本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的実在(その1の1)」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的実在(その1の1)」(3−40頁)

 

次回は、『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的実在(その1の2)」、
それ以降は、『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の1)」、
『教会教義学U/2 神の言葉 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の2)」、
『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「宗教の揚棄としての神の啓示(その3)」、と続いていく。

 

(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください)

 

 

 聖書によれば、神の啓示は、「神(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神≫)の聖霊がわれわれを、神の言葉を認識する(≪啓示の客観的実在であるイエス・キリストにおける啓示・和解を信仰し、感謝をもってそれに信頼し固執する≫)ように照らし出すことの中で、出来事(≪啓示に固有な証明能力に基づいた、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事へと架橋される信仰の出来事、啓示の主観的現実化の出来事、啓示認識・啓示信仰の出来事≫)として起こる」。このように、啓示に固有な証明能力における、神の第三の存在の仕方(性質・行為・働き・業)である「聖霊の注ぎは、神の啓示である」。したがって、それは、徹頭徹尾、あくまでも神の啓示に固有な証明能力に基づいた、主観的現実化における神の啓示、すなわち終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の<授与>と享受の出来事である。したがってまた、この「啓示の主観的実在」、「父と子より出ずる御霊」、すなわち神性を本質とする神の第三の存在の仕方である「聖霊の注ぎ」においてのみ、「神的証言の受領者」として「神の子供である」という「神のための人間の自由」・神のための「われわれの自由」、また「神をその啓示の中で(≪啓示の客観的実在であるイエス・キリストにおける啓示において≫)認識し、愛し、賛美する」という「神のための人間の自由」・神のための「われわれの自由」、は成立するし・成立している(3頁)。

 

 さて、この聖書に依拠した「理性的な定式化」と同時に、バルトは、『神の言葉』論において、次のように述べている。
1)「それ以前に語られた神自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」・「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には…真理が来るということのしるし」である。
2)三位一体の根本命題に即して理解すれば、聖霊なる神は、「三度目」に、父と子の二つの存在の仕方から生じる(「父ト子ヨリ出ズル」)「一つの存在の仕方」である。しかし、この聖霊の存在の仕方は、父と子の啓示に対する「特別な第二の啓示」ではない。聖霊は、「父なる神と子なる神の愛の霊」である。ここに、聖霊の「起源」がある。この聖霊において、父と子(≪神的対関係≫)は、愛に基づく完全な共存的な関係・交わり(≪神的共同性≫)においてある。すなわち、聖霊は、その「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの行為・性質・働き・業である。ここに、神は愛・愛は神であることの根拠がある。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である。愛は、自由がそうであったように、先ず以て神自身においてのみ「実在であり真理」である。この聖霊は、三度目の最後的な「存在の仕方」として、神にとって最高の法則・愛であって、その愛に基づく父の「存在の仕方」と子の「存在の仕方」の交わり・関係であり、神と人間との交わりの根拠である。このことは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与される啓示認識・啓示信仰である。すなわち、私たちは、この神の、外へと向かう・人間へと向かう三つの働き・「存在の仕方」における啓示の「事実」を、ただ承認し受認し確認できるだけである。「父と子より出ずる御霊」――これは、聖霊の「神性の定義」である。この聖霊は、復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である。聖霊は、「啓示への個人的な参与を保証する」。パウロにおいて、「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊」・「知恵と啓示の霊」による「神の啓示への参与」、すなわち聖霊の注ぎによる信仰の出来事における「人間の思惟、行為、語ること」を、「主観的に表示している概念」である。また、「キリストにあって」とは、啓示の客観的実在であるイエス・キリストにおける出来事と「全く同じ事柄を、客観的に表示している概念」である。聖書によれば、聖霊は、私たち人間の「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけではない。聖霊は、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また、「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、神性を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの「信仰」・神との出会いであるイエス・キリストとの出会い――「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによる。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事・啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである。すなわち、私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、自然の一部である全人間・全世界・全人類の救済・平和が、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在であるイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)にのみあることを認識し信仰することができる。

 

 また、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、すなわち私たち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在として、「成就と執行」として、「永遠的実在」として、<すでに>ということである。

 

 「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、@私たちが、「一人の主」なる神をのみ、「主として持つ自由」を私たちに与えるがゆえにそのように告白することを要求する。A私たち人間の「中に」も・「中から」も、「純粋なもの、聖いものは何も出て来」ないと告白することを要求する。B私たち人間の「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできない」と告白することを要求する。C私たち人間の究極的限界性・終末論的限界を告白することを要求する。イエス・キリストが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主」としての霊と「真理の御霊」である。この聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」ものであり、「キリストについて語ることができる能力」授与(ヨハネ14・26)であり、「上から」の「よき賜物」である。この聖霊の注ぎにより「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換におかれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることであるが、そのことは、私たち人間が、その存在・その思惟・その実践において、ローマ書3・23やガラテヤ書2・16等の「イエスの信仰」を、神の側の真実としてのみ、すなわち徹頭徹尾全く天然自然や人間的自然に左右されない、啓示の<客観的>現実性・啓示の客観的実在としてのみ、<主格的>属格としてのみ、認識し・理解し・信仰し、その、神の側の真実にのみ、イエス・キリストにのみ、啓示の<客観的>現実性・啓示の客観的実在にのみ、信頼し固執することを意味している。この聖霊が、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせるのである。また「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ8・15、ガラテヤ4・5)ことができる。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、授与者と受領者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである。これらのことは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通して得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定であある。

