本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

キリスト教界時評――神学における批判の原則

キリスト教界時評――神学における批判の原則

 

 

 バルトは、「読まれる」だけでなく、「理解される」ことを欲した(『バルトの生涯』)、「全構築(≪その信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体≫)」において、全体的構成において、根本的包括的に原理的に理解されることを欲した。したがって、バルトは、そのような仕方で、批評あるいは批判されることを欲した。

 

 私は、私の意志からではなく、突然私に手紙を送ってこられたある他者から強いられて、次のような――すなわち、牧師・関口康の「カール・バルトの神学の構造上の致命的欠陥はどこにあるか」論の、陥穽についておよび関口のファン・ルーラー論について、というタイトルの記事を書いた。その私の記事に対して、関口が、ブログで、自分も「バルトの本を30年は読み続けて来ました」と書いていた、という。また、「2015年7月1日―― ご自分のブログで、ものすごい長文で私を名指しで批判してくださった方は、全く存じ上げません。ネットから ... よく分かりませんが、カール・バルトのことをほんの少しでも批判的に言うと、この方のターゲットになってしまうようです」という記事も書いていたらしい。書いていたらしいというのは、つい最近、私が関口のその記事を見ようとした時には、その記事だけでなく、そのブログ自体が削除されていた、からである(関口自身が書いた「カール・バルトの神学の構造上の致命的欠陥はどこにあるか」とファン・ルーラー論については、私のホームページにある、私の記事――牧師・関口康の「カール・バルトの神学の構造上の致命的欠陥はどこにあるか」論の、陥穽についておよび関口のファン・ルーラー論について、を読んでいただけば分かるようになっている)。

 

 まず最初に、信仰・神学・知識における自分の未熟さを十分に自覚している私は、正直に言っておきたいのだが、拙著ですでに述べているように、その資質性・その人間性・その知識性・その理論性・その思想性において、私にとって最も信頼し固執することができるのは、神学者ではカール・バルトであり、人間学的領域では吉本隆明であり、ミシェル・フーコであり、宮沢賢治や太宰治等々である。

 

 さて、私は、その記事において、別にこの牧師を批判することを目的として書いたのでは全くない。なぜならば、私は、この牧師を全く知らなかったし、ファン・ルーラーなる神学者も全く知らなかったし、彼らに全く興味関心がなかったからである。しかし、ある日突然、私の全く知らないあるいは覚えていない方から手紙をもらいバルトを批判しているというファン・ルーラーなる神学者を知ったため、その関係で、私の住んでいる国立大学付属図書館やミッション系の大学付属図書館で、ファン・ルーラーの本があるかどうかを調べてみたのだった。しかし、K・バルトの蔵書はいっぱいあったのだが、ファン・ルーラーなる神学者の蔵書は全くなかったために、仕方なくWEB上で調べていたら、牧師・関口康のあの記事に――すなわち、バルトを根本的包括的に原理的に理解しないで(その記事を読めばすぐに分かる)、批判をしていた、あの記事に、突き当たったのである。したがって、私は、この牧師のファン・ルーラーなる神学者に依拠した皮相的なバルト理解とバルト批判に対して、それは間違っているのではないですか、ということを、私が蓄積してきたバルトの根本的包括的な原理的な理解に基づいて、書いただけなのである。

 

 いずれにしても、関口が、バルトを根本的包括的に原理的に止揚し超えるためには、先ず以て関口自身が属している<自然神学>の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚しそこから超え出て行かなければならない、そしてその次に初めて、バルトの<超自然な神学>の<段階>を、根本的包括的に原理的に止揚してそこから超え出ていくことができる位置につかなければならない。関口のバルト批判には、この過程が抜け落ちているのである。ここで、<段階>とは、「時間と空間を同時的に共有する」連続性と断続性との構造(共時性)のことである。したがって、ほんとうは、オリジナルな神学者・「文人」などというものはいないのである。かつて『バルトの生涯』で述べたモーツァルトもそうであった、バルトもそうであった、マルクスもそうであった、フーコーもそうであった、吉本もそうであった。バルトは、その信仰・神学・教会の宣教において、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯して、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」つつ、一方で、ある社会構成・支配構成・文化構成の時代水準のただ中で、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。私たち人間は、類・歴史性――個・現存性の関係と構造を生きる以外にはないからである。私は、この現在から未来に生きる、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯したバルトの信仰・神学・教会の宣教における言葉に連帯することで、「神の言葉の三形態」に連帯するのである。この場合、「根源的、本来的な証人は、神ご自身であって、神ご自身以外にはないのである」(『証人としてのキリスト者』)から、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」の第一の形態(神の言葉そのもの、「啓示の実在」そのもの)は、その「隅のかしら石・かなめ石(エペソ二・二〇)」としての、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の子、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(イエス・キリストの名)、なのである。

