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『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-3)-4

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-3)(33-53頁)

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-3)-4
 神の本質の区別を包括した単一性において、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方において三度別様に父、子、聖霊なる神としての三位一体の「神ご自身」は、神と人間との無限の質的差異の下で、「神とは異なった世界(≪自然の一部である自己身体あるいは性としての他者身体、肉体・身体を座とした精神・意識を持つ人間、その人間が人間化した人間的自然、宇宙を含めた全自然、その時間性、その場所と時間≫)の創造者およびその主であり給うことができ……同時にまたそのような仕方で唯一の方であり、単純な方であり給う」。この「神の中には、(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、働き、業、行為、すなわち父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主という多種多様な全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在における≫)その性質の豊かな富が存在している」。したがって、「被造物の本質と現実存在の、そのようにして被造物的な近さと遠さ」は、そのような三位一体の「神ご自身の中で永遠からして実在している神的な近さと遠さ」を「根拠および前提」としている、ちょうどあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠した信仰の類比・関係の類比から言えば、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、それ自体としては「非本来的なもの」であり、神と人間との無限の質的差異の下での「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているように(それ故に、ここでは、自然神学的なあるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教におけるような存在の類比という概念は成立することはできない)。「神ご自身の中で永遠からして実在している神的な近さと遠さ」は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」ところの、自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在な、完全な「神の自由」・主権において、ご自身の中での神として「ご自身に対して現臨し給う」が故に、またわれわれのための神として「他者に対して現臨し給うことができる」のである、ちょうど神の側の真実としてあるイエス・キリストにおけるインマヌエルの出来事が、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、神と人間との無限の質的差異の下で、ご自身の中での神としての「神であることを廃めず」に、「何ら価値や力や資格もない」「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の(≪われわれのための神としての≫)神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆(≪混合・協働・共働・折衷≫)されぬように、統一し給うた」ということを内容としているように。このことが、「それの内的および外的な意味深さの中での神の永遠的な愛である」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、働き、業、行為、永遠的なる父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主なる神という全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在である。キリストにあっての三位一体の「神は、ご自身の中で、ただ単に(≪ご自身の中での神として≫)存在されるだけでなく、(≪われわれのための神として≫)共に存在し給う。それであるから、神は、(≪神と人間との無限の質差異の下で、われわれのための神として≫)他者と共に存在し給う」。神とは異なる「他者に対して神ご自身との共存を与え」、それ故に「ご自身が(≪われわれのための神として≫)他者との共存の中に赴き給うということは、神の本質に矛盾するものではなく、神の本質に対応していることである」。したがって、「もちろん、この共存は、神ご自身の本質を通して措定され、条件づけられ、規定され、限界づけられた共存であって、それ以外のものではあり得ない……」。したがってまた、「この共存」は、「神の神的現実存在の無条件な優位性を通して」、それ故に「神と共存する他者の現実存在の無条件的な従属性を通して特徴づけられている……」。すなわち、あくまでも「無条件的な従属性」を命令・要求・要請されているのであって、人間の側からする、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求からする、人間の恣意性・独善性からする神との混淆・混合・共働・協働・折衷を命令・要求・要請されているのではない。