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『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-3)-2

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-3)(33-53頁)

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-3)-2
 聖書的啓示証言「Ⅰコリント二・八、ヤコブ二・一によれば、イエス・キリスト」は、「<栄光>(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)の<主>であり給う」――「そのような方として、認識され承認され」ている。しかし、このことは、「自明的ではない」。何故ならば、このことは、「常に」、主と栄光とを切り離して認識する「切り離し」の「危険」性に曝されているからである、神の本質の区別を包括した単一性における「失われない単一性」(神の存在の本質のそれ)と「失われない差異性」(その本質の性質としての神の存在の仕方のそれ)という全体性・総体性の一方をあるいは部分を拡大鏡にかけて全体化する「危険」性に曝されているからである、あるいは部分を抽象した一面的固定的形而上学的な思惟と語りの「危険」性に曝されているからである(『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 一 神の単一性と遍在」(その6-1)-2の「唯名論的な命題と半唯名論的な命題について」を参照されたし)。
 われわれは、これから、神の本質の区別を包括した単一性、神の本質の単一性と区別、その全体性・総体性における「神の単純さと分割できない性質――それのもっと深い本質と根拠」を、「問わなければならない」。「その神の単純さと分割できない性質」は、「聖書的証言を通して」、神の本質の区別を包括した単一性における「神の自由」、「神の単純さ」は、「神の愛の自由であり、神の愛の単純さであるということを、想起させられる時にだけ」、その「神の自由の規定の……真理の中で、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰において≫)われわれに啓示される」。言い換えれば、あの「切り離し」は、「われわれをただ(≪聖書的証言におけるキリストにあっての≫)神の認識から遠ざけることができるだけである」。神の本質の区別を包括した神の「単純さ」は、「一つの理念ではない」、ちょうどヘーゲル哲学における最高次の自由の概念のようなそれではない。自然を包括し止揚し超出した対自的であって対他的・他在であって自在な自由(理念)を認識し自覚した精神は絶対精神である、この絶対的精神を獲得し得た世界史的段階(人類史的段階)は西欧近代の段階である。こうした人間の・人間の類の「自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」を志向し目指し、「神の自由を認識していないという事態」を惹き起こすヘーゲル哲学は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を揚棄し、人間の神化あるいは神の人間化を志向し目指すという点で「受け入れ難く耐え難いもの」なのである(『ヘーゲル』、『ローマ書』)。しかし、われわれは、現在でも、「シュライエルマッハー以外の他の人々(≪総括的に言えば、「一つの思想形態」、「一つの世界ビジョン」、「一つの社会機構」となった「西欧近代」の危機・終焉の認識と自覚を持つことなく、それ故にただ箔をつけるためだけにドイツ留学だとかアメリカ留学だとか馬鹿馬鹿しい慣習にこだわっている、まさに自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞し循環している神学者・牧師・神父・キリスト教的著述家等々の人々≫)の所でも」、まさに身近に、このような「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(『ヘーゲル』)。このことは、誤解されないために書いておくのであるが、上記のことは人文系の学問について述べているのであって、自然科学系の学問に関しては、国費等により留学費の工面がつくのであれば、もちろん最先端の研究実績・成果をあげている国(大学や研究機関)へ留学した方がいいこと・留学することに意義があることは明らかなことである。しかし、人文系の学問に関しては、全く箔をつけるだけに過ぎないことは自明なことである。何故ならば、フランスの哲学者のミシェル・フーコーが述べている通りだからである――「私に興味があるのは、西欧の合理性の歴史とその限界です……」、「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」、そうした中で、「時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです」(日本の思想家・吉本隆明も、次のように述べている――アジア的な日本的特殊性の残存性の自覚に基づいて日本の状況について、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえばアジア的という概念(≪人類史におけるアジア的段階という概念≫)で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」)。
