本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十四節 教える教会の機能としての教義学」「二 教義学の方法」その2−1−1

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十四節 教える教会の機能としての教義学」「二 教義学の方法」(209−236頁) (その2−1−1)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

「二十四節 教える教会の機能としての教義学」
「教える教会の機能としての教義学」について、バルトは、次のような定式化を行っている。

 

 教義学は、聞く教会を、聖書の中に証しされた啓示の中での~の言葉を新しく教えるようにと呼び出す。しかしそのことを、教義学は、ただ、教義学自身教える教会の立場をとり、したがって自分自身、教える教会そのものに対して与えられている対象としての~の言葉を通して、要求されている間に(≪indem――井上良雄的に「要求されていることによって」≫)、なすことができる。(191頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、<カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十四節 教える教会の機能としての教義学」「一 教義学の実質的課題」>で行っていますので、参照してください。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

二 教義学の方法(その2−1−1)
 説教(説教者)と同様に、教会の宣教(説教と聖礼典)における補助的奉仕であり一つの機能である教会教義学(教会教義学者)が「教義学の方法」について考えることは、教義学の「実質的課題」について、換言すれば「~の言葉の内容を展開し記述しつつ進」んでいく方法について考えることである。言い換えれば、このことは、不可避的なある社会構成・支配構成・文明的文化的構成の歴史的な時代水準・時代状況のただ中に現存するそれぞれの世代、それぞれの世紀における、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)が、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリストに、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストに聞き教えられることを通して、換言すればキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」、「純粋な教え」を尋ね求める「~への愛」を通して(なぜならば、説教と同様に、教義学的作業をそういう仕方で為さないならば、その教会の宣教における教えは、人間自身教会自身の恣意性や独善性における単なる自己表現でしかなくなってしまうから)、このことと同在的に、その「~への愛」を根拠としたキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを通して(なぜならば、それぞれの世代、それぞれの世紀における、個体的自己としてのすべての人々が、<現実的>に福音を所有することができるためには、福音を内容とする福音の形式である律法、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えが必要であるから、換言すれば「~の讃美」としての「隣人愛」が必要であるから――このことが、「もろもろの誡命中の誡命」、「われわれの浄化・聖化・更新の原理」、「教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」であるから)、キリスト教に固有な類(それぞれの世代、それぞれの世紀の、具体的には聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して純粋な教えを志向し目指す教会の宣教における客観的な信仰告白・教義)の時間累積、すなわちキリスト教に固有な歴史的連続性(歴史性)に連帯する方法について考えることである。このことは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)が、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示・和解、イエス・キリストを媒介・反復することを通して、換言すればそれに聞き教えられることを通して、起源的な第一の形態の~の言葉、啓示・和解、イエス・キリストと「間接的」媒介的反復的に同一となることを志向し目指すということを意味している、すなわちイエス・キリストを主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すということを意味している。
 さて、起源的な第一の形態の~の言葉である「啓示」は、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教においては、具体的には、~の言葉自身の自己運動――すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、換言すれば「啓示の出来事の中での主観的側面」における聖霊の注ぎによる証しの力、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している、「必然性」不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉として存在しているから、またそれは、「例証されようとせず、解釈されることを欲」し、「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるから、それゆえに第三の形態に属する全く人間的な教会の、それぞれの世代、それぞれの世紀における教義学(教義学者)は、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、起源的な第一の形態の~の言葉に、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉に「服従」的に聞き教えられることを通して「聞く教会」が、同在的に、同時的に、「新しく教える」ところの「教える教会」となるように「呼びかけようとする意図を持って」、「自分の側でも、(≪そういう仕方で≫)教える教会の立場を取るのであり」、「教える教会の課題」を「自分のものとする」のであり、そういう仕方で教会(その成員)に対して「教えるという課題の解決を範例的に示そうとする」のである。