本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏の感動的な発言をめぐって

ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏の感動的な発言をめぐって

 

 私は、かつて医学者で東北大学加齢研究所教授の川島隆太氏が、「世界中で売れている『脳を鍛える大人のDSトレーニング』ゲーム」の「監修料」「12億円」「全額」を使って、東北大学加齢研究所内に、「最新のレーザー顕微鏡」や「超高磁場の磁気共鳴画像装置」を備えた研究棟(研究室)を建設したという記事をヤフーニュースで読んで、川島氏はほんとうに研究者として偉い人だなと感動したように、がん細胞を攻撃する免疫細胞にブレーキをかけるタンパク質「PD−1」を発見した本庶氏が、若手研究者の基礎研究を振興するために、京都大学内に基金を立ち上げ、本庶氏の研究を基に実用化されたがん免疫療法治療薬オプジーボの特許料やノーベル賞の賞金を基金に入れる考えを示したという記事を読んで、本庶氏も研究者としてほんとうに偉い人だな、と感動したのだった、ちょうど講演料を支払う余裕がない主催者に対しては、交通費と食事代を支払うだけで講演に応じていたという吉本隆明は、詩人・文芸批評家・思想家としてほんとうに偉い人だな、と感動したように。そして、今回の記事で、さらに私が感動したことは、本庶氏の次のような発言内容にある(ヤフーニュースの記事を基にして書いてみる)。

 

(1)「極めて基礎的な研究が応用され、この治療法によって『元気になった』『あなたのおかげだ』と言われるときがあると、意味があったと実感し、何よりもうれしい。私は幸運な人間だ」(2018年10月2日、読売新聞朝刊)。「受賞よりもうれしいのは、患者の感謝の一言」。「これまで私たちは、病気を治したいという願望に応えようとする『欲求充足型』の治療に努力してきたが、これからは不安を和らげる『不安除去型』の医療も人を幸福にするという意味で同じくらい重要だ」。「多くの人に貢献したい」ということで、文科系の法学部等ではない自然科学系の「医学部」に進んだ。
(2)「一番重要なのは『何かを知りたい』『不思議だな』という心を大切にすること。それから、教科書に書いてあることを信じないことです」(2018年10月2日、読売新聞朝刊)。様々なマス・メディアを通して流され続けている「人が言っていることや教科書」は、誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語られたり書かれたりしていることが多々あるから、「全て信じてはいけない」、それらは「信じるんじゃなくて、疑わなければダメだ」、「よくマスコミの人は『ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ』という話をされるけれども、僕はいつも『ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だ』と言っていますし、大体そうだと思っています」。「『簡単にものごとを信じないことだ。専門誌のネイチャーやサイエンスに出ているものの9割はうそだと思うことにしている。論文や書いてあることを信じず、納得できるまで研究することが僕のやり方』と強調した」(2018年10月2日、読売新聞朝刊)。「まず、論文とか書いてあることを信じない。(≪自然科学系の医学者として≫)自分の目で確信ができるまでやる。それが、僕のサイエンスに対する基本的なやり方。つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやるということです」。
(3)自身の成果について「基礎研究から応用につながることは決してまれではないことを実証できた」と評価。「基礎研究を体系的に長期的展望で支援し、若い人が人生をかけて取り組んでよかったと思えるような国になるべきだ」と強調した。日本の科学技術政策については、「立案段階で依然として昔の発想から抜けていない。今もうかる分野に資金を投じてもしかたがない」。このことは、労働政策についても言えることである。

 

 先ず、本庶氏の(1)の発言について言えば、「受賞よりもうれしいのは、患者の感謝の一言」。「これまで私たちは、病気を治したいという願望に応えようとする『欲求充足型』の治療に努力してきたが、これからは不安を和らげる『不安除去型』の医療も人を幸福にするという意味で同じくらい重要だ」。「多くの人に貢献したい」ということで、文科系の法学部等ではない自然科学系の「医学部」に進んだ。
 こういう思惟と語りは、資質的にも意識的にも、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農業芸術概論要綱』)とか、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』のテーマみたいなものがその人の内面に存在していないと出てこない言葉であると言える。その具体的な証左は、若手研究者の基礎研究を振興するために、京都大学内に基金を立ち上げ、本庶氏の研究を基に実用化されたがん免疫療法治療薬オプジーボの特許料やノーベル賞の賞金を基金に入れる、という本庶氏の決断と態度にある。このようなことは、聖書的啓示証言に引き寄せて言うこともできる。すなわち、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの信の自然的な往相過程における過渡的相対的一面的部分的緊急的な救済の言葉に対して、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの)において、われわれ人間のために・われわれ人間に代わって・われわれ人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)ところのイエスは、換言すればわれわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、「何ら価値や力や資格もない」「罪によって暗くなり・破れた姿」のわれわれ「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆(≪・混合・協働・共働≫)されぬように、統一し給うた」イエスは、すなわちその死と復活というイエスの出来事(インマヌエルの出来事)は、神の側の真実としてある信の意識的な還相過程における個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の言葉(マタイ26・6−13、マルコ14・3−9)であるが、このような信における、信仰・神学・教会の宣教における、知識・思想の往還ということを認識し自覚していないならば、あのような言葉や決断や態度は出て来ないのである。このような思惟と語りとは全く違ったことを、キリスト教的著述家である佐藤優は、『はじめての宗教論』で先ず、個体的自己としての人間とその世代的総和、その個体的自己としての人間の類としての人類を分離してしまって、「右巻」で「究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察」すると述べ、「左巻」で神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」、と述べている。この佐藤には、先ず以て、聖書的啓示証言におけるイエス・キリストにおける死と復活の出来事(インマヌエルの出来事)において完了・成就された個体的自己としての人間、個体的自己の世代的総和、全人間、個体的自己としての人間の類としての人類、その世界、その時間性の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和という認識と自覚が欠けているだけでなく、さらには国家論、すなわち革命論(何故ならば、個体的自己としての全人間の現実的な、すなわち社会的な究極的総体的永続的な解放に、それ故に観念の共同性を本質とする国家の無化に、革命の究極像はあるから)における観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う、それ故に現実的な、すなわち社会的な究極的総体的永続的な個体的自己としての全人間の解放という認識と自覚も欠けているのである。佐藤は、バルトが『ローマ書』「第二版序言」で述べた、「キェルケゴールのいわゆる時間と永遠との『無限の質的差異』なるもの」の肯定的側面としての「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異ということを、またその否定的側面である「単独者」と「個人救済主義」ということを理解し自覚していないのである。したがって、佐藤は、あのような手垢にまみれた一面的皮相的な知識を羅列することしかできないのである。

