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新年を迎えて考えたこと――教条主義化した1967年「日本基督教団 戦争責任の告白」<再考>について(その5−2)

新年を迎えて考えたこと――教条主義化した1967年「日本基督教団 戦争責任の告白」<再考>について(その5−2)

 

 さて、ここから、教条主義化した教団の戦責告白<再考>について、その不可避的な問題について論じてみたい。
(1)先に抜粋した教団の戦責告白は言う、「<まさに国を愛する故にこそ>、キリスト者の良心的判断によって」、「国」・「祖国の歩みに対し正しい判断をなすべき」であり、「『見張り』の使命」を果たすべきである、と。こう表現する戦責告白の問題は、先ず以て無条件に現存する国家共同性、政治的近代国家、民族国家を前提している点にあるし、また日本的特殊として情緒性と曖昧性において告白されている点にある。
 この戦責告白は、どうして「国」・「祖国」、政治的近代国家、民族国家の「歩みに対し正しい判断」を為さなければならないのか・「『見張り』の使命」を果たさなければならないのかという責任の問題について、それは、「<まさに>」観念の共同性を本質とする「国」・「祖国」、国家共同性、政治的近代国家、民族国家、「<国を愛する故にこそ>」、<まさに祖国愛故にこそ>だ、と告白しているのである、換言すれば現実的な社会の中で生き生活する被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民の救済・平和を祈り求める故にこそ、とは告白していないのである、すべての人びとの救済・平和を祈り求める故にこそ、とは告白していないのである。しかし、本当は、◎イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す教団は、徹頭徹尾、「まさに」「祖国」「愛」故にこそという文言から喚起されるように、無条件に国家共同性(その現実的形態としての政府、支配上層、制度としての官僚や政治家)、「国」・「祖国」、政治的近代国家、民族国家を第一義性・価値性として、また「祖国愛」を前提して告白してはならないであろう、◎イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す教団は、徹頭徹尾、先ず以ては、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものである、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執して、このイエス・キリストをのみ教会の主・頭とすることを告白すべきであるだろう、次には、先行するイエス・キリストにおける神の愛の下で、あの<純粋>なキリストの福音・キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連環と循環の中で、被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民の救済・平和(幸福)を志向し目指すことを告白すべきであるだろう、そしてすべての人びとの救済・平和(幸福)を志向し目指ことを告白すべきであるだろう、また次には、それ故に、そのことを志向し目指すべきであるからこそ、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す教団は、国家共同性(その現実的形態としての政府、支配上層、制度としての官僚や政治家)、「国」・「祖国」、政治的近代国家、民族国家に対して「『見張り』の使命」を果たすべきであるし、そのような「国」・「祖国の歩みに対し正しい判断をなすべき」であると告白すべきであるだろう。このような訳で、この教団の戦責告白は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言におけるそれ)に信頼し固執し連帯した第三の形態に属する教会の<客観的>な信仰告白および教義の内容と水準を備えているものでは全くないのである、ましてや全く人間的な日本基督教団(教会)の表明として絶対的なものでは全くないのであるから、また日本基督教団(教会)に属する一般成員一人一人(個人)の信仰的な意志の総和として成立したものでは全くないのであるから、教条主義化したこの教団の戦責告白の内容と水準は、第一義的に優先されるべき起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、再考されなければならないものなのである(この詳論は5−5)。

 

 さて、先にも少し書いたことであるが、キリスト教的著述家の佐藤優は、8世紀以降を基準として「国」・「祖国」を考え、それ故に「権威」としての「天皇」と「権力」としての「国家」に「国体」を見、国家を無条件に固定し前提して、国家を第一義性・価値性とする国家主義を標榜している。靖国参拝を推進しているキリスト教的著述家の富岡幸一郎も、国家を第一義・価値とする国家主義者であると言える。しかし、教団の戦責告白や「平和を求める祈り」を為すよう教会の成員に求めている日本基督教団(教会)の指導層が、そのようなメディア的なキリスト教的著述家に対する根本的包括的な原理的な批判や異議申し立てを全くしないということ、全く為していないということ、全くでき得ていないということ――このことは、不思議に思えることであるのだが、本当は不思議でも何でもないことなのである。なぜならば、教団の戦責告白や「平和を求める祈り」を為すよう教会の成員に求めている日本基督教団の指導層自身が、その思惟と語りの根本においては佐藤や富岡と全く同じだからである。何故、全く同じかと言えば、彼らは皆同じように、キリストの福音(啓示)とは二元論的にあるいは二元主義的に独立させた社会的政治的な実践(運動)において、無条件に政治的近代国家、民族国家を前提して、戦責告白を為し、「平和を求める祈り」を為しているからである。したがって、彼らは皆同じように、「<平和>を求める祈り」を為しながら、戦争の元凶である民族国家を無条件に前提しているのである、そして政治的近代国家、民族国家、その「祖国」「愛」を告白しているのである。現在、世界は経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いており、それ故に本当は、平和の実現のためには戦争廃絶が必須であるのだが、そのためには世界レベルで、一部国家支配上層の意思によって動員することができる強大強力な軍事組織を持った民族国家を止揚し克服し無化しなければならないというところに課題があるにもかかわらず、彼らは皆同じように、政治的近代国家、民族国家、その「祖国」「愛」を告白しているのである。何故ならば、そのような政治的近代国家、民族国家に対する認識と自覚を、全く欠如させているからである。したがって、彼らの政治的な実践(運動)は、いつも即事的で場当たり的なものなのである。

