本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

北海道への旅――「お試し体験住宅」の生活と北海道旅行記(その2)

北海道への旅――「お試し体験住宅」の生活と北海道旅行記(その2)

 

 7月3日(金)の前夜、旅行計画を立てたうえで「お試し体験住宅」に申込んだのだが、旅行計画を立て直し、オンネトー、阿寒湖、野付半島原生花園、霧多布湿原、根室納沙布岬、多和平、は外し、
3日(金)は、裏摩周展望台から小清水原生花園(小清水町)まで行き、その帰りに中標津町の開陽台に立ち寄り、養老牛温泉で汗を流して「お試し体験住宅」に戻り、夕食をとる、
4日(土)は、釧路湿原まで行き、厚岸町にある道の駅の厚岸味覚ターミナルコンキリエで昼食をとり、厚岸町の原生花園あやめケ原まで行き、その帰りに養老牛温泉で汗を流して「お試し体験住宅」に戻り、夕食をとる、
5日(日)は、摩周湖と硫黄山に行き、屈斜路湖畔で昼食をとり、美幌峠に行き、その帰りに、源泉掛け流しの川湯温泉川湯第一ホテル忍冬で日帰り入浴(13:00から20:00、800円/人、硫黄泉・酸性明礬泉)し、「お試し体験住宅」に戻り、夕食をとる、
6日(月)は、羅臼町を通って知床峠と知床五湖まで行き、斜里町ウトロの方からオシンコシンの滝(この滝の名の由来は、「エゾマツの群生するところ」というアイヌ語にあるという)に立ち寄って、その帰りに養老牛温泉で汗を流して「お試し体験住宅」に戻り、夕食をとる、
7日(火)は、道北と道央の境界とも言える名寄市にある「お試し体験住宅」への移動日とする、
という日帰り旅行の計画を立てた。

 

 先ず、次のことを書いておこう――
@源泉掛け流しで泉質も同じである中標津町の「お試し体験住宅」から車で15分くらいのところにある養老牛温泉の日帰り入浴についてであるが、風呂が大き目で清潔感のある養老牛温泉湯宿だいいち(600円/人)の入浴時間は、14時から15時までとなっている。しかし、お客が少ない時は、特別に、それ以外の時間でも利用させてもらえるので、その都度問い合わせるといい。私たちは、6日(月)に、この特別措置で日帰り入浴をさせてもらった。それに対して、風呂の規模が小さく清潔感に少し難のあるホテル養老牛(500円/人)には時間の制限はない。因みに、両者は並んで建っていて、前者の方は建物全体がモシベツ川沿いにある。また、両者とも川沿いに露天風呂を備えているが、前者の方が造りが本格的で入り心地がよい。このような訳で、私は、100円高いが、ゆったりと気持ちよく入ることができる前者の方を薦めたい。
 因みに、養老牛(ようろううし)とはアイヌ語で「エオロシ」(川)の中に突き出た大きな岩の意味らしい。そして、和人が入植して来るまでチャチャ半造というアイヌの長が住んでいて、毎夜のごとくイヨマンテ(熊送りの祭り)が行なわれ、祭壇には熊の頭蓋骨が300体くらい祭られていた、という。この自然との共生を強いられたアイヌの人たちの祭りの意味は、山川草木(自然)に宿るとされる「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」である熊から肉と毛皮の恩恵をもらったうえで、また再びその恩恵をもって帰って来てもらうために、その霊を神々の世界(自然)に送り返す、という点にあると言える。 
 なお、湯宿だいいちには、シマフクロウがロビーの窓越し近くにまでやって来る。私たちは、6日の夕方、特別に日帰り入浴させてもらった時に、運よく、シマフクロウを間近にみることができた。
Aガソリンの給油についてであるが、7月1日から16日までの間、北海道を車で走っていて知り感じたことは、JA北海道のホクレン系のガソリンスタンドは総じて安い、ということであった。ただ、所々に激安店があって、その場合、例えばホクレンが141円/Lならその店は139円/L前後であった(地域やガソリンスタンドによって、値段が違うので、信頼のおける安いところがあったら早めに給油した方がいいように思う)。
B市街地等で交通取り締まりのパトカーがよく走っているので、私と同じ他県の者は、車の定期点検や車を運転する時の日常点検や車間距離の確保を守って走っていても、そして、昼間、誰も歩いていない・車も走っていない直線道路を走っていても、速度が10km以上超えていればスピード違反に引っかかることがあるので、地元の車の後ろについて走った方が得策だと思う。また、走っているのが自分の車1台だけの場合は、法定速度の上限10km未満で走った方が得策だと思う。実際、旭川北ICを降りたすぐ近くの交差点で、群馬ナンバーの車がパトカーに捕まっていた。確かに、スピード違反を取り締まるのも交通警察官の仕事であるからやむを得ないにしても、私は、もっと危険な割り込み運転や煽り運転や交差点での信号無視の方を、もっと取り締まって欲しい、と願う者である。

