『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「二 教義学の規準」その3−1
『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく
カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「二 教義学の規準」(133−150頁) その3−1
引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)
二十三節 聞く教会の機能としての教義学
「聞く教会の機能としての教義学」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
教義学は、教える教会に対して、聖書の中に証しされた啓示の~の言葉を新しく聞くよう呼びかける。しかしそのことを教義学は、ただ、教義学の側でも、自分自身聞く教会の立場を取り、それであるから教義学自身、規準――聞く教会がそのようなものとして、その下に置かれているのを知っている規準――としての~の言葉に聞き従う間に(≪indem――井上良雄的に「聞き従うことによって」≫)、なすことができる。(103頁)
〔この定式の詳述〕
この定式の詳述については、<カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「一 教義学の形式的課題」その2−1>で行っていますので、参照してください。
註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。
二 教義学の規準(その3−1)
教会(その全成員)の宣教に対して「連帯責任性」を持ち、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である教義学は、自らが、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「必然性」として不可避性として与えられている、三位一体論の唯一の啓示の類比であり~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ可視的に存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストに、具体的には第二の形態――すなわちそのイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された予言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言を媒介・反復することによって、換言すれば聖書的啓示証言に聞き教えられることによって、それゆえに同様にそういう仕方で、すなわち聖書的啓示証言に聞き教えられることによって「教える教会」(その全成員)とならなければならない「教える教会」(その全成員)に対して、そうすることによって「説教者」とならなければならない「説教者」に対して、「原則的に」、第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられるようにと「呼びかけ」るのである。この教義学、教義学者における、「教える教会」、「説教者」に対するその「呼びかけ」と自らもそうするという自己遂行の二重性、「聞くことと教えることとの間の必然的な関係」における二重性は、一方で、「教える教会」、「説教者」と同じように、「必然性」として不可避性としてある、第一の形態を、具体的には第二の形態を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることによって教義学的な「思惟と語り」を「遂行する」ということ、他方で、自らがそういう教義学的な「思惟と語り」を「遂行する」ことによって、「教える教会」、「説教者」の「人間の言葉」が、「~の言葉への奉仕として正しく、有効適切なものであるかどうかを吟味」するということ、また「教える教会」、「説教者」の「人間の言葉」が、「わがまま勝手」、勝手気ままなものではないかどうかを「吟味」するということ、すなわち「教える教会」、「説教者」が、絶えず繰り返し、第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることを通して、キリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指しているかどうか、そのような「純粋な教え」へと向かう「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、~の命令・要求・要請、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指しているかどうかを「吟味」するということ、この二重性にあるのである。この後者の意味で、「教義学(≪教義学者≫)」は、即自的な、「教える教会(その全成員)」の宣教、「説教(≪説教者≫)から区別される」のである。したがって、橋爪大三郎が語ったように「これならわかるかねと上から目線で教えをたれる」(『ふしぎなキリスト教』)ところの、また部分を拡大鏡にかけて全体化して語るところの、また根本的包括的な原理的な誤謬に党派的(教派的、学派的、集団的等)な「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」るところの、即自的な「教える教会」の神学者や牧師やメディア的キリスト教的著述家の発した言葉は、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである、実証された自然科学的成果以外の事柄については、その知識・思想は先ず以てそれほんとうかというように疑問視した方がいいのである。例えば、センセーショナリズムを売りにしているメデイアが、「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて」、ある副作用のある薬は飲んではいけない、血圧は少しくらい高くてもよいというように煽る煽り方、また「情報科学や情報技術の専門家たち」が、人間の部分を全体化して「人間の感覚部分(≪生体の動物神経系に属する感覚器官≫)に関わる(≪依存する≫)心・精神」というものと「人間の非感覚的部分(≪内臓部分、生体の植物神経系に属する自律神経器官≫)に関わる(≪依存する≫)心・精神」というものは「同じものであると信じて疑わない」ところから発する発言は、その最初から人々に対して、人間の「心・精神」というものを根本的包括的に原理的に誤解させてしまう問題を孕んでいるのである。それは、バルトの微小部分あるいは一部分を拡大鏡にかけて全体化し、これがバルトだと主張して、人々に対して、バルトを根本的包括的に原理的に誤解させてしまうことと同じである。ほんとうは、人間は、感覚に依存する「心・精神」、内臓に依存する「心・精神」、その構造としてある「人間固有の器官」である「心・精神」の総体を生きているのである。この人間の「心・精神」の働き(人間固有な内面の構造)は、内蔵器官に依存した「心・精神」の働きによる表出(自己表出)と、感覚器官に依存した「心・精神」の働きによる表出(指示表出)の構造としてあるのである。したがって、現実の意識は、対自的となった人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)と対他的となった実践的意識(自己意識の対他的意識、言語の指示表出)の構造としてある。この自己意識における対自的意識と対他的意識、言語の自己表出と指示表出の構造である現実的意識の外化である言語表現は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(≪実践的意識≫)の外化である」。このようにして人間は、自己を客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入る。このとき<表現>された言語は、客観的な対象として百人百様の享受の対象となり、「交通の手段」となる。外化されたその実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)は確かに「他の人々にとって存在するとともに、そのことによって はじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識」いう意味で、コミュニケーションによる相互理解に根拠を与える意識である。しかし、他方で、人間には、他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識、言語の自己表出)があることも確かなことなのである。バルトも、『教会教義学 ~の言葉T/1』で、この人間の対自的意識に関わる言葉で、「われわれ人間の間の伝達は ――われわれが人間一般として互い相対立して立つ限り――事実いかに問題的であるかということを念頭におくならば」、「一体、誰が誰を知っているのであろうか」、誰が誰をその人間的意識において知ることができるであろうか、と述べている。