 

(2)「まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって」、「祖国の歩みに対し」、「正しい判断をなすべき」であり、「『見張り』の使命」を果たすべきであるという教団の戦責告白の中の文言から喚起される内容の問題点は、先にも述べたように、先ず第一に、身近な被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民に第一義性・価値性を置くのではなく、「国」・「祖国」、国家共同性、政治的近代国家、民族国家に第一義性・価値性を置いている、という点にある。また第二に、人類史のアジア的段階における日本的な「国」・「祖国」、国家の共同性と「キリスト者の良心的判断」(個体性、道徳性)との未分化な区別なき混在、という点にある。
 この教団の戦責告白の「国」、「祖国」、国家の<共同性>と「キリスト者の良心的判断」、すなわち個体性との未分化な区別なき混在は、まさしく人類史のアジア的段階の特徴そのものとして規定できるものである。それは、極東とくに中国(日本を含む人類史のアジア的段階)における「家族関係に基づく対立をもたない国家」、すなわち家族を基盤として個(近代的な個ではない)や家族や社会が国家に地続きに包摂されていく修身斉家治国平天下という概念(政治哲学)によって規定することができるものである(参照――下記の〔注〕)。ヘーゲルは、『歴史哲学講義』で、次のように述べている――人類史のアジア的段階の「中国では君主が家長として人々の上にたちます。国家(≪共同幻想、観念の共同性を本質とする法的政治的共同性≫)の掟は法律的な条項だけでなく、(≪個体性に関わる≫)道徳的条項をもふくんでいて、だから、主観が自分の意思の内容を知るといった内面的な事柄までが、外面的な法令として強制される。(中略)それは、道徳律(≪個体性≫)が国家法(≪共同性≫)のようにあつかわれ、(≪共同性に関わる≫)法律が(≪個体性に関わる≫)道徳をさだめるものとうけとられているからです」、と。すなわち、中国の原理は、自然原理としての「天」であり、それは「道」であり、未分化のままの法政治制度(共同性)と道徳(個体性)との混在であることを教えている。その自然原理の体現者は、徳あるものとして天命を授けられた専制君主(家族における親・父)で、そのもとに臣民(家族における子)がいて相互に徳を実践することによって、「修身斉家治国平天下」が成立するというものであり、被支配としての大多数の一般民衆は支配の暴政や抑圧や暴挙に対しても、天然自然の災害を受け入れるように受け入れていく。ここでは、国家、国家共同性、世間体、社会的公共性が第一義性・価値性として意識され、個体の自由な意志は後景へと退けられてしまう。ここでは、共同体至上意識がいつも個体性を超えていくことになる。聖徳太子の作とされる道徳的な「十七条憲法」第1条の和の精神も同じで、それは、道徳と法の未分化な混在性に特徴があるのであって、この共同性と個体性の未分化な混在性が、人類史のアジア的段階における国家の一般的特徴なのである。因みに、第一義的に支配の側の衣食ができなくなるから、中国から伝わった租の対象の農耕また調の対象の養蚕に携わる民を使う時は、農閑期の冬にすべきで、繁忙期に民を使ってはならないというこの憲法第16条の文言を読むと、先ず第一に、人類史のアジア的段階にあった支配の経済的基盤が農耕・養蚕であったことが分かるし、第二に、この第16条は別に農民を第一義的に配慮するようにという条項ではなくて、支配の経済的盤を堅固とするために定められた条項であることが分かるし、第三に、アジア的段階における租・調としての生産物地代(貢納制)を尖端として、アジア的段階の前の人類史の原型・母胎・母型の名残りの庸としての労働地代も内包していたことが分かるのである。そして、経済的基盤を資本制に置いた人類史の西欧的段階においては貨幣地代に移行するのだが、高度な消費資本主義段階にある日本において、現在でも一方で田圃を貸してそこからの<生産物>の一部を地代として貰うということが行われている。いずれにしても、自らが所属する村落共同体が世界の全てだとして閉じられていくアジア的段階の共同体の在り方は、一方で確かに「出産・婚礼・葬儀・病気・火事・旅行・建築・法要・水害・負傷の際の相互扶助」意識を形成していく面を有しているのであるが、他方でそれは、村単位や集団単位での「村八分」意識も形成させるし、村の秩序維持やその回復のためには、災いのもとである「ケガレ」を村や集団から「清祓」していくために、犯罪の立件ができなくても、村で「先天的に身体に特徴のあるもの」、「条件つきの病気にかかったもの」等々を、「身代わり」として処罰していくという面も有しているのである。これらのことは、アジア的段階における、迷妄性や法と道徳の未分化な混在や家族を基盤として個と家族と社会が国家に包摂されていく地続きの構造に基づいているものと言えるのである。

 