 

 また、バルトは、『教会教義学 和解論T/1』においては、次のように述べている――「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べている。

 

 これらのことから、私たちは、神学における思想的課題である一切の近代<主義>・一切の<自然神学的なもの>を、その信仰・神学・教会の宣教の原理、認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に止揚し超克して、そこから超出していくことを三位一体論的――キリスト論的に目指したバルトが、<不可避的>に、次のような教説の構成へと向かうことをすぐに認識し理解することができる。
ア)神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示としてのイエス・キリストにおける啓示の出来事である啓示の客観的実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)においてある、という教説の構成へと向かうことを認識し理解することができる。
イ)今回のこの『神の言葉 神の啓示 聖霊の注ぎ』論の次には、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、『神の言葉 聖書』論および『神の言葉 教会の宣教』論の構成へと向かうことを認識し理解することができる。

 

「聖霊、啓示の主観的実在」――

 

 「聖霊、啓示の主観的実在」は、「啓示概念の内容」、すなわち「われわれに対して神が啓示されてある」という啓示の「概念の実在」を問う「第三の問い」の展開である(4頁)。言い換えれば、それは、「聖書の中で証しされた啓示を念頭」に置いた、「神の言葉の三形態」における啓示の客観的実在そのものの、その啓示の主観的現実化、いわばキリスト教に固有な類・歴史性としてある聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義――その啓示の「概念の実在」、の根拠・源泉・原動力を問う問いの展開である。したがって、「啓示の主体を問う」「第一の問いに対する答えは、自ら啓示者であり、自らその啓示の行為であり、同時にまた自らその啓示されてあることであり給うところの神」、すなわち「存在」上も「認識」上も、神自身においてのみ「実在であり真理」である他在であって自在としてのその自由・主権において、単一性・神性・永遠性を本質とする、三位一体の神についての認識へと展開された。「その一つであることと三つであること、三つであることと一つであることの中での、父・子・聖霊についての教説の中で、展開された」。そして、「まさに三位一体論を念頭においてこそ第二の問い、神から……の啓示の実在を問う問い、がさらにまた独立的に立てられ、答えられなければならなかった」。そして、続いて、あの「聖霊、啓示の主観的実在」という「第三の問いを……われわれの三位一体論的な考察とも、それからまたキリスト論的考察とも、できる限り厳密に関連させつつ」、「独立的に答える……務めを」なさなければならない(4頁)。

 

 聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き・業)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがって、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さなのである。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現、の愛に基づく交わり≫」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」に対応している。この神は、「隠蔽」と「顕現」において、その啓示の弁証法において、またその都度の自由な決断において、「人間に対して自己を伝達」・啓示する。

 

 教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・協働論という<宗教>としての<自然神学的>な神論・キリスト論・聖霊論の陥穽に陥っていく以外にないからである。
(1)先の「第三の問いの特別な意味を、特にあの第二の問いとの関係の中で、明らか」にしようとする場合、神自身においてのみ「実在であり真理」である自由において神が人間のために人間へと向かう「啓示」(神のイエス・キリストにおける自己啓示、啓示の客観的実在)が、「啓示されてあること(啓示が主観的現実化されてあること、啓示の主観的実在)へと架橋されることの根拠・源泉・原動力(「聖霊の注ぎ」)を問う問いに対して、三位一体論的に、単一性・神性・永遠性を本質とする「唯一のまことの神にして主なる方ご自身」が、神の第三の存在の仕方である「聖霊の『位格』」において、「われわれにとって神が啓示されてある」という「答え以外の答えは存在し得ない」。このことは、問いに対する「答えの源泉および標準としての」「聖書的な啓示証言」によれば、「神ご自身の現臨としての啓示は、……神からの出来事であるだけでなく、同時に」、人間のために人間へと向かう出来事であるから、それゆえに、その啓示それ自体が、啓示に固有な証明能力を持っている、ということである。言い換えれば、このことは、啓示それ自体に存在している、啓示それ自体が持っている、聖霊の注ぎによる、人間に対する啓示の「受容性」の授与・「神の啓示が人間に及ぶこと」・啓示認識あるいは啓示信仰・啓示の主観的現実化・啓示の主観的現実性・「啓示の主観的実在」ということを意味している。したがって、神の啓示は、人間の側からする証明を全く必要としないのであり、それゆえに<宗教>としての<自然神学的>な、人間の側からする共働・協働・共労を全く必要としないのである。(4−6頁)

