本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「二 教義学の規準」その3−2

『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「二 教義学の規準」(150−169頁) その3−2

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

二十三節 聞く教会の機能としての教義学
「聞く教会の機能としての教義学」について、バルトは、次のような定式化を行っている。

 

 教義学は、教える教会に対して、聖書の中に証しされた啓示の~の言葉を新しく聞くよう呼びかける。しかしそのことを教義学は、ただ、教義学の側でも、自分自身聞く教会の立場を取り、それであるから教義学自身、規準――聞く教会がそのようなものとして、その下に置かれているのを知っている規準――としての~の言葉に聞き従う間に(≪indem――井上良雄的に「聞き従うことによって」≫)、なすことができる。(103頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、<カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「一 教義学の形式的課題」その2−1>で行っていますので、参照してください。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

二 教義学の規準(その3−2)
(2)
 第三の形態における人間的な「教義学(≪教義学者≫)および教会の宣教(≪説教者≫)の第二の具体的な形式規定」は、起源的な第一の形態によって直接的・絶対的・内容的な権威を賦与され装備された第二の形態を媒介することを通した、すなわち第二の形態に聞き教えられることを通した、第三の形態の人間的な「『教父』および教義の権威(≪それゆえに直接的・絶対的・内容的な権威ではなく、あくまでも間接的・相対的・形式的な権威≫)……から生じて来る信仰告白的な態度」、その「要求として言い表すこと」ができる。なぜならば、第二の形態の「聖書の聖典と本文に従って方向づけられている」第三の形態の「教義学的な思惟と語り」は、同じように、第三の形態の人間的な「教会を規定している歴史および教会の中で力を奮っている(≪客観的な教会の≫)信仰告白に対する秩序づけられた関係を通し」たそれであるから、換言すれば第三の形態におけるキリスト教に固有な類・歴史性に信頼し固執し連帯した「思惟と語り」であるから、それは、「わがまま勝手な」勝手気ままな「無資格な、宗教的思惟と語りから区別されなければならない」からである。因みに、「(≪客観的な教会の≫)信仰告白に対する秩序づけられた関係」とは、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性がキリスト教に固有な類(起源的な第一の形態、客観的な「啓示の実在」そのもの、キリスト教会の主・頭であるイエス・キリスト→具体的には、第二の形態、イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言におけるキリスト教会の主・頭であるイエス・キリスト→第三の形態、聖書的啓示証言を媒介することを通した、教会のそれぞれの世紀・世代における客観的な信仰告白・教義)の時間累積(歴史性)としてあるように、その第三の形態に属する人間的な教会の客観的な信仰告白・教義も、その人間的な教会におけるキリスト教に固有な類(教会のそれぞれの世紀・世代における客観的な信仰告白・教義)の時間累積(歴史性)としてある、ということである。したがって、バルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1』で、「それ以前に語られた神ご自身の言葉(≪教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である、起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言≫)……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた(≪第三の形態における教会の宣教に対して連帯責任性をもって為すその補助的奉仕・一つの機能としての≫)教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べたのである。このような訳で、「教える教会」に対する「聞く教会」の連帯責任性を持った補助的奉仕であり一つの機能である教義学的作業の場所は、換言すれば「最後的に、絶対的に、ただそれだけが標準的(≪教会の宣教における的確な自己吟味・自己否定・自己「訂正」の原理・規準・法廷・審判者・支配者≫)である聖書的啓示」・聖書的啓示証言に対する「教義学的作業の場所」は、第三の形態に属する「教父および教義との関係を念頭に置いた場合」には、「あくまでも相対的に規定された場所でなければならない」のである。なぜならば、「教義学者、(……教義学者の対話相手である説教者)」の「絶対的に規定された故郷」・場所は、第二の形態に属する「唯一ノ聖ナル使徒的公同ノ教会であることができるだけだからである」。この「唯一ノ聖ナル教会」は、第三の形態の「信仰が(≪客観的な、キリスト教に固有な類・歴史性における起源的な第一の形態を、具体的には第二の形態を媒介するという仕方で、それに聞き教えられるという仕方で≫)服従であるところ」においてだけ、それゆえにそういう仕方で、ルター派的あるいは改革派的等々の「相対的に規定された信仰であるところ」においてだけ、ルター派的あるいは改革派的等々「これこれの特定の教会の(≪客観的な、第二の聖書的啓示証言を媒介すること通した、それに聞き教えられることを通した啓示認識≫)信仰の形態の中でだけ存在する」、換言すればそういう仕方で、「普遍的――教会的」にだけ、すなわち「世界教会的」にだけ存在する。「そのような訳で、正しく理解するならば、教義学的な寛容さというものは本来、存在しないのである。……(≪それゆえに、党派的教義学、教派的教義学、多元主義的教義学≫)カトリック的教義学、ルター派的教義学、改革派的教義学は存在しない」のである。「……そもそも教義学が存在するところ、そこではただ」、「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態を、具体的には第二の形態を媒介することを通して、終末論的限界の下で絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して、「普遍的――教会的」、「世界教会的」であろうとする、そういう「教会であることへの意志を持った教義学が存在するだけ」なのである、そういう教義学を志向し目指す教義学が存在するだけなのである。