〔注〕:歴史的に共同体から家族が分離されてくるのは、農民の住居・農具・庭畑地の私有が許された、経済社会構成(経済的基盤)を農耕に置いた人類史におけるアジア的段階からである。吉本は、次のように述べている――「現象学的な人間理解によれば、たとえば個体と個体との関係は、依然として個体と個体との関係なんですけれども、しかしわれわれは個体が他の個体、つまり他者と関係する場合には、かならず性として関係するということを、根源的な関係の仕方だというふうにかんがえております」・「フロイトは、集団の心」(共同幻想、共同観念、共同意識)と「男・女のあいだの心」(対幻想、対観念、対意識)の「関係を集団と個人の関係とみなした。しかし男・女のあいだの心は、個人の心ではなく、対となった心である。そして集団の心と対なる心が、いいかえれば共同体とそのなかの<家族>とが、まったくちがった水準に分離したとき、はじめて対なる心(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題がおおきく登場するようになったのである。もちろん、それは近代以降に属している<家族>」、すなわち対幻想の共同性の「問題である」、と(『共同幻想論』「対幻想論」)。人類史における西欧的段階、西欧近代は、一対の男女が疎外する対幻想に基づく家族(対幻想の共同性)の中に個人の「心・精神」(自己幻想、自己観念、自己意識)を生んだのである。すなわち、西欧近代は、対自的で対他的な自由な自己意識(内面)の無限性の原理を発見をしたのである。西欧近代は、共同幻想内部で、すなわち法制的中枢としての憲法において、共同体から個人の概念を分離したのである。すなわち、共同性内部で、共同性と個体性の概念を区別し分離したのである。このような訳で、法的的中枢としての憲法上の個人の概念は、国民国家を基盤とした観念的な法的政治的水準にある概念であって、それゆえにそれは、究極的総体的永続的な個体的自己として、現実的に社会的に解放されたところで成立する概念ではないのである。したがって、現実的な市民社会内部において個人(個体的自己)は、私的であり、自由は、恣意的であり、平等でもないのである。言い換えれば、人は、一方で、擬制民主主義でしかない議会制民主主義の下で、観念の共同性を本質とする第一義性・価値性・天国としての法的政治的近代国家(国家共同性)の中においては、あたかも対立・争いのない法的政治的に統一された自由・平等な公的共同性の一員としての生活、公民としての生活と、また他方では、現実的な近代市民社会の中において、ある職業、生活、資質、感情、思考、思想、意志を持った私人として、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活との、二重の生活を強いられるのである。いずれにしても、人類史において、対幻想・対観念・対意識の共同性、すなわち「家族という媒介なしには、共同幻想つまり共同体の成立はありえない」(『吉本隆明全著作集14』「幻想としての人間」)から、共同体は婚姻制度を必要とするのである。すなわち、「家族形態あるいは婚姻形態というようなものを通過して幻想の共同性」(『共同幻想論』「起源論」)に至るのである。そして、社会の中枢にある経済的社会構成を基盤として、ある共同体が、家族的・親族的な血縁共同体から、血縁のない構成員によって、すなわち「土地所有」・「土地類縁」により結合した共同体に転化したとき、「発生期の国家」、起源としての国家が発生するのである。この場合、血縁集団による共同性から利害に基づく「土地所有」・「土地類縁」関係による共同性に転化する契機は、一対の男女の性的関係に基づく婚姻制・婚姻形態において、兄弟姉妹の婚姻が共同体によって<禁制>となるところにある(『吉本隆明全著作集14』「国家論」)。何故ならば、例えば母系制社会のなかで兄弟姉妹婚が禁制になれば、第一に「兄弟の家族系列と姉妹の家族系列」は血縁関係をなくすことになると同時に、第二には兄弟・姉妹の対幻想は本質として空間的遠隔性と関係の永続性を持っているから、血縁集団による共同性から利害に基づく「土地所有」・「土地類縁」関係による共同性への転化を可能とするからである。ここで注意すべきことは、決して、対幻想の共同性としての<家族>集団の集合が共同幻想ではない、ということである。すなわち、両者には次元の差異が、位相差があるという点である。こうした対幻想および対幻想の共同性の考察の重要性は、ただ単なる学業的知識の豊富化のために重要性があるわけではなく、例えば、政治的には天皇制権力の無化という思想的課題と結びついているところにある。氏族社会または前氏族社会の段階にあった「初期王権の本質」は、「呪術宗教的な絶対権」(宗教的権威)の「世襲」にあった(『共同幻想論』「起源論」)。この宗教的権威としての天皇位の継承と中央の政治権力の掌握とは区別されており、神がかりによって神から託宣を受ける巫女組織の最高位に位置した姉妹が宗教的権力を握り、それに基づいて兄弟が現世的な政治的権力を握ったのである。このような制度は14世紀後醍醐天皇以後廃絶されたが、皇祖神の天照大神を祭る天皇制における宗教的権力の象徴である伊勢神宮の起源は、大祭を執り行いご託宣もした垂仁天皇の<妹>・倭姫の伊勢神宮即位に始まると言われている。習俗として女が世襲する祝女・のろ組織(習俗としての共同幻想)の最高位として制度化された琉球の聞得大君(支配の共同幻想)もそれである。宗教的権力は、王の姉妹あるいは王女が受け持つのである。後者の例は、2,3世紀の邪馬台国の卑弥呼である。卑弥呼が宗教的権威を掌握し、現世的な政治的権力はそのご託宣に基づいて弟が執行した。「『古事記』の神話にでてくるアマテラスとスサノウの関係というのは、(中略)未開な段階では、姉妹の系列というものが宗教的な権力というもの(日本の場合シャーマン的にいえば神がかりなんですけれども)をもっていると、その兄弟の系列というものはいわば現世的な政治権力をもっている」(『吉本隆明全著作集14』「幻想としての国家」)。このように、初期天皇制における支配形態(統治形態)の二重構造を支える基盤の解明には、対幻想とその対幻想の共同性としての家族の考察が必要なのである。このことと同じように、人類史的枠組みの中で、すなわち世界史的枠組みの中でアジア的な天皇制的なものの問題を考察するためには、すなわち天皇制的なものを無化することを考察するためには、アジア的段階の前のどの地域にも存在していた人類史の原型・母型・母胎である縄文的段階等々にまで時間を遡って考察することでなければならないという方法が必要なのである、ちょうど現在的問題、現在を止揚し克服すること、すなわち人類の未来を考察することは、どの地域にも存在していた人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的段階、縄文的段階等々にまで時間を遡って考察することでなければならないという方法を必要とするように。何故ならば、その考察が、ナショナルなもの、党派的なものとならないためには、ナショナルなもの、党派的なものに閉じられてしまわないためには、すなわち世界史的普遍性に、人類史的普遍性に完全に開いていくためには、天皇制的なものを無化することを考察することは、アジア的段階の前のどの地域にも存在していた人類史の原型・母型・母胎である縄文的段階等々にまで時間を遡って考察することでなければならないし、現在的問題、現在を止揚し克服すること、すなわち人類の未来を考察することは、どの地域にも存在していた人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的段階、縄文的段階等々にまで時間を遡って考察することでなければならないという方法が必要だからである、すなわちそのような歴史哲学が必要だからである。

