本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「十九節 教会のための神の言葉」「二 神の言葉としての聖書」(その3−1)および付言【キリスト教界<時評>――曽野綾子の『人間の分際』の広告記事について】

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「十九節 教会のための神の言葉」「二 神の言葉としての聖書」(その3−1)(35−76頁)および付言【キリスト教界<時評>――曽野綾子の『人間の分際』の広告記事について】

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

十九節 教会のための神の言葉

 

「教会のための神の言葉」について、バルトは、次のような定式化を行っている――
「神の言葉(≪客観的な「啓示の実在」そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの死と復活における啓示の出来事、啓示・和解、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」の第一の形態、それゆえに先ず以て第一次的・「第一義的に優位に立つ原理」≫)は聖書(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」を通して授与された人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰に基づくイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト共に「教会の宣教の原理」≫)の中での神自身である。なぜならば神は、主として昔モーセおよび預言者たちに、福音記者および使徒たちに語られた後、神がそれらのものによって書かれた言葉(≪聖書、「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)を通して、同じひとりの主としてその教会(≪教会の客観的な、信仰告白・教会的宣言および教義・福音主義的教説としての啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)に語りかけてい給うからである。聖書は、それが教会に対して聖霊を通し(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与という「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」を通して≫)、神の啓示についての証言となったし、神の啓示についての証言となるであろう間に(≪ことによって――このindemを、井上良雄ならこのように「……することによって」と訳すであろうから、この吉永の「……する間に」という訳し方には何か彼の特別なこだわりがあるに違いない、しかし、私たちは、この吉永の翻訳の偉業に感謝しつつも、ただこの教会教義学の、瑣末な、重箱の隅を突っつく的な、馬鹿馬鹿しくてつまらない作業に時間を費やすることは止めて、それゆえに「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会の神学」・教会の宣教やそれに類する神学・教会の宣教におけるような形而上学的一面的皮相的固定的抽象的空論的な理解を目指すのは止めて、あくまでも現在から未来に生きる言葉を探し求めて、根本的包括的な原理的な理解を獲得していくことにのみ専念する)、聖であり、神の言葉である」(3頁)。

 

 

二 神の言葉としての聖書(その3−1)

 

 私たちが、聖書は神の啓示についての証言であるあるいは神の啓示についての証言は聖書であるという基本命題において、それゆえにその基本命題における聖書において、神の言葉としての「神の啓示についての証言」・「神の啓示についての人間的な言明」を「聞く」時には、「これまでに詳論されたことに従えば」、すなわちあの「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて言えば、私たちは、その時、その「証言」や「人間的な言明」に、「証言」や「人間的な言明」「以上のものを、聞いているのである」。

 

(1)先ず以て、「われわれが」、聖書は神の啓示についての「証言」・「人間的言明」であると言う時、「われわれはそのことを教会の中で、教会と共に言う……」。言い換えれば、その「規定と制限」において、「われわれはそのことを教会によって聖〔なる〕書〔物〕として見出され、承認された書物、すなわち聖書正典について言っている……」。したがって、その場合は、神の啓示の証言として選出と承認は、「そもそも人間のなすべき事柄ではないということを言っているのである」。したがってまた、「紀元四〇〇年頃の教会のなすべきことであった」ということを言っているのではない。すなわち、その場合、「ただこの既に〔出来事として〕起こっている指定と選びをわれわれが見出し、<承認>することだけが問題である……」。ここで「教義に関しても、聖なるものとして承認されたテキストに関しても用いられた概念」である正典は、「『真理の基準』という意味である」。教会は、「この概念の意味において、正典を自分で自分に与え」たり・自分で「造り出すこと」は、「できなかったし、今もできない」。したがって、教会は、この意味での正典を、あの「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を通して、すなわちその人間の言語を介した「人間的知識」を通して、あくまでも神と人間との無限の質的差異と神の聖性・秘義性・不把握性と終末論的限界の下で、神の自由な決断に基づく自己啓示によって「人間に開示された真理」を、全くの「相対性(≪全くの不完全性≫)の中で、確認することができるだけ」なのある。言い換えれば、「誰も彼も合点が行く」時は、ドストエフスキーが『罪と罰』でマルメラードフに語らせた終末論的な言葉、すなわち「最後の日」、キリストの再臨(「完成」)の時なのである。

 

 ここで肝要な点は、正典確認の「手段、動機、標準」と正典確認の「対象」とを区別しなければならない点にある。しかし、教会は、この正典確認――すなわち「真理の基準」を問うに際し、「歴史的」、「神学的」、「教会政治的」等「いろいろな観点」からする錯綜した「人間的な判断」の側面を垣間見せたが、結局は、「さまざまな発展段階を通って、差し当たり、決定された問い自体」は、「真理の基準を認識すべき文書を問う」という「信仰の問い」であった。すなわち、信仰の「対象自体」を問う問いであった。キリストにあっての神を問う、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」としての「信仰の問い」であった。したがって、教会は、信仰の対象自体を、神の言葉としての啓示自体を、「自分で造り出すことはできなかったし」、さまざまな観点の下で「論じられた議論の筋道を通って自分で自分に啓示することはできなかった」。言い換えれば、教会は、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の第一の形態と第二の形態に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復することの重要さ・大切さを「明らかにすることができるだけ」であった。したがって、バルトは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」および「神の言葉の三形態」の関係と構造を念頭に置いて、教会が確認した正典を受け入れる仕方は、教会自身が、権威的に・支配的・第一次的に、「これらの証言を(≪教会にとっての≫)啓示証言として」・「正典」として「証言する」のではなく、権威的・支配的・第一次的にはあくまでも「教会を基礎づけ、支配する」「啓示そのもの」・啓示自身が、「これらの証言を(≪教会にとっての≫)啓示証言として」・「正典」として、「証言する」、と述べたのである。したがってまた、バルトは、『神の言葉』論において、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」とか、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は「根本的には……真理が来るということのしるし」であるとか、と述べたのだし、また「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである。そして、一方において、ある社会構成・支配構成・文化構成の時代水準のただ中でその信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。したがって、またバルトは、次のように述べたのである――聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する、それゆえに、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である、この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である、それゆえにまた、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである、なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間および神学と人間学との混淆論・混合論・共働論・協働論・折衷論という<自然神学>の<段階>で停滞し循環するキリスト論・聖霊論・神論に埋没していく以外にないからである、すなわち、その場合には、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの正当性のある宗教批判の対象そのものとしてのキリスト教でしかなくなってしまうからである、このように警鐘を打ち鳴らしたのである・警鐘を打ち鳴らし続けたのである。
 このような訳で、バルトは正典確認の過程について、次のように述べている――「最も古い伝承のある特定の構成要素が、キリスト教世界がそれらを特に評価しそれらの特別な重要性を認めて行った過程において、(≪それらの「文書そのものが……正典であったということの力によって」、≫)諸教会の内部で、あらゆる種類の動揺や紆余曲折を経た後、次第に、事実的に、そのほかの構成要素からぬきんでた自分の地位を獲得し、確立するようになり、そのような事実的な動きに対し教会会議の決定が、本来の、形式的な正典結集という形で、ただあとから確認することができた、ということである」。

 

 「シルエスター・プリェリアス」は、「ルターに反対して」、『教皇ノ権威ニツイテノ対話』において、「ローマ教会およびローマ教皇の教え」は、「間違イノナイ信仰ノ基準デアリ、ソノ基準カラシテ聖書モ力ト権威ヲ引キ出シテクル」と主張した。また、「その当時、J・エック」は、「聖書ハ教会ノ権威ガナケレバ、権威デハナイ」と断言した。アウグスティヌスも、時代的制約のゆえに、<自然神学>の<段階>にとどまりながら、「モシモカトリック教会ノ権威〔保証〕ガワタシヲ動カシ、促スノデナケレバ、ワタシハ本当ノ福音ヲ信ジナイ」、と述べた。それに対して、バルトは、「正典についての正しい見解」として、J・ゲルハルトの言葉を引用している――「聖書ノ権威ハ、……神的ナモノ、スナワチ神ニノミ依存シテイルモノデアッテ、教会ノ権威ニ依存シテシナイ。聖書ノ権威ハワレワレニトッテハアノ無比ナ、神ノ最高ノ権威ノ顕示ト認識以外ノ何モノデモナイ」。そしてバルト自身は、「人は、教会が聖書に対して聖書の権威を与えることができる……などと考えるべきではない」、と述べた。したがって、バルトは、『神の言葉』論で、次のように述べている――聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、「啓示の実在」そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)と共に、教会の宣教における原理である、なぜならば、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」)が、教会に宣教(「神の言葉の三形態」の第三の形態)を義務づけているからである、それゆえに、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。このような訳で、教会は、ただ、「啓示に固有な証明能力」と「神の言葉の三形態」を念頭に置いて、「聖書の権威を確認すること以外」のことをなすことはできないのである。
 それでは、近代主義的プロテスタント主義的な神学・教会の宣教においてはどうであったかと言えば、ブルトマンにその典型を見出すことができるように、彼は、先ず以て「神の言葉の三形態」の第一次的・第一義的な第一の形態や第二の形態を後景にしりぞけ、前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化(前景化、絶対化・権威化)したのである。したがって、ハイデッガー自身がブルトマンやその学派を揶揄・批判していたように、彼らの神・啓示は、彼ら自身が対象化した<宗教>としての「存在者レベルでの神」・啓示・偶像に依拠した信仰・神学・教会の宣教であって、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返している系譜に属するそれとして総括できるのである。なぜならば、それらすべては、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが、正当さをもって根本的包括的に原理的に批判した<宗教>そのもの・人間自身が対象化した神・啓示・偶像に過ぎないからである。したがって、ハイデッガーは、「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマンとその学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか(≪まさに、見失うのである、偶像崇拝に陥るのである、なぜならば、その原理・その認識方法と概念構成それ自体が、不可避的にそうならざるを得ないものだからである、その最初から誤謬は必然のものだからである≫)』」、と揶揄・批判したのである(木田元『ハイデッガーの思想』)。言い換えれば、私たちに強いられた信仰・神学・教会の宣教における<思想の課題>は、正当性のあるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの<宗教>批判における神を・啓示を・<宗教>を・<宗教>の<段階>を・<自然神学>の<段階>を、主格的属格としての「イエスの信仰」(神の側の真実としてのみある啓示・和解、神の義そのもの)・「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を介して、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成において、根本的包括的に原理的に止揚して、そこから・その<段階>から超出していくところにあるのである。
 因みに、信仰・神学・教会の宣教においてだけでなく、すでに状況そのものがその存在を許さないところの、ヘーゲル主義的マルクス主義的進歩史観に基づいて神学的三段階的進歩史観を展開したモルトマン神学は、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返している系譜に属するものに過ぎないものなのである。したがって、モルトマンに評価されるということは、ほんとうは、全く不名誉なことなのである。このことが、「テキストを読まないで批判する人々のアンフェアな姿勢を……正」し・「神学研究におけるフェアネス」を「確保」することを目指すという誠実さを売りにしながら、実は皮相的で出鱈目なバルト批判を展開していた牧師・関口康(この牧師は、ファン・ルーラーはモルトマンに評価されたから評価できるのだというような評価の仕方をしていた牧師で、「カール・バルトの神学の構造上の致命的欠陥はどこにあるか」などと大言壮語をしていたのだが、その彼の文章を読む時、彼が、全く、バルトを根本的包括的に原理的に理解していないということを、それゆえにそのバルト批判が全く皮相的で出鱈目であるということを、すぐに知ることができるのである)には分からないのである。キリスト教的メディア的著述家・佐藤優のバルト論も、大学教授で文芸評論家・冨岡幸一郎のバルト論も、関口と全く同じ水準のものなのである。(35−39頁)

