本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

曽野綾子の『人間の分際』の広告記事について

曽野綾子の『人間の分際』の広告記事について(この記事は、カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「十九節 教会のための神の言葉」「二 神の言葉としての聖書」(その3−1)(35−76頁)および付言【キリスト教界<時評>――曽野綾子の『人間の分際』の広告記事について】、と同じ)

 

 

 昨日の地元紙の広告欄に、カトリック教徒である曽野綾子の『人間の分際』という本が「発売即25万部」売れたという記事が掲載されていた。私はまだ読んではいない。ただ、「『やればできる』というのは、とんでもない思い上がり」・「努力でなし得ることには限度があり、人間はその分際(身の程)を心得ない限り、決して幸せには暮らせない」とあり、目次には「不幸を知らないと幸せの味も分からない」・「人間の一生は苦しい孤独な戦いである」とある――そういう通俗的な処世訓と言うべき文言が並べられていたが、少し興味を感じたので、本を読まずに、それゆえに広告記事を読んだだけという限定性において、論じてみたい。まず、「努力(≪自分の意志的行為≫)でなし得ることには限度があ」るということについては首肯した上で述べてみる。「努力でなし得ることには限度があり、人間はその分際(身の程)を心得ない限り、決して幸せには暮らせない」ということと、目次にある「不幸を知らないと幸せの味も分からない」とは、多分その分際を心得た上でそう言っているのだろうからまあ納得できるとしても、目次にある「人間の一生は苦しい孤独な戦いである」という文言の中にある「苦しい」ということとは矛盾してしまうように思われる。なぜならば、分際を心得た上は、<精神的に>「幸せに暮らせ」ようになり得る可能性があるとして、その意味で「幸せには暮らせ」るのあれば、その分際を心得た時点からは、「人間の一生は……苦し」くはないはずだからである。また、なぜ通俗的な処世訓かと言えば、曽野が述べているようなことは、すでに誰でも体験し体験的に実感し体験的に認識し体験的に耐えながらそこを生き体験的に耐えながらそこを生きていかなければならないという事柄を、ただ整理し書き並べられているだけだからである。生理(自然)と意志の問題、男女関係・夫婦関係・家族関係の問題、人生上で体験するさまざまな希望とその挫折の問題、職場関係の軋轢の問題、自分が望まない社会構成・支配構成・文化構成の時代水準とその病の問題、自分が望まない支配の側の制度としての官僚(法の支配の下での法による行政に基づく政治的国家の職能団体)の行政執行の在り方の問題、自分の望まない無理やり押し売りされる選挙カーの雑音(政治)の問題、等々自分の意志だけではどうすることもできない事柄は、そこらじゅうにあるからである。例えば、後期ハイデッガーが、<不可避的>な、被制作性・被企投性・言語・シンボル体系、個と類・歴史性と現存性が出会う出来事、「存在の生起の出来事」、を認識し自覚した時、彼は「転回」をしたと言うことができる。また、マルクス(エンゲルス)は、『ドイツ・イデオロギー』で、「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」、と述べた。この市民社会の経済的カテゴリーである「材料、資本、生産力」の概念は、言語、対(身体的精神的な性・夫婦・家族)、の概念に置き換え可能である。人は、自分の意志とは全く無関係に、ある親の下であるそうした労働や言語や対の不可避的な歴史的現存性のただ中に生誕し、その類・歴史性に規定されて個の現存性を生きる。言い換えれば、人は、不可避的に、個・対・共同性という人間存在の三様式を生きるしかない存在である。したがって、このことが不幸だとすれば、そうした不可避的な人間の存在様式それ自体が不幸なのである。しかし、個人の次元や問題に還元して、「努力でなし得ることには限度があり、人間はその分際(身の程)を心得ない限り、決して幸せには暮らせない」、と言うことは、短絡的な言い方であるだろう。それだけでなく、個人の次元や問題に限ったとしても、人はそれぞれ資質の差異を生きているから、ある人にとってはあの「分際を心得」れば、<精神的に>「幸せに暮らせ」るようになるかもしれない、しかし、ある人にとってはあの「分際を心得」ても何の解決ももたらさないということはあるのである。例えば、ある資質は孤独を好み、ある資質は社交を好む、ということはあるのである。ある資質は閑静を好み、ある資質は喧噪を好むということはあるのである。ある資質は控え目を好み、ある資質は大言壮語を好むということはあるのである。さらに、曽野の本の目次には「うまくいかない時は『別の道を行く運命だ』と考える」という項目がある。言い換えれば、曽野の言う「うまくいかない時は」とは、やはり、曽野の場合、自分の意志でということになってしまうだろうから、自分の意志で、「別の道」を行け、ということを語っているのであるが、向こう側から強いられた道のみを歩まなければならないことがあるのである。吉本隆明は、次のように述べている――人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかない」ものである。歴史的現存性とは、人間化され非有機的身体化された全自然・人間的自然を、それが良きものであれ悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことである。したがって、個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである。したがってまた、個人としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、いったんそうした「現実に衝突してからは」人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個の現存を刻んでいくのである。このような訳であるから、曽野の言う「うまくいかない時」というのは向こう側から強いられたどうすることもできない不可避性ではなく、個人の次元や問題に還元したところの、それゆえに自分の意志性のベクトルを変容させればいいところの大したことのない「うまくいかない時」でしかない、と言うことができるのである。また、目次の第1章「人間には『分際』がある」の中には「そもそも人間は……利己的である」という文言が、第6章「一度きりの人生をおもしろく生きる」の中には「『人並み』を追い求めると不幸になる」という文言がある。