本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

北海道への旅――「お試し体験住宅」の生活と北海道旅行記(その8) 了

北海道への旅――「お試し体験住宅」の生活と北海道旅行記(その8) 了

 

 

夏にお試し住宅を起点として北海度を旅してから、もうすぐ4月になんなんとする。この記事は、今回で完成させようと思う。

 

7月13日(月):
雨。この日は、名寄市から和寒(わっさむ)町の農村体験交流わっさむエココテージへの移動日だった。この、宗谷本線和寒駅の隣にあるわっさむエココテージの使用料は、3泊4日で21,000円/棟である。まず、このエココテージは、太陽光発電システムを採用し、地中熱を利用したヒートポンプを冷暖房に活用(暖房は床暖房方式)しているということで、実際に、寒い朝晩は、床暖房を利用させてもらった。また、このエココテージの使い勝手について言えば、部屋や台所や浴室やトイレは綺麗で使い心地はよかったし、ダイニングテーブルセットや電化製品や寝具(3ベッド、布団)等も整っていて使い勝手はよかった。しかし、太陽光発電システムによるものだと思うのだが、モーターが高速回転しているような微音が感じられたのだが(細君は感じていなかった)、気にしないようにした。それから、玄関(玄関の突き当たりに、鍵がかかった太陽光発電システムや床暖房の機械室がある)に入ると自然木を使用しているわけではないようなので、少しきつい集成材の匂いがしたのだが(この匂いも細君は感じないらしい)、玄関とLDKとの間には扉があって、玄関以外の部屋ではそのような匂いが全くしなかった。このエココテージの欠点について言えば、持ちこみの電化製品(ホットプレート等)が使えない点、また標準以下の安もののベッドなのかベッドのスプリングが身体に直に伝わって来る点(細君も感じていた)、にある。後者については、押し入れに備えてあった敷布団をさらに重ねて敷くことで解決した。
 このコテージには、13日(月)から16日(木)までいた。

 

 さて、このコテージのチェックインは午後3時となっていた。そのため、この日は晴れていれば層雲峡・黒岳まで行く計画を立てていたのだが、朝から雨が降っていたので、名寄市の徳田地区にあるコインランドリーまで行って洗濯をし、イオンで食材を購入し、それから和寒町に向かう途中、道の駅なよろに寄ってよもぎ大福2個を購入し、昼食は、西條士別店のファーストフードPoPoで、200円のうどん(私)+よもぎ大福、300円のカレーライス(細君)+よもぎ大福で済ませ、チェックインした。

 

7月14日(火):
 晴れ。美瑛町の、ぜるぶの丘(お花畑)に寄り、前田真三写真集「塔のある丘」で有名らしい(らしいというのは、私はこの写真集を知らないから)塔のある美馬牛小学校の横を通って(全くの偶然でこの小学校の横の道を通った)、今日の目的地の四季彩の丘(お花畑)に向かった。四季彩の丘は、お花畑の規模が拡大されていた。また、ここにも(ここにもというのは、ぜるぶの丘にも沢山いたから)、中国系の人たちが沢山訪れていた。

 

ゼブルの丘です。ここだけでなく、いろんなところで、中国系の人たち(中国本土? 香港? 台湾?)は、一般の人でも女性は、花を背景にモデルのようなポーズをとって写真を撮っているのを何度も見かけました。

 

これが近くで撮影した尖塔のある美馬牛小学校です。

 

四季彩の丘です。私にとっては、この美瑛町の四季彩の丘は、いつ訪れても楽しいし、楽しく感じられる場所です。好きな場所です。四季彩の丘の入口を入ってすぐのところに植えられたルピナスです。向かって左側に小さなアルパカ牧場(有料)があります。

 

四季彩の丘の花菱草です。その1枚下の写真は、以前訪れた時に撮った十勝岳連峰を背景にしたお花畑です(この日訪れた時は、十勝岳連峰は雲に隠れてしまって見えませんでした)。
四季彩の丘の花菱草です。

 

四季彩の丘のナデシコです。

 

四季彩の丘のデイジーです。正式にはシャスタ・デイジー、と言うらしいです。

 

 昼食は大分遅くなってしまったが、美瑛白金四季の森ホテルパークヒルズ(源泉掛け流しの白金温泉で、何回か宿泊したことがある)でカレーライスを食べた。私は野菜カレー865円を食べることにしていたのだが、肉好きの細君が間違えて美瑛牛カレー1,200円を注文してしまった。昼食を済ませてから、十勝岳の登山口の一つである望岳台まで行った。ここはいつ訪ねても風が強い。しかし、ここも、私の好きな場所である。ほんとうは、さらに上富良野町十勝岳温泉凌雲閣まで足を延ばしたかったのだが、時間のことを考えて行くことを諦めた。ここには、かつて一度訪れたことがって、露天風呂からは、間直に、十勝岳連峰が眺められる。また、ここにも登山口があって、駐車場も完備されていた。