 

 本庶氏の(2)の発言について言えば、本庶氏は、先ず以て医学の研究者であるから、あくまでも自分の専門分野の医学の知識の自然的な往相過程を知的に上昇して現存するその知識の頂にまで上り詰めた、その還りがけで、その知識の意識的な還相過程において、「僕はいつも『ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だ』と言っていますし、大体そうだと思っています」とか、「教科書に書いてあることを信じないことです」とか、「論文とか書いてあることを信じない」とか、というように述べていることは間違いのないことである、換言すれば本庶氏は、そのような研究姿勢で、自分で「納得できる」意識的な自覚的な還相過程における医学の知識を信じるというように述べていることは間違いのないことである、ちょうどそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」における第二の形態の聖書的啓示証言(その人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一の預言者および使徒たちの「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、啓示の概念の客観的現実性)に信頼し固執し連帯したバルトは、あくまでも教会の一つの機能としての神学(知識)の自然的な往相過程を知的に上昇して現存するその神学の知の頂にまで上り詰めた、その還りがけで、その神学の知の意識的な還相過程において自分の立場において、自然神学の段階を、自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚して、<非>自然神学の段階へと、<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと超え出て移行したように。何故ならば、そのような医学の知識こそが、「極めて基礎的な研究が応用され、この治療法によって『元気になった』『あなたのおかげだ』と言われるときがあると、意味があったと実感し、何よりもうれしい」それであるからである。
 いずれにしても、現在、価値や価値観の多様性のただ中において関係意識が加速的に衰退している時、あるいは解体している時、それ故に現存する社会の様々な悲惨な状況を凝視する時、東日本大震災以降流行語のようにマス・メディアに流通している人類史における農耕を経済的基盤としたアジア的段階に存在していた相互扶助とか・絆等々とかは、その裏返された表現であると言える。何故ならば、産業構造的に高度消費資本主義段階にある現在、農耕村落共同体は解体しているといってもよい水準にあるからである。したがって、多々粉飾され捻じ曲げられた様々な言語的なあるいは映像的なメディア的知識や情報、様々な支配層や指導層や知識人や著述家たちの知識や情報を、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることはしない方がよい、ということだけは確かなことなのである。何故ならば、吉本隆明が述べていたように、「国家の政策(≪法的政策的言語≫)を、知識人が(≪様々なメディアを介して≫)あらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを(≪その法的政策的言語を≫)大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、そしてそういう仕方で自分たちを戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層に対して、NHKや朝日新聞等々に対して、様々な指導層に対して、知識人に対して、敗戦時に徹底的な抗議や反抗をすることなく、むしろそうした権力を天然自然の災害と同じように受け入れていく在り方に、大多数の被支配としての一般国民・一般市民・一般大衆の敗北の在り方があったからである、現在でもこの敗北の在り方が残存しているからである。本当は、大多数の被支配としての生活を第一義とする一般大衆は――現在、その大衆は、高度情報社会下で、言語的・映像的マス・メディアの発達によって、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなってしまい、量的にも質的にも書かれ話される「知的大衆」へと大きな変容を受けてしまったのであるが――、あくまでも自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づいて、自立した生活思想を構成していくことが必要なのである。何故ならば、「歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即時体験と体験思想を逆さにもって、大衆を抑圧する強力とすること」にあるからである。例えば、かつて消費税増税論議において、財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は全面的に制度としての官僚、政治家、政府支配上層にあるということで、その論議の本当の本質的な問題点を指摘し、そうした消費税増税論議は本末転倒もはなはだしいと最も正当性のある発言をしていたのは名古屋市長の河村たかしだけだったのであるが、マス・メディアも、そのマス・メディアを介して法的政策的言語を介してマス・メディアに登場してくる知識人や著述家たちも、その支配上層に対する徹底的な追及はしないで、逆にその責任を消費税増税必要論で大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般大衆に転嫁することに加担したのである。それと共に、そうした消費税増税論議は本末転倒もはなはだしいと最も正当性のある発言をしていた名古屋市長の河村たかしをも片隅に追いやってしまったのである、ちょうど2009年の第45回衆議院議員総選挙で、神奈川県第11区から立候補し、自民党の小泉進次郎の地盤を崩し、本当に国民全体の奉仕者としての政治家になったであろうと思われる思惟と語りをしていた横粂勝仁を落選させ片隅に追いやってしまったように、国政の世界から排除してしまったように(それ故に、全面的に商業主義を前面化させているマス・メディアは、逆に、小泉純一郎と小泉進次郎を担ぎ上げたし、今も担ぎ上げているのである)。

 