 

 聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)は、「教会(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態、啓示の「概念の実在」、客観的な信仰告白・教義≫)に対する、また教会のための、神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの、死と復活というイエス・キリストにおける啓示の出来事、啓示・和解≫)である」。したがって、聖書は何であるかということは、「教会の中で、教会と共に、認識」されなければならない。しかし、その教会の答えは、教会自身が「与え」るのではなくて、「聖書そのものから与え」られなければならない。なぜならば、「われわれは〔直接(≪第一次的・第一義的に≫)〕教会に服従するのではなく」、第一次的・第一義的には「神の言葉に」、すなわち「神の言葉の三形態」の「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての第一の形態(「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト)に、そしてそれと共に、具体的には、イエス・キリストと共に教会に宣教を義務づけているイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書」(「神の言葉の三形態」の第二の形態)に服従しなければならない、からである。したがって、この「正しい意味で」、「神の言葉の三形態」の第一の形態それと共に第二の形態に信頼し固執し連帯しそれを媒介・反復する――そうするところの教会にのみ「服従する」のである。この答えは、神の側の真実からすれば、「それ自体神的な答えであり、したがって、欺くことのない、決定的な答えである」。しかし、「かつて教会が聞いたし、今日われわれ自身が聞くということ」は、あくまでもその現にあるがままの現実的な「人間的な聞くこと」であるから、それゆえに「誤謬の可能性から全く免除されていない」から、「全く改善の余地のない完全無欠な聞くことではない」のである。したがって、絶えず繰り返し、神のその都度の自由な決断に基づく啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、「神の言葉の三形態」を通して、神が語り給うことを聞かなければならないのである。この意味で、「正典の具体的な形は、決して絶対的に完結されているものではなく、ただ最高度の相対性の中でだけ、完結されている」ものなのである。「われわれは、……教会の中で、教会と共に、……例えばルター訳聖書の六十六巻を正典であるとして認識」し信仰することによって、「聖書を手にして全く真剣に、(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態である≫)神の啓示についての証言を、(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態である≫)神の言葉そのものを問うて行く権利と義務を持っている」。この神の言葉の第一の形態と第二の形態は、「時間の中で、および永遠にわたっての教会の生〔活〕とわれわれ自身の生〔活〕にとって十分である」。にもかかわらず、聖霊論的説教論のルドルフ・ボーレンやそのエピゴーネンの佐藤司郎や小泉健は、プラグマティックに、「言語喪失の状況」を改善するためと称して、人間の感覚や知識を内容とする「人間の経験」の尊重を、また中世的思考に停滞して神学の優位性の主張すると同時に、人間学との混合・協働・折衷を主張したのである。しかし、バルトは、『説教の本質と実際』で、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚や知識を内容とする経験・情報・状況認識が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである、福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない、「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」、と述べたのである。また、『ローマ書』では、「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」、と述べたのである。そしてまた、バルトは、こうしたことを、最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかったというその体験の思想化を介して述べたのである。また、バルトは、これらのことを、ある社会構成・支配構成・文化構成の時代水準のただ中で、語っているのである。しかし、ボーレンや佐藤や小泉は、こういうことが全く分かっていないのである。したがって、彼らは、形而上学的一面的皮相的抽象的空論的な、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけなのである。「まことに空の空なるかな、である」・それら「すべてのことが、一体なんだろうか」(『福音と律法』)。

 

 「今日の新約聖書が全体として確かな地歩を占めるようになってから一〇〇〇年もたっていた」「一四四一年のフロレンス会議」においてもまだ、「東方教会と意志の疎通をはかろうとした話し合いににおいて、正典として認められた旧約および新約聖書に含まれるべき文書をひとつひとつ数えあげて宣言することが必要であると考えられた」。こうしたことは、「宗教改革によって正典の問題は差し迫った問題となっていた」「一五四六年のトリエント総会議において」も「繰り返され」た。プロテスタント教会は、「一千年来すべての形において正典として承認されて来た一連の旧約聖書の書物(ユデト、ソロモンの知恵、トビアス、ベン・シラ、第一、第二マカベウス)を外典として正典から除外すること」が必要だと考えた。また、「ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ユダの手紙」、「黙示録」は、ルターにとって「正しい、確実な書物」として存在していなかった。すなわち、ルターは、これらの書物を、「二十三巻の名の外に引用」し、「第二次的な正典の書物として特徴づけ」た。このトリエント総会議以前においては、エラスムスや枢機卿カエタンは、「ヘブル人への手紙、ヤコブ、ユダ、および第二、第三ヨハネの信憑性と権威に対して、……疑念を表明」していた。ツヴィングリは、「特に黙示録を拒否しなければならないと考えた」。カルヴァンは、「黙示録を、……注釈の中で、一言もふれずに省略した」し、ルターが「第二次的な正典の書物として特徴づけ」た四つの書物と「第二ペテロ」、「第二、第三ヨハネに対しても疑義をもっていた」。このように、個人的な領域で、「ホモレゴメナ〔異議のない書巻〕とアンティレゴメナ〔問題の書巻〕」との区別の問題が生じていた。それに対して、「既に一五四五年のチューリッヒの信仰告白」は、「ルターに対して論争的な議論を展開」していた――それは、「……新約聖書の諸書に関しわれわれはいかなるかたくなな愚か者によっても惑わされてはならない。またそれら諸書のいずれかが藁の書簡であるとか誤って正典の中に入れられたということを信じない。(中略)なぜならば、われわれ人間は聖書によって裁かれるべきであって、われわれ人間が聖書を裁くべきではないことを知っているからである」、というものであった。そして、「フランス信条(一五五九年、五条)とベルギー信条(一五六一年、四条)では、トリエント総会議の流儀にならって、正典六十六巻が厳かに数え上げられており、そこでは新約聖書の諸書の間で何の区別もなされてい」なかった。ここで、肝要なことは、カトリックのような「完結された正典」概念の強調にあるのではなく、正典の完全な開放性にあるのである。「正典の積極的な本質と意味についての根本的な考察こそが、正典は決して絶対に閉じられているわけではない、という思想にわれわれ」を「うながすのである」。このバルトの神学における思想の立場に立てば、その存在を知っているが「われわれには知られていないラオデキア人にあてたパウロの手紙」、「コリント人にあてたさらに二つの手紙」、「われわれに知られている」が「『書かれなかった』イエスのいくつかの言葉」・「書かれたけれど」も「正典的福音書の中ではそのまま残っていない、イエスのいくつかの言葉」を、正典概念に包摂することができるのである。それに対して、「完結された正典」概念では、今後、正典の構成要素が変えられてしまうような発掘・発見がなされた場合、その事柄を包摂できないのである。この事柄に限らず、その原理・その認識方法と概念構成、その言葉、は、現在から未来に生きる水準を獲得していなければならないのである、過去を含めて現在から未来に完全に開かれていなければならないのである。(40−45頁)

 

 さて、もしも、「正典の構成要素が……変えられるということ」が、「実際問題として起こる」場合、そのことを「取り扱う能力のある教会という団体の正規の責任ある決断」・「行為」としてのみその出来事が起こる時、「意味深く、正当なものである」。しかし、その場合、その教会的な行為が先述したような「正しい意味での教会の行為である」ためには、「今日も、かつてそうであったと同じように必然的な受領」、「正典的として自らを実証していくところの、あるいは実証しないところの文書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)を通して教会が教示されるという」出来事が、「事実起こって」いなければならない、不可避的に文書自ら(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態自ら≫)が正典として教会を強いてくる出来事が惹き起こされていなければならない。こうして下された教会の「決断という形で」、「今日もなお〔すべての〕文書の中のこれこれの文書が、これこれの特定の構成要素が、聖書であるということをわれわれに語っている」のである。したがって、教会の中の個人は、先ず以て「聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)は教会(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)のための、教会に対する、神の言葉(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)である」ところのその聖書に対して、「服従することができ、服従することが許されるだけである」。なぜならば、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」からである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。この意味で、「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)における第三の形態である教会の客観的な「判断」は、「個人の判断に……原則的に優先する」のである。なぜならば、バルトにとって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和だからである、それだけではなく、そのイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの現実的な不信・非キリスト者(教)・非知、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているからである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。このような訳であるから、私たちは、「神の啓示の証言としての聖書、神の言葉としての聖書を、教会がこれまでの決断によって見出してきたところで、期待しなければならない」のである。「われわれは、教会によって、聖なるものとして、啓示証言として、特徴づけられた文書」・聖書に、「まだわれわれ自身によっては聞かれたことがないとしても、確かに父祖たちによって聞かれたところの神の言葉が、またわれわれに対しても語りかける」であろうという「指示……に従いつつ、繰り返し近づいて行かなければならない」のである、絶えず繰り返し聖書に聞かなければならないのである。(45−48頁)