この限り、教会の宣教における補助的奉仕としての教義学は、「形式的に見た場合に、(≪起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉としての≫)~の言葉を聞くこと(≪絶えず繰り返し聞き教えられること≫)に参与しているのと同様」に、「宣教(≪そういう仕方でキリストにあっての神を、「純粋な教え」を尋ね求める「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、すなわち第三の形態に属するそれぞれの世代、それぞれの世紀におけるキリスト教に固有な類の時間累積、歴史的連続性・歴史性に連帯すること≫)に参与する」のである。ここでもまた、教義学(教義学者)と説教(説教者)とを「区別するもの」は、「重点の置きどころ違いである」。「教会が一般に教える時、……聞く教会を新しく形成していくことに向けられている」。第三の形態に属する全く人間的な教会は、人間自身教会自身によって固定的に実体化することはできないから、絶えず繰り返し、教会となることによって教会であろうとしなければならない。しかし、その場合、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観等や「国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制」や「特定の人種、民族」等々を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることはできないのであって、前述したあの~の言葉自身の自己運動における「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態としての~の言葉そのもの、イエス・キリストそのもの、客観的な「啓示の実在」そのものを、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」を、原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられなければならないのである。こういう仕方で、教会は、絶えず繰り返し、教会となることによって教会であろうとしなければならないのである。このことは、教会が、絶えず繰り返し、具体的には聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して、「自分が為す教えることの正しさと妥当性を吟味し、反省しつつ問うことなしには教えることが不可能であるのと同様」に、教会の宣教における補助的奉仕としての教義学は、教会の宣教に対して、ただ聞くだけでなく、「新しく教える」ところの「教える教会」へと、「証人の奉仕」へと、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えへと向かうように「呼びかける」ことを、すなわち具体的には、絶えず繰り返し「純粋な教え」を尋ね求めて聖書的啓示証言に「聞く教会(≪聞き教えられる教会≫)を通して聞かれたみ言葉を〔さらに先へと〕語り伝えていく(≪聞くことと教えることの、すなわち「~への愛」とそれを根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えとの同在性・同時性において、キリスト教に固有な類の時間累積を為す≫)ように「呼びかける」ことを、必要としているのである。教義学が「教える」という「教義学の特別な主題」は、「実質的な側面」からは、教会の宣教が後景へと退かせた「~の言葉の内容的な強制の下」での「主要な問い」、すなわち絶えず繰り返し起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられることを志向し目指す「聞くことと教えること(≪その「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え≫)の必然的な関連(≪同在性、構造性≫)を範例的に実行に移して行く」という点にあるのである。このことを、教義学は、「決して自明的ではないところの……教える教会を形成していくためにこそ」、すなわち「聞く教会が、教える教会となることを」後景へと退け単に聞くだけの教会とならないために、換言すれば教会に対して「聞くことと教えることの必然的な関連(≪同在性、構造性≫)」を堅持させるために、換言すれば「死んだ教会とならないために」、「為すのである」。第三の形態に属する全く人間的な教会がそうであるように、その補助的奉仕としての教義学には、教会が、起源的な第一の形態の~の言葉を、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して、教会の宣教の自己「吟味」と「批判と訂正」を為すようにさせる「批判的な力および呼び覚ます力」はないのであって、換言すればその「批判的な力および呼び覚ます力」は、「言うまでもなく(≪客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力――「啓示の出来事の中での主観的な側面」における聖霊の注ぎによる証しの力、~のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいた終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、この自己運動する≫)~の言葉の力」――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、起源的な第一の形態の客観的な「啓示の実在」そのものである「~の言葉の力」、具体的には第二の形態のその人間性と共に神性を賦与され装備されたその直接的な最初の第一のその客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言における「~の言葉の力」であって、「ただ~の言葉の力であるだけである」。したがって、教会教義学は、「この力」に信頼し固執して、教会の宣教における聞くことと教えることの「両方の側面」に対して「ただ奉仕することができるだけ」なのである。このような訳で、バルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1』で、次のように述べたのである――教会の宣教における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項ではないのであるから、教会教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(祈りの態度)に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである。したがって、教会の宣教における補助的奉仕としての教義学の思惟と語りは、教会に対して自らが、その思惟と語りの「材料、内容、対象」を提供するところの、具体的には絶えず繰り返し第二の形態の聖書的啓示証言を原理・規準・法廷としてそれに聞き教えられることを通して「純粋な教え」を志向し目指す「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えへを志向し目指すことによって、すなわち「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることを通して教えることを志向し目指す「思惟と語り」の「範例」を示し・「証し」することによって、教会の宣教に対して、「ただ人間的な手段を用いて人間的に」、「批判」し、聞くことと教えることとの同在性・同時性・構造性へと「呼び覚まそうとすることができるだけ」なのである。このような訳で、教義学は、「教会の宣教の常に危険にさらされている人間の言葉の領域の内部で」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している、必然性不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉そのものが、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉が、「存在し力を奮うということに対する論証、告知、しるし、証言でなければならない」のである。第三の形態に属する全く人間的な教義学は、「原則的に」、「説教」が人間「以上のものであろうと欲することができないのと同じように」、「それ以上のものであろうと欲することはできない」、ちょうどその人間性と共に神性を賦与され装備された聖書が、その「<人間的側面>」からは、「現にあるもの以上のものであろうと欲することができない」ように、またまことの神にしてまことの人間のイエス・キリストが、その「<人間的側面>」からは、「現にあるもの以上のものであろうと欲することができない」ように、換言すればその「<人間的側面>」からは、「~の言葉の<証言>以上のものであろうと欲することはできない」ように。このような訳で、「~の言葉の力」は、その単一性・神性・永遠性を本質とする「ただ~の永遠の言葉自身の自由な恵みの力」なのである。単一性・神性・永遠性を本質とする~のそれなのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは「視覚的錯覚」に、換言すれば<近代主義>的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠しているからであって、その場合には、「赦す~」が人間に内在しなければならなくなるから、それゆえに~の人間化・人間の神化が惹き起こされてしまうから、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」~と人間との無限の質的差異を(『ローマ書』)後景へと退け排除してしまうことになり、さらには聖書的啓示証言における単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを、「下からの半神」、「超人」、「最深の本質」、「最高の理想」という「空虚な概念」にしてしまうことになるのである。したがって、こう言うべきである――聖書的啓示証言によれば、和解主としてのイエス・キリストは、単一性・神性・永遠性を本質とする~ご自身であるがゆえに、その~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間における「人間的『性質』」、「人間であること」、「~との和解者として、われわれに出会うところの人間」であることは、「啓示および和解として現実に有効」なのである。言い換えれば、このイエス・キリストにおける「神的な愛の力」・「和解の力」は、イエス・キリストが罪も汚れもないまことの人間であるとしてもその存在の仕方における人間的性質にあるのではなく、単一性・神性・永遠性を本質とするその神的存在そのものにあるのである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。
 このような訳で、「教義学者は、~の言葉の力を、ただ~の永遠の言葉自身の自由な恵みの力によってだけ持っている」から、それを、「隠れの中でだけ持っている」のである。したがって、教義学が自らの実質的な課題の意味において、その実質的な課題を「(為しつつ証ししなければならない)~の言葉の力」は、「神的な存在と行為から人間的な存在と行為の上に落ちてくる反射の中で」、換言すれば~のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される終末論的限界の下での啓示認識・啓示信仰における「信仰と服従」の中で可視的となることができるのである。イエス・キリストを主・頭とする~の教会の宣教における「自分の事柄は、~の事柄であり、~ご自身が教会の中でご自分の言葉を語ろうと欲し、語るであろうという<約束>を持っているがゆえに」、換言すれば~の言葉自身の自己運動――啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している、必然性不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の現存、という約束を持っているがゆえに、この「~の主権的な行為を通して教義学」は、説教がそうであるように、その教会に対して与えられた約束に基づいて、絶えず繰り返し教会の宣教における原理・規準・法廷としてのその起源的な第一の形態の~の言葉に、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉に聞き教えられることを通して、そういう仕方でキリストにあっての神を、「純粋な教え」を尋ね求めることを通して、「教会の宣教を批判し、吟味し、訂正する」ことを「訴え出ることができ、訴え出ることが許され、訴え出なければならないのである」。なぜならば、「人間イエスが、すべての人間的な証言に対する模範としての意味を持ちつつ」、「この絶えず訴え出る行為の中で、肉をとった父の子として存在するために」、単一性・神性・永遠性を本質とする「~ご自身の現実存在の中での~の主権的な行為に……訴え出られた」からである、またその人間性と共に神性を賦与され装備された啓示の「聖書的証人たち」が、あの「約束」と、それゆえに「神の恵み」に対する全き「自由」の「尊重」と、それゆえに「恐れ」の下で、また「恐れを克服する喜びと信頼」の下で、「彼らの人間的行為をもって訴え出た」からである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教の補助的奉仕としての教義学は、「教会の宣教に付け加えられた(神的規準の)しるしであるばかりでなく、また神的力のしるし……であろうという信頼」の下で、「訴え出ることができる……」のである。