本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

キリスト教界時評――新年早々、考えさせられたこと

キリスト教界時評――新年早々、考えさせられたこと

 

 

 新年早々、私の全く知らない、かつてファン・ルーラーに依拠した手紙をいただいた方から、また突然、今回は<年賀はがき>をいただき、やはり読み難い字があったり、○禁という丸の中に禁が入った字があったりで、内容的に難しいというよりも理解しづらい文章であったのだが、その方の、
(1)バルトは「彼の時代状況にあっての対処療法としては私が口挟むまでもなく秀逸」(換言すれば、バルトは<時代の子>に過ぎなかったということだろう)という言葉、また、
(2)「吉本(≪隆明≫)は『現場、実際の処よりも思想が大事』」という立場で、それは「バーチャル・リアリティ」・「思想の上こそ正しい事実」という立場だから、観念論の立場であるというような言葉、そしてまた、
(3)論理的展開が全然違っているにもかかわらず、通俗的な「迷言」としての「曽野綾子」の「必要悪」としての「原発」論と、吉本隆明の思想の言葉における「原発」論とを一緒くたしたような言葉(換言すれば、吉本の一貫性のある思想としての原発論を根本的包括的に原理的に理解しないまま、通俗的な曽野と同じレベルに通俗化してしまって述べている言葉)、から、
それらの問題点について、時間がもったいないから、ほんとうは、前回述べた『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十節 教会の中での権威」「一 言葉の権威」(その3−3)や私のホームページを読んでいただけば答えが得られるようになっています、というように書けばそれで済むのであるが、ここで、簡潔に少しだけ述べておこうと思う。

 

 その前に、私は何度も書いているのであるが、また私の年齢から言って時間がもったいないのでつまらない論議には関わりたくないのであるが、かつてファン・ルーラー紹介者の牧師・関口康が私に投げかけた言葉とは全く違って、私の立場は明確なのであって、それは、次のようなものである――私にとっては、先ず以て第一義的に重要な事柄は、カール・バルトではなく、また吉本隆明等々ではなく、徹頭徹尾、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストなのである、そしてその次に、このイエス・キリストにのみ感謝を持って信頼し固執していくというところにおいて、それゆえに具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯していくという関係において、その信仰・神学・教会の宣教においてはカール・バルトが重要なのであり、また人間学においては吉本隆明等々が重要なのである。まさに、この意味においてのみ、私は、「法然にだまされて、念仏して地獄におちたからとて、すこしも後悔はしない」と唯円に述べ、機縁による一念義に生きた親鸞のように、私の信仰・神学・教会の宣教については、終末論的限界の下で、徹頭徹尾全面的に、バルトの信仰・神学・教会の宣教に依拠したいと思い、そう決断し、そうしているのである。なぜならば、私は、自分の拙さ・未熟さを自覚しているからである。したがって、そういう仕方でのみ、一方で、私は、信仰・神学・教会の宣教においては、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したバルトに連帯することを通して「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯するのである。このような訳であるから、ここで再びはっきりと述べておきたいのだが、神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家たち等々は、バルト等を批判する場合は、先ず以て、バルト等を根本的包括的に原理的に理解することに専念すべきなのである。なぜならば、そうでない場合は、通俗的な一面的皮相的固定的な評価や批判しかできないからである、それゆえに根本的包括的に原理的に止揚することができないから、新たな次の段階へと移行できないからである、すなわち新たな次の段階へと超え出ていけないからである。したがって、貴重な時間を、通俗的な一面的皮相的固定的な軽薄で出鱈目な評価や批判に費やすることをしないで、ファン・ルーラーを知りたいのであれば、その時間を、ファン・ルーラーをもっと根本的包括的に原理的に理解し把握することに費やした方がいいのである。そうすることに専念した方が、余っ程、生産的行為となるのである。そして、表現への湧出してくる欲求があるのであれば、そうして専念して得た成果を外に向かって表現していけばいいのである。現在は、そうした表現の場を誰もが確保できる時代水準にあるのだから、情報科学や情報技術の発達と高度化はそうした状況をもたらしているのだから、儲けることを第一義としたり・受けることを第一義としたり・時勢や時流に流されたりすることなしに、表現できる場をもたらしているのだから。

 

 バルト自身、キリスト者全体に対して、次のように述べている――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」(『啓示・教会・神学』)を負っている、B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜなら、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」・「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」(『教会教義学 神の言葉』論)のことである。私は、バルトのこの言葉を、徹頭徹尾、全面的に、首肯する者である。

 

(1)はがきの方の言葉:一面的皮相的固定的なバルト理解に基づく、バルトは「彼の時代状況にあっての対処療法としては私が口挟むまでもなく秀逸」(換言すれば、バルトは<時代の子>に過ぎなかったということだろう)という言葉、について――
 人は誰であれ、自分の意志とは全く無関係に、ある歴史的現存性の中に、その社会構成・支配構成・文明――文化構成の中に、ある親の下で、生誕する。そして、人は、その歴史性・類――現存性・個の関係と構造を、生きる。このことにつて、吉本隆明は次のように述べている――人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかない」ものであるから、個体としての人間は、そうした人類史的成果としての社会や制度を不可避に生きる以外にはないし、親に象徴される前世代に衝突する「青年期初葉」において、個人としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であることを知るのであるが、いったんそうした「現実に衝突してからは」人は、「何々させられる」・「何々せざるをえない」・「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにしてある時代性の中で個の現存性を刻んでいく者である。言い換えれば、人間の歴史は、「すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」のである。したがって、私は、自分自身の体験の思想化に基づいて、次の事柄を、徹頭徹尾、全面的、首肯する者である――@神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける連続性において、第一の形態(客観的な「啓示の実在」そのものである<イエス・キリスト>)および第二の形態(最初の第一のしるし、啓示の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である<聖書>)ならびに第三の形態(第一の形態と第二の形態に信頼し固執し連帯した啓示の「概念の実在」、<教会・教会の宣教>の客観的な信仰告白・教義)、の関係と構造・秩序性において存在する。したがって、オリジナルな信仰・神学・教会の宣教は、ないのである。したがってまた、バルトは、一方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」(『啓示・教会・神学』)ると同時に、他方で、その信仰・神学・教会の宣教に時代性や個性を刻んだのである。このような訳であるから、バルトは<時代の子>に過ぎなかったというような通俗的な評価の仕方は、一面的皮相的固定的な、それゆえに「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)における形而上学的抽象的な認識でしかないものなのである。したがって、私は、この意味において、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会」における、全く以て通俗的な、前期バルトと後期バルトを二元論的に論じる形而上学的一面的皮相的固定的抽象的なバルト論を、あるいはバルトの著作のある微小な部分を拡大鏡にかけてバルトを論じる形而上学的一面的皮相的固定的抽象的なバルト論を、総体的に全く評価しないのである。なぜならば、そのような全く以て通俗的な論じ方では、バルトの信仰・神学・教会の宣教を、根本的包括的に原理的に認識し理解することはできないからである、A「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪ここには、このような経済的カテゴリーだけでなく、言語、対・家族――親は前世代の象徴、も含まれる≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)。