 吉本が述べていたように、社会構成の中枢にある経済的社会構成における経済過程は世界性を有しているから、本当は、被支配としての大多数の一般国民・一般市民・一般大衆が、自らの生活の充足度の考察に基づいて、換言すれば自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づいて、社会構成の時代水準を自覚的に考え、判断し、評価(批判)していくところで獲得していく生活思想は、「世界性」を有しており、観念の共同性を本質とする民族国家の枠組みを超えて大多数の被支配としての一般国民・一般市民・一般大衆による「世界連合」を構成することを可能とするものなのである。また、ある国家において大多数の被支配としての生活を第一義とする一般国民・一般市民・一般大衆が貧困と飢餓に困窮しているとすれば、それは、その民族国家自身(具体的には、その政府自身)の社会構成の失敗によるものであり、その民族国家自身(具体的には、その政府自身)の責任なのである。何故ならば、「この世界に、(中略)実在するのは、少数の支配層と多数の被支配層との差別と矛盾だけであり、この実在する矛盾は、現在のところ各国の国家本質の実体(≪具体的には、政府自身≫)のもとにあり、それ以外のところには存在していない」(『模写と鏡』)からである。それに加担しているのが、様々なマス・メディアの法的政策的言語であり、それに群がる学者や著述家たちの法的政策的言語である。したがって、観念の共同性を本質とする国家の無化を目指す知識を第一義とする知識人あるいは知識的集団、政治的集団における「大衆がたえず噴出させる」大衆像とその大衆的課題の把握は、「ただここから源泉をくみ、ここから出発」しなければならないのである。そして、大多数の被支配としての生活を第一義とする一般国民・一般市民・一般大衆は、先ず以て、自らの思考や知的関心を、貧困と飢餓に困窮する自らの生活に向け、自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づいて、現存する社会の構成を自覚的に考え、判断し、評価(批判)していくところで生活思想を構成していく時、民族国家の共同幻想的な枠組みを超えて「世界性」を獲得し世界の大多数の被支配としての生活を第一義とする一般国民・一般市民・一般大衆と連帯でき得るのである。ここにおいて、国家論、換言すれば革命論、その革命の究極的課題(革命の還相的課題、最高綱領)は、観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う、現実的な、すなわち社会的な、大多数の被支配としての一般国民・一般市民・一般大衆の究極的総体的永遠的な解放にある、換言すれば大多数の被支配としての一般国民・一般市民・一般大衆を歴史の主人公・主体としていくところにある。また国家論、換言すれば革命論、その革命の緊急的課題(革命の往相的課題、最低綱領)は、国家の共同性を頂点とするすべての共同性を、大多数の被支配としての生活を第一義とする一般国民・一般市民・一般大衆にどこまでも開いていくところにある。これらのことを、現在において考えるとすれば、第一には、知識人、知識的集団、政治的集団が、自覚的に自らの知識過程に、国民国家、政治的近代国家、民族国家(具体的には、「政府」)や資本制「企業」に拮抗し得る、高度消費資本主義段階が付与した潜在的な経済的権力を備えた消費者大衆の像とその大衆的課題を繰り込み、それを観念の共同性を本質とする国家の無化の契機としていくところにある。第二には、法的中枢としてある憲法(国家の意志)を大多数の被支配としての一般国民・一般市民・一般大衆にどこまでも開いていくところにあるから、憲法改正時における国民投票だけでなく、大多数の被支配としての一般国民・一般市民・一般大衆がテロの標的になりかねないところの日米同盟に基づく自衛隊のイラク派遣の問題等々にあるように、彼らの生命や生活の持続や安全に関わる法案については、<国民投票>を実施する旨、憲法に<国民投票>条項を付加していくところにある。議会に対する解散請求等憲法へのリコール権の規定は、「議会制民主主義に対する異議申し立ての手段」であると、吉本は述べている。何故ならば、リコール権があれば、「国家は(≪大多数の被支配としての一般≫)国民に対して開」かれるから、国家の権力性の無化の課題としてある「次の段階に移行できる条件を持つこと」ができるからである。言い換えれば、一部支配上層に国家の政治権力を閉じさせないことができるからである。そうした法的制度的な物質的基礎の上に、共同幻想の書き換えの問題が登場してくるのである(『遺書』)。このような訳で、吉本は、かつて次のように述べたのである――<日―米>主権国家間の相互利益の保持と協調のための交渉・協定に基づく「外交」を、<小泉―ブッシュ>個人間の相互同意に基づく交際である「社交」と化して、国連多国籍軍として自衛隊をイラクに派遣させた小泉内閣への不支持の意思表示をしない「日本の国民」に対して、「困ったもの」だと苦言を呈し、「戦争というものを知らないのは幸福なことだけども、ここまでくると、これはちょっととんでもないことだぞ、というのがぼくの実感」である(『13歳は二度あるか――「現在を生きる自分」を考える』)、と。ここに、「その時代の権力に過不足なく包括されてしまう存在」としての大衆の存在様式の一面がある。しかし、大多数の被支配としての大衆のアモルフな存在様式は、「情況や権力に過不足なく包括されてしまう存在」(保守性)でもあり、「情況や権力を超えてしまう可能性に開かれている存在」(革命性)でもあるという点にある。したがって、この後者の側に革命の可能性の契機があるのであるから、それ故にこの革命的契機を、換言すれば時代と共に変容するその大衆像とその大衆的課題を、知識人、知識的集団、政治的集団は自覚的に自らの思想に繰り込まなければ、反権力、非権力、反体制の思想とはなり得ないのである。

 