「情報科学や情報工学の発達」は、人間の感覚部分に関わる心・精神を発達させその知識を増大させたけれども、人間の情念、非感覚部分の心や精神を発達させることはできなかった。経済社会構成が拡大・高度化し生活の利便性が増大し経済的に豊かになっても、人間の非感覚部分の心や精神は豊かにならなかった(吉本隆明『心とは何か』、『ハイ・エディプス論』、『人生とは何か』、『超20世紀論』)。今のところ、世界レベルでの臨床研究やその成果・結果を見てみれば、血圧や脈圧や平均血圧は至適なそれの方が高めよりも益する方が大であることは自明なことである、また副作用の危険のある怖い薬もある人にとって必要ならば飲んだ方がいいことは自明なことである、私が服薬している塞栓症を抑える抗凝固薬エリキュースも頻脈性心房細動の発作を抑えるベータ遮断薬も危ない怖い薬であるが、服薬しなければ塞栓症に罹りやすくなるし、いつも頻脈性心房細動の苦しい発作が起きてしまうから、服用した方がいいに決まっているのである。このような訳で、微小な部分あるいは一部分を拡大鏡にかけて全体化して主張された発言は、徹頭徹尾、疑問視した方がいいのである。どのような形態の社会――国家であれ、現存する社会――国家は、本来的な意味での実質的に中流意識を持つ人たちを100パーセントにまで近づける社会を第一義・価値とする社会主義的国家(これは国家論における過渡的課題、過渡的共同体、「堕落しない共同体」、それゆえに究極的課題は観念の共同性を本質とする国家、共同体の無化を伴う社会的現実的な個体的自己としての全人間の究極的包括的永続的な解放にある)ではなくて、格差社会を助長させる国家を第一義・価値とするする国家主義的社会であるということ、その国家は専門的な軍事部門を持っており、それを一部支配上層の意思によって動かすことができるということ、それゆえに戦争を想定した民族国家であるということ、それゆえに国民、市民、自分たちを戦争へと駆り立て家族や親族や友人や隣人を死に追いやるだけでなく、他国の一般民衆をも死に追いやるということ、それゆえに戦争を廃絶するためには・平和を実現するためにはその国家を無化しなければならないということ、それゆえに政治的近代国家の体制的な政策的言語や法的言語を介しては決して戦争廃絶・平和はあり得ないということ、その国家の尖端性は、議会制民主主義、資本主義社会(近代市民社会)――政治的近代国家として存在しているということ、その憲法を法制的中枢とする国家は主導的な経済社会構成体の利害を念頭に置いて法の支配の下で法による行政に基づき政治的国家の職能団体の官僚によって執行されているということ、この現存する世界は不可避的な経済の世界性と第一義的に自国の利害を優先する民族国家の一国性を単位として動いているということ――これらのことを視座として観点として持つとき、誰であれ、今回訪日したプーチン(ロシア)の北方領土問題に対する対応について、また沖縄オスプレイ事故に対するアメリカの傲慢な対応について、また結局は資本主義社会(近代市民社会)――政治的近代国家という体制的枠組みに組み込まれた制度としての御用最高裁でしかないところからする辺野古移設問題における沖縄県敗訴確定について、クリミヤ問題やシリア問題におけるアメリカとロシアの対立について、イギリスのEU離脱について、日本基督教団やカトリックの平和に対する宣教レベル・政治レベルでのアプローチの仕方の質の悪さについて、国家主義を基調とした天皇の権威と政治権力との二元論的国家論を前提する佐藤優について、一流から三流までのすべての学者やメディア的知識人等々の知識性・思想性について、ほんとうはどのような水準にあるものなのかをよく理解することができるのであり、それゆえに買い被り偶像化し騙されることは極少化できるのであり、また経済的こと、政治的なこと、文化的なこと、人権的なこと、道徳的倫理的なこと――この一分野を拡大鏡にかけて全体化するところの思惟と発言を相対化することができるのであり、その即事的、即自的な、思惟や発言に対して対象的になって距離を取り、拙くとも自分で再検証再吟味し、自分で根本的包括的な原理的な批判を為すことができるのである。
いずれにしても、肝要なことは、全く人間的な「教える教会」、「説教者」と全く同じように、徹頭徹尾、~と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、バルトであれ誰であれ、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態に属するところに現存する人間として、その現にあるがままの人間の現実存在を生きるただの人間に過ぎない人間的な教義学、教義学者は、全くただの人間に過ぎない人間的な「教える教会」、「説教者」に対して、「~の言葉そのもの」、すなわち起源的な第一の形態の「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストを「舞台に登場させ」、その「啓示の実在」そのものを原理・規準・法廷・審判者・支配者として、的確な自己「反省的吟味」・「自己否定」・自己批判と訂正を遂行させることはできないのであって、それゆえに換言すれば、具体的には教会に宣教を義務づけている第二の形態である直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それを媒介・反復することによって、換言すればそれに聞き教えられることによって、間接的媒介的反復的に、すなわち「人間的、相対的」に、的確な自己「反省的吟味」・「自己否定」・自己批判と訂正を遂行させていくことができるだけである、という認識と自覚にある。言い換えれば、「教える教会」、「説教者」と同じように、まさに第三の形態に属する人間的な教義学、教義学者は、自らが、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、<具体的>には第二の形態に絶えず繰り返し聞き教えられ、「支配され、規定され、攻撃され、不安ならしめられ、その限界内に踏み止まるように指示され、その限界内にとどめられる~についての思惟と語り」を遂行することによってのみ、「教える教会」、「説教者」に対して、同じように絶えず繰り返し、第一の形態に、<具体的>には第二の形態に聞き教えられるようにという「要求」・「呼びかけ」を遂行することができるのである。教義学、教義学者は、自らが、第一の形態に、具体的には第二の形態に「聞きつつ教える」ことによって、「教える教会」、「説教者」に対して、同じように、第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることを想起させることができるのである。教義学、教義学者は、「それが教会に課せられた法則の意味で」、すなわち「パウロがコロサイ四・一七でアルキポに、(≪聞き教えられることによって≫)『主にあって受けた務をよく果たすように』と命じている言葉」で総括することができるところの「法則」の意味で、そのように「自分自身に対して働きかける」ことによって、「その同じ法則の意味で、教会の宣教に対して(≪絶えず繰り返し、第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられるようにと呼びかけ≫)はたらきかけるのである」。「この側面からしても……シュライエルマッヘル的な信仰論のプログラムは不十分であるということ……が分かってくる」のである。なぜならば、シュライエルマッヘル的なそれは、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、~と人間との無限の質的差異における「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「啓示の実在」そのものを、具体的には第二の形態――すなわちその人間性と共に神性を装備され賦与された直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」に信頼し固執し連帯しないから、ただ第三の形態の「その宣教の人間的言葉(≪対象化された人間的な説教者自身の類的活動における類的本質としての~、「存在者レベルでの~」、偶像神、の言葉≫)を持った教える教会そのものだけが……姿を現しているからである」、前面化・全面化しているからである。ここに、まさしく、次のような危機的事態を見ることができる――対自的で対他的な自由な自己意識・理性・思惟の類的活動における思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」のだが、これを支えているものが、無限と有限との統一としての「究極的同一性」である・この「究極的同一性」において、「神の理性」のその属格理解における理性は、人間の理性が神を思惟する理性から、神の理性が思惟する理性に転化され、人間の理性の思惟は、神の理性の思惟と等価性を持つことになる・これは、人間の神化、~の人間化である(『ヘーゲル』)、換言すれば、これは、「聖書の主題であり哲学の要旨である」~と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)の揚棄、捨象、排除である・このような事態に、危機的事態を見ることができるのである。このアジア的日本的変形の典型が、前回論じた滝沢克己であり八木誠一である。