本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十四節 教える教会の機能としての教義学」「二 教義学の方法」(その2−1)――了――

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十四節 教える教会の機能としての教義学」「二 教義学の方法」(236−267頁) (その2−1)――了――

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

「二十四節 教える教会の機能としての教義学」
「教える教会の機能としての教義学」について、バルトは、次のような定式化を行っている。

 

 教義学は、聞く教会を、聖書の中に証しされた啓示の中での~の言葉を新しく教えるようにと呼び出す。しかしそのことを、教義学は、ただ、教義学自身教える教会の立場をとり、したがって自分自身、教える教会そのものに対して与えられている対象としての~の言葉を通して、要求されている間に(≪indem――井上良雄的に「要求されていることによって」≫)、なすことができる。(191頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、<カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十四節 教える教会の機能としての教義学」「一 教義学の実質的課題」>で行っていますので、参照してください。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

二 教義学の方法(その2−1)――了――
 説教がそうであるように、教義学の原理、規準、法廷、審判者、支配者は、~の言葉の出来事の運動、~の言葉の自己運動――すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる終末論的限界の下での聖霊によって更新された理性(この理性も聖霊ではない)を使っての人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性である、客観的な対象として与えられ可視的に存在している、必然性不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストに、具体的には第二の形態――すなわちイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言、聖書にだけあるのであって(なぜならば、そうでないならば、そこでの神、~の言葉は、ただ単に、人間自身教会自身によって対象化された「存在者レベルでの~」・偶像、その神の言葉でしかないのであるから)、それゆえに~の言葉を第三の形態に属する全く人間的な教会、その成員、その牧師、その神学者、その著述家の自由事項・裁量事項・決定事項の対象とすることはできないのであるから、またそれゆえに絶えず繰り返し、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられなければならないのであるから、「教義学的な体系なるものはあり得ない」のである。このように、教義学の前提は、あの~の言葉自身の出来事の自己運動、「その内容の力によって自らを実証して行く~の言葉だけ」、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において客観的な対象として与えられ存在している起源的な第一の形態の~の言葉自身、イエス・キリスト自身だけ、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の客観的な聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストだけなのであって、ここに、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である教義学の「まさに正しく理解された実質原理」があるのである。言い換えれば、説教がそうであるように、第三の形態に属する全く人間的な教会自身・牧師自身・神学者自身・著述家自身の恣意性や独善性に「実質原理」があるのではないのである。したがって、日本基督教団立東京神学大学の実践神学者の小泉健が、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と聖霊や聖霊の言葉を恣意的独善的に人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項として固定化し実体化させた時、それは誤謬を犯していることになるのである。なぜならば、その主張は、~の人間化、人間の神化、さまざまな人間自身によって対象化された「存在者レベルでの~」、偶像の消費過剰をもたらすからである。ほんとうは、説教者も、教義学者も、次のように告白する以外にないのである――その「思惟と語り」が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、第三の形態に属する全く人間的な人間自身教会自身の「決定事項ではない」、というように告白する以外にないのである。したがって、ほんとうは、説教者や教義学者のその説教やその教義学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいてだけ成立しているのである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2――これまでT/1と記したものは2も含んでおりT/1・2のことである』)・「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄」でしかなく、そのような「絶対最高の存在」・「究極最深のもの」・「物自体」は、「神とは何の関りもない」ものなのである(『教義学要綱』)。
