本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「宗教の揚棄としての神の啓示(その3−3)」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「宗教の揚棄としての神の啓示(その3−3)」(234−301頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、引用の不備や誤字脱字等の不備はご容赦ください)

 

 前回述べたように、バルトは、「宗教の揚棄としての神の啓示」について、次のように、理性的な定式化を行っていた。

 

「聖霊の注ぎの中で起こる神の啓示は、人間的宗教の世界の中で、神が裁きつつ、しかしまた和解させつつ、現臨し給うことである。換言すれば、人間が自分勝手に考え出し、自らの力できざみ造った神の偶像の前で、自分を義とし聖化しようとする人間のこころみの領域の中で、神が裁きつつ、しかしまた和解させつつ現臨し給うことである。教会は、恵みを通して恵みによって生きる限り、まことの宗教の場所である」(147頁)

 

(3)まことの宗教
 バルトは、「まことの宗教」について、次のように述べている。

 

(ア)いかなる宗教も、「それ自体で、そのまま、まこと」の宗教であるわけではない。この規定は、当然にも、人間「自身の本質と存在」へと偏向・偏在した、すなわち人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在した、外在的な宗教的建造物を擁した制度的組織的なキリスト教宗教(教会や神の子供たち)が、「それ自体で、そのまま」、「まことの宗教」に属しているわけではない、ということを包含している。言い換えれば、「まことの宗教」となる、その根拠と可能性は、人間的な実在と人間的な可能性それ自体には全くないのであって、また人間的なそれと神との共労・協働・共働には全くないのであって、それは、@「それの前ではいかなる宗教もまことの宗教としては成り立つことができず、それの前ではいかなる人間も正しくはな」い、それゆえに「死」と「裁きのもと」にある、その現にあるがままの人間のただ中に、この「世、社会、歴史」のただ中に、Aイエス・キリストにおいて啓示された「神を認識」し、神の側からする「神と人間との和解」を、それゆえに神の自由な「恵み」であるインマヌエルの出来事を認識し、「神を敬」い、三位一体論的――キリスト論的なイエス・キリストにのみ信頼し固執する信仰の出来事を惹き起こすところの、それゆえにまた「死人を生命へと、罪人を悔い改めへと呼び出すことができ」るし、罪深い人間だけが存在し「偽りの宗教だけが存在する広大な領域の中に」、罪人を義とし聖化し「まことの宗教を造り出すことができる」ところの、B「啓示された神の事実」、「イエス・キリストの名」、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」、啓示(和解)の客観的実在そのもの、である単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、この啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、このイエス・キリストにおける啓示の場所、にのみ、あるのである。(下記の<HQの事柄・総括>参照)

 

 このイエス・キリストにおける啓示の場所は、人間的実在と人間的可能性に偏向・偏在した無神性・不信仰を本質とする<宗教>としての<自然神学>的なキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと」、また消費資本主義段階を即自的に生きる恣意的独断的な神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家たちによる大衆受けする・時流や時勢受けする、場当たり的な安っぽいイメージ価値の付加(人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」、人間自身が支配し管理するその神の名と呼びかけにるプログラム)の増産へと変わっていくことが見渡せる場所なのである。したがって、キリスト復活からキリストの再臨、終末・完成・救贖までの聖霊の時代における、キリスト教宗教(教会や神の子供たち)の生活(その存在・その思考・その実践)の途上(運動・過程)において、三位一体論的――キリスト論的な「イエス・キリストの名」に信頼し固執することよってのみ現存できる「まことの宗教」は、その「恵みの被造物」なのである。このようにしてなされる、イエス・キリストにおける「啓示を通しての宗教の揚棄」は、「ただ、宗教の否定、ただ、宗教は不信仰であるという判決を意味しているだけでは」なく、宗教を「助け起こし」、「まことの宗教」を「造り出す」ことをも意味しているのである。あのイエス・キリストにのみ信頼し固執することによって、絶えずくり返し「まことの宗教」への途上(運動・過程)にあろうとする「宗教は、啓示によって支えられ、啓示の中で救い出されることができる」のである。

 

 したがって、「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである」・「ただ福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない」と述べたエーバーハルト・ユンゲルは、また彼を称賛したその亜流の大木英夫や佐藤優たちは、いつまでも性懲りもなく、人間学的な宗教哲学の円環に停滞し循環するだけであるであろう。全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)が、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて完了されているのであるから、それゆえにこのイエス・キリストにおける啓示(和解)が無神性・不信仰としての人間自身が対象化した「存在者レベルでの神への信仰」としての「宗教の揚棄」を「既になしてしまって」いるのであるから、イエス・キリストにおける啓示は、無神性・不信仰としての宗教を暴露し否定することができると同時に、その無神性・不信仰としての宗教を揚棄することもできるのであり、それゆえにその啓示は「まことの宗教」としてのキリスト教宗教(教会や神の子供たち)の根拠・原動力・可能性でもあるのである。したがって、私たちは、啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、啓示の主観的実在としての人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の「類比」・関係の「類比」を通して得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定、というこの啓示(和解)の客観的実在それ自体が人間の側に惹き起こす出来事を、そのままの仕方で「はっきりと言い切ることをためらってはならないのである」。したがってまた、「キリスト教宗教はまことの宗教であるという命題は、それが内容にみちた命題でありたいと望むならば、ただ神の啓示に聴従しつつ、(≪終末論的限界の下で、そうした途上的な運動過程において≫)あえて主張されることができるだけ」なのである、「感謝をもってそのまま受けとる」という仕方における「神の啓示に聴従しつつなされた命題は、……ただ信仰命題(≪「啓示を通して語られたことを承認し、尊重しつつ、思惟され、語られる命題」≫)であることができるだけ」なのである。この時、私たちは、「宗教は不信仰であるという啓示の判断」を、非キリスト者(教)に対してだけ向けるのではなく、むしろキリスト教宗教(教会や神の子どもたち)そのものに向けるのである。内なる異端に向けるのである。この時、私たちは、神だけでなく人間的実在と人間的可能性も、人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求も、人間の感覚と知識を内容とする経験の尊重も、人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観の尊重も、という神と人間・神学と人間学との混淆・共労・協働・共働・折衷へと偏向・偏在していく、人間自身が対象化した・そして人間自身が支配し管理する「存在者レベルでの神」やその神の名と呼びかけによるプログラムの増産へと偏向・偏在していく、まさしくフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが根本的包括的に原理的に批判した人間的な<宗教>そのものである<自然神学>的なキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教そのものに向けるのである(下記の<HQの事柄・総括>参照)。(234−237頁)

 

 このような訳であるから、まことの宗教、まことのキリスト教宗教(教会や神の子どもたち)の成立の根拠・原動力・可能性は、あくまでも神の聖性、神の隠蔽性・秘義性・不把握性、終末論的限界、の下での、神の側の真実・「本源的な客観性」、すなわち啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)――これは三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であり、その第一形態がイエス・キリストにおける啓示の出来事である啓示(和解)の客観的実在そのものであり、その第二形態が「先ず第一義的に優位に立つ原理」である第一形態に信頼し固執し連帯した啓示の「概念の実在」としての聖書の証言・証しであり、その第三形態が教会に宣教を命じている第二形態に信頼し固執し連帯した啓示の「概念の実在」としての教会の客観的な信仰告白・教義である――を媒介・反復する、点にあるのである。なぜならば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からである。ここで「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」だからである。言い換えれば、啓示に固有な証明能力は、具体的には「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、啓示の主観的実在(啓示の主観的現実化)――すなわち、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、という神の側の真実からのみやってくる・出会ってくる事柄だからである。したがって、バルトは、この啓示に固有な証明能力に信頼し固執して、キリスト教宗教(教会や神の子供たちの宗教)・信仰・神学・教会の宣教の語りが、「キリスト教の語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項であって、私たち人間の決定事項ではない、と述べたのである。したがってまた、バルトは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べたのである、そして啓示の「概念の実在」を媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」、それと連帯したのである。

 

 しかし、ルドルフ・ボーレンの亜流の日本キリスト教団立東京神学大学の神学者・小泉健は、聖霊や聖霊の言葉を、人間の自由事項として、それゆえに恣意的・独断的に、「神律的相互関係」(ボーレン)という概念に依拠して実体化し固定化して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と出鱈目な戯言を平然と主張したのである。このような場合、根本的包括的な原理的な問題から言えば、説教は、人間・小泉や説教者自身が対象化した「存在者レベルでの神」、その神への信仰、その神の名と呼びかけによるその人間自身が支配し管理するプログラムや意味的世界の表明にしか過ぎないものとなってしまうだろう。したがって、その場合、説教は、イエス・キリストを宣べ伝えながら、実は、実際的には、神学者や説教者の興味関心に見合って、即自的な大衆の受けへと、大衆迎合や大衆啓蒙へと、時流や時勢との迎合へと、それゆえに、人間の感覚や知識を内容とする経験や人間論や人間学(哲学原理・認識論・世界観)の知識や情報の伝達へと、向かうことになるだろう。したがってまた、その場合、説教は、三位一体論的――キリスト論的なイエス・キリストにのみ、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみ、感謝をもって信頼し固執しようとしないのであるから、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わる」「怠惰な思弁」でしかなくなってしまうだろう。それに対して、バルトは、次のように述べた――説教者は、説教として語る場合、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹き込むこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」、「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である、また、説教者における会衆の状況認識について、会衆は現在すべて知的大衆であって、「その生活を十分に知っており、実際のところ、牧師によって手ほどきされる必要はない」、説教は、説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている、福音は「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない、その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」、すなわち、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な決断に基づく啓示の出来事と信仰の出来事において、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである、説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」、すなわち「神、罪深きわれらと共に」、ということである、そこにおいて、説教は、「会衆」、「特定の場所と時における全く特定の現在の人間」の生活、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ること」である、と。このバルトの説教論と、人間の経験の尊重論、人間論や人間学の後追い知識論、でしかないボーレンや佐藤司郎や小泉健たちが主張する聖霊論的説教論とを比較考量する時、どちらに根本的包括的な原理的な正当性があると問われれば、私は、すぐに、素直に、確信をもって、バルトの側にある、と答える。
 なぜならば、私たちは、「啓示された神の事実」、「イエス・キリストの名」、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」としての啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に信頼し固執する時にのみ、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の啓示(啓示・和解)に信頼し固執する時にのみ、このイエス・キリストの啓示の場所においてのみ、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在した無神性・不信仰としてのキリスト教宗教を含めた「すべての宗教」は、まさしくフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが根本的包括的に原理的に批判した宗教そのものであるということを「世俗的真理」・人間学的な真理としても正直に受けとることができるのであり、それゆえにそれと同時的同在的に、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの宗教批判における<宗教>を根本的包括的に原理的に止揚し超克してそこから超出していくことができる、のだからである。マルクスが、過渡的課題と究極的課題を念頭に置いて述べた、「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(『ユダヤ人問題によせて』)ということ、「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである。というのは、……課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するもの」だからである(『経済学批判 序言』)ということ、は思想の原則である。神学者であり牧師であり思想家でもあるバルトは、「啓示された神の事実」、三位一体論的――キリスト論的な「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執することにおいて、イエス・キリストにおける啓示の場所において、そうしているのである(下記の<HQの事柄・総括>参照)。したがって、一切の<宗教>としての<自然神学>的なキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し超克してそこから超出したバルトの信仰・神学・教会の宣教は、「超自然」な信仰・神学・教会の宣教なのである。なぜならば、バルトの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成は、<宗教>としての<自然神学>的なそれにとっては概念的な自己矛盾であるから、「超自然」な信仰・神学・教会の宣教という概念を疎外する以外に、その概念的な自己矛盾を止揚することができないからである。ここで、疎外とは疎外の止揚のことである。バルトの信仰・神学・教会の宣教が「超自然」なそれであるとは、この意味のことなのである。したがって、この意味においてもそうであるが、私は、バルトの信仰・神学・教会の宣教を、形而上学抽象的一面的固定的に新正統主義の枠組みに入れて論じている旧態依然な停滞と循環を繰り返すだけの神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たちは根本的包括的な原理的な誤謬に、「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」っているだけである、と言うのである。また、私は、決定的には、三位一体論的――キリスト論的な神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」に立脚したバルトのキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教と、新正統主義のそれとの間には、根本的包括的な原理的な段階的差異、「連続性と断続性」の構造における段階的差異、がある、と言うのである。

 