 

ア)「神の啓示が人間の身に及ぶ」時、すなわち聖霊の注ぎによって、終末論的限界の下で、人間に対して啓示認識・啓示信仰が授与(啓示の主観的現実化、啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在)された時、その人間は、神と人間との無限の質的差異において、「神に向かって自由」にされた人間・神に向かって架橋された人間、すなわち「神のための」「自由」を授与された人間である。なぜならば、問いに対する「答えの源泉および標準としての」「聖書的な啓示証言」によれば、「自由」は存在的にも認識的にも神自身においてのみ「実在であり真理」であるから、「神に向かっての」・「神のための」「自由」は、神の啓示それ自体から授与されるものだからである。言い換えれば、その人間におけるそうした人間の自己認識・自己理解・自己規定は、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰(啓示の主観的現実化、啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在)に依拠した啓示の類比・信仰の類比・関係の類比を通してのみ、授与されるものだからである。したがって、人間の自由な自己意識の無限性という「もともと人間に固有である自由を問う問い」、すなわち<宗教>としての<自然神学的>な、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に基づく存在の類比を通した自由論は、「聖書によってあらかじめ与えられている答え」とは「決して対応しない」のである。(4−6頁)

 

 このことは、啓示認識・啓示信仰(啓示の主観的現実化、啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在)における、「認識」と「単なる知識」との差異性の問題を喚起する。バルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝を持って信頼し固執する啓示「認識」・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではない。神の言葉は、「人間の現実存在の内部」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・感情や自己意識・理性・思惟や実存や意志・人間論や人間学的な哲学原理や認識論や世界観の中にはないのである。なぜならば、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。神の言葉は、その都度の神の自由な決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」る。この神の隠蔽性・神の秘儀性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に神の不把握性と終末論的限界(≪自己相対化≫)の前に立たされるということである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」である啓示の出来事と「聖霊の注出」においてのみ可能となるのである。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、すなわちイエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことのない<宗教>としての<自然神学的>な「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。

 

 「われわれがいま『啓示の主観的実在』について語る時、『主観的』という概念は、以上述べた意味で用いられている」(7頁)。このことを「福音と律法」理解におけるバルトとルターとの根本的かつ究極的な差異の問題に引き寄せて言えば、その差異は、バルトにおける「イエスの信仰」の主格的属格理解――神の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおける完了された自然の一部である全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)、啓示の<客観的>現実性――と、ルターにおける「イエスの信仰」の目的格的属格理解――神の側の真実だけでなく、神との「共働者」・「協働者」・「共労者」を目指す啓示の主観的現実性――との差異にある。ここに、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生じる「生の不安」の根拠があるのである。それに対して、バルトは、次のように言うのである――@その「生の不安」は、神性を本質とするイエス・キリストの死と復活によって、包括され止揚された・「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」である、と。また、A私たちキリスト者自身の、信にある不信の不安は、神性を本質とする主格的属格としての「イエスの信仰」によって、信にある不信を包括し止揚した・「克服した」それである、と。バルトは、次のように述べている――「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、と(『福音と律法』)。

 

イ)前述したことから、「われわれはまず第一に」、事実質問としての、人間における「神に向かっての自由」・「神のための……自由」の「実在」の根拠・源泉・原動力とは何か? について問わなければならない。そして、「そのあとに続」いて、了解質問として、人間における「神に向かっての自由」・「神のための……自由」の「実在」の可能性について問わなければならない。言い換えれば、これらの問いは、事実として存在する、イエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在)に基づく、人間が人間的に所有する人間の啓示認識――聖性・秘義性・隠蔽性における神の不把握性と終末論的限界の下でのそれ――という、啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、についての問いである。したがって、<宗教>としての<自然神学的>な神と人間との・上と下からの「協働」・「共働」・「共労」を目指す要求、それゆえに人間の対象化された自己意識・理性・思惟の類的本質・「人間の管理するプログラム」やユートピア・「存在者レベルでの神への信仰」を目指す要求は、すなわち先ず第一に了解質問である「啓示の可能性を問う問い」への要求は、<必然的>に、神と人間との無限の質的差異の揚棄と「啓示の否定を意味する」のである。したがってまた、「こうした要求そのもの」は、「撤廃されなければならない」のである。バルトの啓示認識の可能性の問いを誤解したままバルトを批判したトラウプの直接的無媒介的な人間的自然に基づいた啓示認識の方法に対して、逆にバルトは根本的な批判を加えたことについてはすでに述べたので、ここでは省略する。

 