 

 「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、人間が人間的所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性、その第一の形態は「啓示の実在」そのものであるが、その第二の形態の証言・証しおよび第三の形態の客観的な信仰告白・教義は啓示の「概念の実在」である)の関係と構造、すなわち聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)は「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)と共に、教会の宣教(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)における「原理」であって、それゆえにこのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)が、教会(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)に宣教を義務づけているのであるから、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」という関係と構造、の認識が肝要なことなのである。したがって、教会は、「神の言葉の啓示に関しては神ご自身の言葉だけが左右し、決定することができるということ」の「証人および番人」にしか過ぎないのである。したがって、この「証人および番人」として、「正典について決定する本来的な、拘束力ある、神的な権威を、(古プロテスタント正統主義が)正しくもなしたように、(≪決して、教会の権威に帰すことなく、≫)完全に神の言葉としての聖書そのものに帰」さなければならないのであり、それゆえにまた「正典に関して、あたかも自分たちの決断でもって、聖霊ご自身の決断を遂行したかのように、……自分自身の力で決断したかのように語ることはゆるされない」のである。この場合、教会は、正典を完結させてしまうことはできず、「正典に関しても、さらに引き続いての教示があるかもしれないということに対して自分を開いたままにしておく」ことが大切なことなのである。そのことと同時に、教会は、「自分に委託された正典の範囲に関して、自分の領域の中で勝手な」・恣意的独断的な変更が行われ、「その構成要素の内の特定のものだけが他の構成要素と区別されて、正典として取り扱われたりすることを禁じることができるし、禁じなければならない」のである。このような訳であるから、「プロテスタント正統主義は、自分たちが認識した正典を、神によって啓示された正典とそのまま同じものだとしてしまった時」、越権してしまったと同時に、それゆえに、越権的に教会に「正典の神的権威の保証人としての役割」を与えてしまうという誤謬を犯したのである。この事態は、聖書論の「霊感の概念」、すなわち「聖書の神的権威は自分自身で語るのであり、また全くただ自分自身で語るものとしてだけ、聞かれるべきである」という事柄を、それゆえに教会はあくまでもその「聖書の霊的な権威を証しする」証人・見張人・番人であるという事柄を、捨象してしまった、放棄してしまった、ということを意味しているのである。この時、プロテスタント正統主義は、「後代の自由主義に対して道を準備したのである」。なぜならば、この正統主義は、聖書それ自身が持つ「霊的な権威」に対するその「全権と保証」を、教会の、教会内の諸個人の、すべての人間の、「手に握らしめた」からである。この時、正統主義の聖書論は、根本的原理的な誤謬に、「普遍性や組織性の後光」が与えることになったのである。「それであるから、聖書正典の本当の権威のために〔こそ〕、われわれは、聖書正典を決めた決め方は信仰の証言であり、それを承認した承認の仕方は信仰の従順であり、それであるから聖書正典の事実上の範囲は(……現在までに定められた聖書正典の範囲に対し、別に異議をさしはさまなければならない契機は何も持っていないのであるが)、完結されたものではない」というように理解しなければならないのである、教会の、教会内の諸個人の、すべての人間の、「手に握らしめ」させないために、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」・啓示・偶像を崇拝・服従しないために、<自然神学>の<段階>で停滞し循環しないために。(45−50頁)

 

 

(2)「われわれが……教会によって、正典として特徴づけられ、われわれによって教会の中で、教会と共に、正典として認識されなければならない文書を、聖書として、証言として、しかも神の啓示の証言として受け取る時、われわれは実際には、モーセと預言者たちの証言、福音記者と使徒たちの証言をそのようなものとしてうけとっているのである」。「時間としての啓示」として受け取っているのである。自在であって他在である神の自由による自己啓示における「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。この神の自由において創造は、「契約の外的根拠」として、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが始原であり中心であり終極である「恵みの契約の歴史のための場所設定」であり、またその恵みの契約の歴史は、「創造の内的根拠」として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり中心であり終極であるイエス・キリストご自身である。それは、父なる神と子なる神と「父ト子ヨリ出ズル御霊」の三一論的な神ご自身の自己啓示、すなわち神ご自身の自己認識・自己理解・自己規定である。したがって、正典として認識されなければならない文書は、「それぞれ違った関係を通して条件づけられた相違性にもかかわらず」、「すべて同じ意味で、聖なる書物である」。イエス・キリストにおいて、区別を包括した同一性である。このことは、律法が福音を内容とする福音の形式である、ということと同じである。「旧約聖書は来たりつつあるメシヤを、新約聖書は既に来たり給うたメシヤを証言している」。旧約聖書は、律法における「イスラエルの召命」と預言者における「既に召されたものがヤハウェの言葉を通し、導かれ、陶冶されること」という律法と預言者によって構成されている。新約聖書は、福音書における「復活を指し示すイエスの言葉と行ないを振り返り見」ることと使徒書における「復活から」、「復活を通し照らし出され、変えられた人間的な生の状況を振り返り見」ることという福音書と使徒書によって構成されている。しかし、これらの相違性・区別性は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、キリストの再臨、救贖・完成)を待望すること・考えることは過去(キリストの復活、「あの四〇日(使徒行伝一・三)」、成就された時間)を想起すること・考えることであり、過去(キリストの復活、「あの四〇日(使徒行伝一・三)」、成就された時間)を想起すること・考えることは未来(終末、キリストの再臨、救贖・完成)を待望すること・考えることであると同時に「成就された時間」の前の過去(旧約の時間、イエス・キリストの受難と死)を想起すること・考えることであるというように、イエス・キリストという「ひとつの点で互いに出会っている」・交点を結んでいるのである。しかし、「マタイ福音書とルカ福音書の最初の数章の中で、また洗礼者およびマリヤ章句の中で、少なくとも新約聖書の側で、……なお旧約聖書的に語っている……例外を見て取」ることができるのだが、旧約と新約にはイエス・キリストに関わる証言について、本来的な相違性がある――@旧約聖書においては、キリストは「既に出現したメシヤとしてはまだ証言されて」いないのだが、新約聖書においては、キリストは「既に来たり給うたメシヤ」として証言されている、A「聖書の著者たちの間にそれぞれ個性的な相違がある」――この相違性は、キリスト者であれ誰であれ、人はその現にあるがままの現実的な人間的存在を生きる以上は、人は不可避的にある歴史的現存性(類――歴史性)のただ中に生誕し、それに規定されて、その個の現実的現存性を生き、個性と時代性を刻んでいくところからやってくる相違性である。このように、バルトが、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神でありまことの人間イエス・キリストにのみ信頼し固執するところで、その現にあるがままの人間の存在様式を含めた全体性の中で論じることができているのは、神と人間との無限の質的差異と神の聖性・秘義性・不把握性と終末論的限界と神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」とキリストの霊である「聖霊の注ぎ」と啓示に固有な証明能力と啓示の類比・信仰の類比・関係の類比、というバルトの信仰・神学・教会の宣教のその原理・その認識方法と概念構成によっているのである。このような訳で、教会は、こうした「全体性の中で登場した」ことによって発生した。なぜならば、教会は、「イエス・キリストについての物語記述を通して、またイエス・キリストの復活の力についての使信を通して、発生したのであり、この両方のこと、物語記述と使信は、それらが文書となって固定化される前に、既に存在していたものである」からである、また「その文書的固定化の中で、それはまさに至るところ、律法と預言者の注釈として出て来」ているからである。したがって、「もしも教会が初めからこの全体に聞いたのでなかったなら、教会は、それが聞いたところのことを全く聞いていなかったことになる」のである。したがってまた、「このいっしょに鳴り響いている協和音の中でだけ、聖書的証言は神の啓示についての証言」であり、それゆえに、教会は、そのように聞く時、「この証言の中に支配する神の権威を認識」し、それゆえに教会は、「この証言を注釈しようと努力する」・「その証言の中に証しされているのを見るところのものを、自分自身証しする(絶えず繰り返し、その証言の中に証しされていることと同一のことを別の言葉で証ししようとする)」ことによって教会は存在する。言い換えれば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるから、教会は、絶えず繰り返し、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯して、それを媒介・反復するという仕方で、聖書に聞くことによって、その聞いたことを証しする時、教会となることができる。すなわち、その時、教会は、その途上的過程性において、存在する。「教会が持っていることは、ただこの証言と結びつけられた(≪成就された時間であるキリストの復活を中心・基軸とする≫)想起だけであり、それ故再びこの証言と結びつけられた(≪成就された時間であるキリストの復活を中心・基軸とする≫)待望だけである」・「この教会の想起と待望の中で、それは神の啓示についての証言であり、その書物は聖書である」・「このような考えの中で教会は聖書の神聖性を、それ故にまた聖書の単一性を教える」・「また教会は、この証言を持ちつつ、神から期待するようにと召され、確かに期待すべきである神の啓示の中での神の神聖性と単一性を考えているのである」・教会は「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を肯定する、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯しそれを媒介・反復する・「この意味で」、教会は、「聖書の証言全体を、固く取って離さないであろう」、「この全体を注釈し、宣教しようと努力専念するであろう」、「その成員ひとりびとりを、この全体の中で、神の言葉を聞くであろうという約束と神の言葉を聞くべしという課題の前に置くであろう」。
 聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する神である。また、聖書は旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わるそれであり、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就された時間は、「新しい世」のはじまりであり、完全な敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・成就された時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって根本的包括的総体的永遠的に止揚され・克服されて「そこにある」、と同時に、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」である、という啓示認識・啓示信仰を、聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、その現にあるがままの現実的な私たち人間に授与するそれである。したがって、バルトは、『福音と律法』で、次のように述べたのである――「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。このような訳であるから、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである、私たちは「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである、わたしたちは「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである、それゆえに、私たちは、その現にあるがままの現実的な私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけである、ということを認識し承認し確認するのである。(50−54頁)