 

 

 このような訳で、教団の戦責告白にある「<まさに国を愛する故にこそ>、キリスト者の良心的判断によって」、「祖国の歩みに対し」、「正しい判断をなすべき」であり、「『見張り』の使命」を果たすべきであるという文言が、家族を基盤として個(近代的な個ではない)や家族や社会が国家に地続きに包摂されていく人類史のアジア的段階における修身斉家治国平天下という概念(政治哲学)の水準にあることを実感的に知る時、私たちは、(≪参照――5−5の≫)バルト共に、この戦責告白を全く首肯することはできないのである。また、阪神・淡路大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、(≪そのことに関して全く責任のない≫)職員を脅かした」ことを話すために、吉本にわざわざ電話をかけたその牧師の行為に対して、吉本は、「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)<正義のために>脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』(≪人類史のアジア的段階において、「正義のために」とか「お国のために」とかいう大義名分は、そのような事態を惹き起こすことがあり得るにもかかわらず、教団の戦責告白は、教条主義的にさらに踏み込んで、「<まさに国を愛する故にこそ>」と告白しているのである≫)といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」、「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。(≪右にラジカルか左にラジカルかは別として≫)ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」と批判的に述べているのだが、私は、この言葉を全面的に首肯する者である。まさに国家主義者そのものであるキリスト教的著述家の佐藤や富岡を根本的包括的に原理的に一度も批判や異議申し立てをしたことがない教団(教会)の指導層や牧師や神学者たちは、この戦責告白の中の「国」・「祖国」、<祖国愛>に対してどのような認識と自覚を持って告白しているのであろうか? 一方では、無条件に戦争の元凶である民族国家を前提し、「<まさに>」そういう「<国を愛する故にこそ>」という祖国愛を告白しながら、他方では、現存する民族国家の課題を明確に提起することなく、教条主義的に形式的に平和国家を標榜している彼らが、どうして民族国家に対する「『見張り』の使命」が果たせるであろうか。したがって、事実的に、現実的な社会に現存する身近にいる被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民の救済・平和(幸福)のことを後景へと退けてしまうそのような彼らは、換言すれば「<まさに>」共同幻想を本質とする政治的近代国家、民族国家、「国を愛する故にこそ」、祖国愛故にこそという彼らは、例えば消費税増税論議の時、財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は、全面的に制度としての官僚、政治家、政府にあるにもかかわらず、一般の学者や評論家やメディアがその政府の増税政策を「あらゆるこじつけを駆使して合理化し」、それ故にその支配上層に対する徹底的な追及を少しも行わないで、結局最後的には、その責任を消費税増税必要論で被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民に転嫁することに全面的に加担したように、すなわち法的政策的言語を介して政治的近代国家を下から支えたように、同じようにそうしてしまったのである。すなわち、彼らは、政治的近代国家に対する「『見張り』の使命」を全く果たせなかったのである。この時、政治家ではただ一人、名古屋市長の河村たけしだけが、財政赤字は政府債務残高のことであるから、そういう増税論議は本末転倒であると異議を唱えていたことをよく覚えている。このような事実から、私たちは、まさに教団の戦責告白を首肯する教団(教会)の指導層や牧師や神学者たち等が、共同幻想を本質とする民族国家、政治的近代国家に第一義性・価値性を置いているということを、換言すれば被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民の救済・平和(幸福)に第一義性・価値性を置いていないということを、実感的に知ることができるのである。彼らが志向し目指す社会的政治的な実践(運動)なるものの水準を、実感的に知ることができるのである。