したがって、バルトは、次のように述べたのである――「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、 「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由(≪「自由」・「主権」は、「~ご自身においてのみ実在であり真理」である≫)を認識していないという事態」にあるのだが、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(『ヘーゲル』)。人間の対自的で対他的な自由な自己意識の類的活動において「学問的、方法論的に分析している」「シュライエルマッヘル的な教義学者は……最後的には自分自身いかなる批判と規準にも服さずに」、すなわち聞き教えられず、それゆえに教会の宣教過程において絶えず繰り返し為すべき自己吟味、的確な自己「批判と訂正」、自己否定の原理・規準・法廷・審判者・支配者である第一の形態に、具体的には第二の形態に服さず、、すなわち聞き教えられず、それゆえに人間自身教会自身の裁量事項として固定化し実体化した即自的な「教会の宣教の事実のところに立ち続ける」のである。したがって、このような即自的な「教会の宣教の事実のところに立ち続ける(≪「わがまま勝手」な、勝手気ままな≫)教義学者は、説教者に対して最後的には何も言うべきものを持つことはできない」のである。なぜならば、その教義学者と同じように説教者も、教会の宣教過程において絶えず繰り返し為すべき自己吟味、的確な自己「批判と訂正」、自己否定の原理・規準・法廷・審判者・支配者である第一の形態に、具体的には第二の形態に服さず、すなわち聞き教えられず、「わがまま勝手」な勝手気ままな自分自身の対自的で対他的な自由な自己意識の類的活動において即自的な「教会の宣教の事実のところに立ち続けるからである」。その場合、彼らは、絶えず繰り返し、第一の形態に、具体的には第二の形態に、聞き教えられることによって教会となるという、イエス・キリストを主・頭とする生ける教会の途上的な運動過程を持たないのである。したがって、彼らは、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として可視的に存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態から、具体的には第二の形態から遠く離れ去ってしまって、「わがまま勝手」な勝手気ままな人間自身教会自身の即自的な「教会の宣教の事実」にどっぷりと浸かってしまい、その宣教を固定的に実体化してしまうのである。彼らは、時流・時勢に即自的に対応して、軽薄な人気取りに、軽薄な受けに走るのである。総括的にいえば、もしも教義学者の思惟と言葉、説教者の思惟と言葉が、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態を通して、具体的には第二の形態を通してやってきていないそれであるならば、もしもその彼らの思惟と言葉が、聖書的啓示証言を媒介することを通したキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えへと向かうそれでないならば、それゆえにキリスト論的集中へと向かうそれでないならば、それゆえに単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリストの死と復活(成就された時間)において完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、インマヌエル、「イエス・キリストの名」へと向かうそれでないならば、換言すれば教義学者自身あるいは説教者自身の自主性・自己主張・自己義認の欲求に基づく「自己表現としての宣教」の企てへと向かうそれであるならば、それゆえにその教義学者自身あるいは説教者自身のたかだか二、三流の「自己表現としての宣教」の企てへと向かうそれであるならば、そのような二、三流の「自己表現としての宣教」の企てへと向かうその言葉に聞くよりは、宮沢賢治や太宰治や吉本隆明やドストエフスキーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクスやフーコー等のあれこれの言葉を聞いた方がいいに決まっているのである、その方が、実際的に、確実に、人間や世界の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれるに決まっているのである。前回も述べたことであるが、この意味からも、<近代主義>的な人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍の尊重を主張した近代主義的プロテスタント主義者としてのルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健の聖霊論的説教論における<中世>的思考へと退行した「神学(≪この実体は、神学と人間学の混合学・折衷学、神学の人間学化あるいは人間学の神学化、非自立的で中途半端な人間学的神学あるいは神学的人間学≫)の優位性」を「確保しつつ」あるいは「否定することなく」、「人間学的局面にもその位置を正しく与える」あるいは「人間学を正当に評価する位置を与える……」という主張は、全く以て「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)におけるそれに過ぎないものであると同時に、身の程知らずのおこがましい主張でもあるのである。彼らは、このことから対象的になって距離をとれないから、いつまでもそこに停滞したままなのである。その人間学的神学の水準あるいは神学的人間学の水準に、いつの頃からかずっと、固定化され停滞したままなのである。彼らは、神学の、知の、思想の、反省的な運動過程を持たないのである。なぜならば、彼らには、「聖書の主題であり哲学の要旨である」~と人間との無限の質的差異の認識と自覚が、また「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の認識と自覚が欠損しているからである、それゆえに主客転倒させて第三の形態を主に考える彼らには、教会の宣教において、神学において、「純粋な教え」への志向性がないからである、それゆえに一方で、彼らには、人間学において、質の良い知や思想への志向性がないからである。
このような訳で、教会の宣教に対して「連帯責任性」を持ち、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である教義学は、「教える教会の内部で」、その同じ第三の形態に属する「教える教会」(その神学者、牧師、著述家等の全成員)が、「常に」、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態である「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストに、具体的には直接的な最初の第一の第二の形態である啓示の「概念の実在」としての聖書的啓示証言に、聞き教えられるということから逸脱していく「危険にさらされて」いることを認識し自覚していなければならないのであって、それゆえにその「教える教会」に対して、「教える教会」は、絶えず繰り返し、第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられつつ~の言葉に奉仕することを通してはじめて、その宣教の言葉の「資格証明と確認……を受け取ることができる」ということに対する「実地論証、告知、しるし、証言でなければならない」のである、換言すれば教義学は、教会の宣教における原理・規準・「法廷」・審判者・支配者としての「~の言葉(≪起源的な第一の形態、具体的には直接的な最初の第一の第二の形態≫)……が存在し、力を奮うことに対する実地論証、告知、しるし、証言でなければならない」のである。説教自身、説教者自身がそうであるのと同じように、教義学、教義学者は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態が、具体的には第二の形態が、第三の形態と世に対する神の恵みの賜物として客観的な対象として可視的に存在している、その教会の宣教における原理・規準・審判者・支配者・「法廷についての証言」(実地論証、告知、しるし)、証言者(実地論証、告知、しるし者)なのである。このことは、その人間性と共に神性を賦与され装備された聖書的啓示証言におけるその「人間的な側面から見るならば」、その人間的側面から見られた「イエス・キリストにあっての神の啓示(≪すなわち、その人間的側面から見られた聖書的啓示証言≫)さえもが、ただこの法廷についての証言……であるのと同様である」。説教者も、教義学者も、「~の言葉」を、「ただ、~の言葉そのものの自由と力によってだけ」、~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてだけ、それゆえに「~の言葉そのものの賜物としての彼の信仰と服従の隠れの中でだけ、持っている」のである。