 悪しき道程。「主婦は会合女性に、会合女性はウーマン・リブの女史に、ウーマン・リブの女史は、ヒステリー女に、そして終わりです。庶民は、半知識人に、半知識人は、知識人に、知識人は、前衛に、前衛は、官僚に、それで終着駅です。なぜならば、人々はずっと以前から、このような過程を、大衆の<造りかえ>の過程とみなしてきたからです。しかし、これは何ら<造りかえ>の過程ではなく、人間の観念作用にとっては<自然>過程にしか過ぎません。つまり、ほっておいても、遅かれ早かれそうなるという過程という以上の意味はありません。人間の観念にとって真に志向すべき方向への自覚的な過程は、逆に、大衆の<原像>を包括すべく接近し、この<原像>を社会的存在としての自然な基底というところから、有意味化された価値基底(≪知識・思想の自立の根拠である、知識・思想にとっての普遍的な価値基準としての社会的存在の自然基底≫)というところへ転倒することにあるようにおもわれます。
 自己の生活圏から現実的にも観念的にも出ようとしない大衆の<原像>は、あくまでも<原像>としてとらえたときにえられる概念であり、具体的に生きて行動している大衆は、どれほど極端な場合を想定しても、大なり小なりこの<原像>から逸脱して生活していることになります。けれど、この<原像>に思想の基準をおく根拠は、一般に知識と関心を拡大し、自己の生活圏の外に向かって知的な空間を拡げ、判断力を獲得しようとする過程は、観念にとっては<自然>過程にすぎないという思想的なモチーフに基づいています。人々はこれを教育的、自覚的、あるいは啓蒙的な過程とみなしますが、わたしは観念にとって<自然>過程だとかんがえます。そうすると、当然、観念にとって教育的、自覚的、あるいは啓蒙的な過程は、たんに<生活圏>の別名であるように存在している大衆を、<原像>としてとらえかえす過程におくよりほかありません。現在も以前も、認識力によって大衆と区別される存在は、具体的な<生活圏>を大衆の近くに移行させるべきだという理念があります。かくして知識人は日雇い労務者に、あるいは農業の人民公社に移行されるというわけです。なるほど、それは新しい経験主義です。しかし、経験が人間をたすけるか、あるいは駄目にするかは、まったく個々の人間の恣意にゆだねられ、それ以上でもそれ以下でもありません。馴れない仕事で身体を損傷し、その代わりに倫理を肥大させ、馬鹿なことをいいだせばだすほど、意識を改造した人間ということになります。わたしが大衆の<原像>を思想的に繰り込むこと(≪自分の立場による、知と非知、非日常と日常、観念と生活との架橋≫)をいったとき、すこしも具体的にその<生活圏>に身柄を移行させる、ということを意味していなことは明確です。そんなことは、どうでもいいことですし、(≪不可避的に知、非日常、観念を第一義とした知の世界に強いられて知識人として生き生活した吉本のように≫)人間は<強いられた現実>しか、生き抜くことはできないことにきまっています。色々な生活の仕方の可能性というのは、もともと観念内部にとどまっている<観念>か、余裕のある<観念の遊び>か、のいずれかに過ぎません」(『思想の基準をめぐって』)。
 この吉本は、「大衆は政治的に啓蒙されるべき存在にみえ、知識を注ぎこまねばならない無智な存在にみえ、自己の生活にしがみつき、自己の利益を追求するだけの亡者にみえてくる。これが現在、知識人とその政治的な集団である前衛の発想のカテゴリーにある知的なあるいは政治的な啓蒙思想のたどる必然的な経路である」、「しかし、わたしが大衆という名について語るとき、(≪知の自然的な往相過程において≫)倫理的なあるいは政治的な拠りどころとして語っているのでもなければ、(≪知の自然的な往相過程において、知からする非知への外部注入的な≫)啓蒙的な思考法によって語っているのでもない。あるがままに現に存在する大衆を、あるがままとしてとらえるために、(≪知の意識的な還相過程において≫)幻想(≪還相の観念、還相の思想≫)として大衆の名を語るのである」。このように思惟し語る吉本は、レーニンやトロツキーが国家は階級支配の道具であると述べたのに対して、その前に国家がなければ階級はないというところに国家の思想的な問題があるとして、「思想の問題としての国家は、あるがままの大衆の存在様式の原像からうみだされた共同的な幻想として成立し、そこから大衆の生活過程と逆立し矛盾するにいたったものとして規定される。それゆえ、知識人の政治集団としての前衛が、大衆的な課題に接近しようとするとき、大衆の社会生活としての存在と逆立し、しかも大衆の幻想の共同的な鏡である国家と必然的に衝突し、それを第一義的な課題としてふまえざるをえないのである」(『情況とはなにか』)、と述べている。

 

