宮沢賢治――羅須地人協会、高村光太郎――山荘、太宰治――津島家新座敷
羅須地人協会(2014年4月21日撮影)
4月21日から23日まで、友人3人で、宮沢賢治――羅須地人協会、高村光太郎――山荘、太宰治――津島家新座敷を訪ねる旅行をした。旅行から帰ってきた翌日、身体がだるいので熱を測ったら38度を超えていた。そのため、かかりつけ医に診てもらったら、B型インフルエンザに感染しているということであった。処方薬を飲んでいるが、まだ熱が少ししか下がらない、喉が痛い、咳が出る。
さて、写真は、賢治が郡立稗貫農学校(現岩手県立花巻農業学校)を退職し独居自炊の生活をはじめた、下根子、桜の宮沢家別宅である。現在は、岩手県立花巻農業学校内に移築されている。1922年7月から11月18日まで、1階の手前の部屋で結核で病臥していた妹トシは養生していたが、「寒さや道の悪さ、食糧運搬の不便さなどから」、再び「11月19日に自宅(≪豊沢町の実家≫)の病室へ戻ることになった」。しかし、そのとき、トシは、「『あっちへいくとおらぁ死ぬんちゃ。寒くて暗くて厭な家だもな』とつぶやいたという」。そして、「予感どおり」、27日に死去した。賢治は、「押入れをあけて頭を突っ込み、おうおう泣」いたという。この日付の詩に「永訣の朝」・「松の針」・「無声慟哭」がある(山内修『宮沢賢治』河出書房新社)。
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壺にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろな果物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
……その青い夜の風や星、
すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました
吉本隆明は、この「フィクションの物語詩」の「〔わたくしどもは〕」について、次のように論じている(『宮沢賢治』)。
1)独居自炊の生活をはじめた、下根子、桜の宮沢家別宅で、「幻想の『妻』と一緒に暮しはじめたというフィクションだと言えそう」である。
2)この幻想の妻は、亡妹トシの「面影になぞらえてつくられた」、したがって「この世に<不在>の感じをもった……女性像になっている」。「亡妹トシがじぶんの『妻』」であったなら、「どんな振舞いや表情をつくるのか、それが連想されたとき、このフィクションの詩はできあがったといえる気がする」。この幻想の妻の像は、「宮沢賢治にしかつくれない植物性の『妻』の像ではないのか。それは半ばはこの人間世界の存在ではないようだ」。
3)……その青い夜の風や星、
すだれや魂を送る火や……
「この二行の陰のほうからきた注釈の言葉は『その女』がなかば盆の迎え火といっしょにきて、送り火といっしょにさるものだという象徴になっている」。「そしてその冬になると、まるで花の精霊のように、くずれ落ちて死ぬ」。
4)ここには、「超人(菩薩)」を目指す賢治はなく、「性愛と結婚生活のひとこまの物語を描いた」「ふつうの人間」の賢治がいる。
5)仙台の大学生を介した夫・嘉吉の妻・おみちに対する嫉妬物語「十六日」と「〔わたくしどもは〕」に通底しているもの――それは、「資質的な共通性」であって、「亡妹トシにたいする……エロスの感情を混えたといいたいほどの兄妹愛」・「生涯女性と性的交渉をもたなかった特異な異性観」・「かれの作品の特異な流れのひとつである男女の嫉妬感情の表白」・「過敏な洞察」・過敏な想像力というものである。
6)「銀河鉄道の夜」においても、ジョバンニがカムパネルラに嫉妬する場面が出てくる。その嫉妬は、ジョバンニのカムパネルラに対する「無意識の同性愛の表白」である、と言うことができる。あるいは、それは、賢治はリビドーを法華経信仰に向けたのであるが、一方で「地上的な異性愛」に対する無意識の執着の名残りがあった、と言うことができる。「性にまつわることはペアとなる異性との対幻想の表出がなくては、とても核心にはいることがむつかしい。宮沢賢治のように男女の対幻想の関係を生涯にわたって拒絶し、あるばあい天上と地上のあいだに対幻想をかんがえているとも受けとれるばあいはなおさらなことだ」。
最後に、私は、今回を含めて花巻農高に二度行ったことになるが、いつも感心することが二つある。私が出会った生徒たちという限定性においてであるが、賢治の精神が継承されているのか、第一に生徒に茶髪がいないということであり、第二に多くの場合生徒の方から挨拶をするということである。このことは、生徒自身が、そういうことに自覚的である、ということである。
農耕自炊の生活をはじめた「積雪三尺の小屋」(4月22日撮影)
花巻営林署所管の建物を、昭和20年に村落の人が移築した。ここで、光太郎は、昭和27年までの7年間、独居自炊の生活をした。光太郎は、太宰治の兄で青森県知事である津島文治に十和田湖畔に立つ像の制作依頼をされたのだが、「生涯の最後に夫人の立像をのこすという誘惑に勝て」ず、その制作のために東京に帰る。その完成後は小屋に戻るつもりであったが、「健康を害し衰弱しはじめ」、「健康……不良」(肺結核)であったために、昭和28年十和田湖畔休屋の「乙女の像」の除幕後も、小屋に行って志戸平に滞在はしたが、小屋には戻らなかった。昭和30年山王病院に入院、昭和31年中野のアトリエで死去した。
