本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「十九節 教会のための神の言葉」「一 神の啓示についての証言としての聖書」

『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「十九節 教会のための神の言葉」「一 神の啓示についての証言としての聖書」(3−34頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)

 

 

十九節 教会のための神の言葉

 

 「神の言葉(≪客観的な啓示の実在そのもの、神の子、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」の第一の形態・第一次性・第一義性・「先ず第一義的に優位に立つ原理」≫)は聖書(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」を通して授与された人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰に基づく、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第二の形態≫)の中での神自身である。なぜならば神は、主として昔モーセおよび預言者たちに、福音記者および使徒たちに語られた後、神がそれらのものによって書かれた言葉(≪聖書≫)を通して、同じひとりの主としてその教会(≪教会の客観的な、信仰告白・教会的宣言および教義・福音主義的教説としての啓示の「概念の実在」、「神の言葉の三形態」の第三の形態≫)に語りかけてい給うからである。聖書は、それが教会に対して聖霊を通し(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」を通して≫)、神の啓示についての証言となったし、神の啓示についての証言となるであろう間に(≪ことによって――このindemを、井上良雄ならこのように「……することによって」と訳すであろうから、この吉永の「……する間に」という訳し方には何か彼の特別なこだわりがあるに違いない、しかし、私たちは、この吉永の翻訳の偉業に感謝しつつも、ただこの教会教義学の、瑣末な、重箱の隅を突っつく的な、馬鹿馬鹿しくてつまらない作業に時間を費やすることは止めて、それゆえに「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会の神学」・教会の宣教やそれに類する神学・教会の宣教におけるような形而上学的一面的固定的抽象的空論的な理解を目指すのは止めて、あくまでも現在から未来に生きる言葉を探し求めて、根本的包括的な原理的な理解を獲得していくことにのみ専念する)、聖であり、神の言葉である」。

 

 「われわれはさし当たってまず(≪「聖書こそ」が義務づけている≫)教会の宣教(≪「神の言葉の三形態」における第三の形態、教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」≫)に対しても聖書(≪「神の言葉の三形態」における第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」≫)に対しても秩序から言って優先している神の言葉……、すなわち神の啓示(≪「神の言葉の三形態」における第一の形態、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、啓示の客観的現実性そのもの、啓示の客観的実在そのもの≫)、を問わなければならなかった」。「神が、ご自身を啓示し給うたがゆえに、ご自身を啓示し給うた間に(≪ことによって≫)、神の言葉があるし、また神の言葉としての聖書と教会の宣教があるし、両者の間の関係の一致があるし、それら両者の一致を問う問いが可能となり、必然的となる」。(3・4頁)
 このことは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事、それ自体がキリストの霊としての聖霊の業、である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯とそれを媒介・反復すること、を通した啓示認識・啓示信仰について、そしてそのことに対する認識と自覚の必要性について、述べられている。したがって、バルトは、『神の言葉』論で、啓示認識・啓示信仰に対する人間の恣意性独断性を排していくことを念頭において、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業(≪教会の一つの機能≫)の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べたのだし、また使徒たちや古代教会の「教義が言っていることを、そのまま言うことができるし、言わなければならない」と述べたのだし、あの「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、神と人間との無限の質的差異、神の聖性・隠蔽性・秘義性、神の不把握性、終末論的限界、の認識と自覚の下で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において(≪教会の一つの機能である教義学、「キリスト教会がなす宣教の中での神の言葉を問う問い」、において≫)『教義そのもの』を尋ね求め」(『啓示・教会・神学』)たのである。このような仕方で、すなわちあの「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、教会の「宣教(≪「神の言葉の三形態」の第三の形態、教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」≫)と神の言葉としての聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」≫)の間の一致を問う問い」において、「教義そのもの」を尋ね求めたのである。啓示認識・啓示信仰は、啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによってのみ可能となるのであるから、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在であるイエス・キリストの死と復活の出来事、すなわちその内容であるインマヌエルの出来事の宣べ伝えを目指すことのない<自然神学>の<段階>で停滞し循環している「単なる知識」としての形而上学的な教義学・教会の宣教は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。言い換えれば、啓示は、神自身の、自己啓示――自己認識・自己理解・自己規定として、「われわれに啓示されたイエス・キリスト」であり、父なる神(啓示者)に関わる。このイエス・キリストにおける啓示は、「神の言葉の三形態」における「第一の形態」であり、神の言葉の直接性であり、「啓示の実在そのもの」(啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在そのもの)である。それは、「すでに来たり給うた」、また「再臨し給う」イエス・キリスト自身、「イエス・キリストにおいて起こった和解」、イエス・キリストにおけるインマヌエルとしての神の言葉である。この啓示は、教会の宣教に対して「先ず第一に優位に立つ原理」である。したがって、「啓示の中」での体系は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストだけなのである。また、「神の言葉の三形態」における第二の形態である<聖書>は、旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、神の言葉、イエス・キリストに関わる。この聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての客観的な啓示の実在そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である。なぜならば、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからである。またなぜならば、その聖書は、「神の啓示についての証言である限り」、「教会の宣教に相対して立っている優越した法廷」を「指し示すしるし」だからである(4頁)。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。神的側面だけでなく、その現にあるがままの現実的な罪人そのものとしての人間的側面をもつ教会は、絶えず繰り返し、キリストにあっての神に聴従することによって、具体的には聖書に聞くことによって、教会となるという作業を必要としているのである。したがって、ほんとうは、教会の宣教は、絶えず繰り返し、そのような仕方で、説教――説教において「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」、すなわち神、罪深きわれらと共に、ということである――と聖礼典を行っているかどうかを、前述したことを念頭に置いて、絶えず繰り返し、聖書を規準として自己吟味し・的確に「批判し、訂正」していかなければならないのである。このような仕方で、「聖書的証言が教会の中で服従を見出す時」、それは、「奇蹟的な出来事」である。なぜならば、人が、教会の宣教において、その宣教の正当性を聖書を基準としないで自分で自己証明するという欲求を放棄し後景に退かせて、すなわち人間自身の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、恣意的独断的に「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとするところの「自己表現としての宣教」の企ての欲求を放棄し後景に退かせて、あくまでも「その都度聖書に服従するようになる時」、その時には、「三位一体の神の支配がまさに事実であることが証明された」ことになるからである。「三位一体の神の支配が事実であるところ、そこではその〔三位一体の神の〕支配そのものが服従への……十分な根拠、なのである」(5・6頁および『神の言葉』論)。なぜならば、その場合、次のような出来事が惹き起こされているからである――@「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執し連帯する啓示「認識」・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるからである、Aイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」こと、それゆえに「世、歴史、社会」は、「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」であること、またそれゆえに「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認することができるからである。したがって、イエス・キリストにおける啓示の場所は、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返している教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所なのである、そこでの神は人間自身が対象化した人間自身が支配し管理する「存在者レベルでの神」――芸術における自己意識とは違って、宗教的疎外におけるこの「存在者レベルでの神」・対象化された自己意識の類的本質(無限者)としての神は、その対自的でもあり対他的でもある自己意識を現実的な個の現存に自己還帰させることなしに、その対象化(疎外)した人間の自己意識の類的本質(無限者)を価値化し第一義化したそれのことであって、この場合、人間自身が対象化(疎外)したその「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによって、様々な偶像が、人間によって恣意的に曲解された、人間自身の独断的な、「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」が、「無数の儀文」が、「盲目的」な「仕事」への「没頭」が、「簡素さと寡欲さ」が、「その時代の人間中の様々な敗残者に対」する「熱心」な「博愛的配慮……教育的配慮」が、高圧的な啓蒙的慈善が、「大規模な世界改良の偉大な計画」が、「大衆や時代の傾向と手をたずさえ」た「ある種の正義」が、「善意に」よる「神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法」が、まことのキリストにあっての神だけでなく人間をも支配し管理するするところの、それ――でしかないことを認識できる場所なのである、すなわちイエス・キリストにおける啓示の場所は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである。

 