 

 「正しく理解された聖書の統一性〔単一性〕」から生じてくる見張人・番人としての教会の「結論と主張」は、「〔ひとつの〕隠れた歴史的、あるいは概念的な体系、〔ひとつの〕救済の体系論、あるいはキリスト教的世界観を、聖書から造り上げなければならないということ」ではない。「この意味での旧約聖書神学もなければ新約聖書神学もなく、聖書全体にわたる聖書神学もない」。なぜならば、「そのような体系の前提、そのような体系を組み立てている中心」は、「神の言葉の三形態」の第一の形態――すなわち、聖書的証言の「対象」・「啓示」・「啓示の実在」そのもの、だからである。そして、この啓示(「神の言葉の三形態」の第一の形態)は、「聖霊を通してわれわれのところに来たり給う神の言葉、イエス・キリスト、以外の何ものでもない」からである。言い換えれば、啓示は、神自身の自己啓示、自己認識・自己理解・自己規定として、「われわれに啓示されたイエス・キリスト」であり、父なる神に関わるのであり、このイエス・キリストにおける啓示は、「神の言葉の三形態」における「第一の形態」であり、神の言葉の直接性であり、「啓示の実在そのもの」であり、それは、「すでに来たり給うた」、また「再臨し給う」イエス・キリスト自身、「イエス・キリストにおいて起こった和解」、イエス・キリストにおけるインマヌエルとしての神の言葉である。この啓示は、教会の宣教に対して「先ず第一に優位に立つ原理」である。したがって、「啓示の中」での体系は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストだけである。この啓示は、神と人間との無限の質的差異、神の聖性・秘義性・神の不把握性、終末論的限界、の下で、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわち、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯しそれを媒介・反復すること、を通してやってくる。すなわち、「本来的に、換言すれば、現在的には、啓示」は、「神の言葉の三形態」の第一の形態として、「ただ啓示自身を通してだけ、われわれの思惟に対して、またわれわれの注釈的思惟に対しても、前提され、(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」によって、≫)「われわれの思惟を組織化する中心点」である。しかし、イエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)を、「われわれは……聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)のテキストのあとに従って思惟するわれわれの思惟」においても、「常にただ……、(≪成就された時間であるキリストの復活を中心・基軸とする≫)われわれの想起と待望の形」においてだけ、「『前提する』……ことができるだけである」し、またこの前提に基づいた「テキストの注釈という形で得られたわれわれの思惟をも、『前提する』……ことができるだけである」。すなわち、あの「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造が重要である。したがって、「聖書神学は、常にただ一群の接近して行く試み、個々の注釈を集め、まとめたものであることができるだけである」。したがってまた、それは、誰のそれであっても、「プラトン」や「アリストテレス」や「ヘーゲル」のような哲学的な「体系」を目指すことはできない。なぜならば、厳然として、神と人間との無限の質的差異が、神の聖性・秘義性・不把握性が、終末論的限界が、存在するからである。したがって、「聖書的証人たち自身も、……啓示を自分で登場させることはできないし」、それゆえに彼らは、「そのようなことを欲してはいないのである」。彼らは、啓示を、(≪成就された時間であるキリストの復活を中心・基軸とする≫)「想起」と「待望」において人間の言語を介して思惟し・人間の言語を介して「語るだけである」。このようにして、「彼らがまことの証人であることが示されるのである」――@「私が『方式』なるものをもてっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』……、をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」 (バルト『ローマ書』)、A「神は神である。これがドストエフスキーのただ一つの中心的認識である。この神がどんなに偉大な高みに坐していようとも、一つの人神としようとはせず、またどんなに理想的であるにせよ、人間の魂の現実あるいは世界の現実の一片としようとしないこと、それが彼の唯一つの努力なのである」 (トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)。
 このような訳であるから、「われわれは、彼らの証言の全体性」を、恣意的独断的に、自由に支配的に、「処理し」・「補おうと欲すること」はできないのである。したがって、バルトは、次のように言うのである――@「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や情報等が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである、福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない、その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」(『説教の本質と実際』)、「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」 (『ローマ書』)、A「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待す」べきである(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。したがって、バルトは、「聖書神学……教義学」も含めて、「どうしてわれわれは、彼らの証言を、彼らと共に、……彼らの想起に、身をゆだね、彼らと共に……彼らの待望に、身をゆだねるのとは違う仕方で、注釈することができであろうか」、と述べたのである。

 

 「〔聖書の〕注釈に際して、……アリストテレス哲学……後にはデカルト哲学の、道具を用いた」「十七世紀の古プロテスタント神学」における「啓示の体系化」の「企て」は、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」ということ、神学も理性的な知的営為ではあるが「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」ということ、を認識し自覚してしなかったがために、「瓦解してしまわなければならなかった」。自然時空に死語化してしまわなければならなかった。言い換えれば、「われわれは常に、ただ、啓示の後に従って行くことができるだけ」である。「われわれは、啓示(≪「啓示の実在」そのもの≫)を思惟することはできず、ただ啓示に対して、気を配っていることができるだけ」なのである。「われわれは啓示(≪「啓示の実在」そのもの≫)を主張したり、証明することはできない。われわれは啓示をただ信じ、(≪成就された時間であるキリストの復活を中心・基軸とした≫)想起と待望の中で信じることができるだけである」。「われわれの信仰が正しく、神のみ心にかなう時、われわれが考え語ることの中で、(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて≫)啓示が自らを主張し、証明する」のである。言い換えれば、その信仰、その思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項では全くないのである。したがって、見張人・番人としての教会(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)の「結論と要請」は、あくまでも、絶えず繰り返し、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストという「独一無比な真理(≪聖書、「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)を証ししている証言(≪聖書、「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)と取り組まなければならない」から、教会がそうした存在・思惟・実践を生きているかどうか、という点にあるのである。また、その教会は、その証言を、成就された時間であるキリストの復活を中心・基軸とした「想起」と「待望」の中で読み聞かなければならない、という点にある。「この方向に向かって身をゆだね、あとに従い、気を配って……信じる」、という点にある。バルトは、ルターの聖書の統一性の主張について述べている――(ルターの主張)「聖書はわれわれの主イエス・キリストがそれを身につけられ、その中で、ご自身が見られ、見出されることを欲し給う衣である。この衣は、全体として造られ、一つのものに織られているので、断ち切ったり、分けてしまうことができない。ところが……異端者と徒党たちを組むものたちは、十字架につけられ給うキリストからこの衣をはぎとった。(中略)彼らは、み言葉から離れ、み言葉なしの別な意味を考え出すのである。(中略)彼らは悪巧みをする詐欺師である。(中略)ギリシャ語でこの悪巧みという言葉は……ドイツ語ではさいころを投げるあるいは詐欺ということである。……徒党や分派を組む者たちは、聖書と取りくんで思うがままに勝手な理屈をひねくり出すのである。」。このルターに対してバルトは、このルターの言葉は、ルター自身に対しても向けられるべきものである、と述べている。例えば、律法と福音についてのルターの教えは、キリストに対する「最上の忠実さを持ちつつも、勝手にさいころを投げて、キリストの衣を切りさいてしまいはしなかったであろうか」、と(バルト『福音と律法』を参照)。言い換えれば、ルターもまた、聖書がその<全体性>の中で証ししているひとつのことを「見損」なったのである。律法は福音を内容とする福音の形式である、という事柄を見損なったのである。ルターは、イエス・キリストにおける区別を包括した同一性の中で、「福音と律法」論を展開できなかったのである。ルターは、一方通行的な信の往相過程しか持たなかったのである。ルターは、律法から福音へと向かう、不信を包括できないところのただ<信>の頂きへと、往相的に、一方通行的に、信を上昇していく過程だけを歩もうとしたのである。ルターは、現在から未来に生きる、バルトの『福音と律法』における次の言葉を持っていなかったのである――@「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。
 ルターの場合、「律法→福音」論だけでなく、「また後にあらわれた、いくつかの段階を通って、だんだん深く、高くなっていく救済史についての教説、啓示が発展して行くという思想」や「ヨハネ福音書と比べて共観福音書を高く評価し、使徒書と比べて福音書を高く評価する……思想」や「旧約聖書の領域では概念の狭い意味での預言者を特に重視する……思想」におけるルターの一面性は、「聖書の統一性を見損うこと」になったし、「早晩、聖書を見損うことを結果として招いたし、結果として招かざるをえなかった。なぜならば、そのような勝手な選り好みをもって読んだのでは、結局、その選り好みされた部分も、もはや聖書として読んでいなかったことになるからである」。またなぜならば、聖書は、その<全体性>(成就された時間であるキリストの復活を中心・基軸とした想起と待望の事柄)の中でひとつのこと(神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、すなわち神の義そのもの、成就された時間であるキリストの復活、すなわちイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)を証ししているからである。このように、「全聖書がひとつのことを証ししているとするならば」、例えば、福音と律法の関係と構造についての理解に引き寄せていえば、福音は、区別(律法)を包括した同一性として、律法は福音を内容とする福音の形式である、と理解せざるを得ないのである。(54−58頁)

 

 