 

 私は、信仰・神学・教会の宣教においてはバルトに、人間学的領域では吉本隆明やミシェル・フーコー等にも依拠して、自分のその存在・その思考・その実践について、その考え方を整理しているから、批判の原則については、次の立場に立脚しているのである――吉本は、理論・「思想は物質ではなく外化された観念である……」から、この「観念の運動は観念によってしか埋葬されず、甲の観念は、乙の観念がそれを包括し、止揚することによってしか、いいかえれば甲の観念を生かして袋に入れることによってしか滅びない」、と述べている(『カール・マルクス』)。バルトも、次のように述べている――スカンディナビア人のヴィングレンは、バルトには「神=悪魔図式」が欠けていると批判したことに対して、バルトは、「私に反論する人は、ただ私の全構築(その信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体)に対応する各自の構築を立てるという形においてのみ可能であり、そんな……たわごとを持ち出すくらいでは駄目である」、と述べている。このことは、批判は、根本的包括的に原理的になされなければならない、ということを意味している、すなわち、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体を、根本的包括的に原理的に止揚し克服しなければならない、ということを意味している。したがって、バルトの「超自然な神学」の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚してそこから超え出ていくためには、バルトに対する批判者自身が、先ず以て<自然神学>の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚してそこから超え出ていなければならない、その上で初めて、それと同時に、その次の<段階>において、バルトの「超自然な神学」の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚してそこから超え出ていき得る構想を持っていなければならない、のである。したがって、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を根本的包括的に原理的に批判することができるためには、先ず以て批判者自身が、バルト自身のそれを根本的包括的に原理的に認識し理解していなければならない、その上で、それと同時に、批判者自身のその信仰・神学・教会の宣教のその原理・その認識方法と概念構成を「全構築」していなければならない、そしてようやく、初めて、バルト自身のそれを根本的包括的に原理的に批判することができる土俵の上に立つことができる、のである。
 分かり易い例を挙げてみる。それは、次のようなミシェル・フーコーや吉本隆明の資本主義批判の在り方にある。@フーコーの場合――マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。なぜならば、資本主義制度における生産は、制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである。「このマルクスのやり方にちょっと手を加えますと、ほぼわたしのしたかったことになります。(中略)問題は、何らかの様式に基づいてセクシュアリティを生産し、不幸な結果をもたらす積極的なメカニズムとはどんなものかをとらえること、それだけなのです」(『ミシェル・フーコー』「セックスと権力」)、A吉本の場合――資本主義が悪や欠陥を持っていることは、制度的必然として原理的に自明なことである。しかし、資本主義は「人類の歴史の無意識(≪自然史の一部である人類史における自然史的過程・自然史的必然≫)の生んだ……最高の出来栄えの作品」である。したがって、「資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品」である。したがってまた、資本主義には「悪」と「欠陥」、搾取や貧困等があるから資本主義が産みだした「文明や文化や商品も悪」で欠陥があると資本主義を批判しその文明や文化を批判し否定しても、その「最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」。したがって、その根拠を揺るがし資本主義を超えるためには、資本主義とその資本主義が生み出した社会構成・支配構成・文化構成、文明や文化や商品を根本的包括的に原理的に止揚する以外にはないのである。言い換えれば、第一に、還相的な究極的総体的永続的課題としては、根本的包括的に原理的に資本主義を止揚するためには、資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を構成しなければ不可能なのである。その可能性は、吉本によれば、世界普遍性としてある人類史の原型・母型であるアフリカ的縄文的段階における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づくその再構成にあるのである。すなわち、民族国家の枠組みを超えた世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論の構成にある。それができれば、経済社会構成体を資本制におく西洋近代を超え出て、次の段階に移行することができる。第二に、往相的な過渡的緊急的課題としては、例えば「西武」や「電通」や「自民党の手先」であっても、優れたCM作家の優れたCMは評価すべきであるから、創造的な批判は、それを包括し止揚してそれを超えた作品を創造する以外にないのである。また、過渡的緊急的課題としては、自分が現に身近に接している「食物の飢え」等で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって相対的・部分的に救済する以外にはないのである、福祉政策等によって行政が救済する以外にはないのである、法的言語や政策的言語を介して政治的国家・政治的権力(体制)に加担し、大多数の被支配としての一般大衆を困窮や死へと追いやることのあった・ある・あり得るであろう(戦前や近年の雇用問題・年金・医療・消費税・安保・憲法等々の論議において)、知識人やメディアの知識や情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをやめる以外にはないのである。いずれにしても、人類は、制度としての官僚・政治家・資本家のために存在しているのではないし、「文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」のであるから、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民が、「歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき物語はたくさんあるのです」。「意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかりです」。「知識(≪知識人≫)が非知識(≪大多数の被支配としての一般大衆・一般市民≫)を導くというようなかんがえ方」、エリート層が非エリート層を導くというような考え方は、「絶対に転倒されなければいけない」のである(『情況へ』、『マルクス―読みかえの方法』、『母型論』、『アフリカ的段階について 史観の拡張』、『大情況論』)。