 さて、かつてヤフーニュース(2006年8月21日)には、次のような記事が載っていた――秋田県教育委員会の調査によれば、「家庭の教育力」について「低下していない」と回答した人は6%であったが、「低下している」と回答した人は68%で、悩みや不安を抱えている人は66%であった。地方都市においても、家族、家族意識の衰退・解体が進行しているのである。こうした家族問題の中心にある究極的課題は、法的政策的な家族法・家族制度という共同幻想の領域や、社会の構成水準や、「<社会的>というハンチュウにあるという家族社会学」の領域にあるのではない(何故ならば、家、社会、政治というものは、それぞれ違った次元の領域のものであるから)。したがって、相互関係はあるとしても、家族問題の中心にある究極的課題は、対なる共同性としての「<家>という構成の中心である<性>という対なる<幻想>の観念性と現実性」の領域にあるのである。言い換えれば、<家の問題>は「日常性」(現実性)の問題であるとともに「非日常性」(観念性)の領域の問題である。すなわち、愛情と信頼関係の問題、家事分担問題、愛憎問題、生活費の問題、親子問題、子育て問題等々の対関係・対幻想の領域の問題である。それ故に、対関係・対幻想の領域がそれらの家族問題を内在的に解決できない場合、その分だけ、対関係・対幻想の領域はそれらの家族問題の解決を次元の異なる国家の法的政策的言語(共同幻想)によってかすめ取られていくことにある、換言すればそれは、国家の共同幻想によって、侵蝕され続けていくことになる。対幻想の共同性としての<家>は、「習俗、信仰、感性の体系を、現実の家族関係と一見独立して進展させることはあっても」、次元の異なる社会の共同性や国家の共同性をまねきよせることはしない。しかし、社会や国家は、家族の成員の社会的幻想の表出を逆立した姿でかすめ取っていく。「ここでもまた、大衆の原像は、つねに<まだ>国家や社会になりきらない過渡的な存在である」。しかし、「すでに国家や社会もこえた何ものかである」(「情況とはなにかY」)。国家の共同幻想の意志である法制的中枢にある憲法、刑法、民法等の法的政策的言語に対して、知識人、知識的集団、政治的集団は、知識の自然過程である法的政策的な言語で対峙するが、原像としての大衆は「沈黙の意味性というもので対峙」し、「沈黙の意味でもって服従」する。この「沈黙の意味でもって服従」するとは、「けっして唯々諾々として服従していることとは」違う。すなわち、大衆が沈黙して服従していることの意味には、心的な憤懣、「心的な亀裂」を内包させているのである、換言すればそれは、心的には行動している事態である。その人間の「<行動>の初原的な形態」である<心的行動>は、叛逆的でもあり得る。このように、吉本は、身体的行動(身体の反射行動)を人間的な「<行動>の初原的な形態」とはみなさない。吉本は、「心身の<行動>に意味や価値を与えることができるのは、人間が他の動物とちがって、まず心的に<行動>し、つぎに身体的に<行動>するということを、おなじ対象性にたいしてなしうるということにのみ依存している」と述べてから、「人間のもっとも初原的な<行動>の形態は、身体が行動しないことである。ここで身体が行動しないことはふたつの境界を暗示する。ひとつは心的な行動もないことであり、もうひとつは心的な行動だけはするということである。この身体が行動しないことに伴う、心的な世界の分裂は、わたしたちに心身の相関する領域における観念的あるいは唯物的一元論が、観念的あるいは唯物的二元論とともに成りたたないことをおしえている」(『メルロオ=ポンティの哲学について』)、と論じている。吉本は、意味的行動とは現実の場で身体的行動だけがなされることであり、価値的行動とは現実の場で心的行動だけがなされ身体的行動はなされないことであると規定して、心的行動が非行動ではなく価値的行動として価値性を有する根拠を、「価値的行動では<行動>が現実の<場>と一義的な関係をもたず、そこに予想されるものは、いつも<場>との多義的な関係である」(『行動の内部構造』)という点に置いている。したがって、「国家の共同幻想にたいして対決しうる唯一のものは」、それと本質的に逆立する文学等の「個人幻想である」が、知識人、知識的集団、政治的集団(その共同性)が「国家の共同幻想にたいして反体制的であり得る唯一の可能性」は、時代と共に変容する大衆の「沈黙の意味」である価値的行動としての心的な憤懣、「心的な亀裂」を、絶えず繰り返し思想的な課題として繰り込んでいくところにしか存在し得ないのである。そういう仕方でしか、「知識人の集団(≪その共同性≫)というものは、いわば反体制的には存在しえない」のである(『自立的思想の形成について』)。したがって、半聖・半世俗の日本基督教団の「戦争責任の告白」も「戦後70年にあたっての平和を求める祈り」も反権力的、非権力的、反体制的なそれではないのである。

 

 さて、特に東日本大震災以降に、一方で、人々がマス・メディアを通して、何事につけても絆とか感謝とか恩返しとかいう言葉を付与し流通させ氾濫させている中で、他方で、人々は、現存する市民社会の中に、日常茶飯事のように起こっている、私利・私意による利害対立、騙し、愛憎問題、金銭問題、家族問題、友人問題、職場問題、他者への現実的侵害問題、いざこざ、傷害、殺害という悲劇や惨劇を目の当たりにしている。かつて朝日新聞(2006年9月17日朝刊)には、次のような記事が載っていた――小泉首相の靖国参拝問題ではじまった靖国問題への世論の動向について、加藤絋一は、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示した発言が報道された時点では靖国参拝の反対派が多くなったが、小泉首相が靖国参拝後「いつ行っても国際問題にしようとする勢力がある」と話した時点から賛成派が増え逆転現象が起きたのだが、そのことは「束縛のない自由な社会になったものの、何がいいのかみんながわからなくなって浮遊している」証左である、換言すれば人々の間で、価値あるいは価値観が多様化して、人々の関係意識が衰退し解体している証左である、と。このような時代水準のただ中で、宗教者、坊主、神父、牧師、大学知識人、教員、医者、弁護士、警察官、道徳家、国民全体あるいは住民全体の奉仕者である国の政治家や国家官僚や地方の政治家や公務員、善人、誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか様々ないざこざとか利害対立とか等々の不可避な「機縁」(契機)さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るし、どのような悪をも行い得る、という親鸞の未来に生きる究極的観点(還相的観点)からする言葉こそが、その一方通行的で一面的相対的形而上学的な善人ぶった正義感ぶった自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)からする思惟と語りの虚偽性を暴露することができるそれであるし、そうした観点を包括し止揚し克服できるそれなのである。一方通行的で一面的な、善人ぶった人間とその言葉、正義感ぶった人間とその言葉は、本庶氏の言い方に即して言えば、「信じるんじゃなくて、疑わなければダメだ」、「簡単に……信じないことだ」という点に、現実性と妥当性があると言える。