 

(2)はがきの方の言葉:二元論的発想からする、それゆえに党派的発想からする、「吉本(≪隆明≫)は『現場、実際の処よりも思想が大事』」という立場で、それは「バーチャル・リアリティ」・「思想の上こそ正しい事実」という立場だから、観念論の立場であるというような言葉、について――
 はがきの方は、結局は何が言いたいのかと言えば、観念論か唯物論かという二元論的発想に基づいて、吉本は「現場、実際の処よりも思想が大事」という立場で、それは「バーチャル・リアリティ」・「思想の上こそ正しい事実」という立場だから、観念論の立場であるというようなことを言いたいのである。そして、おそらくは、牧師・関口康と同じように、ファン・ルーラーは違うが、結局は論理的過ぎるバルトもそうだ、ということを言いたいのである。したがって、先ずは、ファン・ルーラーに依拠して形而上学的一面的皮相的固定的抽象的にバルトを論理的過ぎて観念論的であるというような批判(内容的にそうである)をしていた牧師・関口康に対しても述べたことであるが、バルト自身は、『証人としてのキリスト者』の「討論」における質問に対して、次のように述べていたことを載せておこう(私は、このバルトの言葉を、『バルトの生涯』から言って妥当性のあるものとして、徹頭徹尾、全面的に、首肯する者である)――(バルトの信仰・神学・教会の宣教に対して)「『抽象的』とか『理論的』とかいう言葉をお洩らしになったが、私も多少は、経験を持っているということを、信じていただきたい。私もまた、一人の近代人であり、私もこの時代(≪ある社会構成・支配構成・文明――文化構成の時代水準のただ中≫)に立ち、この時代の問題を、やはり見ている。生活の問題が重大だということを、私に向かってそれほど熱狂的にお教えになる必要は、恐らくないのである。否、私にもやはり、生きねばならぬ自分の実際生活があり、しかもそれは、激烈な現代の只中においてである。したがって、私は、諸君に向かって、こう言うことができる。すなわち、諸君がここで耳にされたようなところ(≪バルトの信仰・神学・教会の宣教における、その原理・その認識方法と概念構成、教義、理論、思想――観念≫)に私が達したのは、ほかならぬこの生活においてであり、ほかならぬ近代世界との対決においてなのだ」。

 

 言葉だけでなく行為も、理論だけでなく実践も、あるいは、言葉か行為か、理論か実践か、あるいはまた結局は二元論に過ぎない折衷的混合論、という形而上学的一面的皮相的固定的抽象的な二元論的発想は全く駄目なのであって、理論それ自体があるいは言葉それ自体が、その原理・その認識方法と概念構成それ自体が、おのずから、実践や行為へと向かわしめる水準・質を持ったものでなければならないのである。したがって、両者を架橋する思想を、両者を往還させた思想を、獲得することが重要なことなのである。そして、私の知る限りでは、このことを認識し自覚的に担ったのは、神学者ではバルトだけだったのである――「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)<おのずから>実践に、決断に、行動になって行った」、「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」(『バルトの生涯』)。人間学においては、マルクスや吉本が、そのことを認識し自覚的に担った――「マルクスの完結した体系(≪自然哲学、経済学、過渡的課題――究極的課題における国家論・革命論≫)は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、理論がかれを実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」(吉本隆明『カール・マルクス』)。いずれにしても、この問題に限らず、二元論的発想や多元論的発想(佐藤優の党派主義的多元主義――内容的にそうである)は、結局は党派性に依拠した党派主義であって、それゆえに根本的な対立は永続してしまうから駄目なのである。したがって、吉本は、次のように述べたのである――「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である(『思想の基準をめぐって』)。バルトは、次のように述べている――(≪私たちは、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯することを通して、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、「イエス・キリストの名」、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派、学派、思想傾向、時流・時勢、社会的政治的な言説や運動、社会構成・支配構成・文明――文化構成≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』論)、そしてこの「一つの事柄」(「イエス・キリストの名」)だけが、教会の宣教における福音が「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡すことができ、また私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡すことでき、そしてまた「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」、場所なのである。

 