「まさにこの前提」、この「秩序の中でこそ、この共存は、神のご自身の中に基礎づけられており、神ご自身の中で可能である」、ちょうど教会の宣教、その思惟と語りと行動が、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、神の子イエス・キリスト自身(具体的には、その第二の形態の預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言)をその<客観的>な原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方でのみ可能であるように、また信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)が、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてのみ、終末論的限界の下で与えられるように。愛に基づく起源的な第一の存在の仕方としての父と第二の存在の仕方としての子の交わりである第三の存在の仕方としての聖霊(≪この聖霊の中で、「父は子の父」、「言葉の語り手」(啓示者)であり、「子は父の子」、「語り手の言葉」(啓示)であって、ここには神的な愛に基づく完全な共存的関係・交わりがあり、それは、神は愛である・愛は神であることの根拠である」≫)における神的な「愛は、神にとって、最高の法則であり、(≪三位一体の神の第三の存在の仕方として≫)最後的な実在である」。すなわち、キリストにあっての三位一体の「神は、ご自身の中で、愛であり給う。それであるから、その限り、(≪ご自身の中での神としての≫)ご自身の中で、(≪われわれのための神としての≫)遍在の尊厳性と主権性の性質が神にとってもともと固有である」。このことは、あの「神的な愛なしには……理解されることはできない……。何故ならば、神の愛(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、働き、業、行為、永遠的なる父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主なる神という全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)なしには、いかなるそのほかのものも存在し得ないであろう」から、「神と並んで(≪神とは異なる≫)万物」は、それ故に「また万物と関わる神的現臨」は、それ故に「また神ご自身の遍在的な本質の啓示と認識」は、「存在し得ないであろう」からである。「しかし、人は逆に次のことに注意せよ」――すなわち、人は、「もしも神が、神とは異なる他者に対して、(≪ご自身の中での神としての≫)神ご自身の中で遍在し給う方(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方の<起源的>な第一の存在の仕方である「父なる名の<内>三位一体的特殊性・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」において遍在し給う方≫)であるということに基づいて(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・創造主、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・和解主、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・救済主として≫)現臨されないならば、いかなる神の愛も存在せず、いかなる神の言葉の受肉も存在せず」、それ故に「創造者としての神の行為の啓示も存在しない」ということに注意しなければならない。「神の愛の性質、それの啓示(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストにおける神の愛は、(≪先行する≫)神自身の人間に対する神の愛と(≪先行する≫)神に対する人間の愛の同一である」≫)の中での(≪「神の恵みと神聖性」・「神のあわれみと義」・「神の忍耐と知恵」という神の本質の区別を包括した単一性における≫)神の恵み、あわれみ、忍耐」は、ちょうどイエス・キリストにおけるインマヌエルの出来事は、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、神は「神であることを廃めず」に、「何ら価値や力や資格もない」「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも」「混淆」・「混合」・「協働」・「協働」・「折衷」「されぬように、統一し給うた」ということを内容としているのであるが、そのような在り方における「神の遍在の、すなわち神とは異なる他者との主権的な共存の、また神的存在とのその同一性の中での精密規定であり」、「神が先ず第一に(≪ご自身の中での神として≫)ご自身に対して現臨なさる方(≪父なる名の<内>三位一体的特殊性・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」において現臨し給う方≫)として、(≪神の側の真実において、先行的に≫)神とは異なる世界を愛され」、それ故にわれわれのための神として「そのような世界の創造主、和解主、救済主……であり給うことができる際の在り方(Art)の規定である」。「この関連性によって、われわれは、この神的な完全性の考察に際しても、……その中で(≪聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した≫)われわれの解釈の試みの最初の、また最後の法廷としての神的愛の言葉と業(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造における起源的な第一の形態の神の言葉、神の子イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言≫)を堅くとって離さないでいなければならない循環の中にいるということが保証されるのである」。
