本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

北海道への旅――「お試し体験住宅」の生活と北海道旅行記(その4)

北海道への旅――「お試し体験住宅」の生活と北海道旅行記(その4)

 

7月5日(日)
 摩周湖――硫黄山も、また屈斜路湖――美幌峠も、阿寒国立公園エリア内にある国立公園である。
 この日は、弟子屈町にある観光牧場900草原に寄ってから、摩周湖第一展望台に向かうことにした。900草原には、パークゴルフ場やレストハウスが整備されていて、私たちが9時30分頃にこの場所に着いた時には、パークゴルフ場ではかなりの数の人たちがパークゴルフを楽しんでいた。私の見たところでは、定年退職した弟子屈町在住の人たちやそうした夫婦の方たちだと思えた。

 

 昼食は屈斜路湖畔でとることにして、摩周湖第一展望台へと向かった。この展望台の駐車場は有料で、硫黄山駐車場との共通券となっている。駐車料金は500円である。そのためだけでなく、硫黄山レストハウスの温泉卵を体験するために、硫黄山にも是非寄っていただきたいと思う。というのは、箱根大涌谷の真っ黒な殻の温泉卵(「茹でる」時に化学反応を起こしてできた硫化鉄の色らしい)と違って、ここの温泉卵の殻の色は黒くはないからである。箱根とは違って、ここは5個入り400円でも売っているが、ばらでも買うことができる(大涌谷の場合、5個入り500円でばら売りはしていなかったように記憶している)。ここを訪れたのは三度目であるが、今回私たちもはじめて買って食べた。「てしかがえこまち・弟子屈町 弟子屈ナビ」によると、硫黄山温泉卵は硫黄山の噴気孔から噴き出す蒸気で「蒸す」のが始まりだったそうである。そして、硫黄山レストハウスの温泉卵は温泉卵をつくる鍋の底に源泉100%の川湯温泉の湯を入れて「蒸」してつくる、ということである。そうだとすると、川湯温泉の泉質は硫黄泉・酸性明礬温泉(アルミニウム―硫酸塩泉のことだとすると)で大涌谷温泉の泉質は酸性―カルシウム―硫酸塩温泉であるから、箱根大涌谷の温泉卵が真っ黒になる原因は「茹でる」という過程を経ているからだし、硫黄山の温泉卵が黒くないのは茹でずに「蒸」しているからだと思われる。また、ここで、ゆで卵の殻の剥き方について、はじめて知ったことがある。それは、ガムテープを使って剥く方法である。その手軽なむき方の写真付きの説明書きがあったので、机の上に置いてあるガムテープを使って、そのようにして卵の殻を剥いてみたのだが、はじめてのせいかうまくいかなかった、手こずってしまった。
 なお、硫黄山は、アイヌ語でアトサ(裸)ヌプリ(山)と呼ばれ、この硫黄山火山群は、火山活動によって陥没・崩壊したカルデラ陥没後の小火山である、ということである。

 

 さて、この硫黄山を訪れる前に、摩周湖第一展望台に行ったのだが、ここはいつ行っても観光客が多い。特に中国本土からか香港からか台湾からかは分からないが、中国人の人たちが多く来ていた。中国人の人たちとは北海道の到る所で出会ったが、大体が、大きな声で話しをし元気で明るい。その観光客の中に、少数ではあるが、欧米系の人たちもいて、若いカップルが自転車でこの標高の場所まで来ていた。私が摩周湖を訪れたのは、今回で三度目である。私は、摩周湖を訪れる計画を立てる時には、いつも、写真でしか見たことがない霧の摩周湖を実際にこの目で見てみたいと思ってそうするのであるが、今回も駄目だった。このようなわけで、私は、まだ一度も霧の摩周湖に出会ったためしはない。いつも大体が、快晴か晴れの空模様である。「てしかがえこまち・弟子屈町 弟子屈ナビ」の記述には、「観光シーズンの5月から10月の半年間で、摩周湖が一日中見える日は100日、時々見える日は50日、全く見えない日は25日ほどです(昭和61年〜平成7年の10年間の平均値)。摩周湖の霧は特に6月から7月にかけ多くなり、この時期には一日中湖が見える日は一月の半分ほどとなり、時々見える日は10日ほど、全く見えない日は6日ほどになります。また、摩周湖では一寸先が見えない濃霧から、急変して素晴しい晴天になることがしばしば起こります」、とあるのだが……。

 