 

望岳台です。向かって右側に十勝岳登山道があります。拡大すると、十勝岳連峰の主峰・十勝岳の噴煙が見えます。2日前から警戒レベルが上がっている、ということでした。

 

7月15日(水):
 和寒町は曇り空。しかし、この日の目的地の層雲峡・黒岳周辺は風が強く晴れていた。層雲峡にあったセブン・イレブンで北海道男爵フックラ牛肉コロッケ88円・ハムとタマゴのサンド270円・お握り3個370円・お茶を購入し、大雪山層雲峡・黒岳ロープウェイ乗り場に向かった。車は、ロープウェイ乗り場まで少し歩かなければいけないが、その手前にある広い無料の層雲峡駐車場に駐車した。そこで登山靴に履き替え、ロープウェイで層雲峡駅から黒岳駅(5合目)まで向かった(往復1,950円/人)。中国系の観光客と共に欧米系の観光客もいた。黒岳駅に着いて、そこで昼食をとったのだが、それでも強い風が吹いていたので、黒岳頂上までの登山は諦めることにした。下に載せた黒岳案内板(写真)を見ていただけば分かるように、以前登山した時には、リフトで7合目まで行き、そこから頂上まで登った。それは、穏やかな日だった。写真では、7合目から所要時間1時間30分となっているのだが、私の場合は2時間を要した。このような訳で、今回は、5合目黒岳駅遊歩道を散策することにした。

 

黒岳駅にある黒岳案内板の写真です。

 

分かり難いかもしれませんが、中央黒岳の真中あたりを拡大すると7合目にあるリフトの駅と登山道が見えます。

 

黒岳駅のすぐ近くに咲くチシマノキンバイソウ(黄色)とオオタカネバラ(赤色)です。旭岳の姿見駅周辺に広がるお花畑のような広大さはないのですが、これ以外にもさまざまな花が咲いていました。大雪山系のお花畑の、その広大さ・その花の種類の多さは、やはり日本一ではないでしょうか。旭岳もそうでしたが、登山者の数も程々でちょうどいい感じです。

 

黒岳駅から望むことができる層雲峡方面の眺めです。

 

層雲峡に戻り、最も高台にある源泉掛け流しのホテル大雪の日帰り入浴(単純硫黄泉、層雲峡を眺められる、露天風呂もある、800円/人、この時の利用者は私の後から入って来た欧米系の若者一人と私だけだった)を利用してから、エココテージに戻った。

 

7月16日(木):
 晴れ。この日は、苫小牧港から家に帰る日であった。この日は、11時頃に旭川市の回転寿しトリトン(北海道で一番うまい回転寿司らしい)で早めの昼食をとって、上富良野町のかんのファーム(お花畑)に寄り、またこの日行くことにしていたファーム富田(お花畑)に寄り、それから占冠ICから道東自動車道で苫小牧港に向かうことにした。
 まず、回転寿しトリトンについて言えば、北海道で一番うまい回転寿司ということで食べに行った。私の食べた感想から言えば、現時点においては、今までいろいろな回転寿司店に行って食べてみたのだが、このトリトンは、シャリ・ネタ共に一番うまい回転寿司店と言うことができる。回転寿司ではない、一般的に有名店と呼ばれている寿司屋にも数回行ったことがあるが、どの店も、<高い>とは思えても・まずくはないが<うまい>とは思えたことがない、標準だった。もちろん、私が行ったことがないだけで、ほんとうに最高度に<高く>て・ほんとうに<うまい>と言える寿司屋があるに違いとは思うのだが、私はそういうところに行ったことがないので、私にはよく分からない。ただ、私は、例えば初競りで200kg超えの青森県大間産のクロマグロが1億円を突破したというニュースを聞いた時、吉本隆明が『マス・イメージ論』で論じていたことが頭を過った。すなわち、高度消費資本主義社会は現実的な衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、身体的な肺病等に代わって正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落すということ、このことは消費資本主義の「高度な資本システム」的必然がもたらす無意識世界(システム価値・共同幻想)が人を動かしている事態であるということ、その「システム化された文化の世界」(≪無意識世界の共同性≫)は、意識的に対応可能な「制度、秩序、体系的なもの」・「物の系列」に「マス・イメージ」を付加することを強いて「虚構の価格上昇力」を形成するということ、例えば労働量・労働時間が同質・同量の化粧品であっても、それが一流銘柄の・また見た目に美しい色や形の容器に入れられることで実質的な交換価値とは別のイメージ価値がその商品に付加されるのであるが、その場合その商品は、衣食住に必要な商品である前にイメージとしての商品・ブランドとしての商品であるということ、そうした商品がマス・メディアを通して毎日のように流され続けていくために、大衆の無意識世界にそうした商品を身に付けたいという欲望を生み落としていくということ、その場合、無意識に「そうやってしか存在できなくなったとすれば」、その事態は、自分の意志によるのではなく「システムの意志によっている」ということができるということ、が頭を過った。このような訳で、私にとっては、安心安全な食材を使った、ほんとうに<うまい>と感じさせてくれる、でき得る限り<安い>寿司を提供してくれる店であれば、それが一番いいし、それでいいのである。このことは、うな重(うなぎ屋)等々でも同じことである。