 「昔の教義学」は、「人間の意識に対象としてやって来るすべてのものは根源的には空間および時間に分割されるほかはない」から(下記の【注】を参照)、「空間との神の関係が問題」であるという思惟による「神の遍在」と「時間との神の関係が問題」であるという思惟による「神の永遠性」とを「平行的に並置」し、それを「神と出会う人間からして(≪人間の側から人間が先行する仕方で「自明的」に≫)立て」たのであるが、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯するという仕方で、自然神学あるいは自然神学的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚し克服した<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて成立する「キリスト教的な神認識が問題である時」には、神の本質の区別を包括した単一性において「神の遍在」と「神の永遠性」とを語らなければならないのであり、それ故にそれは、「人間と出会い給う神からして(≪神の側から、神が先行する仕方で≫)立てられなければならない」のである。言い換えれば、自然神学あるいは自然神学的な信仰・神学・教会の宣教の段階における人間学的「認識論」的な「遍在」と「永遠性」との概念の「平行的な並置」は、「論理的、形而上学的な明瞭さを作り出す」のであるが、この時、人は、「空間と時間」を「限界として」・「条件として」、そして「それらの限界と条件を通して拘束されず、むしろそれらの限界と条件を措定し包括する最高存在および世界の原理として理解する(≪この最高存在および世界原理は、ちょうど人は誰であれ、個と類・歴史的現存性と現実的現存性との総体性を生き、自然としての時間と空間に拘束される知覚作用の座である身体を持っているのであるが、その身体を座とする<自由>な内面の無限性、<自由>な自己意識・理性・思惟の類的機能・類的活動を持っているから、それは、人間自身が対象化し客体化し外在化した「存在者レベルでの神」というべきものである≫)」。われわれは、神の本質の区別を包括した単一性において、「確かに……神を遍在される方であると言う時と神は永遠であり給うと呼ぶ時とで、最後的には同じ一つのことについて語っている」(何故ならば、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された三位一体の神は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方において三度別様に、父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主なる神として、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在であるから)のであるが、このことは、「神的本質のすべての完全性について妥当することであって」、それ故に「神の遍在と永遠性」は、神とは異なる被造物的な人間の自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化され外在化された(「われわれ被造物的現実存在と世界の問題の観点」からする)「ほかの完全性」と「妥当するということではない」のである。「ここで……(≪聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯するという仕方で、自然神学あるいは自然神学的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚し克服した<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階に移行した≫)キリスト教的な神認識が問題である時」には、神の側の真実としてある「神の遍在は、神がただ単にひとりの方であるだけでなく」、すなわち「ただ単に唯一の方そして単純な方であるだけでなく」、「そのようなものとして(≪ご自身の中での神としての≫)ご自身に対して、それからまた(≪われわれのための神としての≫)神を通して神の外にあるすべてのものに対しても、現臨される限り、主要なこととして、神の愛の完全性(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方、父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事の完全性≫)として理解されなければならないのである」。

 

【注】個体とは、その内部構造・意識構造・「存在の根本的な構造」における個、対、共同性という人間の三つの存在様式の一つの存在様式のことである。その個体の内部構造・意識構造は、自己関係づけと自己抽象づけとの構造としてある。自己関係づけとは自己の身体が<ここ(空間)>にあるという意識、自己を自己として関係づける意識である。すなわち、自己の自然的な生理的身体を内在的に関係づける意識、空間的な自己意識である。また、自己抽象づけとは自分の身体が<現(時間)>にあるという意識であり、自己を自己として抽象する意識である。すなわち、自己の自然的な生理的身体を内在的に抽象化する意識、時間的な自己意識である。したがって、 「対象的に関係づけられて存在するのが個体である」とする現象学や実存主義は、「本質直観」における知覚や感覚に依拠した自己了解や自然了解を――すなわち「自己対象了解……自然対象了解……を人間の存在本質の根本におくわけですけれども、わたくしどものかんがえではそうではない」と吉本隆明は批判するのである、換言すれば吉本は、個体性の哲学の本質を、自己関係づけと自己抽象づけの構造において、「個体は個体として自己に関係づけられるから、はじめて対象的に関係づけられる」という点に置いたのである。自己関係づけと自己抽象づけの構造において、「個体は個体として自己に関係づけられるから」、対象(自己身体・性としての他者身体・環界)を対象的に関係づけることができるのである。この人間的個体は、様々な観念的諸生産物を創出・産出することができる。ところで、自己抽象付けの度合は、了解性によって測られ、了解性は時間性によって測られる。したがって、認識の了解性の度合・抽象の度合の差異は、時間化度の差異による。