 『神の言葉』論に即して言えば、第一に、釈義神学による聖書的教えの認識・概念も、キリスト教的な神についての「語りの規準」としての啓示の実在そのものであるイエス・キリストと同一ではない。したがって、教義学は「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではない。なぜならば、「使徒や預言者たちが語ったこと」は啓示の実在そのものではないから、もしも彼らの語りを啓示の「概念の実在」としてではなく、啓示の実在そのものとして問うことをしたならば、その場合、人間によって言語を介して対象化された彼らの語り、すなわち人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」を問うことになってしまうからである。したがって、教義学は、啓示に固有な証明能力に基づいて、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、神と人間との無限の質的差異、神の聖性、神の隠蔽性、神の不把握性、終末論的限界、の認識と自覚の下で、「『使徒と預言者たちに基づいて』(≪すなわち、聖書、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」に基づいて≫)何をわれわれ自身が語るべきかを問」わなければならないのである。その時だけ、「キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され」・命じられていることを知るのである。教会の一つの機能としての教義学そのもの、また神についての教会の語りは、「信仰のない」人間の、「信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、教義学そのものが、「神についての語りをはかる規準を、イエス・キリストの中で、受けとる限り、教義学は真理の認識として可能」となる。その場合、教義学は、終末論的限界の下で、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができるのである。しかし、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないのである。したがって、教会の一つの機能としての教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立している。したがってまた、私たちは、次のように言わなければならない――「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの」、「存在者レベルでの神」、対象化された人間の自由な自己意識の類的本質・無限性、「このような「物自体」は、神とは何の関りもない」、と (『教義学要綱』)。第二に、神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける連続性を意味している。この単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。この場所で、バルトは、現在から未来に生きる言葉について、次のように述べたのである――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している (『ローマ書』)、と。したがって、バルトは、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の経験、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていない、と。バルトは経験を尊重していないとして人間の経験の尊重を主張した<自然神学>の<段階>で停滞し循環している<人間学的神学者>の典型は、本質的なコミュニケーション論も展開せずに、プラグマティックな「聞き手」論的な「聖霊論的説教論」を主張したルドルフ・ボーレンやそのエピゴーネンの東京神学大学教授・小泉健や東北学院大学教授・佐藤司郎である。このような出鱈目な主張をする者たちに対して、バルトは、次のような正当な批判を加えている――福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない、と。その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」、と。すなわち、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と信仰の出来事、すなわち啓示に固有な証明能力に基づいた、「神の言葉の三形態」を通した、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである、と。なぜならば、そうでない場合は、その説教における神は、説教者・人間自身の対象化した人間自身が支配し管理する「存在者レベルでの神」でしかないからである、対象化された人間自身の自由な自己意識の類的本質・無限性・意味的世界でしかないからである。

 

 さて、「神の言葉の三形態」は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事のことである。『神の言葉』論に即して言えば、教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)ご自身の自己啓示のことである。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き・業)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性をその「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神なのである。したがってまた、単一性・神性・永遠性をその「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さなのである。イエス・キリストにおいてこのような仕方で啓示された神の自己啓示が、すなわち神の自己認識・自己理解・自己規定が、教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・協働論・折衷論という<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト論や聖霊論や神論に埋没していく以外にないからである。このことを論じたバルトは、恣意的独断的な「ローマ・カトリック主義およびプロテスタント近代主義」に対して、根本的包括的な原理的な批判を加えているのである(4頁)。このことを知らない、バルト読みのバルト知らずの一流主義・エリート主義を標榜する佐藤優が、『はじめての宗教論』で、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学が不可欠なのです。神学的な操作(≪非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」、という出鱈目な戯言を言うのを聞いた時、私は、このキリスト教的メディア的著述家の、神学的・人間学的な質の悪さを実感的に知ったのだった(佐藤優に対する、根本的包括的な原理的な批判は、国家論・革命論や南島論等を含めて、ホームページですでに完了している)。冨岡もそうだが、このような佐藤が、バルト論を展開しているというのだから、悲惨・酷い・馬鹿馬鹿しい、という感じだけが湧いてくる。にもかかわらず、日本キリスト教団の牧師たちは、このような佐藤や冨岡を、なぜ、根本的包括的に原理的に批判しないのだろう?

 

 次の認識は、肝要である。すなわち、神の側の真実としてのみある、神の自己啓示、神の自己認識・自己理解・自己規定、イエス・キリストの死と復活の出来事――インマヌエル、啓示の実在、啓示の真理、永遠、超歴史、啓示の時間、救済史は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義、啓示の「概念の実在」、人間の自己認識・自己理解・自己規定、人間の時間、歴史の、彼岸・外にある、彼岸・外にあり続ける、という認識と自覚は肝要である。「啓示は歴史の賓辞ではない」・「歴史が啓示の賓辞である」、という認識と自覚は肝要である。このことは、啓示自体から与えられた、私たち人間における「終末論的限界」を意味している。またこのことは、まことの神は「聖性」・「隠蔽性・秘義性」を本質としており、その神に対して人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としている、という「神の不把握性」を意味している。この神の不把握性は、神の単一性・神性・永遠性についての「信仰命題」であり、一般的真理ではなく、啓示の真理・信仰の真理なのである。すなわち、それは、啓示に固有な証明能力に基づいて、向こう側からやって来る、キリストにあっての神の側から啓示認識・啓示信仰させられるそれである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである(『福音と律法』)。

 

 啓示の時間・救済史は常に人間の時間・歴史の外・彼岸にあり続ける、「啓示は歴史の賓辞ではない」・「歴史が啓示の賓辞である」、この『神の言葉』論における言葉と、『ヘーゲル』での「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、私たちは、西洋近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならないという言葉は、「神学と一般の学問」・「特殊と普遍」・「救済史と普遍史」との混淆・協働・共働・折衷を主張した、また神学的三段階的進歩史観を主張した、モルトマンに対する根本的包括的な原理的な批判を構成しているのである。もちろん、それ以前に、時代状況自体が、モルトマンののべた、そのような進歩史観を許さないのである。したがって、モルトマンの神学的三段階的進歩史観は、とっくの昔に、自然時空に死語化しているのである。こういうことを考えずに、牧師の関口康は、モルトマンに評価されたからファン・ルーラーは評価できると短絡的に主張していたのである。

 

 『思想の規準を巡って』で「対立する双方に真理があるというような俗説(多元主義、党派思想、多元的党派主義等)が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」であると述べた、吉本の『親鸞の教理について』に依拠して言えば、「知識を獲得すればするほど、知識でないものを包括」していかなければならない。信の往相的な自然過程において、信的に上昇していけば行くほど、信の還相的な意識的下降過程において、不信を包括していかなければならない。信における思想において、両者を架橋しなければならない、両者の枠組みを取り除かなければならない。キリスト者(教)を、非キリスト者(教)に対して、その現にあるがままで、完全に開かなければ、ならない。神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエスの信仰」の事柄に立脚したバルトは、信仰・神学・教会の宣教における思想の言葉で、こう述べている――「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、それゆえに「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪彼女は、その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼は(彼女)は≫)そのことをまだ発見(≪啓示認識・啓示信仰≫)していない」だけである。カンタベリーのアンセルムスも、こう述べている――「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」(「神の言葉の三形態」の第一の形態、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在そのものとしてのイエス・キリスト)、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」の「力強さを念頭において」、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができた、と(バルト『「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。

 