言い換えれば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き語る責任ある証人となる場合、すなわち客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなく、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰であって、その時初めて、神の言葉は、その人に対して「実在」となり、またその人も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。このように、「教義学の中ででも~の言葉」は、「ただ、(≪全き自由の≫)~の主権的な恵みの行為を通してだけ」、「神的な存在と行為から人間的な存在と行為の上に落ちてくる光の反射の中でだけ」、第二の形態を媒介する(第二の形態に聞き教えられる)ことを通して起源的な第一の形態と間接的媒介的反復的に同一となることによってだけ、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてだけ、「明らかとなってくることができる」のである。言い換えれば、教義学は、「聖書の中で証しされている啓示によって規定された人間的な思惟と語りであるところの特定のしるし」なのである。言い換えれば、「この方向づけによって、<教義学的な思惟と語り>は、<非教義学的な思惟と語り>から区別される」のである。聖書的啓示証言を媒介する啓示認識・啓示信仰には聖霊によって更新された理性を必要とするのであるが、いずれにしても両者は共に、その現にあるがままの人間の現実存在における人間の自己意識・理性を使っての「人間的な思惟と語り」ではあるが、その方向づけによって区別されるのである。すなわち、第二の形態としての聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である起源的な第一の形態としてのイエス・キリストの福音の宣べ伝えを目指すことのない「単なる知識」としての形而上学的抽象的空論的な教義学は「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のもの であっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。この良質なバルトの思惟と言葉が、質の悪い神学性、知識性、思想性のただ中にどっぷり浸かってしまった神学者や牧師や著述家たちには全く理解することができないのである。また、この教会の宣教における補助的奉仕としての教義学的営為においても、「あくまでも人間は人間であり続けるし、~は~であり続け給う」。「聖書の主題であり哲学の要旨である」~と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)は、いつでもどこでも貫徹され続けるのである。したがって、「ここでも、人間の行為と存在にとってすべてのことがあくまでも、~の祝福の自由な、力強い然りによってもってかかっている」のである。言い換えれば、その思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の、党派(教派、学派、組織集団等々)の、決定事項ではないのである。このような訳で、教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいてのみ成立しているのである。また、教義学は、「教会の宣教の言葉が~の言葉に関わる必然的な関連性」について、「わがまま勝手」に勝手気ままに「自分で……造り出したり、回復したりすること」はできないのであって、あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「必然的な関連性」について、想起させることができるだけなのである。「まさに教義学は、聖書の中で証しされている啓示を、したがって父、子、聖霊の言葉を、思い起こさせる」ことによって、「同時に入り口(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通してのみ起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となることができる入り口≫)でもあるところの」「垣根(≪教会の宣教が絶えず繰り返し的確に自己「反省的吟味」し自己批判し自己否定し訂正し再出発して行くことができるところの教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者≫)を思い起こさせる」のである。したがって、バルトは、次のように述べるのである――@イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである、したがって、「われわれ」は、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである、すなわち、「われわれ」は、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)、Aそれが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ何であれ、キリストの福音について「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」のであり、「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」(『バルトの生涯』)のである。このバルトの、聖書的啓示証言を介したキリスト論的集中における思惟と語りには、言葉と行為、説教と社会的政治的実践、宣教Aと宣教B、~だけでなく人間も――~と人間との共働・協働・混合・折衷、という二元論は完全に止揚され克服されているのである。
「教義学的な規準、換言すれば、教義学が教会の宣教に、それであるから先ず第一に自分自身に、純粋な教えの客観的な可能性として思い起こさせなければならないところの」、全き自由な~の「神律性」――すなわち第三の形態である教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・「規準(≪法廷・審判者・支配者≫)は、聖書(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、すなわちその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」である預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言)の中に証しされている神の言葉としての啓示(≪起源的な第一の形態である「啓示の実在」そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方イエス・キリスト≫)以外の何ものでもない」。それと共に、具体的には、教会に宣教を義務づけている教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である第二の形態の聖書である。この「神律性は、それが打ち立てられ、認識され、力を奮うところ」においては、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態を媒介することを通して起源的な第一の形態と間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指したところの、換言すればそういう仕方で「純粋な教え」を志向し目指したところの、教会の<客観的>な信仰告白・教義という「特定の、相対的な形態を持って」いるのであるから、「それであるからそのような神律性に対して、教える教会の人間的な思惟と語りの領域の中」で、「ただ……直接的に、人間の自律性が対応している訳ではない」のである。第三の形態に属する教会(その全成員)にとって、この認識と自覚は重要なのである。したがって、「ここでも、教義学の中での他律性に対して先ず第一に、なかんずく、他律性が対応し向かい合って立っていることについて」明確に「理解することなしに」、また明確に「理解する前に、われわれは教会の中での自律性について語ることはできない」のである。なぜならば、起源的な第一の形態であるそれ自身で「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と「自由」を持っている単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された、その人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態である預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言――この第二の形態である「直接的、絶対的な、内容的な」「権威」と「自由」を賦与され装備された聖書こそが、換言すれば「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性とイエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性とによって賦与され装備され根拠づけられた「権威」と「自由」を賦与され装備された聖書こそが、起源的な第一の形態であるイエス・キリストと、第二の形態である聖書の「権威」と「自由」を通して「基礎づけられ」・「条件づけられ」・「限界づけられている」「間接的・相対的・形式的な」「権威」と「自由」を持っている第三の形態である教会(その全成員)の宣教との、<仲介者>だからである。