 このような訳で、教会教義学の前提、「実質原理」は、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態にあるのであるから、あの~の言葉の出来事の自己運動において、「~は語り給うた」という「想起」と「~は語り給うであろう」という「待望」との同在性・構造性にあるのである。この「想起と待望の上には(≪人間自身教会自身の「善意による」ものであれ≫)いかなる体系も基礎づける」ことはできないのである。なぜならば、聖書的啓示証言によれば、「自由」・「主権」は、「~ご自身においてのみ実在であり真理」だからである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。この、~と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)および対自的で対他的な、他在であって自在な、全き自由の~の「直接的な、絶対的な、内容的な」自由についての啓示認識・啓示信仰からは、ヘーゲルにおける人間の、対自的で対他的な、他在であって自在な、自由な自己意識・理性・思惟の類的活動における類的本質は、全く人間的な「間接的な、相対的な、形式的な」それでしかないものなのである。そういう意味で、「世俗的な真理」として正直に受け取ればいいのである。したがって、バルトは、ヘーゲル哲学が観念論的だから「受け入れ難く耐え難い」と言っているのではないのであって、神と人間との無限の質的差異を揚棄したところのヘーゲルにおける~・啓示は、人間の自己意識が「捕えた虜囚」でしかないものとなってしまうから、「受け入れ難く耐え難い」と言ったのである・バルトにとって「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」にあったのである・バルトは、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々(≪ブルトマンやモルトマンやルドルフ・ボーレンやエーバーハルト・ユンゲルやベルトールト・クラッパートやパンネンベルクやラインホルド・ニーバーやアジア的日本的な近代主義者の滝沢克己やアジア的日本的土俗的な北森嘉蔵や等々≫)の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」というように、ヘーゲルをヘーゲル主義者を、自然神学の系譜に属するものとして、根本的包括的に原理的に批判したのである(『ヘーゲル』)。
 さて、説教における思惟と語りがそうであるように、「すべての教義学的な思惟と語り」は、「~の言葉の内容」が、「~の業と行為」(「働き」・「行動」)であるということを通して、それゆえにそれが「そのようなものとして、われわれの占有と自由処理」の対象とはならず(なぜならば、その~の言葉は、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態において、具体的には第二の形態において、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として、キリスト教に固有な類・歴史性として、客観的な対象として、与えられ存在しているから)、「ただわれわれが信仰(≪啓示認識・啓示信仰≫)の中でそれを考慮に入れる」ことによってだけ「思い起こすこと(≪想起≫)ができ」、「それをわれわれはただ希望しつつ待ち望むこと(≪待望≫)ができるだけである」ところの、「~の自由な恵みであるということ」を通して、「絶えず問いに付され、その暫時性と不完全性が暴露されるのである」、また「絶えず問いに付され、その暫時性と不完全性が暴露され」なければならないのである。したがって、説教者、それゆえに教義学者には、「個々のいずれの点においても、厳格にとるならば」、絶えず繰り返し「(≪起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることを通して≫)始めから新しく始めなければならない」ところの教義学的作業における「探求と教え……だけが存在する」のである。したがって、「教え」を固定化し実体化することはできないのである。「何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」(ドストエフスキー『罪と罰』)ためには終末、キリストの再臨、完成・救済を待たなければならず、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性から、人は終末論的限界を生きるのであるから、「~の言葉の内容の展開と記述」は、「原則的に、教義学と教会の宣教の中心および基礎」、換言すれば「必然性」不可避性として、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉を、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉を「円として」、「それの円周は、そこから教義学の中で、少しばかりすべての側に向かって、限定された数の線を引き延ばして行くための基盤を形造っているひとつの円として理解」する仕方で、「遂行」しなければならないのである。したがって、この教義学的方法の原則からすれば、起源的な第一の形態の~の言葉を、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言を教会の宣教における、それゆえに教義学的作業における原理・規準・法廷としない~の言葉についての人間の自己認識・自己理解・自己規定に基づいて「~の言葉の内容の展開と記述」を為すことは、「原則的でない姿」なのである。なぜならば、そのような~の言葉についての直接的無媒介的な人間の自己認識・自己理解・自己規定(思惟と語り)は、直接的無媒介的な人間自身の自己意識・理性・思惟のそれとして、類的本質として、その思惟と語りが、教会の宣教における、それゆえに教義学的作業における原理・規準・法廷としての、あの~の言葉自身の出来事の自己運動における~の自己認識・自己理解・自己規定を――すなわちイエス・キリストにおける~の自己啓示を、具体的には聖書的啓示証言を支配していく様式だからである。言い換えれば、それは、人間の神化、神の人間化の様式だからである。