 バルトは、「神の啓示の可能性を問うすべての問いに際して」、事実質問として、「神の啓示の実在」・神の啓示の客観的実在である神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事が第一次的・第一義的に「前もって考慮に入れ」られるべきである、と述べた。したがって、バルトは、このことを考慮に入れて、神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的実在、啓示の実在そのもの)と、またその出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく(啓示の出来事と信仰の出来事を媒介とした)<聖書>の証言・証しおよび<教会>の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)においてある、と述べたのである。すなわち、了解質問における「洗礼によって確認される恵み」・人間の救済・平和に関わる「信仰の確実性」・「単なる知識」とは異なる聖霊の注ぎによる<啓示認識・啓示信仰>について語ること・「提示すること」は、人間の自由な自己意識の無限性としての人間に内在する神的本質・人間の側からする「精神的――内在的な確実さ」について語ることではなく、先ず以って事実質問における神性を本質とするイエス・キリストにおけ啓示の<客観的>実在について語ることであり、それに続いてその啓示に固有な証明能力に基づいて、「恵みと聖霊の真理について……語る」こと・「提示すること」である。(7−9頁)

 

 この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」、すなわち聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事・聖霊の真理の授与・啓示認識また啓示信仰の主観的現実化のことである。救済をこの「信仰の中で持つ」ことは「約束として持つ」ことである。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、イエス・キリストにおける啓示の<客観的>実在における「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての<いまだ>であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。

 

 「そのようなわけでわれわれが第一に神が人間のために啓示されてあることの実在……からだけ出発しなければならない」。

 

ウ)神性を本質とするイエス・キリスト・「神の言葉に対して信仰と服従を捧げる人間の現実存在」、すなわち人間においてその「神の言葉に対する信仰と服従が存在するという事実」は、第一次的な啓示の客観的実在であるイエス・キリストにおける啓示の出来事と同様に、「真剣な意味で、聖書的啓示証言の内容である」。聖書また教会の宣教において神は、人間のために人間に向かって、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示された、その啓示の客観的実在(神の子・神の受肉した言葉)、その啓示されてあること、「それ故に人間は神の言葉の聞き手および行為者となるということ」、そうした神の側の真実における「恵みの遂行」によって、「イエス・キリスト、神の子、は、多くの兄弟を得、したがってその永遠の父は多くの子供をもつようになり給うということ」は、「聖書的な啓示証言の、啓示そのものの構成要素、主要な、直接的に、不可欠な仕方で事柄に属している構成要素である」。したがって、<神の側の真実>としてのみ、「『神がわれわれと共に』いますということ、を語らしめなければならない」。このことは、啓示それ自体の中に、「神がわれわれのもとで、われわれの中で、啓示されてあるということも、……含まれている」ことを意味している。すなわち、それは、啓示それ自体が持っている、啓示に固有な証明能力のことである。この場合、人間が人間的に所有する人間の啓示認識は、常に、神と人間との無限の質的差異の下にあるということを、神の聖性・秘義性・隠蔽性における不把握性と終末論的限界の下にあるということを、意味している。これは、<宗教>としての<自然神学的なもの>の否定の規定である。言い換えれば、これは、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの正当性のある根本的な<宗教>としてのキリスト教批判に対する、根本的包括的な止揚・克服の規定として、神学における思想の言葉である。

 

 このようなわけで、「聖書の中で語られている人間」は、「神の相手および同労者(≪「協働者」・「共働者」≫)」では決してないし、「自分で決断するのを常としている観点や原則を持ったわれわれ自身」・自由な自己意識の無限性における人間ではないのである。すなわち、「神と聖書的人間は、主が僕に向かって相対して立つように、創造者(単一性・神性・永遠性を本質とする、父)が被造物に向かって、和解者(単一性・神性・永遠性を本質とする、子)が恵みをうけた罪人に向かって、救済者(単一性・神性・永遠性を本質とする、聖霊)が自分の救済を待ち望んでいるものに向かって、相対して立つように、またちょうど聖霊が処女マリヤに相対して立つように、相対して立っている」。神の自己啓示は、神自身の自己認識・自己理解・自己規定そのものであるが、それゆえに、それ自体でそれ自体の証明能力を持つその啓示は、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与し、それに依拠した啓示の類比・信仰の類比・関係の類比を通して、人間の自己認識・自己理解・自己規定を授与するのである。このようにして、「聖書はわれわれに対して事実単に神についてだけでなく、また人間についても……語」るのである。「人間に対して働きかけ給う」、「父ト子ヨリ出ズル」神性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊の「業は啓示であり、そのような聖霊の業の認識は啓示認識であり、したがって啓示証言を認識することに基づいている」。このようなわけであるから、「われわれは、神が人間に対して、人間のもとで啓示されるようになることの実在に関して、聖書とは違う認識根拠から……何かを知るようになるであろうことを期待することはゆるされない」のである。したがって、「まさに、神のみ前にあっての人間に関してこそ、聖書でもって十分である」と受け取るように「聖書によって拘束されているのである」。したがって、バルトは、例えば『説教の本質と実際』において、「説教者が実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言い尽くしていない」から、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍やさまざまな情報が不足している「と考えるようなことがある限り」、その説教者は、「この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていない、と述べたのである。聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の客観的実在としてのイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である。 すなわち、教会の宣教における原理は、<宗教>としての<自然神学的>な人間学の後追い知識としての「宗教的な人間論」や「キリスト教的人間論」の構成やその増産を目指すことを拒否しているのである。(9−12頁)