 今回も、前回と同じように、次のような根本的包括的な原理的な総括を必要とする。
@イエス・キリストが、私たち人間に対して、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するということ、したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するということ、すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪「裁き」≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界(≪究極的限界、終末論的限界≫)の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを認識し承認し確認するということ、したがってまた、その神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける啓示の場所は、人間的実在と人間的可能性に偏向・偏在した人間的な<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと」、またイエス・キリストの死と復活の出来事――インマヌエルの出来事を内容とする宣教が消費資本主義段階を即自的に生きる恣意的独断的な神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家たちによる大衆受けする・時流や時勢受けする、場当たり的な安っぽいイメージ価値の付加(人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」、人間自身が支配し管理するその神の名と呼びかけによるプログラム)の増産へと、「変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるということ、である。日本だけでなく、おそらくは世界中の、神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家やそれに与する教団・教会の現状は、最悪、悲惨、惨憺たるものであって、ハイデッガーがブルトマン(その学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と揶揄・批判した、その最悪、悲惨、惨憺たる水準に停滞したままなのである。この最悪、悲惨、惨憺たる水準での停滞と循環は、彼らが、誰一人として、フォイエルバッハやマルクスの根本的包括的な原理的な宗教批判を含めて、そのハイデッガーの揶揄・批判を、神学における思想の課題として、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に原理的に止揚・棄揚していくべきそれであるということを、全く認識し理解し自覚していないのであるから、当然のことなのである。また、バルトだけが、その課題を認識し理解し自覚し担ったのであるが、そのバルトを根本的包括的に原理的に認識し理解している者が誰一人としていないのであるから、あの最悪、悲惨、惨憺たる水準での停滞と循環は、当然のことなのである。もちろん、出鱈目な戯言を言うバルト論者や似非使徒や知ったかぶりは、ごまんといるのであるが……。もっと包括的に言えば、あのイエス・キリストにおける啓示の場所は、私たち人間の、その個・現存性――類・歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である、ということである。
Aバルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を通して、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝し信頼し固執し連帯する「啓示」認識・「啓示」信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」では全くないのである。神の言葉は、人間的自然、「人間の現実存在の内部」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・感情や理性や実存や意志・人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないのである。なぜならば、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。神の言葉は、その都度の神自身の自由な決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」るのである。この神の聖性、神の隠蔽性・秘儀性・不把握性とは、私たち人間のその啓示認識・啓示信仰が、常に終末論的限界(≪自己相対化≫)の前に立たされるということである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事と「聖霊の注出」においてのみ可能となるのである。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示・和解としてのイエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことのない<宗教>としての<自然神学>的な「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。
B教会は、(≪啓示に固有な証明能力、具体的には「神の言葉の三形態」を通した、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪神の側の真実としてのみある、「本源的な客観性」である、主格的属格としての「イエスの信仰」の出来事、インマヌエルの出来事≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」。したがって、「(≪そうでない場合は≫)、どのような大群衆をその中に(≪宗教的な建造物を擁した制度的組織的な教会の中に≫)擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。
C根本的包括的な原理的な誤謬に「普遍性と組織性の後光をかぶせて語」るメディアを含めて神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家の知識や情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしないために、次のようなバルトの言葉は肝要である――◎「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」。◎「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神あるということに対して、共同の責任」を負っている。◎「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」、『罪と罰』におけるマルメラードフの告白・終末論的信仰のように。「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」・キリスト者たちのことである。
Dブルトマン(その学派)の「神学は……新しく特定の哲学にとらわれて、エジプト捕囚ないしバビロン捕囚の身になっているのを、私は見たのである」。ブルトマンの「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」という知識的に上昇する一方通行的な往相過程だけの信仰・神学・教会の宣教の原理・その認識方法と概念構成は、近代主義的なキリスト教的教養人には受け入れ可能であっても、その現にあるがままの不信や非知や非キリスト者(教)、大多数の被支配としての一般大衆、に対しては全く閉じられていく以外にないものである。したがって、バルトは、そのブルトマン(その学派等)に対して、「『現代人』が実際に存在するのは」、「ただ教養人の間だけではない」のであるから、「実存主義への特別な拘束力が生じるべきだ」、と述べたのである。神学における思想の課題としては、ほんとうは、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、信と信にある不信、信・知・キリスト者(教)と不信・非知・非キリスト者(教)の、両者を架橋し、その枠組を取り除き、信・知・キリスト者(教)を、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)に、大多数の被支配としての一般大衆に、完全に開かなければならないのである。バルトにとって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(啓示・和解)においては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなく、神性を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類、に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。(今回も、この総括は何度も必要となるので、便宜上<HQの事柄・総括>と名付けておきたい)

 

(イ)「神がご自分を現わされ明示される自己啓示の傍を通り過ごし、神ご自身によって遂行された和解の傍を通り過ごし、和解に逆らいつつ、神の慰めと指示を軽くあしらい、踏みにじりつつ、大きな、あるいは小さなバベルの塔」をうち立てようとする無神性・「人間的な不信仰」――すなわち「われわれが信仰を実証する際の実証の仕方全体、神および神的事物についてのわれわれのキリスト教的考え、われわれのキリスト教的神学、われわれのキリスト教的礼拝、われわれのキリスト教的交わりと秩序の形態、われわれのキリスト教的道徳、詩、芸術、個人的および社会的なキリスト教的生活を形成してゆこうとするわれわれの努力、キリスト教的事柄のために戦うわれわれのキリスト教的戦術と戦略」における<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教、そこにおける人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した「人間の業」は、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラムや意味的世界におけるそれとして、イエス・キリストにおける「神の啓示に対する反抗」であり、それゆえに「偶像礼拝と業による義」への人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化への欲求そのものである。したがって、バルトは、『啓示・教会・神学』において、「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼自身の対象化された自己意識の意味的世界であり彼自身が支配し管理するプログラムであるそれ≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」、と述べたのである。その場合、阪神・淡路大震災の時、ある牧師が、過渡的課題と究極的課題を構造的に把握した構想を持たずに、吉本隆明にわざわざ電話をかけて、ただ外在的場当たり的な「じぶんがやったこと(「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」こと)を得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義のために脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」、という事態を惹き起こすのである。

 

 前述したことが「聖書にとって……自明的である」ことを理解するためには、「イスラエルの民、ないしは新約聖書に出てくる弟子の一団」が、「ヤハウェ、ないしは、イエス・キリスト」の「具体的な恵みの現臨」から「切り放され」た時に惹き起こされる、「啓示の恵みから抽象」された「彼らの人間的な現実存在」に「注意を払う必要がある」。すなわち、「啓示の恵みから抽象」された、「偶像崇拝」と「神冒?」と神に対する「熱心さの無知」(『福音と律法』)に、また「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」・信仰・教会の宣教(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)に、そしてまた「彼岸の消尽点が画の中に移され、神自身が人間の霊魂的な、また歴史的な現実の構成要素」とされ、その人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」の「名」と「呼びかけのもとに行われる」神への「反逆」(E・トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)に、「注意を払う必要がある」。「出エジプト三二章」(「シナイ山のふもとで、契約の締結と律法授与にすぐつづいている場面」)――「モーセと共に」、「宗教をまことの宗教たらしめるであろうヤハウェの具体的な恵みの現臨が欠け」た時、「イスラエル、ヤハウェ教団、啓示の民」は、そして「その祭司のかしらであるアロン」自ら、「鋳物の子牛」を造り・それを「拝み」・それに「犠牲をささげる」という「主の祭り」を行った「彼らの人間的な現実存在」に、「注意を払う必要がある」。このことは、神に対する「熱心さの無知」のなせる業であった。なぜならば、彼らは、アロンの言う通りに、「献身的な熱心さをもって……皆、自分たちのもっているもののうちの最上のものを……さし出した」からである。そして、彼らは、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」、と叫んだ。主はモーセに言われた――「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らに向かって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう」。ここに、「啓示の恵みから抽象」されたところの――すなわち啓示に固有な証明能力に、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」に、信頼し固執しないところの、「彼らの人間的な現実存在の中」での人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラムや意味的世界の表明でしかない不信仰としての啓示<宗教>があるのである、<宗教>そのものとしての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教における啓示宗教<宗教>があるのである。「どうしてあなたがたは、『われわれには知恵がある、主のおきてがある』と言うことができようか。見よ、まことに書記の偽りの筆がこれを偽りにしたのだ。知恵ある者は、はずかしめられ、あわてふためき、捕えられる。見よ、彼らは主の言葉を捨てた、彼らになんの知恵があろうか(エレミヤ八・八以下)」。
 このような「悔改めと裁きの説教は」、「旧約聖書的宗教からの逸脱」――すなわち「啓示の恵みから抽象」された「啓示宗教」に対して、啓示の「贋造」や「祭儀的不誠実と道徳的荒廃」に対して、向けられている。このことは、預言者を媒介とした、「明らかに」「真剣な意味で宗教的な民」における「啓示の恵みから抽象」された「啓示宗教に対して戦う啓示の必然的な戦い」の「遂行」である。したがって、「救いの約束」も、「必然的に裁きの言葉」との同時性・同在性・構造性においてある。聖性、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第一の存在の仕方であるヤハウェの「言葉、……契約」は、神の側の真実として、「本源的な客観性」として、イスラエルの民によって「破られ、踏みにじられたとしても」、「そのまま続くのである」・存続し続けるのである。したがって、この神の側の真実においてのみ、「イスラエルは民でありつづけるし、イスラエルの宗教は啓示宗教でありつづける」のである。根本的包括的に原理的に言えば、「啓示宗教は神の啓示に拘束されているが、しかし神の啓示は啓示宗教に拘束されていない」のである。神の啓示は、常に、啓示宗教の、彼岸・外にあり続ける、のである。したがって、その神の側の真実としてのみある「客観的な本源性」としての啓示そのものが、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した不信仰としての人間的な「いつわりの宗教」・「偶像礼拝」・「業による義」と聖化――すなわち「啓示の恵みから抽象」された、それゆえに「その根拠と対象を奪われた」「啓示宗教」、「空疎化された宗教」、「ユダヤ宗教」を、「多くのそのほかの宗教」と同じ位相の「ひとつの宗教」でしかないものとして、暴露し裁くのである。したがってまた、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した無神性・不信仰としての<宗教>そのものである、<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教会・神の子どもたち・キリスト教宗教も、神の側の真実としてのみある「客観的な本源性」としての啓示の客観的実在であるイエス・キリストにおける啓示の場所において、暴露と裁きの対象となるのである。それは、神の自由な「恵み」――すなわち「功績なしに与えられる自由な赦し」を通して、そしてそれと同時的同在的に、「いつわりの宗教としての仮面をはがされ、判決が下される」という否定的媒介を通して、「まことの宗教である」ことを目指すためである。

 

 「エレミヤの警告」は、新約聖書においても妥当する。なぜならば、「イエスの言葉から切り放され」るや否や、その現にあるがままの弟子たちは余りにも人間的なものへと・人間的な実在と人間的な可能性へと・無神性・「不信仰」のただ中へと偏向・偏在していくからである――「ペテロが彼自身の足で立つ時」――彼自身の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求で立とうとする時、彼は「神のことを思わず、人間のことを思(マタイ一六・二三)」う者であり、「思いきってことをなすがその後すぐ駄目になってしまう疑う者(マタイ一四・二八以下)」であり、「マルコスの右の耳を切りおとすが(ヨハネ一八・一〇)、その後直ちに……イエスを三度知らないといって否定してしまう」者である。また、弟子たちは、「天国で誰がいちばん偉いのだろうか」と問う(マタイ一八・一)者たちであり、「天国でイエスの右と左に座りたいと」願う(マルコ一〇・三五以下)者たちであり、海上の嵐に「うろたえる」「信仰がない」(マルコ四・三五)者たちであり、「ゲッセマネの園」で「居眠り」(マルコ一四・三七以下)してしまう者たちである。これらのことから、自分自身の信仰体験を介する時、私自身を含めて私たち人間は、いつも神から遠ざかり背き続けていることを、罪を新たな罪を犯し犯し続けていることを、自分にあるどうしようもない自主性と自己主張の欲求を、自分にあるどうしようもない無神性・不信仰を、実感的に認識することができるのである。ここで「最高に原則的なこと」は、「彼らは、イエスが彼らを召されたにもかかわらず、彼らを召された時に、彼らはイエスに従ったにもかかわらず、(≪それにもかかわらず、人間的な実在と人間的な可能性への偏向・偏在から、人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求から≫)イエスに従った」ことによって、自分自身が「不信仰な世に属する者である」ということを、信にある不信を、認識させられるという点にあるのである。「彼らの信仰は不信仰である」。したがって、マタイ16・13以下におけるペテロの告白(教会の信仰告白)は、「直ちに恵みとして特徴づけられる」のである――「もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を「持っている」、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。言い換えれば、ここで「最高に原則的なこと」は、自らの信に内在する不信を認識させられることによって、信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、信と不信を架橋するという神学における思想の課題を、それと同時的同在的に、その現にあるがままの外在的な不信・非知・非キリスト者(教)に対して、信・知・キリスト者(教)を完全に開くという神学における思想の課題を、認識させられるという点にあるのである。私たちは、牧師や神学者やキリスト教的メディア的著述家が信じなさい(あるいは信じるな)と発言し説教したからといって信じたり(あるいは信じなかったり)するわけでは決してないし・そうできるわけでは決してないのである(<HQの事柄・総括>参照)。