 

7月3日(金)
裏摩周展望台:
 この裏摩周展望台には、初めて行った。摩周湖外輪山の最高峰、アイヌの人たちの信仰の対象であった、カムイヌプリ、カムイ(神)のヌプリ(山)、摩周岳、が間近に過ぎて景観としてはあまりよくないと感じた。時間に余裕がない場合は、旅行計画から外してもよいと思った。ただ、「お試し体験住宅」からは遠くないところにある。すなわち、養老牛温泉からはさらに近いところにある。「中標津町周辺観光ガイドマップ」によれば、養老牛温泉からは、21kmで、所要時間20分となっている。

 

小清水原生花園:
 網走南部森林管理署・北海道網走支庁・小清水町によれば、北海道の所々にある原生花園の命名者は、北海道大学の植物学者・館脇操(たてわきみさお)だという。というのは、館脇が、「網走から斜里にいたる約20キロの海岸草原を調査し、この地域は『海岸草原の原生的花園』であることが判明したと紹介」したからである。この原生花園は、オホーツク海と濤沸湖(ラムサール条約の登録湿地)の間、その湖口西からJR浜小清水駅(道の駅「はなやか(葉菜野花)小清水」)の近くにあるフレヒト展望台までの約7.5kmの砂州のことを言うらしい。この地域は、「古くから(≪牛馬の≫)自然放牧が行われ」ていたのだが、エゾスカシユリやハマナス等は牛馬が食べないので花園は残ったという。また、NHKでも視聴したことがあるが、蒸気機関車が走っていた時代は、その「煤煙の火の粉が枯れ草に燃え移る野火が発生し、種子の定着率の向上やハマナスの新しい枝の再生促進などの効果も生じ、海岸草原が形成された」という。というわけで、この原生花園は、天然自然の花園ではなく、天然自然と人間的自然との相乗効果がもたらした花園なのである。言い換えれば、エコロジーの極限に想定される天然自然主義が良いわけではない、ということができる。
 なお、JR釧網本線原生花園<駅>は、5月から10月までの季節限定駅である。この原生花園についての感想――
◎以前まだ働いていた時、8月にこの原生花園を訪れた時には、花が今回のように多くは咲いていなかったと記憶している。
◎エゾキスゲも小清水原生花園の代表的な花の一つであるが、夕方に咲いて翌日の午後に閉じる(午前中まで咲いている)ということらしいから、撮った写真にはエゾスカシユリが目立って映っている。また、この原生花園では、クロユリの開花期は終わっていた。
◎原生花園<駅>には花図鑑を売っているおばさんが常駐していた。その方に、小清水原生花園の花図鑑はありますか、と尋ねたら、隣接した小清水原生花園インフォメーションセンターHanaに10円の「小清水原生花園だより」がある、と教えてくれた。良い人だな、と思った。それはコピー用紙1枚の花図鑑であるが、花や葉の色や形、花の咲く場所、その特徴も載っていて分かり易くていいものであった。例えば、花のそばに説明書きで、エゾキスゲ、クリーム色・夕方開花し次の日の午後に閉じる、とあるように。
◎この原生花園にある天覧ケ丘展望台からはオホーツク海を挟んで知床連山を望むことができる。私は、北海道の原生花園の中で、利尻礼文サロベツ<国立>公園にあるサロベツ原生花園よりも、この網走<国定>公園にある小清水原生花園が方が好きである。というのは、後者の方の花園は、花園の名の通り、まわりの風景の中に彩りを添えているからである。それに対して、前者の花園には、広大さはあるが、それがない。緑緑した風景の中に覆われてしまっている。以前は8月に入ってから行ってエゾカンゾウが咲いていたが、そして利尻岳も望むことができたが、やはり緑緑した風景の中に覆われてしまっていた。