 

エ)さて、前述した聖霊の注ぎによる啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在を、「最大の自明性をもってユダヤ会堂もキリスト教会も、正典結集に際して、(≪三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」のうちの≫)啓示証言の、……啓示そのものの、本質的な構成要素として考慮に入れた」。このことは、三位一体論的――キリスト論的な原則であるから、啓示の客観的要素と主観的要素を「従属説的に」思惟し・語ることを原則とすることはゆるされないのである。したがって、バルトは、「ローマのミサの第一部において、使徒書よりも福音書の方を……強調していることは、従属説的な思惟の動きを思わせる疑わしい慣行である。また(十八世紀以来のプロテスタント神学を動かしてきた)『イエスとパウロ』をめぐっての論争……ましてや『イエスかパウロか』をめぐっての論争」も、「はっきりと苦痛なものであった」・それは、「ほとんど悲劇的――喜劇的な何か」であった、と述べた。言い換えれば、それは、人間的な恣意や独断によって、啓示の客観的要素を揚棄し、啓示の客観的――主観的な構成要素を、三位一体論的――キリスト論的に構造として・同時性として・同在性として把握し受け取らないで、その啓示の一面を拡大鏡にかけて全体化して、すなわち<自然神学的>に人間の自己意識・理性・思惟を関与させるべく啓示の主観的要素を全体として、把握し受け取るというものであった。その先駆は、アウグスティヌスであった。また、「聖霊の神性」を前提として、ルターは、罪人の義認論を、「啓示の秘義の宣教たらしめた」。そしてまた、カルヴァンは、罪人の聖化論を、「啓示の秘義の宣教たらしめた」。このように、両者は、<自然神学的>な側面を持つものであったが、「聖霊の神性」を前提としたために、その神学の<自然神学>性を表面化させることはなかった。この意味で、宗教改革の教義を「主観的な教義と呼」ぶことはできる。すなわち、それらの「教義の特別な対象」が、自在であって他在としての神の自由における人間のための人間へと向かう、イエス・キリストにおける出来事(啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)よりも、「むしろまさに聖霊の中で現実のものとなった」、神だけでなく人間もという、すなわち神と人間との「共労」・「協働」・「共働」という「神に向かっての人間の……自由であった」という意味で、そうであった。ルターの「イエスの信仰」の目的格的属格理解がそうであった。ルターのその理解の仕方・概念は、近代以降において、「聖霊の神性」も揚棄した、人間の対象化された自己意識・理性・思惟の類的本質としての<宗教>・<自然神学>を自己増殖させる根拠・源泉・原動力となった。啓示の一面的な主観的要素を拡大鏡にかけて理解したルターと違って、その客観的要素――主観的要素の構造・同時性・同在性として理解したバルトは、「福音と律法」理解について、次のように言うことができた――「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、私たちを「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことである。なぜならば、人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではない。したがって、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」、と(『福音と律法』)。

 

 ブルトマン神学の認識方法および概念構成は、先ず以て第一次的・第一義的な啓示の客観的実在であるイエス・キリストにおける啓示の出来事を揚棄してしまって、そして前期ハイデッガーの哲学的原理、すなわち「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された啓示・存在者・存在者レベルでの神を<第一次的>・第一義的なものに形式変換し、新約聖書の使信・証言を、その第一次的なものに「従事することにおいてのみ真であり、重要である」<第二次的>なものへと形式変換する、というものであった。まさしく、それは、<宗教>としての<自然神学>そのものであった。また、ブルトマンは、前期ハイデッガーの哲学的原理によって対象化された人間の自己意識・理性・思惟の意味的世界である啓示・存在者・存在者レベルでの神を第一次化すること自体が、自己自身の「非本来的存在から本来的存在への」・「過ぎゆく存在から将来の存在への移行の歴史」であり、信仰であり、説教であるとした。これもまた、まさしく、<宗教>としての<自然神学>そのものであった。ハイデッガーが、ブルトマンとその学派に対して「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と正当性のある根本的な批判をしたにもかかわらず、神学における思想の課題に対して無頓着で・無知で・無自覚なブルトマン等は、その神学における思想の課題を理解できず、それゆえにその課題を真剣に担うことができなかった。ブルトマンとブルトマン学派は、啓示それ自体が持つ、啓示に固有な証明能力を認識し理解することができなかった。その場合、キリスト論は、「秘義のないキリスト論」となった。その極限に「史的イエス」があった。(12−13頁)

 

