『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「一 教義学の形式的課題」その2−2
『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』吉永正義訳、新教出版社に基づく
カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「一 教義学の形式的課題」(116−132頁) その2−2
引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)
二十三節 聞く教会の機能としての教義学
「聞く教会の機能としての教義学」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
教義学は、教える教会に対して、聖書の中に証しされた啓示の~の言葉を新しく聞くよう呼びかける。しかしそのことを教義学は、ただ、教義学の側でも、自分自身聞く教会の立場を取り、それであるから教義学自身、規準――聞く教会がそのようなものとして、その下に置かれているのを知っている規準――としての~の言葉に聞き従う間に(≪indem――井上良雄的に「聞き従うことによって」≫)、なすことができる。(103頁)
〔この定式の詳述〕
この定式の詳述については、<カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』「二十三節 聞く教会の機能としての教義学」「一 教義学の形式的課題」その2−1>で行っていますので、参照してください。
註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。
一 教義学の形式的課題(その2−2)
「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白 し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉 が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」――自主性・自己主張・自己義認の欲求から離れ去ることができない、換言すれば不信仰・無神性・真実の罪(『福音と律法』)のただ中に現存している、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間的な教会(その全成員)の宣教は、聖書的啓示証言によれば、現実の事実として、その最初から、それ自体として自律的に、決して「純粋な教え」を教える教会となることはできないのである。この、できないということが避けられない現実の事実であるならば、またそのことが現実の事実である以上、イエス・キリストを主・頭とするキリスト教会(その全成員)の宣教は、徹頭徹尾、終末論的限界の下で<絶えず繰り返し>、「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として可視的に存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第二の形態であるその人間性と共に神性を装備され賦与された直接的な最初の第一の予言者および使徒たちの聖書的啓示証言、すなわち啓示の「概念の実在」である聖書を媒介・反復することを通して、すなわち聖書に聞き教えられることを通して、起源的な第一の形態である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、~の言葉、すなわち「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指さなければならないのである――こういう仕方で、キリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」における「純粋な教え」を志向し目指さなければならないのである。聖書によって宣教を義務づけられている第三の形態であるキリスト教会は、そういう仕方で、<絶えず繰り返し>、教会となることによって教会であろうとしなければならないのである。生きたキリスト教会は、常に、この途上的な運動過程において存在しているのであるから、人間自身教会自身の裁量事項において教会を、固定的に実体化させることはできないのである。すなわち、全キリスト教、全キリスト教会、その全成員は、<絶えず繰り返し>、「その都度」、第一の形態に、具体的には第二の形態に、「常に新しく聞くこと(≪聞き教えられること≫)を……必要としているのである」。教会の宣教について「もともと人間が為す限り完全な業」ではあり得ないのであるから、全キリスト教、全キリスト教会、その全成員のその存在・その思惟・その実践において宣教が「正しく為されるため」の「武器」は、徹頭徹尾一切の天然自然や人間的自然には全く左右されることがないところの、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、~の言葉自身の自己運動――啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト、具体的には第二の形態、すなわちその人間性と共に神性を装備され賦与された直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言であり、それに聞き教えられること、である。なぜならば、キリスト教会(その全成員)の宣教が「正しく為されるため」には、「必然性」として、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態の教会(その全成員)は、終末論的限界の下で<絶えず繰り返し>、「教会が〔由来し〕来たところの」第一の形態の教会の主・頭であり教会の宣教における「第一義的に優位に立つ原理」であるイエス・キリストに、具体的にはそのイエス・キリスト共に教会に宣教を義務づけている教会の宣教における原理である第二の形態の聖書的啓示証言に、「聞かなければならない」からである、「教えられ」なければならないからである。