本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

キリスト教界時評――<続>前回の日本基督教団との関係において日本カトリック教会「抗議声明」について考える

<続>前回の「平和のために祈り」(日本キリスト教団)との関係において、日本カトリック教会の「抗議声明」(日本カトリック正義と平和協議会会長)について考える。

 

 

 カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』「三章 聖書」「二十節 教会(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)の中での権威」「一 言葉の権威(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における、その第一の形態――客観的な「啓示の実在」そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、神の言葉、啓示・和解、は、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」である。また、具体的には、その第二の形態――啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与された、預言者・使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、聖書、は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である)≫」に入る前に、前回の「平和を求める祈り」(日本キリスト教団)との関係において、日本カトリック教会の「抗議声明」で語られている「平和」(それゆえに戦争廃絶)についても、考えてみたいと思う。

 

 まず今回のカトリックの「抗議声明」を読んでみる時、キリスト教界の系譜には、事実的には、党派的多元的主義的に、ローマ・カトリックがありプロテスタントがあり近代主義的プロテスタント主義的プロテスタントがあり、さまざまな教派がありさまざまな分派がありさまざまな学派があり、カルトがある。しかし、信仰・神学・教会の宣教における思想の課題においては、その信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体が、「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯し、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的実在・客観的現実性としてある、<完了>された、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける救済・平和という、この一つの事柄へと<集中>されたそれであるのか、それとも人間の側に<拡散>したそれであるのか、ということを基準として、キリスト教界を二つの系譜において総括できるのである。言い換えれば、キリスト教界の系譜は、キリストにあっての神の側の真実だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張も、人間の自己義認の欲求(人間によって恣意的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変えるところのそれ、そして、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、また、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、そしてまた、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進するところのそれ)も、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)も、その神(偶像)の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理する善意と企ても、ということをその信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成とするところの、言い換えれば、<人間>中心主義、人間の自由な自己意識の類的活動・類的本質、人間の肉体・身体と精神・意識を介した普遍的実践的な全自然との――すなわち自己身体・他者身体・環界としての自然との相互規定的な対象的活動、類的活動・人間的自然、理性主義、歴史主義、近代以降の宗教的形態である科学主義、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、<人間学>的な哲学原理・認識論・世界観、等をその信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成とするところの、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教の系譜――それゆえに、常に、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な信仰・神学・教会の宣教となる系譜――と、その<自然神学>の<段階>を、それ自身が聖霊の業である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯するその信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体で、根本的包括的に原理的に止揚し克服して次の<段階>(この意味で、バルトの『教会教義学 神の言葉』論における「超自然な神学」の<段階>)へと移行した信仰・神学・教会の宣教の系譜と、に総括できるのである。

 