 

(3)の発言について言えば、本庶氏は、自身の成果について「基礎研究から応用につながることは決してまれではないことを実証できた」と評価し、「基礎研究を体系的に長期的展望で支援し、若い人が人生をかけて取り組んでよかったと思えるような国になるべきだ」と強調し、日本の科学技術政策については「立案段階で依然として昔の発想から抜けていない。今儲かる分野に資金を投じてもしかたがない」ということを語っている。このことは労働政策についてもいえることである。すなわち、目先の利益だけを追求する資金投資には未来はないということを語っている。
この本庶氏の思惟と語りとは違って、また世界が全体が幸せにならなければ個人の幸せはあり得ないし・本当の幸せとはならないという(『農業芸術概論要綱』の言葉や『よだかの星』のテーマにある)宮沢賢治の思惟と語りとは違って、本当は<国民全体の奉仕者>であるべきであるにもかかわらず、ただ単なる学業的な優等生として自らは社会的地位を確保された安全な場所から、東大法学部卒の経済産業省の官僚たちの近視眼的に為されたな思惟と語りは次のようなものである――すなわち、それは、「日本の危機を率直に認め」、『不安な個人、立ちすくむ国家』を著わし、私的な「個人の生き方や価値観が急変しているのに、終身雇用など『昭和の標準モデル』を前提に作られた制度と、それを当然と思いがちな価値観が絡み合い、『日本の社会システムはちっとも変化できていない』」(2018年3月12日、読売新聞朝刊)というものである。このような近視眼的な思惟と語りに対して、「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(『ユダヤ人問題によせて』)ということで高度消費資本主義段階の資本主義を生き生活し分析した吉本は、「人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、……課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから」(『経済学批判』「序言」)、現在的な問題を考えること、すなわち現在を止揚することを考えることは未来を考えることであると同時、人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的段階(日本で言えば、縄文的段階)にまで時間を遡って考えることでなければならないとして、次のように述べている――資本主義が悪や欠陥を持っていることは、制度的必然として原理的に自明なことである。しかし、資本主義は「人類の歴史の無意識の生んだ……最高の出来栄えの作品」である、換言すればそれは、自然史の一部である人類史の自然史的過程における経済社会構成の拡大・高度化という自然史的必然としての尖端的な作品である。したがって、「資本主義が生み出した文明も文化も人類の最高の作品」である。したがってまた、資本主義には「悪」と「欠陥」があるから資本主義が生み出した「文明や文化や商品も悪」で欠陥があると資本主義を批判しその文明や文化を批判しても、その「最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」。すなわち、その根拠を揺るがし資本主義を超えるには、最高綱領としての還相的な究極的総体的永続的課題として、人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的段階(日本で言えば、縄文的段階)にまで時間を遡って考え、そこにおける様々な贈与価値論(贈与制)を掘り下げるという仕方で、現存する高度消費資本主義の段階にある資本主義を包括し止揚し得る新たな生産様式(新たな贈与価値論)を明確に提起する以外にはないのである。言い換えれば、還相的な究極的総体的永続的な課題としては、人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的段階(日本で言えば、縄文的段階)にまで時間を遡って考え、そこにおける様々な<贈与>価値論(贈与制)を掘り下げ、資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論、新たな<贈与>価値論)を明確に提起する以外にないのである。吉本に依拠して言えば、それは、世界普遍性としてある人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的段階(日本で言えば、縄文的段階)における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づくその再構成にある、換言すればそれは、民族国家の枠組みを超えた世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、すなわち等価交換的価値論を包括し止揚した高次の<贈与>価値論(贈与制)の構成にある。それができれば、経済社会構成を資本制におく西洋近代を超え出て、人類は次の段階に超出することができる。また、最低綱領としての過渡的相対的緊急的課題としては、次のような考察にあると言える――「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(『ユダヤ人問題によせて』)ということで生産資本主義段階の資本主義を生き生活し分析したマルクスは、『資本主義的生産に先行する諸形態』で、「ロシア(≪地域ロシア≫)における共産主義的所有の形態は、それ自身、(≪自然史の一部である人類史の自然史的過程における≫)諸発展の全系列を経過した、前古代的な型(≪すなわち人類史のアジア的段階≫)のもっとも近代的な形態である」・「もしもロシアが世界において孤立しているとしたら、ロシアは、西ヨーロッパが原始共同社会の存在以来現状にいたるまでの長い一連の発展を経過してはじめて獲得した経済的征服を、独力でつくりあげなければならないであろう。(中略)しかし、……、ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の<肯定的成果>をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的である形態(≪人類史のアジア的段階における相互扶助意識等の<肯定的>側面、例えばこの肯定的側面に根拠づけられる終身雇用制と年功序列型賃金体系≫)を破壊しないで、それを発展させ変形することができる」、と述べている。しかし、前述したことを認識し自覚しない支配の側の主たる企業経営者や経済学者や政治家や官僚たちの動きは、その肯定的側面までも破壊してしまおうとしているのである。そのような社会構成・支配構成・文明的文化的構成のただ中で、最近のヤフーニュースからすると、次のような事態が起きているのである。

 