したがってまた、このしるしは、「それ自体決して神的なもの」ではないのである。言い換えれば、第三の形態に属する全く人間的な人間が為す説教、その補助的奉仕としての教義学は、全く人間的なそれとして、教義学的的作業とその成果それ自体「神的なもの」ではなく、それゆえにそれは「単なる被造物的――人間的な業および形成物でしかないもの」なのである。このように述べるバルトは、『説教の本質と実際』で、次のように述べている――終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与は、換言すれば個体的自己としてのすべての人々・「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」、それは「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」、インマヌエルというキリストの福音であって、その福音についての啓示認識・啓示信仰の授与は、本質的に、あくまでも~のその都度の自由な恵みの決断、すなわち啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてやってくるのであって、第三の形態に属する全く人間的な説教をする説教者からやってくるのではないのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――説教者は、説教として語る場合、聖霊や聖霊の言葉を説教者の自由事項・裁量事項・決定事項にする小泉のように、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」・「説教は語ることであるが、……(≪全く人間的な説教者が、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して≫)一語一語準備し、書き記しておいた(≪全く人間的な≫)もののこと」である、と。したがってまた、バルトは、@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている、と述べたのである(『啓示・教会・神学』)。したがって、上から目線の、「教える」だけの牧師は、本質的に存在し得ないのである。このような訳で、日本基督教団立東京神学大学の実践神学者の小泉健が、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と人間自身の自由事項・裁量事項・決定事項として人間自身が恣意的独善的に聖霊や聖霊の言葉を固定化し実体化して語ることは、本質的に不可能なことなのである。したがって、可能だと主張するならば、その場合には、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方である聖霊は、ボーレンや小泉の自己意識・理性・思惟が対象化した「存在者レベルでの~」――すなわち偶像でしかなくなってしまうのである。したがってまた、その場合には<偶像>崇拝となってしまうから、教会(その成員)は、ハイデッガーが、「無理や捏造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している」ブルトマンやその学派を批判し「揶揄」したように、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)と述べた方がいいのである。なぜならば、その場合には、「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。 (中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」ということになってしまうからである( L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。このような訳で、「教義学的作業が教会的な教えの対象を通して範例的に要求されている」ことの肝要な点は、説教がそうであるように、教義学的な思惟と語りは、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に支配され・それに服従しなければならないところの、「聖書の中で証しされている啓示を通して動かされ満たされた人間的な思惟と語り」であるという点にある。言い換えれば、教会教義学的な思惟と語りは、絶えず繰り返し、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態である~の言葉そのものに、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉に聞き教えられることを通して、そういう仕方で「純粋な教え」を尋ね求めると同時に、それと同在的に、そういう「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指す「人間的な思惟と語り」であるという点にある。したがって、それは、近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観等に依拠する「思惟と語り」になることは許されてはいないのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」・また、その場合には、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」・キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」・また、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」(『教会教義学 ~の言葉T/1』)、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」のである(『バルトとの対話』)。言い換えれば、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの福音の宣べ伝えを志向し目指すことのない「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は、「教義学としては非学問的」なのである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。このような訳で、教会の宣教における補助的奉仕としての「教義学的な思惟と語り」は、「非教義学的な思惟と語りから区別される」のである。