 さて、ここでまず、NCC・日本キリスト教協議会議長、日本基督教団の小橋孝一「談話」について言えば、この「談話」も、「平和を求める祈り」の起草者と同じように、平和を求めるために、それゆえに戦争廃絶を目指すために、その「談話」を提示する前に先ず以て為しておくべき批判を――すなわち、一部支配上層の意思によって動かすことができる軍事部門を持つ政治的近代国家・民族国家を第一義・価値とする国家主義者であり靖国神社参拝推進論者である佐藤優や冨岡幸一郎やその賛同者たちに対する根本的包括的な原理的な批判を、行わずに為されたであろう「談話」であるために、その「談話」は、全く粗雑で夢想的空論的な、ただ「平和と民主主義」、戦争放棄、アメリカ覇権主義批判、アメリカ依存批判、戦争責任の告白、等の言葉と、聖句を並べただけのものとなっている。また、全人間・全世界・全人類は、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的実在・客観的現実性としてある、<完了>された、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける救済・平和のただ中にあるということ、しかし、このキリストの復活における神の「勝利の行為」は「敗北者もまた依然としてそこいるところの勝利の行為」として、キリストの復活から再臨までの聖霊の時代において、一方で、その現にあるがままの現実的な人間存在が構成する世界は、「否定的判決」の中にあるそれとして、「失われた」・「非実在的」なそれとして、すなわち現在的には経済の世界性と民族国家の一国性に基づいて動いている世界としてあるということを、それゆえにその国家を国民投票制・直接民主制の拡大によって国民にどこまでも開いて行くところに国家の過渡的課題があるということを、認識し自覚するができないままに、それゆえに粗雑さの中で空論的に「平和と民主主義」等を夢想しているだけとなっている。また副議長の萩新一は、国際連合が大国主義・安保理常任理事国の拒否権(5大国拒否権)という民族国家単位で動いているということを認識し自覚し直視しないところで、「信仰による抑止力を」ということで、国連前広場の壁に刻まれているイザヤ2:4の聖句を付け加えて、粗雑さの中で空論的に戦争の抑止を夢想している。「平和を求める祈り」の起草者もその賛同者も、「談話」の小橋孝一も「信仰による抑止力を」という萩新一も、神の側の真実としてのみある、それゆえに、客観的実在・客観的現実性としてある、イエス・キリストにおける<完了>された救済・平和にのみ感謝を持って信頼し固執し<集中>するのではなく、人間の側に、人間の意志的行為の側に、人間の実践の側に、人間自身が対象化した「存在者レベルの神」(偶像)・その神の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理する善意と企ての側に、粗雑的空論的に<拡散>させるのである。このことは、もともと原理的にそうなるであろうカトリックの「抗議声明」においても言えることである。このことは、後述する。

 