 

 このような意味で、ファン・ルーラー信奉者の牧師・関口康のバルト批判は、バルトを根本的包括的に原理的に理解して批判したものではなかったのである。したがって、私は、そのことを指摘しただけなのである。ここで、もう少し、関口が述べていたことを書いておこう。

 

 関口は、「カール・バルトの神学の問題点については、自然神学に対する対応のまずさ、宗教や歴史という『人間的な』営みに対する低い評価など、これまでいろいろと指摘されてきました。それら一切の原因はバルトの神学の構造上の致命的欠陥にあると、私はファン・ルーラーと共に考えています。いちばんの基礎の土台がおかしい」、と書いている。しかし、関口が「おかしい」と書いた、例えばバルトの「自然神学に対する対応のまずさ」について、根本的包括的に原理的に論じてはいないのである。ただ、対応がまずい、とだけ書いているだけの内容なのである。

 

 関口は、私に対して、「カール・バルトのことをほんの少しでも批判的に言うと、この方のターゲットになってしまうようです」、と書いている。間違ってもらっては困るが、私にとっては、関口やファン・ルーラーなど、少しも興味や関心がなかったのであるが、バルトを根本的包括的に原理的に理解もしないで、出鱈目な仕方で「バルトの神学の構造上の致命的欠陥」ということを臆面もなく書いていたので、それは違いますよ、と異議申し立てを行っただけなのである。ここではっきりと書いておきたいのだが、私にとっては、先ず以て第一義的に重要な事柄は、バルトではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストなのである、そしてそれから、このイエス・キリストとの関係で、カール・バルトが重要なのであり、吉本隆明等々が重要なのである。この関口の語り方の問題点は、自分が批判することは自由であるが、他者が自分を批判することはゆるされない、という点にある。なぜならば、そうとしか理解しようがない書き方だからである。この語り方は、「フェアネス」を主張していた関口と矛盾するのではないだろうか?

 

 この牧師・関口とは全く違って、バルト自身は、信仰・神学・教会の宣教を完全に開いたところで、次のように述べている――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、A「『平信徒』という概念は、全く宗教用語の最悪の概念の一つであり、キリスト教用語から、いち早く消えてなくなるべき概念なのである。したがって、教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)、B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである。「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家」や牧師だけのことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉』論)。

 

