『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十四節 教える教会の機能としての教義学」「一 教義学の実質的課題」(191−208頁)
『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく
カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十四節 教える教会の機能としての教義学」「一 教義学の実質的課題」(191−208頁)
引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)
二十四節 教える教会の機能としての教義学
「教える教会の機能としての教義学」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
教義学は、聞く教会を、聖書の中に証しされた啓示の中での~の言葉を新しく教えるようにと呼び出す。しかしそのことを、教義学は、ただ、教義学自身教える教会の立場をとり、したがって自分自身、教える教会そのものに対して与えられている対象としての~の言葉を通して、要求されている間に(≪indem――井上良雄的に「要求されていることによって」≫)、なすことができる。(191頁)
〔この定式の詳述〕
(≪第三の形態に属する教会の補助的奉仕であり一つの機能である≫)教義学は、(≪具体的には、絶えず繰り返し、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態――すなわち客観的な啓示の「概念の実在」である直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストを媒介・反復することを通して、起源的な第一の形態――すなわち客観的な「啓示の実在」そのものである~の言葉、イエス・キリストと「間接的」媒介的反復的に同一となることを志向し目指す、換言すればその第二の形態に聞き教えられることを志向し目指す≫)聞く教会を、聖書の中に証しされた啓示(≪聖書的啓示証言≫)の中での(≪起源的な第一の形態としての≫)~の言葉(≪、イエス・キリスト≫)を(≪それぞれの世紀、それぞれの世代において、絶えず繰り返し、起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯してそれに聞き教えられることを通して≫)新しく教えるようにと呼び出す。しかしそのことを、(≪第三の形態に属する教会の補助的奉仕としての≫)教義学は、ただ、(≪前述したように≫)教義学自身教える教会の立場をとり、したがって自分自身、教える教会そのものに対して与えられている対象(≪客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態を、具体的には第二の形態を、換言すれば第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストを媒介・反復することを通した「間接的」媒介的反復的な起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト≫)としての~の言葉を通して、要求されている間に(≪indem――井上良雄的に「要求されていることによって」≫)、なすことができる。(191頁)
註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。
一 教義学の実質的課題
教会の補助的奉仕であり一つの機能である教義学は、第三の形態におけるそれである限り、「一般的にいって、(≪あくまでも、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して≫)教会の教えを吟味することの中に自分の課題を持っている」のであるが、「教会の生は~の言葉を聞くことの中で尽されてしまわない」のであって、「まさに~の言葉を聞く教会こそが、……そのような聞くことに基づいて教えることへと召されているのである」、聖書的啓示証言におけるキリストの福音、純粋な教えを聞き教えられることを志向し目指す「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、行為・実践へと召されているのである。したがって、「教義学は、教会を、教えるように呼びかけるために、(≪教会に対して、先ず以て具体的には、マルコ9・24、『福音主義神学入門』、『教会教義学 ~の言葉T/1』にあるように、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください」という祈りの中で、聖書的啓示証言に≫)聞く(≪聞き教えられる≫)ように呼びかける」のである。ここに、教会の宣教に対する教義学の、同在性としての福音(内容)と律法(福音の形式)の課題があるのである、「批判的な課題」と「積極的な課題」があるのである、「形式的な課題」と「実質的な課題」があるのである。したがって、教義学は、その「規準」と「対象」を、教会の宣教と同じように、「必然性」・不可避性として客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に置いているから、教会に対して、その「規準」について(教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である「先ず第一義的に優位に立つ原理」である起源的な第一の形態について、具体的にはそれと共に教会に宣教を義務づけている第二の形態の聖書的啓示証言について)思い出させ」「想起」させるだけでなく、その「対象」(起源的な第一の形態――すなわち客観的な「啓示の実在」そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、具体的には第二の形態――すなわちイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト)についても「思い出させ」「想起」させなければならないのである。バルトは、『教義学要綱』において、次のように述べている――「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である』と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとして、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合(≪第三の形態の全く人間的な教会にとって、聖書は、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態における~の言葉、イエス・キリスト――すなわちその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストであると告白する場合≫)、われわれが教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合(≪第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して聞き教えられた「教会の宣べ伝え」を~の言葉と敢えて呼ぶ場合、換言すれば教会の宣教を第二の形態に聞き教えられた第三の形態における~の言葉、イエス・キリストと敢えて呼ぶ場合≫)、それによってイエス・キリストの宣べ伝え(≪起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリストの、直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」である第二の形態における~の言葉、イエス・キリスト≫)が理解されていなくてはならない」。