オ)「啓示の客観的特殊性」に対して、「啓示の主観的特殊性」が対応している。「特定の、歴史的な場所に……立って」、「神の選びと招命を通して」、「神の言葉を聞くということを通して、聖霊の証言を通して」、啓示を授与された人間は、旧約聖書に従えば、神が「契約を結ばれ」た「ご自分の裁きと約束のもとにおき給うた」神の民・「イスラエルの民」に所属しているし、新約聖書に従えば、その「頭として」イエス・キリストが「現臨し給う教会」に所属している。神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味している。この神性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。言い換えれば、そこにおいて、バルトの現存性は、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に不可避的に連帯するのである。この場所で、バルトは、現在から未来に生きる言葉について、次のように語るのである――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」、と (『ローマ書』)。

 

 しかし、この所属が、啓示の受領者であるということを保証しない。言い換えれば、神は、その所属性に決して拘束されないから、「ある特定の場所」において、「ただ神のみが彼らを、啓示の受領者とし給う」。したがって、旧約聖書においては、神の民に所属しながら、「神を誇る代わりに、(≪神の民、イスラエルの民、イスラエル的<民族>教団としての≫)所属性を誇りうるよう」に思惟し実践するほんとうの「啓示の受領者とならないものたちに対する裁き(≪限界づけ≫)のしるしとして、……神の語る言葉を聞き、神に聞き従った異邦人が出現しなければならないのである」。したがってまた、「旧約聖書的な矯正の継続」において、新約聖書においては、そのような「異邦人」が「イエスがメシヤであることの予期しなかった告白者として登場する」のである。すなわち、教会は、異邦人がつけ加わってくることによって、すべてのものが「身をかがめる方のからだ(≪神性を本質とするイエス・キリストのからだ≫)として、確認され、啓示されるのである」。したがって、旧約聖書と新約聖書との総括において、特殊<イスラエル的民族>教団を根本的包括的に止揚し克服した「特定の場所」、すなわち神性を本質とするイエス・キリストを頭とする<普遍的>な教会において、「神ご自身が、……人間をその啓示の受領者とし給う」、と言うことができる。すなわち、「イエス・キリストに相対してまず第一に信者がおり、それからこれらのものから形成されて教会が存在するのではなく、まず第一に教会があって、それから教会を通し、教会の中で、信者が存在するのである」。このことを、『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』においては、バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」、と述べた。

 

 また、「確かに神は教会に対しても、ちょうどユダヤ会堂に対してそうであったように、全く拘束されてい給わない」。したがって、その神は、「神を誇る代わりに」、その<神的側面>における教会の宣教を揚棄してしまって、ただ単に、皮相的部分的な、時流や時勢への即時的迎合により<人間的側面>の制度としての教会体制の維持拡大だけを目指す、そうした「大群衆を……擁」することを目指す、そしてメディア的有名人や「優れた個人」を即時的に擁護する、そうした「所属性を誇りうるよう」に思惟し実践する者たちに対して「裁き(≪限界づけ≫)」を置く。それは、神自身においてのみ「実在であり真理」である自由による、啓示それ自体が持つ、啓示に固有な証明能力である。それは、「聖性」・「秘義性」・「隠蔽性」を本質とする神の不把握性であり、終末論的限界である。それは、啓示の客観的実在であるイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく、またその聖霊によって更新された理性(この理性も聖霊ではない)による人間が人間的に所有する人間の啓示認識の部分性(限界性)である。それは、神の自己啓示、神の自己認識・自己理解・自己規定、イエス・キリストにおける啓示の出来事、啓示の客観的実在そのもの、啓示の真理、永遠、超歴史、啓示の時間、救済史は、<常に>、人間が人間的に所有する人間の啓示認識、概念、教義、人間の自己認識・自己理解・自己規定、人間の歴史・時間の、<彼岸・外>にある、ということである。それは、啓示は、神の不把握性・終末論的限界において、人間の「言葉性に縛」られることはないのであり、逆に人間の「その言葉性の方が神に縛られている」ということである。それは、史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」について語っているということである。それは、「神と人間との間に起こったもろもろの歴史」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史認識・概念の、彼岸・外にある、ということである。すなわち、聖書証言の報知における歴史(Gschichte)・「特殊な歴史〔的出来事〕」については、いかなる「『史実的な(historisch)』判断」認識・概念もあり得ないということである。

 

 したがって、教会の宣教――その内的で不可視な<神的側面>および第一次的・第一義的な啓示の客観的実在であるイエス・キリストと共に彼の「言葉、証言、宣教、説教」である聖書が教会に宣教を義務づけている、その外的で可視的な教会の宣教(説教と聖礼典)――における、また教会の一つの機能である教義学における、その語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、人間の側の決定事項では決してないのである。したがってまた、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明かにするのは」、徹頭徹尾、神性を本質とする「聖霊」の業に属しているのであるから、その「聖霊の交わりにおける人間の実存」に依拠したバルトは、ブルトマンに対して、啓示に固有な証明能力に基づいて、啓示を、人間的な恣意や独断によって「例証」しようとはせずに、「解釈」(「別の言葉で同一のことを言うこと」)して、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」、と述べたのである。このバルトは、『説教の本質と実際』においても、次のように述べている――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」であるイエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、私たちは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」。このことが「終末論」である。したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である。「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末・完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある。説教は、説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている、と。(14−18頁)