 さて、先にも書いたように、「聖書的証言が教会の中で服従を見出す時」、それは、「奇蹟的な出来事」である、ということであった。なぜならば、人が、教会の宣教において、その宣教の正当性を聖書を基準としないで自分で自己証明するという欲求を放棄し後景に退かせて、すなわちそうした「自己表現としての宣教」の企ての欲求を放棄し後景に退かせて、あくまでも「その都度聖書に服従するようになる時」、「その時三位一体の神の支配がまさに事実であることが証明された」ことになるからであった。このように、「三位一体の神の支配が事実であるところ、そこではその〔三位一体の神の〕支配そのものが服従への……十分な根拠、なのである」(5・6頁および『神の言葉』論)。言い換えれば、聖書(≪「神の言葉の三形態」の第二の形態、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」における啓示の「概念の実在」≫)は、「啓示(≪「神の言葉の三形態」の第一の形態、イエス・キリスト、啓示の実在そのもの≫)についての証言(≪聖書、第二の形態における啓示の「概念の実在」≫)」として、それゆえに「法廷」を指し示すしるしとして、教会の宣教に対して「規範的および批判的性格」を持っているのである。すなわち、聖書は、「全体としての教会の生、および個々の成員の中での教会の生」に対して、「限界づけ、規定する働き」を持っているのである。聖書は「啓示についての証言である」という命題は、「言いかえて語られ、説明されることを必要としている」。「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」、「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である。啓示は、神と人間との無限の質的差異の下で、また終末論的限界の下で、その啓示に固有な証明能力に信頼し固執することを欲している、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを欲している。この服従において、教会、神の子供たちの証し・証言が啓示についてのそれとなるならば、すなわち、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたもの」となるならば、それは、啓示の力によった神の言葉である。この時、教会においては、その証言に対して、「神の言葉の威厳と力が帰せられなければならない」。なぜならば、そのことは、「神ご自身の決定事項」なのであって、私たち人間の決定事項ではないからである。このような訳であるから、その証言が、「何らかの抽象で以て始められ何らかの空論に終わるところの」<自然神学>の<段階>で停滞し循環しているだけのただ単なる「怠惰な思弁」・単なる空論とならないために、教会においては、聖書を規準として、絶えず繰り返し、「教会の宣教の批判と訂正」が行われなければならないのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――「教会は、(≪啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執してそれを媒介・反復することを通して≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエル≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、「(≪したがって、そうでない場合は≫)、どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。

 

 さて、経済的社会構成がサービス産業など第三次産業中心の消費資本主義社会においては、労働と生産物との関係は間接的で労働時間と生産量の間も不可視的になる。例えば、流通産業においては、商品をAからBに移動させるだけで価値を生み出すようになっている。労働量・労働時間が同じ同量同質の商品も、容器がありきたりか美しいかという<イメージ>の違いによって商品の価値に差異を持たせることができる。こうした経済的社会構成に生きる人間の関係は、間接的で不可視的であるから関係意識を希薄化させていくことになる。すなわち、個人的な世界に内閉化していくことになる。そうした状況を生きてきた世代にとっては特に、「山口百恵」も「長嶋茂雄」も「アメリカ大統領」も、「マルクス」も「レーニン」も吉本隆明もミシェル・フーコーも純文学も大衆文学も、等距離、等質、等価値、同じ重さの存在でしかなくなっている、そうした対象でしかなくなっている、子どもから老若男女まで、かっこいいとか、軽薄な明るさ(メディア的知識人の中にも、教会の牧師の中にも、等にもいるであろう)、等見た目の身体性外面性の受けが問題となっている(吉本隆明『マルクス―読みかえの方法』)。こうした状況認識とその思想的課題を認識し自覚していない教会の宣教は、すぐに、こうした時勢や時流に流されていくに違いない。私たちには、日本キリスト教団の、平和運動、戦争反対運動、等は、バルトとは違って、その究極的包括的永続的な課題とその課題解決のための究極像を含めた構想を持たないから、それゆえに場当たり的なものでしかないから、そうした時勢や時流に流されているだけのように映る。(6・7頁)

 

 ここで、教会の宣教における「聖書的証言に対するまことの、必然的な服従の中に含まれている(この証言の性格と基本的意味についての)認識」、聖書的証言の「特質と意味についての認識」、の教義学的な明確化、すなわち明確な「聖書論に立ち向かわなければならない」 。この通則は、「ローマ教会および熱狂主義者のいずれとも対立しつつあった十六世紀の宗教改革」における認識を系譜としている。時系列的には、次のようである――「メランヒトンは……一五二一年……ロキの序文」で、「キリスト教ノ形式ヲ、聖書以外ノトコロカラ求メル者ハイズレモ、間違ッテイル」と書いた。「チューリッヒ市議会が一五二三年初めにその決定的な論争に当たって発した招待状」には、「今後は何人も聖書の中にある基礎なしに、それぞれ自分の目に正しいと見えるものを説教することを禁じるであろう」と書かれている。「ツヴィングリによって起草された、一五二八年のベルン論題」は、「〔その〕唯一のかしらがキリストである聖なるキリスト教会は、神の言葉から生まれたのであり、神の言葉の中でひとつに結ばれており、そのほかのものの声を聞かない」という「簡潔な命題でもって始まっている」。「一五三〇年のルターから由来している教会のアウクスブルク信仰告白」は、「それと同時に提出されたツヴィングリ的に方向づけられた四都市信仰告白と違って、聖書原理をはっきりと言葉に出して表現」されていないことが、「しばしば注目された」。「当時同じように請願書を皇帝に提出していたツヴィングリ自身」(「一五二三年のチューリッヒ『論題』、一五三二年のベルン・シノードス、一五三四年のバーゼル信仰告白」)も、「聖書原理ついての力強い、はっきりした主張」を欠いていた。このことは、「ルターの一五二九年の教理問答」も同じであったし、「一五四五年のカルヴァンの教理問答」も同じであった。またこのことは、「聖書原理を強調して述べるということが一般的に受け入れられるようになった時でも、示され得ることである」。聖書原理の強調は、「第一スイス信条およびジュネーブ信仰告白(両方とも一五三六年)以来、改革派の信仰告白書の冒頭の箇条として範例的となり、またカルヴァンのキリスト教綱要の有名な導入部分」、その「目的はまさに、堕罪を通してくらまされた神認識のすべてのほかの源泉と対立する聖書原理の主張であるということを人が見て取る時にだけ、理解することができるとすれば」、それは、聖書原理の主張と言うことができる。また、聖書原理は、改革派の間でよりもルター派の間で、「もっと熱心に、目に見える形ではっきりと、神学体系の先端にうつされるようになった」。しかし、「十八世紀および十九世紀に神学にとっては、聖書原理は全体として尊敬に値する歴史的な追憶およびどう取り扱ったらよいかよく分からない荷厄介な物となった」が、「隠れた仕方」ではあれ、聖書原理は、「ひき続き存在しつづけた」、すなわち「教会から、……聖書は、宣教の正規な根本テキストとして、消失してしまうようなことはなかった」。例えば、「一九三四年五月……バルメンの告白会議も、……ある種の機械的な必然性をもってまさに宗教改革的な聖書原理を強調し、信仰告白として表現した」ということは、「偶然ではなかったし、勝手な行為でもなかった」。 (7−9頁)

 