このような訳で、「教会が聞く教会であり、同時にまた教える教会である」という「聞く教会」と「教える教会」の第三の形態における単一性と差異性の同在性は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト――この教会の宣教における「規準」と「対象」における、「単一性」と「差異性」との同在性の類比としてあるのである。もっと言えば、聖書また教会の宣教において神は、「存在」上も 「認識」上も、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教における客観的な信仰告白・教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行われなければならないのである。なぜならば、教会の宣教は、~と人間との無限の質的差異やキリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を後景へと退け排除して、~だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、聖書的啓示証言だけでなく人間の経験も、近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍も、言葉だけでなく行為・実践も、説教だけでなく社会的政治的実践も、神学だけでなく人間学も(哲学原理・認識論・世界観)もというように、二元論の陥穽に陥ってしまうからである、すぐに世俗主義化して最後的にはマルクスが批判したように政治的近代国家へと馳せ下ってしまうからである、「空虚な概念」の過剰消費へと向かってしまうからである、嗜好や時代性に規定されて、「国家的、政治的、経済的」、「哲学的」、「道徳的な諸原理や理念や体制」的キリスト論、神性否定のキリスト論、半神・半人キリスト論、「超人」キリスト論、「最深の本質」キリスト論、キリスト教的実存の範型キリスト論、社会的奉仕活動の範型キリスト論、政治的実践の範型キリスト論へと向かってしまうからである。このような訳で、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性」の中で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き・業)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であり、「失われない単一性」・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」であるということ、それゆえに「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神であるということ、また単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さであるということ――この認識と自覚が、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教にとって肝要なことなのである。このような訳で、「聞く教会」と「教える教会」という第三の形態における単一性と差異性との同在性は、三位一体論における「失われない単一性」と「失われない差異性」との同在性の類比でもあるのである。したがって、「教義学自身は、聞く教会の機能であると同時に教える教会の機能であるということ」に対して自覚的である必要があるのである。この第三の形態における単一性と差異性との同在性に対して、自覚的である必要があるのである。
このような訳で、「まさに~の言葉を聞く教会こそが、……そのような聞くことに基づいて教えることへと召されているのである」とは、ここでも次のことを意味するのである――終末論的限界の下で絶えず繰り返し、キリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に――すなわち客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト、~の言葉に、具体的にはその第二の形態に――すなわち客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト、~の言葉に聞き教えられることを通して、キリストにあっての神を尋ね求めること(純粋な教え)を志向し目指す「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式である律法へと、~の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」へと、換言すればキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、行為・実践へと、「召されているのである」。したがって、不可避的なある時代状況に強いられた場合に、このキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えの繰り返しが、それゆえにそのキリストの福音が根拠、原動力となって、教会(その成員)を、「おのずから」社会的政治的実践へと向かわせるのである。このような訳で、バルトにおける社会的政治的実践の出自は、言葉と行為・実践、説教と社会的政治的実践、宣教Aと宣教B、というような二元論にあるのでは決してなく、徹頭徹尾「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にあるのである・「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、 (≪その人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの啓示証言としての≫)聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、(≪内的な必然性不可避性として≫)それが(≪服従を強いていてくるように≫)呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」という在り方にあるのである(『バルトの生涯』)。したがって、ただ「教える」だけの教会と同じように、「ただ聞くだけの教会」も、「結局最後的には全く参与しない(≪キリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しない≫)で享楽だけしている観客であろうとする教会」として、「そのようなものとしてもはや教会ではない」のである。なぜならば、「教会に委託された純粋な教えの概念と課題には、ただ単に、教えは(≪起源的な第一の形態の~の言葉そのもの、イエス・キリストを、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、この≫)~の言葉を(≪絶えず繰り返し≫)新しく聞くことを通してその純粋さが吟味され、その純粋性において回復されること(≪「純粋な教え」を尋ね求めて新しく聞き教えられること、「謙遜さと信頼」≫)を欲するということが含まれているだけでなく、……教えは、そのことが起こること」によって、すなわち「純粋な教え」を尋ね求めて新しく聞き教えられることによって、「新たに教える」こと(~の言葉を教えること、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、「必然性」としての宣教の出来事、「それへの意志、勇気、決心、喜び」≫)を欲しているということ……も含まれている」からである。