本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十四節 教える教会の機能としての教義学」「二 教義学の方法」(その2−2)――了――

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十四節 教える教会の機能としての教義学」「二 教義学の方法」(236−267頁) (その2−2)――了――

 

 さて、「われわれは(≪創造論、和解論、救済論という≫)主題の区分を、(≪第三の形態に属する全く人間的な教会の≫)三位一体教義から引き出したわけ」ではない。言い換えれば、「われわれは、三位一体教義そのもの」を、創造論、和解論、救済論(完成論)という「主題の区分(≪差異性≫)を引き出したその同じ」「<源泉>」から――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の啓示の中での「神の業と行為」から、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の「三つの存在の仕方」から、すなわち「神はご自身の中で永遠から永遠にわたって」「父、子、聖霊であり給う」というその「神の業と行為」から、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする「父、子、聖霊」としてその「神の業と行為」から、「引き出した」のである。この「三位一体の教義の内容」は、自在であって他在、対自的であって対他的、全き自由の、単一性・神性・永遠性を本質とする「神ご自身の中で永遠から永遠にわたって」「父、子、聖霊なる神であり給うという」点にあるのであって、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の中で「既にそうである」し、それゆえに「全く現に神の啓示(≪顕現≫)の中ででも」そうであるという点にあるのであって、第三の形態に属する全く人間的な「教会」が「定式」化し、「教義学」が「模写しつつ記述」し、「教会の宣教」において「尊重される」「三位一体性についての教義」という点にあるのでは全くないのである。「啓示の事実そのもの」――聖書において単一性・神性・永遠性を本質とする神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する――が、(≪第三の形態に属する全く人間的な教会、それゆえに教義学における≫)「三位一体の教義に対して、すべてのそのほかの教義に対してと同じように」、「先行する」のである。この啓示の事実は、単一性・神性・永遠性を本質とする「神はわれわれに対して創造主、和解主、救済主として(≪、換言すれば父、子、聖霊という三つの存在の仕方において≫)出会い給い、そのようなものとしてわれわれと語り、われわれに対して働きかけ給い、したがってこの三重の仕方で(≪三つの存在の仕方、性質・行為・働き・業において、単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神であり主であり給うということから成り立っている」。この「神の業と行為(≪~の三つの存在の仕方≫)の中での神のこの存在(≪「三位一体ノ神ノ外ニ向カッテノ働キハ分ケラレナイ」という単一性・神性・永遠性を本質とする存在≫)は教義ではない」のである、「啓示の事実そのもの」なのである。したがって、このことは、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教、その補助的奉仕である教義学が、「自由に処理できる原理」ではない、ということを意味しているのである。言い換えれば、そのことは、「すべての教義とすべての見方に対して自由に<先行>」する「~の言葉の出来事」の自己運動における「~の言葉の出来事」である。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会の「三位一体教義を念頭に置いてではなく」、この「~の言葉の出来事」の自己運動を念頭に置いて、「われわれはまた主題の区分を為したのである」。三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であるが、「神論」の全体性ではない。言い換えれば、「神論」は、三位一体論において論じ尽くせないがゆえに、「神論」は、「創造論、和解論、救済論と並ぶ独立した主題」――すなわち教義学の対象である。~と人間との無限の質的差異の下で、自在であって他在、対自的であって対他的、全き自由な神は、その外在的な人間へと向かう対他性、他在性としての「その業と行為の中で尽されてしまわない」がゆえに、「創造論、和解論、救済論と並」んで、神の内在的な対自性、自在性としての「神論」が独立した主題として扱われなければならないのである。すなわち、「父なる名の内三位一体的特殊性」(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)の主題、~の区別(差異性、~の三つの存在の仕方、業と行為)を包括した自己同一性(単一性・神性・永遠性)の主題を扱わなければならない。~は単一性・神性・永遠性を本質とするから、先ず以て父は子として「自分を自分から区別」するし、自己啓示する神として「自分自身が根源」である。したがって、その「区別された子」は「父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりにおける「父ト子ヨリ出ズル御霊」である「聖霊」は「父と子が根源」である。この単一性・神性・永遠性を本質とする神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。また、父だけが創造主なのではなく、「子と聖霊も創造主」である、同様に父も創造主であるばかりでなく、「子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主」である。したがってまた、単一性・神性・永遠性を本質とする神の完全さ、自由さは、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ、自由さなのである。包括的に言えば、「神論」は、「神の業と行動の主体を定義する」ことである。