 さて、前述した今回の論述からも、組織的な神学者・説教者の佐藤司郎におけるバルトの「エキュメニカルな神学」論・「エキュメニズム」論・「エキュメニカル運動」論が、人々に対して、ただバルトを「誤解」させだけであり、ただバルトに「迷惑」をかけるだけであるということを知ることができる。したがって、その佐藤に対して、根本的包括的な原理的な異議申し立てと批判を行う必要があるだろう。バルトをトータルに理解していないところの、またバルトの重要な概念であるさまざまな教派(差異性)が現存するただ中での教会の<単一性>の客観的な根拠でもある「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を全く論じていないところの、それゆえに客観的なそれに正しく根拠づけることが全くできていないところの(佐藤は、ただ「イエス・キリストにおいて一つなる教会」というように、百人百様の恣意性に拡散して行く書き方をしているだけである)、換言すれば起源的な第一の形態――客観的な「啓示の実在」そのものであり教会の主・頭であるイエス・キリストを、具体的には第二の形態――客観的な啓示の「概念の実在」である直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるイエス・キリストを、第三の形態における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それを媒介・反復することを通してそれに聞き教えられるという、神学、教会の宣教における<反省的な運動過程>を持たないところの、その佐藤が、バルトの「エキュメニカルな神学」論・「エキュメニズム」論・「エキュメニカル運動」論を、根本的包括的に原理的に論じることなどできる訳がないのである。したがって、その佐藤のそれは、誰が読んでも、実際的に、バルトの一部分のさらに一部分の言葉を拡大鏡にかけて全体化した形而上学的一面的固定的に実体化させた水準のそれに過ぎないものなのである。言い換えれば、その佐藤のそれは、根本的包括的な原理的な点において、バルトのそれとは全く似て非なるものなのである。したがって、佐藤のそれをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。なぜならば、それをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりした場合、痛手を受け馬鹿を見るのはその人自身だからである。したがって、相手が佐藤だけに限ったことではなく、相手が誰であろうと、相手が学者であろうと・専門家であろうと・メディア的知識人であろうと・メディア的著述家であろうと、相手が誰々であろうと、必ず、自分自身で、彼らのさまざまなその思惟や語りを・その主張・その情報を批判的に再吟味し再検討し、かれらのその思惟や語りが・その主張・その情報が正しいかどうかについて確認作業をしっかりとした方がいいのである。なぜならば、この例について言えば、バルト自身においては、ほんとうは、三位一体論の唯一の啓示の類比であり~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、「必然性」として不可避性として、<客観的>な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に根拠づけられない教義学(教会の宣教)がないように、それゆえにそれに信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復しない教義学(教会の宣教)がないように、それゆえにそれに聞き教えられない教義学(教会の宣教)がないように、それに根拠づけられない、それに信頼し固執し連帯しない、それを媒介・反復しない、それに聞き教えられない「エキュメニカルな神学」論、「エキュメニズム」論、「エキュメニカル運動」論というものはないからである。したがって、歴史的な社会構成・支配構成・文明的文化的構成の時代状況のただ中に現存したバルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1』で、自らが、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程)の包括的研究において(≪キリスト教に固有な類・歴史性としての「純粋な教え」≫)『教義そのもの』を尋ね求め」たのである、そのキリスト教に固有な類(「純粋な教え」)の時間累積を為したのである、そして一方でその信仰・神学・教会の宣教に個性と時代性を刻んだのである――@それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ何であれ、キリストの福音について「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」、A「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」(『バルトの生涯』)。バルトは、前述した佐藤のような神学者について、次のように述べている――「人が……事情をこれと別様に受け取ろうと」するとき、「そこでは人は、常に、聖書と並んで……何らかのほかの認識源泉(≪例えば、ルドルフ・ボーレンの聖霊論的説教論に依拠した神学者・佐藤の主張する近代主義的な人間の「経験の尊重」がそれである。したがって、バルトの『説教の本質と実際』によれば、その佐藤は、「実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない」と考えているのである。言い換えれば、その佐藤にとっては、多少の度合いの差はあれ、福音は徹頭徹尾「聖書の中にある」とは考えないで、「われわれの思考や心情の中にある」と考えているのである。