このことは、先ず以て、~の自由な恵の決断としてやってくるであろう。イエス・キリストを主・頭とする「われわれはここでもう一度、マタイ二五・一四以下……のあの委託されたタラントについてのたとえ話」を想起しなければならない。ここで、「自分に委託されたものを用いて、奉仕しつつ、主人の利益のために、働かなかった者は、不忠実な、悪い怠惰な僕なのである」。この主人に対する「反逆の罪を、……盗人、……異端的な、異端化する教会が犯すだけでなく」、そうではない「そっくりそのまま(≪一タラントの≫)委託物を返そうとした……僕が犯すのであり」、また教会に委託された「教えを実際に少しも用いず、その限り(≪具体的には絶えず繰り返し聖書的啓示証言を通して純粋な教えを尋ね求め聞き教えられることを真剣に欲していないがゆえに≫)当然また純粋に教えていない教会が犯しているのである」。「いかなる聖書的、信仰告白的、教会的な態度も、もしも教会」が、あのキリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することを通して、それに絶えず繰り返し聞き教えられつつキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという「宣教の行為」・実践に向かって歩み出さないならば、換言すれば「委託されたもの」を「何倍にも増やして行く活動に向かって歩み出さないならば」、「教会の宣教を正当なものとすることはないであろう」。したがって、たとえ積極的に社会的政治的実践を為したとしてもである。このように述べているバルトは、最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されていなかった」(『証人としてのキリスト者』)という体験思想を持っているのである。
このような訳で、教会が、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して~の言葉を「聞く時」、換言すればそれに聞き教えられる時、その~の言葉は、それを聞いた教会に対して、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという「奉仕を要求する」のである。「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください』というこの人間的態度」(マルコ9・24、『教会教義学 ~の言葉T/1』、『福音主義神学入門』)において「わたしは信じる、それゆえにわたしは語る」のである、聖書的啓示証言に聞き教えられることを通してキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」が「~の賛美」としての「隣人愛」を、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを惹き起こすのである――この「聞くことが実際にこの帰結を伴うところでだけ、~の言葉は聞かれ」たのである。「そのような訳で、この帰結が出来事となって起こるかどうかということが問われ」、想起されなければならないのである。それと同時に、その語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、決して、人間自身教会自身の決定事項ではないのである。したがって、『ふしぎなキリスト教』で橋爪大三郎が述べていたように、何分で分かるとか・「これならわかるかねと上から目線で教えをたれる」牧師やメディア的キリスト教的著述家や神学者たちの言葉は、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。なぜならば、「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味」していないし、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時」には、「最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし」、「最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」のであって、それゆえに牧師や神学者やメディア的キリスト教的著述家を含めた「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」からである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である教義学は、聖書的啓示証言に対する「謙遜さと信頼」、「真剣さ」と「誠実さ」を必要とするからである。人は、~と人間との無限の質的差異の下に、終末論的限界の下にあるから、「何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」ためには、終末を、キリストの再臨を、完成・救贖を待たなければならないのである(ドストエフスキー『罪と罰』)。この事柄は本質的なそれであるから、私がキリスト教の分り方という時には、このような限界性が分かるという意味で使っているのであって、ミッション系学校における中学レベルか高校レベルか大学レベルか知らないが学業的知識のように何分で分かるとか・「これならわかるかねと上から目線で教えをたれる」という意味で使っているのでは決してないのである。いずれにしても、その語りが、あの「~の~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通してそれに聞き教えられたものでないならば、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。ほんとうは、バルトの次のような聖書的啓示証言に対する謙遜さと信頼、真剣さと誠実さを必要とするのである――「イエス・キリスト名」にのみ信頼し固執した信仰者であり説教者であり教義学者でありキリスト教的思想家であったバルトは、これらのことを、トゥルナイゼンに「倦み疲れては駄目だ」(『バルトの生涯』)と語りつつ、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』(≪終末論的限界の下で絶えず繰り返し、キリストにあっての神、純粋な教え≫)を尋ね求め」るというレンガを積み上げるような地道な作業を続けながら述べているのである(『啓示・教会・神学』)。「~の言葉はまさに正しい奉仕を要求するがゆえに、まさに純粋な教えの中で声を出して語られ、告げ知らされるようになることを欲するがゆえに、~の言葉は何はさておき繰り返し聞かなければならないのである」。なぜならば、「~の言葉そのもの」は、~の言葉の自己運動、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力を持っており、それゆえに客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教の固有な類・歴史性)という「必然的な秩序」と「必然的な動力」を持っているのであるが、全く人間的な教会が~の言葉を聞くということ――それは、教会が~の言葉を「人間的に聞く」ということである限り、教会の~の言葉に対する「不忠実と不服従」は、換言すれば~と人間との無限の質的差異における人間自身教会自身の側からする~(の言葉)と人間(の言葉)の混合化あるいは~の言葉に対する人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求の前面化は、教会がその「必然的な秩序」から逸脱していく可能性のただ中にあることを意味しているからであり、またその「必然的な動力」から「身を避け」その動力を後景へと退けていく可能性のただ中にあることを意味しているからである。