したがって、第三の形態である教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」――すなわち起源的な第一の形態、教会の主・頭であるイエス・キリストが、具体的にはイエス・キリストと共に教会の宣教における原理であり教会に宣教を義務づけている第二の形態である聖書が、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。このような訳で、「キリスト教の宣教に対して、したがってまず第一に教義学自身に対して、課せられている『別な法則』は、確かに~の法則以外の法則はあり得ないとしても、したがってここで考察されるべき他律性は、まさに神律性(≪~の言葉自身の自己運動、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰に基づく終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与≫)以外のほかの法則性ではあり得ないとしても、~の法則についての証言は、したがって神律性をして力を奮わしめることは、具体的な、別な法則の指し示し、告げ知らせ、しるし的形態、を認識しつつ遂行される以外には遂行されることができない」。言い換えれば、それは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、「必然性」、不可避性として教会自身と世に対して客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態を媒介することを通して起源的な第一の形態と間接的媒介的反復的に同一となるという仕方で、すなわちキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すという仕方で、またそのような「~への愛」を根拠とする「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、~の命令・要求・要請、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すという仕方で、「~の法則についての証言」を、それゆえに「神律性をして力を奮わしめること」を遂行していく以外にないのである。言い換えば、徹頭徹尾、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性ゆえに、また~と人間との無限の質的差異における~であるがゆえに、また人間の自己意識・理性・思惟によって対象化されてしまう~ではないがゆえに、また人間自身教会自身の裁量事項における「わがまま勝手」勝手気ままな「存在者レベルでの~」(さまざまな偶像)となることはない~であるがゆえに、また最後的に政治的近代国家へと馳せ下る自然神学的な世俗主義的な共同宗教としてのキリスト教における~となることはない~であるがゆえに、「われわれはいかなる意味でも(≪起源的な第一の形態の≫)絶対的な他律性について語ることはできないのである」、語ることは不可能なのである。したがって、「われわれ」は、終末論的限界の下で、具体的なイエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性とイエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性とによって「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と「自由」を賦与され装備された、教会(その全成員)の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である第二の形態の聖書的啓示証言を媒介することを通して、「絶対的な他律性」について間接的媒介的反復的に語ることができるだけなのである。したがってまた、「われわれは、ここで(≪第二の形態の聖書的啓示証言において≫)権威と呼ばれるべきすべてのことを通し貫いて、~の言葉の唯一の権威を仰ぎ見るのである。このような訳で、「われわれ」は、「教会は先ず第一に、……(≪第一の形態に、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に≫)聞く教会(≪聞き教えられる教会≫)であり、それから初めて、そのような聞く教会(≪聞き教えられる教会≫)としてまた教える教会(≪第三の形態≫)でもあると主張する……」のである。このような訳でまた、起源的な第一の形態であるイエス・キリストは、具体的には第二の形態である聖書的啓示証言は、第三の形態の徹頭徹尾人間的な教会の客観的な信仰告白・教義における「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」なのである。したがって、教会の「教義」は、人間に対して「人間的な教育的な威厳」はあるとしても、「いかなる神的な威厳」も持ってはいないのである。
(1)
教会の宣教に対して「連帯責任性」を持ち、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である教義学に対する「最初の……具体的な要求」は、「教義学の研究、命題、指示が聖書的な態度を持っていなければならない」という点にある。この聖書的な態度は、聖書的啓示証言を媒介することを通した啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比において、次のように言うことができる――それは、前述した「ちょうど神の言葉(≪起源的な第一の形態≫)としての聖書(≪第二の形態≫)の<絶対的な権威>から、(≪第三の形態における≫)聖書的聖典の相対的な権威が生じて来るように、(≪第二の形態の≫)預言者的――使徒的証言に対する信仰の服従(≪第二の形態の聖書に聞き教えられ服従する、信頼し固執する≫)という絶対的な要求から、この信仰の服従に対応する(≪第三の形態における≫)(思惟と語りの)原則的な態度という相対的な要求が生じて来る」ということに対する認識と自覚(態度)にある。このような「態度こそが、われわれが教義学の聖書性、あるいは聖書的態度として特徴づけ、理解しなければならないところのものである」。なぜならば、「われわれ」は、「その原型および模範をほかならぬ聖書の証人たち自身の中にもっているからである」、聖書的啓示証言者、預言者および使徒たちの中に持っているからである。したがって、聖書的な態度は、その「原型および模範」に「よく注意を払い、真似ることから成り立っている」のである。言い換えれば、教会の説教者、また教義学者における聖書的な態度は、その「心の基本姿勢、問いの出し方、答え方」において、「原則的に」、聖書的啓示証言者たちの「心の基本姿勢、問いの出し方、答え方」との「同型性」を志向し目指し「打ち立てることから成り立っている」のである。なぜならば、第一の形態に、具体的には第二の形態である聖書的啓示証言に聞き教えられることによって教えることができるようになる「教える教会」は、「自分自身あらたに聖書的な態度をとる」ことによって、「~の言葉を(≪具体的には、第二の形態を媒介することによって、すなわち第二の形態に聞き教えられることによって≫)新しく聞くことができるからである」・~の言葉に教えられることができるからである。このような訳で、その「教える教会」は、「~の言葉を聞くように呼びかけられる時、具体的ニハまさに聖書的な態度をとるように(≪具体的には第二の形態である聖書的啓示証言に聞き教えられるように≫)と呼びかけられなければならないのである」。
