啓蒙でも大衆主義でもないのである。(『思想の基準をめぐって』、『情況とはなにか』、『模写と鏡』、『情況とはなにかY』、『情況へ』、『マルクス―読みかえの方法』、『民主主義の神話――擬制の終焉』、『自立の思想的拠点』、『国家・家・大衆・知識人』、『いま、吉本隆明25時』、『遺書』、『超戦争論』、『大情況論』および吉本隆明・辻井喬『千九九〇年代の文化』等)。