 教義学的方法の原則、「基盤」は、あの円の円周の中で、「~の業と働き(≪単一性・神性永遠性を本質とする~の三つの存在の仕方における業と働き、創造、和解、救済≫)が出来事となっておこるところの~の言葉が、確かに事実、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の客観的な~の言葉において、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における客観的な~の言葉において、「すべての側に向かって自ら語って来、したがってすべての側に向かって(円の円周と比較されるような仕方で)聞かれ、さらに語り伝え」て行くことができるし、「聞かれ、語り伝えて」行かなければならない「何事かを語るということ……でもって与えられている」のである。言い換えれば、確かに事実、それは、終末論的限界の下での、それぞれの世代、それぞれの世紀におけるキリスト教に固有な類の時間累積において、キリスト教に固有な歴史的連続性(歴史性)において与えられているのである。しかし、このことは、終末論的限界の下でのそれであるから、「~の業と行為はどれであり、何であるか、何でないか、を最後完結的に語ろうとする」ことはできないのである。このことは、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえに人は終末論的限界の下に立たされているという事柄から規定されくる「禁止命令」である。しかし、この「事実的な不可能性」から規定された「禁止命令」は「積極的な命令」であって、キリストの復活からキリストの再臨(終末)までの聖霊の時代の他律的な服従と自律的な服従との同在性に生きるキリスト教会、キリスト者におけるそれは、あの~の言葉に聞き教えられることを通した、換言すればキリストにあっての神を尋ね求める・純粋な教えを尋ね求める「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式である律法(神の命令・要求・要請)、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えへとしてのそれなのである。
 さて、教義学は、聖性・秘義性・隠蔽生を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界について、「全教会に向かっての呼びかけとして、教えること」によって、そのことを、絶えず繰り返し起源的な第一の形態の~の言葉に、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉に聞き教えられることを通して「純粋に教えるのである」。教義学的方法は、「常に」、教会の宣教の「対象(≪起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト≫)の支配の下で、常に対象自身が自分について語らなければならないことの後に従いながら(≪なぜならば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からであり、「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」であるから、第三の形態に属する全く人間的な教会、キリスト者は、それぞれの世代、それぞれの世紀において、~の言葉自身の出来事の運動に支配されそれに従わなければならないから≫)」、絶えず繰り返しそれに聞き教えられながら、「先に進み行く」「線と基本命題」、キリスト教に固有な類の時間累積、キリスト教に固有な歴史的連続性(歴史性)に連帯していく点にあるのである。「この原則性」、「具体的にはこれこれの基本命題に向かって決断することから、教義学の(≪他律的な服従との同在性における≫)自律性(≪な服従、≫)は成り立っている」。このような訳で、「歴史的に考察した場合、十七世紀の始めのプロテスタント神学」における「基本的信仰箇条についての教説であったところのいわゆる『分析的』方法とはどうしても袂を分かたなければならない……」。すなわち、「メランヒトンの方法であり、カルヴァンの方法」であり、「しかしJ・ゲルハルトおよびA・ポラーヌスの進歩的な同時代人たちによって不正にも非学問的なものとして退けられた」「ロキの方法〔異なるそれぞれの主題についての論述を集める方法(≪後述するバルトの方法――神論、創造論、和解論、救済論≫)〕こそが、教義学においては唯一の学問的方法なのである」。言い換えれば、「古正統主義のロキ〔それぞれの主題〕こそ」が、「教義学的な基本命題」――すなわち「~の言葉それ自身の統一性よりも高度な統一性から生じて来ることはなく、~の言葉そのものの総合よりも高度な総合を表現しようとしない基本命題、また~の言葉そのものの体系よりも高度な体系の中に基礎づけられたり、まとめられていない基本命題……であった」。したがって、「人がもはやそのような(≪限界づけられた≫)基本命題でもって満足することができないと考えた」時、「人は(≪第三の形態に属する全く人間的な≫)教義学と教会の宣教の実際の基盤(≪啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉≫)を足下から失おうとしていたことに気づかなかった」のである。「これこれの基本命題……に向かっての具体的な決断」(それは教義学的作業自身の「自由な決断」、「人間的な責任性の中で為された提案が持つ必然性と拘束力を自分のものとして主張することができる」相対的な自由な服従的な決断である)は、「ただ(≪具体的には、教会の宣教を義務づけている、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、その宣教における≫)対象自身(起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉)を通して規定されている」から、その「決断は敢為を意味している」のである。