すなわち、この意味で、佐藤は、聖書に対する「信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである、近代主義の陥穽に陥っているのである≫)と主張(≪例えば、聖霊論的説教論における中世的思考へ退行したところでの人間学に対する神学の優位性の主張、人間学的神学あるいは神学的人間学という「混合神学」の主張≫)に……依拠し」、「それと共に教会的な基礎(≪「必然性」として不可避性として客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、具体的には第二の形態≫)を原則的に放棄してしまわなければなら」ないのである。また、永遠(超時間)、啓示の時間、救済史(超歴史)は、常に、時間、人間の時間、歴史の、外・彼岸にあり続けるにもかかわらず、それだけでなく時代状況そのものが進歩史観を全くゆるさないにも拘わらず、モルトマンが終末論と歴史を協働・共働させて神学的な三段階的進歩史観を主張(喜田川信『歴史を導く神――バルトとモルトマン』および山崎純『神と国家』)したとき、また「表向き~の歴史的導きと言われているものに」依拠して、例えば倉松功のように「ルターによれば……文明の体系は全体として、神律的側面と相対的に自律的な側面とを持っている。神律的というのは、文明を担う諸力は神の恒常的創造者としての活動であるという意味……相対的に自律的だというのは、神の創造者としての働きは人間理性によって把握されるからであり、理性に基づく、人間の神との共働の行為は自発的に形成されるからである」(『ルターとバルト』)と~だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという~と人間との共働論・協働論の主張に依拠したとき、その時「それと共に教会的な基礎(≪「必然性」として不可避性として客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、具体的には第二の形態≫)を原則的に放棄してしまわなければなら」ないのである。また「形態論的に、基礎づけられ意図された信条主義の中では、アニミズム的な異教主義がまどろんで」いるから、バルトは、次のように述べたのである――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(≪したがって、≫)(中略)人は、聖書が語っている受肉を、(≪三位一体論の唯一の啓示の類比として~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における≫)ただ(≪第二の形態である≫)聖書からのみ、換言すれば(≪起源的な第一の形態である≫)イエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。
 さて、教会の宣教に対して連帯責任性を持ち教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能であり、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態を媒介・反復することを通して起源的な第一の形態と間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指すところの、またそういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」において「純粋な教え」を志向し目指すところの、またそういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところの、「正しい教義学」に与えられた「課題の性質」は、時代状況的にだけでなく言語の本質から言っても、可視的に「実際……一様ではなく、……ひどく不一致の状態にある教会」のただ中で、すなわちそのような「相違性……異質性の中で」、不可視的な「目に見えない唯一ノ聖ナル教会を信じる信仰(≪客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰≫)を実際損なうことなしに、むしろまさにひとつの教会(≪単一性としての教会≫)のひとりの主(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、教会の主・頭であるイエス・キリスト≫)に対する服従(≪第二の形態を媒介することを通して起源的な第一の形態と間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指す服従≫)」において、第三の形態としての人間的な「ひとつのキリスト教会全体(≪単一性としての教会≫)に対して身を向けることを命じる」点にある。なぜならば、そうでないならば、そこで「記述される信仰」は、その教義学者(あるいは説教者)が対象化しただけの「存在者レベルでの~」への「空想の信仰でしかないであろうから」である。もしも神学において「寛容の思想」があるとするならば、前述した仕方においてのみ、また次に述べる立場においてのみあるのであって、「対立する双方に真理があるというような俗説」(吉本隆明『思想の基準をめぐって』)にあるのではないし、また党派主義や教派主義や学派主義や多元主義における寛容主義にあるのではないのである。したがって、教義学は、「ローマ・カトリックの教義学……ギリシャ正教の教義学……新プロテスタント主義の教義学……福音主義の教義学(≪ルター派的なそれ、改革派的なそれ、聖公会的なそれ≫)」の混合された混合教義学や多元主義的教義学であることはできないのである。「ただひとつの選択があるだけ」なのである。すなわち、自分が選択し置かれた一つの教派の場所で、ただ一つの立場の選択・決断があるのである。まさしく、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場(一つの選択・決断・態度)において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」なのである(『思想の基準をめぐって』)、「(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、「必然性」として不可避性としてある、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造における起源的な第一の形態、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、具体的にはその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派、学派、思想傾向、時流や時勢、社会的政治的な言説や運動等≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」のである(『教会教義学 神の言葉T/1』)。