しかし、「私利」・「私意」は市民社会の精神であって、完成された政治的近代国家の場合、人間の思惟や現実的生活において、天上の観念的非日常性(政治的共同性)と地上の現実的日常性(市民社会生活・個別的私的現実的生活)との二重の生活が強いられるのである。言い換えれば、人間が諸矛盾や諸利害の対立のある現実的な市民社会の中で、その社会の本質を観念的な法的政治的共同性として疎外する時、すなわち自己還帰しない逆立した疎遠な共同的観念を疎外することによって、すなわち法制度によって現実的社会的な諸矛盾・諸利害の対立を止揚する時、人間は現実的社会的にと観念的政治的にとの二重の生活を強いられるのである。具体的には、私人として、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活と、一方であたかもそうした対立や争いのない法的政治的観念的な共同性によって統一された公的共同性の一員・公民としての生活との二重の生活を強いられるのである。戦後日本の資本主義社会と自由主義国家・政治的近代国家の<制度>の成熟は、そこで生き生活する人々の間に、私的利害と恣意的自由の優先意識を生み落したのである。そして現在、情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、高度消費資本主義社会は現実的な衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、そこで生き生活する人々の間に、身体的な肺病等に代わって正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落し、作家の中村うさぎ等を生み落したのである。中村は、消費資本主義社会の只中に漂泊する自分自身について、次のように述べている――1992年新宿伊勢丹のシャネルで「衝動買い」したときから、「眠っていた欲望」が暴走し始めた、その後、60万円の革のコートを購入するのだが、その代金を「カードで支払った時、すさまじい快感に襲われ」た、「以来、海外ブランド物を買いあさる」、一度に買い込む金額は、100万円、200万円とエスカレートしていき、「印税が底をつき、カードが使用停止」になった、「自宅の水道やガス、電話が料金未納で止められたこと」もあった、買物依存症がおさまったとき、今度は美容整形に走り、現在「顔で原型をとどめているのは口と鼻先の二カ所だけ」となった、「以前なら年をとれば容貌が劣化し、静にあきらめていけた。現代人はあきらめられない地獄に突き落とされている」、「私は消費社会の漂泊者でいたい」(「朝日新聞」夕刊、二〇〇六年九月二二日)。この事態の本質は、衣食住の生活的必要に依拠しない消費行動にある。消費資本主義の「高度な資本システム」的必然がもたらす無意識世界(システム価値・共同幻想)が人を動かしている事態である。すなわち、その「システム化された文化の世界」(≪無意識世界としての共同性の世界≫)は、意識的に対応可能な「制度、秩序、体系的なもの」・「物の系列」に「マス・イメージ」を付加することを強いて、「虚構の価格上昇力」を形成する。例えば、労働量・労働時間が同質・同量の化粧品であっても、見た目に美しい色や形の容器に入れることで実質的な交換価値とは別のイメージ価値が付加されるのであるが、その場合その商品は、衣食住に必要な商品である前にイメージとしての商品・ブランドとしての商品である。そうした商品が、マス・メディアを通して毎日のように流され続けていくために、人々の無意識世界にそうした商品を身に付けたいという欲望を生み落としていく。そして、無意識に「そうやってしか存在できなくなったとすれば」、その事態は、自分の意志によるのではなく「システムの意志によっている」ということができる。すなわち、意識的に対応可能な社会や国家の<制度>が人間の意識を変えたように、意識的に対応不可能な「システムの意志」・システム的価値が人々の無意識世界を形成している事態である。そして、「このシステム的な価値は、社会制度や国家秩序の差異によって左右されない世界普遍性をもった様式」として、意識的に対応できる「制度・秩序・体系的なものに象徴される物の系列」を衰退・解体させている。しかし、このシステム的な文化は、「実体から遠く隔てられ、判断の表象」を喪失しているから、その度合に応じて「白けはてた空虚にぶつかる度合」が決定され、生活的実感を希薄化させるのである(『マス・イメージ論』)。曽野は、「『人並み』を追い求めると不幸になる」というのだが、現在、そのような曽野の処世訓が通用しない時代水準に突入しているのである。ほんとうは、幸福の問題は、「努力でなし得ることには限度があり、人間はその分際(身の程)を心得ない限り、決して幸せには暮らせない」、というような個人の次元の「心得」・意識・意志の在り方に還元するところにあるのではない。
 ほんとうは、幸福の問題は、例えば、次のような在り方にあるのである――過渡的課題を彼なりに認識し自覚して歩んだ宮沢賢治の言う「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とか・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』におけるような課題にあるのである。過渡期課題を念頭に置いたマルクスの革命の<究極像>(法的政治的な観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う社会的現実的な人間の究極的総体的永続的な解放)にあるのである。信仰的・神学的・教会(の宣教)的には、その過渡的課題(恣意的独断的にではなく、啓示に固有な証明能力を通して、啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」を通して、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのことを根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、イエス・キリストの死と復活の出来事、啓示・和解、インマヌエルの出来事、の告白と証しと宣べ伝え)を認識し自覚しながらある社会構成・支配構成・文化構成の時代水準を生きたバルトが述べたように、その現にあるがままの不信・非キリスト者(教)・非知、全人間・全世界・全人類、に完全に開かれた、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみある、それゆえに完全な客観的現実性として・客観的実在として、そしてその啓示に固有な証明能力に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰として、イエス・キリストにおける<完了された>究極的包括的総体的永遠的な救済・平和にあるのである。