この区別は、その教義学的な思惟と語りが、第三の形態に属する全く人間的な教会におけるそれである以上、教義学的な思惟と語りを「神的な思惟と語り」として区別することはできないのであって、それゆえにその区別は、あくまでも「ただ人間的な思惟と語りの内部での区別を意味している」のである。言い換えれば、この「非教義学的な思惟と語りから区別され」たところの第三の形態に属する全く人間的な教会における教義学的な思惟と語りは、「対象」――すなわち起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリストに、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストに「捕らえられ」た、支配された、その「対象」の全き「自由の中で為される思惟と語り」なのである。この教義学的作業の中で、その「対象」によって捕らえられ支配された思惟が、具体的には「聖書の中で証しされた啓示」、聖書的啓示証言の中での「父、子、聖霊の言葉を通して拘束され」、支配され、「規定された思惟」(なぜならば、三位一体論は「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」であるから、「教会の宣教の批判と訂正」は、常に三位一体論に即して行わなければならないから)が、「言葉となって表現される」ことによって、語られることによって、同時に、教会の宣教に対して「~の言葉を思い出させ」想起させるのである、具体的には聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストを「思い出させ」想起させるのである。
 教義学の方法は、換言すればその対象である「~の言葉」の「内容を展開し記述しつつ進」んでいく「方法」(「道」、方途)は、それゆえに三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している、必然性不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉そのもの、イエス・キリストの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストの「内容を展開し記述しつつ進」んでいく「方法」(「道」、方途)は、教会の宣教における補助的奉仕としての教義学にとって、啓示は「規準であるばかりなく道」・「方法」・方途である以上、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、客観的な啓示の出来事とその「啓示の中での主観的側面」――聖霊の注ぎによる信仰の出来事、において自己運動する「啓示がまさにただ単に規準であるばかりでなくまた道でもあり、それ自身で系統立てられ、秩序づけられた内容である限」り、具体的には、起源的な第一の形態である「神の言葉としての聖書((≪第二の形態のその直接的な最初の第一の啓示証言≫)の中に証しされている)啓示と同一である」。したがって、教会の宣教の補助的奉仕としての教義学は、教会の宣教と同じように、「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリストと共に、教会に宣教を義務づけている第二の形態のその直接的な最初の第一の啓示証言である聖書を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それに「聞き従わなければならない」のである。言い換えれば、次のような内容に、すなわち聖書的啓示証言における「~の言葉の中で出来事として起こっている神の業と行為」に、聞き従わなければならないのである――@アウグスティヌスやハイデッガーにおいては、「自分で時間を創造する」ことによって「時間」 を持つ。先ず、ハイデッガーは、「時間から対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在形式として理解」した。すなわち、自分の意志とは全く無関係に投げ出された不可避な歴史的現存性(被企投性・現前性・被制作性)に投げ出された個が、「自分の最も固有なぬきん出た存在可能性に向かおうとする『先行的な決意性』」(企投性)によって時間化する時、自分自身の時間、自分自身の未来・過去・現在を創造し持つことができる。すなわち、個が「自分自身を実現してゆく」現存性に意識的意志的自覚的に生きようとする時、時間を創造し持つことができる。自然時間でもなく、歴史的時間でもなく、内在的な個の現存性に固有な時間を創造し持つことができる。このことは、時間を、「被造物的――人間的現実存在の規定」、「被造物である人間存在の自己規定として理解している」こと、すなわち人間的現実存在は時間性であること(時間化)・その時間性が存在を規定すること(存在了解)を意味する。アウグスティヌスの場合も、事情は変わらない。すなわち、アウグスティヌスは、『神の国』で神は「時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる」が、『告白』では自然神学的な内実を垣間見せて「過去、現在、未来は精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と述べている。この、彼らの時間概念は、聖書においては、その現にあるがままの人間の現実的存在の時間、人間が知り持っている人間の時間、その「罪におちた人間によって惹き起こされて生じた」人間の時間、「罪にそまった時間」、「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である。それに対して、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、イエス・キリストの時間、「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本質的な失われた「われわれの時間」の中で、~の側の真実において完了・成就された個体的自己としての全人間の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和としての「実在の成就された時間」(「使徒行伝一・三」――「キリスト復活の四〇日」)である。したがって、ここに、「まことの現在」、まことの「過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある。次に引用することを告白することにおいて、「われわれ」は、イエス・キリストの死と復活の出来事を「神の啓示として理解」する時、すなわち客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてそのように啓示認識・啓示信仰する時、「初めて」、イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストの啓示の時間は、「われわれだけでわれわれの時間(≪失われた、否定された、攻撃された人間の時間、歴史≫)を持っていた時」に生起した、あのような「われわれのための~の時間」であることを認識することができるのである、A「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪自主性・自己主張・自己義認の欲求、不信仰・無神性・真実の罪のただ中にある、日々、瞬間瞬間、キリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続けている、罪を新たな罪を犯し続けている、人間の≫)『自分の理性や力(≪意志力、感情力、修行力等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)「わたくしは信じる」とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。したがって、「イエス・キリストの信仰」(ローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等)の属格を~の側の真実としてのみあるところの主格的属格として解釈し理解しているバルトとは全く違って、それ自体に、自主性・自己主張・自己義認の要求という、それゆえに恣意性・独善性という直接的な人間的契機の介入口を持つがゆえにすぐに自然神学や近代主義に包摂されてしまうところの「イエス・キリストの信仰」の属格を目的格的属格として理解するバルト研究者の寺園喜基は、「平和に関するバルトの書簡」の私訳(『バルト神学の射程』)においても、一方通行的に信の過程を上昇して行く往相過程の場所からのみ、「上から目線」で、諸民族は「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼びかけられている」のであるから、諸民族をその希望である「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ところに、キリスト者とキリスト教会の「責務」があると述べた時、寺園が、意識的自覚的に不信・非キリスト者へと下降していく還相過程を持っていないことをすぐに知ることができるのである。したがって、この寺園は、信・キリスト者の場所からのみ、ちょうど知識人が、意識的自覚的に非知へと下降して行く還相的過程を持たないで、ただ一方通行的に知の過程を上昇して行く往相的過程の場所からのみ「上から目線」で語るように、「上から目線」で語ることになってしまうのである。因みに、バルトは、信仰・神学・教会の宣教における<往還>思想の場所から、次のように述べたのである――私たちは「平和は戦争より善いものであるということを」繰り返し「断言せねば」ならない・しかし「それらのこと」は、「究極的に何の助けをももたらさない」ことは「明白」である・したがって世界が必要としている革命的認識は、「世界はイエス・キリストにおける神の愛によってすでに解放された世界である」ということに感謝をもって信頼し固執して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしない」ところにある、と。したがって、バルトは、一方通行的に、往相的に、<信ぜよ>とは言わないのである、すなわちバルトは、決してそのように<信ぜよ>とは言わずに、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して、福音を内容とする福音の形式である律法、~の命令・要求・要請、換言すればキリストにあっての神、純粋な教えを尋ね求める「~への愛」とその「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指し為すのである。なぜならば、「イエス・キリストの名」にのみ感謝を持って信頼し固執しようとする教会(その成員)は、個体的自己としてのすべての人々が、キリストの福音を<現実的>に所有することができるために、~の言葉自身の自己運動の下で、ただキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを為さなければならないからである。すなわち、「自ずから」、「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」の行為・実践を為さなければならないからである。しかし、この「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、イエス・キリストにおける完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和というキリストの福音をその内容としているから、全く人間的な人類史における原型・母型・母胎としての原日本の縄文的段階における自然的な愛の奉仕(イザベラ・バード『日本奥地紀行』を参照)とは差異性を持ったそれなのである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)のその嗜好性や恣意性に規定された社会的政治的実践は、人間自身教会自身の企てとしての過渡的部分的相対的なそれであって――にもかかわらず、例えば、人間の社会的現実的な解放における究極的課題はもちろんのこと過渡的課題の認識も自覚も持たないまま為された、一昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」にしてもカトリックの「抗議声明」にしても、現存する尖端的な議会制民主主義(擬制民主主義)、私意・私利を精神とする資本主義社会(近代市民社会)、観念の共同性を本質とする政治的近代国家の枠組みにおける法的言語や政策的言語に全面的に束縛されたそれに過ぎなかった――、自分を愛するように隣人を愛するという自己愛の外化としての現存するキリスト教的な愛の奉仕にしても、人類史の縄文的段階(原型・母型・母胎)において世界的普遍性として成立していた内在的な精神を残していたアイヌ人と比較考量した場合、アイヌにおける自然的な愛の奉仕の方が優れたものであると言うことができるのである。バード自身、そう述べている。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教において、隣人愛とは、前述したキリスト教的な愛の奉仕のことであるとか、政治的実践のことであるとかと主張したならば、教会は、無数にある慈善的団体や政治的団体の中のただ単なる一つに過ぎないものとなってしまうのである。阪神淡路大震災の時、吉本隆明にわざわざ電話をかけて、正義漢ぶって「被災者の住める」「建物をすぐに」建てろと神戸市役所職員を「脅かした」自慢話を「得々としゃべっ」た、あの牧師の行動と同様なものとなってしまうのである。