 このような訳であるから、「聖書論そのものにおいては、信仰告白……が問題である」。なぜならば、「最も単純な形」において「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」、「永遠なる神性」を存在の本質とする、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする「まことの神」であり「まことの人間」、「イエス・キリストの名」(神の言葉、神の子、神の第二の存在の仕方、啓示・和解そのもの、「神の言葉の三形態」の第一の形態)だけだからである。そして、聖書こそが、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」(「神の言葉の三形態」の第二の形態、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在そのものであるイエス・キリストと共に、「神の言葉の三形態」の第三の形態である教会の宣教における「原理」)だからである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその存在は単一性・神性・永遠性を本質としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、すなわち啓示・和解として、イエス・キリストは神の子・神の言葉・神の第二の存在の仕方なのである。そのキリストの単一性・神性・永遠性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解(神の第二の存在の仕方)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」、イエス・キリストのその存在の本質である単一性・神性・永遠性が「啓示と和解を生じさせる」のである。したがって、聖書論は、「ただ、われわれは啓示についての証言を通して〔現に〕この〔服従の〕立場に置かれているということを確認することができるだけである。われわれはそのような立場(≪啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、「神への愛」としてのキリストにあっての神を尋ね求めるという立場≫)を取っていることを公に告白」し、それゆえに「この立場の中で起こらなければならないすべてのことの必然性(≪「神への愛」を根拠とする神の讃美としての隣人愛、人間が福音を現実的に所有するための、福音を内容とする福音の形式である律法・神の要求・神の要請・神の命令、すなわちイエス・キリストの死と復活の出来事・その内容であるインマヌエル、を告白し証しし宣べ伝えていく必然性≫)を告白するのである」。なぜならば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する啓示認識・啓示信仰であり、それゆえにその時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる、からである。したがって、バルトは、『神の言葉』論で、先ず以て、「(≪私たちは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの死と復活の出来事における啓示・和解、その内容であるインマヌエル、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、この≫一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派、教派、思想傾向、時流や時勢、社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……)」、と述べたのである。このような訳で、バルトは、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」であると述べた文芸批評家であり思想家である吉本隆明のように、神学における思想家なのである。このことは、バルトが、聖書に依拠した神学における思想において、「ひとつの事柄」(ローマ3・22およびガラテヤ2・16等における、神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」)に仕える立場において、信と不信、キリスト者(教)と非キリスト者(教)、知と非知、とを架橋してその枠組を取り除き、信・キリスト者(教)・知を、不信・非キリスト者(教)・非知に対して、その現にあるがままで、完全に開いた、という点に求めることができる。したがって、バルトは、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、それゆえに「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪彼女は、その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼は(彼女)は≫)そのことをまだ発見(≪啓示認識・啓示信仰≫)していない」だけである、と確信をもって述べたのである。この意味で、私の知る限り、全キリスト教において神学における思想家は、バルトと先にも述べたアンセルムスだけなのである。このような訳であるから、バルトは、神学的実存を、言葉と行為、理論と実践、を分離させたり対立させたりせずに、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、何であれ、「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方に置いたのである。またこのような訳であるから、バルトは、@「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ことを拒否したのである、A宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等におくことを拒否したのである、B「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとすることを拒否したのである、Cある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとすることを拒否したのである、あの「ひとつの事柄」にのみ信頼し固執することにおいて、すなわちその完了された救済と平和の場所において、国家・政治的権力の問題を不可避な過渡的問題として捉えると同時に、究極的永続的課題としては国家・政治的権力の無化(人間の社会的現実的な究極的総体的永続的解放のためには観念の共同性を本質とする価値化・第一義化された政治的近代国家を相対化し止揚し無化する以外にないからである)を構造化させたのである。すなわち、バルトは、終末、救贖・完成においては、国家・政治的権力も無化されてしまうという観点を持っていたのである。神学における思想において、マルクスや吉本隆明と同じように、人間学的な言い方で言えば、ほんとうの国家論・革命論(国家無化の構想、すなわち人間の社会的現実的な究極的総体的永続的解放の構想)を持っていたのである。したがって、バルトは、全く以て、権威としての天皇と権力としての国家による天皇制的国家論者の佐藤優や靖国神社参拝推進論者の冨岡幸一郎のような国家<主義>者では全くないのである、D「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」こと、「国家は支配であり、文化は支配」であることを認識し自覚していたから、神学における思想家として、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」と述べたのである。Eブルトマンが「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」、と語ったことに対して、「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」――否である、私たちは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」、と述べたのである、F「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものである、しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」、したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされた、と述べたのである、G歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする、しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある、したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」、しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」、なぜならば、啓示は、人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである、したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある、と述べたのである。

 

 神の啓示についての証言としての聖書に対する「公に告白」する信仰告白の必要性は、すなわち教会の宣教が「聖書的証言に従い、聖書的証言に照らしてはかられ、聖書的証言に向かって方向づけられている」かどうか、という聖書の教会の宣教に対する「規範的および批判的性格」を「公に告白」する信仰告白(聖書に対する服従)の必要性は、「服従と不服従が……われわれ自身の中で、対決しつつ相対して立っている限り、われわれ自身……不服従に対する服従の明らかにされるべき限界として、……聖書に対する服従の必然的な構成要素」なのである。なぜならば、教会は即自的に教会であるわけではなく、絶えず繰り返し、聖書を規準として、聖書に聞くことによって、教会となるのでなければならないから、教会の宣教は、絶えず繰り返し、恣意的独断的にならないために、あくまでも聖書を規準として、聖書に聞くことによって行われているかどうかを問われなければならないからである。もしそうでない場合、自主性・自己主張・自己義認の欲求、不信仰・無神性・真実の罪のただ中にある、その現にあるがままの私たち現実的な人間は、往々にして次のような事態を惹き起こすからである――@「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪この善意の表現されたものが、彼自身が対象化した「存在者レベルでの神」、その「神」の名と呼びかけによる彼自身が支配し管理するプログラムである≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)、先にも書いたが、国家主義者の佐藤優も冨岡幸一郎も、この典型である、さらに悪いことは、彼らが、国家論・革命論の過渡的課題や究極的課題(究極像)を持っていない、という点にある、すなわち彼らの国家主義的な主張が、その課題を認識し自覚していない場当たり的で出鱈目なそれである、という点にある、これが、一流主義・エリート主義を標榜する、キリスト教的メディア的著述家の実態なのである、人は、日常と非日常、生活と観念(知識・思想)の総体を生きることを強いられいて、生活に重心をおくか知識に重心をおくかという差異性を持つ。そして、支配(権力)は、マス・イメージとしての大衆象(共同幻想)を逆立した鏡とする。そうした宗教→法→国家へと上昇する観念の共同性を本質とする法的政治的国家は、最下層の共同幻想(風俗・習慣、心性、宗教等)を含めて全ての共同幻想を包括した最高位の共同幻想としてある。そうした国家の国家意志(共同幻想)は、刑法・民法等を規定する法制的中枢としてある憲法として構成される。国家は、そうした観念の共同的形態あるいは共同的な観念あるいはまた観念の共同性として、具体的で現実的な社会に対峙する。こうした人間の部分的な法的政治的な解放における観念の共同性を本質とする法的政治的国家に、大学の場やメディアに登場する知識人たちは、一方通行的に知的に上昇していくその知識の<自然>過程において、無自覚的に、法的言語や政策的言語を介して、支配体制に加担していくのである。したがって、その場合、反体制を標榜していても、反体制ではないのである。A阪神・淡路大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本隆明にわざわざ電話をかけた事態である。その行為に対して吉本は、その牧師は「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義のために脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」、「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」、と述べている。障害児差別撤廃の運動も展開している障害児福祉施設の施設長の講演を聞きに行った私の知り合いの高校教員(キリスト者でも、何教者でも、全くない人である)も、その話しぶりに、吉本とおなじようなこと――高圧的な傾向を感じたことを私に話していたから、啓蒙的慈善家にはこういう傾向が強いと思われる。したがって、ここでは、われわれ自身の立場の確認が問題となる。私たちは、「神への愛」としてのキリストにあっての神を尋ね求めることを、恣意的独断的にではなく、啓示に固有な証明能力、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して尋ね求めなければならないように、その立場は、あくまでも聖書を規準とした、絶えず繰り返し聖書に聞くことによった、そうした仕方で聖書から強いられた、ところでの不可避的な立場でなければならないであろう。私たちの立場は、終末論的限界の下で、あくまでも、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」としての「聖書についての正しい教説の内容」に基づいているものでなければならないであろう。「聖書論が、聖書の正しい注釈の必然的な指数〔代表する目じるし〕であるとするならば、……正しい聖書論は……正しいことの確認を注釈の中に、したがって聖書そのものの中に、繰り返し尋ね求め、見出さなければならない……」。(10−13頁)

 