このような仕方でのみ、教会(その全成員)は、初めて、教える教会となるこができるからである。したがって、そのような仕方で、教会(その全成員)は、終末論的限界の下で<絶えず繰り返し>、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に、「聞き従うことによって」・教えられることによって、自己「反省的吟味」・自己批判・「自己否定を為し」て、再び「もう一度、出直」すということを・「もう一度始めからやり直」すということを「決心」しなければならないのである。したがってまた、第三の形態の教会(その全成員)の宣教が肉的にも霊的にも「健康になる」ということは、「教会の宣教が(≪近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観等々を媒介することによってではなく、あくまでも第一義的に「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き従い教えられることによって≫)純化される」ということなのである。すなわち、この「純化は、教会の宣教が(≪絶えず繰り返し、第一の形態に、具体的には第二の形態に≫)新しく聞」き教えられる「宣教となることから成り立っている」のである。言い換えれば、この純化の出来事は、第三の形態である教会(その全成員)の宣教のベクトルが、人間自身教会自身による「教える教会」を主とする主客転倒されたところでの「イエス・キリストを<教える>」という「方向」性から、起源的な第一の形態である「イエス・キリストに聞く」・イエス・キリストに「教えられる」という「方向」性へと「転換」することによって、具体的には第二の形態である直接的な最初の第一の聖書的啓示証言に「聞く」・聖書的啓示証言に「教えられる」という「方向」性へと「転換」することによって、惹き起こされるのである。したがって、教会(その全成員)の宣教に対して「連帯責任性」を持ち教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である教義学は、教会の宣教に対して、キリスト教会の宣教は、客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、すなわち~の言葉、「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストに、具体的には第二の形態、すなわち直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言に聞き従い教えられなければならないという「必然性」について・不可避性について「熟慮するよう……呼びかけなければならない」のである。言い換えれば、教義学は、教会(その全成員)の宣教が、終末論的限界の下で<絶えず繰り返し>、第一の形態に、具体的には第二の形態に「聞き」「教えられる」ことによって、自分の宣教に対して対象的になって距離をとり、その宣教について自己「反省的吟味」・自己批判・「自己否定を為」すよう「呼びかけなければならない」のである。ここに、教義学が果たすべき「形式的な課題」があるのである。このような教義学の「呼びかけ」によって、キリスト教会(その全成員)が、第一の形態に、具体的には第二の形態に、「必然性」として・不可避性として聞き教えられ「服する」時、教会(その全成員)は、そのことが「教会にとって意味し得るであろう慰めと力づけ」であるということを認識することができるのである。なぜならば、~の言葉は、~の側の真実としてのみあるから、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてあるから、それゆえに一切の天然自然や人間的自然に左右されることは全くないのであるから、それゆえにその~の言葉に対する人間自身教会自身の意識的無意識的なあるいは恣意的独断的な逸脱や排除や拒否や憎悪や無視あるいは自主性・自己主張・自己義認の欲求や不信仰・無神性・真実の罪にもかかわらず、~の言葉自身の自己運動における客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態が、具体的には第二の形態が、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、客観的な対象として存在し続けるから、である。すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」、「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスは、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」(『教会教義学 ~の言葉T/1』)からである、その都度の~の自由な恵みの決断により「ある特定の」人たちが、「全く特定の領域」で「ある特定の状況において」神の自己啓示を通して、すなわち客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与され、~の言葉に「参与」し、「神の言葉」を聞き、「神の言葉」に教えられ、そして語る「責任ある証人」となる出来事が惹き起こされるからである。キリスト教会の宣教にとって「必然性」としてある・不可避性としてある「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態において、具体的には直接的な最初の第一の第二の形態において、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている…… 時、正しい内容を持っている」のであり、 「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」なのである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。