 このような訳で、教会教義学における神論、創造論、和解論、救済論の主題の「順序」選択は、嗜好性、恣意性、独善性のもとで「選」んではならないのであって、あくまでもあの他律的な服従と自律的な服従との同在性のもとで「選ば」なければならないのである。第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における補助的奉仕である教義学は、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉に聞き教えられることを通して、「教育的な目的を持つもの」を、あの他律的な服従と自律的な服従との同在性のもとで選択しなければならないのである。「何か特に『興味深いこと』が……尋ね求められ、選ばれてはならないのである」。四つの主題の中で神論は、「体系化する危険がより大きい」創造論、和解論、救済論よりも、その危険性のより少ない、「教育的に見てもっとも意味深い仕方で始め」られる事柄である。なぜならば、神論から始めた方が、「創造、和解、救済についても、まず最初に、誰に関してそれらすべてのことが語られるべきであるかについて了解がなされて……もっと容易に語」ることができるからである。したがって、「われわれとしては、教義学の古典的な伝統の線に沿って、神論でもって始めるよう決断する」のである、「神論」を「教義学の先端に置」くのである。しかし、「その内容は……決して空虚な思弁」ではないし、「それの意図は……体系」の構築にはないのである。先ず以て、この「神論」の「第一の部分で論じなければならない」ことは、「~は~であるという命題」である。なぜならば、この命題は、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教やその補助的奉仕である教義学が、「それに続く部分」の「どれかを(≪全体化し≫)絶対化」していくことを許さず、教会教義学をそうした「危険」から「防ぎ守」るからである。この時、「われわれ」が、「ここでも、(その背後で信仰告白そのものの道が現われて来る)古典的な教義学の歩みの跡に続いているのであって、……何か特別なことを探求し、為そうと欲」しているのではないことが分かるであろう、あくまでもキリスト教に固有な類の時間累積、キリスト教に固有な歴史的連続性(歴史性)に連帯していく道を歩んでいることが分かるであろう――「『~は天にいまし、汝は地に在り』」、~と人間との無限の質的差異、「この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(『ローマ書』)・「神は神である。これがドストエフスキーのただ一つの中心的認識である。この神がどんなに偉大な高みに坐していようとも、一つの人神としようとはせず、またどんなに理想的であるにせよ、人間の魂の現実あるいは世界の現実の一片としようとしないこと、それが彼の唯一つの努力なのである(トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。
(1)神論――この「神論」については、次回から註解をはじめる。
 神論においては、「~の言葉の内容全体を」、それゆえに「み子イエス・キリストにあっての神の業と行動全体を、その主体そのものに特有な存在と行動を」、「問う問いの観点の下で探求し、記述しなければならない……」。したがって、ここでは、神の業と行動を「念頭に置いて」、先ず以て「神の神性と主権を……探求し、記述しなければならない……」――@「啓示に基づく、まことの神認識そのものの実在、可能性、事実的遂行ということが問題」である、A「神の実在(「本質」および「属性」)……の認識……内容が語られる命題」が問題である、B「それが神の自由に基づいている限り、人間に対して神が取り給う原則的な働きかけ」、すなわち「神の恵みの選びの教説の展開が問題」である、C「人間に対して神が取り給うその同じ原則的な働きかけ……が、人間に対する要求を意味する限り」、すなわち「それが神が命じ給うことを意味する限り」、「人間に対して神が取り給うその同じ原則的な働きかけが問題」である。したがって、「われわれはここで……教義学の脈絡の中で……神的命令の認識と実在についての教説としての神学的倫理学の基礎づけを遂行しなければならない……」。このことは、説教(言葉)と行為、宣教Aと宣教B、福音宣教と社会的あるいは政治的実践等々というように二元論的に為されてはならないのであって、<神の律法(命令・要求)>があくまでも<キリストの福音>を<内容>とする<福音>の<形式>であるように、この事柄に即して為されなければならないのである。
(2)創造論
 聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・行動・働き・業)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体の神」である。