さて、「聖書的証人の態度」――すなわちその「思惟と語りの方向づけ」について言えば、第三の形態に属する証人たちのそれは、それぞれにさまざまな風貌、資質、生活、感情、嗜好、社会的地位、思想、「歴史的、心理学的、政治的、哲学的」傾向、価値基準、行動、意志等を持って、ある歴史的な社会構成・支配構成・文明的文化的構成の時代水準のただ中に現存しているのであるが、にもかかわらず彼らには一貫した「根本的な態度が存在している」のであって、その「根本的な態度」、その「根本的」な「彼らの思惟と語りの方向づけ」は、彼らが、第三の形態に属する「神の啓示についての証人」として、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態である聖書的啓示証言に聞き教えられるという点にあるのである。したがって、第三の形態に属する「彼らの思惟と語りの方向づけ」は、「観察者、報告者、弁証論者、党員」、党派(教派、最後的には政治的近代国家へと馳せ下る自然神学的な世俗主義的な共同宗教としてのキリスト教、組織的集団、学派、思想傾向、時流や時勢、即自的な僧や俗、社会的政治的な言説や実践)主義者としての「方向づけではない」のである。「聖書的な証人自身の態度」を生きる第三の形態における彼らは、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態である聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して、「全世界の前で~について証しし、それと共に~はイエス・キリストにあってその民に向かって語り給うたし、行動し給うたということ、どのように語り給い、行動し給うたかということを証言することができるし、証言すべき」なのである。言い換えれば、「聖書的な証人自身の態度」を生きる第三の形態における彼ら「聖書的証人たち」は、自らの「由来」と、それと同時に、その態度について、絶えず繰り返し、一方で、第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることによって、他方で、再び新たにあの「聖書的な態度」へと向かうようにという「要求」を認識させられ自覚させられることによって、この「二重」性の下で、的確に自己「反省的吟味」、自己批判、自己否定し訂正して、「思惟と語り」を行うのである。したがって、そこにおいて、哲学的、人間学的な「反省的な思惟」、語り、「議論」を為すとしても、その思惟と語りと議論が、「その者を証人とする訳ではないのである」。第二の形態の予言者および使徒たちは、起源的な第一の形態であるイエス・キリスト、キリストにあっての神を「信じ、それゆえに語る」ということを為したがゆえに、第二の形態の「彼ら」は、起源的な第一の形態である「神の啓示についての証人」となったのである。「この態度こそ」が、「教会の宣教の範例としての教義学にとって標準でなければならない」のである、「教義学の第一の、具体的な形式原理である」のである。したがって、第三の形態に生きる「われわれ」、教会の宣教、教義学は、具体的に第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して・第二の形態に聞き教えられることを通して、起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指すという仕方によって、そういう仕方における思惟と語りを為すことによって、「神の啓示についての証人」となることができるのである、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すことによって、そういう思惟と語り(行為)を為すことによって、「神の啓示についての証人」となることができるのである。このような訳で、第三の形態である「教義学者は、教会の説教者についてもそれと同じことが言えるのであるが、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストに唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態である≫)預言者と使徒が啓示の証人であったのと同じ意味で、啓示の証人であることはできない」のである。このバルトの概念からだけでも、タイトルのかっこよさだけを前面に出した富岡幸一郎の『使徒的人間――カール・バルト』が、その自然神学論を含めて、使徒概念の使用についてもいかに根本的包括的な原理的な誤謬を犯しているかが分かるであろう、富岡のその知識性・思想性の質の悪さが分かるであろう。富岡は、バルトを根本的包括的に原理的に認識し理解しないまま、ただバルトの一部を拡大鏡にかけて全体化して述べただけなのである。第三の形態の教会の宣教、説教者、教義学者においては、第一の形態の啓示の「真理」は、第一の形態の「~、裁判官である神のみ顔の前」で、「(≪第二の形態の≫)預言者と使徒によって(≪第三の形態の≫)われわれに知らされた通りの仕方で聞かれ(≪教えられ≫)なければならないのである」。したがって、第三の形態の教会の宣教、説教者、教義学者においては、第一の形態の啓示の真理は、第二の形態の「預言者と使徒たちが為した証言」についての「証人」という「態度の中でのみ」、それゆえに第二の形態を「繰り返す証人」・反復する証人という「態度の中でのみ」、聞くことができるのである。こういう仕方で、第二の形態に聞き教えられることによって教えることができる「教える教会」は、そのような「証人として語るように呼び召されている」のである。「人が教義学的な思惟と語りから」、その資質、生活、感情、嗜好、社会的地位、思想、「歴史的、心理学的、政治的、哲学的」傾向、価値基準、行動、意志等の「人間的な性格を取り去ってしまうことができないことが確かである限り」、「この事情を認識」し自覚しつつ、「教義学的な思惟と語りの内部」において、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、「必然性」として不可避性として、客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を「認め、そのような秩序をして力を奮わしめるということ……は可能」なのであって、それゆえにこの客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性が持っている「この可能性こそが聖書的態度」、「根本的」な「思惟と語りの方向づけ」を「取るようにという要求を意味あるものとしているのである」。なぜならば、教義学的な思惟と語りは、第三の形態自身と世に対して、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態が、具体的には第二の形態が、「必然性」として不可避性として、客観的な対象として与えられ存在しているがゆえに、その「人間的な被制約性全体の中で為される」思惟と語りにもかかわらず、それら「いずれの観点」にも「拘束されて」いない思惟と語りであり得るのであって、それゆえにそれは、あくまでも「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態である聖書的啓示証言に「拘束されている」思惟と語りなのである。このような訳で、「たとえ一瞬たりともここでは」、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」(『教会教義学 ~の言葉T/1』)から、「仮説」としてのみ「適用」・利用することができる「人間、歴史、経験、存在、認識についてのあらかじめ心に抱かれた見方や概念から」は、「~のところに来てはならない」のであって、すなわち「~のところに来」ることはできないのであって、換言すれば「(≪起源的な第一の形態である≫)キリストにあっての神の啓示について思惟し語ることはできない」のであって、それゆえに、あくまでも「~から、しかも(≪起源的な第一の形態である≫)~の言葉から」、すなわち三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として可視的に存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態から、換言すれば「われわれは人間であって神自身ではないがゆえに、われわれに対して啓示された~の言葉(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト≫)から、しかも(≪第三の形態である≫)われわれ自身は、(≪第二の形態である≫)予言者や使徒でないのであるから」、具体的には「その(≪第二の形態の≫)聖書的な証言の中での~の啓示された言葉から、思惟し語られ」なければならないのである。したがって、バルトは、『バルトとの対話』で、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」と述べたのである。したがってまた、その現にあるがままの現実的な人間存在として現存する人間的な第三の形態に属する教会の説教者・教義学者・著述家等の全成員)は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命され、その人間性と共に神性を賦与され装備された「予言者や使徒でないのであるから」、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられるということを通して、的確な自己「反省的吟味」・「自己否定」・自己「批判」と「訂正」を為し続けていかなければならないのである。現存する人間的な教会の宣教を、人間自身教会自身の裁量事項として、「わがまま勝手に」勝手気ままに、固定化し実体化させてしまってはならないのである。第三の形態である人間的な教会は、絶えず繰り返し、第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることによって、すなわちそういう仕方で教会となることによって、教会であろうとし続けなければならないのである。したがって、バルトは、「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)と述べたのであり、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師(≪著述家たち≫)の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)、と述べたのである。
