新年を迎えて考えたこと――教条主義化した1967年「日本基督教団 戦争責任の告白」<再考>について(その5−5)
新年を迎えて考えたこと――教条主義化した1967年「日本基督教団 戦争責任の告白」<再考>について(その5−5)
さて、吉本が、自ら述べているようにマルクス者であってもマルクス<主義>者ではなかったように、バルト者ではあってもバルト<主義>者ではない私が、今まで<バルトと共に>と述べてきたことは、次のようなバルトの立場に立脚して、ということを意味している――すなわち、イエス・キリストを主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すイエス・キリストの教会(その成員)は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものであるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「イエス・キリストの名」――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派、学派、思想傾向、社会構成・支配構成、文化、時流や時勢、社会的政治的な言説や実践≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)という、このバルトの立場に立脚して、ということを意味している。吉本も、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場(バルトの言う「一つの事柄」)において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」であると述べている(『思想の基準をめぐって』)。
「敬虔主義が十七世紀と十六世紀の正統主義に反抗した十七世紀初頭の時代」に、「キリスト教界と教会」は、「教説だけでなく(≪キリスト教的な≫)生活を、言葉(≪説教≫)だけでなく(≪キリスト教的な≫)愛と行為をという」ことを「大発見」したのであるが、その「大発見」について、それ以降の「キリスト教界と教会」は現在まで現在もなお、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、聖書的啓示証言のそれ)を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、自己吟味・自己検証し、的確に「批判し、訂正」することはしなかったのである。このことは、世界中の現存する「キリスト教界と教会」に引き寄せて考えれば、もっと身近な日本基督教団の戦責告白等々に引き寄せて考えれば、すぐに分ることである。何故ならば、前述した「大発見」の標語を現存する「キリスト教界と教会」に適用すれば、<純粋>なキリストの福音(啓示)に信頼し固執し連帯した「教説」・「説教」だけでなく、<純粋>なキリストの福音(啓示)とは二元論的にあるいは二元主義的に独立させたキリスト教的な「生活」・「愛と行為」、すなわち社会的政治的な言説と実践が必要である、と言い換えることが可能となるからである。しかし、徹頭徹尾、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、聖書的啓示証言のそれ)を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに信頼し固執し連帯しないところの(すなわち絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるということを志向し目指さないところの)、換言すればキリストにあっての神だけでなく人間もという、その「道は、キリスト教生活(≪愛と行為の生活、社会的政治的な言説と実践≫)を持って始まり、異教でもって終わる」のである(『証人としてのキリスト者』)。
前述したような、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、換言すればただ「イエス・キリストの名」と聖書だけでなく、それ故にその<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えだけでなく、それとは独立して、二元論的にあるいは二元主義的に人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍や人間学や社会的政治的な実践(運動)も必要であると主張する、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教(その指導層、その牧師、その神学者等々の思惟と語り)に対して、バルトは、一貫性をもって「イエス・キリストの名」と「聖書への絶対的信頼」に基づいて、<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教を志向し目指したのである。このバルトの思惟と語りは、次に述べるように確信的で明確である。私は、このバルトの立場を首肯する者である。
(A)バルトの包括的な救済論と平和論
聖書的啓示証言によれば、神の側の真実としてのみある、それ故に客観的現実性としてある、永遠的実在としてある、イエス・キリストの死と復活の出来事という総体において、「キリストは、われわれを、われわれのために死ぬということによって以外の仕方では、救い得給わなかった。われわれは、そういうことによって救われるという以外の仕方では、救われ得ないのである」(『証人としてのキリスト者』)。
寺園喜基・私訳の「平和に関するバルトの書簡」によれば、次のように言うことができる――バルトの「平和」の概念は、神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性、永遠的実在としてある、イエス・キリストにおける完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な「救済」の概念と同じである。この「包括的な救済概念」は、「この世の神との和解」、「人間相互間の和解を直接その内に包含している和解」である。先行する神の側の真実としてある「神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに完成(参照――下記の〔注〕)され、死人からの復活においてすでに啓示されているような、和解」である。したがって、私たち人間によって初めて「完成(参照――下記の〔注〕)されねばならないような和解」ではなくて、先行する神の側の真実としてある「神ご自身によって確立された和解」である。「イエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的」なのであり、「敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にある」のである。イエス・キリストにおける平和は、先行する神の側の真実としてある「神ご自身が、世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性」、客観的現実性、永遠的実在である。したがって、「この贈り物はただ、われわれがこれを受けとることを待っている」のである。したがってまた、先ず以ては、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)の私たちが、「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨」なのである。例えば、神学者モルトマンが、「終末論」と「歴史」とを混在させて「神学的な三段階的進歩史観」を主張したことが「悲惨」なのである、またキリストの福音(啓示)とそれとは独立させた二元論的なあるいは二元主義的な社会的政治的な実践との混在における宣教論の現存が「悲惨」なのである。そうした中で、私たちは「平和は戦争より善いものであるということを」繰り返し「断言せねば」ならないが、しかし「それらのことは究極的に何の助けをももたらさない」ことは「明白」である。何故ならば、世界は経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いており、戦略兵器である核兵器およびその他の近代兵器の廃絶、戦争の廃絶、すなわち平和の実現には、一部国家支配上層の意思によって動員できる強大強力な軍事組織を持つ民族国家を止揚し無化し廃滅する必要があるからである。したがって、世界が必要としている「革命的認識」は、「世界はイエス・キリストにおける神の愛によってすでに解放された世界である」ことに感謝をもって信頼し固執して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的(≪例えば、教団の戦責告白にある、アジア的な共同性と個体性との未分化性における「<まさに祖国を愛する故にこそ>」という祖国愛的道徳、そういう「キリスト者の良心的判断」≫)な諸原理や理念や体制の内に求めようとしない」ところにある。すべてのキリスト者とすべてのキリスト教会を含めて、諸民族、個体的自己としての全人間は、イエス・キリストにおける完了・成就された包括的な救済、すなわち平和にのみ信頼するように「呼びかけられている」のであるから、第三の形態に属する全く人間的なすべてのキリスト教会(その成員)の責務は、先行するイエス・キリストにおける神の愛の下で、あの、<純粋>なキリストの福音・<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環において、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の包括的な救済そのもの、すなわち平和の希望そのものである<イエス・キリストにのみ信頼し固執していいのだ>、と宣べ伝えるところにあるのである。
〔注〕:寺園は「完成」と訳しているのだが、バルトは、『バルトとの対話』の中で、「アポリュトローシス(贖い)は新約聖書においては終末論的用語だ。(≪したがって、終末論的用語として考えれば、≫)『完成』(Vollendung)という言葉の方が、『救贖』(Erloesung)よりもよかったかもしれない。(≪なぜならば、≫)『救贖』は『和解』以上のことを意味する(≪からである≫)。そしてそれは、聖霊の業に関するものだ」と述べている。したがって、「平和に関するバルトの書簡」における「和解」に関わる訳としては、終末論的用語である、復活したキリストの再臨、すなわち終末における「完成」ではなく、『福音と律法』におけるように完了あるいは成就というように和訳した方がよい、と言うことができる。概念的内容としても、概念的イメージとしても、完了あるいは成就というように和訳した方がよい。
(B)バルトの世界認識の方法
「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、私たちは、西欧近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならない(『ヘーゲル』)。
この考え方は、神学的な三段階的進歩史観を展開したモルトマンに対する批判を形成しているだけでなく、「実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない」、聖書には近代を生きる人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や情報が不足していると考える説教者や神学者たちに対する批判も形成しているだけでなく、また<客観的>に存在する起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に「絶対的信頼」を置いたバルトの神学に対して、バルトのそれは人間の経験の位置づけが弱いから「人間の経験」を尊重すべきだとする聖霊論的説教論を主張したルドルフ・ボーレンやそれに賛同している佐藤司郎や聖霊や聖霊の言葉を「わがまま勝手に」実体化してしまった小泉健に対する批判も形成しているのである。神の言葉に対するバルトの立場は、本当の処女作『ローマ書』にあるように、その処女作から一貫性を持っている――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」。また、バルトは最終的に離脱した宗教社会主義について、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に基づいた「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかった。このような訳で、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の現在的課題、現在を止揚し克服することを考えること、すなわち未来を考えることは、教会の宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として<客観的>に存在している起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)にまで時間を遡って考察すること(絶えず繰り返し、それに聞き教えられること)でなければならない。このように、このバルトの神学的な方法論は、前段で引用した『ヘーゲル』における思惟と語り共に、人類史における史観の拡張論に繋げることができるものなのである。現在的問題、現在を止揚し克服することを考えること、すなわち人類の未来を考えることは、どの地域にも存在していた人類史の原型・母胎・母型であるアフリカ的段階、縄文的段階等にまで時間を遡って考えることでなければならない。