したがって、バルトは、一方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」続けながら、他方で、その信仰・神学・教会の宣教におけるその存在・その思惟・その実践に、個性や時代性を刻んだのである(『啓示・教会・神学』)。したがってまた、「キリスト教的終末論はキリスト論」であって「キリストからすべてのことを期待しなければならない」からキリスト論的集中において「イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊」――~はこのような三位一体の神として自己啓示するという啓示認識・啓示信仰に固執して非僧非俗を自覚的に生きたバルトは、その他の多くの神学者や牧師やキリスト教的著述家たちのように、キリスト教、キリスト教会、その全成員を、人間によって対象化された自己意識の類的本質としての「存在者レベルでの~への信仰」(偶像崇拝としての宗教)におけるそれへと解消・解体させたり、宗教一般へと解消・解体させたり、諸矛盾や諸利害の対立が起こればすぐに瓦解してしまうところの寛容主義あるいは多元主義あるいは折衷主義によって位置づけたりは決してしないのである。なぜならば、思想的に肝要なことは、次の点にあるからである――それは、@「(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、~の側の真実としてのみある・それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和、「啓示の実在」そのもの、具体的にはその人間性と共に神性を装備され賦与された直接的な最初の第一の預言者および使徒たちの聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派、最後的には政治的近代国家へと馳せ下る自然神学的な世俗主義的な共同宗教としてのキリスト教、非キリスト教、学派、思想傾向、時流や時勢、即自的な僧や俗、社会的政治的な言説や実践≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉T/1』)という点にある、A「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、「自らの立場」において、「両者」を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である(吉本隆明『思想の基準をめぐって』)・「思想は物質ではなく外化された観念であるということを、かれ(≪マルクス≫)の敵たち」は「理解しなかった……」、したがってその「自称革命集団には……(≪マルクスの思想を埋葬することは≫)不可能だ」った、なぜならば、「思想は物質ではなく外化された観念」であり、この「観念の運動は観念によってしか埋葬されず、甲の観念は、乙の観念がそれを包括し、止揚することによってしか、いいかえれば甲の観念を生かして袋に入れることによってしか」、換言すれば<否定的>に媒介することによってしか、「亡びない」からである(『カール・マルクス』)、という点にある。このような真剣な誠実な思想的営為は、身近な前回論じたバルトから例を引き寄せることができる――「ローマ・カトリック神学の用語から由来している」「教える教会」を主とする主客転倒された「教える教会と聞く教会」という「区別」は、それを<否定的>に媒介するならば、すなわちキリスト教会とその全成員が、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書的啓示証言(客観的な対象として存在している直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリスト(客観的な対象として存在している~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの)と間接的媒介的反復的に同一となるという仕方で教会の宣教における純粋な教えを志向し目指すならば、「聖書的にも根拠のある区別であって」、教会の宣教における「奉仕の二重の規定を記述していく上の前提」となり得る概念である。このような訳で、ローマ・カトリック的な概念的適用に対して「われわれは……(≪その≫)二つの概念の順序をひっくり返」して、「教会は先ず第一に、……(≪第一の形態に、具体的には第二の形態に≫)聞く教会(≪教えられる教会≫)であり、それから初めて、そのような聞く教会(≪教えられる教会≫)としてまた教える教会(≪第三の形態≫)でもあると主張する……」。
このような訳で、教える教会は、教会の宣教に対して「連帯責任性」を持ち教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性の「必然性」・不可避性を認識し自覚した教義学からの「教会の主であるイエス・キリストが語り給うことに耳を傾けるように」との「呼びかけ」に対して、換言すれば第一の形態に、具体的には第二の形態に、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「聞く」ように・「教えられる」ようにとの「呼びかけ」に対して、耳を閉ざして「拒んで」はならないのである。