したがって、「教義学の信仰告白の態度」は「~の言葉を通しての強制(≪「必然性」として不可避性としてある、キリスト教に固有な類・歴史性、すなわち「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)……に基づいており」、この「~の言葉を通しての強制は、一つの態度、唯一の可能な態度、換言すれば福音主義の信仰告白的態度へと導くと……と言わなければならないであろう」。「教会教義学は、……ただこの……福音主義的――信仰告白的に規定された姿の中でだけ、……福音主義的教義学である。そうでないとしたら、それは教会教義学ではない」。ここで「福音主義的教義学」は、「十六世紀の宗教改革者を通して、また彼らの証言を受け入れた信仰告白を通して純化され、新しく基礎づけられたひとつの、聖なる、公同の、使徒的教会、そのように規定された姿の中で唯一ノ可能な、正しい教会として~の言葉を聞く教会(≪あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられる教会≫)、の教義学」を意味している。この命題は、絶えず繰り返し第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられることによって聞く第三の形態の「教会の中で(≪起源的な第一の形態の≫)イエス・キリストが信仰の服従を見出し給う時、(≪第三の形態の≫)教会が(≪起源的な第一の形態の≫)イエス・キリストの言葉(≪具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通したイエス・キリストの言葉≫)に従うゆえに、自分自身をイエス・キリストの教会、したがって(≪「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられる≫)正しい教会として信じることが許される時、教会が(≪「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることによって≫)信仰告白し、しかも正しく信仰告白する」ことによって、「この服従を確認する時」、「そのようなところでは、この命題は、教会教義学の現実存在を通して……自分自身を証明する」のである。「この先行する証明」は、イエス・キリストを主・頭とする教会は、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることによって「正しい教会である時」には、「またそのようなところでは、福音主義の教会であるということから成り立っている」。なぜならば、その時には、イエス・キリストを主・頭とする教会は、そのような仕方で、絶えず繰り返し、教会となることによって教会であろうとするだろうし、換言すれば、そのような仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、~の命令・要請・要求、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すであろうからである。教義学が、「わがまま勝手に」勝手気ままにではなく、「教会の宣教を批判し、吟味し、訂正する」ためには、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、「必然性」として不可避性としてある、<客観的>な対象として与えられ存在している、あの「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態を、具体的には第二の形態を、換言すれば教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者を必要とするのである。また、それが「ただ相対的な権威であろうと」、第三の形態に属する「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」(「その教父たちと教義」)は、「根本的には……真理が来るということのしるし」、すなわち第三の形態におけるキリスト教に固有な類の時間累積であるとするならば、教義学は、「必然性」として不可避性として、それに強いられるのである。教義学は、そのような「福音主義的教義学としてこそイエス・キリストの教会の教義学であり、その宣教に関して……拘束力」を持つのであり、……必要なひとつのことを」、すなわち「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であり教会の主・頭であるイエス・キリストを、単一性としての「キリスト教会全体」、「全教会を念頭において代表し、弁護しなければならないのである」。この時、この教義学は、福音主義的教義学として、「そのほかの別な種類の教義学から自分を区別することができる」のであり、そのほかの「別種の教義学に立ち向かい、反駁し、それと共に教会の中でのあらゆる種類の不一致と戦いに対する責任を引き受けることが許される」のである。この教義学は、「最後的な必然性を持たない」「神学的な敵対関係」、「根本においてただ、個人、あるいはグループ全体の、……教会的な集団そのものの特殊な在り方や嗜好」、神学、宣教、知識、思想の内容の質的な向上と充実を志向し目指すことをしないところの外在的皮相的な俗物主義や一番主義やエリート主義や学業主義、における軽薄でくだらない「問題」に対しても、「必要な戦い自身は中止せず、……全力をあげて取り組んで行くことが命じられている」のである。バルトは、ここで「和協信条」を引用している――「一方ニオイテ(ソレハ建設スルヨリムシロ破壊スルガユエニ、ソレニヨッテ教会ガ混乱サセラレテハナラナイ)不必要ナ無駄ナ論争ト、他方ニオイテ必要ナ議論――ソレガ起コル時、ソレハ信仰箇条アルイハキリスト教教理ノ主要ナ条項ヲ含ンデオリ、ソコデハ真理ヲ防衛スルタメニ、反対ノイツワリノ教理ガ断罪サレナケレバナラナイ必要ナ議論――ノ間デ是ガ非デモ区別ガツケラレナケレバナラナイ」。