 創造論においては、啓示者である「父を啓示するもの」・「われわれを父と和解させるもの」としての~の言葉――すなわち~の子イエス・キリストを、天然自然・人間的自然――すなわち「すべてのものを支配する神の主権は、そのほかそれがわれわれにとって何を意味するにしても、常に既に<絶対的な以前>……を意味するがゆえに」、「われわれの現実存在の中でわれわれに関わり、われわれと出会う言葉として理解することが問題」である。イエス・キリストが父として啓示する神は、「われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う」神である・したがって、私たち人間を永遠の生命に導くために、「ゴルゴダにおいて、イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、われわれすべてのものの生命が十字架につけられた」のである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)――@神の第一の存在の仕方、すなわち「被造物そのものとの関わりの中での創造主としての神の存在と行為」が問題である、A「神の被造物としての人間を認識すること、創造の総内容としての人間の定めと人間自身の(その創造に対応する)決断(失われた)義」が問題である――「神は、(≪神だけでなく、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、という不信仰・無神性・真実の罪のただ中にある≫)神なき者がその状態(≪不信仰・無神性・真実の罪≫)から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う」(『福音と律法』)・さらに続けて言えば、「『もちろん福音(≪キリストの福音≫)をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪意志力、感情力、修行等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する」(『福音主義神学入門』)、B「ここで特別な神学的倫理学が始まるのであるが」、「神の命令がわれわれの創造主の命令」であり、その「神が命じ給うことによって」「われわれが要求されているということがわれわれの現実存在の規定として既にわれわれの存在と生そのものに関わってくる限り」、「神が命じ給うことによって人間が要求されること」が問題である。
(3)和解論
 和解論は、教会の宣教と教義学における「本来的な中心」――すなわち「体系的な中心」ではなくて、「事柄から見て本来的な中心」である。「和解主なる神」は、「その中にわれわれが~の言葉の聞き手として自分の身を置いている<絶対的な現在>」である。和解は、「人間の不誠実に対する神の誠実によってさらに明るい光に入ることができる契約を守り、確認する」業と行為(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方)である。~の言葉――「和解についての言葉としての~の子イエス・キリスト」は、「それに抵抗する人間の実在に直面して、かえってますます主権的に自己」を貫徹する、「神の支配」である。『教会教義学 ~の言葉T/1・2』も引き寄せて言えば、「和解についての言葉」は、人間を、義とされた罪人、「恵みを受けた罪人」として、「神の敵として、しかしさらにそれ以上に神によって愛された者として」、また「和解者が~の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たち」は、授与者と受領者の無限の質的差異において「~の子ども」・「僕」として、「そこで初めて(新しいものを造り出す聖霊の力全体をもって)」――すなわち「聖霊はみ子の霊であり、それ故に、子たる身分を授ける霊」であるから、「聖霊を受けることによって」「~の子ども」・「世継ぎ」・「神の家族」として「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができる「反逆者として、理解する」のである――@「神によって守られ、確認された神と人間の間の契約」、それゆえに「始めから恵みについての教説の光の中で」、「(それに対応する)影」――すなわち「罪についての教説の展開」が問題である、Aまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの人格と業(≪第二の存在の仕方≫)の中での神の和解の客観的な事実」が問題である、B「聖霊にあってのイエス・キリストの現臨を通して教会の場の中で、人間に対し洗礼と聖餐の礼典を通してしるしづけられた」途上での「人間の召命、義認、聖化、維持を通して、和解が人間の身に、主観的に与えられるようになること」が問題である、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、「啓示の出来事の中での主観的側面」、聖霊の注ぎによる神の恵みの出来事の人間的主観への実現が問題である、C単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の業と行為であるイエス・キリスト自身が、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである「刑罰(死)」を、「唯一回なし遂げ給うた」(「律法の成就」)。この恩寵、キリストの福音が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ感謝を持って信頼し固執(「固着」)せよという、キリストの福音を内容とする福音の形式である律法が建てられる。なぜならば、この律法、神の命令・要求がなければ、個体的自己としてのすべての人々が<現実的>にキリストの福音を所有することができないからである。このような訳で、神学的倫理学は、ここで「第二の方向転換をしなければならないのである」が、「人間が命令を通して要求されること」が問題である。
(4)救済論あるいは完成論(救贖論)