 「われわれは……ここで」、最後的課題――「教義学の方法論……を試みる」。「われわれはその際……み言葉の中での神の業と行為(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の三つの存在の仕方における、すなわち父、子、聖霊における業と行為、創造、和解、救済≫)は、われわれが~の言葉の第一の形態として、すなわち~の啓示として、記述したことと同一であるということ……から出発しなければならない」。なぜならば、起源的な第一の形態の~の言葉、すなわち神の啓示における「~の業と行為」は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(性質、行為、働き、業)、啓示・和解、「神的な愛の力」・「和解の力」、客観的な「啓示の実在」そのものであるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストそのものだからである。このイエス・キリストは、常に瞬間瞬間、キリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続けている・~に背き背き続けている・罪を新たな罪を犯し続けている、自主性・自己主張・自己義認の欲求、不信仰・無神性・真実の罪のただ中にある「まさしく神に対して罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」、福音そのものだからである。イエス・キリストは、「人間に対する神の恵み深い支配」だからである――イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書およびその聖書に聞き教えられた教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ということを、それゆえに「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」であるということを、またそれゆえに「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということを認識し承認し確認するのである・「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・「否定的判決の時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、啓示の時間、成就された時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され克服されて「そこにある」ということを、またその勝利の行為は、「敗北者も依然としてそこにいるところの勝利の行為」であるということを認識し承認し確認するのである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。この「神の恵み深い支配」は、「人間的な反抗と人間的な困窮を克服する」ということであるがゆえに、「啓示は事柄から言えば、その中で~が人間的な抵抗に対してさらに立ちまさった仕方で抵抗し給い、それと共に一転して人間の困窮状態をその救いに変え給う行為」としての「和解……と同じ」なのである。その自在であって他在、対自的であって対他的、その全き自由の自在性において「~は、ご自身をわれわれに啓示される」ことによって、その全き自由の他在性において「われわれに対して行動し給う。そのことについて教会の宣教は報告しなければならない」。したがって、「ほかならぬそのことについて報告する」ことが、また教会の宣教における補助的奉仕としての「教義学の実質的な課題」なのである。
 このような訳で、教会の宣教が、それゆえにその補助的奉仕としての教義学が、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示・和解、イエス・キリストに絶えず繰り返し聞き教えられることを通して、「教えなければならない~の言葉」は、「啓示」と「和解」の「等置」・同在性・構造性における「和解についての言葉」である。なぜならば、「教会の宣教および教義学において神の業と行為について報告がなされる際には、全線にわたってみ子イエス・キリストにあっての神の業と行為(≪和解≫)が問題である」からである。「ただイエス・キリスト(≪和解、恵み、愛≫)の中でだけ、父(≪創造、律法、信仰、それゆえに「イエス・キリストの名」は「創造の律法を成就する恵みの表象」・『福音と律法』で言えば「律法の成就」の表象である――この段落の下方で引用する『福音と律法』・『教会教義学 ~の言葉T/1・2』の言葉を参照されたし≫)はわれわれに啓示され給う。また……ただイエス・キリスト(≪和解≫)だけを、聖霊(≪救済、完成、希望≫)は啓示し給う。それであるから教義学は事実、原則的に、……ただキリスト論であることができるだけである」。しかし、「父を啓示する者」、そして「われわれを父と和解させる者」としてのイエス・キリストにおける啓示は、<和解>を中心に置いて理解することができるだけであるが、単一性・神性・永遠性を本質とする<~の第二の存在の仕方>における「啓示がその中心において和解である」ことによって、その啓示は、~の第一の存在の仕方における「創造」(父)と~の第三の存在の仕方における「救済」(聖霊)とも関わっており、それゆえに~の第二の存在の仕方における「和解」を形而上学的一面的固定的に「体系の中心」とするキリスト論は「抽象的ニ」なってしまうのである。なぜならば、聖書、それゆえにその聖書に聞き教えられた教会の宣教において神は、「イエス・キリストの父」、「子としてのイエス・キリスト自身」、「父と子の霊である聖霊」であり、このような「三位一体の神」として自己啓示するからである。