この論争においては、「最後的なことが問題」である、根本的包括的なことが、原理的なことが、問題である。言い換えれば、些末なことを、拡大鏡にかけて全体化すること、最後的な問題とすることが、問題ではない。あの「一つの事柄に仕え」ることが問題なのであって、「ひとつの党派に仕え」ることが問題ではない。あの「一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない」(『教会教義学 神の言葉T/1』)。「人は神学的な対立においては、……まさにキリスト(≪「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通した間接的媒介的反復的なイエス・キリスト≫)にあって相分かれているのであって、決して(≪第三の形態に属する人間的な≫)ひとつの教会の権利、あるいは教会的なひとつの思想方向の権利のゆえに、ましてやひとりの個人的な意見の権利のゆえに分かれている」のではないのである。このことを誤解した典型が、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、具体的には第二の形態を後景へと退けた、「ローマ・カトリック教会の『論争神学のための季刊誌』」における次のような「論争の前提」である――すなわち「カトリック神学こそ教会の神学であり、したがって福音主義的対話相手は異端者として真剣に受け取られるべきであり、しかしそのようなものとして実際真剣に受け取られるべきである」というそれである。「しかし、この前提の前提」は、「教会の神学の責任を引き受けようと用意しており」、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す神学の「役割を引き受け」ようとしているところの「福音主義の神学」が「立っているといる」という点にある。バルトは、「いかなる教会も自分自身と、それからまたほかのいかなる教会をも最後的に真剣に受け取ってはならないという」ことを「基本原則」とするところの、それゆえにあの客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を後景へと退けあるいは除外するところの、それゆえに教会の宣教における客観的な原理・規準・法廷・審判者・支配者を持たないところの、「世界教会運動(エキュメニズム)」、寛容主義、多元主義を批判しつつ――なぜならば、そこでは、現実的な諸矛盾や諸利害の対立が生じ起これば、すぐに殺人や殺戮を含めて争いが起こることは自明なことだし、「人間的な我意を持ったさまざまな野獣が場合によってはそれだけ露骨に爪をむき出しにし、傷つけ合わなければならないということは何の疑いの余地もないこと」だからである――、次のように述べている。「人が互いに純粋な、教義的な『不寛容さ』の中で相対して立つところ、そこでこそ、ただそこでだけ」、「ただ単に言葉の上だけでなく行為においても『信仰告白的な態度』の下で」、「人は互いに語り合うことができるであろう。しかも実り豊かな仕方で語り合うことができるであろう。なぜならば、ただそこでだけ、人は互いに信仰告白から信仰告白に向かって何事かを語りかけるべく持っているからである」。このような訳で、イエス・キリストを主・頭とする教会の教義学は、教会的地域性を強調した「『福音主義的』教義学」(「特殊教義学」)、例えば「特定の人種、民族……と折り合」おうとする「『福音主義的』教義学」(「特殊教義学」)、マルクス主義やエコロジー等と折り合おうとする「『福音主義的』教義学」(「特殊教義学」)、であろうと「欲することは許されない」のである。言い換えれば、教義学は、「わがまま勝手に」勝手気ままに、「そのような(≪人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求に基づく≫)福音主義的教義学として自分を打ち出し、告知する」ことは「許されない」のであって、あの客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることによって、福音そのものであるイエス・キリストを主・頭とする「『教会』教義学として自分を知らせ、告知しなければならない」のである。したがって、「啓蒙神学の産物」である、「全体としてのキリスト教を規準として」「理解」され「記述」された「福音主義的キリスト教の特別な優位性を証明しつつ」、さらに「福音主義的教義学に対して」も「その特別な場所と課題を割り当てようとする」、「福音主義教会の信仰告白をその肯定と否定のいずれの面においても教会の信仰告白として総括しつつ記述しな」いところの、「啓蒙思想以来『組織神学』の中で慣例となった」「教義学の上方に位している信条学」、それに対して「(シュライエルマッヘル、C・シュタンゲ)一般的な宗教哲学がさらにその上方に立っているような信条学」の「現実存在と妥当性を承認すること」は、「既にその発端において(「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることによって、福音そのものであるイエス・キリストを主・頭とする≫))教会の「教義学の終焉を意味する」のである。なぜならば、そこには、「普遍的――教会的」な、すなわち「世界教会的」な教会(単一性としての教会)へ向かうベクトルの客観的な根拠が存在していないし、それゆえに客観的な根拠に基礎づけられたイエス・キリストを主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」への志向性がないからである。