(C)バルトの神学的実存
バルトは、『バルト自伝』で、次のように述べている――「私は、(≪聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した≫)福音宣教」を志向し目指しており、それ故にそうした「福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家(≪観念の共同性を本質とする、法的政治的支配構成、法的政治的権力、政治的近代国家、民族国家≫)に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した≫)純粋な(≪キリストの≫)福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた。現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては、私の頭に存在したものではなくて、私の本を(≪理解できずに、あるいは意識的にか無意識的にかパンネンベルクのように悪意をもって曲解して≫)読んだ多くの人々の頭のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした人々(≪根本的包括的な原理的な誤謬や虚偽に普遍性や組織性の後光をかぶせて書いた神学者、牧師、著述家たち≫)の頭のなかにのみ存在していたのである」、と。バルトの神学的実存は簡潔明瞭で確信的である。それは、『バルトの生涯』によれば、次のような神学的実存である――「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは(≪キリストにあっての≫)神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」・それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に信頼し固執し連帯した<純粋>なキリストの福音の宣教、そうした「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にある。イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すイエス・キリストの教会は、「聖書本文の単純な解き明かしによって、決断を行うことができる。例えば、……(≪現存する国家を第一義・価値とするところの≫)国家社会主義に対して、何も直接的な言葉を言わなくても、完全に(≪否、という≫)一つの決断を行うであろう」(『証人としてのキリスト者』)。このように述べているバルトは、『バルトとの対話』で、そのような神学的実存の認識と自覚に基づいて、次のような判断、決断、態度、実践についても語っている――「スイス(≪その国家形態、支配構成として、あくまでも他と比較考量して、具体的にはナチズムのドイツと比較考量して、<相対的>に良いところのそれ、直接民主制と武装永世中立を掲げているところのスイス政府≫)をナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」、と語っている。まさに、あくまでも「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執したところで、「ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要なキリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」、と述べている。このように、バルトの場合は、教団の戦責告白や「平和を求める祈り」のように、情緒的でも曖昧でもないのである、それ故に即事的でも場当たり的でもないのである。また、現存する民族国家の課題について認識し自覚しているバルトは、次のようにも言うのである――「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」、しかし「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは(≪キリストにあっての≫)神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪世界が経済の世界性と一部国家支配上層の意思によって動員できる強大強力な軍事組織を持つ民族国家を単位として動いている限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」、と。このように、バルトの神学的実存の在り方は、教条主義的な、教団の戦責告白、「平和を求める祈り」、日本やその他の地域のキリスト教会の指導層たち等とは全く違っているのである。一般的に政治好きや闘い好きや戦争好きでない限りは、誰も民族国家による戦争や様々な地域紛争や日常の争い事も好まないに決まっているのであるが、空想的に考えない限り、人間が情念を持つ限り愛憎の悲劇や惨劇はあり得るのであり、民族国家が強大強力な軍事組織を持ち一部国家支配上層の意思によって戦争が行われ得るという意味で、現在のところ日常的な愛憎の悲劇や惨劇は繰り返されるだろうし、戦争(世界大戦ではなく、地域的なそれ)の可能性もあるのであり、もし私たちが本当の意味で、真剣に、戦争の廃絶を、すなわち平和の実現を決意したならば、戦争の元凶である民族国家を止揚し無化し廃滅することができる国家論(すなわち革命論)の明確な提起と構築を必要とするのである。また、核兵器は軍事的に最後的な戦略兵器であるから、もしもそれを実際的に使用したとすれば、バルトも述べているように、その最初の瞬間からすべてが終わりとなり、それゆえに戦争遂行それ自身が不可能となるだろう。したがって、政治家や学者や評論家やメディアや教会の牧師や神学者たちが<世界>大戦や<核>戦争の可能性を煽っても、それをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。
(D)バルトの<イエス・キリストの教団>共同性価値論について