 

 この原生花園に沿って敷設されたJR釧網本線の列車が、ちょうど、エズスカシユリが群生する中を網走の方へ向けて走り抜けて行きました。後方に見える湖がラムサール条約登録湿地の濤沸湖です。エゾスカシユリは、原生花園の代表的なひとつだと書かれていたとおり、3日の日に訪れた時には、確かにこの花が一番多く群生していました。ハマナスは開花の終わりかけ? 私たちが訪れた時には少ししか咲いていませんでした。

 

 オホーツク海側の海岸近くには、その名の通りに浜辺に生えるハマエンドウが群生していました、またハマヒルガオも一輪咲いていました。

 

 エゾフウロやエゾカワラナデシコも咲いていました(その写真は省略します)。

 

 小清水原生花園「案内板」です。

 

 さて、北海道の県花はハマナスである。このハマナスの花で私がすぐに思い出すのは、私の年齢によるのであるが、それゆえに私と同じ年代の方ならご存知だと思うのだが、私が高校時代にテレビで視聴した安達明の「潮風を待つ少女」である。正直に言えば、それまで私は、ハマナスの花を知らなかった(多分、中学校の技術の時間に教わっていたような気がするのだが)。私は、大衆歌謡を聴くことも嫌いではなかったし、今でもそうであるから、時々、私が25歳前後くらいまでの大衆歌謡を聴くことがある。安達の少女シリーズは、それ以外にも「女学生」・「春を待つ少女」がある(これらすべての曲は、YouTubeで、当時の安達明の歌声で視聴できる)。井上陽水の大衆歌謡「傘がない」(この曲も、YouTubeで、当時の井上陽水の歌声で視聴できる)が、戦後日本における自由主義国家(政治的近代国家)制度と資本主義制度の成熟過程がもたらした恣意的自由と私的利害の優先意識によってつくり出されものであったとすれば、それゆえに対自的な自己意識(自己が自己自身に関わる意識、自己が自己自身の対象的な疎外としての対に関わる意識・自己愛の対象的な疎外としての他者愛)の優先性によってつくり出されものであったとすれば、安達の青春歌謡も、当時の青春を生きた者たちの時代性が表現されている、ということができる。人は、自分の意志だけで生きることはできない。このことは、身近な、男女関係や自分の人生における希望と挫折を考えれば実感的に分かるに違いない。吉本隆明は、次のように述べている――歴史的現存性とは、人間化され非有機的身体化された全自然を、すなわち人間的自然を、それが良きものであれ悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことであるから、個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである。このような訳であるから、個人としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、いったんそうした「現実に衝突してからは」、人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個の現存を刻んでいくのである。そうであるから、人間の歴史は、「すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」のである。いずれにしても、実際的に、まだ多く、決して直接的な身体(的関係)に解体してはいない清楚な精神的にも美しいと受感できる少女が存在していたから、そういう少女像が表現されている。同じように、実際的に、まだ多く、決して直接的な身体(的関係)に解体してしまわない精神的な清さ美しさを求める少年たちも存在していた。「潮風を待つ少女」では、ニライカナイとしての「海の向こうから 潮風にのって きっとしあわせ くるという だからいつでも はまなすの 花の咲いてる 砂山で ……潮風を待つ少女」が歌われている。舟木一夫の「まだみぬ君を恋うる歌」では、まだ、決して、直接的な身体(的関係)に解体していない時代性を生きる少年たちの青春像が歌われている。しかし、現在は、精神的意識的な愛と身体的肉体的な愛との境界がなくなり、身体(的関係)の側に解体しているに違いない。それは、ちょうど、精神的意識的な殺人と身体的肉体的な殺人の境界がなくなり、簡単にすぐに身体(的殺人)の側に移行して行ってしまうのと同様である、情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、高度消費資本主義社会は現実的な衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落し、それゆえに、現在、誰もが、正常と異常との境界を行き来する精神の病を病んでいる。ただ、ここでの差異は、そのことを認識し自覚しているか、そうでないかの差異だけである。宗教者であれ、知識人であれ、正義漢であれ、善人であれ、明朗な人であれ、慈善家であれ、学者であれ、医者であれ、警察官であれ、公務員であれ、教員であれ、簡単にすぐに、その境界を飛び越えて、異常の世界に移行することができる。そして、親鸞が述べていたように、ある不可避的な機縁(契機)さえあれば、彼らも、殺人を犯すことがあり得るのである。純文学と大衆文学との境界も崩れ去ってしまった。文学も、商業ベースで消費されている。