 さて、朝日新聞デジタル11月3日付けの、「日本提出の核廃絶決議案、米英仏が棄権 国連で採択」という記事によると、「国連総会の第1委員会(軍縮・安全保障)は2日午後(日本時間3日午前)」、「廃絶時期を示さない穏健な内容」にし、「世界の指導者らに被爆地訪問を促し、核の非人道性を強調した」「日本が提出した核兵器廃絶決議を156カ国の賛成で採択した」が、「昨年まで共同提案国だった米国、英国に加え、昨年は賛成したフランスも棄権」した・また、「中国が反対するなど核保有国の賛成」も得られなかった・このことは、「核廃絶に向けて国際社会で主導的な役割を果たそうとした(中略)日本の狙いが行き詰まったことを意味する」、とあった。この事態に対して、すなわち「『核なき世界』を提唱するオバマ政権になった2009年以降、毎年、共同提案国に加わっていた」「同盟国・米国の棄権」に対して、「日本外務省(≪官僚≫)が特に衝撃を受けている」、とあった。この記事を読んだ時、知識人を含めて欧米の官僚に比して島国日本の官僚や知識人の質の低さや悪さを痛感させられた。なぜならば、軍事的抑止力としての核兵器は軍事的には<最後的>な戦略兵器であり、現存する世界が、経済の世界性と民族国家の一国性の中で動いており、一部支配上層の意思によって動かすことができる軍事部門を持つ政治的近代国家・民族国家が存在する限り、なくなるわけがないのであり、ましてや米国は覇権主義と自国の利害を優先することは自明なことなのであり、そのことに基づいて米国はその時々の国際情勢にかなった発言や対応をすることも自明なことだからである。それに対して、日本の官僚や政治家は、形而上学的一面的固定的抽象的な発言や対応しかできずに、倫理的な「核の非人道性を強調」という言葉しか持っていないのである。神の側の真実としてのみある、それゆえに啓示の客観的実在・客観的現実性としてある、<完了>された、イエス・キリストにおける救済・平和に信頼し固執し<集中>した、それゆえに粗雑な夢想家・空論家ではないところの、神学における思想家バルトは、核兵器は最後的な戦略兵器であるから、それゆえにそれを実際的に使用したとすれば、その最初の瞬間からすべてが終わりとなり、したがって戦争遂行それ自身が不可能となる、と述べたのである。このような、国際政治・外交・軍事の世界における自明性について、倫理的な「核の非人道性」の「強調」しかできない、四方を海に囲まれた小さな島国国家の日本の官僚(もちろん、確かに、事実的には、東大法学部卒を筆頭とする彼らは、国家公務員試験第一種合格者・総合職合格者という学業の優等生ではある)やその官僚の手のひらで動かされている政治家は、言わば、常に、なんでもかでも欧米の(戦後は特に、米国の)後追いしかできないから――確か以前に書いたことがあるのだが、マスメディアがこぞって持ち上げた竹中平蔵も小泉純一郎もそうだった、ほんとうは、両人は、無能な知識人・政治家だった、なぜならば、例えば、ほんとうは、日本の社会を安定させた日本の終身雇用制と年功序列型賃金制は、守るべき発展させるべき良き制度だったからである、すなわち、過渡的課題や究極的課題を持たないで場当たり的になんでもかでも破壊することがいいことではないのである、それが発展的前進ではないのである、したがって、マルクスが『資本主義的生産に先行する諸形態』において、「ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の<肯定的成果>をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的(≪人類史におけるアジア的段階≫)である形態(≪例えば、相互扶助感情・意識≫)を破壊しないで、それを発展させ変形することができる(≪例えば、無報酬において個人的自発的に当たり前に為されるボランティア活動は、その相互扶助感情・意識の発展的な近代的変形、と言うことができる≫)」と述べた時、その言葉は、現在でも聞くに値する言葉なのである、現在から未来にも通用する言葉なのである――、英国・仏国だけでなく、同盟国として信仰している米国にまで、足をすくわれてしまったのである。島国日本の官僚自身は、官僚養成機関として設立された東大法学部卒を筆頭とした学業的優等生の自負とエリート主義の誇りに生きているのかもしれないが、傍から眺めている私たちには、また欧米にやられたな、惨めだな、恥だな、みっともないな、ばか丸出だな、としか思えないのである。なぜならば、この現存する世界は、経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いているのであるから、英国や仏国だけでなく同盟国として信仰している米国も当然のことながら、自国の利害を第一に考えるという経験則は現在でも通用するのであって、それゆえにその経験則は適用されるべきであって、その経験則から「昨年まで共同提案国だった米国、英国に加え、昨年は賛成したフランスも棄権」することは全く想像可能なこと・予見できることだからである。小さな島国日本の彼ら官僚や政治家には、想像力と構想力が希薄なのである。

 