 

 このようにバルトが述べていることを、私は全面的に首肯する。単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(啓示・和解、神の子、神の言葉、啓示の客観的実在そのもの)が、この私に・私たちに、<服従>を要求される場合、それと同時的同在的に、聖霊の注ぎによる信仰告白の言葉(≪啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を通した、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいた人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰≫)を授与されるがゆえに、この私は・私たちは、イエス・キリストを信じることができる、イエス・キリストにのみ信頼し固執することができる。なぜならば、人間的な現実存在そのものであるこの私は・私たちは、いつも、神から遠ざかり続け背き続けている者でしかないし、罪を新たな罪を犯し続けている者でしかないからである、無神性・不信仰のただ中にある者だからである。したがって、この私の・私たちの罪を赦し、この私を・私たちを義とされ聖化される、「啓示された神の事実」、神の義そのものである「イエス・キリストの名」における啓示から離れては、私たちは何一つできないのである。キリスト教宗教(教会や神の子どもたち)は、イエス・キリストにおける啓示から離れては、「まこと」の信仰・神学・教会の宣教へと向かうこと、「まことの宗教」となること、はできないのである――「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。……枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。……わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである(ヨハネ一五・一以下)」。したがって、「Tコリント一三章」における「愛」を、「啓示された神の事実」としての「イエス・キリストという名」に「置き換える」時、「『愛』の概念を最もよく理解する」ことができるのである。このことは、『福音と律法』においては、次のように述べられている――「不信仰の罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」出来事である。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ信頼し「固着」・固執させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」そのものであるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、神の要求に対して、人間が自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くようにと促す霊である、と。このような訳であるから、「異言を語ること、預言、奥義の認識、山を移すほどの信仰、自分の全財産を貧しい人に施すこと、最後に、自分のからだを焼かれるために渡すこと、それらすべてについて……、『その際』もしもキリスト者が愛を(≪神の側の真実としてのみある、啓示の客観的実在である、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストを、そのイエス・キリストにおける完了された全人間・前世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和を≫)持たないならば、それらのことは彼にとって何の役にも立たない、いっさいは無益」なのである。ここで、私たちは、イエスに注いだ香油を高く売ればある特定の自然時空における一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な相対的・一面的・部分的・過渡的・緊急的な救済の言葉に対して、イエスは、還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な全人間・全世界・全人類の救済の言葉を投げかけているところの、マタイ26・6―13とマルコ14・3―9を思い起こすのである。パウロは、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在する「宗教的自己意識」を持っていなかった。したがって、パウロは、次のように語るのである――「わたしは自ら省みて、なんらやましいことはない……。……『だが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。……主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう』(Tコリント四・二以下)」。パウロは、「ローマ四・一以下」において、「神の前でアブラハムが義とされるということはただ不敬虔なものの義認であり、アブラハムの信仰はこの義認を信じる信仰であり、それ故決して自分の行い、割礼および律法、を信じてより頼むこと」ではなかった、すなわちそれは、「宗教的自己意識」のそれではなかった、神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求も、という人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した「宗教的自己意識」のそれではなかった、と語っている。

 

 このような訳であるから、この「宗教的自己意識の……限界づけ」の問題は、イエス・キリストにおける神の自己啓示、その啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通した、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰により、初めて人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した不信仰としての「偽りの宗教」である教会や神の子どもたち・「キリスト教宗教が……相対化される」というそれである(<HQの事柄・総括>参照)。「ただ単に神の前にあってのわれわれの確実性だけでなく、またわれわれの存在と活動の確実性」を、「それであるからまた人間との関係の中でのわれわれの確実性」を、「われわれが安全にまもろうとすることを『禁止させる』」ところの、「限界づけと相対化についての認識と自覚化の出来事」は、「信仰(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰≫)の中で、信仰を通して」やってくるそれである。この事柄について、「パウロは、Tコリント一三章においてなしたように、単にキリスト教会の宗教について語っているばかりでなく、最高に個人的な、自分ひとりだけの固有な宗教経験についても語っている」。「(Uコリント一二・一以下)『わたしは』……『キリストにあるひとりの人(≪パウロ自身≫)』(二、三、五節)」を知っている。「わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外に誇ることをすまい(五節シュラッター訳)」。パウロは、前述した「彼の特別なもろもろの啓示」、一回的な唯一無比な「啓示を通して」、「主イエス・キリストを通して、全く仮借ない仕方で限界づけられていること、『わたしは弱い時にこそ、わたしは強い』ということ……に根ざしている」のである。すなわち、パウロは、神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求も、自分を「誇る」ことの欲求も、という人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した「宗教的自己意識」と宗教そのものを、限界づけ、相対化し、揚棄し、そこから超出しているのである。(238−247頁)

 

(ウ)したがって、前述したことが「忘れられ、中傷された場合」、「キリスト教宗教の真理の実際の認識にとって大きな損害を招くしかないひとつの秩序……が問題」となる。なぜならば、その場合には、キリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成が、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在した不信仰としての<宗教>という同じ土俵の上で、「ほかの宗教に対して反駁し、ほかの宗教を克服しようとすること」になってしまうからである、その場合、不信仰としての<宗教>を、根本的包括的に原理的に止揚してそこから超出していくことができないからである。すなわち、そうした不信仰としての<宗教>への停滞と循環、ということが、問題となる。「無神論的宗教批判との対決は、人間論のレベルと哲学的論証によって為されなければならない」、と出鱈目な戯言を述べたパンネンベルクがこの典型である。ほんとうは、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの宗教批判を、自らのキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に原理的に止揚して・そこから超出していくことが、神学における思想の課題なのである。こういう仕方でしか、「連続性と断続性」の構造としてある段階概念における高次の段階への移行はできないのである、不信仰としての<宗教>を揚棄することはできないのである、「まことの宗教」への移行はできないのである。したがって、そうでない場合には、旧態依然な停滞と循環を繰り返すことしかできないのである。このような訳で、この神学における思想の課題を認識し自覚せずに、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」、「無神論的宗教批判との対決は、人間論のレベルと哲学的論証によってなされなければならない」、という出鱈目な戯言を平然と述べていた、人間論や人間学の後追い神学者に過ぎないクラッパートの紹介していたパンネンベルクがまさしくその典型なのである。彼らだけでなく、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことなのである」等、という出鱈目な戯言を平然と述べていた人間学の後追い神学者(宗教哲学者)に過ぎないヘーゲル主義者のエーバーハルト・ユンゲルもまさしくその典型なのである。したがって、もちろん、その亜流の者たちも、その亜流の亜流の者たちも、その典型なのである。A・E・マクグラスも、『キリスト教神学入門』から言えば、その典型なのである。したがって、もちろん、その亜流の者たちも、その亜流の亜流の者たちも、その典型なのである。

 

 彼らとは違って、バルトは、次のように述べている――@「(≪私たちは、神の側の真実、神の自己啓示、啓示・和解、神の子、神の言葉、啓示の客観的実在そのもの、「啓示された神の事実」、「イエス・キリストの名」、としての単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、一つの党派(≪学派、教派、党派的共同性、党派的多元主義、何々主義、民族、人種、文化傾向、思想傾向、時流や時勢、社会的政治的な言説や運動、ある社会構成や支配構成≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」。Aそれは「存在者レベルでの神への信仰」に過ぎない、とハイデッガーから揶揄・批判されたルドルフ・ブルトマンは、神学における思想の課題であるその揶揄・批判を捨象してしまって、「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、それゆえに「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」、と語った。それに対して、バルトは、こう語った――「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」――否である。私たちは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」。B「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」。「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」。またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」。キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」。また、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」、と。言い換えれば、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した、人間の感覚と知識を内容とする経験や人間論や人間学の後追いでしかない不信仰としての<宗教>――<自然神学>的な人間学的神学は、神学としても人間学としても非自立的で中途半端なものでしかないのである。したがって、そうしたキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教は、現在から未来に生きることは決してできないのである。したがってまた、バルトは、次のように言わなければならなかった――「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」。すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と。言い換えれば、私たち罪に穢れた人間には、心が開かれ「み言葉を受け入れまた聞くために」、「み言葉の主である」聖霊によって「再生」された理性を必要とするのである。「聖霊は理性を抑圧しない」。「理性の再生をもたらす」。しかし、人間実存の直接性に依拠する「実存的釈義家」・実存主義者たちの場合は、「本文と彼自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型を前提とし」・それに信頼し固執しているから、誤謬は必然・「あやまちは必然」となるのである。それに対して、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明かにするのは」徹頭徹尾「聖霊」であるから、その「聖霊の交わりにおける人間の実存」に信頼し固執し依拠した、そして終末論的限界を認識し自覚した、バルトの場合は、「あやまちは可能である」というように言わなければならないのである。バルトは、ブルトマン(その学派)を、根本的包括的に原理的に超えているのである(拙著224−249頁あるいはホームページ参照)。もちろん、聖霊によって「再生」された理性であっても、その理性は、聖霊と同一ではない。また、文芸批評家であり思想家でもある吉本隆明も、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である、と述べている。(<HQの事柄・総括>参照)

 

 バルトは、キリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教が、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した不信仰としての<宗教>を構成した場合に惹き起こされた「困窮状態」の展開を、時系列的に、次のように述べている。
@「コンスタンティヌス以前の古代の教会の時代」、キリスト教宗教(教会や神の子供たち)は、「非合法的ナ宗教」・「圧迫サレタ教会」として、「外面的に、政治的に、社会的に、文化的に、大きな名誉をかちとること」を、社会構成や支配構成や文化構成の時代状況がゆるさなかった。信仰・神学・教会の宣教における思想の課題としてだけでなく、時代状況も、イ)で述べた「使徒的<弱さ>」を誇ることを強いた。この<弱さ>は、パウロにおける固有な「特別なもろもろの啓示」、一回的な唯一無比な「啓示を通して」――すなわち「主イエス・キリストを通して」、「全く仮借ない仕方で限界づけられていること、『わたしは弱い時にこそ、わたしは強い』ということ」に根ざしたそれである。すなわち、それは、神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求も、自己を「誇る」ことの欲求も、という人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した「宗教的自己意識」と宗教そのものを、限界づけ、相対化し、揚棄し、そこから超出していくそれである。しかし、「護教論者、初期の教会教父、……当時の教会の、比較的洞察力のある指導者たちは皆」、「古代末期の異教主義」の「貧しさ」・特殊性土俗性を「見抜いていたのであるが」、「旧約および新約聖書が要求していた」イエス・キリストにおける啓示にのみ信頼し固執するのではなく、それゆえに唯一その啓示を、「罪深い、異教的――宗教的な人間に対立させ」るのではなく、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した「普遍的な……宗教」(不信仰)としてのキリスト教宗教を、「貧し」い「異教徒の諸宗教と対立」させ、自らを普遍的な「よりよい宗教」として「売り出してゆ」こうとした。
 「二世紀および三世紀の護教論者の論述を読む時」、「被迫害者」として彼らは、先ず以て第一義的・第一次的に、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみある、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示の出来事を誇らずに、それゆえにイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的救済・平和(史)を誇らずに、それゆえにまたイエス・キリストにおける神の「恵みこそキリスト教の真理である」ということを誇らずに、また「キリスト者はアブラハムのように不敬虔な者として義とされた者、宮にのぼった取税人、放蕩息子、貧乏人ラザロ、イエス・キリストとともに十字架につけられた犯罪人である」ということを十分に認識し自覚せずに、恣意的「独善的」に、「思慮深」さをなくして、「異教的な宗教の世界に相対して」、その不信仰としての<宗教>という同じ土俵の上で、形而上学抽象的一面的相対的な「長所について誇った」、それゆえに「イエス・キリストの恵みよりも(≪自分自身が対象化した「存在者レベルでの神」としての≫)自分自身の一神論、道徳、神秘主義を誇」った、それゆえにまた「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる、「救いの道」・「知恵」・「道徳性」・「人間性」・「理想」における「長所について誇った」、それらを「自己推薦」しようとした。「テルトリアヌスのような人」が、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した人間的な<宗教>の脅威の「危険を正しく見抜いていながら、しかも同時に全く正しくみてはおらず、かえって自らそのような危険を増大させるのに加担してしまった……」。「ここで実質的、形式的にみて、中心的、本来的にキリスト教的なものの放棄(≪啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、に基づいてのみ授与される啓示認識・啓示信仰に対する放棄≫)、あるいは軽視が起こったその程度に応じて、逆にあらゆる種類の実質的、形式的な、世との融合同化……が起こった」、世俗主義化が、「諸説混合主義」が起こった。

