本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

新年を迎えて考えたこと――教条主義化した1967年「日本基督教団 戦争責任の告白」<再考>について

新年を迎えて考えたこと――教条主義化した1967年「日本基督教団 戦争責任の告白」<再考>について(その5−1)

 

 私は、2017年12/21更新記事:派遣社員に「突然来た契約終了の通告」と12/29更新記事:『教会教義学 神論T/2 六章 ~の現実 二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 二 愛する方としての神の存在』において、キリスト教会におけるキリストの福音(啓示)とは独立した二元論的なあるいは二元主義的な社会的政治的な実践(運動)という宣教論との関連で、政治的近代国家、民族国家を前提とした教団(教会)の戦争責任の告白(教団の戦責告白)の<呪縛>について、少しだけ触れてみた者である。例えば直近の「戦後70年にあたって平和を求める祈り」について言えば、その祈りは、無条件に現存する社会構成・支配構成、その国家の法的政策的言語を前提とし、それゆえにその枠組みの中で、教会も市民運動の後に続けとばかりに、下からの構造改革論を対峙させ、その次に聖書の言葉を付け足ししたような祈りとなっている。したがって、教団の戦責告白の場合と全く同じように、その「平和を求める祈り」は、その平和を求める場合において、先ず以て常に先行する「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストをのみ主・頭とする教団(教会)であるべきであるが故に、とは祈らないのである。言い換えれば、事実的には、その「平和を求める祈り」は、教団の戦責告白と同じように、キリストの福音(啓示)の告白・証し・宣べ伝えを第一義性・価値性として認識し自覚していないが故に、キリストの福音(啓示)とは二元論的にあるいは二元主義的に独立した社会的政治的な実践(運動)に重心を移行させているのである。したがって、その「平和を求める祈り」を為した教団(教会)は、イエス・キリストを主・頭とするイエス・キリストの教会ではなく、その教団(教会)は、その時、聖書の言葉を付け足しながらも、事実的には、宗教的な市民運動的集団と化しているのである。このことは、宣教論的には、その最初から決定的に敗北必至の教会の在り方を示している。なぜならば、教会の宣教を「より危険なものにしてしまう」のは、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会が、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言)を、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリストの「福音」を「純粋ニ教エ」、「聖礼典」を「正シク執行」しないままに、「礼拝改革」、「キリスト教教育」、「教会と国家および社会との関係」、社会的政治的な実践(運動)、「国際間の教会的な相互理解というような領域」で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ところにあるからである(バルト『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。それだけでなく、このような教会の政治的な実践(運動)は、国家論としても、政治的運動としても、その最初から決定的に敗北必至のそれである。なぜならば、平和の実現のためには、戦争の元凶である、一部国家支配上層の意思によって動員できる強大強力な軍事組織を持った民族国家を止揚し克服し無化しなければ不可能だからである。にもかかわらず、教団(教会)の政治的実践(運動)なるものは、その課題を明確に提起することもしないで、それゆえにそうした国家論について認識し自覚しないまま、ただ情緒的に、「平和を求める」と主張しているだけだからである。
 このような訳で、教団の戦責告白も、「平和を求める祈り」も、日本的特殊性として情緒性に訴える曖昧な形の祈りになっているということができる。このことは、特に「<まさに国を愛する故にこそ>」、「キリスト者の良心的判断によって」、「祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました」という文言に見出すことができる。これらの文言は、意識的自覚的にそれらの文言から対象的になってそれらの文言を吟味検証をしない限りは、私たちは、それらの文言を何となく受け入れてしまうような形になっている。しかし、この教団の戦責告白の中の「<まさに国を愛する故にこそ>」という文言から、この告白が無条件に政治的近代国家、民族国家を前提していることを知るのである。次に、そういう<観念の共同性>を本質とする「国を愛する」という祖国愛(国家共同性を第一義性・価値性とするという祖国愛)という文言と「キリスト者の良心的判断」(個体性、道徳性)という文言から、人類史のアジア的段階に特有な共同性と個体性(道徳性)の未分化な混在を知るのである。また次に、それらの文言に「祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました」という文言を重ね合わせると、個体の概念がまだ分離されず共同体の中に包摂されていた人類史のアジア的段階に特有な儒教的な修身斉家治国平天下の政治哲学を見出すことができるのである。このような事情は、直近の「平和を求める祈り」にも受け継がれている。すなわち、直近の「平和を求める祈り」も、1967年3月26日の教団の戦責告白の水準の中で停滞したままなのである。このような現存する政治的近代国家、民族国家を無条件に前提する教団(教会)の「告白」と「祈り」とは全く違って、バルトは、先ず以て聖書的に、そして宣教論的に、神学的に、政治的近代国家、民族国家を無条件に前提しないで、国家の現在的課題、過渡的課題、究極的課題について明確に提起しているのである(参照――下記の〔注意1〕、詳論は5−5)。私は、バルトの立場を首肯する。このような訳で、教団の戦責告白も、「平和を求める祈り」も、次のような課題についても全く認識し自覚していないのである――すなわち、国家の起源について、国家の内的本質と外的本質について、また人類史における近代以降に世界普遍性を獲得した「西欧の危機」について、また日本における西欧的危機の課題とアジア的な日本的特殊性の課題という二重構造について、それゆえに現在的課題について、現在を止揚し克服するという課題について、すなわち未来を考えることについて、その場合の方法について、全く明確に提起していないのである、全く認識し自覚していないのである(参照――下記の〔注2〕、詳論は5−2〜5−4)。このことの具体的な事例は、身近なところにすぐに見つけることができる。それは、教団の戦責告白と「平和を求める祈り」を首肯した教団(教会)の牧師や神学者たちが、8世紀以降の天皇制国家を前提として、また国家に第一義性・価値性を置く国家主義者として、権威としての天皇と権力としての国家との国体を主張している佐藤優や靖国参拝推進を主張している富岡幸一郎のようなキリスト教的著述家に対して、何ら根本的包括的な原理的な批判を全く為し得ていないところに、全く為そうとはしないところに、見つけることができるのである。