教会の宣教に対して「連帯責任性」を持ち、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である「教義学に対して向けられなければならない聖書的な態度という要求は、ハイデルベルク信仰問答の問九四と九五の答えでもって最もよくまとめて表現されている」――@「主は、第一戒において、……わたしが、自分の魂のために、救いと祝福を、失うことがないように、一切の偶像崇拝、魔術、迷信による祈り、諸聖人やその他の被造物の名を呼ぶことを避け、逃れて、ただひとりのまことの神を、正しく認め、この神にのみ依り頼み、あらゆる謙遜と忍耐とをもって、この~からのみ、すべてのよきものを待ち望み、また、これを、心より愛し、畏れ、崇め」ることを「お求めになって」いる。因みに「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執し生き思惟し語ったバルトは、『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』で、次のように述べている――「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するべきである。したがって、バルトは、議会制民主主義、資本主義社会(近代市民社会)――政治的近代国家の枠組みにおける、体制側からする上からの構造改革にも、マルクス<主義>的な下からの構造改革にも、それゆえに政治的近代国家の法的言語や政策的言語にも、与することは決してしないのである、それらから対象的になって距離を取っているのである。「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である。したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)、「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、 神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているという ことを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪議会制民主主義、資本主義社会・近代市民社会――政治的近代国家の枠組み、その枠組みにおける上からのあるいは下からの構造改革論、政治的近代国家における法的言語や政策的言語≫)のともがらと成ることができようか(『教義学要綱』)、このバルトの思惟と語りは、全く質の悪い昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」と比較考量して見るとき、この両者の思惟・語りとバルトの思惟・語りの間には質的に雲泥の差があるのであって、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯したバルトのそれは、その神学性、その宣教性、その知識性、その思想性において、普遍的な質の良さを保持していることを明確に知ることができるのである、A「偶像とは……み言葉によって、ご自分を現して下さった~の代わりに、また、これと同列に、人間が信頼を置くべきものとして、他のものを、考え出したり、持ったりすること」である。
「人はよく注意せよ」――「ここではあれらすべての観点(≪前述したあの限界づけの下で、仮説として自由に適用し使用できる「人間、歴史、経験、存在、認識についての……見方や概念」≫)のもとで可能な(聖書的な証言の内容に対しての)批判と懐疑を厳禁し、沈黙させてしまうことが問題ではないのである」・なぜならば、教義学においては、「むしろそのような批判は、……自由に発言の機会を与えられなければならない」のである。「しかし、そのような批判は……常にただ、聖書の中で証しされている実在によって凌駕され、閉じ込められた批判として、発言することができるだけである」ということについて認識し自覚していなければならないのである。このような仕方で、「人間の抗弁に対しては、教義学の中ででは、広い範囲にわたって、その必要についての誠実な理解をもって、公正な仕方で取り組」むことができるのである。その良い例が、『教会教義学 ~の言葉T/1』における、バルトの次のようなキリスト論的集中における言説である――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(≪したがって、≫)(中略)人は、聖書が語っている受肉を、(≪三位一体論の唯一の啓示の類比として~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における≫)ただ(≪第二の形態である≫)聖書からのみ、換言すれば(≪起源的な第一の形態である≫)イエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。いずれにしても、教義学は、「(≪徹頭徹尾≫)ただ~だけが正しくあり給うことができるゆえに、……人間の抗弁は、結局最後的には正しいものではないという」その人間の抗弁における<限界性>についての認識と自覚を堅持することが必要なのである。「人はさらに次のことに注意せよ」――~と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする、それゆえに不把握性を本質としている「~の実在」は、その「~ご自身の自己啓示」を持っており、その~の言葉の自己運動を持っており、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力と聖霊の証しの力を持っており、客観的な啓示の出来事とその「啓示の出来事の中での主観的側面」――聖霊の注ぎによる信仰の出来事、すなわち人間的主観に実現された神の恵みの出来事、すなわち人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の主観的現実化(授与)を持っており、この~の言葉の自己運動による客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、具体的には第二の形態を持っており、それゆえに人は、終末論的限界の下で、絶えず繰り返し、その第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられるように呼びかけられ要求されているのであるから、「教義学者にとっても、説教者にとっても、そもそも人間にとってそうであるように、(例えば論理的な公理という形で)先取りされて自由に処理され得るもの」ではないのであり、それゆえに「体系的な前もっての決断の中で、立てられている個々の問題に対する個々の答えを先取りするという」ことはできないのである。言い換えれば、教義学者、説教者は、「自分自身の問に対して答えなければならないのではなく」、「神の啓示を通して立てられている問に対して答えなければならないということ」、すなわち教義学における「すべての問と答え」の「一つの公分母」であり、すべての問と答えを「包括している」「見捨てることのできない地盤」であり、「ちょうど物質的な現象や生物的な現象が自然科学に対して現実に前もって与えられているように」客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、具体的には第二の形態を通して立てられている「問に対して答えなければならない」のである。このように述べているバルトは、『ローマ書』における次の言葉に信頼と確信を置いているのである――第二の形態である「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる(≪人間自身教会自身のわがまま勝手や≫)偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」。このように述べるバルトは、非自立的で中途半端な人間学的神学者あるいは神学的人間学者であるルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健たちのように、近代を生きる人間には近代主義的な「人間の経験」の尊重が必要である、というような通俗的な思惟や語りをしないのである。すべてのキリスト者を含めて、私たちその現にあるがままの人間の現実存在は、いつもキリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続けていないだろうか、罪を新たな罪を犯していないであろうか、イエス・キリストにのみ感謝を持って信頼し固執し生きているだろうか、私たち人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求のただ中に生きているのではないだろうか、不信仰・無神性・真実の罪のただ中に生きているのではないだろうか。