 

 さて、吉本が述べているように、人類史のアジア的段階における<宗教>としての天皇制的なものは、退行も逆向もできる観念的遺制(共同幻想)として存在しているから、日本の場合、情緒性に訴える形で、日本社会の危機の時に、いつでも復古して来るのである、すなわち日本の自然思想の伝統である人類史のアジア的段階の<民族性>を強調する「権力」として復古してくることがあるのである、また自己と異質で外部的な産業的思考や個人主義的思考に対しても「権力」として復古してくることがあるのである」。堤清二(辻井喬)は、「『伝統』をはき違えるな」で、「中学のとき、(中略)『敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花』という歌を習いました。教師は、<国のために>忠誠を誓って潔く散れと宣長も言っている、だから<そういう国民>になれ、それが<日本の伝統>だ、と繰り返した」中学教師のことを書いていた。また、「神の痛み」を日本の庶民の「つらさ」や「痛み」に通底している「『他者を愛して生かすために、自分を苦しめ死なしめ、もしくは自己の愛する子を苦しめ死なしめる』」それとして、浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の『寺子屋』における「主君の子供を救うために、自分の息子を身代りに殺させた松王丸が、息子の死を聞いたときにいった、『女房喜べ、悴は御役に立ったぞ』という言葉」で表現できるそれとを同一視させたところの(寺園喜基『バルト神学の射程』)日本基督教団立東京神学大学教授であった北森嘉蔵は、自然神学的な土俗的神学者として、人類史のアジア的段階の日本におけるナショナルなもの、すなわち滅私奉公的な人間の在り方と神の痛みの在り方とを<混淆>させた。また、自民党憲法試案検討委員であった政治家・中曽根元首相は「天皇元首制」を、森元首相は「天皇神格化」を主張した。また、教育現場では道徳教育の強化や愛国心教育が取りざたされる。「中日新聞」2005年3月4日朝刊の「落日の王国 西部『総帥』の実像」に基づいて言えば、前西武鉄道社長の自殺や「株問題の核心を知る」コクドの総務部次長の会社を守るための「自殺」の根拠は、自己身体を座とする自己還帰する対自的な自己意識に第一義性・価値性を置くことをしないで、共同幻想それ自体の自体的展開と自己増殖過程を持つ滅私奉公という共同体至上意識がいつも個体性を越えてしまうアジア的な日本的心性(共同幻想)に第一義性・価値性を置いただけでなく、対他的な自己意識としての企業帰属意識にも第一義性・価値性を置いてしまったという点にあると言うことができる。いずれにしても、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)は、徹頭徹尾、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)であるイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことがない時には、「国」・「祖国」、政治的近代国家、民族国家に対する「『見張り』の使命」を果たす力を全く持つことはできないのである。したがって、私たちは、バルトと共に、無条件に現存する「国」・「祖国」、政治的近代国家、民族国家を前提し、「<まさに国を愛する故にこそ>」という<祖国愛>を第一義性・価値性として告白している教団の戦責告白を、全く首肯することはできないのである。

 

 人類史のアジア的段階の日本的特殊性としてある前述したような情緒性における<愛国心>は、西欧的段階におけるそれとは異なっている。ヘーゲルは、『法哲学講義』で、<愛国心>について、真理に基づかない情緒的な「主観の思いこみ」ではなく、また「異常な犠牲や行動へとむかう気持ち」でもなく、対自的で対他的な「自由を原理」とする理性的な「真理に根ざした」主観的確信であり、すなわち個人の確信であり、その個人が(その自己還帰する対他的な自己意識において)「共同体的なもの」へ参画する、あるいは「共同体的なものと一体化する」、すなわち自己還帰する自己意識の対他性としての政治意識(対他的な自己意識)である、と述べている。この自己還帰する自己意識の対他性という意味で、かつて強力に存在した日本における共同体至上意識がいつも個体性を超えていくという滅私奉公における愛国心(政治的意識)や愛社心(社会的意識)とは違っている。しかし、教団の戦責告白の祖国愛がヘーゲル的な祖国愛であるならば、首肯してもよいのであろうか? ヘーゲル学者の長谷川宏は、そうしたヘーゲルの歴史意識について次のように述べている――「ヘーゲルにとって現実とは、空間として見れば国家であり、時間として見れば歴史であった。個人は、個人として無限の価値が認められる近代的個人でさえ、このふたつの現実のなかでは、自分自身のために生きることをゆるされず、国家あるいは歴史に随順し、そのめざすところをみずからの目的とすることで、かろうじて有意味な存在であった」・「(中略)個々人は民族の子であるとか、時代の子であるとかというとき、……全体を逸脱する個人的な要素は歴史から断固きりすてられなければならない、という歴史観上の当為をも意味していた」(『ヘーゲルの歴史意識』)。このように、個体的自己が、「国家あるいは歴史に随順し、そのめざすところをみずからの目的とすることで、かろうじて有意味な存在たりうる」ということは、観念の共同性を本質とする国家共同性やその時間性としての書かれた歴史に第一義性・価値性を置くことを首肯することになるから、このヘーゲルの共同性価値論は首肯することはできないのである。したがって、教団の戦責告白の祖国愛という文言から喚起される内容と水準が、アジア的な段階のものではなく、たとえヘーゲルのような西欧的段階のものであったとしても、首肯することは決してできないのである。