 さて、関口は、「キリスト論と聖霊論の関係を『客観――主観図式』で説明してしまいますと、両者の関係が平板な一直線の関係になりますし、まるで鏡面に写した自分の姿のように同一物の反復にすぎないものになってしまうわけです。そうなりますと、聖霊論のカテゴリーの中から『時間』ないし『歴史』という次元がすべて抜け落ちてしまいます。人間の営みや文化は、全く意味も位置も持ちえなくなります。二千年の教会史も、教会制度も、もちろん牧師や長老や教会員の存在や努力なども、教会の青年会やキャンプやリトリートなども、キリスト教国の歴史も、エキュメニカルな対話も、全く無意味になります。そのような(客観的な)『キリスト』と(主観的な)『このわたし』の間に介在する一切のものは無意味・無価値と化し、時間が停止した真空の宇宙空間の中に『キリスト』と『このわたし』だけが漂っているかのようです」、「日曜日の礼拝中、説教中は、涙を流して感動し、興奮状態になったとしても、『このわたし』の現実は何一つ変わっているわけではないし、『このわたし』には日曜日以外の週日も生きていかなければならない責任があるのです。我々は、バルトが神学的論理によって締め出したものの只中で、生きていかなければなりません」・「論理の力というのは、実に恐ろしいものです。人間の営みや文化に意味も位置も与えられない神学の論理は、人を『神学的に』絶望に追いやることさえありえます。ガチで死にたくなる人がいてもおかしくないレベルです」、と書いている。
 今回の私の記事――すなわち『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「十九節 教会のための神の言葉」「二 神の言葉としての聖書」(その3−2)を読まれた方は、今回の記事だけからでも、この関口の出鱈目で皮相的な言い方から、関口が、バルトを根本的包括的に原理的に理解していないこと、それゆえにその最初から、バルトを根本的包括的に原理的に批判することができないことを知ることができるであろう。はっきりと言えば、関口は、全く、頓珍漢なことを書いているだけなのである。例えば、「(客観的な)『キリスト』と(主観的な)『このわたし』の間に介在する一切のものは無意味・無価値と化し、時間が停止した真空の宇宙空間の中に『キリスト』と『このわたし』だけが漂っているかのようです」と書いているが、この「(客観的な)『キリスト』と(主観的な)『このわたし』」という短絡的な批判の仕方は、出鱈目で幼稚な戯言でしかないのである。なぜならば、バルト自身は、そのようなことは一言も述べてはいないからである。バルト自身は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、その現にあるがままの現実的な人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与されるということ、またこの出来事は、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造、秩序性、に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してやってくるということ、神は聖性、隠蔽性・秘義性・不把握性、を本質としており、私たち人間は、その下に、また終末論的限界の下に、あるということ、を述べているのである。言い換えれば、関口は、神学における批判の原則について、無知なのである。したがって、関口の語り方は、出鱈目で幼稚な戯言でしかなくなってしまうのである。バルト自身の言葉に聞いてみよう――バルト自身は、『証人としてのキリスト者』の「討論」における質問に対して、「『抽象的』とか『理論的』とかいう言葉をお洩らしになったが、私も多少は、経験を持っているということを、信じていただきたい。私もまた、一人の近代人であり、私もこの時代(≪ある社会構成・支配構成・文化構成の時代水準のただ中≫)に立ち、この時代の問題を、やはり見ている。生活の問題が重大だということを、私に向かってそれほど熱狂的にお教えになる必要は、恐らくないのである。否、私にもやはり、生きねばならぬ自分の実際生活があり、しかもそれは、激烈な現代の只中においてである。したがって、私は、諸君に向かって、こう言うことができる。すなわち、諸君がここで耳にされたようなところに私が達したのは、ほかならぬこの生活においてであり、ほかならぬ近代世界との対決に置いてなのだ、と」、と述べている。ここで、バルトは、ほんとうのことを語っているのである。なぜならば、『バルトの生涯』と合致しているからである。

 

 最後に、関口は、バルトを「30年は読み続けて来」た、という。しかし、私は、こう言いたい――何十年・何百冊、読むことは誰にでもできることだし、またそう言うことも誰にでもできることである。すなわち、読んだ年数や冊数が問題ではないのだ。重要なことは、バルトをどれだけ根本的包括的に原理的に理解したか・理解しているか・理解しようとしているか、にあるのである。言い換えれば、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成をどれだけ根本的包括的に原理的に理解したか・理解しているか・理解しようとしているか、にあるのである。したがって、バルトを「30年は読み続けて来」たというわりには物分かりの悪い関口のために、もう一つバルト自身の言葉を置いておこう――「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた。現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて、私の本を読んだ多くの人々の頭(≪自然神学の段階で停滞と循環を繰り返しているだけの、神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たちの頭≫)のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした人々(≪根本的包括的な原理的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語る人々≫)の頭のなかにのみ存在していたのである 」(『バルト自伝』)。

 

 私が読んだ限りでの批判的なバルト論あるいは好意的なバルト論は、大体が恣意的独断的な皮相的なものであるか出鱈目なものであるか幼稚な頓珍漢なものでしかなかった。もちろん、例えば、哲学的神学者の滝沢克己の神学の場合は、関口と同じように、<自然神学>の<段階>の系譜に属するそれであるが、関口とは違って、しっかりとした論理性があるから読めばその原理・その認識方法と概念構成を理解できるようになっている。また、『福音と律法』の翻訳者の井上良雄の「あとがき」にあった、「(≪この本の≫)難解さは、ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察の深さから来ている。この難解さに堪えて読まれる人には、それに報いて余りある喜びが分かたれるにちがいない」、というそのバルトに対する評価はほんとうのことであった。その時、私は、文芸評論家の冨岡幸一郎とは違って、井上良雄はさすがに文芸批評家(吉本隆明『感性の自殺――井上良雄について――』)をしていただけのことはあるなと思った。