したがって、この「人間的に聞く」こと自体は、全く人間的な教会が、「為すべきことをしない」でそのことを正当化するために詭弁を弄する「人間的な詭弁」のただ中にさらされているということを意味しているのである。例えば、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられことを通さないままに、「教会は教えなければならないという命令から、勝手な仕方で教えてもよい」とそのことを正当化するために詭弁を弄する「不忠実と不服従」にさらされているのである。また、~の言葉はキリストの福音を宣べ伝えるために人間に対して与えられているにも拘わらず、教会(その成員)は、絶えず繰り返し具体的には聖書的啓示証言における「~の言葉を聞かなければならないという命令」を後景へと退け、教会に対する「全世界に出て行って、造られたすべてのものに福音を宣べ伝える」ようにという~の命令・要求・要請を「もはや真剣に受け取ろうとしない怠慢さ」を正当化しようとする「人間的な詭弁」、「不当な自由の正当化」にさらされている。総括的に言えば、第三の形態の全く人間的な教会(その成員)は、「名目だけの聞き方、実際のものでない聞き方、単に聞いているだけという聞き方、(そこで人間が、業による義と偶像崇拝の過ちを犯す聞き方)に急変しようとする誘惑によって……めぐり囲まれている」のである。「人間的な詭弁がこっそり手に入れようとしている許可というものはいつも、業による義認と偶像崇拝への許可である」。なぜならば、「人間的な詭弁は常に、神的な命令の内容を自分で選んだ計画の内容に変え、また~への奉仕を自分で築き上げた理想と偶像の奉仕に変え」、「~の言葉を聞くこともそのような計画に、それから聞かれた~の言葉そのものも、そのような理想と偶像」に変えてしまうからである。言い換えれば、「神の要求」・命令・要請を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げるのである。人間の自宗性・自己主張・自己義認の欲求に基づいて、「神の要求」を、人間によって恣意的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変えるのである。その「無数の儀文」は、 「偶像崇拝」・「神冒?」を生じさせるのである。ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜」し、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行」い、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進し、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進し、ある者は観念の共同性を本質とする政治的近代国家、民族国家の法的言語と政策的言語で救済と平和を空想する(『福音と律法』)。聖書的啓示証言における~の要求を、人間の自由な自己意識・思惟・理性の類的活動における理想と偶像に、その理想と偶像への奉仕に変えてしまうのである。この「人間的な高慢と人間的な恣意」は、第三の形態の全く人間的な教会において、「聖なる怠慢さと受動性の衣を身につけ」てやって来るのである。したがって、「正体を暴かれることを必要としているのである」。現実性と妥当性をもってその正体を根本的包括的に原理的に暴いたのが、フォイエルバッハであり、マルクスであり、ハイデッガーであったのである。そして、その批判を引き受け、その批判を聖書的啓示証言における「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執した信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体で、根本的包括的に原理的に止揚し克服しようとした教会の宣教者、教義学者、信仰・神学・教会の宣教における思想家は、私の知る限りただ一人しかいないのであって(実際的そうだと確信する)、それはカール・バルトだったのである。彼は、自覚的に、徹頭徹尾一貫性をもって、キリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、その歴史的な連続性と共に時代性を生きたのである、個性を生きたのである。確かにもう一人、カンタベリーのアンセルムスがいるのであるが、彼は、近代以降に提起された宗教としての共同宗教としてのキリスト教批判の課題を扱うことはできなかった。しかし、彼らは、共通して、現在から未来に生きる言葉を発したのである。アンセルムスもそうであったが、バルトは、終末論的限界の下で、実際的に、自らの立場において、信と不信あるいはキリスト者と非キリスト者あるいは知と非知あるいは福音と律法等の対立する両者(概念)を包括し止揚して対立する両者(概念)を架橋するという信仰・神学・教会の宣教における思想において、換言すればそのような二元的に対立する両者(概念)から対象的になることができる場所において、それゆえにそのような二元的に対立する両者(概念)を架橋することができる場所において、不信とむなしさと不安と不確実さの蔓延した現在から未来に生きる言葉を発したのである。
さて、教会の宣教の「事柄」は、「~の事柄であり、~ご自身が教会の中でご自身を語ろうと欲し、語り給うであろうという約束」にあり、その可視的な形態が、~言葉の自己運動、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態――すなわち客観的な「啓示の実在」そのものである~の言葉、イエス・キリストに、具体的には第二の形態――すなわちその直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストにあるから、「教会の宣教の事実の曖昧性」は、根底的には、この「約束」からの「逃避」と逸脱にあると言うことができるのである。したがって、その「教会の宣教の事実の曖昧性」を払拭し克服していくためには、「原則的に」、第三の形態に属する全く人間的な教会がこの「約束を信じる信仰にあくまで堅く踏みとどまり、繰り返しこの約束を信じる信仰へと戻って行くということ」が肝要なことなのである。言い換えれば、「実際の約束ということでここでもまた具体的」には、第二の形態である「その啓示の聖書的証言」(聖書的啓示証言)の中における「教会の主、(≪起源的な第一の形態の≫)イエス・キリスト、の現臨が理解されなければならない」のである。この「イエス・キリストの現臨そのもの」が、教会に対する「~の言葉を新しく聞くようにとの呼び出しであるのと同様に……新しく教えるようにとの呼び出しで」もあるのである。したがって、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である教義学における、「原則」、「実質的課題」は、この「イエス・キリストの現臨を指し示すことから成り立つことができるだけである」。