(ア)2018年10月18日のヤフーニュースを見ていたら、「見ず知らずの女子大生に対する性的暴行の疑いで逮捕・送検された慶應大学経済学部2年の渡辺陽太容疑者」は、「ミスター慶応コンテストの紹介映像で」、バラエティー番組のタレントたちと同じようにお金等々の対価(この大学生の場合は、石原裕次郎のようになれという祖父の言葉らしいそれ)を受け取ることを前提とした「人を<喜ばせること>に貢献できたらいいなと考えています」と語っていた記事が載っていた。この場合、バラエティー番組のタレントたちのようにある対価を受け取ることを前提とした「喜ばせること」・「笑わせること」(そのためには、テレに映像を眺めている限り、ある相手を身体的にまた精神的に、侵害したり、痛めつけたり、いじめたり、けなしたり、除け者にしたりすること等も容認されている)であるから、それは、ある対価を受け取ることを前提としないところでその往還思想において個体的自己としての人間の(その世代的総和の、その個体的自己としての全人間の、その人間の類としての人類の)全体と個との<幸福・救済>を考えた優れた思想家であり、(『銀河鉄道の夜』等にもあるように、人間的な嫉妬、弱さ、不純さ、自己欺瞞を認識し自覚しつつ為されたところの)身近な農民のために身も心も尽くした宮沢賢治のような人々とは全く違っている。ここで、吉本に依拠して言えば、個人の概念が様々な風貌をもち、様々な自己資質をもち、様々な生活、感情、嗜好、社会的地位、思想、行動、意志、恣意性を有しているのに対して、個体とは個人概念の抽象としての個体の内部構造、個体の意識構造、「個体における存在の根本的な構造」において生きる人間存在の様式のことであり(『マルクス―読みかえの方法』)、自己「身体の組織的な統一性を加味する概念」のことである(『教育 学校 思想』)。

 

(イ)2018年8月8日のBuiness Insider Japan編集部とYahoo!ニュースの共同企画による「転職バブルの正体」>の記事には、次のように書かれている――都内のあるIT企業は、「年次に応じた一律給与ではなく、市場価値の高い社員には対価を支払いたいので、能力給に切り替え」た、「その結果、新卒2年目の同期でも人によっては、年収100万円くらいの差が生じている。終身雇用、年功序列を掲げてきた従来の日本企業では、考えにくい程の格差だが、この人事部長の見方は驚くほどシビアだ」、「『能力が高い人は評価されると認識してもらいたい。それが全体の底上げにつながり、社員の、ひいては事業の成長につながる』。一方で、全く昇給していない人についてはこうだ。『見込みがないという会社からのメッセージ』」と認識してもらいたい。したがって、「そういう層が仮にドロップアウトしても仕方ない、とも考えています』」、「フリマアプリで急成長するメルカリの入社後の給与も『無制限昇給』。『年平均、何パーセント昇給のような基準はないです。本人の成果と会社の価値観に合った行動を総合評価して決める。この方がフェアです』。能力や成果が違うのに報酬に差のない方がむしろ『不公平』という思考に基づいている」、「そもそも採用時点で、報酬が違うというケースも珍しくない。年功序列で横並び昇給は、勢いのあるベンチャー企業界隈では『今は昔』だ。メルカリは2018年4月入社から、新卒採用の内定者には入社前から昇給させる新制度を導入した。内定期間中でも、入社前にスキルや経験を身につければ、評価に応じて給与に反映させる。入社前から、横並びではない。サイバーエージェントも2018年4月入社の新卒エンジニアを対象に、一律の初任給の給与体系を廃止。最低年棒450万円〜という給与体系とは別に、高度な技術や実績を持つ人を対象にしたエキスパート認定(最低年俸720万円〜)を選考段階から導入した」、「エンジニアを中心に明確な実力主義が貫かれるのは、『一律昇給では、熾烈な採用競争に勝てない』との切実な人手不足があるからだ」、「『40代で1社で働き続けてきた人などは、市場価値を見誤りがちです』、『これまで大手企業で1000万円もらってきたのだから、他社でももらえるだろうと』いうように。しかし、「実態はこうだ。『元々の会社では就業年数や貢献度などで、給与がかさ上げされている状態であることも多い。転職すると、そうした部分がなくなるので、当然、年収は下がる。そこを客観的に見られずに、転職がなかなか決まらないケースはよくあります』。東芝が粉飾決算の不祥事で紛糾したときに、多くの社員が転職市場に出た。しかし、東芝が年功序列を軸とした旧来型の給与体系だったこともあり、本人の自己評価と市場価値のギャップから『転職先が決まらず苦労する人が多かった』(転職エージェント)ことは、業界では知られた話だ」、「35歳転職限界説が崩れつつあると言われていますが、決して転職がラクになったわけではありません」と「30代後半から50代の転職を手がける『ミドルの転職』事業部長の天野博文は釘をさす。少子高齢社会では、定年後の生活が長く、手厚い社会保障も期待できない。生涯働き続けるライフスタイルで、生涯1社も考えにくい。終身雇用、新卒一括採用が崩壊していく社会では、市場が働き手をふるい分けていく」、人々は「人手不足とはいえ、社内でも社外でも、シビアな『個人差』のつく時代を生きる」ことが強いられている、全面的に私利・私意を前面化させた時代を生きることが強いられている。前述したあの人事部長の発言から、あの人事部長は、「人間は他の人間を了解できないということが、かえって他の人間に命令を下し、将棋の駒のように動かし、他の人間がじぶんをどう考えるかを無視できる有利な基盤なのだという、人間どうしの黙契に慣れ」(『吉本隆明全著作集9 作家論V』――島尾敏夫論)ている人物である。このように見てくると、それらの動きは、会社組織が、一方で私的な個人に価値を置いているように見えるのであるが、実は人類史における農業を経済的基盤としたアジア的段階における肯定的側面であった相互扶助意識等を後景へと押しやって、それ故にその肯定的側面に根拠づけられる終身雇用制と年功序列型賃金体系を後景へと押しやって、その会社組織の効率性と営利性を第一義的に優先する雇用制、賃金体系を志向し目指しているということが分かる。この場合、資質的に関係の異和意識を持ち争いや競争を好まない人間は、病んでしまうに違いない。こうした中で、生産資本主義段階における病は身体的な肺病であったが、現存する高度消費資本主義段階、高度情報社会下において、人々は、正常と異常との境界を行き来する精神の病を抱えながら生きることが強いられている。私利・私意を精神とする近代市民社会における価値の多様化、価値観の多様化は、共同体至上意識がいつも個体性を超えていくことを無化させるという肯定的側面を持っているのであるが、否定的な側面も持っていて、それは、利己主義を助長するという側面であり、関係意識の衰退や解体をたらしていくという側面である。他者を現実的に侵害しないという点に個人主義が想定されるのであるが、利己主義は他者を現実的に侵害するという否定的側面を持っている。前述した法の支配の下での法による行政に基づく政治的近代国家の職能団体である支配の側の制度としての官僚たちは、最低綱領としての国家論の、換言すれば革命論の過渡的部分的相対的緊急的な課題の提起においても、近視眼的なのである。

