派遣社員に「突然来た契約終了の通告」(ヤフーニュース)を読んで思ったこと
派遣社員に「突然来た契約終了の通告」(12/20掲載されていたヤフーニュース、錦光山雅子/ハフポスト日本版ニュースエディター)を読んで思ったこと
「3カ月契約という細切れの更新を繰り返しながら、2001年から同じ会社で17年近く事務の仕事を担ってきた派遣社員(渡辺さん、58歳、給料手取り22万円……賞与、交通費、退職金<なし>)」に対して、「突然……契約終了の通告」(この12月6日の出勤を最後に、12月31日付で派遣先の会社を雇い止めになる)がされた・なぜかというと、派遣社員の派遣期間の上限を3年と定めた2015年の改正労働者派遣法への移行措置が終わるのが2018年9月末で、労働契約法は、「有期雇用」でも「同じ勤務先で契約を更新しながら、通算5年以上働いてきた」などの条件を満たせば、2018年4月以降は、本人が「無期雇用」への転換を希望しそのことを企業に申請すれば企業側は拒否できなくなるから、というニュースである。この経緯は、10月30日、渡辺さんに、派遣会社の営業担当の職員が会いに来て、「突然、(≪その理由も示さず≫)12月末をもって次の更新はありません、と告げ」た時からはじまった。このように、突然に契約終了を告げられた渡辺さんにはもちろん責任がないように、そのことを告げた派遣会社の一兵卒の営業職員個人にも責任はないだろう。なぜならば、擬制民主主義でしかない議会制民主主義の下における政治的近代国家(あたかも対立・争いのない観念の共同性を本質とする法的政治的に統一された自由・平等の公的共同性の一員、公民によって構成された)を第一義性・価値・天国として頂いているところの現実的な近代市民社会においては、誰であれ人は、ある職業、生活、資質、感情、思考、思想、意志を持った私人として、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活を強いられているからである(この意味で、資本家個人が問題なのではなく制度としての資本家が問題であるように、このニュースに登場する一兵卒の営業職員個人が、個々の公安警察機動隊員が、個々の自衛隊員等々が問題なのではなく、制度としてのそれが問題である、システムそのものが問題である。したがって、支配の側からの構造改革主義に対して、同じ土俵上で下からの構造改革主義によって対峙し・政治的合理性に基づいて観念的法的政治的に調整すればよいというような問題ではない)。いつも年末を迎えようとしている時期に起こるこのよう悲惨なうら悲しい生活上の出来事を招いたその張本人(元凶)は、上・支配の側からの構造改革を目指した構造改革主義者で、日本の社会を安定させてきた終身雇用制と年功序列型賃金体系という日本の良き慣行を破壊してしまった小泉純一郎と竹中平蔵にあるのである。そのような軽薄な彼らの構造改革主義は、結局は、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義、すなわち国家を第一義・価値とする経済的自由至上主義・至上市場主義経済化の猿真似でしかなかったのである。われわれは、対立と争いの競争社会(弱肉強食の勝ち負け社会)におけるニュースにあるような悲惨なうら悲しい社会の実態を知らされる時、そしてそれに対する政治家や経済学者たち等のコメントを聞く時、いつも頭に浮かぶのがマルクスの次の言葉である。小泉や竹中のような軽薄な政治家や経済学者たち等の主張に対して、生産資本主義段階においてであるが(現在は高度消費資本主義の段階のただなかにあるのであるが)、マルクスは次のように述べている――「もしも(≪半アジアの≫)ロシアが世界において孤立しているとしたら、ロシアは、西ヨーロッパが原始共同社会の存在以来現状にいたるまでの(≪人類史の≫)長い一連の発展を経過してはじめて獲得した(≪西欧近代における≫)経済的征服を、独力でつくりあげなければならないであろう。(中略)しかし、……、ロシアは、近代(≪西欧近代≫)の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的である形態(≪人類史のギリシャ・ローマ的段階の前のアジア的段階における相互扶助意識、日本の社会を安定させてきた終身雇用制と年功序列型賃金体系という日本の良き慣行等≫)を破壊しないで、それを発展させ変形することができる(≪ここに、指導層や知識層の役割がある≫)」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)。