パウロにおいて、「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊」、「知恵と啓示の霊」による「神の啓示への参与」――すなわち聖霊の注ぎによる信仰の出来事における「人間の思惟、行為、語ること」を、「主観的に表示している概念」である。また、「キリストにあって」とは、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「全く同じ事柄を、客観的に表示している概念」である。<救済>に関わる~の第三の存在の仕方における聖霊は、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である。この聖霊が、客観的な「啓示への個人的な参与を保証する」。キリストの霊である聖霊は、客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」に関わる霊、すなわち「聖霊の注ぎ」による人間的主観に神の恵みの出来事を実現させる霊、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を与える霊である。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」(啓示認識・啓示信仰を介したそれ)は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っているのである。新約聖書によれば、客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」に関わる霊、「神の恵みの賜物」である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(全キリスト者を含めて、その現にあるがままの現実的な人間存在におけるすべての人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある啓示の客観的現実性・客観的実在、完了・「成就と執行」、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、「永遠的実在」として<すでに>ということである。簡潔的に、起源的な第一の形態である「神の啓示の実在を問う問い」に対する第二の形態のその直接的な最初の第一の「新約聖書の答え」は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在(性質・行為・働き・業)、「まことの神」にして「まことの人間」、「ナザレのイエスという歴史的形態」、「イエス・キリストの名だけ」である。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストは、「啓示の出来事においてはじめて神の子」、「神の言葉」となるのではなく、「永遠なる神性」(単一性・神性・永遠性)を本質としているがゆえに、その~の第二の存在の仕方において「父を啓示する者」、そして「われわれを父と和解させる者」として、「イエス・キリストは神の子」、神の言葉、啓示・和解なのである。言い換えれば、啓示と和解(~の第二の存在の仕方)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、単一性・神性・永遠性を本質とするそのキリストの「永遠なる神性」が、「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人が全く罪も穢れもない~に聞き従い「全く端的に信じる」<まことの人間>であっても人間に内在することは決してないのである。この起源的な第一の形態のイエス・キリスト(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト)は、第三の形態に属する全く人間的な教会の客観的な信仰告白・教義における対象そのものであり、「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」なのである、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者なのである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会の「教義」は、その全成員にとって「人間的な教育的な威厳」はあるとしても、「いかなる神的な威厳」も持ってはいないのである。前述した「われわれを父と和解させる者」、神の第二の存在の仕方におけるその「業と行為」について、バルトは、簡潔に、次のように述べている――「神は、(≪第三の形態に属する全く人間的な全キリスト者、全キリスト教会を含めて、その現にあるがままの現実的な人間存在における、際限なき人間の欲望、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、~の人間化、人間の神化、人間の不信仰・無神性・真実の罪、すなわち日々瞬間瞬間キリストにあっての~から遠ざかり遠ざかり続けている・その~に背き背き続けている・罪を新たな罪を犯し続けている≫)神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。(≪主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」という仕方で、≫)彼は全く端的に、信じ給うたのである」。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストご自身」が、その「死と復活の出来事」において、すべての人間のためにすべての人間代わってすべての人間の「~の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰・<死>(「創造の律法」)を、「唯一回為し遂げ給うた」という律法の「実行」と「成就」を意味しているのである。したがって、「イエス・キリストの名」は、「創造の律法を成就する恵みの表象」・「律法の成就」の表象なのである。