 救済論(完成論)においては、神の言葉を、それゆえに~の子イエス・キリストを、「ちょうど創造主としての絶対的な以前であり給うように」、「<絶対的な以後>であり給う方の言葉として、われわれに語りかけるのを聞かなければならない」。「父ト子ヨリ出ズル御霊」、聖霊(「父なる神と子なる神の愛の霊」)において、父と子(≪神的対関係≫)は、愛に基づく完全な共存的な関係・交わり(≪神的共同性≫)において存在する。すなわち、聖霊(聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事、「啓示されてあること」)は、その「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」(「啓示者」)であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」(「啓示」)であるところの「行為」・行動・働き・業・性質である。この聖霊は、三度目の最後的な第三の存在の仕方として、神にとって最高の法則・愛である。このような訳で、救済主なる神、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方である聖霊なる神は、「その方のみ国は分裂が克服され、除去されたみ国として、新しい天と新しい地の出現の中で来る最後の方でもあり給う最初の方である」。したがって、「救済についての言葉としての~の言葉」は、「人間」を、キリストの復活によって「イエス・キリストの中で死は既に勝利に呑みこまれてしまったがゆえに」、その「イエス・キリストの甦えりの光によって照らされている」完了・成就された神の支配という観点のもとで理解する」のである、「永遠なる神の支配」、すなわち既に完了・成就されたところの「完成され…た神の支配」という「観点のもとで理解する」のである――@「信仰の客観的内容、イエス・キリストが、人間にとって現臨する希望の中で生きる人間の生」が問題である、A「約束の内容」、それゆえに「未来の実在」としての「信仰の内容」が問題である、すなわち完了・「成就と遂行」、「永遠的実在」として、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていること」を、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において語る、終末論的信仰が問題である、B神学的倫理学は、「ここで初めて、その終末論的な方向づけの中で、目標に到達することができるのである」が、「完成」が「前もって与えられている限り」、「われわれが神の命令を通して、……生きつつ、~の言葉のもとに屈しつつ、実在の、質的によりよい未来、しかも無限によりよい未来に向かって進むように招かれて」いる、「神の命令を通して要求されていること」が問題である。
 さて、個体的自己としての全人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」イエス・キリストにある「復活の力」のみである。なぜならば、聖書的啓示証言によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストは人と成り、死んで甦り給う」という仕方で、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和を完了・成就されたからである。このイエス・キリストにおける「福音の勝利、恩寵の勝利」は、その現にあるがままの現実的な人間存在を生きる、すべてのキリスト者を含めた個体的自己としての全人間の、「真実の罪に対する神の勝利」であり、「律法を悪用する罪に対する神の勝利」であり、「不信仰の罪に対する神の勝利」なのである。
 「真実の罪に対する神の勝利」とは、「地獄に追いやられたままの存在」を、「律法によって殺しつつ、しかも福音によって生かし給う」勝利の福音のことである。なぜならば、キリスト者であれ誰であれ、現実の事実として、次のように言わざるを得ないからである――「『もちろん(≪その≫)福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている(≪不信仰・無神性・真実の罪のただ中にいる≫)』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪人間的自然としてある直接的な即自的な≫)『自分の理性や力(≪意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する」(『福音主義神学入門』)、私は、日々瞬間瞬間キリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続けている、その神から背き背き続けている、罪を新たな罪を犯し続けているということを告白する。言い換えれば、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰が授与されるためには、神のその都度の自由な恵みの決断による聖霊の注ぎを必要とするのである、聖霊によって更新された人間の理性(この人間の理性はその人間自身のそれであって、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方である聖霊ではない)を必要とするのである。ここでも、神と人間との無限の質的差異は、厳格性をもって保持されるのである。したがって、ここにおいては、ルターの「律法と福音」という順序は正当なものとなる。しかし、イエス・キリスト自身が、「心においても業においても、罪人である」すべての人間に対して、それにもかかわらず、「彼に対する信仰の生命へと、呼び覚まし給う」ということを、「われわれは強調」しなければならないのである。なぜならば、「われわれ人間」は、「そのために必要なものを、自分の内には所有しないということが、確実である」からである。すなわち、そのことは、「イエス・ キリストがわれわれに対してなし給うたこと(≪その死と復活における、神の側の真実としてある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」≫)の約束として、信じられることが出来る」だけである。したがって、私たちは、その「信仰を授与されているという事実性」において、「事実的に信ずる」ことができるだけである。したがってまた、「この勝利の福音」は、神のその都度の自由な恵みの決断により注がれる「聖霊の注ぎ」により(それゆえに、人間的自然としてある直接的な即自的な、「自分の理性や力、意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行あるいは人間的な啓蒙力、教育力、指導力、影響力等々により、では全くないのである)「すべて信ずる者に救いを得させる神の力」である――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、このことを、この啓示認識・啓示信仰を、神のその都度の自由な恵の決断いよる聖霊の注ぎにより授与されるのである・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、このことを、この啓示認識・啓示信仰を、神のその都度の自由な恵の決断いよる聖霊の注ぎにより授与されるのである(『福音と律法』)。