また、知覚の拡がりや延長という自己関係づけの度合は空間化度によって測られる。そしてまた、了解性が時間性である根拠は次の点にある――すなわち「人間はさまざまな体験や感覚のみがき方」をし、そうした時間累積の果てに「現代的な感覚や現代的な知覚作用をもつにいたった」という原始・未開から現代までの時間の累積(歴史性)にある。したがって、古代人と現代人において、感官に映る対象は同じであっても認識の度合に差異が生じるのは、時間化の度合、時間累積の度合の差異、すなわち了解性の度合の差異によるのである。すなわち、古代人が山の頂の巨大な岩石を霊的な信仰の対象として認識し、現代人はその岩石を単なる自然物であると認識する場合のその差異性の根拠は、古代から現代までの時間累積(歴史性)の度合・了解化の度合・時間化の度合の差異にあるのである。このように、「人間の意識に対象としてやってくるすべてのものは根源的には空間および時間に分割されるほかはない」のである 。したがって、「言葉の表現もまた、表現に固有な<時間>性と<空間>性を獲て成り立っている」。自己関係づけを個体の内部構造・意識構造においてではなく、個体と対象との関係でいえば、自己関係づけとは、「心的規範」意識であり、それは「対象にたいする関係つけの意識」、対象の受け入れの意識、対象の空間化の意識である。言い換えれば、心的規範とは、自己関係つけの意識の空間化とその度合のことである。また、自己抽象づけを個体の内部構造・意識構造においてではなく、個体と対象との関係でいえば、自己抽象つけとは、 「心的概念」を構成する意識、了解作用の意識、時間化の意識である。言い換えれば、心的概念は、自己抽象つけの意識の了解作用・時間化とその度合のことである。そして、その個体と対象とのあいだを介在するのは「言語」である。この「言語というものを基本的に成りたたせているのは」、心的な「規範および概念」である。個体の内部構造・意識構造における心的規範は、外化(表現)されて対象化された心的「規範」・「言語における文法構造」、言語的規範、文法的規範・音韻の規範・韻律の規範等の外在的な共同的規範となる。また、心的概念は、外化(表現)されて言語表現の水準を決定する対象化された心的「概念」・「言語における実体」となる。このような仕方で、言語は、個と類・歴史的現存性と現実的現存性との総体性を生きる中で、世界を分節化する。その場合、言語によって分節化された世界は、客観的な世界そのものではなく、言語によって抽象された世界、人間化された世界、非有機的身体化された世界であり、ある抽象度やある意味付けやある物語性を付与された世界である。言語学は一般的に、その文法的規範と概念との構造が「表現された言語」であると規定する。この 「表現された言語」が、「現象学でいう本質直観」に対応している。この場合、その表現された結果としての言語学においては、沈黙は何も言わないこと、<非>有意味性でしかなくなる。その言語学は、「表現された言語というものは、それを発した人間(≪その内在的な心的構造、心的規範と心的概念≫)ときりはなすことはできない」ということを見ない。すなわち、「それをきりはなすことができない問題が、文学自体のもんだいになる」ということに自覚的ではないのである。このことは、言語の問題において、根本的な誤謬である。何故ならば、言語過程は表出過程(心的過程)と表現との構造としてあり、言語を発語し表現した場合、必ず<心的>概念と<心的>規範の構造の表出過程(心的過程)に反作用を惹き起こすことになるからである。意識された現実、現実の意識は、対自的となった人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)と対他的となった実践的意識(自己意識の対他的意識、言語の指示表出)の構造としてある。この自己意識における対自的意識と対他的意識、言語の自己表出と指示表出の構造である現実的意識の外化である言語表現は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(≪実践的意識≫)の外化である」。このようにして人間は、自己を客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入る。このとき<表現>された言語は、客観的な対象として百人百様の享受の対象となり、「交通の手段」となる。したがって、外化されたその実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)は、確かに「他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識」という意味で、コミュニケーションによる相互認識・相互了解・相互理解に根拠を与える意識である。一方で、人間には、他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識、言語の自己表出)があることも確かなことである。しかし、コミュニケーション論のほとんどは、この人間的意識というものを後景へと退けてしまって、ただ実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)と「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識の外化」としての<表現>された言語に偏向しており、部分を全体とする錯誤と誤謬のもとにあるのである。その場合、病的な異常さを呈した個体的自己・個体における自己の問題あるいは家族的自己・家族における自己の問題の究極的総体的永続的な救済は、その当事者の「心・精神」における無意識の「核」にある傷を治癒する点にあるにも拘らず、それ故にその「核」に傷を負った当事者の個体史を乳児期から胎児期にまで溯って究明していかなければならないにも拘わらず、そういう問題と究明を後景へと退けてしまうのである(吉本隆明『メルロ=ポンティの哲学について』・『自立思想の形成について』・『人間にとって思想とは何か』・『個体・家族・共同性としての人間』・『幻想としての人間』・『心とは何か 心的現象論入門』)。