したがって、私は、バルトと同じように、次のようにしか告白できないのである――@「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して(≪ローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格を、~と人間との共働論・協働論・混合論・折衷論において理解し、それゆえに目的格的属格として理解して≫)神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪「イエス・キリストの信仰」の属格を、先ず以て第一義的に~の側の真実としてのみ理解し、それゆえに主格的属格として理解して≫)神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>〉ということである)』」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)、A「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が 欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を「持っている」、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪意志力等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。「人はさらに次のことに注意せよ」――教義学にとって「聖書的態度」とは、「教義学者が、すべてのそのほかのキリスト信者と共に、彼の働きのために与えられる聖霊の賜物として、まさに信じ、常に新しく願い求めることができるだけであるような信仰の確かさそのものについて語っている」のではなくて、換言すれば「人が信仰の確かさの前提のもとで」、「差し当たって」その「信仰の確かさの問題をそのままにしておいて」、「先ず聖書」において――すなわち「聖書そのものを読み、注釈すること」において、それから「教会の学校」において――すなわち「少しばかりの、ほかの注釈家、説教者、教義学者の模範というもの」において、「学ばなければならず」、「また指示を受けつつ、習練を通して、実際に学ぶことができる」ところの、「特定の思惟形式」のことなのである。したがって、バルトは、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである(『啓示・教会・神学』)。これらの作業においてバルトが発見したのは、「聖書の主題であり哲学の要旨である」~と人間との無限の質的差異であり(『ローマ書』)、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性であり、それゆえに終末論的限界の概念である(『教会教義学 ~の言葉T/1』)、またローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格の主格的属格理解である(『福音と律法』)、また「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・聖霊によって更新された理性も聖霊ではないという教説である(『教義学要項』)、人間の神化・~の人間化の原理を発見したヘーゲル哲学に対する根本的包括的な原理的な批判としての「自由、主権は、~ご自身においてのみ実在であり真理である」という教説である(『教会教義学 ~の言葉T/1』)、また聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が、教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのであるという教説である、また「必然性」として不可避性としてある、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態――すなわちキリスト教会の主・頭であるイエス・キリストが、具体的には第二の形態――すなわちキリスト教会に宣教を義務づけている聖書的啓示証言が、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者であるという教説(『教会教義学 ~の言葉T/1』)、等々である。
「最後に人は次のことに注意せよ」――「教義学が取るべき聖書的態度という要求は、聖書本文を表現し直し、説明する課題と混同されてはならない」。なぜならば、聖書注釈は教義学の「決定的な前提であり、源泉である」が、聖書注釈は釈義神学の課題に属するからである。しかし、教会(その全成員)の宣教に対して、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることによって教えることを呼びかけ要求する教義学は、「教える教会に対して、(≪第二の形態である≫)聖書の注釈に立ち返らせという課題を持っている」。言い換えれば、釈義神学と実践神学を統括する教義学は、「直接聖書本文と取り組んで作業するのではなく」・「聖書本文の証言に基づく教会の宣教の言葉と取り組んで作業する」教義学は、「教える教会の中で、聖書に基づき、ただ単に表現し直し、説明するだけでなく、また適用しつつ、その限り生み出しつつ遂行される宣教に対する、「教える教会」自身も為すべき「聖書的態度の中で遂行される」、換言すれば「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態を、具体的には第二の形態を媒介することを通して為される、換言すれば第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることを通して為される、的確な「吟味、批判、訂正」である。これが、教義学における「統一性の中での相違性」である。
このような訳で、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態に属する教会の宣教に対する「連帯責任性」を持ち、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である教義学は、第二の形態である「聖書に聞き、聖書に基づいて教える教会の中で発生したがゆえに」、釈義神学における「問いと関心事」ではないところの「問いと関心事」を、第二の形態である「聖書に(≪絶えず繰り返し≫)立ち返ること(≪聞き教えられること≫)を直接要求することによってかなえることができる可能性」の中で追求していく「自由を持たなければならない」のである。言い換えれば、教義学は、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態に属する「教会的な学問として(≪第二の形態である≫)聖書の証言に(≪「わがまま勝手に」≫)対立しつつ自分自身の足」で「立つ自由を持ってはいない」のである。すなわち、第三の形態に属する教義学は、第二の形態である「聖書的証人たちの模範によって規定されている」「思惟と語り」の「必然的な」不可避的な「形式規定から身を引く自由を持ってはいない」のである、その形式規定を「わがまま勝手に」勝手気ままに後景へと退けたり排除してしまう自由を持ってはいないのである、それゆえに人間学に属する「歴史学的なあるいは心理学的、政治学的あるいは哲学的な教義学となっていく自由は持っていないのである」。したがって、教義学は、「聖書的な~ハ語リ給ウに対し服従することの中にその必然的な形式規定(≪「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態は、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、第二の形態を媒介することを通して、換言すれば第二の形態に聞き教えられることを通して、起源的な第一の形態と間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指すというそれ、そういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すというそれ、そういう「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、~の命令・要求・要請、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えというそれ≫)を持っているがゆえに」、またその「教義学はこの、自分の必然的な形式規定をただ(≪第二の形態である≫)聖書本文と直面しつつ学ぶことができるだけであるがゆえに、それゆえに教義学はまた、別なもう一つの神学的課題、換言すれば聖書本文を言い換えて表現し、説明するという課題と絶えず接触することから(≪人は、不可避的に、ある歴史的な社会構成・支配構成・文明的文化的構成の時代水準、時代状況のただ中に生きることが強いられており、そのただ中において、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲」し、「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるから、教会の宣教、その全成員、説教、説教者、教義学、教義学者は、このことから≫)身を引くことはできない」のである。