 

カ)教会的な聖霊の注ぎによる啓示の主観的実在の教説は、「聖書的な……キリスト教に共通な教説(≪キリスト教に固有な類・歴史性≫)である」。旧約聖書において、ヤハウェが「契約の民」に語られるように、福音書において、イエス・キリストは、特殊<イスラエル的民族>教団を根本的包括的に止揚し克服した「特定の場所」(「民族教団の……成就された形態」である教会)、すなわち神性を本質とするイエス・キリストを頭とする<普遍的>な教会――「み言葉を通して呼び出され、呼び集められるべき」「教団に属する肢体」として、「語りかけ給う」。この「イエスの招きの結果」は、「イスラエルの十二の部族が可見的になってくる」「十二人の群れ」において存在している教会、「岩(マタイ十六・十八)の現実存在である」。「彼らに対して主は、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるであろう(マタイ二十八・二十)」、「ふたりまたは三人」が、イエス・キリストの「名によって集まる所に……いるであろう(マタイ十八・二十)」、と「主は彼らに約束し給う」。「彼らに対して、聖霊が約束される(使徒行伝一・四以下)、また(≪「みんな一緒に集まっていた」≫)彼らの上に……聖霊は、ペンテコステの日に実際に注がれる」。このように、また「決定的な一つの個所、すなわちガラテヤ一・十五以下に出てくる、パウロの回心」のように、「自明的にキリストにある存在」は、「教会」における「存在」と「事実的な単一性で見られ、理解されている」。ルターも、そのように見、理解した――(小教理問答書)「聖霊は福音によってわたしを召し、その賜物をもってわたしを照らし、まことの信仰のうちにわたしをきよめ、支えられる」・このことは、「聖霊が地上の全キリスト教会を召し、集め、照らし、きよめ、そして唯一のまことの信仰のうちに、すなわちイエス・キリストのみ手のうちに、保たれるのと同様である」・「そのキリスト教会において、聖霊はわたしとすべての信徒の日毎のあらゆる罪をことごとくゆるし、そして終わりの日に、わたしたちとすべての死人をよみがえらせ、またわたしとすべてのキリスト教徒に永遠の生命を与えられる」。(大教理問答書)聖霊は、「キリスト教会……によって」「わたしたちをきよめる」・なぜならば、「第一に聖霊がこの世において特別の交わりを持ち、この交わりが母体となって、神の言葉により、ひとりひとりのキリスト者を生み、ささえるからであり、そして聖霊はこの御言葉を啓示し、はたらかせ、<人々の>心を照らし、これに点火して、御言葉をとらえ、受け入れ、これにすがり、そのもとにとどまるようにさせ給うからである」。(説教)「汝はコノ教会ノ中ニいるのであり、聖霊ハ汝を〔コノ教会ノ中ニ〕福音ノ宣教ヲ通シテ導き入れ給う」・「それであるからキリストを見出したいと思うものは、誰でもまず教会を見い出さなければならない」。ただここで言われている教会は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるあの「神の言葉の三形態」における教会のことである。キリスト教に固有な類・歴史性に不可避性に生きる教会のことである。決して人間の恣意や独断による形而上学的抽象的空論的幻想的教会のことではないのである。したがって、そこでの教会の一つの機能としての教義学も、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるところの、啓示の客観的実在である神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事の宣べ伝えを目指すことなない「単なる知識」としての、すなわち「何らかの抽象で以て始められ何らかの空論で終わるところの」形而上学教義学は、それがたとえ「考え深い才知豊かな、また一貫した仕方」のものであったとしても、その教義学は、「教義学としては非学問的」なものなのである。「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」とは、神学も理性的・思惟的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、ということである。(18−21頁)

 

 このことは、「福音と律法」論においては、次のように言うことができる――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就の時間は、「新しい世」のはじまりである。私たちは、この啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」としての成就された時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識することができる。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識することができる。

 

 教会は、(≪啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪主格的属格としての「イエスの信仰」の出来事、インマヌエルの出来事≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」・「(≪したがって、そうでない場合は≫)、どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。

 

キ)教会は、<宗教>としての<自然神学>の系譜に属するシュライエルマッハーが言うような、「『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』」や「『敬虔性と関連した共同体』」ではない。したがって、そこにおける信仰も、シュライエルマッハーが言うような、人間実存の歴史的存在の一つの在り方ではない。神学における「近代<主義>的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っている」だけなのである。いわば、人間自身の対象化された自己意識・理性・思惟の類的本質・意味的世界・人間<教>なのである。「存在者レベルでの神」であり、その神への信仰なのである、<宗教>としての人間・シュライエルマッハー<教>そのものなのである。したがって、近代<主義>にとって、宣教は、イエス・キリストを頭とする教会における神的側面とキリストの神性を恣意的独断的に揚棄した「『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。したがってまた、シュライエルマッハー等近代<主義>者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、存在者レベルでの、「神の名において、神の呼びかけのもとに」、自分自身の恣意的なプログラム・「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪宗教としての彼自身の対象化された自己意識の意味的世界・彼自身の管理するプログラム≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである」(『啓示・教会・神学』)。