 「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、私たちを「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことである。なぜならば、人間の「不従順・不信仰に抗して、(≪神の側の真実としてある、それゆえに徹頭徹尾決して人間的主観に解体していかないところの客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」そのものである≫)イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではないのである。したがって、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、死と復活の出来事を伴う、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」において「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」のである。このことは、終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、その「生の不安」は、イエス・キリストにおいて包括し止揚された、「克服された」・「慰められた」・「癒された」、「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということなのである。神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、その主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」において、その福音の形式である律法は、@人間に対して、「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられたのである、A「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられたのである。したがって、個体的自己としての全人間・全世界・全人類は、『生命の御霊の法則』である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」、彼に感謝を持って信頼し固執し得るだけなのである。この認識(啓示認識・啓示信仰)からは、次のような事態は生じないのである――あの「神への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、「神の要求」・命令、キリストの福音の告白・告知・証し・宣べ伝えを、人間が恣意的に曲解した「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変えるところの、それゆえに「人間的な余りに人間的な」「無数の儀文」・「偶像崇拝」・「神冒?」を惹き起こすところの、もう少し具体的に言えば「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮」や「大規模な世界改良の偉大な計画」や「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進するところの、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(不信仰・無神性・真実の罪)に基づいた神に対する「熱心さの無知」は生じないのである。
 「不信仰の罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」出来事である、神の恵みの出来事を人間的主観に現実化させる聖霊の注ぎの出来事である。この出来事は、客観的な啓示の出来事の中での主観的側面である。@「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ感謝を持って信頼し固着させる霊である、A「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊、「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである、B「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である(『福音と律法)。