 また、このことも、「てしかがえこまち・弟子屈町 弟子屈ナビ」によるのであるが、アイヌの人たちは、この場所を、「『マシュウ』とは呼ばずに、『キンタン・カムイ・ト(山にある・神の・湖)』と呼んでいたらしい。摩周湖外輪山の最高峰をカムイヌプリ(神の山)と呼び、摩周湖の湖面が海抜351mで「カルデラ壁と湖面との比高は150〜350mに及ぶ」ということから考えても、厚岸町の原生花園あやめケ原のチンベという呼び名が、吉本隆明の『ハイ・イメージ論』「形態論」におけるアイヌの人たちの「形態認識」の仕方に依拠して言えば、自然の地勢の名称である「崖のあるところ」を経て、その場所の固有名詞「チンベ」へと固定化されていったように、自然の地勢の名称である「山にある神の」を経て、その場所の固有名詞「キンタンカムイト」へと固定されていったと言えるのではないだろうか。そうすると、摩周湖という呼び方は、先住していたアイヌの人たちを政治的文化的に支配した和人日本が、摩周湖という呼称を共同規範語とすることで、言語において支配を完成させた、ということができるように思われる。吉本は、次のように述べている――「さねさし相武(さがむ)の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも」(『古事記』)――ここの「『さねさし』は相模につく枕詞であり、アイヌ語の地名によくある『たねさし』と同じで『突き出た細長い土地』という意味」である。この自然の地勢の名称である「突き出た細長い土地」を経て、その場所の固有名詞であるアイヌ語の地名「たねさし」へと固定化されていく過程に、「形態認識」の起源と系列を見出すことができる。「相模は半島のように突き出た場所」であるが、「先住していた人たちは、そういう地形を『さねさし』あるいは『たねさし』と呼んでいた」。つまり、支配としての大和朝廷は、被支配としての先住民(起源としての日本人)の「さねさし」あるいは「たねさし」を枕詞として相模(相武)という言葉に接木することによって、支配と被支配との均衡を企てたのである。このようにして、支配は、被支配の「法、宗教、……風俗、習慣」を、支配の法や言語等の方へと垂直的に集中化させていった、中央集権的に権力を集中化させていった。そうした過程で、被支配の先住民(起源としての日本人)の「さねさし」あるいは「たねさし」という枕詞は削り落とされ、最終的には支配としての言葉であった相武(現在の相模)が共同規範語として存続されていくことになった(『詩人・評論家・作家のための言語論』および『ハイ・イメージ論』「形態論」)。

 