 教会の<客観的>な信仰告白および教義における三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ、新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。聖書啓示証言またその証言に信頼し固執し連帯した教会の宣教において神は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主としての神、父が子として自分を自分から区別した子としての第二の存在の仕方であるイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主としての神、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・救済主としての神であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、このイエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現が教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、「神論」の「決定的に重要な構成要素」であり「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。
 さて、神の本質の区別を包括した「神ノ単純サ」についての「正統主義の教義学」は、「神論全体の、それであるから……キリスト教的教説全体の根本的前提」を、「聖書的根拠に探し出す」・尋ね求めることをしないで、「論理的および数学的な取り組みにふけ」ることをしたのである。この「正統主義の教義学は(≪形而上学的に≫)木を見て森を見なかったのであろうか」。「幸いなことに、正統主義の教義学」は、「もっとましな仕方で、取り組みを続けたのである」。すなわち、「正統主義の教義学」は、「後では、神について、聖書の教示にしたがって神について語らなければならないすべてのことをまた語った」し、「自余のキリスト教の教説全体を、忠実に、聖書の教示にしたがって表現し展開しようと試みた」のであるが、しかし、それは、「実際には」、「神の完全性」の「多数性についての言明」について、「われわれ(≪われわれ人間、すなわち神の自由・自存性を後景へと退けたところの、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動を為す認識主体≫)の神認識についての言明である……ということの方に、強調点を置く」<半唯名論>的教義学の可能性を後の時代に残したのである。したがって、それは、「神ノ単純サ」について、起源的な第一の形態の神の言葉――すなわちイエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのもの、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動を為す認識主体からする「単純なものの概念によって解釈される解釈の中での『神ご自身』」ではなくて、神の側からする「神の自己解釈の中での『神ご自身』」、神ご自身の自己認識・自己理解・自己規定――、その第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)、徹頭徹尾両者に信頼し固執し連帯した教会の宣教における「三位一体論とキリスト論の神からして考え……議論」せずに、神学と人間学との混合神学としての自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階に停滞して人間の自己意識・理性・思惟の類的活動において対象化され客体化された「マコトナル唯一ノ実体という<一般的>な概念から、考え……議論」したのである、また「そのように把握された神論の神概念から」、「属性論を基礎づけるに当たって、(≪神の単純性の認識の非聖書的な、それ故に「非キリスト教的な基礎づけの宿命的な帰結である」≫)半唯名論」的属性論を展開したのである。言い換えれば、正統主義の教義学は、「あたかも神の単純さは、(≪神の側からする≫)神ご自身を指し示す指示を通してよりも」、「それとして一般に、合成されず、分割されないものそのものの概念についての(≪人間の側からする≫)あらゆる種類の思弁を通して、もっと単純な仕方で証しされ表示されることができるかのように」思惟し語ったのである、また「あたかもまさに(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした≫)この対象の記述の学問的な正確さこそ」が、「あくまで神ご自身を、聖書を通して証されたその啓示の中で、徹頭徹尾単純なものとして、事実合成されず、分割されないものとして妥当させ力を奮わせなければならないということ」を後景へと退けてしまって、思惟し語ったのである。キリストにあっての「神ご自身は(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・創造主なる神、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方であるイエス・キリスト自身――啓示・和解主なる神、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・救済主なる神という仕方において≫)最も身近なものであり給う――事実、徹頭徹尾全く単純なものがそうでなければならないように」。「また、同時に」、キリストにあっての神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする三位一体の神として、神とは全く異なる人間との無限の質的差異の下で「最も遠いものであり給う――事実、徹頭徹尾全く単純なものがそうでなければならないように」、トゥルナイゼンも『ドストエフスキー』で、「神は神である。これがドストエフスキーのただ一つの中心的認識である。この神がどんなに偉大な高みに坐していようとも、一つの人神としようとはせず、またどんなに理想的であるにせよ、人間の魂の現実あるいは世界の現実の一片としようとしないこと、それが彼の唯一つの努力なのである」。「神ご自身は、何ら他者を必要としないその対自存在としての一者である(≪ご自身の中での神として一者であり給う≫)。