 ~の言葉は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、「~の子イエス・キリストである」。したがって、「教義学全体は、概念の包括的な意味で、……キリスト論として理解されなければならない」。「教義学は、その道の四つの段階(神論、創造論、和解論、救済論)のいずれの段階においても」、神は単一性・神性・永遠性を本質としているがゆえに、「ただイエス・キリスト(≪その神の第二の存在の仕方、業・働き・行為・性質≫)にあって、聖霊(≪その神の第三の存在の仕方、業・働き・行為・性質≫)を通して、父(≪その神の第一の存在の仕方、業・働き・行為・性質≫)の啓示であるところの神とその神の業および働きについて……語ることができる……だけ」なのである。したがって、教義学は、「どこまで行っても~の言葉(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ可視的に存在している、「必然性」不可避性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉≫)に拘束され続けなければならないのであり」、「神の<かつて>の、<現在>の、<将来>の行為としてまさに~の言葉の中で啓示されていること、~の言葉の中で<かつて>起こったし、<今日>起こっているし、<将来>起こるであろうことの力全体の中で、出来事となって起こっていること、について報告すること以外のことを為そうと企てることはできない」のである。したがってまた、「われわれはあらかじめすべての可能な誤謬」の「決定的な矯正」は、教会の宣教の「対象そのもの」、それゆえに教義学の「対象そのもの」――すなわち教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉からやってくるということについて認識し自覚していなければならないのである。教会の宣教における補助的奉仕としての教義学は、絶えず繰り返し、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉に聞き教えられること(「注釈」)を通して「教える」(説明の意味としての「適用」)ところの「批判的な課題」を持っている「教える教会」と、絶えず繰り返しその聖書的啓示証言における~の言葉に聞き教えられること(「注釈」)を通して「神の啓示について新しく証言(注釈の目標としての「語りかけ」、「証言の奉仕」)するよう呼び出す積極的な課題」――すなわちあの「神への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」、キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、神の命令・要求、換言すれば個体的自己としてのすべての人々がキリストの福音を<現実的>に所有できるために、キリストの福音を告白し・告知し・証しし・宣べ伝えへていく課題、を持っている。教義学は、「注釈から語りかけと適用に向か」う聖書と教会の宣教の「仲介的な歩み」、聖書神学と実践神学を統合する統合的な歩みなのである。「教会の宣教と教義学の中で(≪~の言葉の≫)真理について思惟し、(≪~の言葉の≫)真理を語る時、また(≪~の言葉の≫)真理を語る限り」、他律的な服従と自律的な服従の同在性を生きる教義学は、教会の宣教における「対象の全体性(≪~の言葉の全体性≫)を思い出させる想起として、教会に向かって」、「人間を僕として用いつつ」、「ご自分の考えを思惟し、ご自分の言葉を語る者」は、「神ご自身であり、ただ神ご自身だけであるということを」、「一瞬たりとも忘れ」たりしないようにと「呼びかけ」るのである、「呼びかけ」なければならないのである。したがって、他律的な服従と自律的な服従の同在性を生きる「教義学者および説教者」の教会の宣教の対象、すなわち~の言葉に対する関係は、「最高の勇気……最高の謙遜さ……最高の畏敬……最高の喜び」として、決して天然自然・人間的自然・自分自身(対自的で対他的な自由な自己意識・思惟・理性の類的活動、類的本質)を対象としてそれに聞き教えられるという点にあるのではなくて、あくまでもあの~の言葉自身の出来事の運動において、絶えず繰り返し、起源的な第一の形態の~の言葉に、具体的には教会に宣教を義務づけている第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉に聞き教えられという点にあるのである、そしてあくまでそうした仕方で聞き教えられることを通して教える、という点にあるのである――「わが魂よ、主をほめよ。わが内なるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ(詩篇一〇三・一)」、という「言葉でまとめることができる……」。
 今回のこの論述で、バルト自身が、『バルト自伝』において、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』(≪ドイツ語原典第1巻第1分冊および第1巻第2分冊≫)の最初の二冊を、ある程度研究する必要がある」、と述べていた邦訳『教会教義学 神の言葉』T/ 1 、T/ 2 、 II / 1 、 II / 2 、 II / 3 、 II / 4の註解を完了することができたことになる。この註解を通して私は、バルトについて論じている多くの神学者や牧師や著述家たちが、例外なく、バルトの一部分を拡大鏡にかけて全体化して、形而上学的一面的固定的抽象的空論的に述べているに過ぎないということを、実感的に知った。ただ一方で、私は、バルトに対する誠実さと切実さと真剣さをもって翻訳していたに違いない井上良雄と吉永正義に対しては、いつまでも感謝と敬意を忘れないでいる者である。なぜならば、その感謝と敬意を持って正直に言えば、この二人がいなかったら、私は、註解をしようとも思わなかったし、註解することもできなかったし、註解することもできないだろうからである。この二人の邦訳があることによって、次回からは『教会教義学 神論』の註解へと進むことができる。