なぜならば、その「呼び出しは、それが積極的に(≪具体的には、純粋な教えを尋ね求めて絶えず繰り返し聖書的啓示証言の中における~の言葉、イエス・キリストに聞き教えられることを通して≫)新しい教えを宣べ伝えるようにとの呼び出しである限り、その教会の中でのイエス・キリストの現臨は、ただ規準であるだけでなく、また特別な対象、教える教会そのものに対して与えられた対象であるということに基づいているからであり、この対象としてのその性質からして、それが教えられなければならない必然性が続いて従ってくるからであり、その性質の中には、それを教えるべき義務と必然的な契機が含まれているからであり、(ちょうどそれの秩序から逸れていくことが教会にとって許されないことであるように)……動力は、ほかならぬこの対象の動力であるからである」。言い換えれば、起源的な第一の形態の~の言葉の自己運動の動力が、第三の形態の教会の宣教において、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して純粋な教えを尋ね求める「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを同在的に惹き起こすからである。具体的には第二の形態である聖書的啓示証言の中における起源的な第一の形態であるイエス・キリストの現臨は、「そこで全く特定の一つの出来事が遂行されている」がゆえに、「またそこで全く特定の一つの出来事が遂行されている限り」、第三の形態の「教会に対し課せられた特定の法則(≪キリスト教に固有な類・歴史性としての客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して「間接的」媒介的反復的に同一となるところのイエス・キリスト、すなわち直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」としての聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト≫)の現臨である」。起源的な第一の形態である「~の言葉は(≪第三の形態の教会にとっては、具体的には、第二の形態であるその直接的な最初の第一の客観的な聖書的啓示証言における~の言葉は≫)……それが全く特定の何かを語り、全く特定の内容を持っている」がゆえに、「また全く特定の何かを語り、全く特定の内容を持つ限り」、「絶えず繰り返し聞かなければならない」教会の宣教における「規準」(原理・法廷・審判者・支配者)である。第二の形態である直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」であるその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの聖書的啓示証言の中における、起源的な第一の形態――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、「啓示の実在」そのもの、~の言葉、啓示・和解、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエス・キリストの名」、「イエス・キリストの人格の中でのこの特定の出来事」、「~の言葉のこの特定の内容」が、第三の形態の全く人間的な「教会の中で力を奮い、教会の中で教会としての行為がなされて行くに際して、尊重されなければならない法則と規準」を、「規定し、刻印している」のである。「まさにこの出来事とこの内容こそが、その限り教える教会に対し与えられた対象(≪起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、具体的には教会に対して宣教を義務づけている第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト≫)こそが、……教会がこの出来事とこの内容を証しし、教会が自分自身と全世界に向かってそれについて語るべきこと……を要求する」のである。この場合、教会は、具体的には客観的な対象として与えられ存在している第二の形態の聖書的啓示証言の中における「イエス・キリストの現臨を通して(≪すなわち、絶えず繰り返し聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して≫)教えるように義務づけられ、勇気づけられ、力を与えられるのである」。言い換えれば、聖書的啓示証言において、神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示しているのであるから、この啓示が教会の宣教における客観的な信仰告白・教義である三位一体論の根拠である。したがって、この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがってまた、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならない、という法則と規準を規定し刻印しているのである。また、そのためには客観的な啓示の出来事とその「啓示に出来事の中での主観的側面」である聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要とするのであるが、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、内的な必然性不可避性として、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、その第二の形態である聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して、それに聞き教えられることを通して、起源的な第一の形態と「間接的」媒介的反復的に同一となることを志向し目指すということ、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すということ、キリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すということ、純粋な教えを尋ね求めることを志向し目指すということ、それに続いて、同在的に、あくまでもそのような「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」、換言すればキリストの福音を内容とする福音の形式である律法、~の命令・要求・要請、すなわち「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰」・「われわれの生命がキリストと共に保管されていること」を「承認し受け入れる」という「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」(『福音と律法』)、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、行為・実践を志向し目指すということ――この法則と規準を規定し刻印しているのである。このような訳で、教義学は、教会に次のことを想起させなければならないのである――すなわち、起源的な第一の形態の~の言葉は、具体的には聖書的啓示証言における直接的な最初の第一の~の言葉は、「もしもそれが(≪起源的な第一の形態――客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストの≫)生ケル声、走り広がっていく(≪第二の形態――教会に宣教を義務づけている、その人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言の≫)使信、したがって(≪具体的には聖書的啓示証言に聞き教えられることを通した≫)教会によって伝えられる(≪聞き教えられることを通した教える教会の、第三の形態の全く人間的な教会における客観的な信仰告白・教義の≫)使信でないならば」、換言すれば「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性信頼し固執し連帯したキリスト教に固有な類の時間累積(歴史性)でないならば、「~の言葉ではないであろうということ……を思い出させ」、想起させなければならない。