 

〔注1〕:バルトは、『キリスト者共同体と市民共同体』で、「教会の存在と現状が、……(≪キリストの≫)福音(≪神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性、「永遠的実在」としてある、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものであるイエス・キリスト≫)から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(≪一切の、法的政治的支配構成、法的政治的権力、法的政治的国家、民族国家の無化≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、(≪神と人間との無限の質的差異の下にある≫)王とその御国の使信を信ずるであろうか」、と述べている。また、『教義学要綱』では、「キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、(≪神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性、「永遠的実在」としてある≫)神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラト(≪一切の、法的政治的支配構成、法的政治的権力、法的政治的国家、民族国家≫)が、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の、観念の共同性を本質とする国家、法的政治的共同性、政治的近代国家、民族国家≫)のともがらと成ることができようか」と述べている。したがって、私たちは、バルト共に、教団(教会)が無条件に「国」・「祖国」、国家、政治的近代国家、民族国家、祖国愛を前提することに対して、徹頭徹尾、決して首肯しないのである、全面的に否定するのである。まだしも、先行するイエス・キリストにおける神の愛の下で、イエス・キリストをのみ主・頭とする教会は、<まさにこの現実的な厳しい社会の中で生き生活している被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民を愛するが故にこそ>と告白するのであれば、それ故に個体的自己としての全人間の社会的、現実的な究極的総体的永続的な解放、それ故に観念の共同性を本質とする国家の無化というところに究極的課題を構想するのであれば、首肯することはできるのであるが、しかし、無条件に現存する政治的国家、民族国家を前提して「<まさに国を愛するが故にこそ>」、「国」に対する「『見張り』の使命」を果たすと告白することは、そのことは全く現存する国家、政治的近代国家、民族国家に包摂されてしまうことを意味しているから、バルト共に、私たちは、徹頭徹尾、決して首肯することはできないのである。このような訳で、教条主義的な教団の戦責告白・「平和を求める祈り」は、<再考>を必要とするのである。
 完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠な救済・平和そのものである「イエス・キリストの名」にのみ感謝をもって信頼し固執したバルトは、その完了・成就された救済・平和にのみ立脚して、観念の共同性を本質とする国家、政治的近代国家、民族国家の問題を不可避な過渡的問題として捉えると同時に、究極的課題としてはそれらはすべて無化されなければならないと考えていたのである。すなわち、バルトは、復活したキリストの再臨、すなわち終末、完成の時においては、それらはすべて無化されてしまうという観点を持っているのである。この場合、すべて無化されてしまうのであって、現存する観念の共同性を本質とする国家、政治的近代国家、民族国家が新しくされるということでは決してないのである。したがって、『バルトとの対話』に引き寄せて後述するのであるが、一部国家支配上層の意思によって動員できる強大強力な軍事組織を持つ民族国家がある限り、あくまでもある状況に強いられてある国家形態に対する相対的な選択の問題、政治的決断と政治的実践の問題が登場するだけなのである、したがってまた、あくまでも観念の共同性を本質とする国家の究極的課題は、個体的自己としての全人間が、社会的に、現実的に、究極的総体的永続的に解放されるために、無化されてしまわなければならないという点にあるのである。したがって、本当は、徹頭徹尾、無条件に政治的近代国家、民族国家を前提し、その国家共同性を第一義性・価値性として「<まさに国を愛する故にこそ>」とは決して告白しないという認識と自覚、その決断と態度と実践が必要性なのである。