 第三の形態に属する、人間的な教会の宣教に対して連帯責任性を持ち、その宣教における補助的奉仕であり一つの機能である教義学および教会の宣教における「信仰告白的な態度」は、「必然性」・不可避性として客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることを通して、「われわれ以前……の(≪第三の形態に属する≫)教会の教父および信仰告白に対する(~の言葉を通して要求された)忠実さ」を、換言すれば第三の形態におけるキリスト教に固有な類(終末論的限界の下で絶えず繰り返し「純粋な教え」を志向し目指したところで得られた、教会の客観的な信仰告白・教義)の時間累積(歴史性)に対する「忠実さ」を志向し目指すところにある。なぜならば、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性がキリスト教に固有な類・歴史性として客観的な対象として与えられ存在しているということは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」というように言うことができるからである。このような訳で、第三の形態に属する人間的な「教父たちおよび信仰告白の声は、~の言葉の威厳および権威と並んで独立した威厳と権威を持ってはいない」のである。第三の形態に属する「教父たちおよび信仰告白の声」は、第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉の「威厳と権威」によって限界づけられた、間接的・相対的・形式的なそれを持っている「証人の声」なのである。したがって、その「教会の教父および信仰告白に対する忠実さ」は、「教会のこれまでの経験、これまでに教会がみ言葉を聞いた経験を通して規定され、要求された服従」の度合い、換言すれば第三の形態におけるキリスト教に固有な類の時間累積(歴史性)に対する「忠実さ」の度合いを意味するのである。しかし、この場合、第三の形態において「われわれは教父たちおよび(≪教会の客観的な≫)信仰告白(≪・教義≫)に対して忠実である」ことによって、先ず以て第一義的に第三の形態に属する「それらのものに対して服従するのではなく」、あくまでも先ず以て第一義的に「み言葉に対して服従するのである」、換言すればあくまでも先ず以て第一義的に「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に対して服従するのである。「われわれ」は、起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることによって、第三の形態において「福音主義教会の教父たちおよび(≪教会の客観的な≫)信仰告白(≪・教義≫)」に伴ってキリスト教に固有な類(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられる「聞く教会」――すなわち福音主義教会の<客観的>な信仰告白・教義)の時間累積(歴史性)を為すのである。この、必然的な不可避的な「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性から強いられた第三の形態の在り方の中に、先ず以て第一義的に起源的な第一の形態のイエス・キリストをのみ主・頭とする「普遍的――教会的」な教会、すなわち「世界教会的」な教会に対する「忠実さ」が、具体的には第二の形態の「ひとつの、聖なる、公同の、使徒的教会」に対する「忠実さ」が、そしてそれに聞き教えられた第三の形態の「福音主義教会の教父たちと信仰告白に対する忠実さ」が、あるのである。第三の形態における「信仰告白的態度」は、「積極的」には、「明確に教父たちおよび教義(≪教会の客観的な信仰告白・教義≫)の模範を通してわれわれにしきりに勧められている(≪具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を通して≫)~の言葉を聞くこと」・終末論的限界の下で絶えず繰り返し聞き教えられること・「聞く教会」となることを「意味しているとするならば」、「消極的」には、そうすることをしないで独善的に教える態度だけの「教える教会」に対して、「教会であると……認め承認することはできない教会」として「限界を引くことを意味しなければならない」のである。「われわれはこの意味で、……イエス・キリストの教会としての福音主義教会」に対して「教会を異端から区別しつつ」、「ほとんど到るところで組織的に、また管理的に(≪外在的な≫)福音主義の教会につけ合わせられているが、しかし福音主義の教会にとって霊的には本質からして疎遠な新プロテスタント主義、ローマ・カトリック主義、東方正教会を対置させたのである」。しかし、福音主義教会も、「新プロテスタント主義を徹頭徹尾、福音主義教会に属さないものとして排除する時でも」、その福音主義教会にも、「ルター派的、改革派的、聖公会的形態がある」のである。言い換えれば、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、あの「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられる「聞く教会」という立場から、「ルター派的、改革派的、聖公会的」な福音主義教会を包括し止揚し克服した、起源的な第一の形態のイエス・キリストに基礎づけられた、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言におけるイエス・キリストに基礎づけられた福音主義教会、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す福音主義教会は存在しないのである。したがって、この現状のただ中で、バルトの「思惟と語り」は、一貫性をもって、そのような教会の教義学を、福音主義の教会を志向し目指しているのである。
 さて、「十九世紀になされたルター派・改革派的な、あるいは改革派・ルター派的な合同教義学」また「シュラエルマッヘル、マールハイネケ……の信仰論」は、「多かれ少なかれ皆、……(≪「教義学の教会性」を堅持した「ただ一つの選択」・決断・態度、すなわち必然性として不可避性として客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることを通した≫)福音主義的・教会的な信仰と思惟の仕方で企てられたのではなく」、それは「まさに(≪先ず以て第一義的に、「人間の自己運動を~のそれと取り違えるという混淆」に、~の人間化・人間の神化に、人間の自由な自己意識・思惟・理性の類的活動に依拠した≫)新プロテスタント的な信仰および思惟の仕方で企てられていた」のである。この後者の典型については、さまざまな神学者や牧師の発言、インターネット上のさまざまな発言、において数多く散見することができるであろう。