 

ファーム富田の写真です。。観光バスがたくさん駐車しています。私にとっては、この中富良野町のファーム富田は、美瑛町の四季彩の丘と同じように、いつ訪れても楽しいし、楽しく感じられる場所です。好きな場所です。ここを訪れた時は、いつもソフトクリームとメロンを食べます。

 

十勝岳連峰(主峰十勝岳)を背景にしたラベンダー畑の写真です。

 

大雪山連峰(主峰旭岳)を背景にした写真です。いつ行っても中国系の観光客が多いです。写真に横並びに景色を眺め写真を撮っているのは、言葉から中国系の人たちでした。

 

 さて、最後になったが、私は、体力維持のために、家の方でもアップダウンのある道を毎日1時間近く歩いているのだが、北海道での生活においては、携帯電話の歩数計によると、毎日一万歩には達しなかったが少なくとも毎日八千歩前後は歩いいていたことになる。そのため、不眠症気味の私も、夜、よく眠ることができた。家にいる時の就寝は12時前後なのだが、このお試し住宅では歩き疲れて・また自動車の運転で疲れて(細君は免許証を持っていても運転をしない)、夜10時過ぎには自然と眠くなって眠ることができた。また今回初めて、お試し住宅を実際的に体験してみたのだが、団体ツアーやホテル宿泊旅行では不可能な、さまざまな体験をすることがができた。
 確かに、東京はさまざまな面で魅力的な都市ではある。しかし、北海道も、冬を除けば、政令指定都市の札幌市もあって、またその札幌市にも日帰りで行くことができて(このことは重要なことだと思う)、魅力的な地域である、と言うことができる。私と同じ年齢で、東京の銀座で生まれそこで育って現在もそこで居住している何十年も前の女優・和泉雅子は、士別町に別荘(マークン山荘)を持っていてそこで半年か何月かを過ごすという、その二重生活の持続の根拠は銀座居住にあるという記事を読んだことがあるのだが、それは、正直な発言だと思う。東京のような大都会ではないのだが、ましてや銀座のような地域では全くないのだが、私もまあまあ都会的な名古屋で生まれ名古屋で育った者であり、その標準的な地域の家のすぐ近くには、菓子屋やまんじゅう屋やお好み焼き・焼きそばを食べることができる駄菓子屋や八百屋や佃煮屋や市場や肉屋・コロッケ屋やうどん屋や豆腐屋や牛乳屋や本屋や金物屋や銭湯や映画館や銀行や郵便局や派出所があって、まだ当時は空き地もあった、名古屋駅にも・名古屋の中心の栄にもアクセスが良い地域だった、家のすぐ近くには栄方面行の市バスのバス停もあり、近鉄烏森駅もあった、このような場所で生まれ育った者には、やはり一方において、そのような場所の存在が重要なように思われる。言い換えれば、私が名寄市は良いという時、一方において、札幌市や旭川市を念頭に置いている。私は余剰のお金を持っていないから北海道に別荘を持てないのだが、和泉雅子の場合は、余剰のお金を持っているから、広い土地と大きな別荘(マークン山荘)を士別町に持てたのである・持っているのである。このように認識する私は、お試し住宅が利用できるだけで、満足するのである・喜ぶのである・それだけでいいのである。
 さて、名古屋の私の家の近くを近鉄線と関西線と臨港線が通っていて、真夜中にも聞こえてくる百両編成前後の貨物列車(昔の編成は長かった)が通っていくあの音は、子供の私にとって、夜眠れない時、家族の者が寝てしまって静まりかえった心細さの中では、慰めとなったのである。ただ、私は、近くにある高校に自転車で通っていたのだが、高校へ行くためにはどうしても渡らなければならない踏切があって、しかもその踏切がゆっくりとした速度で走る長い編成の貨物列車のために生じる開かずの踏切であって、何度か高校に遅刻したことがあった(今は高架されている)。余談であるが、当時、この高校は愛知県高等学校教職員組合(愛高教――俗に言う進歩派で、今は衰退しているようである)の教員が多く(当時は愛高教も強かった)、教師たちはすべての面で生徒に対して強圧的・強制的ではなく、自由な雰囲気に包まれた学校だった。