(3)聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態)だけが、聖書的証言の対象としてのイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在であるまことの神にしてまことの人間、神の言葉、神の子)の「人格〔位格〕のまことの人間性」、「実在の歴史的環境の現実存在」を「証明するもの、その限りこの〔イエス・キリストの位格という〕実在の歴史性の現実存在を証明するもの」である。このような訳で、「聖書が自分自身について証ししている聖書の証しは、……イエス・キリストについての証言としてのその本質の中にある」。聖書は、「暗示的ナ自己証言」として、「聖霊がキリストの甦えりについて、したがってこの方こそ肉の中へと来られた神の子であり給うことについて、証ししているということでもって、自分自身について、自分自身のために、証ししている」。また、聖書は、「顕示的な自己証言」として、「本来的な内容」として、「イエス・キリストにあっての神の啓示について語る」ことによって、「すべての人間……および人類に対する……対立」を語っている。したがって、バルトは、『神の言葉』論で、次のように述べたのである――アウグスティヌスは、時間、すなわち「過去、現在、未来は(≪人間の≫)精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と理解し、ハイデッガーは、時間を、「被造物的――人間的現実存在の規定」、「被造物である人間存在の自己規定」として、すなわち人間的現実存在は時間性であること(時間化)、その時間性が存在を規定すること(存在了解)として理解した。このように、アウグスティヌスやハイデッガーにおいては、「自分で時間を創造する」ことによって「時間」を持つ、しかし、彼らの時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である、それに対して、イエス・キリストの時間・「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本質的な失われた「われわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」である、ここに、「まことの現在」まことの「過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある、と。この意味で、聖書は、「すべての人間」および「全人類」を包括しており、それゆえに、聖書は、神の啓示についての証言として、啓示の客観的実在であるキリストにあっての神の側の真実においては、人が「そのことを知っていようと知っていまいととにかく全く」、「すべての人間」および「全人類」は、ほんとうは、「現実的に聖書の中に立っており、したがって自分自身、神の啓示について証言するように任命されていること」を語っているのである。しかし、「そのことは、さし当たって先ず、すべての人間ではなく、ただ全く特定の、特別な人間たち」、すなわち「一回的な、偶発的な啓示に対して、第一の証人という、本質からして同様に一回的な、偶発的な機能を持った者たち……だけが聖書の中に立っているということを通して可能となり、条件づけられている」。すなわち、「これらの第一の証人たちが存在したし、今なお存在するということに基づいて、第二、第三の証人たちが存在しえたし、存在しうる」のである。言い換えれば、このことは、「神の言葉の三形態」の関係と構造におけるその媒介・反復を通した時間の累積を意味している。このことをバルトは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、というようにも述べている。「人は、……モーセや預言者たちについて語ることなしに、ヤハウェがイスラエルと結ばれたあの契約について語ることはできない」ように、新約聖書において「イエス・キリストから、弟子たち、あとに従った者、使徒、彼らによって召された者、彼の復活の証人、イエスご自身が直接に聖霊を約束され与えられた者たちが切り離されてしまうことはできない」のである。このような「特別な、特定の人間たちの現実存在(≪啓示の証人としての、その人間の言葉を介した啓示の「概念の実在」、証言・証し、「神の言葉の三形態」の第二の形態としての≫)は、われわれにとっての、すべての人間にとっての、イエス・キリストの現実存在(≪神の第二の存在の仕方、啓示・和解としての、「啓示の実在」そのものとしての、神の子、神の言葉、「神の言葉の三形態」の第一の形態として≫)である」。したがって、教会(「神の言葉の三形態」の第三の形態)は、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性として、それを媒介・反復しなければならないのである。

 

 聖書における「証言」については、先ず新約聖書における「使徒の務めという一回的な、偶発的な事実」から理解することができる。啓示の実在そのものである「イエス・キリストが第一の証人たちを持ち給い、その第一の証人たちに基づいて、第二、第三の証人が存在することができる」という「この事実は、啓示そのものと同じようにその本質からして一回的なものであるが、……イエス・キリストの特別なみ業である」――イエスは、「彼らを自分のそばに置くため……、さらに宣教に遣わす……ため」、「十二人をお立てになった(マルコ三・一四)」。「人は、この記述……の本来的な意味を復活(≪時間としての啓示≫)の使信を通して初めて得て来る、記述として理解しなければならない……」。したがって、イエスが「マルコ二・一四」で、「ひとりの人に向かって、わたしに従いなさい、と呼びかけておられる時」、それは、「復活の出来事から……理解することができる言葉である」。また、「エペソ四・一一」で、イエスは「ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、……ある人を伝道者とし……お立てになった……と言われている時、そこでは……復活し給うた方の創造的なみ業について述べられている」。「使徒とは、イエスがそのために『聖霊を通して』選び給うたもののことである(使徒行伝一・二)」。この意味で、「あなたがた(≪イエスの弟子たち、第一の証人たち、第一の証人たちに基づいた第二、第三の証人たち≫)に聞き従う者は、わたしに聞き従うのである(ルカ一〇・一六)」、「あなたがた(≪イエスの弟子たち、第一の証人たち、第一の証人たちに基づいた第二、第三の証人たち≫)を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである(マタイ一〇・四〇)」。なぜならば、「父がわたし(「神の言葉の三形態」の第一の形態)をおつかわしになったように、わたし(「神の言葉の三形態」の第一の形態)もまたあなたがた(「神の言葉の三形態」の第二の形態)をつかわす(ヨハネ二〇・二一)」からである。「わたし(「神の言葉の三形態」の第一の形態)はあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼ら(「神の言葉の三形態」の第二の形態)はそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、またあなたがわたし(「神の言葉の三形態」の第一の形態)をつかわされたことを信じるに至ったからです(ヨハネ一七・八)」。そしてイエスは、「直ちに」「使徒たちのために、しかし彼らのためばかりでなく、彼らの言葉を通して彼を信じる者たちのためにも祈り給う(ヨハネ一七・二〇)」。「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか(マタイ一六・一三)」と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は「天の父の啓示があたえられることによって」、「あなたはメシア、生ける神の子です」・「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた時、イエスは「ご自分の教会をたてようと欲し給う岩であることを示したペテロ」に対して「全権〔賦与〕」の「言葉」授与する――「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(マタイ一六・一八以下)。しかし、それは、「ただペテロに対してだけ約束され、与えられたのではなく、ペテロの人格の中で使徒のグループ全体に対し、それとして最初の証人たちに対し、約束され、与えられたものである……」。したがって、「最初の証人たち」に対して、イエス・キリストにおける啓示の出来事と「父ト子ヨリ出ズル御霊」である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与という「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に信頼し固執するように言われている(マタイ一〇・一九以下、使徒行伝一・八、ヨハネ一四・二六、ヨハネ一六・一三)。「こ約束の成就が、聖霊降臨日の聖書拝読箇所である使徒行伝二・一以下の特別な対象である。またそれは、今こそ開始された使徒たちの活動と宣教全体の前提であるし、前提であり続ける」。このペテロは、使徒たちは、「イエス・キリストご自身がいつも彼らと共にい給う(マタイ二八・二〇)」たことによって、それゆえに「ナザレ人イエス・キリストの名によって語るしかなかったし、それ以外の何も与えるものがなかった……(使徒行伝三・四以下)」。それゆえにまた、人は、「今や事実、……ほかならぬ彼らを(≪その使徒たちを≫)、見なければならないのである」。<キリスト・イエスの使徒>パウロにおける「キリストを通して起こった和解」(「神の言葉の三形態」の第一の形態)とイエス・キリストの宣べ伝えにおける言葉を介した「和解のつとめ」・「賜物」(「神の言葉の三形態」の第二の形態)との間には、「信仰の類比」における「類似が起こっている」(Uコリント五・一八)。「神がわたしを通して勧めをなさるのであるから、わたしは、キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)の使者(「神の言葉の三形態」の第二の形態)なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解(「神の言葉の三形態」の第一の形態)を受けなさい(Uコリント五・二〇)」。この言葉に、「聖書原理の聖書的基礎づけ全体が要約されている」。
 このような訳であるから、「神の言葉の三形態」の第三の形態であるキリスト復活からキリスト再臨(終末、救贖・完成)までの聖霊の時代における想起と待望を生きる教会は、不可避的に必然的におのずから、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在そのものであるイエス・キリスト(「神の言葉の三形態」の第一の形態)と共に、教会の宣教における原理であり・教会に宣教を義務づけているイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」(「神の言葉の三形態」の第二の形態こそ)に、それゆえに神論の決定的に重要な構成要素であり・「啓示の認識原理」である三位一体論――なぜならば、聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示するからである――に、絶えず繰り返し聞き、絶えず繰り返し「教会の宣教の批判と訂正」を行わなければならないのである。言い換えれば、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。

 