改革派のバルトは、「改革派の教義学の形態の中で」、「特にカルヴァンの奉仕とその証言を確認する信仰告白の奉仕を通して純化され、新たに基礎づけられた……神の言葉を<聞く教会>の教義学」を志向し目指すことによって、換言すれば「教義学の教会性」を堅持した「ただ一つの選択」・決断・態度、すなわち必然性として不可避性として客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることを通した「福音主義的・教会的な信仰と思惟の仕方」において、「教会の教義学が、したがって福音主義的な教義学が、したがって世界教会的・教会教義学」を志向し目指したのである。このことからも、バルトを根本的包括的に原理的に理解しないままバルトの一部分をさらにその一部の言葉を拡大鏡にかけて全体化して論じた神学者・説教者の佐藤司郎におけるバルトの「エキュメニカルな神学」論・「エキュメニズム」論・「エキュメニカル運動」論は、人々に対して、根本的包括的に原理的にバルトを「誤解」させてしまうものであり、それゆえにバルトに「迷惑をかける」ことになるものなのである。さらに、佐藤は、神学それ自体に自己相対化視座と反省過程を持っていないから、それゆえに「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」り根本的包括的な原理的な誤謬を固定化し実体化させてしまうから、たちが悪いのである。このことは、佐藤に限ったことではなくて、さまざまな書籍やインターネット上のバルト紹介やバルト入門等々においても言えることなのである。バルトの場合は(人間学で言えばマルクスの場合もそうであるが)、先ず以て根本的包括的に原理的に理解することが肝要なことなのである。したがって、神学一般についても、バルト神学についても、バルト自身が述べているように、バルト研究一つを例にとってみてもそのバルトの一部分を拡大鏡にかけて全体化して論じることとなる「すべての大学社会の神学」は、「何らの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)でしかないのである。このことは、「すべての大学社会の神学」における宿命である。したがって、大学で神学を学ぶ人たちは、このことの自覚は必要なのである。したがって、欧米の大学に留学して、箔が付いたと天狗になっている神学者や牧師は、ましてやそれがバルト研究者ならば、その天狗話は「ばか話し」でしかないのである。また、バルトは、ドイツ語で読まなければ分からないという言い方も「ばか話し」でしかないのである。井上良雄や吉永正義の翻訳(この二人の神学上教会宣教上の功績は最高度にある)で、バルトを根本的包括的に原理的に十分理解できるのである。私はそのような教会があるのかと驚愕したのだが、関田寛雄が『「断片」の神学――実践神学の諸問題』で、「後任牧師の選任」基準を、「外国留学」と修士や博士の「学位」においている教会があることを批判していたことは、妥当なことなのである。したがって、ほんとうの<正直さ><誠実さ>は、次のような言葉にあるだろう――「わたしは……『源氏』は原文で読まなければ判らないなどという迷信の世界を……無化したいと思った。『頭をひねりながら判読』してみても、たった二、三行すら正確には判読できない。また「ある程度以上のスピードで読める(正確に)」ような『源氏』研究者が現存するなどということを、まったくしんじていない」(吉本隆明『源氏物語論』)、「万巻の書を読んだという人もいるけれど、僕は全然そんなことはない。(中略)主な作品を読んでいくだけでも、……こういう作家かとおもうわけで、それは間違いなくイメージは湧きます。(中略)専門家といわれる人でも、誰か一人でもいいから全部ちゃんと読んだかと聞かれたら、それはあんまりいないと思います(吉本隆明『幸福論』)。
 さて、「福音主義教会内部での対立においては、福音主義的でない『教会』に対する対立におけるのとは違った」態度となる。したがって、バルトの場合、その対立における態度は、先ず以て「カルヴァン自身と共に改革派の信仰告白と改革派の教義学がこれまでいつも取って来た態度を取」るという点にあるのだが、それは、「個人的な意見や歴史的あるいは体系的な判断に基づいて……ではな」く、「必然的」に改革派教会の<客観的>な信仰告白と教義に基づいた「排他的な選択と決断」にあるのである。この「対立」の態度と「排他的な選択と決断」の形式におけるバルトの立場は明確である――ちょうど吉本隆明の思想的な立場が、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場(一つの選択・決断・態度)において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」という点にあったように、第三の形態の改革派教会に属し立脚したバルトの神学的な立場は、「(≪終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「純粋な教え」を尋ね求めるために、「~の言葉の三形態」の関係と構造における起源的な第一の形態――単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト、具体的には第二の形態――その人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派、学派、思想傾向、時流や時勢、社会的政治的な言説や運動等≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」という点にあったのである。この立場から、バルトは、差異性と単一性について、次のように述べている――「人がルター派教会、改革派教会、聖公会について語る時」には、「同じひとつの教会、すなわち福音主義教会、ひとつの、聖なる、公同の、使徒的教会」(単一性)の「三つの形態」(差異性)について語っているのである。したがって、ここでは、「悪い仕方」、悪い「取り組み方」、そのために生じる「誤謬」に基づくところの、その差異性は、それらに「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」られた「特定の誤謬」を固定化し実体化してしまうところからやってくるのである、換言すれば「誤解し、誤解させるところの、悪い仕方で、恣意的に為された特定の神学的取り組み、<改革>派教会自身の内部でも現れてくることがあり得る……間違った神学的取り組み」を固定化し実体化してしまうところからやってくるのである。第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」・「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した。「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(『バルト自伝』)。