 このような訳であるから、「聖書論の根本命題」は、「聖書は神の啓示についての証言である」という点にある。この命題は、聖書こそが、「神の啓示を問うわれわれの問いに対して事実答えを与えたということ」、「われわれに対して三位一体の神の支配を〔目の前に〕明らかにしてくれたということ」において「基礎づけられている」。このことは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるということである。言い換えれば、啓示に固有な証明能力、その都度の神の自由な恵みの決断によるイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した啓示認識・啓示信仰の授与、の歴史的現存性ということである。私たちは、このキリスト教に固有な類・歴史性に不可避的に強いられたところで、教会の宣教、キリスト者、の現実的な現存性を構成していくということである。したがって、バルトは、「……もしもわれわれが……われわれ以前に、われわれと共に教会の成員であったし、成員であるものを通してなされた聖書の注釈を尊重し、できる限り実りあるものとしていなかったとすれば、われわれは確かにこの答えをきくことができなかったであろう」、「われわれが神の啓示を問う時に、われわれが問うことが聖書の中でわれわれに対してあらかじめ語られているということ……に基づいてだけ」、「教会は注釈できるし、われわれ自身も注釈ができる」、すなわち「(≪それ自身が聖霊の業である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯して、絶えず繰り返し、それを媒介・反復することを通して、キリストにあっての神を尋ね求めるところの≫)教会の中に権威と自由がある……」、と述べたのである。聖書には、教会が「必ずや聞かなければならない証言が存在する」し、また聖書から、私たちは、「われわれ自身の証言」も、「要求されている」のである。このような「教会の中にある必然的な権威および……必然的な自由についてのすべての命題」は、「教会が聖書の中で神の啓示についての証言をうけとる中」で、「教会のために神の言葉が存在するという根本命題……の注釈であることができるだけである」。

 

 さて、マルクス(エンゲルス)は、『ドイツ・イデオロギー』で、「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」、と述べている。この市民社会の経済的カテゴリーである「材料、資本、生産力」の概念は言語、性(夫婦・家族)の概念に置き換え可能である。人は、自分の意志とは無関係に、ある親のもとである不可避的な歴史的現存性の中に生誕し、個――現存性と類――歴史性を生きる。ここで、私たちは、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復するというバルトの認識方法・概念構成と「これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」と述べているマルクスの認識方法・概念構成が類似していることに気づくであろう。バルトは、この場合、次のように言うであろう――マルクスのその認識方法と概念構成は正当性がある、しかし、マルクスのその人間の自己認識・自己理解・自己規定は、ほんとうは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定としてるある、と。『神の言葉』論では、例えば、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして理解されなければならない、というように述べられている。

 

 さて、「われわれが聖書をまさに神の啓示についての証言と呼ばなければならない」と同時に、私たちは、「聖書そのものを啓示から区別」しなければならない。なぜならば、区別しない場合、そこでの、神、啓示、は、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」、人間自身の対象化された自由な自己意識の類的本質・無限者・意味的世界に過ぎないものとなってしまうからである。すなわち、バルトは、この「区別」の概念において、聖書は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、啓示の実在そのもの、ではなくて、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」(啓示に固有な証明能力に基づいて授与された、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)である、ということを述べているのである。その「制限」性を述べているのである。したがって、そのことについて、バルトは、「われわれが聖書の中で、人間的な言葉によって人間によって書かれた言葉に出会い、それらの言葉の中で、したがって、ほかならぬそれらの言葉の媒介を通して、われわれは三位一体の神の支配について聞いたという事実……に対応している」、と述べたのである。この区別の概念は、バルトの、根本的包括的な原理的な、ブルトマン批判に引き寄せて考えてみると、その重要性がよく分かるのである――「(中略)この(新約聖書の)使信が、まさにイエス・キリストについての使信として、神と人間との間に起った出来事を内容としていることが確かであり、また、この使信が、その形式において、この出来事についての人間による証言であることも確かであるかぎり、われわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能であり、またそうしなければならないことは明瞭である。(≪しかし、第一次的な≫)(中略)他のすべてのものを基礎づけ、制約し、支配するキリストの出来事としてのキリストの出来事を、この証言から取り去って(≪この証言から、「神の言葉の三形態」の第一の形態である啓示の実在そのものを取り去って≫)――その結果、(≪啓示の実在そのものを取り去った≫)この証言を、そこでは第二次的なもの、あの第一次的なもの(≪前期ハイデッガーの哲学的原理、「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕によって対象化された、すなわち人間自身・ブルトマン自身が対象化した人間自身・ブルトマン自身が支配し管理する「存在者レベルでの神」≫)に従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの、に形式変換し、転釈するという場合、その使信をゆがめ、切りちぢめることにならざるをえない……」、と(『ルドルフ・ブルトマン)。このバルトの根本的包括的な原理的なブルトマン批判は、正当性があるのである。<自然神学>の<段階>で停滞し循環しているブルトマンの人間学的神学の水準をハイデッガーも見抜いていて、ハイデッガー自身も、「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマンのその学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と揶揄・批判したのである。こういう神学の水準の実態を知る時、私たちは、即自的な欧米依存<主義>の状況論なき思想なき中世的思考に停滞した神学者の佐藤司郎や小泉健の人間学に対する神学の「優位性」論は、出鱈目な戯言でしかないことを実感的に認識することができるのである。

 

 しかし、啓示の「概念の実在」としての聖書における「証言の概念」は、あの「制限の意味をはっきりと念頭に置く時にこそ、また最高に積極的なことを語っている。すなわち、聖書は啓示についての「人間的な言葉である限り、聖書は啓示」ではない、しかしこの人間の言語を介した啓示の「概念の実在」としての聖書の「根拠、対象、内容」が「啓示の実在」(単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト)そのものである限り」、「聖書と啓示」の間には啓示に固有な証明能力に基づく媒介的な「単一性」があるのである――この「制限」性において、それ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の第二の形態である「聖書は啓示とまさに区別されていないばかりでなく、むしろ聖書は(≪啓示に固有な証明能力に基づいて≫)われわれのところに来、われわれに自分を伝達し、したがってわれわれにとってふさわしい啓示」、「自分自身預言者や使徒でないし、したがって決して一回的な啓示のじかの、直接的な受領者、イエス・キリストの甦りの証人、ではないわれわれにとってふさわしい啓示」、「以外の何ものでもないのである」。ここで、バルトは、啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与を媒介とした「証言の概念」を、区別を包括した同一性、すなわち聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する、ということ、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である、ということ、その神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)――人間に向かって語られた神の自己啓示であるイエス・キリスト(啓示の実在そのもの)と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてある、ということを述べているのである。ここで、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、区別を包括した同一性における神の言葉である。神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味している。この単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。

 

 「聖書の中に書かれている預言者と使徒たちの言葉……の中で預言者と使徒たちは、啓示のじかの、直接的な証人としてわれわれに対して生き続けるのであり、それらの言葉を通して彼らもまたわれわれに対して語って来るのであるが、その預言者と使徒たちの言葉……の媒介を通して、聖書はまたわれわれにとっても啓示である」。このように啓示を聞き受け取る時、「われわれは……単に三位一体の神の支配について聞いたというだけでなく、むしろ……三位一体の神の支配がこの媒介を通してわれわれ自身にとって現在となり、出来事として起こったのである」。言い換えれば、その時には、三位一体の神の支配が、「単なる知識」としてではなく、啓示「認識」・啓示信仰の出来事として自分のもとにやってきたのである。すなわち、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰となるのである。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである。(13−16頁)

 

 前述したことから、聖書は、私たちに対して、その「神聖性」・「神的なもの」性、と、「書物性」・「人間性」との構造として置かれている、と言うことができる。言い換えれば、聖書は、啓示に固有な証明能力、その都度の神の自由な恵みの決断による、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与された、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰についての人間の言語を介して書かれた書物、すなわちイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」・「啓示証言」としての<啓示>(「神聖」・「神的なもの」)の「<概念>(人間の言語を介して著わされた書物、人間性)の実在」である。一方で、書物性・人間性・人間的側面を持った「神の言葉の三形態」の第二の形態である聖書は、他方で、「言葉として〔ひとつの〕事柄を、〔ひとつの対象〕を指し示している」、すなわち「神聖性」・「神的なもの」を指し示している、すなわちまた単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト――客観的な啓示の実在そのもの・「神の言葉の三形態」の第一の形態を、指し示している。私たちは、このようにして、啓示証言としての「聖書を読み、聞き、理解しなければならない」。したがってまた、聖書を「歴史的に(historisch)読み、理解し、注釈しなければならないという要求は、正しい要求」である。ただ史実史としての歴史(Historie)を絶対化する一つの<宗教>としての歴史<主義>には注意が肝要である。なぜならば、歴史<主義>は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをするからである。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜならば、啓示は、人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある。言い換えれば、聖書を「歴史的に」読み、理解し、注釈するということは、史実的に正しい内容だけが重要である、とうことではなくて、肝要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」について語っている、という点にある。なお、歴史<主義>に対する根本的包括的な原理的な批判は、人間学的領域でもなされている――@フーコーは、「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の方法について論じ、「ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域から引き出しました。(≪しかし、そのことは≫)、全く重大なことではないのです」 (『思考集成IV』「ミシェル・フーコーとの対話」)、と述べている、Aまた、吉本は、「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(『敗北の構造』「南島論」)、と述べている、Bさらにまた、吉本は、「……〈奇跡〉(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、「鶏が三度なく前に私を否むだろう」と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の〈悪〉というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(吉本隆明『〈非知〉へ――〈信〉の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」)、と述べている。