 

 さて、人は、それぞれの仕方で、イエス・キリストと出会うに違いない。イエス・キリストとの出会いを、信仰体験させられるに違いない。正直に言えば、私の場合は、高尚(?)な哲学的問いや学問的研究・検証の対象として出会ったのでは全くない。現在、私は、啓示に固有な証明能力、それ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に連帯したバルトに連帯することによって、次に述べる出来事等を自分なりに根拠づけることができるようになったし、歳もいい歳になったし、またいい機会でもあるので、この機会に、私の場合について、少し簡潔に述べて置きたいと思う。
 人は、一回性を本質とする自然時間に規定されて過去のある自然時空に二度と戻ることはできないから、意識時間として、私にとって加齢するということは、一方で、小さな頃のまだ庶民的牧歌性の残った家族における生活や団欒、近くに住む少年たちとの未舗装道路や空き地での遊び、小学校5年生頃までの町内会の祭り、等々、また家の近くのバス停で出会った同じ年の清楚で美しい少女との出会い、名古屋栄の中村百貨店カンガルー前での待ち合わせ、二人で歩きながら話した話とその時の街並み、名古屋国際ホテル前の街頭でのさよならをする前に突発的偶然的に起こった強いからだとからだとの触れ合い、等々の思い出へと戻っていくことである。しかし、他方で、その現にあるがままの現実的な私自身に対する嫌悪感や劣等感、私のその存在・その思考・その実践における自信の喪失、この悪循環、浄土真宗から現世利益優先の善因善果・悪因悪果という因果応報的な地獄・極楽を説く新興宗教の立正佼成会に改宗した両親に対する宗教的異和意識とその宗教の超克の問題、そして決定的な、私にとっては全世界が崩壊していくような清楚で美しい少女との、とわの別れ(失恋とは異なっている、純情さゆえの意思の疎通を欠いた誤解による別れ)の体験、それ以降の絶望感と虚無感に覆われた生、その超克の問題、そこからの脱出の問題、そうしたさまざまな出来事や問題をかかえた高校時代から二十歳の頃、二十代前半にまで戻って行くことであるような気がする。
 正直、私は、前述した状態を超克しそうした状態から脱出したいがために、イエス・キリストを尋ね求めたのである。バルトに依拠してもっと正確にもっと明確に言えば、そのために、私は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストを尋ね求めたのである。現在、私は日本キリスト教団に所属する教会に属している者であるが、キリスト教会に行く契機を提供してくれたのは、絶望感と虚無感のただ中にあった時に、郵便ポストに入れられた聖パウロ女子修道会の冊子の中にあった神父の「貧しきやもめ」の話の記事であった。しかし、私はあの形式ばった十字を切る仕草に照れくささと異和感を感じる人間であったから、その最初からカトリック教会に行くつもりはなかった。そういうわけで、名古屋市内の電話帳で調べて、<直観的に>日本キリスト教団名古屋教会を選択したのである。しかし、教会へ足を運んではみたものの、絶望感と虚無感がなくなることはなかった。教会に行くようになったからといって、私に強いられた問題は何も全く解決しなかった。何をやっても、むなしさだけが残った。私は、確信する。人は、究極的包括的総体的永遠的に、人を救うことはできない、人を助けることはできない、人を励まし慰めることはできない、人を教えることはできない、人に平和と平安を与えることはできない。このようなわけであるから、バルトも述べているように、教会、キリスト者、は、第一義的に、神の側の真実のみを、すなわち全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和を完了した啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在そのものである前述したイエス・キリストを、啓示に固有な証明能力に基づいて、すなわちそれ自体がキリストの霊の業であり聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し連帯しそれを媒介・反復することを通して、告白し証しし宣べ伝えていくことが、不可避的なことであり肝要なことなのである。なぜならば、人間が福音を現実的に所有することができるためには、福音を内容とする福音の形式である律法(イエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え)が必要だからである。すなわち、この「新約聖書で聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容である「インマヌエル、神われらと共にいます」ということを告白し証しし宣べ伝えていくことが、恣意的独断的にではなく、「義トサレタ罪人」として、前述した仕方でキリストにあっての神を尋ね求める神への愛を根拠とした神の讃美としての隣人愛において、憐れみ深き隣人となることである。いずれにしても、そうした状態がずっと続いていた時のこと、1969年の7月、22歳になってすぐの頃のこと、就寝中に、私の足元の方から「忠義、忠義」と呼ぶ声が聞こえてきたので、蒲団をはねのけて「はい」と答えて上体を起こした時、まさに私の目の前に、はっきりと、手を広げて私に呼びかけているイエス・キリストが立っていた。そして、イエスは、「明日、お前は右の眼に怪我をして右の眼が見えなくなるが、それでも私に従うか」と言われた。