 さて、先述したように、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)である、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、キリストの再臨、救贖・完成)を待望すること・考えることは過去(キリストの復活、「あの四〇日(使徒行伝一・三)」、成就された時間)を想起すること・考えることであり、過去(キリストの復活、「あの四〇日(使徒行伝一・三)」、成就された時間)を想起すること・考えることは未来(終末、キリストの再臨、救贖・完成)を待望すること・考えることであると同時に「成就された時間」の前の過去(旧約の時間、イエス・キリストの受難と死)を想起すること・考えることである。「最古の教会自身にとって、しかも異邦人の間での最古の教会にとっても、ユダヤ人の間での最古の教会にとっても、旧約聖書(≪「イスラエルの聖書」・「モーセと預言者と詩篇」≫)ではなく、むしろ新約聖書(≪「福音書や使徒書」≫)が後から付け加わったもの、正典を補充し拡大したものである」という認識は重要である。なぜならば、「新約聖書のキリストは旧約聖書のキリスト、イスラエルのキリストである」からである。このことを「認めようとしない者は、そのことでもってただ彼」が、「新約聖書のキリストの代りに、……実際は、既に別なキリストを考えており、……別なキリストを持ち出していたことを示している」。「律法と預言者を……成就するために新約聖書の、実際のキリストは来たり給う」たのである(マタイ五・一七。なおヨハネ一〇・三五を参照せよ)」(バルト『福音と律法』参照)。「甦えられたキリストが啓示されることは、エマオ途上の弟子たちについて述べている」「ルカ二四・一三以下によれば」、「まさにモーセと預言者たち、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態)を開いて注釈し、確認することから成り立っている。それであるからヨハネ一・四五で……『わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人にいま出会った』」と言われている。したがって、イエスは、こう言われている――「あなたがたは、聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態)の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたし(「神の言葉の三形態」の第一の形態)について、あかしするものである(ヨハネ五・三九)」。「もし、あなたがたがモーセ(「モーセはわたしについて書いた」もの、「神の言葉の三形態」の第二の形態)を信じたならば、わたし(「神の言葉の三形態」の第一の形態)をも信じたであろう。なぜならば、モーセはわたしについて書いたのである、からである(ヨハネ五・四六)」。パウロが宣べ伝える「神の福音」は、「『神が預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたもの』以外の何ものでもないのである(ローマ一・二、三・二一、一六・二六)」。パウロは、「旧約聖書の領域で起こったこと、また書かれていることは、『わたしたちのためのものであって』、それであるから少しも水ましされ薄められない」ことを「繰り返し強調した(ローマ四・二三以下、一五・四、Tコリント九・一〇、一〇・一一)」。パウロにとっては、「キリストが死んで甦えり給うことは聖書に従って起こったことであり、それ以外の仕方で起こったことではないということ(Tコリント一五・三以下)が、決定的に大切なのである」。「『聖書はパウロにこう言っている……』(ローマ九・一七)、『聖書はすべてのものを罪の下にとじこめた』(ガラテヤ三・二二、またローマ一一・三二を参照せよ)。それであるからまた福音記者や使徒たち自身も、明らかにまさに旧約聖書を注釈する者以外の者であろうと欲しなかった」。すなわち、「例証」しようとはせず、注釈・解釈しようとした、「別の言葉で同一のことを言」おうとした。「別の言葉で同一のことを言う」ということは、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復するということである。
 さて、旧約聖書の証人たちも、「ひとりの神のイエス・キリストにあってのひとつの啓示の選び分かたれ、召された証人として理解したのか」という「旧約聖書の証人たちの自己理解を問う問い」は、「最後的には信仰問題……と同一」であって、「キリストが死人の中から甦えり給うたのであれば、旧約聖書をキリスト証言として理解することは……旧約聖書のもともとの意味、唯一の正当な意味を理解することである」から、その旧約聖書の証人たちの自己理解を教会は肯定するのである。なぜならば、聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示するからである、すなわちこのような三位一体の神として自己認識し自己理解し自己規定するからである。「新約聖書がイエスの甦えりに基づいて」このように述べた後は、旧約聖書の証人たちは、「イエス・キリストを宣べ伝える者として、福音記者や使徒たちと並んでその傍らにいるのである」。それに対して、ユダヤ会堂は、「キリストを否定することによって、ひとりの神のひとつの啓示を否定」したのである。
 因みに、このことは、前述した三位一体の神として自己啓示するキリストにあっての神について述べたバルトとの関係で書くのであるが、佐藤優が、『はじめての宗教論』で、「高等教育を受け」た歴史<主義>的・理性<主義>的・感覚<主義>的な「われわれは」(佐藤たちは)、「『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなった」・「『天にいる神』をほんとうに信じていません」・「だからこそ……神学的な操作(≪非神話化の操作、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、情報等を介すること≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」と述べた時、彼は、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが行った正当性のある根本的包括的な原理的な宗教批判を、神学における思想の課題として認識し自覚し扱うことができずに、ただ恣意的独断的に彼自身が対象化した「存在者レベルでの神」・啓示に、すなわち彼自身が造り上げた偶像に彼自身が憑依されたのである。

 

 聖書は、イエス・キリストにおける客観的な啓示の出来事(「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性)を証言しているだけでなく、「特定の、特別な人間、モーセと預言者たち、福音記者と使徒たち」の現実的な人間存在の中で、「聖書自身のことを証言している」ことによって、聖書は、彼らが「受動的あるいは能動的な仕方で、彼らがあったところのものであった(≪人間の≫)機能、彼らの書物の中で現に彼らがあるところのものである≪人間の≫機能、のことを言おうとしている」のである。
 さて、彼らにおける人間の機能の受動的な側面は、「一回的な啓示をそのようなものとして、それであるから同様に一回的な仕方で、見また聞いたものたち」、すなわち「一回的な啓示の歴史的な環境を形成していた者たち(≪ある不可避的な歴史的現存性のただ中で、一回的な啓示を「見また聞いた」者たち≫)」、という点にあった。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手でさわったもの、生命の言葉について(バルトは、「おそらく、『生命の言葉を巡って』」、と書いている)」(Tヨハネ一・一以下)。「あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼(≪モーセ≫)はわたしの全家に忠実なものである。彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに語って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず、非難するのか(民数一二・一−一六)」。このモーセに対すると同じように、「預言」の概念には、「神との出会いの……直接性」が、「別の文脈」において「ヤハウェの意志の証人」として「預言者にも与えられている」、「主なる神はそのしもべである預言者にその隠れたことを示さないでは、何事もなされない(アモス三・七)」と書かれているように。
 また、彼らにおける人間の機能の能動的な側面は、「彼らは、われわれおよびすべてのほかの人間とちがって彼らが出会ったところの啓示を、ほかのものたちに、それであるからわれわれおよびすべてのほかの人間に、宣べ伝えなければならない者たち」、という点にあった。前述した「Tヨハネ一・三以下」では、「わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父とみ子との交わりのことである。これを書き送るのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」。また、「全旧約聖書を通してヤハウェ」は、「ご自分が語られたものに、また彼らと語られる」ことによって、「彼らの方でも語るようにとの使命、全権、委任、命令を与え給う……」。すなわち、「われわれは、(≪旧約聖書の≫)そのすべての部分において、それが、ヤハウェ自身がまず語り給うたことを、人間の言葉で繰り返し語るがゆえに、権威をもって語ることがゆるされている」のを見る。あくまでも「神の言葉を聞いた……ものは(≪不可避的に必然的におのずから≫)神の言葉を再び語らなければならないし、語ることができる」。「この、(≪神が語り給うゆえに、神が語り給うことを聞き、神が語り給う≫)神の言葉を語るということこそ、預言者をして預言者たらしめる別のもう一つの要因である」。ここには、「旧約聖書と新約聖書の間の単一性が、顕著な仕方で示されている」。すなわち、旧約の「ヤハウェ(≪遣わす主体≫)がその預言者たち(≪「旧約においてはいかなる人間も、モーセも、……最大の預言者さえも、……遣わされた者」たち≫)に対してなさったように」、新約のイエス(≪遣わす主体≫)は、「神の国について」、すなわち「メシヤの現臨としてのイエスご自身の現臨について語るために」、「彼の弟子たちを召し、遣わし、委任を与え給う」。したがって、「福音記者」・「使徒」の概念には、「預言者」の概念と同じように、「自分自身の名においてではなく、ただイエスの名において」、「イエスの啓示を執行しつつ、語らなければならないということが含まれている。イエスについて、イエスの委任を受け、イエスの命令に従い、イエスから受け取ることのできる能力の中で、語らなければならないということが含まれている」。キリストにあっての「神はわたしたちに力を与え、新しい契約に仕える者とされたのである(Uコリント三・四以下)」。啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて、「キリストがわたしの中で語るのである(Uコリント一三・三)」から、不可避的に必然的におのずから宣べ伝えるのであり、また「宣べ伝えることは神の言葉(啓示に固有な証明能力、「神の言葉の三形態」の第一の形態、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、「神の言葉の三形態」への信頼と固執と連帯とそれの媒介・反復)を通してやってくるのである(ローマ一〇・一七)」。

 

 これら両者の人間の「機能の中でだけ、ただ彼らの職務を果たしつつ、これらの人間は聖なる人間であり、聖書の著者である……」。したがって、この意味においてだけ、彼らは、「思想家」、「宗教的な人格」、「天才」、「道徳的な英雄」、でもあり得る。言い換えれば、彼らがそういう人間であるから、「聖なる人間であり、聖書の著者である」わけでは決してない、ということである。すなわち、彼らは、「啓示の証人として」、それゆえに「見るもの、聞く者、遣わされた者、委任を受けた者、全権を与えられた者として」、その職務を不可避的に必然的におのずから果たすことにおいて、「聖なる人間であり、聖書の著者である」。彼らが、彼らを遣わした「ナザレの人イエス・キリストの名」を指し示している時、そして「彼らを見ること」が「まさに……彼らを遣わし給うた方ご自身を見る」ことになる時、その時、そのことを通して、「彼らの人間性が信頼に値するものであること」も「確証できる」のである(使徒行伝三・四)。しかし、同時に、そのことは、「彼らの人間性に対して下される裁きをも意味している」。なぜならば、彼らも、その現にあるがままの現実的な人間的存在として、「義トサレタ罪人」だからである。(58−70頁)

 

 