このような訳で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会は、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)をその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会となることによってイエス・キリストの教会であり続けようとすることが第一義的に最優先されるべきことであって、自然的な信仰・神学・教会の宣教における教条主義的な告白や祈りや情緒的な人受けのよい言動や市民運動の後追い的実践を志向し目指す教会となることが肝要なことでは決してないのである。バルトは、『啓示・教会・神学』で、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになって」おり、「国家は支配であり、文化は支配」であるから、「どのような国家形態(≪権力形態、支配形態≫)にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」という認識と自覚の必要性について述べている。このことは、あらゆる国家形態や文化傾向から対象的になって距離を取り続けるということである。
〔注2〕:ミシェル・フーコーの『禅とフーコー』によれば、人類史において近代以降世界普遍性を獲得していた西欧的段階における「西欧思想の危機」、「西欧の危機」とは、「帝国主義の終焉」、「一つの思想形態……一つの世界ビジョン、一つの社会機構」であるマルクシズムの危機、「革命という西欧概念の危機」、「人間、社会という西欧概念の危機」ということである。それと同時、吉本隆明の『世界認識の方法』、『マス・イメージ論』によれば、それは、次のように言うことができる――現在、社会制度や国家秩序によっては左右されない高度な消費資本主義的段階における「高度な資本システム」が必然的にもたらす、すなわちそのシステムの意志」そのものがもたらすシステム価値が、社会や人間を動かし、人々の共同の無意識、無意識世界を形成している。この「高度な資本システム」は、意識的に対応可能な「制度、秩序、体系的なもの」、「物の系列」に、そのシステムに対応した「マス・イメージ」(共同の無意識)を付加することを強いて、「虚構の価格上昇力」を形成する。例えば、従前は「交換価値は虚構のイメージが加わることのない、実質だけの交換価値」であったが、現在は、例えば労働量・労働時間が同質・同量の化粧品であっても、広告力やデザイン力等の見た目に美しい色や形の容器に入れることで実質的な交換価値とは別のイメージ価値が付加される。その場合、その商品は、衣食住に必要な商品である前にイメージとしての商品、ブランドとしての商品である。そうした商品が、マス・メディアを通して毎日のように流され続けていくために、大衆の無意識世界にそうした商品を身に付けたいという欲望(共同の無意識)を生み落としていく。そして、無意識的に「そうやってしか存在できなくなったとすれば」、その事態は、自分の意志によるのではなく「高度な資本システムの意志によっている」ということができる。マルクスの『ドイツ・イデオロギー』・『フォイエルバッハ論』によれば、自己身体を座とする人間の自己意識は、生理的な自己身体を風土的な自然環境に関わらせることで、不可避に風土的な自然環境から影響を受けるように、自らが不可避に疎外した諸制度(共同観念、観念の共同性)からも影響を受けるようになる。このことからいえば、戦後日本の自由主義国家制度と資本主義制度が日本の大衆に私的利害の優先意識を根づかせ、滅私奉公に基づく忠君愛国という政治的ナショナリズムや立身出世という社会的ナショナリズムや家族関係を含めて関係意識の希薄化と衰退をもたらしたように、現在「高度な資本システムの意志」が共同の無意識世界を形成しているのである。「このシステム的な価値は、社会制度や国家秩序の差異によって左右されない世界普遍性をもった様式」として、意識的に対応できる「制度・秩序・体系的なものに象徴される物の系列」を衰退・解体させている。しかし、このシステム的な文化は、「実体から遠く隔てられ、判断の表象」を喪失していて、個体の意志が介在しない分だけ、その度合に応じて「白けはてた空虚にぶつかる度合」が決定される。作家・中村うさぎは自分の体験に基づいて、次のように述べている――1992年新宿伊勢丹のシャネルで「衝動買い」したときから、「眠っていた欲望が暴走し始めた」。