バルトは、あくまでもそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方「イエス・キリストの名」(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)にのみ感謝をもって信頼し固執し連帯した第三の形態に属する全く人間的なイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す<教団>共同性価値論の立場をとっている。しかし、バルトのそれは、ヘーゲルのような、客観的精神の弁証法的展開の果てに想定される哲学的な<国家>共同性価値論では全くない。したがって、神自身にとって「最高に必要であり必然的であるのは教団」(共同性)であって、「教団の精神であることによって初めて神は精神となり神となることができる」と述べた、神の人間化あるいは人間の神化を志向し目指したヘーゲルのようなそれでは全くない。バルトは、次のように言う――聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現」は、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)としての客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、換言すればイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところの、啓示認識・啓示信仰を与えられた個体的自己としての一人一人のキリスト者の<世代的総和としての教会>、すなわちキリスト教に固有な<類>――このキリスト教に固有な<類>の<時間累積>、すなわちキリスト教に固有な<歴史性>という「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「まず第一に教団において」、「イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」、と述べている。あくまでもこの意味で、バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」、と述べているのである。すなわち、この意味で、共同性価値論を述べているのである。言い換えれば、この出来事は、「わがまま勝手」な人間自身教会自身の恣意性独善性嗜好性に基づいて遂行されるのでは決してなくて、あくまでも客観的に存在し与えられている「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性におけるその秩序性に基づいて遂行される、と述べているのである。イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(成員、神学者、牧師)における「まことの信仰とその真実な神認識」(啓示認識・啓示信仰)は、徹頭徹尾、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、神の言葉の第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいているのである。言い換えれば、それは、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(具体的には、神の言葉の第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)において、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」ということにのみ基づいているのである、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけ」なのである。このような訳で、バルトにおける<教団>共同性価値論は、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な現存する<教会>共同性価値論では決してないのである。したがって、バルトは、言う――「神の霊と人間の精神の全面的な区別」が強調されなければならない、すなわち徹頭徹尾「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異が貫徹されなければならない。そして、その「啓示の主体的現実」化を、前述したように、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解」しなければならない。その上で、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、「真理の柱、真理の基礎」とは、あくまでも起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に信頼し固執し連帯したイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す「神の教団」・「イエス・キリストの教団」・「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」のことであって、先ず以てはその「イエス・キリストと個人的関係を持つ」その「肢々」としての「一人一人のキリスト者」・「キリスト者個人」のことではないし、ましてや神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な現存する教会に、その指導層に第一義性・価値性があるということでは決してない、ということを述べているのである。このように述べるバルトは、次のように言うのである――「神はご自身との共同性の中に生きてい給う。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う。そして人間は他人との共同性の中で生きている。共同性ということが、人間が神に似ていることの根拠だ。……(≪起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言のそれに信頼し固執し連帯したイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す第三の形態の≫)教会なきところではイエスはキリストであり給わない」。あくまでもそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に信頼し固執し連帯したイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す第三の形態の「教会は永遠よりえらばれたものだ。そして、キリストは、その頭としてありつづけ給う。……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」、と(『バルトとの対話』)。