(4)聖書は、神の啓示を証ししていることによって、「預言者や使徒たちの任命と機能を証し」しているだけでなく、「自分自身の形式」(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいた、人間が人間的に所有する人間の言語を介した啓示の「概念の実在」としての証言・証し、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)を「聖書の内容(≪神の言葉、神の子、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事、啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、「啓示の実在」そのもの、「神の言葉の三形態」の第一の形態≫)の必然的な形式」として証ししている。ここには、丁度、律法は福音を内容とする福音の形式であるように、イエス・キリストにおける区別を包括した同一性が成立しているのである。したがって、「教会は、……教会とともに神学」は、ここにおいても、「形式と内容を区別すること」は、「決して分離を意味」していないということを、「深く心に銘記すべき」なのである。したがってまた、イエス・キリストにおいて、信(知)は不信(非知)を包括した信(知)である。キリスト者(教)は非キリスト者(教)を包括したそれである。したがって、バルトは、次のようにも述べるのである――「……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の「体」の概念はこの対立を超えたものだ」(『バルトとの対話』)。バルトにとって、イエス・キリストにおいては、個と共同性は差異性・区別はあるが、逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。
 聖書の内容は、「聖書的証言(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念の実在」)の対象(「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示の実在」そのもの)」であり、「われわれはこの聖書的証言以外には、この対象についてのいかなる証言も持たない」のである。したがって、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて、この「聖書的証言の媒介を通」して初めて、神と人間との無限の質的差異、神の聖性・秘義性・不把握性、終末論的限界、の下で、啓示を認識することができるのである、啓示信仰を持つことができるのである。したがってまた、そのことを念頭に置いて、「われわれは……この対象を認識することこそ、聖書的証言を読み、理解し、注釈する際、決定的に大切」なことなのである。このように、この「神の言葉の三形態」の関係と構造の認識と自覚が肝要なことなのである。「われわれはあくまでこれらの聖書の本文に拘束されているのであり、われわれは啓示を問う問いをただ、われわれがこれらの聖書の本文の中で証しされているところの(≪成就された時間としてのキリストの復活を中心・基軸とする≫)啓示の待望と想起にわれわれの側でも身をゆだねる」ことによって、「問うことができるのである」。バルトは、『神の言葉』論で次のように述べている――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活における成就された時間は、「新しい世」のはじまりである。私たちは、その啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、すなわち成就された時間としてのキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを啓示認識・啓示信仰することができる。また、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、その勝利の行為は「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを啓示認識・啓示信仰することができる。

 

 「『聖書は、神の言葉を含み入れている』とルターはある時、聖書について語った」が、「そのことは、啓示と聖書の同一性の間接性である」あるいは「間接的な同一性」である。このことは、区別を包括した同一性のことを意味している。なぜならば、啓示・「啓示の実在」そのものは、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の出来事の「神の言葉の三形態」の第一の形態であり、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいた、神と人間との無限の質的差異、神の聖性・秘義性・不把握性、終末論的限界、の下で、聖書・啓示の「概念の実在」(人間が人間的に所有する人間の言語を介した証言・証し)は、「神の言葉の三形態」の第二の形態であるからである。このような訳であるから、聖書だけが、間接的に、「神の言葉を実際に『含み入れて』いるのである」。
 「われわれがここであくまで反対しなければならないひとつの代表的な考え方」――それは、神学における「近代の歴史<主義>」的な考え方である。神学における「近代の歴史<主義>」は、「聖書の本文を超えて」歴史的事実を、それゆえに「旧約聖書の背後にイスラエルの歴史と旧約聖書宗教の歴史」を、「正典的福音書の背後にイエスの生涯の歴史や……キリスト神話」を、「正典的使徒行伝および使徒書の背後に使徒時代の歴史および原始キリスト教の宗教史」を「発見し」「見出した」のである。彼らは、「ちょうど資料の収集を読むように聖書正典」を読んだ。神学も教会もそうした。言い換えれば、彼らは、聖書の証言・証し――啓示の「概念の実在」よりも、歴史的事実・歴史的「真理」を第一次化しようとしたのである。この時、「歴史的な神学」は、「特に聖書のテキストに注意を向けて」、「当然聖書的テキストの形式と内容がひとつ(≪間接的な同一性≫)であるという事実の上に堅く立って」、そうした「テキスト自体に注意を向ける……聡明さと鑑識力」をもって為すべき「本来命じられている仕事」を放棄してしまったのである。したがって、そのような「歴史的な神学」は、恣意的独断的に選んだ「主題と取り組」み、「いろいろの像を自分勝手に刻んで造り上げた」のである。このような訳であるから、肝要なことは、新旧「正典的文書そのものの釈義が、すなわち現にわれわれの目の前にあるがままの姿で創世記、イザヤ書、マタイによる福音書等の厳密にその文脈を考慮してなされる注釈が、結局は聖書的学問の唯一の可能な目標として……承認され」・自覚される点にあるのである。「聖書の学問も探究しなければならない歴史的真理は、聖書的テキスト自身のまことの意味と文脈である。したがって、それは探究されるべき聖書の真理と異ならないのである。そのことがよく理解されるならば、聖書ヲ越エタトコロニアル歴史的真理を求めてなされる愚かな探究が中止され、すべての面に向かって、開かれた、聖書自身ノ真理を求めての探究が専心なされるようになる」のである。その時、人間的な文書としての、したがって歴史的な文書としての、聖書的な証言の性格からして、結局どうしても要求されて来るところの批判的に問うことと答えることに対して思いきった自由な活動が認められることができるし、認められる」のである。すなわち、「聖書のテキストが証言している啓示は、それらのテキストの背後に、……それらのテキストの中に立っており、それらのテキストの中で生起し、したがってそれらのテキストの中で尋ね求められるべき」なのである。「聖書のテキストが証言している啓示」は、「それらのテキストそれ自身のゆえに研究されることを欲している」。なぜならば、キリスト教は、「それが『書物の宗教』であろうとした……時にだけ、生ける宗教であった」からである。「カルヴァンは、Uコリント五・七の言葉(「わたしたちは、見るものによらないで、信仰によって歩いているのである」)を注釈し……「ワレワレハ見ルガ、シカシ鏡ヲ通シテノヨウニオボロゲニ見ル。スナワチ、ソレガ事柄デアルカノヨウニ言葉デモッテ満足するノデアル」、と述べた。(70−76頁)

 

 このようなわけであるから、バルトは、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである。そして、一方で、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。また、バルトは、『神の言葉』論で、次のように述べている――@歴史<主義>は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜならば、啓示は、人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある、A「中立的な観察者」として、歴史<主義>的に「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものである。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示(「神の言葉の三形態」の第一の形態、「啓示に実在」、イエス・キリストの名)・聖書(「神の言葉の三形態」の第二の形態、啓示の「概念に実在」、証言・証し)・教会の宣教(「神の言葉の三形態」の第三の形態、啓示の「概念に実在」、客観的な信仰告白・教義)の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされた。それだけではなく、非中立的な観察者だけが、史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」について語っているということを知らされた、さらに、非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史は歴史物語あるいは古譚であって、そのような「神と人間との間に起こったもろもろの歴史」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史認識・概念の彼岸・外にあるものであって、聖書証言の報知における歴史(Gschichte)・「特殊な歴史〔的出来事〕」については、いかなる「『史実的な(historisch)』判断」・認識・概念もあり得ない、ということを知らされた、カトリック作家の小川国夫は、吉本隆明に対して、イエス・キリストの復活と再臨を信じています、と信仰告白した、バルトも、復活の出来事は、無空間的無時間的な神話としてでもなく、史実時空においてでもなく、歴史物語時空において起こっている、それゆえに、聖書の歴史・歴史物語あるいは古譚・「原歴史」・「史実以前の歴史」は、まさに一つの年代的および地誌的地域的時空の中で起こったことであるが、証明されることもされないこともある、それゆえにまた、「<史実的に>確定することのできることだけがじっさいに時間の中で起こり得たに違いないというのは、迷信に基づく。<歴史家>たちがそれとして確証できるすべてのことよりも、はるかに確実に、じっさいに時間の中で起こった出来事というものがたしかにあり得る」のであり、「そのような出来事の中にとくにイエスの甦りの歴史が属していると受けとるべき根拠」をもっている、と述べた。近代以降の宗教の形態は、科学<主義>・理性<主義>あるいは感覚<主義>にあるが、その現にあるがままの現実的な人間は、別に、科学的にだけ生きているわけではないし、理性的にだけ生きているわけではないし、感覚的にだけ生きているわけではない。したがって、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体で、近代以降の宗教的形態である科学<主義>・理性<主義>あるいは感覚<主義>を、根本的包括的に止揚してそこから超出していかなければならない。ここに、近代以降における神学における思想の課題があるのであるが、その課題を認識し自覚し担ったバルトは、バーゼルの刑務所でイエス・キリストの復活の出来事について、「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることできる形」における弟子への顕現の出来事について説教をして、次のように述べたのである、復活の出来事が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」、「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである、したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけである、と(説教集『主を見た時 ヨハネ』)、B「確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。

 

 さて、人間学的領域の詩人であり文芸批評家であり思想家である吉本隆明も、次のように述べている――@「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(吉本隆明『〈非知〉へ――〈信〉の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」春秋社)、太宰治の『正義と微笑』にある、「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」という言葉は、ほんとうのことで、彼の素直な気持ちの表現であることは間違いのないことである、A「(中略)ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります」(吉本隆明『信の構造2―全キリスト教論集成』春秋社)、B「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的〈事実〉であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」弓立社)。
 また、人間学的領域の哲学者であり思想家であるミシェル・フーコーも、「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の方法について論じている――「ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域から引き出しました。(≪しかし、そのことは≫)、全く重大なことではないのです」 (M・フーコー『思考集成IV』「ミシェル・フーコーとの対話」大西雅一郎訳、筑摩書房)。これらのことを、両者は、近代以降の宗教的形態としての科学<主義>・歴史<主義>を包括し止揚したところで語っているのである。

 

 