と同時に、一切の他者が成り・一切の他者があるところの一者であり給う」(≪われわれのための神として一者であり給う≫)、「自由」・「主権」は「神ご自身においてのみ実在であり真理」である――この「神は神である」神ご自身は、神と人間との無限の質的差異の下で、徹頭徹尾、対自的であって対他的、他在であって自在、完全に自由、完全に自存性であり給う、ご自身の中での神(「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神)として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」において、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊なる神であり給う(そのような方として、キリストにあっての神は、われわれのための神として、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、イエス・キリストの父――啓示者・創造主、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・和解主、愛に基づく父と子の交わりである聖霊――啓示されてあること・救済主なる神として、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在である)。したがって、神の側の真実からは、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存している」ものとして理解されなければならないように、内被造世界での対自的であって対他的な(他在であって自在な)人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性も「非本来的なもの」であるから、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して理解されなければならないのである。何故ならば、そうでなければ、その人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性の極限に想定されるのは人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求を前面化・全面化させた人間の神化あるいは神の人間化であるからである、ちょうど新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のであるが、「われわれの経験と感性」・われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍からは「いまだ」であり続けてしまうように。「神ご自身は、そこで一切が始める初めであり、それにより一切が絶えず慰められ、咎められず責められずに始めなければならず、またそうすることが許されるところの初めであり給う」・「同時に、そこにおいて一切が正当に必然的に終わるところの終わりであり、それでもって人が咎められず責められずに終わらなければならない終わりであり給う」・「神ご自身は、単純であり給う。すなわち、最も単純な認識にとっても、その栄光全体の中で近くにいますことができ、同時にまた、最大の深い感覚と鋭い感覚をも、常に侮ることができるほどに単純であり給う」・キリストにあっての「神は、すべての人を沈黙へと強いるが、しかしまた、全く偏見なしに、ご自身、(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事に自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を常に先行させ、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉・「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言・最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」を、われわれ人間の思惟と語りの<客観的>な原理・規準・法廷・審判者・支配者として与えて、≫)人間の思惟と言葉の対象とされることを、すべての人間に対して許し命じ給う」。キリストにあっての「神は、神について正しく考え、正しく語り、神の前に正しく生きるためには、実際特別な人間的な複雑さを何ら必要とせず」、「また何か特別な人間的単純さも少しも必要とし給わない」。「神の単純さは、あくまで神の単純さである」・「神の単純さは、すべての人間にとっての・またすべての人間的努力に対する慰め、警告、裁きとしての神ご自身である」、「ソノヨウナワケデ、ワレワレハ、誠実ナ満足ヲモッテ心ヲ単純性ニ習熟サセ、スベテニオイテ十分デアリ給ウ神ヲ、物事ノ多様性ニトッテ代ワラセルノデアル(ペトルス・ファン・マストリヒト)」。
 「この神ご自身とは誰であり、何であるか」。「神ご自身は、全く素朴に現実に、ただすべての預言者および使徒たち」が、「明らかにしたところの方である」。すなわち、それは、彼らが、啓示者・言葉の語り手、啓示・語り手の言葉を、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて「聞き」、それに「従い、その使信と委託とを遂行し、その意志と業とを他の人々に証ししなければならなかったこと」、「また、彼らすべてが、一つの長い断ち切られたことのない連鎖の中にあり、それぞれひどく異なった仕方ではあるが、同じひとりの神の宣教者、奉仕者であるという点で矛盾」がなく、それ故に「その内の一人は他の者たちの証言の中で神の声をはっきりと再認識したこと」である、換言すればこのことは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた「同じひとりの神の宣教者、奉仕者」としての預言者および使徒たちの個々の世代の宣教・奉仕の成果(個体的自己の宣教・奉仕の成果の世代的総和、すなわちキリスト教に固有な類)の時間累積(キリスト教に固有な歴史性)のことである、具体的にはそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの)とその第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(啓示の「概念の実在」)のことである。