「福音の歴史の正しい考察」の方法は、「啓示は歴史の賓辞ではいない」という点に、換言すれば人間の時間・「歴史が(≪~の時間、イエス・キリストの時間・≫)啓示の賓辞である」という点にあるから、またイエス・キリストが、人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを、また、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するということを意味するから(『教会教義学 ~の言葉T/1』)、「教える教会に対しあたえられた対象、イエス・キリスト(あるいはそれと同じことを言っているのであるが)~の言葉は、……すべての人間の主」なのである。自己啓示された~は、単一性・神性・永遠性を本質としているから、父は子として「自分を自分から区別」するし、自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。また、父だけが創造主なのではなく、父と同様に単一性・神性・永遠性を本質としている子と霊も創造主である。したがって、単一性・神性・永遠性を本質としている父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。しかし、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における~の「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストは、神の「第二の存在の仕方」において、和解主として、創造主のあとに続いて、「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主である父に先行することはできないのである。しかし、父・子は共に単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、~の「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、~の「存在の仕方」の差異性を意味しているのである。単一性・神性・永遠性を本質とする~の三つの「存在の仕方」は、神が人間へと向かう「存在の仕方」(性質・行為・働き・業)における自在であって他在である神の全き自由を意味しているのである。「創造が無からの創造であるように、 和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」のである。この、終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は、具体的には聖書的啓示証言を通した、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられるのである。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「~の言葉」は、具体的には、その直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における神の言葉、イエス・キリストは、「人間の創造主以外の何ものでもない」から、教会の宣教における「法廷」(原理、規準、審判者、支配者)であると同時に、すべての人間の「法廷」(原理、規準、審判者、支配者)である。また、その「同じ~の言葉」は、イエス・キリストの死と復活において「義認と聖化」を可能とする「人間の和解主」である。また、その「同じ~の言葉」は、終末、キリストの再臨、完成・救贖において「人間の滅びに帰した存在を栄光の中に再び回復する」という「人間の救済主」である。如かし、現存する「われわれ」が、この救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。
バルトが、「一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派(≪「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を後景へと退けてしまう学派や教派、また不信や非知へと自覚的に下降していく還相過程を持たないまま、それゆえに一方通行的に信や知へと上昇して行く往相的な信や知から言葉だけでなく行為も、すなわち説教だけでなく社会的政治的実践もという二元論において即自的に即事的な社会的政治的言説や実践に邁進して行く身体的行動主義≫)」に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない」と述べた時(『教会教義学 ~の言葉T/1』)、それは、換言すれば、キリスト教「信仰」は、「~の言葉(≪起源的な第一の形態としての~の言葉、イエス・キリスト、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト≫)を通して要求されている立場を取るということ」なのである。なぜならば、「~の言葉は、人間が信じ、~の言葉を信じつつ、~の言葉を通して生き、義とされ、聖化され、最後に救われるようにと、人間を切に求める」からである。しかし、~と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性からは、それゆえにその現にあるがままの現実的な人間存在における人間の即自性からは、すなわち「全く不信仰で罪に穢れた」人間「自身からは~の言葉を知」ることはできないのである。言い換えれば、「~ご自身」が、「自己啓示されないならば」、人間に対して聖霊を注がれないならば、すなわち~の側から~と人間を架橋されないならば、人間は、「~の言葉を知」ることはできないのである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。したがって、人間の即自性は、「~の言葉が人間の主」であるということを、それゆえに「人間の創造主、和解主、救済主である」ということを「知らない」のである。したがってまた、人間は自由な自己意識・思惟・理性の類的活動を行うのであるが、その人間の即自性においては、人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの~」、すなわち偶像神やその~の名と呼びかけによる救いと平和の企てを語ることはできても、「~の言葉が彼に向かって語らなければならないことを語ることはできない」のである。その人間の即自性は、キリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の啓示証言としての聖書における~の言葉、イエス・キリスト、に根拠づけられた、救済・平和、インマヌエル、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを行うことはできないのである。したがって、即自的な人間は、理性や意志力を駆使しても信じることはできないし(『福音主義神学入門』)、「自分自身からはまた信じないし、したがってまた生きることはできない。義とされ、聖化され、救われることはできない」のである――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。