【キリスト教界<時評>――曽野綾子の『人間の分際』の広告記事について】
 昨日の地元紙の広告欄に、カトリック教徒である曽野綾子の『人間の分際』という本が「発売即25万部」売れたという記事が掲載されていた。私はまだ読んではいない。ただ、「『やればできる』というのは、とんでもない思い上がり」・「努力でなし得ることには限度があり、人間はその分際(身の程)を心得ない限り、決して幸せには暮らせない」とあり、目次には「不幸を知らないと幸せの味も分からない」・「人間の一生は苦しい孤独な戦いである」とある――そういう通俗的な処世訓と言うべき文言が並べられていたが、少し興味を感じたので、本を読まずに、それゆえに広告記事を読んだだけという限定性において、論じてみたい。まず、「努力(≪自分の意志的行為≫)でなし得ることには限度があ」るということについては首肯した上で述べてみる。「努力でなし得ることには限度があり、人間はその分際(身の程)を心得ない限り、決して幸せには暮らせない」ということと、目次にある「不幸を知らないと幸せの味も分からない」とは、多分その分際を心得た上でそう言っているのだろうからまあ納得できるとしても、目次にある「人間の一生は苦しい孤独な戦いである」という文言の中にある「苦しい」ということとは矛盾してしまうように思われる。なぜならば、分際を心得た上は、<精神的に>「幸せに暮らせ」ようになり得る可能性があるとして、その意味で「幸せには暮らせ」るのあれば、その分際を心得た時点からは、「人間の一生は……苦し」くはないはずだからである。また、なぜ通俗的な処世訓かと言えば、曽野が述べているようなことは、すでに誰でも体験し体験的に実感し体験的に認識し体験的に耐えながらそこを生き体験的に耐えながらそこを生きていかなければならないという事柄を、ただ整理し書き並べられているだけだからである。生理(自然)と意志の問題、男女関係・夫婦関係・家族関係の問題、人生上で体験するさまざまな希望とその挫折の問題、職場関係の軋轢の問題、自分が望まない社会構成・支配構成・文化構成の時代水準とその病の問題、自分が望まない支配の側の制度としての官僚(法の支配の下での法による行政に基づく政治的国家の職能団体)の行政執行の在り方の問題、自分の望まない無理やり押し売りされる選挙カーの雑音(政治)の問題、等々自分の意志だけではどうすることもできない事柄は、そこらじゅうにあるからである。例えば、後期ハイデッガーが、<不可避的>な、被制作性・被企投性・言語・シンボル体系、個と類・歴史性と現存性が出会う出来事、「存在の生起の出来事」、を認識し自覚した時、彼は「転回」をしたと言うことができる。また、マルクス(エンゲルス)は、『ドイツ・イデオロギー』で、「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」、と述べた。この市民社会の経済的カテゴリーである「材料、資本、生産力」の概念は、言語、対(身体的精神的な性・夫婦・家族)、の概念に置き換え可能である。人は、自分の意志とは全く無関係に、ある親の下であるそうした労働や言語や対の不可避的な歴史的現存性のただ中に生誕し、その類・歴史性に規定されて個の現存性を生きる。言い換えれば、人は、不可避的に、個・対・共同性という人間存在の三様式を生きるしかない存在である。したがって、このことが不幸だとすれば、そうした不可避的な人間の存在様式それ自体が不幸なのである。しかし、個人の次元や問題に還元して、「努力でなし得ることには限度があり、人間はその分際(身の程)を心得ない限り、決して幸せには暮らせない」、と言うことは、短絡的な言い方であるだろう。それだけでなく、個人の次元や問題に限ったとしても、人はそれぞれ資質の差異を生きているから、ある人にとってはあの「分際を心得」れば、<精神的に>「幸せに暮らせ」るようになるかもしれない、しかし、ある人にとってはあの「分際を心得」ても何の解決ももたらさないということはあるのである。例えば、ある資質は孤独を好み、ある資質は社交を好む、ということはあるのである。ある資質は閑静を好み、ある資質は喧噪を好むということはあるのである。ある資質は控え目を好み、ある資質は大言壮語を好むということはあるのである。さらに、曽野の本の目次には「うまくいかない時は『別の道を行く運命だ』と考える」という項目がある。言い換えれば、曽野の言う「うまくいかない時は」とは、やはり、曽野の場合、自分の意志でということになってしまうだろうから、自分の意志で、「別の道」を行け、ということを語っているのであるが、向こう側から強いられた道のみを歩まなければならないことがあるのである。吉本隆明は、次のように述べている――人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかない」ものである。歴史的現存性とは、人間化され非有機的身体化された全自然・人間的自然を、それが良きものであれ悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことである。したがって、個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである。したがってまた、個人としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、いったんそうした「現実に衝突してからは」人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個の現存を刻んでいくのである。このような訳であるから、曽野の言う「うまくいかない時」というのは向こう側から強いられたどうすることもできない不可避性ではなく、個人の次元や問題に還元したところの、それゆえに自分の意志性のベクトルを変容させればいいところの大したことのない「うまくいかない時」でしかない、と言うことができるのである。また、目次の第1章「人間には『分際』がある」の中には「そもそも人間は……利己的である」という文言が、第6章「一度きりの人生をおもしろく生きる」の中には「『人並み』を追い求めると不幸になる」という文言がある。しかし、「私利」・「私意」は市民社会の精神であって、完成された政治的近代国家の場合、人間の思惟や現実的生活において、天上の観念的非日常性(政治的共同性)と地上の現実的日常性(市民社会生活・個別的私的現実的生活)との二重の生活が強いられるのである。言い換えれば、人間が諸矛盾や諸利害の対立のある現実的な市民社会の中で、その社会の本質を観念的な法的政治的共同性として疎外する時、すなわち自己還帰しない逆立した疎遠な共同的観念を疎外することによって、すなわち法制度によって現実的社会的な諸矛盾・諸利害の対立を止揚する時、人間は現実的社会的にと観念的政治的にとの二重の生活を強いられるのである。具体的には、私人として、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活と、一方であたかもそうした対立や争いのない法的政治的観念的な共同性によって統一された公的共同性の一員・公民としての生活との二重の生活を強いられるのである。戦後日本の資本主義社会と自由主義国家・政治的近代国家の<制度>の成熟は、そこで生き生活する人々の間に、私的利害と恣意的自由の優先意識を生み落したのである。そして現在、情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、高度消費資本主義社会は現実的な衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、そこで生き生活する人々の間に、身体的な肺病等に代わって正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落し、作家の中村うさぎ等を生み落したのである。中村は、消費資本主義社会の只中に漂泊する自分自身について、次のように述べている――1992年新宿伊勢丹のシャネルで「衝動買い」したときから、「眠っていた欲望」が暴走し始めた、その後、60万円の革のコートを購入するのだが、その代金を「カードで支払った時、すさまじい快感に襲われ」た、「以来、海外ブランド物を買いあさる」、一度に買い込む金額は、100万円、200万円とエスカレートしていき、「印税が底をつき、カードが使用停止」になった、「自宅の水道やガス、電話が料金未納で止められたこと」もあった、買物依存症がおさまったとき、今度は美容整形に走り、現在「顔で原型をとどめているのは口と鼻先の二カ所だけ」となった、「以前なら年をとれば容貌が劣化し、静にあきらめていけた。現代人はあきらめられない地獄に突き落とされている」、「私は消費社会の漂泊者でいたい」(「朝日新聞」夕刊、二〇〇六年九月二二日)。この事態の本質は、衣食住の生活的必要に依拠しない消費行動にある。消費資本主義の「高度な資本システム」的必然がもたらす無意識世界(システム価値・共同幻想)が人を動かしている事態である。すなわち、その「システム化された文化の世界」(≪無意識世界としての共同性の世界≫)は、意識的に対応可能な「制度、秩序、体系的なもの」・「物の系列」に「マス・イメージ」を付加することを強いて、「虚構の価格上昇力」を形成する。例えば、労働量・労働時間が同質・同量の化粧品であっても、見た目に美しい色や形の容器に入れることで実質的な交換価値とは別のイメージ価値が付加されるのであるが、その場合その商品は、衣食住に必要な商品である前にイメージとしての商品・ブランドとしての商品である。そうした商品が、マス・メディアを通して毎日のように流され続けていくために、人々の無意識世界にそうした商品を身に付けたいという欲望を生み落としていく。そして、無意識に「そうやってしか存在できなくなったとすれば」、その事態は、自分の意志によるのではなく「システムの意志によっている」ということができる。すなわち、意識的に対応可能な社会や国家の<制度>が人間の意識を変えたように、意識的に対応不可能な「システムの意志」・システム的価値が人々の無意識世界を形成している事態である。そして、「このシステム的な価値は、社会制度や国家秩序の差異によって左右されない世界普遍性をもった様式」として、意識的に対応できる「制度・秩序・体系的なものに象徴される物の系列」を衰退・解体させている。しかし、このシステム的な文化は、「実体から遠く隔てられ、判断の表象」を喪失しているから、その度合に応じて「白けはてた空虚にぶつかる度合」が決定され、生活的実感を希薄化させるのである(『マス・イメージ論』)。曽野は、「『人並み』を追い求めると不幸になる」というのだが、現在、そのような曽野の処世訓が通用しない時代水準に突入しているのである。ほんとうは、幸福の問題は、「努力でなし得ることには限度があり、人間はその分際(身の程)を心得ない限り、決して幸せには暮らせない」、というような個人の次元の「心得」・意識・意志の在り方に還元するところにあるのではない。
 ほんとうは、幸福の問題は、例えば、次のような在り方にあるのである――過渡的課題を彼なりに認識し自覚して歩んだ宮沢賢治の言う「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とか・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』におけるような課題にあるのである。過渡期課題を念頭に置いたマルクスの革命の<究極像>(法的政治的な観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う社会的現実的な人間の究極的総体的永続的な解放)にあるのである。信仰的・神学的・教会(の宣教)的には、その過渡的課題(恣意的独断的にではなく、啓示に固有な証明能力を通して、啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」を通して、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのことを根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、イエス・キリストの死と復活の出来事、啓示・和解、インマヌエルの出来事、の告白と証しと宣べ伝え)を認識し自覚しながらある社会構成・支配構成・文化構成の時代水準を生きたバルトが述べたように、その現にあるがままの不信・非キリスト者(教)・非知、全人間・全世界・全人類、に完全に開かれた、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみある、それゆえに完全な客観的現実性として・客観的実在として、そしてその啓示に固有な証明能力に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰として、イエス・キリストにおける<完了された>究極的包括的総体的永遠的な救済・平和にあるのである。