 

 このような訳であるから、「〔われわれに向かって語れた人間的な〕言葉を理解する」とは、「われわれが人間の言葉という手段を通して言い表されている」こと、「あるいは意図されている」こと、を、「何らかの程度において自分で見て取るようになることが出来事となって起こる」ということであり、それゆえにそういう出来事が起こるところでだけ、その言葉は、「意味深い仕方で語られ」た、ということができる。その時だけ、「他人はわたしに向かって何ごとかを語ったのであり、……わたしは彼から何ごとかを聞いたのである」。すなわち、その時だけ、「わたしに向かって語られ、わたしによって聞かれた事柄」だけから、その語られた「言葉と語る主体とを探究しようとこころみるであろう」し、その「探究の結果」は、その「人間的な言葉についてわたしが注釈することであるであろう」。言い換えれば、これらのことは、聖書解釈に引き寄せて言えば、啓示に固有な証明能力に基づいて、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、聖書を聞き・理解し・注釈することが肝要である、ということを意味しているであろう。ここに、「人間の言語の本質等についての一般的な考察、つまり一般的に可能な考察、から発生したものではない」ところの、「聖書によって指示」された「解釈の原則」が、「解釈学的な原理論」があるだろう。その原則、その原理論は、「人間的な言語によって語られ、表示され、言おうとされていることがまさに神の啓示であるという前提」の下で、その言葉を「聞くこと」は、「人間的な言葉を通して啓示を知るようになること」であり、「理解すること」は、「人間的に具体的な言葉を啓示から……究明すること」であり、「注釈すること」は、「言葉をそれと啓示との関連において説明すること」である、という点にある。「まさに聖書の中でこそ、人間的な言語はその正常な意味と機能を果たしているのが示される……」・「まさに聖書の人間の言葉に照らしてこそ、人間の言葉に関して一般的に学ばなければならないことが学ばれなければならない……」。このことで、バルトは、次のような事柄について述べているのである。すなわち、バルトは、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ということ、それゆえに「世、歴史、社会」は「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」であるということ、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということ、それゆえにイエス・キリストにおける啓示の場所は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であるということ、それゆえにまた例えば、先にも述べた『ドイツ・イデオロギー』にあるマルクスの言葉を正当性のある人間的真理として、信仰の類比・関係の類比において、「正直に受けとることができる」ということ、を述べているのである。また、このイエス・キリストの啓示の場所においては、万物に質量(重さ)を与える根元であるヒッグス粒子の概念も、その現にあるがままに、人間的自然として「正直に受け取ることができる」のである。また、ヒッグス粒子の概念やiPS細胞に関する科学や技術の進歩発達およびその知識の増大は、自然史的必然に属する事柄であり、停滞したり逆行したりすることはあり得ないのであるが、しかしそれは、人間によって対象化された自然・人間的自然でしかないものであるから、私たちは、ヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果等を、人間の全自然との対象的活動に基づいて得られ人間的自然としての人間的真理・知識として「正直に受け取ることができる」のである。このようなわけであるから、バルトの場合は、科学(科学<主義>をではない)も尊重しなければならない、マルクス(マルクス<主義>をではない)も尊重しなければならない、国家論・革命論(国家<主義>をではない)も尊重しなければならない、それらとの相互理解と相互協力と混合・折衷が必要である、などという馬鹿げた戯言を言う必要がないのである。なぜならば、バルトの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体が、前述したようにそれらを、また神学的実践も含めて包括できるように構成されているからである。それに対して、ブルトマンの場合はどうか――ブルトマンの実存論的聖書解釈においては、聖書記事は、そして新約聖書の使信そのものも、その表象形式の神話も、人間自身が対象化したそれであり、人間自身の自己理解の表明であり、それは、不信・非本来性から信・本来性への実存的移行の表明であり、言語によって対象化された実存の表明、すなわち聖書記者たちの実存的主張であるから、そのように「理解し、解明」されなければならないものである。ここに、ブルトマンの聖書解釈における前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化することに基づく「絶対」的規準としての「先行的理解」・「解釈学的原理」がある。このように、ブルトマンは、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの実存主義に見出したのであるが、ブルトマンの場合、その存在、その現前性、その被制作性、その被企投性、その言語、そのシンボル体系、その不可避な類・歴史性の第一次性を自覚した、すなわち人間中心主義的な人間的現実存在(思索者・詩作者)の自由なその思考、その現存性、その時間化(差異化)と存在了解、その企投性の限界性を自覚した後期ハイデッガーの転回によって、言い換えれば、個と類・歴史性と現存性が出会う出来事・「存在の生起の出来事」を自覚した後期ハイデッガーの転回によって、バルト自身も述べているように、ブルトマンはハイデッガー自身によって足をすくわれてしまった、と言うことができるのである、ブルトマンの場合、それで終わりである。自然時空に死語化していく以外になかったのである。したがって、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会の神学」と教会の宣教・それに類する神学と教会の宣教、その担い手の神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家たち、すなわちリアリティなき神学と教会の宣教やリアリティなき空論家たちの間でだけ、生き延びることができるだけなのである。

 