 さて、吉本の『詩とはなにか 世界を凍らせる言葉』によれば、詩は、この世界に対する、自己自身の内在的な資質や感性における異和からか、外在的な社会的時代的状況に不可避に強いられてか、生み出されるところの自己の内面から湧出してくる人間的欲求に基づいた自己表出としてまずあるものである。すなわち、先ず以て、自分が自分に対して語る言葉なのである。そして、思考し詩作し思想する。それは、自己と世界との関係における異和性の解消と和解を希求する内発的な自己表現<欲求>である。そして、吉本は、百人百様の答え方の中で、「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとうのことを、かくという行為で口に出すことである。こう答えれば、すくなくともわたしの詩の体験にとっては充分である」、と述たのである。
 また、そこでは、次のようにも述べられている――@「戦後、時代がかわり社会は一変したかにみえたが、ただひとつかわらないことは、素直で健全な精神は、社会を占有し、そうでないものは傍派をつくるという点である。(中略)革命的立場にあるものを批判することは、支配者に荷担するものだという論理が擬装された信仰にすぎないことを看破できる革命的なインテリゲンチャに出遭ったことはない」、A「現実の社会では、ほんとうのことは流通しないという妄想は、あるひとつの思想の端緒である。それとともに、(≪自己意識の対自性、対自的となった人間的意識、言語の自己表出、としての対自的意識、における≫)詩のなかに現実ではいえないほんとうのことを吐き出すことによって、抑圧を解消させるというかんがえは、詩の本質についてある端緒をなしている。抑圧は社会がつくるので、吐き出しても、またほんとうのことを吐き出したい意識は再生産される。だから、詩は永続する性質をもっている。(中略)詩の場合には、ほんとうのことはこころのなかにあるような気がし、(≪自己意識の対他性、対他的な自己意識、言語の指示表出、としての対他的意識・実践的意識、における≫)批評文の場合にはある事実(現実の事実であれ、思想上の事実であれ)に伴ったこころにあるような気がすることである。だから詩作が途絶えがちであった時期、わたしは内発的なこころよりも、事実に反応するこころから、ほんとうのことを吐き出してきたということはできる」。
 この批評文の領域における吉本の重要な課題は、知識人(知識)における、自立の課題であり、いつも一般大衆に閉じられて行く党派性の止揚の課題であり、転向論の総括の課題であり、安保闘争の総括の課題であり、大学紛争の総括の課題であり、社会構成・支配構成・文明――文化構成の時代水準によって変容する大衆の原像を、具体的には、その大衆像や大衆的課題を確定し自らの知識に繰り込んでいく課題であった。総括的に言えば、戦後過程における知識人の成熟度の問題であった。この吉本の意志のベクトルは、社会を考える場合にも、国家を考える場合にも、自己と世界との関係における異和性の解消と和解を含めて、生活に重きをおく大多数の被支配としての一般大衆(現在では、情報科学・情報技術の発達によって、知的な一般大衆へと変容した)の救抜にあるだろう。なぜならば、吉本は、例えば、歴史の主人公(価値・第一義性)は<書かれた歴史>に登場する支配上層や英雄や知識人やエリート(キリスト者では、国家主義ばかりでなくエリート主義を標榜する佐藤優が、その典型である)にあるとする歴史観(知識、観念、その在り方)を転倒し(根本的包括的に原理的に止揚して)、<書かれた歴史>には登場しない大多数の被支配としての一般大衆を歴史の主人公(価値・第一義性)とする歴史観(知識、観念、その在り方)を志向し構想しているからである。言い換えれば、吉本は、知識人(知識)が、生活的日常からの逸脱過程の果てに想定される、それゆえに知識(観念)的上昇を志向する知識(観念)の自然的な往相過程に想定される知識の頂きから、今度は、再び、還相的・意識的・自覚的に下降していくことで、社会構成・支配構成・文明――文化構成の時代水準と共に変容していく<書かれた歴史>には登場しない大多数の被支配としての一般大衆の大衆像・大衆的課題を絶えず繰り返し繰り込んでいくところに、すなわち思想にとっての普遍的な価値基準としての社会的存在の自然基底である「<大衆の原像>」(具体的には時代と共に変容していく大衆像・大衆的課題)を「価値そのもの」として「志向する」知識人(知識)に、知識人(知識)の自立の課題を見出したのである。この自立思想からは、大衆同化、俗物化、大衆物神、大衆至上主義、大衆迎合、大衆啓蒙、ということは出てこないのである。そして、ほんとうは、この自立思想においてのみ、その知識、思想、観念は、リアリティを獲得することができるのである。なぜならば、「人間の生き方、存在は等価だとすれば、その等価の基準は、大衆の<常民>的存在の仕方にある」から、「一般的には、生まれ、成長し、婚姻し、子を生み、……賃金を獲得し、(≪子を育て≫)、老い(≪て死んでいく≫)という生涯について、人々は<空しい>の代名詞として使おう」とするのだが、「どんな時代でも、こういう平坦な生き方を許」さないので、「大なり小なり波瀾はどこにでも転がっていて、個人の生涯に立ち塞がってき」て、それゆえに「人間は大なり小なり平坦な生き方の(≪思想にとっての普遍的な価値基準としての社会的存在の自然基底である大衆の≫)<原像>からの逸脱としてしか生きられ」ない。そして、「この逸脱は、まず、生活圏からの知的な逸脱としてあらわれ(≪――第一義性・価値としての、大衆の原像、その生活過程から、世界的な尖端的知識へと上昇していく知識(観念)的な逸脱過程に想定されるものが、意味としての知識人であり、そこに知識人の出自がある、いわば、知識人は、観念を本質とする意味としての非日常的な知識世界を、あたかも現実的な生活を本質とする価値としての日常的な生活世界であるかのように転倒させた人間である、したがって、知識人は、自らのその存在・その思考・その実践のベクトルを、自らの現実的な生活圏におくのではなく、生活圏の外・彼岸に、観念的な知識世界に、観念の自体構造とその自己増殖過程に、置く人間である、往還思想を認識し自覚し持たないところの、価値からの逸脱過程にある意味的世界へと偏向した人間である――≫)、また、強いられた生存の仕方の逸脱としてあらわれます。そうだとすれば、かつてどんな人間も生きたことのない(≪大衆の≫)<原像>(≪その社会構成・支配構成・文明――文化構成の時代水準と共に変容していく大衆像と大衆的課題≫)は、価値観の収斂する場所として想定してよい……」 (『思想の基準をめぐって』)、からである。

 

 このような訳で、知識人(知識)の思想的課題は、「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会」等の既存の知識人による知識の転倒された在り方を再転倒するところに想定することができるのである。人は、日常と非日常、現実的な生活世界と観念的な知識世界、の総体を生きることを強いられているのであるが、ある資質や状況に強いられて、生活に重心をおくか知識に重心をおくかという差異性を持っている。吉本の親鸞論における「非僧・非俗」論や「往相廻向・還相廻向」論等を辿ってみれば、「非僧」は、「還相廻向」による「非知」への下降であっても「無知」との同化ではない、それゆえに「非僧」は、社会構成・支配構成・文明――文化構成の時代水準と共に変容していく大衆原像としての大衆像や大衆的課題の知識過程への自覚的な繰り込みという、知識の意識的な自覚的な下降過程による「非知」化であって、「無知」との同化を意味しない。したがって、「非僧」は、大衆同化、俗物化、大衆物神、大衆至上主義、大衆迎合、大衆啓蒙、時勢や時流への同化、ではないのである。
 このような訳で、現在、情報科学・情報技術の高度な発達による高度情報社会下で生活者大衆は、言語的・映像的マス・メディアの発達によって、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなってしまったのだが、すなわち生活者大衆は、量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場する知的大衆へと大きな変容を受けてしまったのだが、現在でも社会的存在の自然規定であるその存在は、「支配の制度」がある限り、知的大衆や知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準としてあるのである。したがってまた、その社会構成・支配構成・文明――文化構成の時代水準と共に変容していく大衆原像としての大衆像と大衆的課題を繰り込むことができない場合、その知識人(知識)は、リアリティを喪失するのである。また、そのような知識人(知識)は、たとえ反体制を標榜していたとしても、法的言語や政策的言語を介して、観念の共同性を本質とする法的政治的国家(支配)に加担して行くことになるのである、それゆえに、大多数の被支配としての一般大衆を、その家族や親族や友人を、さまざまな困窮や死に追いやっていくことになるのである。