「これが、神ご自身であり、この一致した証言が、(≪イエス・キリストの父の関わる≫)創造と(≪子としてのイエス・キリスト自身に関わる≫)和解と(≪愛に基づく父と子の交わりである聖霊に関わる≫)救済(≪キリストの復活から終末、救贖、完成、復活したキリストの再臨までの聖霊の時代においては、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」≫)の主体として言い表し、主として言い表しているところの神である」。「また、その証言が、この神の業と尊厳性の記述と説明の中で、(≪神の本質の区別を包括した単一性において、その「失われない差異性」を包括したその「失われない単一性」において、≫)恵み深く聖であり、あわれみ深く義であり、忍耐強く知恵に富み」、「また遍在し、不変であると同時に全能であり、永遠であると同時に栄光に満ち給う者として、言い表しているところの神である」。「これらすべての完全性は、この証言によれば、このひとりの方の完全性である」、それ故に「それらの完全性は、いずれもその現実存在とその本質を、……このひとりの方の外に持っているのではなく、徹頭徹尾このひとりの方の中に持っている」、「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神の中に持っている。これが、「われわれに、神ご自身としての神の啓示を指し示す聖書の証言の中で述べられている神の単純性である」、「換言すれば、神ご自身であり、それ故にその中で(≪ご自身の中での神として≫)神が現にあるところのものであり、(≪われわれのための神として≫)現に為すところのことを為し給う(≪神の側の真実としてある≫)信頼性、真実性、忠実さである」、「その本質において、その存在の最も深い根底において信頼できるものであり給う」ということが、「まさに神の単純性である」。このように「理解された時、その単純性の中での神」は、「聖書の中で……言われているように」、「ただ単に神論だけでなく……キリスト教の教説全体が、そしてただ単にキリスト教の教説だけでなく……キリスト教会の生全体が、キリスト教的生全体が、最後にそもそも人間的な生が、そして永遠の生命の約束が基礎づけられて」いるところの(それ故に「それなしにはそれらすべては無の中に解消してしまわなければならず、事実解消してしまうであろう」)、「『岩』、揺るぐことのない基である」。しかし、「正統主義の教義学」は、「聖書によって証されたその言葉と業の中でご自身を明示される神の信頼性を言おう」とはしなかったのである。言い換えれば、「まさに神のこの単純性」は、神の言葉の第二の形態である「預言者および使徒たち」が、「それを(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)彼らに向かって見出すようにと自らを与え、彼ら自身それによって見出されたことによって、それを見出したところでしか尋ね求められてはならない」のである。「すなわち、ただ神がその言葉と業の中で与えられ、そのようなものとして神の信頼性、真実性、忠実さの表明であるところの神の自己表明(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現、神の自己認識・自己理解・自己規定≫)の中でしか尋ね求められてはならない」のである、「換言すれば、神の単純性は、『わたしたちに変わらざる真実を与え、わたしたちをすべての困難から助け出してください』という祈りの中で尋ね求められなければならない」・「そして、この祈りそのものは、ただ……モーセがホレブで燃えているのを見、火で焼かれているが、しかし燃え尽きてしまわず、常に裁きつつしかも救い出しつつ、常に殺しつつしかも生かしつつ燃えているのを見たあの火によってだけ、燃え立たせられることができるのである」。ご自身の中での神(「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神)とそのような方としてのわれわれのための神を、「預言者および使徒たちは、その方の言葉と業の中で」、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、性質、業、行為、行動、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在の中で、「信頼に値するものとして知ることを学び・証ししたのである」。「この方は、変わらざる真実を与え給う。何故ならば、この方自身が、変わらざる真実であり給うからである」。われわれは、「この方を、……信頼することができる。何故ならば、その方の本質は、信頼性であるからである」。「人は、そのことを(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰において≫)認識することによって、神の単純性を認識する。何故ならば、その方は、(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動において≫)そのようにご自身を啓示されることによって、その単純性を啓示し給うからである」。したがって、われわれはキリスト者は、特に牧師・神学者・キリスト教的著述家は、教会の宣教、その思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、「われわれ人間の決定事項ではない」ということに対して自覚的である必要があるのである。このような訳で、「人は、神の単純性を、ただ神ご自身を認識しつつしか(≪それ故に、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰においてしか≫)認識することができない」のである。