 最後に、私たちは誰であれ、一方で、不可避的にある歴史的現存性(ある社会構成・支配構成・文明的文化的構成の歴史的な時代水準・時代状況)のただ中に生きることが強いられているのであるが、換言すれば現存する近代以降の世界のただ中を生きることが強いられているのであるが、それゆえに他方で、私たちは、人類史(世界史)にとって部分でしかない近代を頂点化・全体化・絶対化する近代<主義>から対象的になって距離を取るということが肝要なこととなるのである。人間にとって部分でしかない理性を頂点化・全体化・絶対化する理性<主義>から対象的になって距離を取るが肝要なように、また、人間にとって部分でしかない科学を頂点化・全体化・絶対化する科学<主義>から対象的になって距離を取るが肝要なように、経済や政治を全体化・絶対化する経済<主義>、政治<主義>から対象的になって距離を取るが肝要なように。このことは、信仰・神学・教会の宣教においても、そう言うべきことなのである。前回も述べたことであるが、部分を全体化して体系を展開させていく教義学に対して、バルトは、次のように述べている――「自分の教義学を『~中心』であると言いふらそうとし、それに対しほかの者がその代わりにむしろ『十字架の神学』であろうとし、その後さらに『罪中心』でさえあろうとしたこと」は、「ほとんど喜劇的」であった、と。したがって、誰もが反対しないであろう――否、反対できないであろう「平和」という事柄を、「戦争」の廃絶や革命の過渡的課題と究極的課題について提起もしないで、それゆえに内容なき皮相的な水準において、それゆえに最後的には政治的近代国家にすべて包摂されてしまうところのその法的言語や政策的言語を介して<一面的>に表明することはやめた方がいいのである。このような訳で、一昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」は、ただ単なる内容なき皮相的な免罪符的なものに過ぎないものとなったのである。しかし、誠実に切実に真剣に、現実性と妥当性をもって、ほんとうに、「平和を求める」のであれば、またほんとうに、個体的自己としての全人間の解放を求めるのであれば、そしてそのことを、キリスト教に固有な類・歴史性に連帯するところで、第三の形態に属する全く人間的な、キリスト教会的に、キリスト者的に求めようとするのであれば、バルトの方法(「平和に関するバルトの書簡」を参照されたし)しかないのである。このことは、今までのところ誰も理解しようとはしないのであるが(私訳した寺園喜基も理解していなかったのであるが)、明々白々のことなのである。また、そのことを一般的な方法で求めようとするのであれば、「平和を求める」ためには、それゆえに戦争を廃絶するためには、その根源である民族国家を無化する方途を提起しなければならないのである、また同じように、個体的自己としての全人間を社会的現実的に解放しようとするのであれば、現実的な私利・私意を精神とする資本主義社会(近代市民社会)――観念の共同性を本質とする政治的近代国家の枠組みを包括し止揚して国家を無化し、観念的な政治力(法的言語・制度的言語・政策的言語)によってではなく現実的な社会力によって個人の幸福と共に全体の幸福が可能な社会を構成することができる方途を提起しなければならないのである。この場合、吉本の述べる次のような認識は重要なのである――人間の存在様式は、@個体的自己が自己自身に関係する個体的個人としての人間、Aその対象が男であれ女であれ個体的自己が一対の男女(性)として振舞う(関係する)世界、対的個人としての人間、またその対幻想の共同性である<家族>的個人としての人間、B自己が社会(労働、消費、税、選挙等)と関係する社会的個人としての人間にあって、これら人間存在の三様式は、それぞれ次元が違うものであるから、それぞれの世界における問題の本質的な解決の仕方には差異があるのであって、例えば対的領域の問題は、本質的には対的領域において解決されるべきなのである。したがって、観念の共同性を本質とする国家の観念的な法的制度的政策的解決(共同的解決)は第二義的で部分的な解決の仕方でしかないのである、それゆえに全体的総体的な解決とはならないのである。したがって、その場合、その問題の本質の領域においてはさらに深刻化していくのである。また例えば、現存する国家は、個の現存性に引き寄せて言えば、人間存在の三様式を生きる対自的で対他的な自由な人間の自己意識・理性・思惟が、第一義性・価値性を、現実的な自己身体を座とする自己や対(対的共同性である家族)に置かないで、擬制民主主義である議会制民主主義、現実的な資本主義社会(近代市民社会)――観念の共同性を本質とする政治的近代国家(法、制度、政策)の枠組みに置くところのその対他的意識の世代的総和としてあるから、個の現存性において国家の無化の課題を扱うためには、その枠組みを統合した国家共同性を第一義化・価値化する対他的意識を、自己や対に関わる対自的意識に第一義性・価値性を置くところの対自的で対他的な自由な現実的な個の現存に自己還帰させる必要があるのである。「人間の観念がうみだす総体の世界をおさえ切るということが、それだけで人間を救済するわけではない」が、「それぞれ異なった次元を構成する観念の総体性をおさえること」は、それを「のっぺらぼうな均質」な「世界とみなすことからくるすべての錯誤から、人間を脱出させることは確か」なことなのである。したがって、このような「錯誤から脱出するということは、すくなくとも現在の課題としては、ほとんどすべての課題の発端である」(『思想の基準をめぐって』)。このような認識と自覚は重要なのである。戦前における知識人(学者、著述家、メディア、キリスト教の学者・牧師・著述家)の敗北の様式は、彼らが、「国家の政策を、……あらゆるこじつけ(≪法的、制度的、政策的言語≫)を駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配に直通していく大衆の存在様式を把握できなかった点にあった、また彼らが、戦前において庶民が出征時に町内会の見送りを受けて「<家>からでてゆくとき、元気で(≪天皇制的国家共同性に≫)御奉公してまいります」と挨拶する「紋切型」の重たさの意味を把握できなかった点にあったように、最近では例えば、彼らが、日本の社会を安定化させてきた終身雇用制と年功序列型賃金制を、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義――すなわち国家を第一義(価値)とする経済的自由至上主義、至上市場主義経済に依拠し法的制度的政策的言語を介して破壊・衰退させ、さらに財政赤字は政府債務残高のことであってその赤字の責任は全面的に制度としての官僚・政治家・政府支配上層にあるにもかかわらず、その支配上層に対する徹底的な追及はしないで、その責任を消費税増税必要論で大多数の被支配としての一般国民・一般大衆・一般市民に転嫁することに加担した点にあるのである。それに対して、大衆(知的大衆)の敗北の様式は、庶民が、敗戦時において、自分を戦争へと駆り立て自分の家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層に対して、徹底的な抗議や反抗をすることなく、むしろそうした権力を天然自然の災害と同じように受け入れていった点にあったように、最近においては、法的制度的政策的言語を介した学者、著述家、メディアからする、また支配上層の責任転嫁からする、あのよき社会制度の破壊行為と自分の生活に大きな負担を強いる政策に対して、天然自然の災害と同じように受け入れていく点にあるのである。