 

 さて、吉本が述べていた「批評文の……事実」――「現実の事実」および「思想上の事実」について言えば、唯物論的に言っても、現実は、心的現象としての、意識された現実、現実の意識として存在するから、「現実の事実」は、事実の直接的で一面的皮相的固定的な把握における意識された「現実の事実」ということができ、それに対して「思想上の事実」は、事実の媒介的で弁証法的共時的同在的な把握における意識された「思想上の事実」ということができる。この時、私たちは、自らの体験の思想化を介すれば、事実に近似的な現実性(具象性と抽象性の構造)・その妥当性は、「現実の事実」の方にではなく、「思想上の事実」の方にあることをはっきりと知ることができるのである。このことを、具体的に、例えば<信>の問題に引き寄せて言えば、心的現象としての、事実の直接的で一面的皮相的固定的な把握における意識された「現実の事実」における<信>は、直接的で一面的固定的な<信>としてのみ存在している、と言うことができる。それに対して、事実の媒介的で弁証法的共時的同在的な把握における意識された「思想上の事実」における<信>は、媒介的で弁証法的共時的同在的な<不信>を包括した<信>として存在している、と言うことができる。したがって、私たちは、自らの信仰の体験の思想化を介すれば、<信>の事実に近似的な現実性(具象性と抽象性の構造)・その妥当性は、「現実の事実」の方にではなく、「思想上の事実」の方にあることを、はっきりと承認し確認することができるのである。そして、この<不信>を包括した<信>を認識し自覚した典型が、次のようなバルトの言葉である――@「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、(≪主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」――イエス・キリストご自身が信ずる信仰にのみ、感謝を持って信頼し固執した≫)『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。この@とAにおける<信>と<不信>の往還の言葉は、すなわち<信>と<不信>を架橋する言葉は、バルトの場合、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」における神の側の真実においてのみ、それゆえに啓示の客観的現実性においてのみ、啓示の客観的実在においてのみ、語られている。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストのみが、「全く端的に、信じ給うた」からである、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」は、イエス・キリストご自身が信ずる信仰というように、「明らかに主格的属格として理解されるべきものである」からである(『福音と律法』)。同様に、信と不信、キリスト者と非キリスト者、この両者を架橋した、次のようなカンタベリーのアンセルムスの言葉は、その典型である――アンセルムスは、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」の「力強さを念頭において」、すなわち客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力を念頭に置いて、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができた。これは、信と不信、キリスト者と非キリスト者、この両者の往還における還相過程からの言葉、信と不信、キリスト者と非キリスト者、その両者を架橋する言葉なのである。また同様に、<不信>を包括した<信>を説き、宗教者・知識人・善人・誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避な「機縁」さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るという究極的観点(還相的観点)において、自己欺瞞に満ちた通俗的観点(往相的観点)、市民的観点・市民的常識(往相的観点)から超出した親鸞も、その典型である。また同様に、禅について、内部の観点しか持たないで語る臨在禅の僧に対して、外部の観点と内部の観点を持って異議申し立てをしたミシェル・フーコーも、その典型である――臨済禅の僧は、「精神と自然との直接的な統一の段階」(ヘーゲル『哲学史序論――哲学と哲学史』武市健人、岩波書店)というものは世界史(人類史)のアジア的段階においてのみ世界普遍性を持ち得たという外部的観点を持たないまま、その人類史的過程の農耕を経済的基盤としたアジア的段階における日本的な禅思想の内部の観点からの直接的な言葉で、形而上学的一面的皮相的固定的抽象的に、「からだと心とが一つになるという体験、自分とそとの世界とが一つになるという体験、それは世界的に普遍なものですね。禅が国際性を持ち世界性を持つということは、その点からも十分わかるわけですね」、と述べたのである。それに対して、その僧と対談した、普遍性(哲学・思想・革命・人間・社会の概念)の誕生の場であった「西欧の危機」を念頭においてミシェル・フーコーは、外部の観点と内部の観点を持って、「禅はキリスト教の神秘主義とは全く違うものだ(中略)キリスト教の精神性と、それに結びついた技術においてきわめて印象深いのは(中略)いや増す個別化が探究されているということです。個々人の魂の奥底にあるものを、その個人に把握させようとするのです。『おまえが何者であるのか、私に語れ』――これこそがキリスト教の精神性なのです。禅においては、精神性にまつわる一切の技術は、逆に個人を非個別化する――個性を破る傾向があるように思えます(≪なぜならば、戦後過程における資本主義制度と自由主義国家制度の成熟によって、それは横へと拡散し衰退しているとはいえ、アジア的日本的な特徴は、共同体至上意識がいつも個体性を超えていくところに想定できるからである。例えば、敗戦時に、日本の大衆が、自分たちを戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層に対して、徹底的な抗議や反抗をすることなく、むしろそうした権力を天然自然の災害と同じように受け入れていった在り方がそれである≫)」(『フーコーと禅』)、と述べたのである。ヘーゲルは、次のように述べている――「中国では君主が家長として人々の上にたちます。国家の掟は法律的な条項だけでなく、道徳的条項をもふくんでいて、だから、主観が自分の意思の内容を知るといった内面的な事柄までが、外面的な法令として強制される。(中略)それは、道徳律が国家法のようにあつかわれ、法律が道徳をさだめるものとうけとられているからです」 (『歴史哲学講義』)。このことは、中国(人類史的過程のアジア的段階における中国、日本)の原理が自然原理としての「天」であり、それは「道」であり、未分化のままの政治制度(共同性)と道徳(個体性)との混在であることを教えている。その自然原理の体現者は、徳あるものとして天命を授けられた専制君主(親・父)であり、その下に臣民(子)がいて相互に徳を実践することによって、「修身斉家治国平天下」が成立する、ということを意味している。この場合、個や家族や社会や国家は地続きに国家に包摂され、被支配層は支配の暴政や抑圧や暴挙に対しても、天然自然の災害を受け入れるように受け入れていくことになる。このような訳で、禅の認識について、外部の観点を持たない臨在禅の僧よりも、外部の観点と内部の観点を持って根本的包括的な認識を目指したフーコーの「思想上の事実」における言葉の方が、事実に近似的な現実性(具象性と抽象性の構造)と妥当性を獲得している、ということができるのである。したがって、はがきの方の、「吉本は『現場、実際の処よりも思想が大事』」という立場で、それは「バーチャル・リアリティ」・「思想の上こそ正しい事実」という立場だから、観念論の立場であるというような考え方は、全くの錯誤でしかないのである。このような訳で、はがきの方におけるそのような錯誤性は、唯物論的に言っても現実は、心的現象としての、意識された現実、現実の意識、として存在するということに対する、認識の欠如によっているということができるのである。