なぜならば、先ず以て~の側の真実として「~の言葉が肉となった」こと(第一の形態)によって、そして直接的な最初の第一の「預言者的――使徒的証言が人間の世界の中で聞かれるようになった」こと(第二の形態)によって、初めて、第三の形態である「教会自身がこの出来事に基づき、この出来事の力を通して、発生し、存続する」ことによって、換言すれば客観的な対象として存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態を、具体的には第二の形態を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とすることによって、そして第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることによって、「それから初めて」、教えることができるようになるところの教える教会は、「イエス・キリストがそのただ中に現臨し、その中で語ろうと欲し給い、このイエス・キリストの現臨と語りこそ教会の生命であり、教会は、イエス・キリストの中で、イエス・キリストを通して生きつつ、世の光であるという約束……を持」つことができるからである。この「法則」は、「パウロがコロサイ四・一七でアルキポに、(≪聞き教えられることによって≫)『主にあって受けた務をよく果たすように』と命じている言葉」で総括することができる。この法則が、「教会の中で、教会によって、繰り返し聞かれる」時、教会は、「地上的なからだとして」、「自分の天的なかしらに対して」、すなわち教会の主・頭であるイエス・キリストに対して、「必然性」・不可避性としてある「当然帰すべき誉れを帰」すことができるのである。この、聞き教えられることによって「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」(『説教の本質と実際』)、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、 教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」(『福音と律法』)は、先ず以て第一義的に、「~がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために」、すなわち個体的自己としての全人間のために「キリストは死に、甦られた」――「インマヌエル、~われらと共にいます」ということである(『説教の本質と実際』)、換言すれば「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に「聞くこと」によって・「教えられること」によってキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、~の命令・要求・要請、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えにある(『福音と律法』)。マタイ26・6―13やマルコ14・3―9にある、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的観点(市民的観点、市民的常識、通俗的観点)からする、緊急的過渡的課題としての相対的一面的固定的な救済の言葉に対する、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエスの、女が「するままにさせておきなさい」(マルコ)・「なぜ、この人(≪この、~の言葉への奉仕、その存在・その思惟・その実践におけるイエスのそばまで行き聞き教えられることを通してその福音の告白・証し・宣べ伝えへと向かおうとする行為、すなわちキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」、良いこと、実践、務め、をする人――ここで、教会の宣教、その全成員は、キリスト論的集中から逸脱した自己愛の外化としてのキリスト教的隣人愛が、何度も述べているのだがイザベラ・バードが『日本奥地紀行』で書いているように、人類史の原型・母型・母胎の名残をとどめたアイヌの精神の内在性より劣っているという現実の事実を認識し自覚することが必要なのである≫)を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(マタイ、マルコ)という言葉は、還相的な究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の言葉である。教える教会の宣教は、絶えず繰り返し、この聖書的啓示証言に聞き教えられなければならないのである。その時、その奉仕は、「主から受けた」、主に対する「奉仕である」、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「主の現臨と主ご自身の語りに対応する奉仕である」。この時、佐藤優が、『はじめての宗教論』で、市民的観点・市民的常識・通俗性に依拠して、形而上学的一面的固定的抽象的に、「究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察 」(『右巻』)すると述べて、神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済」・「具体的な人間の救済です」・「人類という抽象的なものの救済ではありません」と述べた時、佐藤の知識性・思想性の資の悪さを知ることができるのである。それに対して、一部の身近な農民の幸福のために身も心も尽した宮沢賢治が、『よだかの星』で全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない・全体が幸せにならなければほんとうの個人の幸せはやってこないという課題を自覚し、また『農業芸術概論綱要』で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べた時、賢治の知識性・思想性の質の良さを知ることができるのである。さらに言えば、この時、佐藤のような二、三流の知識性・思想性の言葉の質、と、賢治のような一流の知識性・思想性の言葉の質の差異性を知ることができるのである。