その時、私は、全く不安もなく、全く不満も抱かず、全く素直に、全く心安らかに、全く純真に、全く命じられるままに、「はい、従います」と答えることができたのである。私が、バルトと同じように、啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識・啓示信仰が肝要であるという時、この私自身の信仰体験の思想化を介して述べている。そして、そうした前夜のことを全く考えていない中で、突然、午前中に、そのことが起こり、その通りになったのである。私は、全身麻酔下で週の内で3回緊急手術を受けたが、成功することなく、今も、怪我が原因で右眼は全く見えない者である。このように、まさに、イエス・キリストが私に語られた通りになったのである。人がこのことを信じる信じまいということは、ちょうどカットリック作家の小川国夫が吉本隆明に問われてイエス・キリストの復活と再臨を信じていると告白したように、私自身も小川と同じように告白するのであるが、それに対してある人は科学的に実証できないからあるいは理性的(論理的合理的体系的)に説明不可能だからあるいはまた人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に反するから告白しないというように、百人百様であるだろう。私は、人間的自然として、不可避的な人間と全自然との対象的活動、その精神的意識的な全自然の非有機身体化・人間化や論理的合理的体系的な思惟能力である理性の能力を確認し受容する者であるが、私は、理性や科学を絶対化する、理性<主義>者や科学<主義>者、理性信仰者や科学信仰者では全くない。そのような訳で、私は、映画の汚れなき悪戯(原題は「パンとワイン」)のような出来事も、私は素朴に素直に単純に、そういことはありうるだろうと信じる者である。そのため、講演の草稿を途中で中断したバルトが「夜半のある時点に、誰にも気づかれずに死んでいた。……手は自然に、夕べの祈りの形に組まれたままだった」(『バルトの生涯』)とブッシュが書いた時、私は、すぐに、イエス・キリスト自らがバルトを「もういいから、私のもとに来なさい」と招かれたに違いないと素朴に想像し、また素朴にそう信じる者である。それに対して、確かに、人は、形而上学一面的固定的抽象的に、あるいは近代以降の宗教的形態である、科学<主義>的・科学信仰的や理性<主義>的・理性信仰的に、そうしたことを否定することもできる。しかし、ほんとうは、人は理性的にだけ生きているわけではない、情念等の世界も生きている、動物的生も生きている、また人類は、自然史の一部である人類史の自然史的過程だけを生きているわけではなく、そこから疎外された観念諸形態の自体的展開とその増殖過程も生きている。吉本隆明は、次のように述べている――「……〈奇跡〉(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」)。
 前述した私のイエス・キリストとの出会い、すなわち私の信仰体験については、私はこう言えるように思う――私は、明確に、今でもそうであるが、どうしようもなく、全く<疑い深い>不信者であり、全く邪念に満ちた者であり、全く不純さに満ちた者であり、全く弱過ぎる者であり、全く惨め過ぎる者であり、またあの当時どうしようもなく、絶望感と虚無感のただ中に閉塞してしまっていた者であるから、私には、絶対的に、あの出来事が必要であった、と。なぜならば、私は、あの出来事を通して初めて、あの絶望感と虚無感から解放されたからである。そして、それ以後、勉学のために東京にいた私は、現在の細君と横浜の港で出会い、その後に名古屋で婚姻した(このことは、私にとって救いとなった)のであるが、私の人生上のギリギリの極限の場面で、その都度私にとって必要なものが備え与えられてきたような気がする(このことを、私は、そのように認識し、素直に感謝している者である)。それに対して、そういう出来事が必要でない人たちの方が多いに違いない。このことは、私たち人間の自由事項や決定事項ではない。すなわち、まさに、キリストにあっての神の、その都度の自由な恵みの決断によっている、ということができる。私は、今も、その現にあるがままの現実的な私のその存在・その思考・その実践が、いつもキリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続けていることを・背き背き続けていることを・罪を新たな罪を犯し続けていることを、認識されられ自覚させられている。この認識と自覚は、私にとっては、バルトが述べ続けたあの啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識・啓示信仰の方からやって来る。
 ここで、もう一言だけ、述べておこう。因みに、私の妻はキリスト者ではない。また、仏教信者でもない、神道信者等々でもない。信仰するというよりも、「村祭り」のような<習俗>としての宗教に属する者である。しかし、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、それゆえに「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪彼女は、その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼は(彼女は≫)そのことをまだ発見(≪啓示認識・啓示信仰≫)していない」だけなのである。