 

 さて、人間は自然の一部である。この場合、自然は、自然としての、自己身体であり、他者身体であり、外界としての自然(第一次的に天然自然、人間化された自然、非有機的身体)である。人間は、自己の身体と精神を介した、普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動を行う。ここに、肉体的身体的および精神的意識的な、人間の類的な活動や生活がある。それは、人間諸個人による全自然の対象化であり、人間化であり、非有機的身体化であり、そのことによってまた人間は、人間の自然化、人間的自然として有機的自然となる。吉本は、心的世界(心的行動)、観念的世界(観念的行動)、を持つ人間の固有性について、「根源的にそして単純に答えられるべき」だとして、@「脳髄が脳髄について考える」個体の内部過程(自己対象了解)と、A「生理過程から、対象の形や色や全体像が構成され、<この対象は茶碗だ>とか<この対象は森だ>とか了解される」個体の知覚作用(自然対象了解)を例にとって次のように述べている(『思想の基準をめぐって』)――@の認識が成立するためには、「生理(自然)過程」の「信号、反応、刺激、伝播」という「自体的な識知」、すなわち「生理過程の<変容>」(≪それゆえに、生理過程の消失・排除を意味しないところの、その構造的変容≫)と、脳髄が脳髄を生理過程の外部から認識する「対象的識知」の過程が必要である、Aの認識が成立するためにも、まず「対象物から眼に到達する光作用」に対して、生理過程として網膜の背後にある「色彩」・「明暗」・「形態」を弁別できる諸神経の「刺激の継続と強弱」・「刺激の質量」の度合という「自体的な識知」・「生理過程の<変容>」と同時に、そうした「対象物からうけとる神経刺激」という生理過程の外部に出て、「対象物を全体的に構成」し「了解」する「対象的認識」の過程が必要である。これら@とAにおける後者の「対象的認識」の過程は、生理的自然過程にとっては絶対的な自己矛盾であるから、人間に固有な「心的領域」あるいは観念という概念を疎外する以外に、そのような自己矛盾を包括し止揚することはできない。ここで、疎外とは、経済学的な<疎外された労働>としての疎外概念ではなく、疎外の止揚、ということである。したがって、「生理学が<観念>という概念と命名を拒否」しても、「<観念>という言葉でいいあらわされるものと、おなじ実体を想定せざるを得ない」のである。このように、「人間は、対象を再構成し、了解するところまでやらなければ、対象物にたいして、どう行動するか、どう行動しないか」さえできないものなのである。このような訳で、観念の出自は、唯物的である。しかし、そのようにしていったん疎外され生み出された観念は、その観念の自体的展開過程と自己増殖過程(時間累積)を持つのである。「人間の心的な過程が存在するためには、身体の存在は絶対的条件である。それにもかかわらず、人間の心的な過程の内容は必ずしも(≪唯物主義的な≫)身体の存在の反映ではない」とは、このことである。
 また、吉本は、次のようにも述べている――自己の自然的な生理的身体を座とする自己意識を持った個体としての人間は、すなわち知覚作用の座である身体を持った人間の<個体>は、先ず以て、ここに自己がある(空間性)という、自己を自己として関係づける、すなわち自己の自然的な生理的身体を内在的に関係づける空間的な自己意識(自己関係づけ・自己受け入れ、の意識)、と、現に自己がある(時間性)という、自己を自己として抽象する、すなわち自己の自然的な生理的身体を内在的に抽象化する時間的な自己意識(自己抽象づけ・自己了解、の意識)、との構造において存在する。したがって、この個体は、他の自然物に対して、自分を区別することを知っている、関係づけられる、存在であって、そのようにして「個体は個体として自己に関係づけられるから、はじめて対象的に関係づけられる」という点に、個体としての人間の本質がある。言い換えれば、「対象的に関係づけられて存在するのが個体」ではないし、知覚作用が個体としての人間にとって本質的なことではない。「わたしたちが<知覚>作用に感情的な選択の衣を着せる訳にいかないのは、直観本質を人間の存在の本質的な仕方と考えないのとおなじである。わたしたちはけっして対象の知覚がいつも科学者の経験の仕方に似ているとはいわない。それが歓びや悲しみや選択をともなうことをしっている。しかし、このような感情作用は<知覚>そのものに伴うとしても<知覚>とはかかわりないものである。感情作用は一般に対象の了解そのものを再び対象となしうるという<内観>的作用(≪人間の生理的現象にも現実的環界にも還元できない心的現象としての、自己意識内部に内在化された心的対象の空間化、その空間化の度合、その受け入れの度合≫)に属している」(「メルロオ=ポンティの哲学について」)。自然は、自己身体であり、他者身体であり、外界としての自然(第一次的には天然自然、人間によって加工された・人間化された自然)であるが、人間の、自己対象了解、自然対象了解において、人間の、生理的現象にも、現実的環界にも還元できない心的現象としての、自己意識内部に内在化された心的対象(前述した対象的に識知された対象)を空間化する(内観する)時、快・不快等の感情作用が惹き起こされる、さらにその人間の生理的現象にも現実的環界にも還元できない心的現象としての、自己意識内部に内在化された心的対象(前述した対象的に識知された対象)を抽象し了解し時間化する時、感性的認識、悟性的認識、理性的認識、という了解性(時間化)の問題、了解性の度合の問題、時間化の度合の問題、が現われる。
 この場合、日常と非日常、生活世界と観念世界(知識世界)、との思想における往還の課題、思想における架橋の課題を持たないまま、知識的段階を上昇していく往相的な観念の自然過程に、現実的な日常的な生活過程からの観念的(知識的)な逸脱過程に、非日常的な観念の自然過程に、その観念の自体的展開とその観念の自己増殖過程に、そしてその頂きとしての学・哲学に、価値を置いたのがヘーゲルである。この観念の「自然過程の一番根本」は、「より近くの対象からはいっていって、より遠くの対象へ手をのばしてゆく」点にある。すなわち、人間の対自的で対他的な自由な自己意識・観念は、無限な果てしなき対象遠隔性をもつものなのである。そして、その極限に想定されるものは、その観念の自体的展開程とその自己増殖過程の尖端にある世界的思想であり、国家の共同性であり、支配であり、社会的地位であり、富であり、名誉であり、書かれた歴史である。
 マルクスの『経済学・哲学草稿』・『経済学批判』によれば、人間は自然の一部であり、そして自然は、自然としての自己身体であり、他者身体であり、外界としての自然(第一次的に天然自然・人間的自然)であり、人間は、身体と精神を介した、普遍的で実践的なそうした全自然との相互規定的な対象的活動を行うのだが、それは、肉体的身体的および精神的意識的な、人間の類的な活動・生活であり、人間諸個人によるそうした全自然の対象化であり、非有機的身体化であり、人間化であり、そのことによってまた人間は、人間の自然化、人間的自然として有機的自然となる、ということであった。この、マルクスの自然哲学的な非有機的身体という概念を唯物的な経済学的な概念に敷衍すれば、それは、「経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる」ところの、アジア的、古典古代的、封建的、近代ブルジョア的生産様式として進歩発展していく段階を有する経済社会構成体の拡大・高度化・高次化として把握することができる。また、その概念を、政治学的な概念に敷衍すれば、それは、まず唯物論的に経済的社会構成に見合った宗教、法律、政治、芸術、哲学の諸形態としてあるイデオロギー諸形態(吉本は、全幻想領域と呼ぶ)として把握することができる。この全幻想領域は、総括的に言えば、自己幻想、対幻想、共同幻想、として存在する。ここで、注意すべきことは、経済社会構成体(土台、下部構造)とイデオロギー諸形態・全幻想領域(上部構造)との関係において、上部構造は土台に規定されるという時、あくまでもその上部構造の<出自>が唯物的であるという点にある。したがって、そのようにしていったん疎外され外化された観念諸形態(イデオロギー諸形態・全幻想領域)は、その観念の自体的展開過程・その自己増殖過程を持つのである。したがってまた、その観念の自体的展開過程・自己増殖過程は、土台の反映ではないのである。このような訳で、この観念は、退行も復古もするのである。また、このような訳で、マルクス自身は、マルクス主義・マルクス主義者とは違って、唯物主義者ではないし、経済決定論者でもないのである――マルクスは、ギリシャ古典芸術の有する「永遠の魅力」に言及しながら、自問の形で、「困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない規範としての意義をもっているということを理解する点にある」(『経済学批判序説』)、と述べている。言い換えれば、科学が人間存在にとって部分性でしかないように、経済的範疇もそうなのである。
 また、吉本は、次のようにも述べている――自然科学的意味での科学・技術や生産方式の発達は、遅延させることはできても停滞させたり「逆戻り」させたりすることはできない。この意味で、エコロジーの極限に想定される<天然自然>を第一義・価値とする宗教化され倫理化された天然自然<主義>は錯誤でしかないのである。同様に、人間存在の総体性にとっては、「経済的範疇というものも……部分」にすぎず、、情報科学・情報技術も「部分」に過ぎず、それゆえに宗教化され倫理化された科学<主義>における「科学が発達し、技術が発達し、未来が描けるというような考え方」の錯誤性は、「部分」でしかない科学を<全体>として把握し・押し出して行く点にある、「部分」でしかない科学を主義化(絶対化)し倫理化し宗教化していく点にある。「社会の経済的な、あるいは生産的な、あるいは技術的な発達」に対して、情念等の非感覚的な部分に関わる心・精神は、それに「同行するわけでもない」し、退行したり、「逆行」したりするものなのである。「マルクスが、経済的範疇というものが非常に重要なもの」である、「第一次的に重要なもの」である、「人類の歴史の中で重要なもの」である、「そしてその他のものはそれに影響されるというように考えたとき」、「ほんとうは幻想領域の問題は、そういう経済的範疇を扱う場合には大体捨象できるという前提があってそういっている」のである(『共同幻想論』)。したがって、マルクス自身は、唯物主義者・経済決定論者・マルクス主義者たちのように、観念の自体的展開過程・その自己増殖過程を、決して否定したわけではないのである。このような訳で、唯物論的に身心相関領域を出自とした<観念>(「原生疎外」におけるそれ)の、その自体的展開過程・その自己増殖過程における観念(「純粋疎外」におけるそれ)は、唯物<主義>的な物質の延長ではない、物質の反映ではない、のである。そして、この、前者の「原生疎外」から後者の「純粋疎外」への移行は、「原生疎外」の排除ではなく、心的領域の「ベクトル変容」であり、それゆえに両者は「構造」として存在するのである(『心的現象論』)。