さて、教会の宣教が、「服従から逸脱して行く瞬間」、すなわちその奉仕が「主から受けた」主に対する「奉仕」でなくなる瞬間、それは「どこに向かって逸脱して行く」かと言えば、「原則的に……我意へ、……教会の中に集められた人間の業による義」へ、道徳的倫理的実践へ、社会的政治的実践へ、「それと共にまた避けられない仕方で偶像崇拝」へ「向かって」逸脱していくのである、人間自身教会自身の自主性・自己主張・自己義認の欲求へ、それゆえに不信仰・無神性・真実の罪へ「向かって」逸脱していくのである。言い換えれば、この時、「その発生において」は「いまだかっていかなる異端も……意図的に異端であろうとしたためしはない」としても、「教会の中での人間」が、多かれ少なかれ、「~なしに~の言葉を持とうとし」、換言すれば「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられるということを後景へと退けあるいは排除する時、それゆえに人間自身教会自身が「~の言葉を自分の手に牛耳り、自分がよしと見るところに従って勝手に理解し、適用しようとする」時、イエス・キリストを主・頭とする教会でなくなる「危険」を犯すのである。したがって、キリスト教的な異端は、「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられようとする「服従からの最初の意図的な逸脱」に対して、「適当な時期に」逸脱として認識され自覚され「防止されなかった時に、……そのようなところで、初めて異端」の陥穽に陥るのである。したがって、教会(その全成員)は、「明らかな異端が既に登場してしまった後」で、「初めて、自分の行為と教えがイエス・キリストの奉仕として正しいものであろうと努め、……新しく聞こうとするようなことがあってはならないのである」、換言すれば教会(その全成員)は、~の言葉自身の自己運動において「必然性」としてある、それゆえに教会の宣教にとって不可避的な「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられるようにという「呼びかけ」・その「服従」から逸脱したところの、すなわち「イエス・キリストの名」を形骸化させる人間自身教会自身の恣意的独断的な「意志」と「支配」が教会の宣教の言葉となったところの、異端や教会の宣教と同じ轍を踏んではならないのである。このような訳で、教会の宣教に対して「連帯責任性」を持ち教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である「教義学の本来的に形式的な課題」は、「異端以前の逸脱に対してなされる」点にあるのである。すなわち、それは、「誤謬」の段階に対して為される点にあるのである。したがって、「そのような逸脱の可能性に対して、教義学は、(≪絶えず繰り返し、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態を媒介・反復することを通して≫)イエス・キリストの声を聞く可能性を思い出させるのである」、想起させるのである。したがって、「教義学者(≪教会の全成員≫)は(≪第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることを通して≫)自分が教える教会と連帯責任的に結ばれていることを知らなければならない」のである。この時、その「教義学者」は、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるということを認識し自覚するのである。この「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「真理」(起源的な第一の形態であるイエス・キリスト、具体的には第二の形態である直接的な最初の第一の聖書的啓示証言)は、「ただ、その業がそれだけ喜びをもってなされて行くためにだけ、美しいのである」。真理の業(~の言葉自身の自己運動)において、「喜びをもって」、第一の形態に、具体的には第二の形態に、絶えず繰り返し聞き教えられることを通して、キリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すこと、イエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となることを志向し目指すこと、「純粋な教え」を志向し目指すこと、その「~への愛」を根拠とした「~の賛美」としての「隣人愛」、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すこと――それは、「美しいのである」。したがって、「真理が、決断に向かって呼び出す代わりに、観照の対象となるならば、その時その真理はもはや真理ではないであろう」。このバルトは、言葉と行為、宣教Aと宣教B、説教と社会的政治的実践というような二元論においてでは決してなく、この「美しい」「真理」について、「かつて語った説教(≪言葉≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」(『バルトの生涯』)、と言うのである 。また、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)という教説は、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられるようにという「呼びかけ」・その「服従」からの逸脱なのである、宗教一般への解消・解体なのである。徹頭徹尾、一切の天然自然や人間的自然に左右されないところの、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性が、バルトの対自的で対他的な自由における「ユーモア」の概念の根拠である。