文学者の戦争責任の問題を戦後文学の出発点にした高村が、山荘に入って農耕自炊の生活・独居自炊の生活を7年間し続けたのは、高村の「人間嫌い」と、「超越思想」によっている。すなわち、高村は、天皇制の問題(人類史をその母型にまで遡及して歴史的批判的に考察することで大和朝廷・天皇制・日本国家を無化していく課題の自覚)と高村の詩を読んで死んでいった大衆に対する自責の念を思想化(知識人の知識の課題である往還思想の自覚)する、というものではなかった。自分を自然の側に置けば、個としての人間(自分)は、自分の意志によって抑止できない面を持つ生理機構としての身体(「生理の残火」としての食欲と性欲、究極的には死)であり、類としての人間は、自然史の一部である人類史の自然史的過程(「原子力」や「放射能」や生命科学や情報等の科学技術の発達・その知識の増大・生活の利便性の向上)である。吉本は、光太郎の最後の作品の「生命の大河」の一節を引用して、「わたしはこの自然のメカニズムを非情な己の『眼』とした詩人の、最後のモデルニスムスに敬意を表すことにしよう」と述べている。その一節はこうである。
科学は後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変え
想像しがたい生活図の世紀が来る。
生理的自然からやってくる「人体飢餓にたえかねたとき高村は、岩手の山岳の起伏に女体の起伏を想像し、晴れた空の雲に、伯爵夫人の横になった裸体を空想し、ブナの分岐に逞しい女の太股をみ、岩石に性別をかんずるという具合であった」。言い換えれば、「自然は、高村にとって非常な無機的なメカニズムであるとともに」、性的対象、すなわち「孤独な婚姻の相手となった」。また、光太郎は、「美食癖がでると、ひそかに山小屋をぬけだして街にでて飲食」した。光太郎のこの美食癖は、「人間世界を拒否した思想」の持ち主の彼を、「人間社会にとどめるくさびのようなものであった」。「高村は、かつて、人は死を望まないが、死は前方よりくる、とかいた」が、光太郎の自然は、「牧歌的詩人の自然からも、花鳥風月の自然からも、自然主義の自然からも、すでにまったくとおくへだたってしまっている」(引用はすべて、吉本『作家論U 高村光太郎』)
『故郷』に出てくる疎開先の津島家新座敷(和室二間と洋室・廊下がある。手前の和室に危篤の母が病臥していた。また、奥の方の和室で「トカトントン」等々を書いた。「トカトントン」は、井伏鱒二の『太宰治』筑摩書房によれば、金木で書いた最後の作品である。昭和20年7月から21年11月に三鷹の自宅に戻るまで疎開した生家)4月23日撮影
太宰は、『故郷』で次のように書いている――「私が五度も六度も、いや、本当に、数え切れぬほど悪い事をして、生家との交通を断たれてしまってからでも、……純粋の好意を以もって長い間、いちどもいやな顔をせず、私の世話をしてくれた」「古くから私の生家と親密な東京の洋服屋の北さんと故郷の呉服屋の中畑さんが、三鷹に住む太宰を訪ね「故郷の母が重態だという事を言って聞かせた」。そして、太宰は、妻と子の園子を連れて生家を訪れ、「ほとんど危篤の状態の母」を見舞う。「親戚のおばあさんが私の手をとって母の手と握り合わさせた。私は片手ばかりでなく、両方の手で母の冷い手を包んであたためてやった。親戚のおばあさんは、母の掛蒲団に顔を押しつけて泣いた。叔母も、タカさん(次兄の嫂の名)も泣き出した。私は口を曲げて、こらえた。しばらく、そうしていたが、どうにも我慢出来ず、そっと母の傍から離れて廊下に出た。廊下を歩いて洋室へ行った。洋室は寒く、がらんとしていた。……私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流したらウソだ、いま泣いたらウソだぞ、と自分に言い聞かせて泣くまい泣くまいと努力した」。太宰は、この津島家新座敷の奥の部屋で『トカトントン』を書いた(発表は昭和22年1月『群像』)。この作品には、こう書かれてある――「何か物事に感激し、奮い立とうとするすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞こえて来て」、すべてが無に帰してしまう。「何ともはかない、ばからしい気持になる……」。「色と慾」にも、トカトントン、「新聞ひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン」、虚無の連鎖も、トカトントン、「虚無の情熱をさえ打ち倒してしまう」「トカトントン」(虚無・空虚さ)、「もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、それもトカトントン、自殺を考え」ても「トカトントン」。もう、死ぬ以外にない。生への意欲、生への気力、生への情熱が喪失している。自己意識の対自性の中で、自分自身に書いている手紙を「半分も書かぬうちに、もう、トカトントンが、さかんに聞こえて来たのです。こんな手紙を書く、つまらなさ。(中略)そうして、あんまりつまらないから、やけになって、ウソばかり書いたような気がします。(中略)その他の事も、たいがいウソのようです」。「しかし、トカトントンだけは、ウソでないようです」。この手紙を受け取った作家は、次のように返答をする――「気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。……いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね」。これは太宰の自分自身に対する返答だ。最終的に、太宰は、彼自身の始末のつけ方で、その存在・その思考・その実践において、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)から超出しなければならない。そして、太宰は、昭和23年6月の、玉川上水での山崎富栄との入水自殺へと向かった。