 

開陽台:
 開陽台は、中標津町町営の牧場で、東京ドーム約167個分の広さを有する乳牛の育成牧場である、という。また、北海道根室振興局によれば、ミルクロードは、「牛乳を出荷するタンクローリーが走る一直線の道」から名付けられた、中標津町を始めとした周辺地域に「複数存在する道路の総称」であって、その中でも中標津町にある「星座観察ポイント」である開陽台へ通じる、150号や北19号が有名で、「なだらかなアップダウン」が続く道のことである。下記の写真からも、そのこととその広大さを分かっていただけると思う。なお、開陽台は、「ライダーの聖地」らしい。そのためか、私たちは夕方に行ったのだが、駐車場には何台かのライダーたちのオートバイが並んでいた。

 

 開陽台へ向かう道は、こういう道です。

 

 酪農の町、開陽台から望むことができる広大な風景です。

 

 遠くに放牧された牛がいることがわかるでしょうか

 

 「お試し体験住宅」に帰って、持参したホットプレートでお好み焼きをつくって食べた。私は小学校5年生の頃までは、駄菓子屋へ、親から5円か10円かをもらって、一人だけでも、お好み焼きをよく食べに行った。ウズラの卵をもっていけば、店のおばさんは、その卵をお好み焼きの中に入れてくれた。そして、自分で自由にかけられる鰹節の粉やのりをいっぱいかけて鉄板の上でお好み焼きをへらで小さく切りながら食べた。なお、私が小学校6年生の頃以降からだと記憶しているのだが、そしてそれは塾通いやテレビの普及によっていたと思うのだが、子供たちの遊ぶ声や笑い声が、近くの道路や空き地から消えていった。