 さて、摩周湖の形成については、「てしかがえこまち・弟子屈町 弟子屈ナビ」によれば――
 「30数万年前(氷河時代)に今の屈斜路湖のあたりにあった屈斜路火山が噴出し、以降巨大噴火を繰り返し」、「膨大な火砕流を噴出して跡地が陥没し、約3万年前(旧石器時代)に『屈斜路カルデラ』が形成された」、「その規模は阿蘇カルデラをしのぐ日本第1位、世界でも有数の大カルデラ」である、その「屈斜路カルデラ形成の反動によって、1万数千年前にできた火山が摩周火山であり、約8千年前ごろまで盛んに噴火を繰り返し」ていた、「そして約7千年前(縄文時代早期)に破壊的な大噴火をおこし、摩周火山はその一生を終えると共に、摩周カルデラを形成した」、「その火砕流は現在の弟子屈市街地に高さ数mの台地を築き、火山灰が根釧原野のほぼ全域をおおう大規模なもの」だった、「その後、約3千年の期間を要し、この大きなくぼみに徐々に水がたたえられ、今より広い摩周湖が誕生」した、「そして約4千年前(縄文時代中期)に摩周岳が噴出し活動を開始」し、「これにより摩周湖の東側約4分の1が埋められ、ほぼ現在の姿」となった。摩周湖外輪山の摩周岳は、「平安時代の大噴火により山頂が破壊され現在の姿となり」、それ以降は、「その活動を休止」している、ということである。
 また、摩周湖が「一定の水位を保ち神秘的な美しい姿として定着したのも」、「平安時代から」である、この摩周湖は「カルデラ湖の特徴を示して」いて、「最深211.4m、平均でも137.5mほど」であり、「人々を魅了してやまない摩周湖の色」――「摩周ブルー」は、「その透明度からきて」いる、その透明度は、摩周湖には「注ぎ込む川がなく、雨がその水源のほとんどを占め」、「そのため不純物が運び込まれず、プランクトンや粘土などの浮遊物が極めて少ない」ことによっている、「摩周湖の源は雨水と雪解け水です。それらは直接湖面に降り注ぐだけでなく、周囲の斜面を伝い湖に入りますが、その切り立ったカルデラ壁の岩盤には水で流される土は少なく、また他の部分の土壌は前述したように、吸収力が高くろ過作用があることから、染み込んだ水が極めて汚染の少ない状態で湖へ入り込みます。摩周湖の美しさはその類い希な環境が作り出した奇跡なのです」、したがって、摩周湖は、「世界的規模の大気汚染の状況を忠実に映し出す鏡」なのである、このため、摩周湖は、「地球の環境変化を知るモニタリング調査の対象となっている」、したがってまた、摩周湖の水質に「影響を与えるもの」は、経済活動等による地球規模の「大気汚染」等の人為的な要因によっている、またこの摩周湖は「出入りする川がない」ため、「元来魚類などは生息せず、エゾサンショウウオだけがいたという珍しい湖」であったが、「大正15年」から「昭和49年」まで「ニジマスやヒメマス等」が放流された、それらは「極端に増殖」はしていないが、「少しずつ増えている……。また、ザリガニもかなり繁殖して」いる。「この放流魚の繁殖が摩周湖の透明度の低下要因の一つという説」がある。因みに、摩周湖の透明度は、朝日新聞によれば1990年代後半からしばしば20mを切るようになっている、このように、「昭和6年には、41.6mという世界一の透明度を誇った摩周湖」も、人間が人為的に自然的循環に手を加えた結果、水質の低下をもたらす結果となってしまった、このようなわけであるから、摩周湖の場合は、小清水原生花園や原生花園あやめケ原とは違う対応を必要とするのである。地球規模で対応をする必要があるのである。しかし、そうだからといって、短絡的に、エコロジーやその極限に想定される天然自然主義を主張することは、根本的包括的に原理的に間違いなのである。それは、次のような理由によっている――マルクスが「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(『資本論』)と述べたことには正当性があるのであり、自然史の一部としての人類史の自然史的過程において、経済社会構成体の拡大・高度化・高次化、科学や技術の進歩・発達、科学的技術的知識の発達・増大、生活の利便性の向上、等は自然史的過程に属すること、すなわち自然史的必然であって、後退させたり停滞させたりすることはできないのであるから、吉本が述べていたように、技術的問題は技術的に解決していく以外にないのである。それが地球規模のそれであるならば、世界的にそうせざるを得ない問題なのである、なぜならば、人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかない」ものである、歴史的現存性とは、人間化され非有機的身体化された全自然・人間的自然を、それが良きものであれ悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことである、したがって、個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである、したがってまた、個人としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、いったんそうした「現実に衝突してからは」人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個の現存を、個性と時代性を、刻んでいく、すなわち、人間の歴史は、「すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」、からである。

 

 摩周湖第一展望台にはレストハウスがあって、ひとり分サイズに切り分けた冷えた北海道夕張メロンが100円で売っていたので、私たちも買って食べた。冷えていて甘くておいしかった。

 

 写真は、前者が摩周湖と摩周岳と小さな中島(カムイシュ――「神となった老婆」という意味らしいです)、後者が硫黄山です。前者の場合はすぐ後方にレストハウスがあります、後者の場合は向かって左手前の後方にレストハウスがあります、また後者の場合は向かって右手前の後方には川湯温泉から硫黄山まで続く2.5kmのつつじヶ原自然探勝路(散策路)があります。この探勝路には、6月下旬から7月上旬にかけて白エゾイソツツジが群生するということです。ゆっくりと探勝していると往復で2時間くらいはかかりそうだということで、ここの探勝はあきらめました。なお、この硫黄山は、アイヌ語でアトサ(裸)ヌプリ(山)と呼ばれています。明治時代には、盛んに硫黄の採掘を行っていたようです。

 

 

 私たちは、摩周湖第三展望台(かつては第一展望台とこの第三展望台まで続く細道の間に第二展望台があったそうです、現在はその痕跡を残していないそうです)を通り、硫黄山に寄ってから、屈斜路湖砂湯にある町営の無料駐車場へと向かった。この砂湯には、白鳥飛来地という看板が立っている(冬は渡り鳥の「オオハクチョウ」が羽根を休めるとあった)。この砂湯には、キャンプ場もあり、整備された、無料の、足湯・トイレ・露天風呂(混浴?)がある。また、この砂湯は、湖畔の砂浜を掘れば温泉(露天風呂)をつくることができるので、子供たちが砂を掘って遊んでいた。私たちは、この砂湯で昼食を食べることにしていたので、中国人の団体客が予約席で昼食をとっていて混んではいたが、砂湯レストハウスで昼食をとった。私はチャーハン、細君はラーメン、を食べた。