したがって、~の側から、~の側の真実において、~と人間は架橋されなければならないのである。人間の現実の事実のただ中に、~の言葉は、~の側の真実として、自らが、その「神的な意志と遂行の……力全体をもって、突進し来」ることによって、~と人間を架橋するのである。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける~の愛」は、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。言い換えれば、第三の形態の全く人間的な「教会に委託された~の言葉」(起源的な第一の形態――~の言葉そのもの、イエス・キリストご自身、具体的には第二の形態――その直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト)が、「突進し来」ることによって、~と人間を架橋する、すなわち「教える教会に与えられた対象としてのイエス・キリスト(≪起源的な第一の形態の客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト≫)が入り給う。したがって、この教会の宣教の「対象の性質の中には、それが是が非でも教えられなければならないという必然性、生ケル声(≪起源的な第一の形態、「啓示の実在」そのもの、~の言葉、イエス・キリスト≫)、不可避的に、間断なく走り広がって行く使信(≪第二の形態、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」における~の言葉、イエス・キリスト≫)、の動力(≪キリスト教に固有な類の時間累積、歴史性、を可能とさせるそれ『教会教義学 ~の言葉T/1』――それぞれの世紀、それぞれの世代という「時の全く厳格な相違性の中で、~の言葉は一つであり、同時的である」・「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」≫)が含まれている」。「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重 大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」(『ローマ書』)。~の言葉自身が、教える教会の教える「内容の力」で、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言の中において「イエス・キリストご自身が現にあり、為し給う」ゆえに、教会を、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して、純粋な教えを志向し目指す「教える教会として成り立たしめて」いるのである。言い換えれば、~の言葉の自己運動――すなわち、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、キリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、~のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰が、そのことを成り立たしめている。したがって、教会の宣教における「事柄」は「~の事柄であり、~ご自身が教会の中でご自身を語ろうと欲し、語り給うであろうという約束」にあり、その可視的な形態は、それ自身聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性であるのだが、この「約束」が、教会の宣教における教えの「純粋さを要求する」ことによって、それゆえにそれが「批判的な規準である」ことによって、それゆえにそれが「すべての偽りの教えを排除する」ことによって、教会の宣教において「その教えの純粋さ」を「考慮に入れていないくてもよいというような瞬間……はないように」、それは、「いかなる時にも、いかなる場所においても、教会の教え」の「純粋さを……要求する」のである。「ちょうど律法」(福音の形式)が、教会の宣教に対して、それゆえに教義学に対して、絶えず繰り返し、それ自身聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、必然性不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態――客観的な「啓示の実在」そのものである~の言葉、イエス・キリストに、具体的には第二の形態――直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストに聞き教えられることを通して、キリストにあっての神を尋ね求める、すなわち純粋な教えを尋ね求める「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを教会に要求するように、「福音」(内容)は、教会の宣教に対して、それゆえに教義学に対して、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通した教会の宣教における「~への愛」を、「教えの純粋さ」を尋ね求めることを要求するのである。なぜならば、「人間は、イエス・キリストの中で起こったことのゆえに」、人間にとって「理解を絶した」「~の……慈しみに基づいて、信仰の中で、愛の中で、希望の中で、神と共に生きることがゆるされるという」、この「教会に対して宣べ伝えて行くようにと委託された報知」は、内的な必然性不可避性として教会の宣教を内的に強いてくるそれであるから、換言すれば「人間の困窮と人間に対する助け」(『証人としてのキリスト者』)が「急を要する」それであるから、その報知は、「教会があるところ、いつ、いかなるところでも、直ちに、あらゆる事情のもとで、(≪絶えず繰り返し「純粋な教え」を尋ね求めながら≫)宣べ伝えられなければならないもの」だからである。この教会に委託された「報知の内容」は、それが教会の宣教にとって必然性不可避性として客観的な対象として与えられ存在しているから、人間自身教会自身の「権利主張」の対象となることはできないし、それゆえに人間自身教会自身によって阻害することもできないのである。啓示認識・啓示信仰には聖霊によって更新された理性(この更新された理性も聖霊ではない)を必要とするのであるが、人間の自由な自己意識・思惟・理性の類的活動は、「詭弁」を弄する「誘惑と危険」も併存させている。したがって、教義学の実質的課題は、「~の言葉を聞く教会に対して、それが~の言葉を聞く時に、何を聞くのかということを思い出させ、意識させるという課題……でなければならない。それは、総括的に言えば、教会が、この何(≪対象、起源的な第一の形態である~の言葉、イエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト≫)の動力に基づいて、ただ単に聞く教会であるだけでなく、聞く教会(≪絶えず繰り返し、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して、「純粋な教え」・内容を尋ね求める教会、「~への愛」を志向し目指す教会≫)としてまた(≪絶えず繰り返し、対象に聞き教えられることを通して≫)教える教会(≪「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣ね伝えを志向し目指す教会≫)でもあるためである」。したがって、それは、「教会が、聞き従うと共に、直ちに、あらゆる事情のもとで」、現在において、また未来に向かって、「全くただ約束の性質ゆえに、事を始めるべく強いられるためである」。