 

 さて、「共同的な倫理と個的な倫理――共同性と個体性の摩擦面というようなものが倫理」である(『ハイ・エディプス論』)。第一義性・価値性を共同性の方に置くか、それとも個体性の方に置くか、という摩擦面・境界面に倫理の問題は登場する、換言すれば前者の方に善はあるのか、それとも後者の方に善はあるのか、という倫理の問題が登場する。森鴎外は、社会へ向けた貌である高級官僚(共同幻想)においては、不可避に「陸軍の軍医総監(≪政治的な共同幻想≫)として死」ななければならないし、葬儀においては「習俗」(社会的な共同幻想)としても死ななければならない。しかし、鴎外は他方で、個体的自己に向けた貌である「遺書」(自己身体を座とした対自的な自己意識と対他的な自己意識の構造としてある、自己還帰する個体の自己幻想、自己意識の対自性、対自的自己意識、個体の自由な意志)において、その意志は半分しか通用しないとしても、「じぶんは石見の人森林太郎だ」、「一介の森林太郎」(自己身体を座とする自己還帰する対自的な自己意識を第一義性・価値性とした個体的自己)として死ぬ、(≪社会的なあるいは政治的な共同幻想としての≫)社会的地位や栄誉を墓に刻むな、というようにして死ぬことができる」(吉本『漱石と鴎外』)。このとき鴎外は、自己身体を座とした自己還帰する個体の自己幻想に、すなわち個体の自己意識の対自性、対自的自己意識に、個体の自由な意志に重心(第一義性・価値性)を移行させるという仕方で、個体の自己幻想と共同幻想は逆立するという本質のうちに死ぬのである。このように、「関係の絶対性」の問題、すなわち個体性と共同性との関係において、第一義性・価値をどちらにおくかという「倫理に結び」つく問題が登場するのである。
 現在は横へと拡散し衰退しているとは言え、戦前においては、「私」(個体性)よりも「公」(共同性、世間体、社会的公共性、政治的共同性、国家共同性)に、換言すれば「私」(個体性)よりも「滅私奉公・公益優先の意識」に基づいて縦に集中して行く、すなわち観念の共同性を本質とする国家共同性(支配権力)に直通して行く忠君愛国という政治的ナショナリズム(政治的な共同幻想)に、立身出世という社会的ナショナリズム(社会的な共同幻想)に、世間体、社会的公共性に第一義性・価値性や重きを置く倫理が存在したのである。「関係の絶対性」には、もうひとつある。それは、文学的・学問的・社会的・宗教的・政治的な知識人・知識的集団(その共同性)における知識・思想の「党派性の止揚」・「<構造>的な変容」の課題、すなわち思想の自立の課題のことである。すなわち、その課題は、人はその総体を生きるとしても、現実的な生活の方に重きを置く生活者大衆と観念的な知識の方に重きを置く知識人との<関係>において、社会構成・支配構成の時代状況によって変容していく社会的存在の自然基底である大衆原像(この大衆原像は、常民概念とは違って、社会構成・支配構成・文明的文化的構成の時代水準によって変容していく大衆像、その大衆的課題を内包している。参照――下記の〔注〕)を思想にとっての普遍的な価値基準として設定し、文学的・学問的・社会的・宗教的・政治的な知識人・知識的集団(その共同性)が、自らの知識・思想(その共同性)に、その大衆像と大衆的課題を、絶えず繰り返し、<意識的>・<意志的>・<自覚的>に繰り込んでいくところにあるのである。言い換えれば、文学的・学問的・社会的・宗教的・政治的な知識人・知識的集団(その共同性)における「党派性の止揚」・「<構造>的な変容」の課題、思想の自立の課題は、具体的に言えば、思想にとっての普遍的な価値基準としての大衆原像(時代状況によって変容していく大衆像、大衆的課題を内包したそれ)からの逸脱過程の果てに想定できる、すなわち遠隔対象性を本質とする知識・観念の自然過程の果て(その頂へと向かう知識的・観念的な上昇の果て)に想定できる、それ故に最後的には大衆原像に完全に閉じられていくところの、<知識・思想>に・その共同性に<価値>基準を置くところの、また<特権的な社会的地位>や<富の獲得>の方に<価値>基準を置くところの、換言すれば<価値>基準は現実的な平凡で平坦な<生活>的日常の繰り返しの方にはないとするところの、市民社会に流通している既存の<常識>・<価値観>(社会的な共同幻想、共同意識、あるいは共同の無意識)を転倒させていくところにあるのである。またそれは、歴史の主人公は書かれた歴史に登場する支配上層や英雄や知識人にあるとする歴史観を転倒して、書かれた歴史には登場しない常民概念・大衆の原像(具体的には、社会構成・支配構成の時代状況によって変容していく大衆像、大衆的課題を内包するそれ)を歴史の主人公として成立させ得る歴史観の構成にあるのである。ちょうど、聖職者・牧師・坊主・神学者・宗教者・知識人・学者・医者・法律家・警察官・教師・善人と呼ばれる人であろうと誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避な「機縁」さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るという究極的観点(還相的観点)において、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)から超出したところの、当時の庶民像や庶民的課題を繰り込みながら辿り着いた三願転入・選択本願による救いを説いた親鸞のようにである。こうした文学的・学問的・社会的・宗教的・政治的な知識人・知識的集団(その共同性)における「党派性の止揚」・「<構造>的な変容」、思想の自立の在り方に、「『価値』そのものの転倒が、<大衆原像>を志向する」という「思想性」があるのである。この「思想性」を、文学的・学問的・社会的・宗教的・政治的な知識人・知識的集団(その共同性)が認識し自覚し持たないならば、その知識・観念は、大衆に閉じられていく・「完閉」していく思想として、またそうした共同性として、すなわち悪しき党派性、悪しき党派的思想、悪しき党派的集団、悪しき党派的共同性、悪しき党派的多元主義として、国家の共同性と同じように、戦前と同じような仕方で、すなわち法的政策的な言語を介して、国家の共同性(権力の意志表現としての法的政策的言語)を合理化し、国家共同性に加担し、被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民を、騙し、裏切り、惑わし、扇動し、困窮させ、死に追いやってしまうことになるのである。このような訳で、ここでも、私たちは、無条件に「国」・「祖国」、政治的近代国家、民族国家を前提とした、情緒性にだけ訴える教団の「<まさに国を愛する故にこそ>」という全く馬鹿げた祖国愛に第一義性・価値性を置いた告白を、決して首肯することはできないのである。もちろん、このことを、私たちは、バルトと共に、徹頭徹尾、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことを、換言すれば先行するイエス・キリストにおける神の愛の下で、イエス・キリストをのみ愛することを第一義性・価値性として最優先するところで言うのである。何故ならば、ここにこそ、第三の形態に属す全く人間的な教会における、先行するイエス・キリストにおける神の愛の下での、あの、<純粋>なキリストの福音・キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法――すなわち、すべての人びとが<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)は存在するからである。