このように聖書的啓示証言に信頼し固執したバルトにとって、あくまでも神の側の真実としてあるイエス・キリストにおいては、近代におけるように個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなく、イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非キリスト者、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである。したがって、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す神の言葉の第三の形態の教会は、決して、民族としての、地域アジアに、地域韓国に、マイノリティに、あるいは地域西欧に、また観念の共同性を本質とする政治的近代国家、民族国家に、国家共同性に、その祖国愛に、さまざまな過渡的一面的部分的相対的な社会的政治的な言説や実践に、第一義性・価値性を置いて閉じられてしまってはならないのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/ 1 和解論の対象と問題』)。
(E)バルトの考える教会の成員一人一人の役割
先行する、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、聖書的啓示証言のそれ)――この「み言葉の奉仕者」における奉仕においては、「個々の奉仕の上位と下位ということは、全く問題になり得ない。すなわち、そこには様々な機能の違いはあるが、牧師が実際に他の長老たちより上位に立つということもあり得ないし、鐘つき番が実際に神学教師たちより下位に立つということもあり得ない。……『聖職者』も『平信徒』もあり得ないし、単なる『教える』教会も単なる『聞く』教会もあり得ない。われわれは、会衆に対して、今一度、彼らこそその成員一人一人において何の留保もなしに(≪イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すイエス・キリストの≫)教会なのだということを、言わなければならない。彼らこそ、概念の十分な意味において教会であって、(≪イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すイエス・キリストの≫)教会として行動するように召されているのだと言うことを、言わねばならない」(『教会――活ける主の活ける教団』)。
このような訳で、教会の宣教、その思惟と語りを「より危険なものにしてしまう」のは、聖書的啓示証言についての「正しい注釈」を、「最終的に……(≪教会の宣教、その思惟と語りにおける原理・法廷・審判者・支配者・「規準としての聖書の性格」、「聖書の自由な力」を喪失させた≫)教会の教職の判決に、……依存させてしまう」ところにあるから、また「間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにあるから(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、教会の成員一人一人は、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、聖書的啓示証言のそれ)に信頼し固執し連帯して、「彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して」、「共同の責任を負っている」という認識と自覚が必要である(『啓示・教会・神学』)。このような役割を果たすためには、次のような認識と自覚が必要である――すなわち、徹頭徹尾、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に信頼し固執し連帯して、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」こそが、教会の宣教、その思惟と語りにおける第一義的な最重要の事柄であるから、先ず以て、そのことが為されないままに、換言すれば<純粋>なキリストの福音(啓示)、具体的には聖書的啓示証言およびそれに絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えるという仕方での<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えだけでなく、それとは二元論的にあるいは二元主義的に独立させたところで社会的政治的な言説や実践もとか、「教会と国家および社会との関係」とか、「国際間の教会的な相互理解、エキュメニズム」とか、「礼拝改革」とか、「キリスト教教育」というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ならば、教会の宣教、その思惟と語りを「より危険なものにしてしまう」という認識と自覚が必要である。したがって、教会の宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等に置くならば、また「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」うとするところに置くならば、またある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとするところに置くならば、教会の宣教、その思惟と語りを「より危険なものにしてしまう」という認識と自覚が必要である(教会教義学 神の言葉T/1・2』)。したがってまた、次のような認識と自覚が必要である――すなわち、徹頭徹尾、「世界の救い(≪平和≫)を何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ることはしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」すべきであるという認識と自覚が必要である。また、「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」べきであるという認識と自覚が必要である。また、1957年当時の事実的政治の枠組みの中で、「幼稚な反共主義」者であったキリスト教的政治屋ラインホルド・ニーバーのように、「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」という認識と自覚が必要である(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、換言すれば「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」、「国家は支配であり、文化は支配」であるから、先ず以てはあらゆる社会的政治的な事柄に対して対象的になって距離を取り、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」という認識と自覚が必要である(『啓示・教会・神学』)。