 

 また、文春オンラインには、「三菱UFJ頭取三毛兼承氏」が「『さらば年功序列』宣言 いま変わらなければ銀行は“絶滅”する」というタイトルで、「着実に進行する少子高齢化と人口減少、常態化する経済の低成長と超低金利状態。そして、急速に進展するデジタル化は、日本社会の根幹を大きく変えようとしています。頭取に就任した直後から、私はこの数年考えてきたことを思い切って公言してきました」、「伝統的な商業銀行モデルは構造不況化している」、「銀行モデルと現実のビジネスの乖離は、もはや従来型の改善の積み重ねでは対処できない段階にまで進行してしまっています」という記事を載せている、もっとシビアな上からの構造改革が必要であるという記事を載せている。

 

 また、2018年7月のヤフーニュースには、「消える一般職、事務職正社員の需給ミスマッチ――『価値生まない仕事』は自動化される」という記事があり、そこには次のように書かれていた。すなわち、そこには、「直近の有効求人倍率が44年ぶりの高水準を記録するなど、空前の売り手市場となっている転職事情だが、詰めかける希望者に対し、正社員の求人が圧倒的に少ない」し、労働市場の「需給バランス以前にそもそも、職場から多くの一般事務の仕事が消え始めている」ということが書かれていた。したがって、「人気の一般事務への転職は、売り手市場でも実は難しい」。「例えばリクルートキャリアの調査を見ても、6月の転職求人倍率(登録者1人に対して、求人数が何件あるかを算出した数値)は全職種で1.77倍、『インターネット専門職』や『ソフトウエア開発エンジニア』であれば4倍以上という好条件の中で、『オフィスワーク事務職』の求人倍率0.39と、1人あたり1件を大きく割り込」んでいる。このような労働市場の中で、「印刷業界で長年、営業を担当してきた……36歳」の既婚者のMさんは、「できるだけ早く子どもが欲しいこともあり」、「転職が決まるより先に退職してしまった」のだが、「20社近く応募しても、8割は書類で落とされ面接にも至らなかった」。現在、「会社の核として働きたい」、「(出産育児、介護など)ライフイベントを経ても1社で長く働きたい」、「残業」が少なくて「有給休暇」が取りやすい「働き方」をしたいという女性に人気の「一般事務の求人」は、「求人1件に、200〜300人の応募」状況にある。このように、「現実は、そう甘くはない」。現在、「事務になれば仕事が楽になるというのは大間違いです(井出迫さん)」。ただ、「正社員としてではなく」、その待遇が大きく違う、また景気悪化に伴って雇用調整で失職させられる「非正規や派遣社員としてなら採用する会社は少なくないです(高橋紀夫さん)」。「いわゆる一般職とされてきた事務職はなくなりつつあります。派遣やパートでの求人が増えているのも、今後の自動化AI化に向けて、企業側がこうした業務を、社外に切り出しているとも言えるでしょう(井出迫さん)」。すなわち、企業側が、目先の利益だけを追求して「価値を生まない仕事は減ら」そうとしている。「2017年秋、三菱UFJ銀行、みずほフィナンシャルグループ(FG)、三井住友FG、3メガ合算で、数年かけて訳3万2000人分の『業務量削減』方針が報じられた」。「新卒採用も当然抑制され、最も大幅に減らすみずほFGでは、2017年では1100人程度採用していた一般職を、2019年では200人にまで絞る」、という。「損害保険ジャパン日本興亜の業務改革推進部の責任者」は、「RPA(ロボットによる業務自動化)」を導入することで、「価値を生まない仕事は減らしたい。自動化したいという狙いです」と話している。そして、「2017年秋から……同年度末までに、労働時間で9万7000時間を削減した」という。工場制機械工業、工業化を推進した産業革命が手工業を包括し止揚したように、「RPA(ロボットによる業務自動化)」が一般事務職を包括し止揚して、「RPA」に従事する「RPA人材」を必要とし出した、という。このような状況に対して、「長年、転職市場の変化を追う、リクナビNEXT編集長の藤井薫さん」は、「AIやロボットがタスク(作業)を奪う議論は常にありますが、人間だけができる仕事は実は多い。(一般事務職が)消えると言うより、タスクが消えて、新たな仕事は増える」というように言った方がよい、「つまり、トランスフォーム(変わる)というのが実態ではないでしょうか」、と述べている。
 2015年の東洋ゴム工業による免震ゴムの性能データ改ざん、今回のKYBや同社子会社の免震・制振装置の検査データ改ざん等々における企業問題も、企業が将来に生きる信用、将来に生きる安心安全を目指さず、目先の利益だけを目指している証左だと言うことができる。