 

Aまた、「コンスタンティヌス以来の発展の中で、(≪「教会と国家が一つであるという」≫)キリスト教統一国家(corpus christianum)(≪――共同的な宗教→法→国家へと向かうところの、人間が諸矛盾や諸利害の対立のある現実的な市民社会の中で、その社会の本質を観念的な法的政治的共同性として疎外する時に成立する、すなわち自己還帰しない逆立した疎遠な共同的観念・法的制度によって現実的社会的諸矛盾・諸利害の対立を止揚する時に成立する、人間の観念的法的政治的な共同性を本質とする国家、この場合キリスト教を共同的な宗教とする国家の段階であり、いわば共同的宗教を起源とし国法を媒介とした国家の問題、宗教、法、国家すなわち自由主義国家・政治的近代国家の問題として総括できる――≫)という理念によって支配されていた時期全体にわたって」、キリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成は、イ)で述べたアブラハムの信仰の原理・認識方法と概念構成、「エレミヤの警告」の原理・認識方法と概念構成、パウロの信仰の原理・認識方法と概念構成、から逸脱していった。すなわち、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在した不信仰としての<宗教>として、<自然神学>的なそれへと逸脱していった。したがって、その時、アブラハムやエレミヤやパウロの信仰の原理・認識方法と概念構成は、「姿を消していった」。したがってまた、「教会は、公認された国家教会として、高次元の、あるいは低次元の政治的な要因とおおっぴらに手を組んで」、人間自身が対象化した「存在者レベル」での「神の名誉が問題であるという旗印のもとで」「第二の世界勢力となってゆく」ことを誇った――「聖職任命権をめぐって皇帝と教皇の間で争われた(≪「一〇七五−一一二二年の」≫)時代、十字軍の時代、ゴシックの世界において、どこにあの(≪パウロのような≫)キリスト教の真理としての恵みを知る知識があったであろうか」・「クリューニー修道院の偉大な改善において……そもそも修道院のあり方において、一体、どの程度までキリスト教の真理としての恵みを知る知識が問題であったであろうか」・「中世の教会の中で、……人間がほかの人間に対していつでも実証できるような力ではなく、すべての人間をひくくし……、そのようにしてこそまた恵む神の力、福音の力、が相対して出会うことができたであろうか」・「どの程度まで教会は、東方および南方でしきりに教会を圧迫していたイスラム教に対して、何か本当に(≪根本的包括的に原理的に≫)独創的なものを……もっていたであろうか」・「どの程度までまた、教会のキリスト教的敵対者、例えば皇帝派、国民派の勢力、あるいは異端的な宗派は、教会の行動と態度から、教会においては本当に神の名誉(≪――神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエスの信仰」、神自身の義、啓示・和解、「啓示された神の事実」、「イエス・キリストの名」、この客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、「神の言葉の三形態」、啓示の出来事と信仰の出来事、この啓示に固有な証明能力に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的に授与される、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定――≫)が問題なのであって、結局、自分自身の名誉が問題なのではないということをみてとることができたであろうか」。キリスト教宗教は、「自分に固有な中心」・「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」から「精神的に遠ざかってゆく疎遠化(≪人間的な実在と人間的な可能性への偏向・偏在化、不信仰としての宗教への偏向・偏在化≫)、それと手を携えて進んだ教会の内的な世俗化の動き」へと向かっていった。「いまやキリスト教は特定の、普遍的な、知的――道徳的――審美的な世界形態にまで形成されてゆき、……補充的に、それぞれの特別な民族宗教的な自己意識をもった国民的キリスト教の形成を可能にし、必然的にした」。

 

B「中世末期における……ルネサンスと共にはじまった……近代」において、「西洋の人間のあり方は、成熟した大人になった」ために、「公式のキリスト教……なしですますことができるようにな」った。言い換えれば、西欧は、人間の、対自的で対他的な・他在であって自在な、すなわち自由な自己意識の無限性・類的本質を発見した、人間に内在する神的本質を発見した、神と人間との無限の質的差異を揚棄できる原理を発見したのである。言い換えれば、西欧、人類は、少なくとも人間的契機の直接性を半分だけは残そうとするローマ三・二二やガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」の目的格的属格理解におけるキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教をも凌駕できる原理を発見したのである。「イエスの信仰」の目的格的属格理解におけるそれは、ヘーゲルの哲学原理にのみ込まれてしまったのである。ヘーゲル哲学との対等性は完全に失い、ヘーゲル哲学以上にはなれなくなってしまったのである。このことを認識し自覚し、このことを神学における思想の課題として担った神学者・牧師・思想家がバルトであった。例えば、バルトが、三位一体論的――キリスト論的な立場に立脚して、「自由」・「主権」は、神自身においてのみ「実在であり真理」である、と述べた時、体系的な哲学者であるヘーゲルの哲学原理を、根本的包括的に原理的に止揚して紙一重で超えているのである。このような訳であるから、もっと言えば、これ以降キリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教は、「イエスの信仰」を目的格的属格として理解する限りは、人間的な実在や人間的な可能性への偏向・偏在している度合に応じて、人間の感覚や知識を内容とする経験や人間論や人間学(哲学原理・認識論・世界観)、時流や時勢、等の後を追う以外に道はなくなったのである。したがって、ルドルフ・ボーレンの聖霊論的説教論に依拠して、「聖霊論的出発が、人間的なるものと、(人間が)なしうることの新しい強調を可能とする」・「聖霊論的出発」は「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」と述べた東北学院大学の神学者の佐藤司郎や、聖霊論的説教論は「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与え得るもの」と述べた日本キリスト教団立東京神学大学の神学者の小泉健は、神学における思想の課題を認識せず自覚せず担わずに、それゆえに状況論を持たず中世的思考への退行と停滞において、出鱈目な戯言に「普遍性と組織性の後光をかぶせて語」っているだけなのである。

 

 ヘーゲル哲学に根本的包括的に原理的にのみ込まれてしまった、すべてのキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教、すべての神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家たちに対して、バルトだけは、全く違っていた。バルトは、時代状況や思想状況を、実感的に認識し自覚していた。したがって、バルトは、停滞と循環を繰り返しているだけの「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」キリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教へと向かおうとはしなかった。言い換えれば、神学者・牧師・思想家であるバルトだけが、自覚的に、現在から未来に生きるキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教における思想の課題を担ったのである。したがって、バルトは、『福音と律法』において、明確に確信をもって、ローマ3・22やガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」を、<主格的属格>としてのみ――すなわち徹頭徹尾、神自身の義そのものとして、啓示・和解として、「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」として、神の側の真実として、一切の天然自然や一切の人間的自然に左右されることのない「本源的な客観性」として、啓示の客観的実在そのものとして、認識し信仰し理解したのである。このような訳であるから、私たちは、狭く閉ざされた停滞と循環を繰り返す神学村落共同体における形而上学的抽象的一面的固定的な神学者(例えば、総花的な『キリスト教神学入門』を書いたA・E・マクグラス)や牧師やキリスト教的メディア的著述家たちの旧態依然な新正統主義という皮相的固定的な評価の仕方の貧しさを払拭して、「イエスの信仰」の属格理解の差異性に基づいて、バルト以外の<自然神学>と、それゆえにバルトの<「超自然な神学」>という根本的包括的な原理的な評価軸を、「連続性と断続性」との構造としてある「段階」概念を、導入したのである。言い換えれば、現在から未来に生きるバルトの「超自然な神学」は、「イエスの信仰」の目的格的属格理解に依拠した一切の<自然神学>・一切の近代<主義>を、根本的包括的に原理的に止揚・揚棄・棄揚して、そこから超出した<段階>のキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教を目指すそれなのである。したがって、マクグラス等々の新正統主義者バルトという括り方は、半分だけは正しいとしても、その一面的で皮相的な括り方・理解の仕方は、根本的包括的には原理的には、バルト読みのバルト知らずとして、出鱈目な戯言でしかない、と言うのである。学としても思想としても全く貧弱な評価でしかないものである、と言うのである。このことは、バルトの自然神学批判の評論を高校の倫理レベルの知識で皮相的一面的に行っていた、バルト読みのバルト知らずの、文芸評論家の富岡幸一郎にも言えることである。どうして、ルドルフ・ボーレンやその亜流の佐藤司郎や小泉健やマクグラス等々が、このような出鱈目な戯言を述べてしまうか? それは、根本的包括的な原理的な問題に引き寄せて言えば、彼らがすべて、「イエスの信仰」を目的格的属格として理解しているからである。その最初から、ヘーゲル哲学に根本的包括的に原理的にのみ込まれているからである。神学における思想の課題から言えば、バルトのようにその課題を認識し自覚し担い念頭に置いて、問題性のある「イエスの信仰」を目的格的属格として理解している旧来訳聖書や新共同訳聖書を読むことをしない場合、すなわち啓示の「概念の実在」としての「聖書」に聞くことをしない場合、その最初から、ヘーゲルの哲学原理に、根本的包括的に原理的にのみ込まれてしまうことは、自然必然なのである。ただ、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」である主格的属格としての「イエスの信仰」(バルトは、明確に確信をもって、「イエスの信仰」を主格的属格として理解した)、啓示の客観的実在そのもの、神自身の義そのもの、「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」、にのみ感謝をもって信頼し固執したバルトだけが、そのことに気づいたのである、そのことを認識し自覚したのである、そのことをキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教における思想の課題として担ったのである。

 

 このような時代状況、思想状況の進展の中で、「西洋の人間は全体として」、「少しばかりの唯一神教、道徳、奥義以上のものを教会の中に見出さなかった……。それ故にこそまた西洋の人間はこれ以上何も教会に拘束されつづけなければならない義務はないということに気づいたのであり」、またこれこそが、「教会がなした喜ばしい発見だったのである」。「決然と世俗的な即事性(≪人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在した不信仰としての<宗教>、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラムの増産、<自然神学>的なキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教≫)へとおもむ」いていったのである。ヘーゲルが人間の対自的で対他的な・他在であって自在な・自由な自己意識・理性・思惟の無限性の原理――すなわち人間に内在する神的本質の原理を発見して以降、「教会……キリスト教」は、そうした「ひとり立ちするようになった近代の人間を原則的に承認」したのであるが――もちろん、私たちは、イエス・キリストにおける啓示の場所・<HQの事柄・総括>の場所で、経済社会構成体の拡大・高次化、科学技術の進歩発達、その知識の増大、そのことによる生活の利便性の向上、を自然史的必然として正直に受けとることができるように、ヘーゲルの発見も世俗的真理として正直に受けとることができる――、その時、「教会……キリスト教」は、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的には「神の言葉の三形態」、に信頼し固執しそれを第一義としないで、尖端的な人間的自然の後を、人間の感覚や知識を内容とする経験の後を、人間論の後を、人間学的な哲学原理・認識論・世界観の後を、追うことへと向かったのである。この、キリスト教宗教の「後追い」的な在り方を、バルトは、「補助的立場」とも述べている。これは、まさしく、キリスト教宗教(教会や神の子どもたち)の、世俗<主義>化そのものであった。神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求も、という<不信仰>としての<宗教>そのものへの偏向・偏在であった。「キリスト教は、イエズス会、プロテスタント敬虔主義、啓蒙主義という関連し合った線の上を通って、等しく、世俗主義的――人間学的(≪神学と人間学との混淆・共労・共働・折衷における営為において、神学は人間学の婢、人間の経験や人間論や人間学の後追い知識≫)になった。それはちょうど中世においてキリスト教が世俗主義的――神学的(≪神学と哲学との混淆・共労・共働・折衷における営為において、哲学は神学の婢≫)になったのと同様である」。したがって、キリスト教は、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在した不信仰としての「『宗教』という一般概念……を発見する」。キリスト教は、自ら<宗教>一般へと邁進していくことになる。すなわち、次のような<宗教>批判の対象としての<宗教>一般へと邁進していくことになる――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)。「神とはまさに、人間の(≪自由な自己意識の無限性の≫)想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『宗教の本質にかんする講演 下』)。この時、問題なのは、価値・第一義性が、その「絶対的な本質(存在者)」・「存在者レベルでの神」を疎外したこちら側から、向こう側に、すなわち疎外された側・「絶対的な本質(存在者)」・「存在者レベルでの神」に転移してしまう点にある、それを疎外したこちら側に自己還帰できない点にある。