太宰は、「自分を愛するように人を愛せるかとということを本気でかんがえて、本気で悩ん」でいた。そして、『人間失格』の「全体をおおうモチーフ」は、「一切は過ぎていくことが人間にとっての唯一の救い」である、という点にある(吉本隆明『愛する作家たち』)。「絶筆『桜桃』のエピグラムに『われ山に向かいて目を挙ぐ』と詩篇の言葉をかかげた彼は今やただ神の罰を待ち望むだけだった」(文芸読本『太宰治』「奥野健男 太宰治論」河出書房新社)――「信仰。それは、ただ神の咎を受けるためにうなだれて審判の台に向ふ事のような気がしてゐるのでした。地獄は信じられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです」(『人間失格』)。
中原中也の『山羊の歌』「いのちの声」は自問自答の形式をとっている。太宰の『トカトントン』も、その作家の「作品を捜して読む癖がつい」た郵便局員の主人公(問う人)が、「罹災して生まれた土地の金木町」に帰っているその作家(問われる人)に「人生というのは、一口に言ったら、なんですか。」、と問う自問自答の形式になっている。先ず、中原は、「僕はその寂漠の中に……絶えず何かを求めてゐる。(中略)そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。」・「しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。それが……ただ一つであるとは思ふ。しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。それに行き著く一か八かの方途さへ、悉皆(すつかり)分つたためしはない。」・「時に自分を揶揄(からか)ふやうに、僕は自分に訊(き)いてみるのだ。それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か? すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない! (中略)」。中原にとって、「要は」、自己意識の対自性における自問自答の「熱情が問題」である。したがって、中原にとって、「ゆふがた」、その「熱情」を、「空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ」。次に、太宰は、生に対する意欲、生に対する熱情が希薄である。この太宰の自殺願望、彼の「生と死の境い目を越え易い資質の形成」は、彼の乳児期における母親との関係の失敗、すなわち乳児期に「乳母」が母親の代わりをしたこと、また幼児期における母親との関係の失敗、すなわち幼児期に「叔母」が母親の代わりをしたこと、が原因であった。乳幼児期に、特に乳児期に、母親との関係に失敗した太宰は、どうしようもなく、死ななければならなかった(『吉本隆明[太宰治を]語る』大和書房)――「母に対しても私は親しめなかった。乳母の乳で育って叔母の懐ろで大きくなった私は、小学校二三年のときまで母を知らなかったのである。(中略)母への追憶はわびしいものが多い」(『晩年』「思い出」)。自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫も、乳児期における母親との関係に失敗した体験を書いている――「二階で赤ん坊を育てるのは危険だという口実の下に、生まれて四十九日目に祖母は母の手から私を奪いとった。しじゅう閉て切った・病気と老いの匂いにむせかえる祖母の病室で、その病床に床を並べて私は育てられた」(『仮面の告白』)。
太宰とは違って、ドストエフスキーには、生に対する意欲、生に対する熱情がある。「一人の死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことをいうか、考えるかしたって話だ――もし自分がどこか高い山の頂上の岩の上で、やっと二本の足を置くに足るだけの狭い場所に生きるような羽目になったら、どうだろう? 周りは底知れぬ深淵、大洋、永久の闇、そして永久の孤独と永久の嵐、この方尺の地に百年も千年も、永劫立っていねければならぬとしても、今すぐ死ぬよりは、こうして生きている方がましだ。ただ生きたい、生きたい、生きて行きたい! どんな生き方にしろ、ただ生きてさえいられればいい!……この感想は何という真実だろう! ああ、全くの真実の声だ! 人間は卑劣漢に出来ている!……またそういった男を卑劣漢よばわりするやつも、やっぱり卑劣漢なのだ」(『罪と罰』「第二編」)。この言葉は、マルメラードフの告白の言葉と通底している――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦される。善人も悪人も……そしてみんなを一巡すまされると」、「酒のみも出い、意気地なしも出い、恥知らずも出い!」と「仰せられる」。このように、「神さま」は「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」(『罪と罰』「第一編」)。