したがって、それは、教会が、「異端的な教会」、「死んだ教会」となることから「防ぎ守られるためである」。教会の宣教における「事柄」は「~の事柄であり、~ご自身が教会の中でご自身を語ろうと欲し、語り給うであろうという約束」にあり、その可視的な形態は、それ自身聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性である。この教会の宣教における事実は、「神的な約束からは、自明的」であり、「それ自体確かなことである」のだが、それに対して、その約束から逸脱し逃亡するその現にあるがままの現実的な人間存在における人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、不信仰・無神性・真実の罪(『福音と律法』)からして、人間自身教会自身の側からする「その人間的な実現という点ではそうではない」ということが、「自明的」であり、「それ自体確かなこと」なのである。この点で、教会の宣教においては、「全線にわたって曖昧さが支配している」のである。したがって、教会は、「教会が教える際に<どのように>に関してだけでなく、また教会が教えるという<事実>に関しても」、「日毎に呼び覚ましと新しく支えられることを必要としている」。このような「教会の教えの積極的な確証、強化、運動、生命を与えることは、最後的に、決定的にはただ聖霊を通して働く~の力強い言葉そのものからしてだけ期待」することができるのであるが、その期待の中で、教義学はこの側面においても「~の言葉と教会に対して」奉仕を果たさなければならないのである。「教会の教えの積極的な確証、強化、運動、生命を与えること」は、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の啓示証言である聖書における~の言葉が「教会の教えに出会うということで出来事となって起こるだけでなく」、「そのことを越えて」、教会の教えがその~の言葉を「源泉」として、その~の言葉を「教会の宣教の批判と訂正」の規準・法廷として、第三の形態の全く人間的な教会がそれに服従しそれに聞き教えられるということが「出来事となって起こるのである」。教会の宣教の補助的奉仕としての教義学は、このことを「課題」としてだけでなく、「賜物」として、「指し示し」、「理解させ」なければならない。教義学は、「説教ではなく、むしろ教会の教えについての学問的な吟味としてただ教会の宣教に対する奉仕でしかない」ということについて自覚的でなければならないのである。「~の律法に対する奉仕」および「教会の宣教の中での奉仕」としての教義学は、それが「事柄」に対する、キリストの「福音に対する奉仕である時に、福音に対する奉仕である限り」、それゆえにそれが「その形式的な課題に取り組む際、同時に実質的な課題としてそれと取り組み、教会の生を呼び覚まし、確証し、強化し、動かし、生命を与える~の言葉の内容の展開および記述として着手する時に、その限り」、存在することができるのである。したがって、教義学は、「~の言葉を対象として語らせる」ことによって、~の言葉を「規準として力を奮わしめ」、「人間の業」である「教会の教え」に対して、「ただ単に裁きを伝えるだけでなく」、「また不純な仕方で教えている教会に対しても、また異端的な、異端化する教会に対しても、それに対し実際に裁きと悔い改めが宣べ伝えられるべき時にこそ、宣べ伝えられなければならない罪の赦し」を「宣べ伝えるべく……強いられる」のである。この時、教義学は、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストを法廷・規準・審判者とすることによって、可視的になってくる教会の宣教における「すべての過ち、誤謬、逸脱」を、起源的な第一の形態に対する、具体的には第二の形態に対する、それゆえに「真理に対する過ち」、誤謬、逸脱として、「その限り結局また真理そのものとの関連の中で、見、記述し、論難して行くことができる」のである。したがって、この時、教義学は、「教会の誤った姿を大目に見はしないであろう」。言い換えれば、教義学は、「不純なものを純粋なものと呼びはしないし、誤謬を正しい教会の教えの中に編み入れはしないであろう」、その第三の形態における「誤謬と虚偽」をキリスト教に固有な類(教会の客観的な信仰告白・教義)として時間累積することは決してしないのである。また、キリストの福音を内容とする福音の形式が律法であるように、「殺す律法も、生かす福音から、生かす福音と共に、力を奮わしめられることができる」から、この時、教義学は「教会と共に、また慰めを持って語ることができる」のである。このような訳で、教義学は、教会に対して、「ただ単に、~の言葉を聞き、~の言葉に従って自分を方向づけるようにと要求するだけでなく」、教義学自身が、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である限り、自らが具体的には第二の形態に聞き教えられることを通して「教えようと試みる」ことによって、「そのことを為す」のである。「教会の現実存在の意味」――すなわちあの「約束」において「~の言葉に奉仕し」、それゆえに「聞く教会としてまた教えること」は、「名誉であり、喜びであり、内的な必然性(≪不可避性≫)であり、恩恵である」から、聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して「聞く教会として教えることは」、さまざまな外在的な「強制」によるということではなくて、「むしろそのようにすることが(≪内在的な必然性・不可避性として為された使徒行伝7章のステパノの説教とその殉教――『証人としてのキリスト者』によれば、ステパノの殉教の本質はその「行為」にはなく、イエス・キリストの福音にのみ感謝を持って信頼し固執する「言葉」にある――におけるように、第一の形態そのもの、対象そのもの、キリストの福音そのものからやってくる内在的な必然性・不可避性として≫)許されているのである」。したがって、「まさに福音を宣べ伝えざるを得ない強制(≪キリストの福音からやってくる~の命令・要請・要求、キリストの福音が強いる内在的な必然性・不可避性、キリストの福音を内容とする福音の形式である律法≫)こそ同時に、教会の比類を絶した自由」であって、教会は「この自由に生きることができるだけであり、この自由の外では死ぬことができるだけであるがゆえに、それを用いないことはただ単に不服従、不誠実であるばかりでなく、また愚かなことであり自己を放棄することでしかない」のである。教義学が教会に対して同時に「秩序へと呼び出さなければならない時、そのこと」は、「~の言葉の動力を念頭において起こる」ことによって、すなわちあの~の言葉の自己運動を念頭において起こることによって、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である、必然性として不可避性としてある、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)――すなわちその起源的な第一の形態である客観的な「啓示の実在」そのものである~の言葉、イエス・キリスト、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、第三の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリストと「間接的」媒介的反復的に同一となることを志向し目指す教会の客観的な信仰告白・教義における~の言葉、イエス・キリスト、の関係と構造・秩序性に「注意を向けさせるということ」なのである。