 それでは、キリスト教界の側に目を向けてみよう。先ず以て、私たちは、前回においても述べたように、ほんとうに真剣に真面目に平和(戦争の廃絶)を求めるのであれば、至極当たり前に不可避的な事柄として、戦争責任の告白に基づいて日本キリスト教団第39総会期第3回常議員会で共同体として可決された「平和のための祈り」を為したその起草者・賛同者・成員・教団・教会は、その教団共同性・教会共同性・その組織性において、その成員諸個人においても、戦争の根である一部支配上層の意思によって動かすことができる軍事部門を持つ政治的近代国家・民族国家を第一義・価値とする国家主義と靖国神社参拝推進論にメディア的<組織性>の後光をかぶせて語る佐藤優や冨岡幸一郎を根本的包括的に原理的に批判しなければならないのである。したがって、そのような批判を行わない場合、その「平和のための祈り」は、粗雑で場当たり的な夢想・空論でしかいないものとなるのである。したがってまた、そのような批判を行わない場合、その「平和のための祈り」は、単なる「敗戦70年にあたって」の粗雑で場当たり的で軽薄なイベントでしかないものとなるのである。なぜならば、前回でも述べたように、国家主義者で靖国神社参拝推進論者の佐藤や冨岡を根本的包括的に原理的に批判しない場合あるいはできない場合、ほんとうの意味で・ほんとうに真剣な意味で・ほんとうに誠実な意味で・ほんとうに真面目な意味で、「平和のための祈り」などできるわけがないからである、戦争の廃絶を目指せるわけがないからである、それゆえに平和を目指せるわけがないからである。
 それにもかかわらず、プロテスタントの側もカトリックの側も、一部支配上層の意思によって動かすことができる軍事部門を持つ政治的近代国家・民族国家を前提として平和を求め考えているのである。ここに、両者の共通点がある。
 現在のところ、人類史が蓄積してきた観念の共同性の頂点に位置する憲法を法制的中枢とする政治的近代国家・自由主義国家は、すなわち、観念の共同性を本質とする共同宗教(キリスト教)からの国家の解放としての、言わば人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」崇拝・偶像崇拝に基づく観念の共同性を本質とする共同宗教(キリスト教)からの国家の解放としての、それゆえに人間の社会的現実的な究極的総体的永続的解放ではないところの、それゆえにまた恣意的にのみ自由であり得るところの、また社会的現実的には不平等ではあっても観念的法的には平等であり得るところの、政治的近代国家・自由主義国家は、その法制度の範囲内で、すべての反対・批判・対立・矛盾を包括してしまう水準を持っているのである。したがって、このような支配の制度が存在する限りは、知識・思想それ自体が、その往還において、その知識・思想に、意識的に、思想にとっての普遍的な価値基準である、時代とともに変容する社会的存在の自然基底としての大衆原像(具体的には、社会構成や支配構成や文化構成の時代水準によって変容していく大衆像と大衆的課題)を、絶えず繰り返し繰り込むことにおいてのみ、その体制的枠組みから超え出ることができるのである、その思想・知識はリアリティを持つのである、その思想・知識は反体制的であり得るのである。このことは、大衆迎合や大衆啓蒙や外部注入論とは全く違う知識・思想の在り方である。それに対して、法の支配において法制的中枢を憲法におくその政治的近代国家・自由主義国家(体制)を前提(第一義)とした法的言語(知識・思想)や政策的言語(知識・思想)を介した発言(肯定的それ・否定的それ、体制的なそれ・反体制的なそれ)は、すべて、政治的近代国家・自由主義国家(体制)に吸収されてしまう仕組みになっているのである。一方で、この国家は、経済社会構成体を主導するある利益・利害集団の権益を最優先するだけでなく、軍事・外交圧力によっても、千葉県成田市三里塚の場合や沖縄県名護市辺野古の場合のように、その国家による強制執行(行政代執行、現在的には辺野古は政府代執行の方向へと向かっている、確かなことは言えないしそれゆえに言わないけれど、おそらくは辺野古問題は法廷闘争となったとしても、司法の側は、そこで生き生活する沖縄民衆のことを第一義として考えないだろうから、それゆえに高度な政治的判断を有する政治性がある問題として司法判断・司法判決を回避するだろうから、結局は強制執行へと向かうのではないだろうか、よくは分からないが)において、そこで暮らしていた・暮らしている人々の現実的な社会的な生活の場を、一方的に収用しそれまでの生活を破壊していくことができる法制度の仕組みも持っているのである。政治家を含めて、制度としての官僚が、社会的現実的には犯罪的なことをことをしていたとしてもなぜ刑罰を受けないかと言えば、彼らは彼らに都合のよい法制度を整備してそれを介在させているからである。制度としての官僚は、そのような法の支配の下での法による行政に基づく政治的国家の職能団体としてある。
 さて、カトリック中央協議会のホームページにある「抗議声明」(2015年9月19日 日本カトリック正義と平和協議会会長 勝谷太治司教)は、時系列的には、前回述べたプロテスタント系の「平和を求める祈り」の後に出されている。この「抗議声明」については、次にある抜粋した記事に基づいて、その問題点について考えてみたい。