 このような訳であるから、「われわれが聖書を人間的な言葉として聞き、理解し、注釈しなければならないということ」を、「もっと精密に解明」しようとする場合、「われわれは、聖書がわれわれに向かって人間的な言葉として語っていることを聞かなければならない」・「われわれは、聖書を人間的な言葉としてこの語られたことから理解しなければならない」・「われわれは、聖書を人間的な言葉として、この語られたことの関連の中で注釈しなければならない」。なぜならば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からであり、「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるからであり、またどのような「教義学」も、「教会的な教義」も、「啓示自身からの命令」を「完全に一義的に」「厳守」することはできないからである。したがって、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」しなければならない。教会の一つの機能である教義学を、「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、<絶えず繰り返し>、聖書が語っていることを聞かなければならない、聖書に語られたことから理解しなければならない、聖書に語られていることに即して注釈しなければならない。このことについて、バルトは、『ルドルフ・ブルトマン』において、ブルマンを根本的包括的に原理的に批判するという仕方で、次のように述べている――「(中略)この(新約聖書の)使信が、まさにイエス・キリストについての使信として、神と人間との間に起った出来事を内容としていることが確かであり、また、この使信が、その形式において、この出来事についての人間による証言であることも確かであるかぎり、われわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能であり、またそうしなければならないことは明瞭である。(≪しかし、第一次的な≫)(中略)他のすべてのものを基礎づけ、制約し、支配するキリストの出来事としてのキリストの出来事を、この証言から取り去って(≪この証言から啓示の実在を取り去って≫)――その結果、(≪啓示の実在を取り去った≫)この証言を、そこでは第二次的なもの、あの第一次的なもの(≪前期ハイデッガーの哲学的原理、「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕によって対象化された、すなわち人間・ブルトマン自身が対象化した「存在者レベルでの神」≫)に従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの、に形式変換し、転釈するという場合、その使信をゆがめ、切りちぢめることにならざるをえない……」 (『ルドルフ・ブルトマン)、と。すなわち、その都度における神の自由な恵みの決断による「神の語り、行為、秘義」である神の言葉(啓示)は、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて「聞かれ」「信じられる」のであるから、人間の意識や教会に内在的に存在している実体ではないし、人間的な「証明を必要としない」のである。したがって、教義学的教義は、「ただ、啓示の真理の方」へ、「努力しつつ」、「向かっている」、「語ろうとしている」、その希求のもとでの認識・概念・教義である。しかし、ブルトマンは、前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化・第一義化することで、恣意的独断的に第一次的なもの(啓示の実在そのもの)を捨象してしまって、新約聖書の使信を第二次的なものとし、「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された啓示、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」、人間の対象化された自由な自己意識の類的本質・無限者・意味的世界を第一次的なものに形式変換したのである。したがって、ブルトマンにおける啓示認識の対象は、常に人間的な使信(対象化された人間自身の自由な自己意識の類的本質・無限者・意味的世界、人間の自己理解の表明、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」)であり、そうした人間的使信の連続性でしかないのである。この場合は、まさしく、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものとして、「神学の秘密は人間学以外の何物でもない」というそれでしかないものとなるのである。また、ブルトマンは、「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」と語るのであるが、バルトは、「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」――否である、私たちは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」、と語るのである。また、バルトは、「カルヴァンが、聖書的な人間」、その「人格と敬虔性」を「考察の中心に置いているそのような聖書の説明を、聖書自身によって排除された考察方法であるとみなしている時、……歴史的観点のもとでも……彼は正しかったのである。そのような聖書の説明の仕方を教皇教会の教えの間違った意図と結びつけた時、やはり彼は正しかったのである」、と述べている。さらバルトは、正当性のある、ルターとカルヴァンの聖書の歴史的理解について、彼らの言葉を引用している――「(ルター)パウロハ自分自身ト天カラノ御使ト地上ノ博士ト、ソノホカソレガ誰デアロウトスベテノ教師ヲ、聖書ノ権威ノモトニ服セシメテイル。(中略)彼ラハ……タダ聖書ノ証人、弟子、告白者デナケレバナラナイ。(中略)マタ教会ノ中デハ神ノマジリケノナイ言葉以外ニハ、スナワチ聖書ノホカニハ、イカナル教理モ教エラレ、聞カレテハナラナイ。サモナケレバ教師モ聞キ手モ、ソノ教理モロトモ呪ワレルベキデアル。(中略)神ハワレワレガペテロヤパウロノ人格ノ中デ使徒ヲ敬イ、崇メルノデハナク、彼ラノ中デ語ルキリストヲ、マタ彼ラガワレワレニ宣ベ伝エ説教スルミ言葉ヲ敬イ、崇メルコトヲ欲シ給ウ」・「(カルヴァン)聖パウロガ、コレラノ聖句ノ中デ、ワレワレガ聖書ガ何デアルカヲ確実ニ判断スルコトガデキルタメニ、モーセハスグレタ人物デアッタト言ッテイナイシ、イザヤハスバラシイ雄弁ノ才ヲモッテイタトイウコトモ言ッテイナイシ、彼ラノ人柄ヲ重ンジテ〔用イル〕タメニ人々ニツイテ何カヲ語ッテハオラズ、ムシロ彼ラハ神ノ霊ノ道具デアッタト言ッテイルトイウコトデアル。彼ラノ口ヲ通シテ神ガ語リ給ウタ、ソレ故ワレワレハ死ヌベキ被造物トシテノ彼ラニツイテ考エズ、ムシロ生ケル神ガ彼ラヲ用イ給ウタコトヲ知リ、ソレデアルカラ彼ラハ自分タチニ委託サレタ宝物ノ忠実ナ管理人デアッタト結論シヨウ。(中略)確カニ彼ラ(≪「教皇主義者タチ」≫)ハ神ノ御名ヲ呼ビ求メル。シカシ彼ラハ自分タチノ夢や空想ヲ並ビ立テテイルノデアッテ、ソレガスベテデアル……。ソレニ対シテ、聖パウロハワレワレニ向カッテ、聖書ヲ心ニトメテイナケレバナラナイト語ッテイル。(中略)(≪その都度の神の自由な恵みの決断によって、啓示自身の持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、≫)神ガ語リ給ウノデアッテ、人間ガ語ッテイルノデハナイカラデアル」。

 

 因みに、日本キリスト教団立東京神学大学の教授の小泉健は、次のように述べている――ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、聖霊と神の言葉を人間の自由事項の対象としてしまって、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的断定的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させて述べている。しかし、ほんとうは、次のように言うべきである――ある人間を介した人間的な語りが、説教が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないのである。したがって、ほんとうは、次のような原則と作業を必要とするのである――@聖書は旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わる。この聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の客観的実在であるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である。なぜならば、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからである。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」、A「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」(@とA共に、『啓示・教会・神学』)、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して啓示認識・啓示信仰が授与されるという、その作業を必要とするのである。こうした原則と作業を念頭に置いて、バルトは、ルターとカルヴァンを引用しているのである。この原則と作業の認識と自覚が、小泉健には抜け落ちているのである。もちろん一方で、ある社会構成や支配構成や文化構成の時代水準のただ中を<生き>・<生活>したバルトは、当然にも、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。このことが、「カール・バルトの神学の構造上の致命的欠陥はどこにあるか」という出鱈目なバルト論を展開していた、またそれだけではなく、「私の意図は、神学研究におけるフェアネスはどうすれば確保しうるのか、テキストを読まないで批判する人々のアンフェアな姿勢をどうすれば正すことができるのかについてのささやかな問題提起です」と誠実さを売りにしていた、ファン・ルーラー信奉者の牧師・関口康には、分からないのである、理解することができないのである。先にも述べたことであるが、論理・理論が先行し過ぎるバルトは生活を重視していないというような馬鹿げた戯言を述べていた関口のような牧師に対して、バルト自身は、次のように言うのである――「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた。現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて、私の本を読んだ多くの人々の頭のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした人々(≪牧師、神学者、キリスト教的メディア的著述家、抽象的空論的な大学社会のキリスト教関係研究者≫)の頭のなかにのみ存在していたのである」、A「私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということである。いわゆる『宗教』が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、……神の言葉こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、維持し、支えてきた神の言葉、聖書において人間に……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……神の言葉、神との関係における人間の秘義……ではなくて、人間との関係における神の秘義である神の言葉……それこそが常に私の思惟の対象なのである」 (@とA共に、『バルト自伝』)、B「(≪ある質問者が、バルトは≫)『抽象的』とか『理論的』とかいう言葉をお洩らしになったが、私(≪バルト≫)も多少は、経験を持っているということを、信じていただきたい。私もまた、一人の近代人であり、私もこの時代に立ち、この時代の問題を、やはり見ている。生活の問題が重大であるということを、私に向かってそれほど熱狂的にお教えになる必要は、恐らくないのである。否、私にもやはり、生きねばならぬ自分の実際生活があり、しかもそれは、激烈な現代のただ中においてである。(中略)すなわち、諸君がここで耳にされたようなところに私が達したのは、ほかならぬこの生活においてであり、ほかならぬ近代世界との対決においてなのだ」(『証人としてのキリスト者』「討論」)。(16−24頁)

 