 

 このような事態の中で、キリスト教宗教(教会や神の子どもたち)の現存はどのようであったのか? バルトにとって、説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」であるイエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、私たちは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」。このことが「終末論」である。したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。すなわち、三位一体論的――キリスト論にほかならない。ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である。「第一の来臨(≪イエス・キリストの誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末・完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがあるから、説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということ、イエス・キリストにおいて完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)、ということ、である。しかし、キリスト教宗教は、伝道におけるキリスト教と「キリスト教以外の宗教との対決」の課題を、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」の場所において、信・知・キリスト者(教)と不信・非知・非キリスト者(教)とを架橋し、両者の枠組みを取り除き、前者をその現にあるがままの後者に完全に開くことに置かないで、皮相的一面的場当たり的な「有効妥当性」に置いたために、すなわち「ヨーロッパ的――アメリカ的なキリスト教を代表」とすべきか、「アフリカ的ないしアジア的な、土着的なキリスト教を代表」とすべきか、という人間的な実在と人間的な可能性における課題にすり替えてしまったために、それゆえに不信仰としての<宗教>という同じ土俵の上で対決したために、その課題を根本的包括的に原理的に解決することができず、結局、その課題に「終止符をうつことはできなかった」のである。したがって、あの「キリスト教真理」は、「ある時は絶対主義的権威的な人間的真理として、ある時は個人主義的、浪漫主義的な人間的真理として、ある時は自由主義的な、ある時は民族主義的な、あるいは……人種主義的なものとして、現れてこざるを得なかったために、あの「キリスト教真理」――すなわち「裁き、祝福を与える神の真理」「として現れてくることはなかった」のである。このように「キリスト教の歴史」は、パウロ的な「キリスト教的人間」、すなわち「ただその弱さの中でのみ強くあるということ、……恵みをもって足れりとするということが、……ない歴史」であったし、あり続けたし、あり続けている。「それにもかかわらずキリスト教の歴史は全体として、このことを認めようとしない」のである。なぜならば、全キリスト教は、なお旧態依然として、「イエスの信仰」の属格を目的格的属格として理解しているために、ヘーゲルの哲学原理にのみ込まれてしうからである・のみ込まれてしまっているからである。バルトは、次のように述べている――ヘーゲルにおいては、哲学は「本質的にキリスト教の正統的教義と一致する」。この時、「キリスト教のもろもろの根本真理」は、その「哲学によって維持され保管されることになる」。なぜならば、ヘーゲル哲学において啓示は、「意識に対して存在するものすべてのものが、意識にとって一つの対象となる時のような仕方において」現われるからである。この場合、啓示は、人間の直接的で理性的な自己認識と混淆されてしまうから、その哲学は「受け入れ難く耐え難い」ものなのである。ヘーゲルにおけるその啓示・神は、人間自身の自己意識・理性・思惟が「捕えた虜囚」でしかないものとなってしまうから、「受け入れ難く耐え難い」ものなのである。そして、「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」にあるのである。「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」。ブルトマンも、ヘーゲルの哲学原理にのみ込まれてしまった「シュライエルマッハーによって育成されたタイプの神学の主題と方法(≪――神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」、主格的属格としての「イエスの信仰」、「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、にのみ信頼し固執し連帯させられるのではなく、「イエスの信仰」の目的格的属格理解、人間の神化・神の人間化、神と人間・神学と人間学との混淆・共働・協働・折衷、存在の比論、を通した人間の啓示認識および自己認識という主題と方法――≫)を再び採用していた。

 

 このように、人間的な実在と人間的な可能性を手離せない頑なな「キリスト教の歴史は全体として」、啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、に対して感謝をもって信頼し固執しないのである。したがって、その「キリスト教の歴史は全体として」、「恵みに対する反抗」の歴史であり、それは「不信仰であり、不信仰は……それこそまさに本来的な罪」・「真実の罪」である、という認識と自覚を持ち得ないのである。したがって、『福音と律法』の言葉で言えば、その「キリスト教の歴史は全体として」、神の側の真実のみを求めるのではなく、人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求も、人間の「誇り」の欲求も、求め続ける、その無神性・不信仰・真実の罪、についての認識と自覚を持ち得ないのである。このように、キリスト教宗教は、人間的な実在と人間的な可能性への偏向・偏在において、不信仰としての<宗教>そのものへと邁進しているのであるから、ほんとうは、神の側の真実としてのみある、一切の天然自然や一切の人間的自然に左右されることのない「本源的客観性」、「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」、啓示の客観的実在そのもの、それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、「神の言葉の三形態」、にのみ信頼し固執し、絶えず繰り返し、「期待」しつつ、「まことの宗教」・まことのキリスト教宗教へと向かう宗教改革を必要としているのである。このことは、キリスト教宗教が、啓示に固有な証明能力によって、「自分自身の罪を認識しつつ、われわれの罪を無制限にあがなう神の義に頼り、……(≪「不敬虔なる者の義認」としての≫)神の恵みをかたくとって離さないでいることを意味している」――@「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)、A「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」 (『ローマ書新解』)、B「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を「持っている」、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。
 キリスト教宗教は、「恵みの宗教といえどもその内在的な姿においては、恵みに逆らうあの反抗に……参与しているのである」から、引用したように認識し告白する以外にないのである。この時、私たちは、「あの方の祝福をほめたたえる讃美」と感謝をもって、「人間的な主張の放棄」への歩みと、「わたしたちは繰り返し新たに神に言い逆らう者ですというあの告白」を強いられるのであり、その告白をなすのである。すなわち、「恵みの宗教もただ恵みそのものを通してだけ、それであるから決して自分自身を通してではなく、義とされ、まことの宗教とされることができるのである」。言い換えれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事の場所こそが、「自己欺瞞に陥る」ことのない、「まことの宗教」へと向かうことができるそれなのである。「創世記三二・二二以下の箇所」で、「神は――よく理解せよ――ヤコブに勝てなかったと記されている」から、「ヤコブは内在的に見たならば、……恵みの敵であるし、敵でありつづける。そのことをまた、『神と人とに、力を争って勝った』が故に与えられた『イスラエル』という新しい名が示している」。「この出来事の意味と目標」は、@「ヤコブのもものつがいが神によって……はずされたこと」から、「彼は神によって……、……力をそがれた者となり、力をそがれた者でありつづける」、Aヤコブは「神によって祝福されることを切に望」み、神の祝福を求め続けた、B神はヤコブの「執拗な」求めによって、「祝福し給う」、C「ヤコブはこの戦いの場所」を、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きているから」、「ペニエル」(神の顔)と呼んだ、したがって、この場所は、「神のみ顔を見、み顔の中で真理を認識する……場所でなければならないし、ただそのような場所であることができるだけ」である。言い換えれば、この場所は、イエス・キリストにおける啓示の場所、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力の場所である。(<HQの事柄・総括>参照)

 

Cバルトは、「キリスト教に最も厳格に、包括的に、明瞭に対応する『異教』的な平行事象、……宗教形態」として、法然の「浄土宗」と、それを「体系的に展開」し「原理的なものにまで高め」た親鸞の「浄土真宗」を挙げて、親鸞の「信心」について、この信心も阿弥陀仏の方からやってくるのであるが、「人間のなすべきこと、なしうることはただ一つ、人間の側からするいかなる活動(≪自力の計らい、自力作善≫)もなしに、阿弥陀仏(「無量光」・「無量寿」)によってもたらされた救済に対する感謝だけであって、それ以外には何もない」、と述べている。阿弥陀仏による絶対他力による救済、について述べている。バルトは、浄土宗と浄土真宗を、「神の摂理」としての「日本的プロテスタント主義」と呼んだ。それと同時に、バルトは、キリスト教的な「プロテスタント主義」と日本的な「プロテスタント主義」との「同一性について語ろうとすることは、思慮の浅い受け止め方であるであろう」、とも述べている。なぜならば、「恵みの宗教」としての「キリスト教宗教の真理」は、「ただ」、神の「啓示の客観的実在の総内容」であるところの「イエス・キリストというひとつの名」だけであるからである、ここに、根本的包括的な原理的な、差異性があるからである。また、バルトは、親鸞には日本的「プロテスタント主義」としての「神の摂理」性がある、と述べている。いわば、親鸞の教理には、異教的証しとしての日本的「プロテスタント主義」と呼ぶことができる根拠があるのである。そして、バルトは、キリスト教的「プロテスタント主義」と日本的「プロテスタント主義」との差異性について、次のように述べている。
◎後者の浄土運動の出発点は、「救いの道を求める庶民的問いであった」が、前者の宗教改革運動の出発点は、「庶民的な問い」ではなかった。
◎後者の阿弥陀仏には聖性・「神性と怒りについての教説がない」。
◎後者の自力作善・「祭儀的、道徳的な業による義に対する……反対命題」には、「人間の我意と高慢に抗して神の誉れのためにたたかう戦いという強調点」が欠けている。
◎後者が「立つか倒れるかは……寂滅による救い、涅槃、……阿弥陀仏自身それへの途上にある仏性」、「これらすべて……をひたむきに求めてやまない人間の願いの内的な力と正当性にかかっている」。
そしてまた、バルトは、次のように述べている――「非キリスト教的な諸宗教に相対してキリスト教宗教が異なっている本来的、本質的な区別、それとともにまた虚偽の宗教に対する真理の宗教としてのその性格はそれとして、ただ、教会が聖書の指し示しにしたがって……ますます大きな心の喜びをもってただイエス・キリストだけを恵みおよび真理として聞き、宣べ伝え、また信じるということ、イエス・キリストの約束にしたがってこの自分に委ねられた務めに進んで身を捧げ、それであるからまた教会の告白と証言のなかで自らイエス・キリストご自身の告白者、証言者となるということ、そのことが事実であり、現実の出来事として起こる中でだけ、実証されるのである」、と。
 因みに、私は、親鸞とバルトの根本的包括的な原理的な差異性について、次のように言うことができると考える(詳細は拙著185−191頁あるいはホームページを参照)――親鸞の一念義とは、「……一念に……よろずの善はみな包括される」(『一念多念証文』10)・しかもそれは、「(中略)たくさん称える念仏でも、一回きりの至誠の念仏でもない。ただ思議の及ばない、そして口に出すことも説明することもできないような歓喜にみちた安楽の思いだけの信心の在り方」(『教行信証』信巻 吉本隆明私訳)というものである。したがって、真実の信心とは、一切の自力の計らいを為すことなく、「阿弥陀如来の光の中に」包摂され、そしてその「光の中に包まれたときに」、阿弥陀仏の「五却思惟の願」における第十八願が遂げられるところにある。ここに、形も色もなく「無」である阿弥陀仏の方からやって来る「信楽」がある。ここに、親鸞の最後の思想の「自然法爾」がある。それは、「おのずから」「弥陀の本願の光明」(無碍光)に包まれて称名念仏を為し得る場所である。このような親鸞の一念義でも救済される、というこの還相回向での衆生の究極的総体的永続的救済論は、バルトの主格的属格としての「イエスの信仰」に基づくイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)と通底しているという言い方もできる。それは、信仰や救済を、徹頭徹尾全く、自力的な人間的機縁の直接性におかない点にある。ただ、衆生の究極的総体的永続的救済についてであるが、一念義の機縁から外れた衆生の救済も考える場合、やはり一念義でなく無念義でもよい、と言い切る必要があるように思われる。なぜならば、無念義の場合は、一念義の機縁のあるなしにかかわらず衆生の側に全く依存しないところで、阿弥陀仏による究極的総体的永続的救済に根拠づけられるからである。第一に、この点が、神の側の真実にのみ信頼し固執したバルト神学との差異だと思われる。第二の差異は、世界史的段階と時代状況の差異である。社会構成の経済的基盤を農耕におき、思想の構成もアジア的段階にあった、その鎌倉時代を生きた親鸞は、衆生が天災・戦乱・疫病等で苦悩し疲弊している時代状況の中で思想していたし、アジア的な自然を内面の原理としていた。それに対して、バルトは資本制を社会構成の経済的基盤とした、対自的であって対他的でもある自由な自己意識の無限性と西欧近代の限界・危機という時代状況のただ中で信仰し神学し教会の宣教をし思想していた。第三の差異は、次の点にある――戸田伊助は、『十字架につく神』で、「親鸞の教えはパウロの教えによく似ています。(中略)カール・バルトは……『親鸞の教えはキリスト教の異教的証しである』とまで言いました。(中略)カール・バルト先生にそういう情報を流したのは滝沢克己という人ですけれども、しかし私から見れば、これは日本の宗教の本質を知らないバルト先生の勇み足だと思っています」と述べている。私の理解によれば、確かに、親鸞が一念義ではなく無念義でもよいと言い切れば、バルトと親鸞のその救済論の構造はもっと酷似したものとなる。しかし、親鸞の場合は、世界史におけるアジア的な自然をその原理としているという点で、バルトと親鸞との間に、世界史的段階における根本的包括的な原理的な差異を生じさせている。しかし、このような差異は、バルトにとっては第二義的なものである。すなわち、バルトと親鸞における根本的包括的な原理的な差異は、バルトは、徹頭徹尾全く、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」における「神の事実」・「イエス・キリストの名」にのみ、感謝をもって信頼し固執し続けたところにあるのである。