このことは、人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら「価値や力や資格」もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように」、それゆえに人間の側から協働・共働・混合されぬように、~と人間との無限の質的差異の下で~の側の真実としてのみ~の方から「統一し給うた」ということ・架橋し給うたということを意味しているのである。このことは、「われわれと父とを和解させる」出来事である。したがって、この出来事は、<新しい>生、世のはじまりである。このことが、「福音の内容」である。バルトは、確信を持って、近代主義やヘーゲル主義に一切合切包摂されてしまうところの目的格的属格として理解している旧来訳聖書や新共同訳聖書とは全く違って、「ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の 『イエスの信仰』」の属格を、「明らかに主格的属格として理解されるべきものである」として、すなわち~の側の真実としてのみあるイエス・キリストが信じる信仰として理解(啓示認識・啓示信仰)したのである(『福音と律法』)・「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。言い換えれば、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。したがって、成就された時間であるキリストの復活は、「新しい」生、世のはじまりである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト。和解主)における「業と行為」の「和解」は、その~の起源的な第一の存在の仕方における「業と行為」の「創造の継続」や「創造の完成」ではないとしても、「創造主の後に続」いた「創造の実現および貫徹」である。単一性・神性・得粘性を本質とする~の永遠における業と行為の時間累積である。それに対して、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方(「父ト子ヨリ出ズル御霊」の聖霊、救済主)における「業と行為」の「救済」は、「創造の完成」である。聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・行動・働き・業)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」――すなわち「三位一体の神」なのである。したがってまた、単一性・神性・永遠性を本質とする神の「完全さ」・「自由さ」は、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の「完全さ」・「自由さ」なのである。この関係と構造・秩序性における三位一体論は、「啓示の認識原理」であると同時に、「神論の決定的に重要な構成要素」である(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。
 さて、キリストの復活からキリストの再臨(終末、救済・完成)までの聖霊の時代において、人は、この「救済」を、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる終末論的な「信仰(≪啓示認識・啓示信仰≫)の中で持つ」のである。なぜならば、「何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」ためには、キリストの再臨、終末、救済・完成を待たなければならないからである(ドストエフスキー『罪と罰』))。したがって、この救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊(≪救済に関わる客観的な「啓示の出来事の主観的側面」「聖霊の注ぎ」≫)を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在として、永遠における「創造主の後に続」いた「創造の実現および貫徹」(和解)に続く「創造の完成」(救済)という救済史として、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。したがって、バルトは、聖霊の時間における人間について、次のように語ったのである――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないという こと――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。「われわれは~の真理(≪起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト≫)の光の中」で、「人間をただ罪人および恵みを受けた罪人としてだけでなく」、このことが「何を意味しているかを理解するために」、「同時に人間を、~によって造られたその現実存在の中で」、キリスト教会(その成員)を含めてその現にあるがままの現実的な人間存在、世界、歴史の中で「見、理解しなければならない」。言い換えれば、「われわれ」は、神の支配の下で、「世、歴史、社会」を「見、理解しなければならない」、「世、歴史、社会」を「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として「見、理解しなければならない」、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということを「見、理解しなければならない」、その「恵みの光の中」で、「われわれ」は、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ということを「見、理解しなければならない」。