さて、「教える教会があらゆる事情のもとで教義学によって聞かされなければならない第一のこと」は、客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に、<絶えず繰り返し>聞き教えられることが「必然性」・不可避性としてあるから、<絶えず繰り返し>それに聞き教えられるようにという「呼びかけ」・その「服従」である。言い換えれば、教義学は、教会(その全成員)に対して、「教会はその功績やふさわしさなしにも」、絶えず繰り返し聞き教えられることができる客観的な対象として存在している第一の形態、具体的には第二の形態という「良きみ手に守られており、その限り正しい道にある」ということを「想起」させるところにある、すなわち教会の宣教に対する客観的な対象として存在している原理・規準・法廷・審判者・支配者である第一の形態、具体的には第二の形態という「良きみ手に守られており、その限り正しい道にある」ということを「想起」させるところにある。この「第一の前提から……教義学」は、第二の前提、すなわち「教会の中にいる人間(教義学者自身、ほかの者、すべての者)は誤り得るということ……服従からすべり落ちる……可能性に晒されているということ……を公に認め告白する」点にあるのである。したがって、第一の前提からする教義学の第三の前提は、客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられることによって、第三の形態の「教える教会は~の言葉を新しく聞くことができるし、聞こうと欲する」ことができるという点にあるのである。なぜならば、第二の前提から、「教義学が教える教会に対してなす要求」は、「教会は最後的には、(≪終末論的限界の下で絶えず繰り返し、客観的な対象として可視的に存在している第一の形態に、具体的には第二の形態に≫)聞く以外のこと(≪聞き教えられる以外のこと≫)はできないということ……を前提としなければならない」からである。したがって、教会の宣教に対して「連帯責任性」を持ち教会の宣教の補助的奉仕であり一つの機能である教義学は、「福音主義的教義学として」、客観的な対象として存在している、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられるという仕方において、「教える教会」を主とする主客転倒された「教える教会と聞く教会」という区別を為すローマ・カトリック主義を、また人間自身教会自身の恣意的独断的な「自己表現としての宣教」を志向し目指す新プロテスタント主義を、最後的には政治的近代国家へと馳せ下る世俗主義的な共同宗教としてキリスト教を、<否定的>に媒介することによって包括し止揚し克服していかなければならないのである。したがってまた、「新しい異端」を「特徴づける」こと・「確かめ」ること・「追放すること」、「教会の中での特定の人物と思想方向を自分の力で(≪「わがまま勝手」に恣意的独断的に≫)異端的だ」というように「特徴づける」ということ・「確かめ」ること・「追放する」ということは、教会の宣教に対して「連帯責任性」を持ち教会の宣教の補助的奉仕であり一つの機能である「教義学が為すべき事柄ではあり得ない」のである。言い換えれば、教義学が、「特定の教えの形態、人物、思想方向に対して論争的に相対して立たなければならない時」は、「ただ原則的に……それらのものに対して逸脱の危険、新しい異端が発生してくる危険を明らかにするという意味……を持つことができるだけ」なのである。例えば、次のようにである――近代主義的プロテスタント主義神学・教会の宣教が、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、第二の形態である聖書的啓示証言を媒介することを通して起源的な第一の形態であるイエス・キリストと間接的媒介的反復的に同一となるということを志向し目指すところの啓示認識・啓示信仰に生きようとするのではなく、現存する近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍等からする「視覚的錯覚」によるものであり、それゆえにその場合、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が自然神学的な思弁でしかないものなのである。したがって、その場合、聖書的啓示証言の中で、また教会の宣教の中で、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊――このような三位一体の~として自己啓示する単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、その「存在の本質」である<神性>を否定された神性否定のキリスト論、「下からの半神」、半神・半人キリスト論、「超人」、三神論、人間の「最深の本質」・「最高の理想」、キリスト教的実存の範型、社会的政治的実践の範型、すなわち単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまうのである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。そのアジア的日本的なキリスト教的言説の典型が、八木誠一の『イエス』である――八木は、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と断定的に述べ、イエスに本来的な人間存在の在り方・範型を見たのである。さらに八木は、滝沢克己と同じように、イエス・キリストの「存在の本質」である<神性>を棄揚してしまっただけでなく、さらにイエス・キリストの「存在の仕方」、<啓示・和解>、<神の言葉>性も棄揚してしまって、アジア的日本的な山川草木悉皆仏性論・草木国土悉皆仏性論を展開している天台本覚論に依拠しているように見える滝沢のインマヌエル論(「イエス・キリスト」の名、「聖書」、を後景へと退け排除したところの、「根本的事実」・「インマヌエルの事実」)に同調しているのである(1982年の南山大学主催滝沢講演後討論会)――「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神において永遠に決定されていることなのだ」(滝沢克己『カール・バルト研究』)。この場合、そのキリスト教は、まさしくフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの宗教としてのキリスト教批判の対象そのものなのである。