 

 「となる」ことによって「ある」、「まことの宗教」の「存在」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト」における「神の恵みの行為の中で起こる出来事である」。すなわち、「となる」ことによって「ある」、「まことの宗教」の「存在」は、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて起こるのである。それは、キリスト教宗教・「神の教会と神の子供たちが存在する現実存在の中で起こる出来事である」。あくまでもこのような仕方においてのみ、イエス・キリストにおける「神の恵みよって生きる」「まことの宗教の担い手たち」としての「神の教会と神の子供たちが存在する限り、人間の宗教の世界のただ中でまことの宗教が存在する」、と言うことができる。この場合、その「神認識と神崇拝とそれに対応する人間の行為」は、「一方ではあくまで……倒錯……罪……汚れ…無益な手段をもってする虚偽と不正」の「試み」・企てとしてのそれであるのであるが、それゆえに「偶像礼拝……業による義」に対する「神の告訴から免れていない」それなのであるが、それにもかかわらず、他方で、神の側の真実としてのみある、一切の天然自然や一切の人間的自然、それゆえに人間的な実在と人間的な可能性への偏向・偏在、神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求もという無神性・不信仰・真実の罪、によっては左右されることのないところの、「本源的な客観性」である啓示の客観的実在(啓示・和解)そのものである「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」、その啓示に固有な証明能力、に基づいて、「まことに神が認識されあがめられ……まことに神と和解された人々の行動がなされているという」それなのである(<HQの事柄・総括>参照)。すなわち、「彼らの神認識、神崇拝、および教えや礼拝や生活の中での神奉仕は、すべて人間的な思惟、意志、行動に先行し、すべての人間的倒錯を正す神の自由なる愛についての洞察を通して規定されている」それなのである。言い換えれば、あの啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与される、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定によって規定されているそれななのである。この場合、「彼らの神認識、神崇拝、および教えや礼拝や生活の中での神奉仕」は、イエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示・和解)に対する信頼と固執、「信仰と感謝」、として規定される。「彼らの神認識、神崇拝、および教えや礼拝や生活の中での神奉仕」――キリスト教宗教を、「まことの宗教とし、彼らの宗教を一般の宗教史の水準の上に置くもの」は、その不信仰としての<宗教>と同じ土俵で対立したり・公正な愛や寛容の精神で容認し合ったり・利害対立の調整という政治的解決をする点にあるのではなく、あくまでも「神の恵みを通して(≪「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名を通して」≫)神の恵みによって生きるという」点にあるのである。イエス・キリスト、神の言葉、が、単一性・神性・永遠性を本質とする神の「子として人間となり給うたが故」に、それゆえに人間の「功績」やその「ふさわし」さからではなく、「神の子の中で人間を引き受けられた恵みによって」、人間も神的な「み心に適う」「神的適意の対象となったが故」に、また「このひとりの方の中で人々の間での神の啓示、神と人間との和解が一度ですべてにわたって力を奮う仕方で遂行されたが故」に、そしてまた「彼が聖霊を与え給う故」に、「このひとりの方の中で神の教会が存在するし、神の子供たちが存在する」、「まことの宗教」がまことのキリスト教宗教が存在する、と言うことができるのである。このことを、イメージし易くするために、『福音と律法』に即して言えば、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)』(≪――ここでもバルトは、「神の御子の信じる信仰」の<属格>を主格的属格として理解している≫)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。

 

(エ)神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」としての啓示の客観的実在そのものである「イエス・キリストの名を通して(≪その啓示に固有な証明能力を通して、そして「彼が聖霊を与え給うが故に」≫)、イエス・キリストの名を信じる人間が存在する。このことがキリスト信者とキリスト教宗教の自己理解である限り、キリスト教宗教に関して……、……ただそれのみが、まことの宗教である」――この「命題は、四つの特別な観点のもとで展開され、説明されなければならない」。

 

1)「イエス・キリストの名」と「キリスト教宗教」の関係においては、神の側の真実としての「神的な創造の行為」が介在する。すなわち、神の側の真実としてのみある、「本源的な客観性」としての啓示の客観的実在そのものである、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「ただひとりイエス・キリストの名だけがキリスト教宗教を創造した」のである。このことは、「歴史的に……、また直ちに現実的……現在的に……理解されなければならない」。すなわち、キリスト教宗教――イエス・キリストを主・頭とする「神の教会と神の子供たちの地上的――歴史的」な現存は、実体的固定的に理解してはならず、「われわれ自身の現実存在や世界の現実存在と同じように、今日も、昨日と明日におけると同じように」、キリスト教宗教の創造者である三位一体論的――キリスト論的な「イエス・キリストの名を通して」、あの啓示に固有な証明能力を通して、「聖霊の注ぎ」を通して、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を通して、絶えず繰り返し新たに「創造され」なければならないのである。なぜならば、キリスト教宗教は、その創造者である単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名によって……存在したし、いまも存在するし、これからも存在するであろう」からである、またそのことによって、それは、「まことの宗教であったし、あるし、あるであろう」からである、そしてまたそのことによって、それは、「人が神に反逆しつつただ自分ひとりとだけいるのではなく、神との平和のうちに神の前に歩むところの神認識、神崇拝、神への奉仕……であったし、あるし、あるであろう」からである。したがって、「イエス・キリストの名はまさしく、有名な中世の論争の意味での単なる名ではない」・「それはすべての実在の総内容と源泉である」。キリスト教宗教は、「神性」を本質とするイエス・キリストの「人性」の知覚的な「付属物」である。すなわち、それは、主・「かしらであり給うイエス・キリストが彼らをご自分の天的なからだの地上的な形態としてとり上げ、集め給うたことを通して実在へと呼び出された」、「イエス・キリストの名」の「からだおよびその肢体……の生である」。したがって、ヨハネ15・3−5に即して言えば、このイエス・キリストから「切り放されるならば」、また彼から遠ざかり彼に背くならば、そしてまた人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在していくならば、さらにまたただイエス・キリストのみ、だけでなく人間の感覚と知識を内容とする経験や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観へと偏向・偏在していくならば、その肢体は、「幻影」・「非存在の中に、逆戻りして落ちてしまうことができるだけ」である。このように、キリスト教宗教・「彼らは彼の中で生きるか、さもなければ彼らは全く生きないかそのどちらかである」。彼らは、あの「イエス・キリストの名」の「からだおよびその肢体……の生」に「あずかる……参与によって生きるか、それとも全く生きないかそのどちらかを選ぶ選択だけをもっている」のである。

 

2)「イエス・キリストの名」と「キリスト教宗教」の関係においては、神の側の真実としての「神的な選びの行為」が介在する。したがって、キリスト教宗教は、「イエス・キリストの名に対して、……自分独自のものとして主張できるような何もなかったし、何もないのである」。すなわち、それは、「自由な神のあわれみと理解を絶する(≪「神のみ心に適う」≫)神の適意に基づいていて」、それゆえに「それ以外の何ものにも基づいていない選びの基礎の上に、実在となる」のである。したがって、それは、「徹頭徹尾まさにイエス・キリストの名の中で古い契約が成就したことから」、それゆえに「この名を前提」として、「ユダヤ教の発展と、ローマ皇帝時代における地中海周辺の国々の政治的、精神的、道徳的な諸条件を考慮に入れて」、キリスト教宗教の「発生と必然性の……唯一の歴史的な説明と由来の解明」、「イスラエルと結ばれた契約の歴史からの説明と解明」を行う時、「有無を言わさぬ仕方」でその「事情を明らかにするものとなる」のである。「まさにその当時、そこで、そのようにイエス・キリストの名の中でご自分を啓示することが神のみ心に適ったということ、……その必然性をそれ自身の中にもっていた」のである。キリスト教宗教の現存は、「イエス・キリストの名のゆえに、実在であり、単なる非実在でない時、そのことは昔から今日にいたるまで、神の自由なあわれみと意志による選びによる」のである。これは、「神の真実と忍耐」による「継続的ナ選ビ」である。すなわち、キリスト教宗教の現存は、「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」自らが、それを自らに「結びつけ」るところで成立する「神の真実と忍耐」によるのである。したがって、それは、神の義務ではないところのあくまでも神の「恵みであって、……決して人間的な功績ではないし、キリスト教的な功績でもない」のである。したがって、例えば「教会がみ言葉と聖礼典をつかさどるということも、……聖書と信仰告白をもっているということも、……すべて選びであり、……恵みである」。それ自体聖霊の業である啓示の主観的可能性としての、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」も選びであり恵みである。また、「教会の(神)礼拝が、単にユダヤ教の会堂の礼拝と古代末期の密儀宗教の礼拝とが奇妙に入り混じった変種であるばかりでなく、(≪「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執する≫)霊とまことをもっての礼拝であるならば、それは選びである」。また、教会が、「ひとつの随意的な宗教結社であるばかりでなく、キリストのからだである」ならば、また国家や社会に対して、「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執することにおいて、「真正の対立関係」(結局はそれらは人間自身が支配し管理するものであるから、どのような社会構成やどのような支配構成にも然りとは言わないで、絶えずそれらから対象的になって距離をとること)を維持し、「まさにそのようにして真正の交わり」を行うならば、「それは選びである」。したがって、このことから、「キリストと同じ形になること」を目指す形成倫理学としての「時代の現実との関連における神学」(「状況連関神学」)、すなわち「神学的なもの」と「政治的なもの」との「必然的関係」および「正しい関係」に仕えるものであるという、「倫理―隣人愛―仕える教会―信徒―民主主義的社会主義―平和運動」を主張するクラッパートやその亜流の寺園喜基の発言は、まさしく人間的実在と人間的可能性に偏向・偏在した不信仰としての<宗教>そのものとして神学的に全くの駄目な戯言でしかない水準のものである。もちろん、それは、人間学的にも全く駄目な戯言でしかない水準のものである。なぜならば、民主主義的社会主義を理想的な政治形態だと考えているからであり、革命の過渡的課題と究極的課題との構造的把握がないからであり、過渡的課題に属する人間の政治的観念的部分的な解放の構想(例えば、社会よりも国家を第一義・価値とする国家主義を越えようとする、彼らの言う理想的な政治形態としての民主主義的社会主義)は述べていても、国家の無化を伴う人間の社会的現実的な究極的総体的永続的解放の構想を全く述べていないからである。また、いずれにしても、「神学が対象のない、空虚な学問でないならば、……(≪すなわち、あのイエス・キリストにおける啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて≫)本当に神の言葉を聞き、注釈し、教会の教えが純粋さを保つよう奉仕しているとするならば、そのことは選びである」。このような仕方で、神の側の真実――「本源的な客観性」である神性を本質とする「イエス・キリストの名」を通して、イエス・キリストにおける啓示の場所において、「われわれは……キリスト教的敬虔性……キリスト教的慣習……キリスト教的愛の活動……キリスト教的教育……キリスト教的政治について言うことができる」。このような仕方で、「『キリスト教的』という重要な形容詞」が「本当に力をもつところ、そこでは選びが起こったのである」。例えば、次のように言うことができるであろう――「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(≪支配・権力としての政治的な観念の共同性である国家に価値を置くのではなく、そうした法的政治的な支配・権力を無化していくこと≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか(『キリスト者共同体と市民共同体』)・「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の法的政治的な支配・権力、政治的国家≫)のともがらと成ることができようか(『教義学要綱』)。イエス・キリストの名にのみ信頼し固執したバルトは、その完了された救済と平和の場所において、法的政治的権力、政治的国家、の問題を不可避な過渡的問題として捉えると同時に、究極的永続的課題としては、法的政治的権力、政治的国家、の無化の課題を構造化させているのである。すなわち、バルトは、イエス・キリストの再臨、終末、救贖・完成においては、法的政治的権力、政治的国家、は無化されてしまうという観点を持っているのである。
 私には、ここで、思い起こしてもらいたいことがある。「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊を、ある程度研究する必要がある」と述べたバルトの言葉に耳を傾けず、それゆえにまた、三位一体論的――キリスト論的なバルトの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成も理解せず、恣意的独断的に『教会救義学』のうち「第三巻第四部(邦訳『創造論IV』全四冊)だけはぜひ読んだほうが良い」、と知ったかぶりして出鱈目にバルトを論じている佐藤優のことを思い起こしてもらいたい。この佐藤は、国家論(革命論と言ってもいい)における過渡的課題と究極的課題を認識せず・理解せず・持たずに、国家を実体化し、その上で権威と権力の概念的区別をして、権威としての天皇制的な<国家主義>を妄想する、知ったかぶりで出鱈目なキリスト教的メディア的著述家に過ぎないのである。この佐藤が、自分を一流だ・エリートだと勘違いして一流主義とエリート主義を標榜しているのだからあきれてしまうのである。また、その佐藤を、ある一部か多くかは知らないが、その佐藤を根本的包括的に原理的に批判もしないで、日本キリスト教団の神学者たちや牧師たちや教会や教団首脳部やキリスト教メディアが組織的に温存させているのだからあきれてしまうのである。このような訳であるから、ほうとに、私たちは、佐藤だけでなく、メディア的な知識や情報を含めて、知識人や神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家の知識や情報を、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。