それだけでなく、私も教わったことのある東大文科三類卒の現代国語担当の教頭が、私の教わらなかったどこの大学を出たのかは分からない英語担当の校長を授業中に批判していたこと(自分よりも偏差値の低い大学出身の者が校長になって、愛高教で活動していた自分は教頭止まりだという愚痴だった、と記憶している)から想像すれば、また同じ英語の一般教員がその校長が出版した英語問題集に対して、こんな問題集は程度が低いからこの問題集をやっても一流大学には合格できないと批判していたことから想像すれば、倫理政経の教員が今日は午後からデモに参加するから午後の授業は休講とすると教室まできて伝達したことから想像すれば、教員同士も自由な雰囲気の中にあったと言える。学校の管理教育について、ある時期、西の愛知・東の千葉と言われたが(私の高校時代には、このような言われ方はなかった)、この学校については、そのようなことは全くなかったし、全くなかったであろうと確信する。なぜならば、自由な雰囲気の伝統を持っている学校だったからである。その自由な雰囲気は評価できたのだが、予備校にも行かず怠惰で勉強も嫌いだった文系希望の私のような生徒は、私の時に高校での大学受験のための補修授業も廃止されてしまったので(その当時、愛高教の教員の主張が優勢だったのだと想像する)、その点ではよくなかったと言うこともできる。私の場合、学校での学業的勉強は、高校時代にしても大学時代にしてもただ単位をとること・卒業することが目標であったから、勉強は面白いものでも楽しいものではなかった。このような私が、面白くも楽しくない学業的勉強(知識)ではないところの、ほんとうの勉強というもの・ほんとうの知識や思想の在り方というものを教えられたのは、青学時代に出会った、カール・バルトからであり、吉本隆明からであった。ただ、大学の場合は、私は親から東京へ行くのなら経済的援助はしないと言われたから、バルトや吉本から教えられた意味からだけでなく、給付奨学金(学部1年の時の成績が重要)をもらうために、学部1年の時に、学業的成績のために頑張ったのだった(しかし、そのような知識は、社会に出てからも、現在でも、ほとんど役にたたない)。そういう中で、2年生になって少し経った5月の連休明けだったと思うのだが、青学の教務課から下宿先に電話がかかってきて、竹中工務店の竹中育英会奨学金(給付奨学金で、2年生から卒業時まで支給される)に推薦できるがどうするか、と問われたので、すぐに素直に推薦を依頼し、竹中育英会の面接を受けて支給されることになったのだった(この時は、正直、素直に、うれしく思い、よかったと思った、ありがたいと思った)。そして、すぐに、西武池袋線の中村橋にある竹中育英会学生寮に入った(一人部屋で、部屋代無し、食事代のみ、でほんとうに助かった)。自然科学系ではない私は、学業的勉強よりも、というよりも学業的(「何らかの抽象を持って始められ何らかの空論に終わるところの」)勉強(知識)ではなくて、その根のところでは、カール・バルト的、吉本隆明的、なほんとうの勉強というもの・往還的なほんとうの知識や思想の在り方というものに興味関心を持ったし、そのために、自分の能力の限界を自覚していた・自覚している私はほんとうに全く拙いながらも、そういうところで、聖書(神学)および人間や社会や世界や歴史について、そのほんとうのところをトータルに知りたいと思い、そういう知識や思想を求めたのだった。
 かつても書いたことであるが、私にとっては、先ず以て第一義的に重要な事柄は、バルトではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストなのである、そしてそれから、このイエス・キリストとの関係で、カール・バルトが重要なのであり、吉本隆明等々が重要なのである。まさにこの意味において、私は、「法然にだまされて、念仏して地獄におちたからとて、すこしも後悔はしない」と唯円に述べ、機縁による一念義に生きた親鸞のように、私の信仰・神学・教会の宣教については、終末論的限界の下で、徹頭徹尾全面的にバルトの信仰・神学・教会の宣教に依拠するのである。こういう仕方で、私は、「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に連帯するのである。また一方で、私は、この意味において、人間論的人間学的領域においては、吉本隆明等々の知識や思想(その在り方)に依拠するのである。