客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)においてイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すイエス・キリストの教会は、徹頭徹尾、絶えず繰り返し、ただイエス・キリストをのみ主・頭とする教会となることによって教会であろうとし続ける教会であって、それゆえに単なる<宗教>集団(共同性)では決してないし、社会的政治的な実践(運動)によって勝負をする宗教的な社会的政治的集団(共同性)でも決してないし、またキリストの福音(啓示)、具体的には聖書的啓示証言とは二元論的あるいは二元主義的に独立させた社会的政治的な言説や実践(運動)によって勝負をする宗教的な混在的集団(共同性)あるいは宗教的な社会的政治的集団(共同性)では決してないのであるから、神学的実践は、先にも述べたのであるが、バルトのような神学的実践以外にはないのである。それは、先行するイエス・キリストにおける神の愛の下で、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すイエス・キリストの教会における、教会とこの世に対する、われわれ人間の「被造物的な愛」と言うことができる。言い換えれば、それは、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてイエス・キリストにおける「神の啓示の中での神の存在(≪神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)と関わるようになる時」、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員一人一人)は、あの「神的なひとつの真実な愛の対象として要求されること」、すなわち先行する神の愛の下で、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音・<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」に根拠づけられた「神の賛美」としての「隣人愛」(<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すべての人々がキリストにあっての<純粋>な「神の愛の至福」・<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すところにあると言うことができる、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところにあると言うことができる。したがって、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す神の言葉の第三の形態に属するイエス・キリストの教会は、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の中で、「人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである」のであるから、そうでない場合は、「どのような大群衆をその中に擁し、(≪市民社会的に≫)どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない」し、またそれが、(≪市民社会的に≫)「もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、(≪市民社会的に≫)どのように尊敬されようとも教会は存在しない」のである(『啓示・教会・神学』)。
最後に、バルトの『啓示・教会・神学』では、次のように言われている――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動によって対象化された「存在者レベルでの神」、「人間的理性や人間的欲求やによって規定された神」、換言すれば人間自身が創造した偶像の名と呼びかけによる救いと平和の企てを為そうとするそういう人間的な恣意的独善的嗜好的な善意≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救い(≪あるいは平和≫)の計画と救い(≪あるいは平和≫)の方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救い(≪あるいは平和≫)の計画と救い(≪あるいは平和≫)の方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」、と。情報科学や情報技術の高度化、高度な消費資本主義の段階において、「白けはてた空虚にぶつかる」ことを強いられている現在、そのような時代状況から規定されて余りに世俗化されてしまった現存する教団(教会)、その指導層が、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解(具体的には、聖書的啓示証言のそれ)だけでなく、社会的政治的な言説と実践(運動)も必要だと主張する時、その社会的政治的な言説と実践(運動)なるものは、まさにここで言われている水準以上のものでも以下のものでもないことは確かなことなのである。それだけでなく、そのような教団(教会)、その指導層の社会的政治的な言説と実践(運動)の水準は、それに関わる現在的課題、現在を止揚し克服する課題を、未来を考える課題を、世界史的普遍性、すなわち人類史的普遍性にまで拡張するという方法で、明確に提起でき得ていないところの、それ故に即事的場当たり的なそれに過ぎないものとなっている。このような訳であるから、現在、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すイエス・キリストの教団(教会)の成員一人一人は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を、教会の宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、本当に、真剣に、信仰・神学・教会の宣教の在り方の総体についてはもちろんのこと、教団の社会的政治的な言説と実践(運動)の在り方の総体についても、<根底>から問い直し再考すべき時なのである。