その後、「六〇万円の革のコートを購入する」のだが、その代金を「カードで支払った時、すさまじい快感に襲われ」た、「以来、海外ブランド物を買いあさる」、一度に買い込む金額は、「一〇〇万円、二〇〇万円とエスカレートしていき、印税が底をつき、カードが使用停止」になった、「自宅の水道やガス、電話が料金未納で止められたこと」もあった、「買物依存症がおさまったとき、今度は美容整形に走り」、現在「顔で原型をとどめているのは口と鼻先の二カ所だけ」となった、「以前なら年をとれば容貌が劣化し、静にあきらめていけた。現代人はあきらめられない地獄に突き落とされている」、それでも「私は消費社会の漂泊者でいたい」(「朝日新聞」夕刊、2006年9月22日)。情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、高度消費資本主義社会は現実的な衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、そうした社会の中で、人は、いつも正常と異常との境界を行き来する「精神の病」を生きることになる。この事態は、西欧近代以降に世界普遍性を獲得し得ていた資本主義、交換価値論の終焉・死、「世界の危機」なのである。このような訳で、人類史的な、すなわち世界史的な資本主義の現在的問題、資本主義、交換価値論の終焉・死を考察し考えることは、すなわち人類史の未来を考えることは、世界のどの地域にも存在していた人類史の原型・母胎・母型であるアフリカ的段階、縄文的段階、先住北米インディアン的段階等々にまで、そこにおけるさまざまな贈与価値論にまで時間を遡って考察することでなければならないのである。このような吉本の視線は、無階級社会という未来の理想から資本主義の終焉・死を視る「永久革命者」の埴谷雄高とは異なり、現在の資本主義、交換価値論の終焉・死から未来をみる視線である。なぜならば、資本主義は、自然の一部である人類史の自然史過程であるからである、換言すれば自然史的必然であるからである。因みに、キリスト教的著述家の佐藤は、池上彰×佐藤優『希望の資本論』で、資本主義は偶然によると出鱈目なことを述べているのだが、マルクス自身は『資本論』の「第1版の序文」で、明確に「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするもの」であると述べている(佐藤が、このマルクスの重要な立場を述べた「第1版の序文」を全く読まずに、あるいはまったく理解できずに、池上と対談をしていることは確実である、それ故にその本は、その程度の水準の本であることもまた確かなことなのである)、換言すれば資本主義は、「悪や欠陥」を持っているとしても、自然史の一部である人類史の自然史的過程が辿り着いた高度に発展した経済社会構成である、経済社会構成の尖端的形態(段階)である、そしてそのことは自然史的必然である、と述べているのである。『資本論』における「この社会は、自然の」、すなわち自然史の一部である人類史の自然史的過程の「発達段階を飛び越えることもできなければ、これを法令で取除くこともできない。しかしながら、社会はその生みの苦しみを短くし、緩和することはできる」という思惟と語りとか、「生産様式の肯定的な成果をわがものとする」とか、「その農耕共同体のいまなお前古代的である形態を破壊しないで」という『資本主義的生産に先行する諸形態』におけるマルクスの思惟と語りは、あれかこれかの「最高綱領」の観点からする評価なのではなく、「最低綱領」の観点からする評価であるのだが、その同じマルクスは、「悪と欠陥」を有する資本主義的生産、交換価値論を、あれかこれかの最高綱領においては全面的否定の対象として、すなわちそれを包括し止揚し超えていくべき対象として自覚的に考察したのである。ここには、硬直化した教条主義的マルクス主義とは全く異なった、思想家マルクスを見出すことができるのである。しかし、一般の領域でもそうであるが、ほとんどの神学者や牧師は、マルクス自身とマルクス主義とを混在させ混同して論じているのである。
 吉本の『世界認識の方法』によれば、西欧近代を「骨肉にまで受け入れた」日本における課題は、「西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機」と「その一方で、西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずって」いる日本的特殊性の課題との二重構造にある。「西欧的にいえばアジア的という概念」とは、人類史において西欧的段階からすれば、古典・古代の段階の前の、すなわちギリシャ・ローマ的段階の前の、アジア的段階という概念のことである。