 さて、「ローマ・カトリック教会を含めて、すべての教会の内部で、その内容的な重さと形式的な鋭さにおいて、……教えの違いが昔から存在したし、今も存在している」にもかかわらず、「教会を分裂させる意味を人が与えることができなかった」。また、「一方においてドミニコ会の信者たちと他方においてイエズス会の信者たちは、時折ほとんど互いに相手を異端呼ばわりせんばかりに攻撃しあった」。また、「近代になって、改革派教会の内部で、ドイツおよびそのほかのところで、一方において敬虔主義の後継者たちと他方においてH・F・コールブリュッゲの弟子たちは、しばしば最も鋭い真剣な告訴と弾劾をぶつけ合いつつ出会ったし、そのような状態は今なお続いている」。また、「A・コイペルのあとに続く『歴史的な』カルヴァン主義と当地で〔バーゼルで〕代表された改革派神学の間で絶えず働いている根本的な嫌悪感を指し示す時、それは別に、世に知られていない秘密をすっぱ抜くことにならないであろう」。また、「聖公会は全くどうかと思える仕方で、すべてのものを、……互いに……対立している立場をも、(≪根本的包括的に原理的に包括し止揚し克服するという仕方においてでは全くなく、恣意的形式的折衷的混在的外在的に≫)自分の中で結びつけるというその特別な召命と能力を誇っている」。また、「教義ニ関スル意見ノ一致に最大の重要さを置いたルター主義……も、どの世紀……世代においても、この意見の一致を、したがってルター的な教説を(またただ聖餐についての論争の的になっている信仰箇条につてだけでも)異論のない仕方で一致した……ためしはなかった……」。バルトは、ルター的なキリスト論、聖餐論について、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』で、次のように述べている――「(≪~だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、という神と人間との共働論・協働論において、人間の自由な自己意識・思惟・理性の類的活動によって対象化された神、その~への信仰は≫)、……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(≪それは≫)あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは≫)、人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その≫)信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)「神性の創造者」と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を「神は人となり、人は神となる」(≪~の人間化・人間の神化≫)という定式で簡明に表現し(≪たが、それは≫)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……天と地・神と人間を?倒する可能性(≪~と人間との無限の質的差異の揚棄、捨象、排除≫)を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係(≪~と人間との無限の質的差異における関係≫)だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」・「市民的啓蒙という観念、(中略)……社会民主主義の無神性は、教会にとって、(中略)現在でも警告であって、(中略)教会がフォイエルバッハの問いの前に晏如となることができるのは、教会の倫理が古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである。そのときにこそ人々は、教会の告げる神も幻想ではないのだという教会の言葉を信ずるであろう。そのときまでは、そのようなことを決して信じはしないのである」・「……神と人間を同一視する神学(中略)「人間の中なる神について」の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない。(≪その場合には、≫)われわれは、かれと共に「その世紀の忠実な子(≪フォイエルバッハの、宗教としてのキリスト教批判の対象そのものにおける子≫)」なのである。
 このような訳で、寛容主義や多元主義は、あのキリスト教に固有な類・歴史性を後景へと退けあるいは排除してしまうことになるから、それゆえに客観的な現実性と妥当性を欠くことになってしまうから、またそれゆえに百人百様の恣意性に拡散していくことになってしまうから、今までのところまた未来に生きるという意味においても、ただ前述したところの、根本的包括的に原理的に理解された第三の形態に属する人間的なバルト<自身>の、一方において、不可避的に改革派教会に相対的に属し立脚しながら、他方においては、必然性・不可避性として、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態――客観的な「啓示の実在」そのものであり教会の主・頭であるイエス・キリスト、具体的には第二の形態――直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言を媒介することを通して間接的媒介的反復的に出会うところのイエス・キリスト――この「一つの事柄」にのみ仕えるという立場だけが、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところの、またそういう仕方でキリストにあっての~を尋ね求める「~への愛」と、すなわち「純粋な教え」を尋ね求める「~への愛」と、そういう「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち~の命令・要求・要請、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すところの、教会の教義学、教会の宣教におけるキリスト教に固有な客観的な現実性と妥当性を持った立場である、と言うことができるのである。