 

 このような訳であるから、神と人間との無限の質的差異という関係性のように、「イエス・キリストの名」と「キリスト教宗教」の関係は、「ひっくり返すこと」ができない転倒不可能なそれなのである。「(汝ら)主こそ神であることを知れ。われらをその民、その牧の羊たらしめたのは主なる神であって、われわれではない(詩篇一〇〇・三、ルター訳)」・「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである(ヨハネ一五・一六)」――これらの言葉は、「啓示宗教の教団に対して向けられている」。しかし、キリスト教宗教・「神の教会および神の子供たち」には、常に「繰り返し身近に迫ってくる」「誘惑」が、あの関係性の転倒への「誘惑」が、「イエス・キリストの名」を「随意的な付加物のように見」る「誘惑」が、イエス・キリストの名(福音)を「理念」や「有神論的形而上学」や「われわれに管理されるプログラム」や「鋭さをなくした」「十字架象徴論」や「<暗号>に過ぎない」「神秘主義」へと変えていくという「誘惑」が、あるのである。確かに、私たちは、恣意的独断的な人間的な欲求と必要から、人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求から、人間によって「選ばれた、繰り返し選ばれた……(≪人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」、その神の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラム、人間自身の意味的世界、としての≫)イエス・キリストの名を、一八世紀から二〇世紀にかけてのほとんどの神学全体の中で、そしてまた……敬虔性および教会性の中で、見出す」ことができるのである。この事態は、現在においても、綿々として尽きることなく、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した不信仰としての<宗教>、<自然神学>的なキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教の中に、見出すことができるのである。「ほとんどのキリスト教宗教」・信仰・神学・教会の宣教「全体」の中に、見出すことができるのである。内在的に「もともと……キリスト中心的ではなかった」ところの外在的な「キリスト中心的」神学という「一八世紀のライマールスや一九世紀のDav.Fr.シュトラウスや二〇世紀のA・ドレウス」に対する「学問的な護教論的熱心さ」の中に、見出すことができるのである。したがって、「この時代の敬虔主義と信仰覚醒運動のイエス崇拝」には、「深く疑わしい点」が「つきまとう」のである。人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した人間的な「選ぶ」という「誘惑」、人間的な宗教への「誘惑」がつきまとっているのである。「わたしとわたしの家とは共に主に仕え」るが、「あなたがたは……、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々」、「メソポタミヤの神々」「カナンの神々」「今……住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(ヨシュア二四・一五以下)。「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ一六・一三以下)と聞かれ、弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「エレミヤだ」、「預言者の一人だ」、と人間の側からする「選ぶ」ことをしているのであるが、ペテロ(教会の信仰告白)は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。バルトは、この「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい、と述べている。受肉・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している。バルトは、「新約聖書的――キリスト論的命題」について、次のように述べている――@「まことの人間」として、「神の子あるいは神の言葉が人間、ナザレのイエスである」。A「まことの神」として、「人間ナザレのイエスが神の子あるいは神の言葉である」。これは、啓示の弁証法として理解されるべき命題である。このイエス・キリストの名で語るべき「最初にして最後のこと」・「イエス・キリストは誰であるか」という問いに対する答えは、単一性・神性・永遠性を本質とする「まことの神にしてまことの人間である」というその神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業)、啓示・和解、神の子、神の言葉、という点にある。したがって、「神であり給う言葉が人間となったのであって、決して神性それ自体が人間となったのではない」。また、三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストは単一性・神性・永遠性を本質としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、啓示・和解として、「イエス・キリストは神の子」・神の言葉・神の第二の存在の仕方なのである。このキリストの神性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解(神の第二の存在の仕方)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」、イエス・キリストが単一性・神性・永遠を本質としているから、「啓示と和解を生じさせる」のである。すなわち、ヨハネ1・14の「言葉は肉となった」という新約聖書の中心的命題、そのヨハネの「言葉」は、三位一体における神の単一性・神性・永遠性をその本質とする「神的な創造主、和解主、救済主なる言葉、神の永遠のみ子」・「まことの神にしてまことの人間である」イエス・キリスト(神の第二の存在の仕方、啓示・和解、神の子、神の言葉)、という点にあるのである。
 「ルターやカルヴァンの神学はもともとから……、そのような奇妙な下心や呼び名なしにも、キリスト中心的であったから……、……あとからはじめてキリスト中心的になる必要などなかった……」。言い換えれば、両者は、根本的包括的に原理的に、キリスト中心的であった。イエス・キリスト自身によって選ばれたことによって、そのイエス・キリスト自身を通して、その啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、「イエス・キリストの名を選ぶ」のである。「神の自由の中で既に下された決断に対する服従の決断というものが、聖書によって……イエス・キリストの名を信じる信仰の決断、として記述されているところのものである」。この場合、「イエス・キリストの名を肯定する肯定の力」は、人間的な実在と人間的な可能性における力・人間の力ではなく、「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」・「その名自身の力である」。(<HQの事柄・総括>参照)

 

3)「イエス・キリストの名」と「キリスト教宗教」の関係においては、「神的義認あるいは罪の赦しの行為」が介在する。このことは、キリスト教宗教は、その「罪深い」「教会の歴史も個人としての神の子供の生涯の歴史も」、「まことの宗教」となる「ふさわしさを(≪自分自身に、自分自身の固有性として≫)もっていない」・「まことの宗教であるのに全くふさわしくない」・神の啓示から下される不信仰(無神性)としての「すべての宗教は偶像礼拝であり業による義であるという判決」と裁きの対象そのもの、ということを意味している。したがって、キリスト教宗教は、「罪人を義とする神的義認のおかげで、神的な罪の赦しのおかげで、まことの宗教となる」、と言わなければならないのである。すなわち、それは、「イエス・キリストの名自体の自由と力」としての「選び」を通して「まことの宗教」となるのである。このことは、啓示・和解そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの名の性質・行為・働き・業である。したがって、このイエス・キリストの名にのみ、感謝をもって信頼し固執する時、「教会と神の子供たちが彼らの汚れの中できよくあり、贖われた者が彼らの全く贖われない姿の中で贖われた者であるところの言葉」を聞くことができるのである。
 この「主張」を、「決定的に確認し、すべての恣意から救い出し、徹頭徹尾必然的な主張とさせるところの事実」――人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観、等によっては判断を下すことができない事実、は、神の側からの「神の義と裁き」・神の「光」・「神の秩序」・<HQの事柄・総括>にあるのである。なぜならば、神の側の真実としてのみある、一切の天然自然や一切の人間的自然に左右されることがないところの「本源的な客観性」であるイエス・キリストの啓示の場所においては、「神の義と裁きの光は人間的な宗教の世界の上に、この世界の一部分の上に」、すなわち「キリスト教宗教の上に、おちてくる」からである。私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神の側からの「神の義と裁き」・神の「光」・「神の秩序」・<HQの事柄・総括>、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけ、だからである。この啓示の場所は、すべての教会や神の子供たちの信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるからである。
 「われわれが」・キリスト教宗教が、「この啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」――すなわち神の側からする「神の義と裁き」・神の「光」・「神の秩序」・<HQの事柄・総括>において、「言い渡されている(≪神の≫)判決を認識し、承認する時、われわれは」・キリスト教宗教は、「その判決を、それが言い渡されているままに」、自らもその対象そのものであるものとして、それゆえに恣意的独断的な弁解や策を弄することなく、その神の判決を「それが言い渡されているままに……受けとらなければならない」のである。キリスト教宗教・「われわれは……、神の事実がひとたびそこで出来事となって起こり、その判決がひとたび下された後では、もはや」、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した不信仰としての<宗教>、<自然神学>的なキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教に停滞し循環することはできないのである。この時、「全く何の功績やふさわしさ……なし」の私たちは、「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」――「福音と律法」における「真理性と現実性」の構造、啓示・和解の客観的現実化(客観的現実性、客観的実在)、「神的義認あるいは罪の赦しの行為」(「無罪判決」)を、「かたくとって放さないでいることができるだけ」なのである。したがって、バルトは、次のように言うのである――@「教会は、(≪啓示に固有な証明能力に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪神の側の真実としてある、啓示・和解の客観的実在そのものである、主格的属格としての「イエスの信仰」の出来事、インマヌエルの出来事≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」・「(≪したがって、そうでない場合は≫)、どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」のである、と(『啓示・教会・神学』)。
 「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」――「福音と律法」における「真理性と現実性」の構造、啓示・和解の客観的現実化(客観的現実性、客観的実在)、「神的義認あるいは罪の赦しの行為」(「無罪判決」)、神の側からの「神の義と裁き」・神の「光」・「神の秩序」・<HQの事柄・総括>における、「キリスト教宗教の義認は正しい、しかし徹頭徹尾神の義に基づいている、それであるから徹頭徹尾キリスト教宗教の何らかの性質を通して条件づけられているのではない無罪判決であるという理由の故に……キリスト教宗教の義認」は、「罪の赦しの行為以外のものとして理解されることはできない」のである。「ただ赦しとしてのみ」、キリスト教宗教は、「真理を自分のものとする」ことができるのである。なぜならば、キリスト教宗教・「われわれは……全く何の功績やふさわしさ」を持ってはいないからであり、「キリスト教宗教の性質の総和というものも、また偶像崇拝と業による義、不信仰、したがって罪(≪『福音と律法』では、人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求は、「無神性」、「不信仰」、「真実の罪」と呼ばれている≫)であるということから成り立っている」からである。この場所で、バルトは、『福音と律法』において、次のように述べたのである――人間が、キリスト教宗教が、人間的な「巨大な欺瞞」・人間的な<宗教>を惹き起す根拠は、義認の唯一の根拠である主格的属格としての「イエスの信仰」・「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」・神自身の義を、すなわちイエス・キリストが「律法の終わりとなられた方」であることを、聞かず承認せず、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在して、神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求も、という神との「共働」・共労・共働(無神性・不信仰・真実の罪)を求め続けるところにある。その場合、人間、キリスト教宗教は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」を、人間的な「巨大な欺瞞」・「無数の儀文」・「偶像崇拝」・「神冒?」、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラムとしての<宗教>を、つくり上げるのである。そして、それに基づいて、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する、「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」、と。このような存在・このような思考・このような実践は、人間的実在と人間的な可能性に偏向・偏在した不信仰としての<宗教>のそれである、という認識と自覚が必要なのである。そのような存在・思考・実践は、「まことの宗教」の根拠でも・原動力でもない、という認識と自覚が必要なのである。自らのキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体に、自己相対化視座を持たなければならないのである。神学における思想の課題、思想の往還、過渡的課題と究極的課題との構造的把握、等を持たなければならないのである。そうでない場合、その存在・その思考・その実践は、形而上学的抽象的皮相的一面的固定的場当たり的なものとしかならないのである。
 マタイ26・6―13、マルコ14・3―9は、啓示に固有な証明能力に基づいて、一般的真理ではなく、啓示の真理・信仰の真理における思想の言葉で言えば、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な相対的・一面的・部分的・過渡的・緊急的な救済の言葉に対して、啓示・和解の客観的実在そのものであるイエス・キリストは、還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な全人間・全世界・全人類の救済の言葉を投げかけているのである。したがって、バルトは、確信をもって、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪認識≫)していない」だけである、と述べたのである。また、宮沢賢治は、『農業芸術概論綱要』で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べ、『よだかの星』でも全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという思想の往還に基づく課題を提示した。私たちは、このように語るバルトや賢治に、人間的、また、知識的、神学的、仏教的、文学的、そして思想的、な質の良さを感じるであろう。このバルトや賢治に対して、佐藤優は、『はじめての宗教論』で、「究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察」すると述べ、神学研究の本質と教会の責務は「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」、と尤もらしく聞こえる言葉で根本的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて、形而上学的抽象的皮相的一面的な戯言を述べていたのである。佐藤の語り方は、その国家論と同じように、キリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教における思想の課題、思想の往還、過渡的課題と究極的課題との構造的把握、等を持たない皮相的一面的固定的な語りでしかない水準のものなのである。冨岡幸一郎の、バルトの自然神学論がそうであった。ほんとうのことを正直に言えば、ここに、キリスト教的メディア的著述家の実姿があるのである。