 

〔注〕:生誕し、成長し、仕事に就き、婚姻し、子を産み、育て、老いて死んでいくという繰り返しの生活に想定される<常民概念>・<大衆原像>について言えば、すなわちその大衆の「あるがままの原像」・大衆の「本質的な存在様式」は、「社会の構成を生活過程の水準をはなれて」考えることはないし、社会的・政治的な状況に「着目」しないために、それら状況に対して「現象的な存在」としてある。このことから、「強固な巨大な生活基盤」と「微小な幻想」に生き生活するところにある。しかし、注意すべきは、<常民概念>とは違って<大衆原像>は、社会構成・支配構成の時代状況によって変容していく大衆像とその大衆的課題を内包させているということである。

 

 

 吉本に依拠してもう少し書いてみれば、社会的秩序に反逆すると言う場合、個人Aも集団Aも、個人Bも集団Bも、個人Cも集団Cも……、真理はそれぞれ自分たちにあると主張するのであるが、それは真理の契機を<主観的>契機に置いているからである。したがって、吉本は、真理がどちら側にあるかという場合、<客観的>契機に置いたのである、そしてその基準が、前述した関係の絶対性である。このような訳で、吉本は、党派的思想や党派的知識的集団や党派的共同性を超えるために、すなわち思想的に自立するために、どちらに真理があるかという場合、人間の存在様式の三位相(個、対・対的共同性としての家族、共同性)に対して自覚的である方に、また思想にとっての普遍的な価値基準である社会的存在の自然基底としての大衆の原像の繰り込みに対して自覚的である方に、また共同体至上意識がいつも個体性を超えてしまうアジア的な日本的特殊性に対して、ヘーゲル的な共同性価値論に対して、個体性、個体の自由な意志に第一義性・価値性を置くことに意識的自覚的である方に、真理はあるとしたのである。何故ならば、この共同性の問題は、共同性が、決して個体性、個体の自由な意志の集合としてあるわけでなし、それ自体の自体的展開過程と自己増殖過程を持っているのであるから、ある集団や共同体の中に不可避的に登場する個体の在り方の問題ことだからである(自己とは疎遠な対象・共同性に移行してしまった第一義性・価値性を、意識的自覚的に、個体性、個体の自由な意志、個体的自己の側に取り戻す問題のことだからである)、すなわちそういう共同性に第一義性・価値性を置くのか、それとも個体性、個体の自由な意志に第一義性・価値性を置くのかという倫理の問題のことだからである。したがって、個と共同性の関係において、意識的自覚的に個体性の側に、個体の自由な意志の側に第一義性・価値性を置かないならば、「個と共同性の逆立の構造」を介して、個体的自己は、自己身体を座とする自己還帰する個体における自己幻想(自己意識の対自性、対自的な自己意識、個的および対的な意識)と共同幻想(自己意識の対他性、対他的な自己意識、社会意識あるいは政治意識、共同的な意識)との関係においてだけでなく、自己身体を座としないところのそれ自体の自体的展開過程と自己増殖過程を持ち時間蓄積させてきた共同幻想・共同観念・共同意識(習俗、国家共同性等々)と個の自己幻想(対自的な自己意識と対他的な自己意識の構造)との関係においても、その共同幻想(共同性)の側に第一義性・価値性を置くことによって、その共同幻想(共同性)から疎外され侵蝕され抑圧され支配されることになるのである。したがってまた、<究極的>な集団性、集団の共同性の課題は、個体性、個体の自由な意志の総和として構成されるところにあるのである。教団の戦責告白は、全く<人間的な側面>に限定してみても、これらのことに対する認識と自覚を全く欠如させているのである。したがって、教団の戦責告白を首肯している指導層、牧師、神学者たちは、共同宗教としてのキリスト教の最後的形態である政治的近代国家、民族国家に対してだけでなく、国家共同性に第一義性・価値性を置く国家主義者の佐藤や富岡に対しても、少しも根本的包括的に原理的に批判することができないのである。何故ならば、彼らのその思惟と語りの内容と水準は、佐藤や富岡と全く同じだからである。
 バルトにおける信仰・神学・教会の宣教は、前述したような情緒性と曖昧性のただ中にある教団(教会)のそれとは全く違っている――すなわち、バルトは、徹頭徹尾、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の真理性の<客観的>な基準(根拠)を、イエス・キリストをのみ主・頭とする第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)が、先行するイエス・キリストにおける神の愛の下で、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的>に存