 

 

 さて、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦争責任の告白、1967年3月26日)は、次のように告白している(抜粋)――「(中略)『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。(中略)」。

 

 先ず以て、教会の宣教にとって最善で最良の神学を構成し展開しているバルトの神学に基づいて考えれば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての<客観的>に存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)にのみ信頼し固執し連帯して、教会の現在的課題を考えること、現在を止揚し克服することを考えることは、すなわち未来について考えることは、その起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)にまで時間を遡って考えることでなければならないのである。また、先に引用したバルトの思惟と語りに基づいて考えれば、すなわちキリスト者が、「……神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している」ならば、「……その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の、法的政治的支配構成、法的政治的権力、政治的近代国家、民族国家≫)のともがらと成ることができようか」(『教義学要綱』)とか、「国家は支配であり、文化は支配」であるから、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)というバルトの思惟と語りに基づいて考えれば、教団の戦責告白は、先ず以て聖書的に、そして宣教論的に、神学的に、次のような告白とならざるを得ない、と言うことができる――「(中略)イエス・キリストをのみ主・頭とする教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。『世の光』『地の塩』であるイエス・キリストをのみ主・頭とする教会は、イエス・キリストにおける「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して、イエス・キリストをのみ主・頭とするが故に、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、イエス・キリストをのみ主・頭とすることを怠ったわたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。イエス・キリストをのみ主・頭とすることを怠ったわたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにせざるを得なくなりました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、今後は、イエス・キリストをのみ主・頭とする教会として、特に被支配としての大多数の一般の人びとのためにはもちろんのこと、すべての人びとのために、イエス・キリストにおいてのみ完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和にのみ、それ故にその聖書的啓示証言にのみ感謝をもって信頼し固執し連帯して、すべての人々がその純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために、先行するイエス・キリストにおける神の愛の下で、純粋なキリストの福音・純粋なキリストにあっての神を尋ね求める『神への愛』と、そのような『神への愛』を根拠とした『神の讃美』としての『隣人愛』を――すなわち、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを為していくことができるように祈る者であります。(中略)」。

 

 

 私は、現在、私自身のホームページにおいて、その処女作から晩年の著作や「最後の言葉――一つの名前」(「イエス・キリストの名」のみ)に至るまで、現在までのところ、教会の宣教にとって最善で最良の神学を構成し展開した、すなわち現在のところ唯一信頼できるイエス・キリストをのみ主・頭とする教会の宣教と神学を構成し展開したバルトの諸著作を、あくまでもカール・バルト自身の<教会教義学ゼミ>の一学生としてゼミ方式で論じている者である。したがって、私は、やはり教会の宣教にとって最善で最良の宣教を志向し目指すということを第一義的に最優先して、教団の戦責告白(抜粋)について再考してみたいと考えたのである。先ず以て、このことを断っておきたい。したがってまた、私は、その問題点を扱うにあたって、決して単なる批判のための批判を為そうとしているのではないということを、換言すればあくまでも生産的な批判を志向し目指しているということを断っておきたい。また、正直に書いておくのであるが、私は、キリスト者として、バルトの平和論等を首肯する者である(詳論は、5−5で後述する)。また、吉本隆明の国家論(すなわち革命論)等を首肯する者である(詳論は、5−2〜5−4で後述する)。