 このような訳で、~の業と行為における和解が啓示の中心であるとしても、「われわれが実際の、神的和解」について語る時には、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である「三位一体論」に即して行わなければならないのである。言い換えれば、「~が~であり、主であるということ」は、単一性・神性・永遠性を本質とする「~が(≪その第二の存在の仕方、その業と行為において≫)人間の反抗に対する反抗の中で、人間の困窮状態の中で救助者として、勝利を収めつつ、人間の和解主であり給うということ」、そのキリストの神性が「啓示と和解を生じさせ」、その「和解」は「まことである」ということ――このように「認識され、理解されることを欲している」、ということを意味している。しかし、「~が~であり、主であるということ」は、「ただ単にそのような和解の行為(≪~の第二の存在の仕方、業と行為≫)の中でだけでなく、また単一性・神性・永遠性を本質とする~のそのほかの行為(≪~の第一の存在の仕方、業と行為、~の第三の存在の仕方、業と行為≫)の中ででも、まことであるとして認識され、理解されることを欲している」ということを意味している。したがって、それらは、「和解論に従属していない」、「~についての特別な(≪その存在の仕方における差異性を持った≫)教説(≪創造論、救済論≫)として、表現されることを欲している」のである。「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「新しい神の業」である、ということである。それは、<神的>な「愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方(業と行為)において「第二の<神的>行為を遂行」したのである。この神の存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父」に先行することはできないのである(なぜならば、対自的であって対他的な、自在であって他在な、全き自由の単一性・神性・永遠性を本質とする~の根源的な第一の存在の仕方である父は、子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源だからである。この単一性・神性・永遠性を本質とする~の根源的な第一の存在の仕方である父なる神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。このように、父、子、聖霊は、単一性・神性・永遠性を本質としているがゆえに、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである)。しかし、父と子は共に単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、その「存在の本質」的な差異性を意味しているのではなく、その「存在の仕方」の差異性を意味しているのである。このような訳で、形而上学的に一面化固定化された「和解の体系という形での教義学」は、「排除されている」のである。また、教義学は、「~についての教説でなければならない」。しかし、この場合も、「~の言葉の内容を、……神論に、換言すれば、~の国および支配についての教説に縮小してしまおうとするならば」、その教義学は、「同じように~の言葉の内容に対応していないことになる」。したがって、バルトは、『教会教義学』の構成を、「原則的に、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神の行為(≪啓示・和解としての~の第二の存在の仕方における業と行為、~の第一の存在の仕方における業と行為、~の第三の存在の仕方における業と行為≫)全体」――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする「和解主(≪子としてのイエス・キリストに関わる≫)の……創造主(≪イエス・キリストの父に関わる≫)および救済主(≪父と子の霊である聖霊に関わる≫)の行為全体」の「認識の中で、認識と共に、理解しなければならないと」と考えて、~の言葉論、神論、創造論、和解論、未刊で終わった救済論(「救贖」概念よりも「完成」概念の方がよかった、「救贖」論・「完成」論――『バルトとの対話』)としたのである。
 前述したことは、「~は創造主であるという真理についても妥当するのである」。すなわち、その真理は、「~の和解させる行為の中で認識する以外」にないのである。なぜならば、聖書的啓示証言の本来的テーマは、単一性・神性・永遠性を本質とする「三位一体の第二の存在の仕方」である「子なる神」、「キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」である聖霊を問う問いとが包括されているという点にあるからである。したがって、この~の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、~の第二の存在の仕方において、その本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰(啓示認識・啓示信仰)を、すなわちキリストの神性の認識と信仰を要求する啓示なのである。しかし、このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」であるから、聖性・秘義性・隠蔽性を本質する~であるから、「神ご自身」が「~ご自身」の方から「神とわれわれ人間」とを架橋されないならば、すなわち~のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づかなければ、全く不信仰で罪に穢れた人間は、自主性・自己主張・自己義認の欲求、不信仰・無神性・真実の罪のただ中にある人間は、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、教義をさえ持つことはできないことを意味しているのである(『福音と律法』・『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。