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、<客観的>な「啓示の実在」そのもの(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ、<客観的>な啓示の「概念の実在」)を、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音・<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、具体的に言えばすべての人びとが<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すという、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストをのみ教会の主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという、その連環と循環を生きる生と生活(神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性に、そのような決断と態度と実践に生きる生と生活)に置いたのである。このことに引き寄せて、「西欧の危機」の課題やアジア的な日本的特殊性の課題について全く認識し自覚していないところの、教団の戦責告白および「平和を求める祈り」を含めて、現存する教団におけるキリストの福音(啓示)から独立的に措定された社会的政治的な実践(運動)も考えてみると、「西欧の危機」の課題を認識し自覚したところで教会の宣教の問題や神学の問題や信仰の問題を考えているバルトとは全く逆向きの在り方を示していることが分かる(詳論は、5−5)。例えば、社会的政治的な実践(運動)の側面に引き寄せて考えてみても、教団(教会)のそれは、社会構成――支配構成の時代状況によって変容する大衆像および大衆的課題を内包した大衆原像に全く閉ざされた・完閉された、また政治的近代国家、民族国家の課題を全く明確に提起でき得ていないところの、それ故に無条件に政治的近代国家、民族国家を前提し、「<まさに国を愛する故にこそ>」という祖国愛の文言でその国家共同性に第一義性・価値性を置いているところの、党派的な<宗教的>社会集団あるいは<宗教的>政治集団でしかない、ということが分かるのである。
 いずれにしても、「関係の絶対性」から言えば、真理の客観的な基準は、国家と社会の関係でいえば、観念的な共同性である国家よりも現実的な共同性である社会の方に重き(第一義性・価値性)を置くところにあるし、現実的な共同性である社会よりも現実的な対的な共同性である家族の方に重き(第一義性・価値性)を置くところにあるし、対的な共同性である家族よりも個体的な自己、個体的な自己の自由な意志の方に重き(第一義性・価値性)を置くところにあるのである。したがって、無政府主義は、国家や社会や宗教等の一切の権威や権力を否定して個人の絶対的自由を主張するのであるが、人間は個体の意志によってだけでなく、前述したように絶対的な関係性の中でしか生きられないのであるから、その主義・思想は、全くの架空性おいてしか成立しない空論でしかないものなのである。このような訳で、国家論、国家の現在的課題、国家を止揚し克服することを考えること、すなわち未来を考えることは(すなわち革命論は)、先ず以て現存する国家を国民にどこまでも開いていくというところに、そしてその課題を過渡的課題と究極的課題との構造として明確に提起していくというところに、そしてまたその課題の究極像を個体的自己としての全人間の社会的な、すなわち現実的な、究極的総体的永続的な解放に、それ故にそれと共に観念の共同性を本質とする法的政治的な国家の無化に、抑圧であり支配であるところのすべての共同幻想の無化に置くというところにあるのである。吉本は、『民主主義の神話』「擬制の終焉」で、次のように述べている――インターナショナリズムの本質は「国家権力によって疎外された人民による国家権力の<排滅>と、それによる権力の人民への移行――そして国家の死滅(≪前述した国家の無化≫)の方向に指向される」ところにある、「それぞれの国家権力のもとでの個々の人民のたたかいの動向の総和以外」に、「世界史の動向とか、革命のインターナショナリズムなどは存在しない」・したがって、ここで重要なことは、「たたかいの主体である人民とは、人民としての自分自身と、その連帯としての大衆」のことであり、世界史がなお依然として経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いていることの認識と自覚であり、それ故に一国革命はもちろんのこと、政権が自民党から他の政党に移ることは、革命ではなく単なる政権交代でしかないということに対する認識と自覚である、と。