それは、聖書的啓示証言、教会の宣教における~と人間との無限の質的差異における三位一体の~の、人間自身が対象化した「存在者レベルでの~」(偶像)への解消・解体である。吉本隆明も、八木の「信仰」について、次のように述べている(『<新約思想をどうとらえるか>吉本隆明/八木誠一』)――「八木さんの説明」における「信仰」は、「……あらゆる認識が、もし自分自身の体験、それから自分自身の資質というか、そういうものを全部根こそぎ動員して、認識というものを追究していくと出てくる問題と、あまり違わない」から、「それ宗教(≪「信仰」≫)と関係あるかな、ということですね。やはり納得できるようには思いません」、それ信仰ではなくて、それ哲学、人間学じゃないですか。因みに、バルトの「人の子」語句の理解は、次のように為されている――「『人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか』(マタイ一六・一三)と聞かれ、 ペテロ(教会の信仰告白)は『あなたは生ける神の子キリストです』と答えた」。「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」。「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい。単一性・神性・永遠性を本質とするその神性の受肉ではなく言葉の受肉(~の第二の存在の仕方、イエス・キリストの名)・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している(『教会教義学 ~の言葉T/1』)。
このような訳で、教会の宣教に対して「連帯責任性」を持ち教会の宣教の補助的奉仕であり一つの機能である教義学は、「特定の教えの形態、人物、思想方向に対して」、「決断を準備することはできる」のだが、しかし「決断を下そうとすることはできない」のである、「新しい決断を下」すのは、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、客観的な対象として存在している、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態に、具体的には第二の形態に聞き教えられ服従するという仕方で宣教し教えている「教会自身によって」である。因みに、なぜ終末論的限界の下でかと言えば、それは、聖性・秘義性・隠蔽性を本質としている~の不把握性によっている。言い換えれば、「何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」ためには、キリストの再臨、終末・救贖・完成、「われわれの経験と感性」にとって、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとって<いまだ>であるが、~の側の真実として、それゆえに客観的現実性・客観的実在として、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>というみ国の到来を、その啓示認識・啓示信仰の中で待たなければならないのである、「主よ、汝の王国の来たらんことを」(米川正夫訳『罪と罰』――マルメラードフの終末論的信仰告白)。バルトは、「昔の教会」における「異端という概念」内容とその対応について、次のように論じている――「ポラーヌスによれば」、「異端者」は、「キリストノ名ニオイテキリストヲ攻撃スルモノタチのことである」・「自発的ニカホカノ者ニヨッテソソノカサレテカ、トニカク自分デ間違ッタ教義ヲ選ビトリ、(聖書ト戦イ、信仰箇条ヲ攻撃シ、……)心ノ自発的ナ頑迷サヲモッテ、アクマデ頑固ニ固執スル反キリスト……ノコトである」。このような「頑固な意志」、「ここで記述されているようなことが教会の中で(あるいはおそらくそのときには直ちに、また自ラ、教会の外で)十分しばしば存在したし、今日に至るまで存在しているということ……を否定」することはできないとして、バルトは、キリスト者にある「頑固な意志」について、自らが現存した時代に引き寄せて次のようにも述べている――第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」・「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した・「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(『バルト自伝』)、と。このバルトは、@歴史<主義>における聖書の歴史認識の方法に対して、またA「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマンの聖書解釈の方法に対して、根本的包括的な原理的な批判を加えている――@歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語(史実史や神話ではないそれ、古潭、「史実史以前の歴史」、「原歴史」)とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」が、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜならば、啓示は、人間の類の時間・「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。キリストにあっての神の時間、「啓示」は、人間の類の時間、「歴史」の「賓辞ではない」・「歴史が啓示の賓辞である」。