言い換えれば、人類史的な現在的課題、すなわち現在を止揚し克服する課題を考えることは、アジア的段階の前の人類史の原型・母型・母胎(例えば、アフリカ的段階や縄文的段階等)にまで時間を遡って考えることでなければならない(すなわち人類史の原型にまで時間を遡って、交換価値論ではないところの贈与価値論について考えることでなければならない)。いずれにしても、日本の民衆と社会の安定にとって良きものであった日本の慣行を発展的に蓄積させていくことをしないで、小泉と竹中は、社会ではなく国家を第一義・価値とする国家社会主義の下で先ず以て経済社会構成体を主導する企業を守るために、無能な政治家・経済学者として、軽薄にもそれを破壊してしまったのである。そのことが、日本の社会を非常に不安定にさせていったひとつの要因であると言えるだろう。現在確かに情報科学や情報技術の発達した高度情報社会下で生活者大衆は、言語的・映像的マス・メディアの発達によって、状況的に「非言語的、非映像的な存在」(観念ではなく生活を第一義・価値とする生活者大衆)として存在することを許されなくなってしまった・その生活者大衆は、量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場する知的大衆へと大きな変容を受けてしまった・しかしながら、現在でも社会的存在の自然基底(生誕し、成長し、仕事に就き、婚姻し、子を産み、家族を持ち、育て、老いて死んでいくという生活を第一義・価値とする生活者大衆、常民、したがって知識人とは、思想的に知・観念の自然的過程と意識的過程との構造を認識し自覚した者のことではなくて、すなわちその認識と自覚を持たないところの、その生活過程からただ単に知・観念の頂へと一方通行的に向かう知・観念の自然過程を知的・観念的に上昇していくところの者たちのことである、その知・観念に第一義性・価値性を置く者たちのことである)としてのその存在は、「支配の制度」・システムがある限り、知的大衆や知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準であって、それゆえに時代状況によって変容していくその大衆像と大衆的課題を、自らの知識・思想に繰り込み包括していくところに知的大衆や知識人の自立的思想は成立するのであり、その知識・思想のリアリティを獲得できるのであり、その知識・思想は反体制的でもあり得るのである。しかし、現存する学者(知識人)や正義漢ぶったメディア界の朝日およびNHKは、その知識・情報は、相も変わらずそのことに対して全く認識し自覚していないのである、無知なのである、それ故に戦前にそのような知的体質の下で、積極的に日本の天皇制国家体制に加担しそれを支え、日本民衆を戦争へと駆り立て、その家族や親族や友人を死に追いやったように、一般民衆を悲惨さのただ中にうら悲しさのただ中に追いやっているのである。
さて、出勤最後の日、渡辺さんは、「午前8時半、会社のあるビルの入口で、……いきなり会社名が刻んであるプレート板を、こぶしで何度も叩いて、『この会社が私の人生を搾取したんです!』」・「そして首にぶら下げている『入館カード』を取りだして」、「私を雇い止めにした総務部の最後の言葉は『最後の日にこのカードを返してください』のたった一言」だったと言い、「『このカードぼろぼろでしょう。私みたい……』と絶句し」、「この時期、同じ派遣先で働いていた別の派遣社員5人も、雇い止め」になった、と述べたという。この渡辺さんは、今回の事態について、次のように総括している――「派遣労働という制度自体がおかしい。そんなことを、遅まきながら50代になって気づきました。40代までは『自分磨き』に熱心で、資格も10個以上取りました。……働きぶりを認めてくれ、会社に正社員への推薦状を書いてくれた部長もいました。でも、認められませんでした」(その希望は叶わなかった)・「『派遣』特有の理不尽な働かされ方は、どういう法的根拠があるから許されているのだろうか。個人的なことだと思い込んでいたことが、政治や社会とつながっていると分かってきました」。このような訳で、われわれは、学者(知識人)やメディアの知識や情報を、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることを決してしないで、あくまでも自らの生活実感と身近な生活圏、生活過程の考察に基づいて自立した生活思想を構成し、純粋に人間的領域における課題について考える場合、革命の課題を国家を国民にどこまでも開いていくというところに、そしてその課題を過渡的課題と究極的課題との構造として明確にしていくというところに、そしてまたその課題の究極像を個体的自己としての全人間の社会的な、すなわち現実的な、究極的総体的永続的な解放に、それ故に観念の共同性を本質とする国家の無化に置くというところに構想しなければならないのである。