 一般に妥当する「解釈学的な原理論」・解釈の原則は、「わたしが」聞いた(読んだ)ところの、その表現された、「言葉に基づいて、言葉から、わたしは、私に向かって語られていること(≪事柄≫)を理解する」、という点にある。言い換えれば、それは、私が、「わたしの立場」を、その表現された「言葉」および表現した「主体」の外部に置くことによって、すなわちその「言葉でもって言い表された、あるいは意図された事柄」を「探究すること」によって、言い換えれば対象的に関係づけられて存在する前に個体は個体として自己に関係づけられるから、それゆえにそのことによってはじめて対象的に関係づけられるというところで、それを対象的に扱うことによって、「私に向かって語られていること(≪事柄≫)を理解する」、という点にある。「われわれは、聖書がわれわれに向かって人間的な言葉として語っていることを聞かなければならない」・「われわれは、聖書を人間的な言葉としてこの語られたことから理解しなければならない」・「われわれは、聖書を人間的な言葉として、この語られたことの関連の中で注釈しなければならない」――このことは、キリスト教会が聖書から得た、それゆえに教会にとって不可避的な解釈学的命題であるが、また「一般に妥当する」「解釈学的根本命題」でもある。したがって、「聖書についての〔教会の〕教説」の「聖書は神の啓示についての証言である」という「解釈学的根本命題」は、「一般に妥当する」「解釈学的根本命題」の「特別な内容以外の何ものでもない」。したがってまた、教会は、「聖書のすべての読者」が「なす理解は、聖書の中で語られていること」、すなわち「神の啓示に基づいていなければならないことを要求しなければならないのである」。言い換えれば、恣意的独断的にではなく、それゆえに絶えず繰り返し、啓示に固有な証明能力に基づいて、啓示の主観的可能性としての<不可避的な>キリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して理解しなければならないのである。したがって、それ以外に「正当な、聖書の理解の仕方があるなどということ」、「例えば、聖書を聞き、理解し、注釈するに際して、……聖書の中で語って来る人間性(≪この場合、例えばパウロの人間性が発言してくる。しかし、パウロ自身は、「自分自身について語」ったのではなく、すなわち自分自身の歴史や「自己表現としての宣教」を企てたのではなく、あくまでもその「言葉の中で言おうとされている、……言い表されている……、……事柄あるいは対象」――「神の啓示について語」ったのである、≫)そのものに固執することが……正しく、可能であるということは、(≪先にカルヴァンも述べていたように≫)決して認めることはできない」ことなのである。

 

 「神の啓示、み言葉の中での、聖霊を通しての、三位一体の神の支配こそが語られていることである時」、すなわち啓示に固有な証明能力、それ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるイエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて啓示認識・啓示信仰が授与される時、その「語られていること」は、「語るものに相対しても、聞くものに相対しても、(<秘義としての「絶対的な」>)主権的な自由を持っている」のである。言い換えれば、そのことは、「それが語られ、聞かれることができるということ、そのことは、それが、そのことを語り、聞くものたちの能力と自由処理の中に置かれ」ていないということを意味している。すなわち、そのことは、「それが……彼らによって語られ、聞かれることによって……それ自身で語ることができるし、またそれ自身で聞かせることができるということを意味している」、啓示の「秘義」としての「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」ということを意味している。「啓示はただ、啓示を通して、聖書の中で語られ、聖書によって語られた事柄として、聞かれることができるだけである。聖書証言は、そもそも証言であるために、また証言として聞かれるためには、それによって証しされているものを通して確認されることを必要としている」。この聖書的証言の「特性」は、「歴史的な理解」においても、「注釈」においても、「いや、まず第一に、まさに注釈」においてこそ、「ただひとつの真理があるだけである」ということを指し示している。したがって、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のである。「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」なのである。すなわち、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づく、それ自身聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通すということが肝要なことなのである。なぜならば、このキリストにあっての神は、人間自身が対象化したところの、対象化された人間の自由な自己意識の類的本質・無限者・意味的世界ではないし、「存在者レベルでの神」では全くないからである。したがって、バルトは、『ローマ書』では、「『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」、と述べ、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』では、「……神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない。われわれは、かれと共に『その世紀の忠実な子』なのである」・「人間の精神や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか、ということを問われなければならない」、と述べたのである。これは、バルトの現在から未来にまで届く状況への発言である。また、バルトは、この聖書論では、次のように述べている――「われわれが勝手に自分にそう思っているだけの聞くことは、実際には、聞くこととわれわれ自身が語ることの奇妙な混合であるだろう。また、この混合においては、……われわれ自身が語ることの方が本来的に決定的な出来事となるであろう」。ここに、<自然神学>の<段階>で停滞し循環し続けている牧師や神学者やキリスト教的メディア的著述家たちの実態があるであろう。フォイエルバッハは、人間の自由な自己意識の無限性・類的本質に注目して、正当にも、このような者たちに対して、次のような、根本的包括的な原理的な批判を行ったのである――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)。

 

 「秘義について知る知識」は、啓示の客観的現実性であり啓示の客観的実在であるイエス・キリスト、啓示の真理、神の自己認識・自己理解・自己規定、啓示の真理、永遠、啓示の時間、超歴史、救済史は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・証言・信仰告白・教義・啓示の「概念の実在」 、人間の自己認識・自己理解・自己規定、人間の時間・歴史の、彼岸・外にある、彼岸・外にあり続ける、ということを認識し自覚している。このことは、啓示自体から与えられた、私たち人間における「終末論的限界」を意味している。またこのことは、まことの神は「聖性」・「隠蔽性・秘義性」を本質としており、その神に対して人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としている、という「神の不把握性」を意味している。この神の不把握性は、単一性・神性・永遠性を本質とするキリストにあっての神についての「信仰命題」であり、一般的真理ではなく、啓示の真理・信仰の真理である。したがって、これらの認識は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて人間が人間的に所有することができる人間の啓示認識・啓示信仰であり、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して初めて得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定である。私たちは、この「秘義について知る知識」の授与において、「テキストを自由に処理しようとする悪い癖」を、「最も為になる仕方で制止されるであろう」。すなわち、この時、終末論的限界の下で、またその聖書理解とその表現が「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないのであるから、それゆえに「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて、「聖書の中で語られている事柄についての知識」を通して、その「事柄に、それであるから神の啓示に、基づいている聖書の理解」を授与されることが許されるのである。このように、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する啓示認識・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。(25−31頁)

 

 この「秘義について知る知識」においてこそ、私たちは、「啓示自身がもっている啓示に固有な証明能力」と「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」ということ、「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるということを、認識し自覚するのである。「神の啓示が、聖書の人間的言葉の中で、(しかし全くただ、そのような神の啓示だけが)、われわれに対して事実到達することができること…をわれわれから持とうと欲している。聖書の人間的な言葉の中での神の啓示は、ただ単に自分自身で語って来、自分自身聞かせようと欲しているだけでなく、事実自分自身で語って来、自分自身を聞かせることができるのである。それはわれわれにとって事柄となることができる、われわれ自身を即事性へと強いることができる。また聖書の人間的な言葉の中での神の啓示がそのことをすること」によって、「啓示がわれわれに向かって語られるところの人間的な言葉は、開いた仕方で聞かれ、……理解され、正しく……啓示との関連の中で、解釈されることができるのである」。ここでも、「啓示に固有な証明能力」に基づくこと、「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通すということが肝要であることが述べられている。なぜならば、キリストにあっての神は、対象化された人間の自由な自己意識の類的本質ではないし・人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」では全くないからである。聖書の人間的な言葉の中での「神の啓示」・「神の啓示の力」は、「そのほかわれわれに向かって人間によって語られることから区別される」のであるが、このことは、「神の啓示の力」・「その光」こそが、「すべての人間的な言葉が立つようになる標準および法則として明らかになって来る」ということを指し示している。なぜならば、その時、私たちは、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書およびそれに依拠した教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ということ、それゆえに、「世、歴史、社会」は「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」であるということ、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということ、を認識し承認し確認するからである。この場所で、人は、「(聖書の中で既に現在的である)未来を念頭に置いて、……確かにまたホメロスを、またゲーテを、いや、また日々の新聞をも、人がこの未来について何も知らない時と比べて、いくらか違った仕方で読むであろう」。
 このように、今まで述べてきた「聖書的解釈学は、まさによりよい、一般的な解釈学のためにこそ、あえてこの、特別な解釈学でなければないないのである」。聖書に依拠して言えば、ほんとうは、『ルドルフ・ブルトマン』におけるバルトの根本的包括的な原理的なブルトマン批判からも理解できるように、一般的な解釈学が聖書的解釈学を包摂しているのではなくて、聖書的解釈学が一般的な解釈学を包摂している、ということが言われている。このことは、啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、というバルトの信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成からやって来る認識である。なぜならば、再びバルトの『神の言葉』論にある言葉を引用するが、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ということ、それゆえに「世、歴史、社会」は「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」であるということ、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということ、それゆえにイエス・キリストにおける啓示の場所は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所、だからである。(31−34頁)