 

 さて、抜粋した教団の戦争責任の告白や「平和を求める祈り」に対して、牧師や神学者たちを含めて私たちは、日本的特殊性として、情緒的に分ったつもりになることもできれば、情緒的に受け入れることもできる。私は1947年生まれであるが、20歳になってから日本基督教団の教会に行き始めた者である。それは、ちょうどこの教団の戦責告白が為された年と重なっていたと思う。正直に言えば、その頃の私にとっては、戦責告白よりも、ただ自分自身の中にあるどしようもない<虚しさ>を克服したいという願望の達成だけが問題であった。それだけでなく、ここでまた正直に言えば、あの戦争時に、教会に通っていたわけでもなく、国家支配上層にも戦争自体にも全く加担していなかった私は、その教団の戦責告白には全く関心を持つことはできなかった――否、もっと正確に言えば、キリスト教会に通い始めた者として、その戦責告白を情緒的には分ろうとし受け入れようとした、換言すればそれを、例えばそこに並んでいた「国」・「祖国」、祖国愛、「キリスト者の良心」とか等々の文言を自己吟味し自己検証して受け入れたのではなかった、すなわちそれらの文言と内容を、自己吟味し自己検証し明確化したうえで、実感的に、自覚的に、分かって受け入れたのではなかった。いずれにしても、先にも述べたように、教団の戦責告白は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に信頼し固執し連帯するという仕方ではじめて成立する教会の<客観的>な信仰告白および教義では全くないし、また私の体験からも分かるように、教団(共同性)の中のキリスト者一人一人(個体的自己、個人)の意志の総和として成立したものでもないのである。さらに正直に書けば、その頃の私のキリスト教について知識は、高校の「倫理政経」2単位(今は何と呼ぶかは知らない)程度のものであった。すなわち、アウグスティヌスの『告白』と『神の国』についての全く皮相的なちょっとした知識、また『神学大全』を著した「哲学は神学の婢」という方法論的に哲学と神学の混合学・混在学(自然神学)を目指した、スコラ哲学者あるいはスコラ神学者としてのトマス・アクィナスというくらいの知識しか持ち合わせていなかった、ちょうど自然神学は「人間が生まれながらにもつ理性によって神の存在を捕えることができるという考え方」であると説明し、トマス・アクィナスの神学がその典型であり、トマスは「アリストテレスの哲学を神学にもちこむことで、人間の理性では自然的に神を認識することはできず、神の啓示と恩寵によらなければ、神を知ることはできないというアウグスティヌス的な信仰理解をこえようとした」(『使徒的人間―カール・バルト』)と述べたところの、高校倫理レベルの知識でもって自然神学を論じた、バルトにおける自然神学の概念内容を理解していない、バルト読みのバルト知らず富岡幸一郎のように。
 因みに、富岡は、どうしてバルト読みのバルト知らずかという点について、生産的批判ということを念頭に置いて、ここで少し述べておきたい。
◎先ず以て、本のタイトル『<使徒的>人間――カール・バルト』という概念の使用について、富岡とは全く違って、バルト自身は、自分を<使徒的>人間とは全く自己認識・自己理解・自己規定していないのであって、それゆえにバルトは、自分自身を、あくまでも神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会における<ただの人間>として自己認識・自己理解・自己規定していたのである。すなわち、富岡とは全く違って、バルト自身の<使徒的>という概念は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉――すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方(神の子、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)である「イエス・キリストご自身」によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された人間(その第二の形態である聖書的啓示証言における預言者および使徒たち)というところでのみ成立する概念なのである。富岡は、このことを全く認識し理解していないのである。おそらく富岡は、バルトの『教会教義学 神の言葉』そのものを読んでいないのである。なぜならば、それを読んでいれば、バルトを論じる本に、このような馬鹿げたタイトルを付けるはずはないからである。また、前述したように富岡が、トマスは自然神学に属し、アウグスティヌスは<非>自然神学に属するという皮相的一面的固定的な区別の仕方をしているのであるが、それは、富岡がやはりバルトの『カント』そのものと『教会教義学 神の言葉』そのもの等を読んでいないことの証拠なのである。このような訳で、私は、富岡はバルト読みのバルト知らずだということを、根拠を示すことなく出鱈目に書いているわけでは決してなくて、バルトの著作そのものと富岡の言葉に即して、ただ事実に基づいてだけ書いているのである。