 その「抗議声明」には、次のような文言が並べられている――「抑止力の強化が平和への道とは、私たちは考えません」・「武力によらない平和構築を目指すことをもとめる」・「国内のほぼすべての憲法学者、日本弁護士連合会が認める通り、明らかな憲法違反です」・「憲法を無視して集団的自衛権の行使を実現するこの法律は、立憲主義という国家の枠組みを破壊するものです」・「民主主義は数の論理のみに従うものではありません」・「議会制と国民主権」等々。
 このように世俗性に基づいて「抗議」するのであれば、国家論・革命論における過渡的課題と究極的課題の認識と自覚が必要なのである。すなわち、国民投票制・直接民主制の拡大によって国民に対して国家をどこまでも開いて行くという国家論・革命論における相対的過渡的緊急的課題とその国家の無化を伴う人間の社会的現実的な解放という国家論・革命論における究極的総体的永続的課題についての認識と自覚が必要なのである。そうでなければ、その世俗性に基づいた「抗議」は、粗雑で夢想的空論的で体制的な「抗議声明」となってしまうのである。また、「平和構築を目指す」ことは、具体的には戦争廃絶を目指すということであるから、不可避的に、一部支配上層の意思により動かすことができる軍事部門を持つ政治的国家を無化するという課題を伴うのである。このことについても認識され自覚されていないから、この「抗議」は、粗雑て夢想的空論的で体制的な「抗議声明」になってしまうのである。もう一つ、日本キリスト教団に対してもそうであったが、この「抗議」を為したカトリックに対しても、「自己の内なる政治」を、福音に「合わせて」どこまで無化しているのかという、異議申し立てをせざるを得ないのである。なぜならば、例えば、11月14日の新聞記事に、「法王への裏切り行為」として「ローマ法王庁 機密漏洩容疑 聖職者2人逮捕」等々、という記事があったからである。日本キリスト教団においてと同じように、カトリックの側においても、市民社会の精神である「私意」・「私利」の蔓延が、世俗まみれが、その「内なる政治」における政治的な権力闘争が、存在しているのではないだろうか……。
 今回も、最後に、バルトの言葉を載せておこう。再度、バルトは、戦後すぐの1948年、次のように書いた――「六〇〇万人のユダヤ人が殺され……ありとあらゆる恐怖と困窮が人間を襲い、しかもすべてはちょうど風が……花の上を吹くように来て、また去って行った。……草や花はしばらく身を曲げる。しかし風が静まれば、また身を起こす。……ある近代劇(≪神だけでなく人間も――否、人間を中心として神も、という近代主義、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教、牧師・神学者・キリスト教的メディア的著述家・教会の成員≫)」が『私たちはまた逃げおおせた』という言葉でこれを言い直しているように」。まだある。第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」。「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した。「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」。
 このようなところに、私たち、その現にあるがままの現実的な人間存在におけるキリスト教界の現状があるのではないだろうか。このような現状を認識し自覚し直視する時、私たちは、キリストにあっての神だけでなく、人間の自主性・自己主張も、人間の自己義認の欲求も、という言葉を発することは決してできないであろう。ただただ、素直さと感謝の中で、次のようにしか告白することができないであろう。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯した、イエス・キリストにおける死と復活の啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的に授与されるそれに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定について、次のようにしか告白することができないであろう――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)」・「ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエスの信仰』は、明らかに主格的属格(≪イエス・キリストが信ずる信仰≫)として理解されるべきものである」・「(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――このことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が―――つまり『自分の理性や力(≪人間の自由な自己意識の無限性・類的活動におけるそれ、人間の肉体・身体と精神・意識を介した全自然、すなわち自己身体・他者身体・環界としての自然、との普遍的実践的な類的活動におけるそれ、意志等のそれ≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰(≪自主性・自己主張・自己義認の欲求、すなわち無神性・真実の罪、のただ中にある、いつも、神から遠ざかり・遠ざかり続けている、神に背き・背き続けている、そして罪を犯し・新たな罪を犯し続けている、ところの不信仰≫)に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」 (『ローマ書新解』)。