 

 罪の赦しの行為としてのキリスト教宗教の義認は、啓示(和解)の客観的実在そのものである「イエス・キリストの名という啓示された神の事実」、神の側の真実、一切の天然自然や一切の人間的自然に左右されることのない「本源的な客観性」に基づく、「神の義と裁きの行為」である。「啓示された神の事実」の秩序――すなわち「イエス・キリストの名」の秩序は、神の側からの「神の義と裁き」・神の「光」・「神の秩序」・<HQの事柄・総括>のことである。したがって、この場所においてのみ、人間の「能力」、人間の「理性や力よっては」、無神性・「不信仰としての宗教だけが生まれ出てくる」ことが、見渡せ、認識することができるのである。
 さて、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」――この啓示の真理によれば、人間は、自主性・自己主張・無神性・不信仰・真実の罪を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である。この人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避する人間が生きるためにのみ、その死を欲し給う。しかし、人間はその神の要求(律法)に対してさえも、聞き従おうとはしない。したがって、福音の内容は、神の自由な愛によって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、その神の要求に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)というところにあるのである。すなわち、このインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆(≪・共労・協働・共働≫)されぬように、統一し給うた」ということを内容としているのである。まさにこの「福音と律法」の「真理性」の内容は、主格的属格としての「イエスの信仰」そのものなのである。したがって、バルトは、次のように言うのである――神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」、啓示(和解)の客観的実在そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストの人間的な性質の中」で、「人間は、偶像礼拝と業による義を盾にとって神に逆らう代わりに、神に信仰の服従を捧げ、それであるから神の義と裁きを実際に満足させ、したがって彼の無罪判決を、したがってまた、まさに彼の宗教の無罪判決、義認、を実際に勝ち取ったのである」、と。この啓示の真理・啓示の弁証法におけるバルトの語り方を、私たちは何度も聞いている(このことも重複するが、書いておこう)――@「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(前掲書)。B「もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている」その通り―一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を「持っている」、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが「できる」と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)「わたくしは信じる」とかれが言うのは、「主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい」という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう(≪その願いに対する、神のその都度の自由な決断による、啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事を通してのみであろう≫)」(『福音主義神学入門』)。
 唯一イエス・キリストがかしら・主であるキリスト教宗教における教会や神の子供たちの「地上的な生活」は、イエス・キリストの「人間的な性質との交わり」、その「主ご自身の正義と義にしたがって勝ちとられた無罪判決にあずかる参与」、「いかなる人間によっても模倣されることができない、義とするイエス・キリストの信仰の後に従う信仰であるならば」、その時は、彼らのキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教は、「そのほかどの宗教の信仰とも同じように、神の赦しを必要としているのであるが」、それゆえに「厳格な、正しい神の判決」・裁きの下にあるのであるが、それと同時的同在的に、神の「赦しを実際に受け取り、持っている」、と言うことができるのである。この赦しは、彼らが自分自身の何らかの尽力の「功績」によって「勝ち取ったのではない赦し」、主格的属格としての「イエスの信仰」・神自身の義そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの死(旧約・「神の裁きの啓示」・律法・古い世)と復活(新約・「神の恵みの啓示」・福音・新しい世)を通した、すなわち「福音と律法」の「真理性と現実性」の構造における、一切の天然自然や一切の人間的自然に左右されることがないところの、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」によって授与される「赦し」である。したがって、啓示に固有な証明能力に基づいて授与される、この啓示認識・啓示信仰に立脚しないところの、それゆえにかしら・主である「み子の地上的なからだの地上的な肢体」となろうとしないところの、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在するキリスト教宗教における教会や神の子供たちの、その信仰・神学・教会の宣教は、その存在・その思考・その実践は、無神性、「異教主義と同様の不信仰」、「虚偽……不正」としての<宗教>としかならないのである。その場合は、無神性・不信仰としての<宗教>そのものである、ある人間・神学者の<宗教>、ある人間・牧師の<宗教>、ある人間・キリスト教的メディア的著述家の<宗教>、としかならないのである。このような訳であるから、「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン(その学派)≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神(≪――なぜならば、ブルトマンは、「神の言葉の三形態」の第一形態である啓示の客観的実在そのものであるイエス・キリストを捨象してしまって、前期ハイデッガーの哲学的原理・「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された啓示・存在者・存在者レベルでの神を第一次的なものに形式変換し、新約聖書の使信・証言を、その第一次的なものに「従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの」として第二次的なものへと形式変換する、ことをその神学の原理・認識方法と概念構成、としているからである――≫)への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と根本的包括的に原理的に揶揄・批判したハイデッガーには正当性があるのである。神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」である単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せる場所であるから、キリスト教宗教における教会や神の子供たちの信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所であるだけでなく、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所でもあるのである。したがって、「イエス・キリストの名という啓示された神の事実」・神の「光」・<HQの事柄・総括>は、「ひとつの、唯一の、まことの宗教に創造し選ぶところの創造と選び」である、と言うことができるのである。この場所においてのみ、私たちは、「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執したいというキリスト者として、アウグスティヌスをアンセルムスをルターをカルヴァンを、ヘーゲルを・フォイエルバッハを・マルクスをハイデッガーを、吉本隆明を宮沢賢治をドストエフスキーを、等々を、正直受けとることができるのである。なぜならば、神は、「すべての人間、人類全体、に反対して、同時にまたすべての人間、人類全体に味方して、正しい立場を占め給う」からである、イエス・キリストにおける救済・平和(史)は、完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的なそれだからである。したがってまた、それは、全人間・全世界・全人類に対する、神の「光」だからである。このような訳であるから、バルトは、この「イエス・キリストの名という啓示された神の事実」・神の「光」・<HQの事柄・総括>の場所、イエス・キリストにおける啓示の場所、において、「ただキリスト教だけが、……すべての宗教に対して唯一のまことの宗教として出会ってゆき」、絶えず繰り返し、自らを含めたすべての宗教を揚棄して「まことの宗教」へと「立ち返るように招き、要請する委任と全権をもっている」、と述べたのである。したがって、バルトは、この場所を、キリスト教宗教における教会や神の子供たちが、確信をもって自分のものとする場合、その程度に応じて、そのキリスト教宗教・信仰・神学・教会の宣教は、「生命力ある、健康な、強いものであるだろう」、と述べたのである。したがってまた、「イエス・キリストの名という啓示された神の事実」・神の「光」・<HQの事柄・総括>、イエス・キリストにおける啓示の場所、を捨象しあるいはそれと並んで、恣意的独断的な神に対する無知の熱心さ・敬虔さから、人間的な実在と人間的な可能性において、そのほかの「自分の望み」・自分の欲求を、「教会的な制度」の構想を、「神学の体系」の構築を、「個々の信者の内的体験、道徳な意味での生活の改善」を、ある<主義>を、ある<民族>を、ある<人種>を、「世界をかえてゆくキリスト教全体」の働きを、目指して推進していく時、それは決して「まことの宗教」への道ではなく、無神性・不信仰としての<宗教>そのものへと向かう道なのである。それは、「キリスト教宗教の不確実さをもたらす」道なのである。

 

4)「イエス・キリストの名」と「キリスト教宗教」の関係においては、「神的聖化の行為」が介在する。すなわち、「イエス・キリストの名の啓示の歴史的現象および歴史的手段となるところの」キリスト教宗教における教会や神の子供たちは、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」――啓示(和解)の客観的実在そのものであるイエス・キリストの名によってのみ、その神の義によってのみ、その「義認、創造、選び、の光」によってのみ、「義とされ」、聖化され、ほかの宗教から「区別され、分けられ、……形造られ、形成され、その奉仕へと要求され」るのである。「神の側での出来事に対して――それは結局、神の受肉した言葉、人間をとり上げ、ご自分のものとし給うた神の側での出来事であるが、その神の側での出来事に対して――徹頭徹尾神の言葉を通して規定されたものであるのであるが、人間の側でのある、全く特定の出来事が対応している」。私たちは、この言葉から、すぐに、バルトが、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とそのキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的に、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、について述べていることに気づくであろう。この授与された啓示の主観的実在である啓示認識・啓示信仰は、「ただこの名(≪イエス・キリストの名≫)を証しし、ただこの名への想起とこの名への待望を呼び覚まし、目覚めさせておくことができる」それである。そして、それは、ただ「聖霊の注ぎの中で働くイエス・キリストの名の力と権威にしたがって」のみ、それゆえにまた「イエス・キリストの名の力と権威が命じるままに、語り、……また沈黙」して、その啓示の「真理を指し示し、……宣べ伝える限りにおいてだけ、真理に参与する」ことができるのである。ここに、無神性・不信仰・<宗教>の揚棄としての、イエス・キリストの名による、「神的な設定と任命の故に」、「特別な存在」と「特別な形態」としてのキリスト教宗教における教会や神の子供たちの、その信仰・神学・教会の宣教の「神的聖化」の介在を垣間見ることができるのである(<HQの事柄・総括>参照)。キリスト教宗教における教会や神の子供たちは、「それ自身」全く「決してきよくはない」から、「それ自身」の「きよさ故」に「義とされているのではない」。それは、「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」、神の義そのものによって、「義とされるが故に、また聖化されるのである」。したがって、それは、「聖化される時に、まことの宗教となることができる」のである。啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力を通して、「イエス・キリストの名を告げ知らせるために召され、能力を与えられた実在(≪――「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」、その啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示の主観的実在としての啓示認識・啓示信仰――≫)の中での教会と神の子供たちの現実存在、それがキリスト教宗教の聖化である」。ここに、キリスト教宗教が、教会や神の子供たちが、無神性・不信仰・<宗教>を揚棄して「まことの宗教」となる根拠と原動力があるのである。啓示(和解)の客観的実在そのものである「イエス・キリストという名」だけが、「キリスト教宗教の義認であるばかりでなく、またキリスト教宗教の聖化」でもあるのである。「キリスト信者は罪人であり、教会は罪人の教会である」。しかし、それと共に、彼らを義とする、イエス・キリストの名、神の義そのもの、の「言葉と霊の力で、また聖化された罪人、換言すれば……啓示の秩序のもとにおかれた罪人、彼らの罪深さの全体の中で……彼らを義とし給う主を想起し、主を待望しなければならないところの罪人、……主の指示のもとに立っている罪人、である」。「ただ単にイエス・キリストにあっての世が神と和解させられたという和解の事実が存在するだけでなく」、その「和解の中で、和解と共に、はじまった人間的な願い、『神の和解を受けなさい』(Uコリント五・一)が存在する」。すなわち、神の恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音の形式である律法が建てられるのである。なぜならば、この律法(神の要求・要請)がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのである。したがって、この神の律法(神の人間に対する要求)は、人間はただの人間でしかない以上、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストを模倣することではないし、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもないのである。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、その素直な感謝の応答・告白・証し・宣べ伝えにあるのである。したがって、それは、
@神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエスの信仰」に基づく神の義そのものにのみ信頼し固着すること、すなわちその神の義そのものとしての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し固着すること、そしてその素直な感謝の応答・告白・証し・宣べ伝えにある。
A「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということにある。
B「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れるということにある。
これら@からBまでの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理」、キリスト教宗教における教会や神の子供たちが、自分「自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである(<HQの事柄・総括>参照)。「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝える」(Uコリント四・五)ということである。「それであるから(≪「主なるイエス・キリストを宣べ伝える」≫)それは厳格な意味で」、「啓示された神の事実」、「イエス・キリストの名」、神の義そのもの、による「神的な義認の行為を通し、この義認を基礎づけている神的な創造と選びを通して、徹頭徹尾拘束され、徹頭徹尾神的義認の行為」、それゆえに神的聖化の行為、に「依存している出来事である」。すなわち、具体的には、それは、「啓示された神の事実」、「イエス・キリストの名」、その啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される啓示の主観的実在としての啓示認識・啓示信仰への感謝をもった信頼と固執の出来事である。(273−301頁)