本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

「教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「二 教義学の規準」その3−3 <付言>

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「二 教義学の規準」(169−190頁) その3−3   <付言>

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

二十三節 聞く教会の機能としての教義学
「聞く教会の機能としての教義学」について、バルトは、次のような定式化を行っている。

 

 教義学は、教える教会に対して、聖書の中に証しされた啓示の~の言葉を新しく聞くよう呼びかける。しかしそのことを教義学は、ただ、教義学の側でも、自分自身聞く教会の立場を取り、それであるから教義学自身、規準――聞く教会がそのようなものとして、その下に置かれているのを知っている規準――としての~の言葉に聞き従う間に(≪indem――井上良雄的に「聞き従うことによって」≫)、なすことができる。(103頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、<カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「一 教義学の形式的課題」その2−1>で行っていますので、参照してください。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

二 教義学の規準(その3−3)
(3)
  下記の論述が抜けていたことが分かったので、追記します――

 

 「最後に」、教義学の「教会的な態度」、「具体的な形式規定」、「思惟形式」・「思惟規則」は、教会の宣教における、その補助的奉仕としての教義学における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリストにのみ、それゆえに具体的にはそれぞれの世紀・それぞれの世代において現存した教会にとって第二の形態である聖書的啓示証言のイエス・キリストにのみ信頼し固執し連帯する点にあるのであるから、たとえ人は(それゆえに教会の宣教は、その全成員は)不可避的にある歴史的な社会構成・支配構成・文明的文化的構成の時代水準・時代状況のただ中に現存するとしても、それらから対象的にならずに即自的に、即事的な「……その都度の現代の……時代精神に奉仕することへと赴く」ということ、時流や時勢へと赴くということ、その時代の大衆的傾向へと赴くということ、その時代の社会的政治的言説に赴くということ、その時代の思想傾向へと赴くということ、その時代の「国家的、政治的、経済的また道徳的な諸原理や理念や体制の内」に、換言すればその枠組みへと赴くということ――そのような「世俗的な教義学……の可能性を排除する」のである。したがって、教会の宣教がそうでなければならないように、教義学は、あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられながら為すという仕方で、「教会の祈りに、神の前で、~に向かって、……ただそのようにしてだけ人間のために語っている教会に、合わせて自分自身を方向づけて行くことが、……決定的に強調されなければならないのである」。言い換えれば、「現代において、現代のために教義学」は、換言すればそれぞれの世紀、それぞれの世代において、それぞれの世紀、それぞれの世代のために教義学は、「時代の声を問うのではなく、むしろ(≪あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、絶えず繰り返し≫)時代に対する神の声を問い(≪絶えず繰り返し、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して、換言すればそれに聞き教えられることを通して「キリストにあっての神」を、「純粋な教え」を尋ね求め≫)、そこから来る重荷、関心事、願望に対して場所を与えなければならない」のである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――~の言葉、啓示・和解であるイエス・キリストにあっての完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、その「包括的な救済概念」は「平和の概念……と同じ」である・それは、「この世と~との和解」「人間相互間の和解を直接その内に包含している和解」である・単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの歴史的形態において、すなわちその「生涯と死」において、その「死人からの復活においてすでに啓示されている……和解」、「~ご自身によって確立された和解」、~の側の真実としてのみある和解、それゆえに客観的な現実性としてある客観的実在としてある和解である(寺園喜基私訳『平和に関するバルトの書簡』)。このような訳で、そのためには~のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(終末論的限界の下での、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面――「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を必要とするのであるが、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことなのである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。したがってまた、バルトは、次のように述べたのである――@「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<(≪~の側の真実としてのみある、「神の子の信じる信仰」、「イエス・キリストの信仰」の属格を主格的属格として≫)私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを(≪その現にあるがままの現実的な人間存在における≫)彼は信じてはいる。しかしそのことは、(≪その現にあるがままの現実的な人間存在の彼においては≫)現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う((≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である、~の言葉、啓示・和解である≫))主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、A「人間の人間的存在が(≪その現にあるがままの現実的な人間存在を生きる≫)われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかし それと同時に、(≪その現にあるがままの現実的な人間存在を生きる≫)人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。
 このことは、不可避的に歴史的現存性のただ中を生きる教会の宣教と同様に、その補助的奉仕としての教義学は、「教会の内外にある時代精神をよく吟味すべきであるが、……自分をそれら時代精神の証人とすべきではないということを意味している」。したがって、このことに自覚的であるならば、議会制民主主義、資本制社会(「私利」・「私意」を精神とする近代市民社会)――政治的近代国家の枠組み(その尖端的形態は現存するアメリカにあるから、日本の社会がどこへ向かうかといえば、人類史におけるアジア的日本的な遺制を残しながら現存するアメリカ的尖端へと向かうに違いないのである)に束縛された、換言すればその枠組みにおける体制的な法的言語や政策的言語に束縛された昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」も、カトリックの「抗議声明」も、マルクスが批判したように、最後的には現存する政治的近代国家へと馳せ下る世俗主義的な共同宗教としてのキリスト教を露呈させたものに過ぎなかったということを、よく理解することができるのである。すなわち、この時、そのキリスト教は、まさしく『ふしぎなキリスト教』で橋爪大三郎が述べたように、「世俗的な価値の起源」であると言うことができるのである。すなわち、自由、人権、民主主義、国家という概念は、「キリスト教という(≪世俗主義的な共同≫)宗教の産物」であり「~のアナロジー」であると言うことができるのである。このような訳で、両者とも、その最初から、終末論的にすべての世俗的国家が無化されてしまうイエス・キリストにおける完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和を、人間学的には観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う社会的現実的な個体的自己としての全人間の究極的総体的永続的な解放を、すなわち個体的自己としての全人間のほんとうの現実的な救済・平和を、志向し目指す祈りでも抗議でもなかったのである。言い換えれば、結局は政治的近代国家の体制的言語にすべて包摂されてしまうあの枠組みの束縛の中で観念の共同性を本質とする政治的近代国家の法的言語や政策的言語を介しただけの両者の祈りと抗議は、ただ虚空に向かって平和を求めるとか・抗議するとかと宣言しただけのそれに過ぎなかったのである。したがって、このような現存する日本基督教団の在り方は、あの「ルーズな態度」の19世紀における「ルター派・改革派的なあるいは改革派・ルター派的合同教義学」の企てのように、客観的な対象として与えられ存在している、イエス・キリストの証人・証言としてのキリスト教に固有な類・歴史性である「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した真剣な「興味」・関心・「問い」を持っていないし、またその第一の形態を、具体的にはその第二の形態を原理・規準とした反省過程を持っていないがゆえに、世俗主義的な共同宗教としてのキリスト教として、最後的には政治的近代国家へと馳せ下ってしまうそれでしかないものなのである。そうした彼らは、「カルヴァン主義」、「ルター主義」の名の下で、16世紀および17世紀における「聖書の真理を問うかつての問いの真剣さ」を後景へと退け排除してしまって、時流や時勢へと、その時代の大衆的傾向へと、その時代の思想傾向へと、その時代の社会的政治的言説へと、その時代の「国家的、政治的、経済的また道徳的な諸原理や理念や体制の内」へと赴くところの、世俗主義的な共同宗教としてのキリスト教の陥穽に陥っているのである。