 

 さて、人は、心的現象としての、その心的対象を内観(空間化)する感情作用のままで終わらせてしまいこともあるし、一方で、その心的対象の抽象化、了解化、時間化における観念の自体的展開過程・その自己増殖過程の果てにあるその頂きにまで上昇していくこともする。折口信夫(釈迢空)は、知覚作用によって対象化されたその対象を、時間化するのではなく、内観(空間化)する感情作用のまま終わらせている――「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」の「自歌自註」で、折口は、「もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行った人を推理してゐる訣ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するような表現をとる場合も多いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱うべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌った」、と述べている。折口の豊かな情緒性は、「紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処」に、「色あたらし。」と「切れ目」を入れざるを得ないほどの「新しい感覚」を体験したのである。それに対して、抽象(了解性)に抽象(了解性)を積み重ねて、時間化に時間化を積み重ねて、その度合を増し加えて、<自然>から完全に逸脱した頂きに想定される<自由>に価値を見出したヘーゲルの「芸術美は精神からうまれ、くりかえし精神からうまれる美であって、精神とその産物が自然とその現象よりすぐれているのに見合って、芸術美も自然の美よりすぐれているのです。……精神こそが一切をそのうちにふくむ真の存在であって、すべての美は、すぐれた精神とかかわり、すぐれた精神のうみだしたものであることによって、はじめて本当に美しいといえるのです」、というものである(『美学講義』)。このことを人類史に敷衍すれば、ヘーゲルの進歩史観にとって、<自由>を自覚していない、すなわち<自然>を原理としたアジア的段階に対して、<自由>の精神が具現化した(<自由>を自覚した)西洋近代が、人類史の頂点ということになるのである。

 