 さて、単一性・神性・永遠性を本質とする~は、その第三の存在の仕方(聖霊)である「救済主」として、「自ら、その創造(≪~の第一の存在の仕方における業と行為≫)と和解(≪~の第二の存在の仕方における業と行為≫)の行為を通して約束されたすべてのことを成就し、実行に移しつつ、人間の完全な未来」のために、「そのみ言葉の中で(≪客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による信仰出来事に基づく終末論的な啓示認識・啓示信仰の授与において≫)人間のところに来たり給う」。~のその都度の自由な恵みの決断により、~の側から「来たり給う」。「ただここでだけ、~は明らかにわれわれと出会い給う」。「救済」や「栄光の国」が「和解」や「恵みの国」の中に「つくされてしまうわけでない」ように、「終末論」は「和解論の附録」ではないのである。言い換えれば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である「イエス・キリスト」が、「ただ、この来たりつつある救済主として理解」することができるのであり、「終末論的に、……来たりつつある救済主の中でだけ、われわれの生まれかわり、われわれの義認、われわれの聖化、教会と聖礼典があるのであり、現臨し給うイエス・キリストの現実存在全体とみ業全体があるのである」。このような訳、「救済論も体系的な中心となることはできない」。すなわち、「救済論と並んで神論、創造論、和解論がなければならないのであり、それゆえ救済論は、……それらのものに従属したり、優越した立場に立つこともなく、~の言葉の中にあるそれらの共通的な起源と目標の鎹を通してまとめられなければならないのである」。「そこでの認識の基礎づけのためには、四つの点(≪神論、創造論、和解論、救済論――これらの点から「無限の彼方を指し示す」線が「引かれる」≫)のいずれにおいても、ほかならぬ(≪それら四つの点の「起源的な交叉点としての」≫)神の言葉自身が気を配るであろう(≪「神の言葉自身の中で、……それらの線はひとつである」≫)」。この差異性におけるその「単一性の実現」は、神の言葉自身の出来事の自己運動によるのであって、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教が、それゆえに教義学が、「自分自身の力で、自分がよしとみることにしたがって……為すべき事柄ではあり得ない」のである。神の言葉は、「それが神から出来事となって起こる最モ純粋ナ行為の中で」、換言すればそれが「三位一体の神の現実存在(≪神の第一の存在の仕方、第二の存在の仕方、第三の存在の仕方におけるそれ≫)の最モ純粋ナ行為」・業の中で、すなわち「失われない差異性」の中で、「ひとつである」、すなわち「失われない」単一性・神性・永遠性を本質としている。この言葉から、容易に、バルトが、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教、その補助的奉仕としての『教会教教義学』を「神の言葉論」から始めて、「神論」、「創造論」、「和解論」へと進み、未刊に終わった「救済論」(「完成論」)へと向かおうとしていたことを知ることができる。したがって、バルト自身は、次のように述べたのである――「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八 年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊(≪邦訳の「神の言葉」T/ 1 、T/ 2 、 II / 1 、 II / 2 、 II / 3 、 II / 4 を≫)を、ある程度研究する必要がある」――「四つの主題のあの相違性と独立性は、三位一体の一つの神の啓示(≪神の言葉≫)の事実そのものから結果として生じてくる」のである。聖書の本来的テーマは、三位一体の神の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」(単一性・永遠性)を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある。第三の形態に属する全く人間的な「教会の宣教と、それと共に教義学」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神が、「現実に、換言すれば、時間の中で、ご自分を啓示し給うかについて、報告してゆくことを大事なこととみなすならば、……その啓示の中での神の業と行為(≪創造、」和解、救済≫)を堅く取って放さない」いることが肝要なことなのである。言い換えれば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲」し、「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるから、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性――この神の言葉自身の出来事の自己運動の中で、ある社会構成・支配構成・文明的文化的構成の歴史的な時代状況の中に現存する、それぞれの世代、それぞれの世紀における、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教と、それの補助的奉仕である教義学は、他律的な服従と自律的な服従との同在性において、絶えず繰り返し、起源的な第一の形態の神の言葉に、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における神の言葉に聞き教えられること通して、キリストにあっての神・純粋な教えを尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――すなわち、個体的自己としてのすべての人々が<現実的>にキリストの福音を所有することができるために、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していくというが必要なのである。