 

 さて、弟子屈町の屈斜路湖は、周囲57km、面積79.7ku、最大深度120m、の日本最大のカルデラ湖である。この屈斜路湖という呼称についてであるが、説明書きに基づいて考えると、浜頓別町のクッチャロ湖と語源を同じくしており、先ず以て先住のアイヌ人が、自然の地勢の名称である、「沼の水が流れ出る口」、「湖の水が川になって流れ出す口」を経て、その場所の固有名詞「クッチャロ」へと固定させていった、そしてその地域を政治的文化的に支配した和人日本が、この「クッチャロ」のそばに「昔から有力なコタン(村)があったため」、「屈斜路湖」を共同規範語とした、と言うことができる。したがって、現在でも、学校教育やメディア等においても、共同規範語としての「屈斜路湖」が、その呼称として使われている。
 今回、私が、はじめて知り、へえ! と思ったことは、釧路川が、屈斜路湖を源に流れ出す唯一の川である、ということである、また「国内で本流にダムのない一級河川は、四万十川と長良川と釧路川だけ」である、ということである。
 なお、屈斜路湖には和琴半島があるが、この半島は、「屈斜路カルデラができた後の火山で、今でも全体的に地熱が高く、冬でも多くの場所が凍結しないこと」から多くの生物が生存している、ということである。この和琴半島は、硫黄山火山群と同じように、火山活動によって陥没・崩壊したカルデラ陥没後の小火山である、という。

 

 砂湯で昼食を済ませ、美幌峠へと向かった。美幌峠にはハングライダー(?)・パラグライダー(?)で遊びことができる場所があるのか、ハングライダー(?)・パラグライダー(?)が飛んでいた。また、この美幌峠には、美空ひばりが歌った「美幌峠」の歌碑があって、聞くことができる(YouTubeでも聞くことができる)。この峠とこの峠に吹く風とこの峠から望むことができる風景とこの峠から望む屈斜路湖と美空ひばりの情感豊かな歌声が非常にマッチしていていいのだが、歌詞はよくないと思った。だから、私は、歌詞は聞かないようにして、伴奏と美空ひばりの歌声だけに集中して聞いた。美空ひばりは、情感の出し方が、やっぱり上手いなあ!、と思った。こういう歌手は、今はもういなくなったように思う。
 私の場合はであるが、道東を旅行する時には、必ず、この美幌峠――屈斜路湖、摩周湖――硫黄山、小清水原生花園、知床峠――知床五湖を訪れる。なぜならば、何度訪れても、いいなあ! と思える場所だからである。もちろん、その中には、阿寒湖――オンネトーも入れることができる。それから、今回旅行をしてみて、もうひとつ加える場所が増えた。それは、厚岸町にある厚岸味覚ターミナルコンキリエである。今回ここは、非常に気に入った場所となった。さらに、旭川市においても非常に気に入った場所を見つけたのであるが、そのことはまた後日書くことにしよう。

 

美幌峠から撮った写真です。道路の形状から、この美幌峠が峠であることが分かっていただけると思います。

 

和琴半島と砂湯方面を撮った写真です。湖に突き出た半島が和琴半島です。

 

 峠の展望台からの風景です。この写真は、7日(火)に(道東)中標津町のお試し体験住宅から(道北)名寄市のお試し体験住宅に向かう時、少し休憩をとるために再度寄って撮ったものです。名寄市へ行くには、向こうの方へ下って行くのですが、その風景です。

 

 美幌峠からの帰りに、川湯温泉に寄って、源泉掛け流しの川湯第一ホテル忍冬(すいかずら)で日帰り入浴(13:00から20:00、800円/人、硫黄泉・酸性明礬泉)を済ませてから、家に帰った。疲れたので、夕食は、日本そばを茹でて食べることにした。因みに、川湯第一ホテル忍冬には、貴重品を入れるコインロッカーがないので、このホテルは、貴重品をフロントに預けることになっている。また、入浴可能時間も、夏休の期間は異なるみたい、短くなるようである。このホテルの川湯温泉にはじめて入ったが、養老牛温泉湯宿だいいちのように、まさに温泉という温泉で、清潔感もあって、大浴場の広さも狭さを感じることなく、入浴客は私を含めて二人しかいなかったので、ゆったりと入ることができた。