 いずれにしても、人間にとって現実は、唯物論的にも、意識された現実のこと、現実の意識のこと、である。そして、この心的現象としての現実の意識は、対自的となった人間的意識(自己意識の対自的性、言語の自己表出)と対他的となった実践的意識(自己意識の対他性、言語の指示表出)の構造としてある。この自己意識における対自的意識と対他的意識・言語の自己表出と指示表出の構造である現実的意識の<外化>である言語<表現>は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(≪実践的意識≫)の外化である」。このようにして人間は、自己を客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入る。このとき<表現>された言語は、客観的な対象性を持ち百人百様の享受の対象となり、「交通の手段」となる。外化されたその実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)は確かに「他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識」という意味で、コミュニケーションによる相互理解に根拠を与える意識である。
 吉本は、次のように述べている――社会的な伝達欲求に基づく意味や物語や情報・知識の量的増大化は、対他的な言語の指示表出性として「意味」を構成するものとなる。したがって、情報科学や情報技術の発達による対他的な感覚の発達と知識の増大は、無意味ではなく「意味」を構成する。しかし、「価値」を構成するものではない。この指示表出とは異なって、内在的な人間的欲求、喜怒哀楽の感情、生老病死の苦悩、男女間の恋愛感情や嫉妬心や闘争心、情念等、対他性を拒絶した心・精神、個体の自己意識の対自性、から湧出した言語の自己表出は、そしてその<内>コミュニケーションは、時代性を超えて人間の類(人類)の「中心で連帯」し「時間的な連続性」を有し言語の「価値」を構成するものである。したがって、この言語の自己表出性に、マルクスの『経済学批判序説』でのあの自問に対する答えがあるのであり、古代の詩歌等が現代においても対自的な個体の非感覚的な心・精神を充たし得る根拠があるのである。このように、言語の本質は、自己表出(その度合)と指示表出(その度合)の構造としてある。胃痛で「うっ」と発語された場合、それは、反射的に発せられたもので、表現された<結果>として周りの人に伝わるかもしれないとしても、その自己表出の第一義性・価値性は、外在的な他者との<外>コミュニケーションを目的としてはいない。ここに、他者への伝達を目的としない、自己自身の「内側だけ」から惹き起こされ自己自身の「内側だけ」に反響する自己表出の本質がある。それは「自分自身との交通の欲望及び必要から発生した」ものである。このような訳で、第一義性・「価値」としての言語の自己表出性に関わる対自的な非感覚的な「人間の精神や心」は、科学・技術の発達や知識の増大や経済的社会構成の拡大・高度化・高次化にともなって発達はせず、「ギリシャ・ローマ時代や万葉時代から」変化をしていない部分として現に存在しているのである。現在でも、ある男性にとって一人のある女性が世界の全てであり、その関係の破綻がその男性の自死をもたらしたり、現在では情念的殺害等をもたらしたりすることがあり得るのである。これらのことは、万葉集の時代に生きた人も現代人も変わらない。このように、言語の自己表出は、時代性を超えて人間の類(人類)の「中心で連帯」し「時間的な連続性」を有し言語の「価値」を構成するところの、言語の第一義性に関わるものであり、それは、「自分自身との交通の欲望及び必要から発生した」ものなのである。
 さて、この自己表出は、『詩人・評論家・作家のための言語論』によれば、大脳を中枢としない植物神経系(大腸・肺・心臓・血管等)、すなわち自律神経系に関わる「人間の内臓の働き」と、それに基づく情緒・情感・情念等の非感覚的な「心(精神)の動き」とを基盤としている。しかし、そうした自己表出も、外化され表現されれば表現された結果として、第二義的であれ他者にも伝わるから指示表出性も持つということができるのであるが、その場合でも、指示表出性を第一義的な目的とはしていない点に、すなわち指示表出の本質である<外>コミュニケーションを第一義的な目的としていない点に、換言すれば、内在的な「自分自身との交通の欲望及び必要」を第一義性・価値としている点に、内在的な自己の心・精神の響き合いを第一義性・価値としている点に、すなわち<内>コミュニケーションを第一義性・価値としている点に、これらの点に、内在的な自己の心・精神の自発的な放出である言語の自己表出の本質がある。それに対して、社会的なコミュニケーションの必要における言語の指示表出の本質は、風物を知覚的に、例えば視覚的に受け入れ了解し「美しい」と感じたことを表現し他者に伝達するところに第一義的な目的がある。すなわち、その指示表出の本質は、他者に「何かを指し示す」こと・意味や物語を構成することを第一義的な目的とする点にある。このように指示表出は、大脳を中枢とする動物神経系・反射神経系に関わる感覚器官の動きと、それに基づく感性的認識、悟性的認識、理性的認識へと向かう思惟的・理性的な「心(精神)の動き」との結びつきである。もちろん、他者との<外>コミュニケーションを第一義的な目的とする指示表出であれ、花を視て反射的に美しいと自己自身の心・精神を第二義的に動かす自己表出性を持つのであるが、その場合でも、指示表出の第一義的な目的は、あくまでも他者への伝達のための意味や物語の構成にあるのである。このように、「人間の身体」は、「植物部分、動物部分、そして人間固有の部分(≪内臓器官に依存したそれと、感覚器官に依存したそれとの、二重構造としてある心・精神≫)」を含んでいる。そして、それらは、それぞれの固有性と、心臓(内臓)病で顔にその表情が出るように、大脳と内臓との相互規定性とを持っている。このような思想としての言語論や個体概念(自己資質、感情、嗜好、生活、職業、社会的地位、私利私意、思想、信条、意志、行動を持った具体的な個人を念頭に置いた上での個体性の哲学)の構成は、<部分>でしかないものを<全体>として押し出す錯誤や誤謬から、また人間の観念が生み出す「それぞれ異なった次元を構成する」、その「観念の総体性を……のっぺらぼうの世界とみなすことからくるすべての錯誤」や誤謬から、「人間を脱出させ」・人間を解放してくれることは「確かなこと」であるから、そうした誤謬や「錯誤から脱出するということは、すくなくとも現在の課題としては、ほとんどすべての課題の発端である」(『思想の基準をめぐって』)。私たちは、自らの体験の思想化を介する時、この、「人間の身体」は「植物部分、動物部分、そして人間固有の部分(≪内臓器官に依存したそれと、感覚器官に依存したそれとの、二重構造としてある心・精神≫)」を含んでいる、という認識(知識、観念、その度合)は、現実性と妥当性を持っていることを知ることができる。なぜならば、私たちは、ここで、例えば、森林(植物)セラピーと動物セラピーの根拠を、獲得できるからである。したがって、ここでも、私は、自らの体験の思想化に基づいて、これらの吉本の言葉を、徹頭徹尾、全面的に、首肯する者である。

 