◎このように、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教に対して、<非>自然神学の段階へと移行して思惟し語っているバルトと、旧態依然として自然神学の段階を停滞し循環してバルトを論じている富岡との、その自然神学等の<問題対象>に対する対象了解の度合・抽象度・理解度の差異性あるいは対象認識の度合・抽象度・理解度の差異性は明確なのである。バルトは言う、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性(≪人間に内在する道徳性、意志の自律あるいは自律の意志≫)にあるとするような信仰である」とした自然神学的なカントは、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に信頼し固執し連帯した「啓示と信仰の出来事」に基づくキリストにあっての神への信仰ではなく、人間に内在する道徳性に対する信仰について論じる「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で」、自然神学的な「アウグスティヌスの教説と一致する」、と(『カント』)。また、「存在するものそのもの」「その純然たる造られた存在」(被造物的存在)に依拠したアウグスティヌスの「<造ラレタモノヲトオシテ>(≪被造物を通して≫)、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ<三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ>、<ソノ跡>ハフサワシイカタチデ<被造物ノウチニ顕レテイル>(≪被造物に内在している≫)ノデアル>」という神と人間との無限の質的差異を後景へと退けたところでの自然神学的な思惟と語りに対して、バルトは、そのような三位一体の跡は、神と人間との無限の質的差異の下で「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない、と言う。すなわち、バルトは、客観的に存在しているキリストにあっての神の啓示とは独立したところの、「最も身近な最も高貴な認識根拠」であり「聖書的・教会的・教義的前提」としての、人間に自然的に生来的に内在する「想起(記憶)、知解、愛」、「人間の中での神の像」(人間に内在する神の像)――このようなわれわれ人間の「理性に内在している神概念」の「再想起」において「創造しつつ(≪人間の自由な自己意識・理性・思惟の自己表現として≫)神について語ろう」とするベクトルを持っている人間に内在する「三位一体の痕跡」は、神と人間との無限の質的差異の下で「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない、と言うのである。またバルトは、次のように言う――アウグスティヌスにおけるそれは、客観的な「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」、それ故にキリストの霊である聖霊の証しの力や、神の言葉自身の出来事の自己運動や、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてのみ終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を信頼しないところの、ただ単なる人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動によって対象化された人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかないし、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」に過ぎない、と。したがって、バルトは、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教、その思惟と語り、その教会のひとつの機能である「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解(具体的には、その神の言葉の第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に信頼し固執し連帯した教会の宣教、その思惟と語り、その神学は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」を自覚した人間の言語を介した直観と概念を用いることを前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、それとは全く逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」する、と述べたのである。アウグスティヌスが自然神学的に「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語ったのに対して、バルトは<非>自然神学の段階へと超出しその立場に立脚して「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように語ったのである(『教会教義学 神の言葉T/1・2)。このような訳で、NHKや朝日等のメディア大手の情報、またそのようなメディアにおける知識人や著述家たちの知識、自然科学系ではない特に人文科学系の学者の知識、政治家たちの発言はもちろんのこと、キリスト教における神学者たち、著述家たち、牧師たちの知識、教団(教会)やその指導層の知識や情報は、根本的包括的な原理的な誤謬にあるいは虚偽に普遍性や組織性の後光をかぶせて語っていることがあり得るということ、それ故に私たちは、それらの知識や情報を、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることはやめなければならないのであり、それ故にまた私たちは、それらの知識や情報から対象的になって距離を取るために、あくまでもその資質、その知識の水準、その思想の質において優れた世界的な思想家の言葉に自ら直接的に聞き教えられながら、それらの知識や情報について、拙いながらも、必ず、自分自身で、自己吟味し自己検証してみることが大切なことであり必要なことなのである。