 佐藤司郎のWeb上の資料によれば、ボーレン以後エンゲマンという神学者は、説教を、政治的な「狂気に面しての説教」と牧会的な「不安に面しての説教」の構造として理解し、「聞き手の生の現実を顧慮する」説教と牧会の統合、「コミュニケーションの出来事としての説教」、聞き手側の「理解と了解のプロセス」を重視した、と述べている。この場合、私たちはすぐに、疑問が生じてくるのである。例えば、何を客観的な基準として、狂気としての政治的状況と言い得るのだろうか? かつて「幼稚な反共主義者」のラインホルド・ニーバーにとって共産主義がそれであった。しかし、事実として、「われわれが最も激しく非難する全体的、非人間的強制にしても、遠い昔から西方の自称自由社会や自由国家にもほかの形で出没した……」のである、現在においてもそういうことはあるのである(『バルト自伝』)。したがって、再度問えば、政治的な「狂気に面しての説教」ということを主張するエンゲマンにしても佐藤にしても、政治的な「狂気」という場合、何を客観的な基準としてそう規定するのか? また、エンゲマンやそれを紹介している佐藤が言う「コミュニケーションの出来事としての説教」論における外在的な対他的コミュニケーション論は、人間におけるコミュニケーションの部分(対他的な部分)を全体化したそれでしかないものなのである。それに対して、バルトは、人間の対自的な意識に関わる言葉で、「われわれ人間の間の伝達は ――われわれが人間一般として互い相対立して立つ限り――事実いかに問題的であるかということを念頭におく」ならば、「一体、誰が誰を知っているのであろうか」、誰が誰をその意識との境界下の無意識の深層において知ることができるのであろうか、と述べている(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。私は、このバルトの思惟と語りの仕方を首肯するものである。吉本隆明も、次のように述べている――現実の意識は、対自的となった人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)と対他的となった実践的意識(自己意識の対他的意識、言語の指示表出)の構造としてある。この自己意識における対自的意識と対他的意識、言語の自己表出と指示表出の構造である現実的意識の外化である言語表現は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(≪実践的意識≫)の外化である」。このようにして人間は、自己を客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入る。このとき<表現>された言語は、客観的な対象として百人百様の享受の対象となり、「交通の手段」となる。外化されたその実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)は確かに「他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識」という意味で、外在的なコミュニケーションによる相互理解に根拠を与える意識である。しかし、人間には、他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識、言語の自己表出)があることも確かなことである。この人間的意識は内在的なコミュニケーションの根拠である。このような訳で、コミュニケーション論のほとんどは、実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)と「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識の外化」としての<表現>された言語に偏向しており、部分を全体化したものなのである(『心とは何か 心的現象論入門』・『人生とは何か』)。この吉本の思惟と語りには、現実性と妥当性があるのである。したがって、エンゲマンとその紹介者の佐藤は、コミュニケーション論においても、部分を全体化して論じる典型を演じていたのである。また、吉本は、次のようにも述べている――「情報科学や情報技術の<専門家>たちは、身体を座とする感覚(≪人間の感覚部分に関わる心・精神≫)」というものと、身体を座とする「心や精神(≪人間の非感覚的部分に関わる心・精神≫)というものとは、同じものであると信じて疑わない」そのことは、人間の部分を全体化することであるから、問題なのである。なぜならば、「情報科学や情報工学の発達」は、人間の感覚部分に関わる心・精神を発達させ知識を増大させたけれども、人間の情念、非感覚部分の心や精神を発達させることはできなかったからである。このことは、人類史が証明しているのであって、古代から人間の「喜怒哀楽」の感情はなくならないし、情念の世界が生み出す愛憎劇はなお依然として繰り広げられているのである。経済社会構成が拡大・高度化し生活の利便性が増大し経済的に豊かになっても、人間の非感覚部分の心や精神は豊かになっていないのである。何か「白けはてた空虚さにぶつかる」(『マス・イメージ論』)のである、軽薄な明るさだけが前面化しているのである。このような訳で、部分を拡大鏡にかけて全体化するのではなく、世界をトータルに認識することが肝要なことなのである。