 このような訳で、はがきの方の、吉本を根本的包括的に原理的に理解することをしないまま発した、「吉本は『現場、実際の処よりも思想が大事』」という立場で、それは「バーチャル・リアリティ」・「思想の上こそ正しい事実」という立場だから、観念論の立場であるというような言葉は、観念論か唯物論かという二元論的発想からする、党派的な発想なのである。その発想は、一面的皮相的固定的な対立を生み出しても、生産的なことを何も生み出さないのである。はがきの方とは全く違って、バルトや吉本は、そうした党派的な二元論的な発想や立場を根本的に包括し止揚して、そうした党派性から超え出て行っているのである。なぜならば、そこに、思想の課題があるからである。したがって、私は、はがきの方のような批判めいただけの言葉を全く首肯することはできない。私は、『カール・マルクス』で、理論・「思想は物質ではなく外化された観念である……」から、この「観念の運動は観念によってしか埋葬されず、甲の観念は、乙の観念がそれを包括し、止揚することによってしか、いいかえれば甲の観念を生かして袋に入れることによってしか滅びない」と述べた吉本の言葉を、徹頭徹尾、全面的に、首肯する者である。また、スカンディナビア人のヴィングレンが、バルトには「神=悪魔図式」が欠けていると批判したことに対して、バルトは、「私に反論する人は、ただ私の全構築(≪その信仰・神学・教会の宣教における、その原理・その認識方法と概念構成それ自体≫)に対応する各自の構築を立てるという形においてのみ可能であり、そんな……たわごとを持ち出すくらいでは駄目である」(『バルトの生涯』)と述べたのであるが、私は、そのバルトの言葉を、徹頭徹尾、全面的に、首肯する者である。言い換えれば、何度も言うのだが、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を根本的包括的に原理的に批判することができるためには、先ず以て批判者自身が、バルト自身のそれをでき得る限り根本的包括的に原理的に認識し理解していなければならない、その上で、それと同時に、批判者自身のその信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を「全構築」していなければならない、そしてようやく、初めて、バルト自身のそれを根本的包括的に原理的に批判することができる土俵の上に立つことができる、のである。すなわち、党派的な二元論的発想に依拠したところの、バルトか滝沢か、バルトかブルトマンか、バルトかファン・ルーラーか、等々、言葉だけでなく行為も、理論だけでなく実践も、あるいは言葉よりも行為を、理論よりも実践を、またあるいは観念論か唯物論か、国家に価値・第一義性を置く国家社会主義(政治的近代国家・自由主義国家、欧米、日本等)かあるいは同様に国家に価値・第一義性を置く社会主義的国家主義(中国、ロシア等)か(こうした党派主義の典型であった人物が、宗教化され倫理化された西側イデオロギーによって、バルトに対し「啓蒙の恐喝」を行った、すでに自然時空に死語化してしまった「幼稚な反共主義者」でキリスト教的政治屋のラインホルド・ニーバーである。言い換えれば、「西の獅子に全力をあげて抵抗しえないような人々は、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」のである。この、党派性の止揚を思想的課題に置いたバルト言葉を、私は、徹頭徹尾、全面的に、首肯する者である)、という形而上学的一面的皮相的固定的抽象的な、思考方法、思想の在り方では――すなわち「そんな……たわごとを持ち出すくらいでは」、バルトや吉本に対する根本的包括的な原理的な批判は決して全く不可能なのである。

 

(3)はがきの方の言葉:論理的展開が全然違っているにもかかわらず、通俗的な「迷言」としての「曽野綾子」の「必要悪」としての「原発」論と、吉本の思想の言葉における「原発」論とを一緒くたしたような言葉(換言すれば、吉本の一貫性のある思想としての原発論を根本的包括的に原理的に理解しないまま、通俗的な曽野と同じレベルに通俗化して述べている言葉)、について――
 人間は自然の一部である。この場合、自然は、自然としての自己身体であり、他者身体であり、外界としての自然(第一次的に天然自然、人間化された自然、非有機的身体)である。人間は、自己の身体と精神を介した、普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動を行う。ここに、肉体的身体的および精神的意識的な、人間の類的な活動や生活がある。それは、人間諸個人による全自然の対象化であり、人間化であり、非有機的身体化であり、そのことによってまた人間は、人間の自然化、人間的自然として有機的自然となる。それは、人間の歴史的行為である。この諸個人の全自然の非有機的身体化によって生み出された人間的自然は、感覚的客体としては孤立しているのであるが、現実的な生活過程においては媒介的に他の人間と関係づけられているから、それは協働関係としての社会を構成する。したがって、「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪ここには、このような経済的カテゴリーだけでなく、言語、対・性・男女・家族――親は前世代の象徴、も含まれる≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」。このような訳で、人類史は自然史の一部であるが、その自然史の一部である人類史の自然史的過程における経済社会構成体の拡大・高度化・高次化、科学や技術の発達、そうした知識や経済学の発達・増大、生活の利便性の向上、等々は、自然史的必然に属しているから、遅延させることはできても、停滞させたり後退させたりすることはできないのである。人類史的成果において<悪しきもの>であれ、政治的近代国家の軍事部門を支える最終的な戦略兵器としての核兵器を含めて兵器がそうであるように、経済社会構成体の電力部門を支える原発を含めて原子力に関る科学や技術の発達も、自然史的必然に属しているのである。したがって、大多数の被支配としての一般大衆の安全で安心な生存のための、戦争廃絶の問題、すなわち平和の実現の問題は、国家論・革命論の問題は、究極的には一部支配上層の意思によって動かすことができる軍事部門を持つ政治的国家の無化の問題であり(過渡的課題としては、国家を、国民投票制・直接民主制の拡大によって、でき得る限り、どこまでも、大多数の被支配としての一般大衆・国民に開いて行く問題であり)、また自然史的必然に属している原発問題は、想定される最大・最悪の災害や事故に対する技術的な解決策と安全確保と安全管理の問題であり、そのことが可能であるか不可能であるかの問題であり、そのことが不可能であれば原発の是非を国民投票に付して決定する問題であり、あるいは原発や既存の技術よりもより安全でクリーンで経済的負担を軽減できる新たな電力供給技術の開発の問題である。このような訳で、私は、全く以て通俗的な「迷言」としての「曽野綾子」の「必要悪」としての「原発」論を首肯することはできないし、その曽野の通俗的な原発論と、吉本の一貫性のある思想としての「原発」論とを一緒くたにして論じることは決して全くできないことであるから、それゆえに、私は、吉本の原発論を、徹頭徹尾、全面的に、首肯する者なのである。