このような訳で、教会の宣教において肝要なことは、「~への愛」において絶えず繰り返し聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して、教える、すなわち個体的自己としての全人間が福音を<現実的>に所有することができるためにキリストの福音を宣べ伝える「~の讃美」としての「隣人愛」、この同在性・構造性にあるのであって、人間自身教会自身の嗜好性や恣意性における説教(言葉)と行為(実践)、宣教Aと宣教B、という二元論にあるのではないのである。バルトの「聞く教会」と「教える教会」との同在性・構造性における「教える」は、あくまでも「~への愛」(福音の内容)を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」(福音を内容とする福音の形式である律法)――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを意味しているのである。いずれにしても、バルト研究者の寺園は、信と不信、キリスト者と非キリスト者という両者を架橋する思想的な課題を持たないのである、それゆえに両者を架橋する思想を持たないのである。言い換えれば、寺園の神学も、やはり「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)に類するものなのである。B「福音の歴史の正しい考察」、聖書的啓示証言における正しい歴史認識の方法は、「啓示は歴史の賓辞ではない」という点に、すなわち「歴史が啓示の賓辞である」という点にある。「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、換言すれば、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活、完了・成就された時間は、「新しい世」のはじまりである。この客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」(完了・成就された時間)であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識させるのである。と同時に、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識させるのである。それゆえに「何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」ためには、終末、キリストの再臨、完成・救贖を待たなければならないのである、またそれゆえに、キリストの復活から再臨までの「聖霊の時代」においては、終末論的信仰に生きるということなのである。救済・平和を、「信仰の中で持つ」ということは、「約束として持つ」ということなのである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在、キリストの復活による完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということなのである。ここで、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、キリストの再臨、完成・救贖)を考えること・待望することは、過去(キリストの復活)を考えること・想起することであり、過去(キリストの復活)を考えること・想起することは、未来(終末、キリストの再臨、完成・救贖)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去を考えることでもあるのである。したがって、イエス・キリストが、「われわれ」人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれ」は、「神の支配のもとに入る」ということ、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」であるということ、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということを認識し承認し確認するのである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。この、「聖霊の時代」における終末論的信仰は、~のその都度の自由な恵みの決断、すなわち啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ、人間的主観にやってくるのである。したがって、この出来事は、牧師、説教者、教義学者等々の人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項では全くないのである。C説教者にとって、それゆえに教義学者にとって、教会自身と世に対して、「語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、イエス・キリストにおいて「~がすでに為した」、完了・成就された「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」、「インマヌエル」、「~罪深きわれらと共に」、ということである(『説教の本質と実際』)。あの~の言葉自身の自己運動において、「神の業と行為」・出来事が生起するがゆえに、絶えず繰り返し、起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して、換言すればキリストにあっての神を、「純粋な教え」を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すことを通して、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態である「イエス・キリストの名」にのみ、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における「イエス・キリストの名」にのみ感謝をもって信頼し固執することを通して、イエス・キリストを主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことを通して、「~の言葉は聞かれ、それゆえにまた聞かれたもの(≪そういう仕方で聞き教えられたもの≫)として教えられる(≪「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」の実践、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、教えること、ができる≫)ことを欲している」のである。