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史や神話ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある(『教会教義学 ~の言葉T/1』)、Aブルトマンは、神と人間との無限の質的差異を棄揚してしまって、先ず以て前期ハイデッガーの哲学原理、「容易に修得し得ない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された「存在者レベルでの神」を「第一次的なもの」に「形式変換」し、この「第一次的なもの」に従事することにおいてのみ」、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における具体的には教会に宣教を義務づけている教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である第二の形態、すなわち直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」である使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」を、それゆえに結局は第一の形態、すなわち宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストを、第二次的なものとしてのみ「真であり、重要であるもの」に「形式変換」してしまったのである、主客転倒させてしまったのである(『ルドルフ・ブルトマン』)。この場合、ブルトマンにおける~は、ブルトマン自身の自己意識が対象化した偶像としての~、対象化されたブルトマン自身の自己意識の類的本質そのものとしての~なのである。したがって、ハイデッガーは、そのようなブルトマンに対して、それは「存在者レベルでの~への信仰」であって「結局のところ~を見失うこと」になるから、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と揶揄・批判したのである(木田元『ハイデッガーの思想』)。この揶揄・批判は現実性と妥当性のあるものであるから、それゆえに全キリスト教、全キリスト教会、その全成員はそのことを認識し自覚しなければならないことであるから、例えばルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健らの人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の尊重の主張や聖霊論的説教論における中世的思考に退行した「神学の優位性を確保しつつ」あるいは「神学の優位性を否定することなく」、「人間学的局面にもその位置を正しく与える」あるいは「人間学を正当に評価する位置を与える……」という主張は、全く以て「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)におけるそれに過ぎないものなのである。この彼らの主張は、『希望の資本論』(池上彰×佐藤優)で、佐藤は、『資本論』におけるマルクスの重要な立場である「第1版の序文」にある言葉を認識し自覚もしないで(この佐藤は、『教会教義学 ~の言葉』において「神論の決定的に重要な構成要素」とも述べたバルトの重要な立場である三位一体論も認識し理解していないのである。その典型的な言葉が、佐藤の『はめての宗教論』における「われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」という言葉である。この佐藤が、バルトの「神論」を認識し理解して論じられる訳がないのである。言い換えれば、佐藤がバルトを論じれば論じるほど、佐藤は、人々に対して、バルトを、根本的包括的に原理的に誤解させるだけなのである。このことは、バルトにおける自然神学の概念も使徒概念も認識し理解をしないままに、バルトの自然神学について論じ、また使徒概念を使用して、人々に対して、バルトを、根本的包括的に原理的に誤解させたところの、『使徒的人間――カール・バルト』を書いた富岡幸一郎と同じである)、またフォイエルバッハやマルクスの現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的なキリスト教批判を認識し自覚もしないで、それゆえにまさしく自然神学的な佐藤自身がそのキリスト教批判そのものの場所に停滞したままでいながら、それゆえにそのキリスト教批判を聖書的啓示証言を媒介した自らの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体で根本的包括的に原理的に止揚し克服すること――バルトだけが、聖書的啓示証言を媒介して、この神学における思想の問題を扱ったのである――をしないで、それゆえにそのことについて明確に論述することもしないで、「無神論を勉強していたらもうこれは半年くらいで、マルクスやフォイエルバッハの言っている無神論は、キリスト教神学でとっくに克服されていることが分かりました」と(小林よりのりのように「ごーまんかましてよかですか」とは言わずに)「ごーまんかまして」大法螺を吹いたのと同じである。一方で、バルトは、ポラーヌスも、「正統主義」が「よりよい教示にもかかわらず、意識的に信仰箇条を侮辱し、そのような性格の中でその悪しき意志」を顕在化させ露呈させた「異端」と「信仰の実体にはただ間接的にしか触れていない、副次的な命題に含まれた(よりよい教示に対してなお心を開いている)誤謬」との差異性を認識し「区別をたてた」ように、「はっきりと、真理も、愛も、また~からの委託も」、異端者ではないところのただ「誤謬を犯している者に対し直ちに異端の罪を帰して行く契機となることは許されないと警告」していた、ということについて述べている。このことについては、次のような吉本隆明の言葉に聞くことも意味があるであろう――「わたしは、個人がだれでも誤謬をもつものだということを、個性の本質として信じる。しかし、誤謬に(≪党派的な≫)普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとするものをみると、憎悪を感じる。(中略)弱さは個人の内部に個性としてあるときにだけ美しいからだ」(『カール・マルクス』)。