 

 まさしく、そのような教会は、「教会でも何でもなく、むしろ罪の産物、教会の中での堕落の業である」・「教会があるところ、そこでは常に……もともと教会でないところの教会も、存在している」、「常に」、人間の欲求・自主性・自己主張の実現を目指す、<宗教>としての<自然神学的>な「罪と堕落……も起こっている」。近代以降は、そうしたことに自覚的でない場合、必然的にすぐに、「イエス・キリストが教会の主」であるにもかかわらず、人間的側面の制度としての「教会」を「イエス・キリストの主人」としてしまう、<宗教>そのものへと堕落していく。三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」から言って、「教会は、言うまでもなくイエス・キリストに相対して、いかなる意味でも決して自主独立的な実在ではない」、人間の「理性、意志、感情の絶対主権性に基づいてキリストに向かって決心した」わけではない。このことに自覚的でない場合、「キリストはただ賓辞に過ぎ」なくなってしまう。神性を本質とするイエス・キリスト「ご自身が決して主辞であり給わない教会であるところ――そこではその教会自身が罪の教会、堕落の教会、異端的な教会、となってしま」うのである(22−24頁)。このことは、現存する、いつも停滞と循環を繰り返す、「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わる大学社会の神学」村落共同体やそれに類する教会村落共同体を見・考えれば、すぐに分かることである。

 

ク)「教会」は、「それを通してすべてのものが造られた」・「それを通して神が万物を担い給う」「一度語られた時」には、その言葉は「必ず後に続いて」生起する「肉となっ言葉」・「イエス・キリストからである」とは、「自由、主権」は神自身においてのみ「実在であり真理」であって、それゆえに啓示に固有な証明能力に基づいて、「言葉を与える主」は「信仰を与える主」であるから、教会・教会の宣教は、<不可避的>に、「啓示の認識原理」である三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事、すなわち「神の言葉の三形態」である先ず第一次的・「第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の客観的実在そのものである神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と、教会に宣教を義務付けている「教会の宣教の原理」としての聖書の証し・「言葉、証言、宣教、説教」および教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯すべきことを意味している。したがって、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示・和解――「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々」・全人間・全世界・全人類のために、「キリストは死に、甦られた」、すなわちインマヌエル、「神、罪深きわれらと共」ということ――についての聖書の証し・「言葉、証言、宣教、説教」が「教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。この意味において、バルトは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と言うのである。

 

 「イエス・キリストの故に〔存在する〕神の子供たちの生が教会の実在、啓示の主観的実在である。恵みの言葉の全能の故に、あの、身に及ぶ出来事が、したがって神の子供たちのこの生が、存在するが故に、神の子供たちのこの生が存在する限り」、そこにおいてのみ、「教会ノ外ニ救イナシが妥当する」。なぜならば、キリストの復活と再臨との間の聖霊の時代においては、「この出来事を通して言い表されている範囲の外には、(≪「神の言葉の三形態における≫)啓示の実在(≪啓示の客観的実在である神性を本質とするイエス・キリスト≫)は存在しない」からである。啓示に固有な証明能力に基づいて、「神の言葉の三形態」を、「かたくとって離さない」時にのみ、啓示の実在は存在するからである。言い換えれば、キリストの復活と再臨との間の聖霊の時代における、神論の「決定的な重要な要素」であり「啓示の認識原理」である三位一体論の唯一の啓示の類比である神の言葉の実在の出来事、すなわち「神の言葉の三形態」の構成要素の一つである教会・教会の宣教の実在は、先ず第一次的・「第一義的……原理」としての<神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事(啓示の客観的実在そのもの)>と共に、教会の宣教における「原理」である<聖書>に信頼し固執する時にのみ、終末論的限界の下で、その神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける完了された、その現にあるがままの、不信・非知・非キリスト者(教)の、全人間・全世界・全人類の、究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)の連続性に感謝をもって信頼し固執し生きることになるからである。したがって、このような教会、このような教会の宣教においてのみ、神性を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体に向かっての運動」において、その現にあるがままの不信や非知や非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれるのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』)。バルトの前述した「運動」は、寛容の精神とか意志とかという人間的自然に根拠づけられた、狭く閉じられた、上から目線の、エキュメニカル運動とか、宗教間対話とか、神学と人間学との対話とか、神学と科学との対話とか、神学とマルクス<主義>との対話とか、時流や時勢との迎合とか、即時的な大衆迎合・大衆啓蒙とか、というような形而上学的抽象的皮相的空想的な運動では決してないのである。バルトは、神学における思想において、根本的包括的なのである。教会は、前述したように、人間が、「人間にあまりに信頼」し、「神にあまりに信頼」しないことによって、あるいはその両者の「協働」・「共働」・「共労」によって、成立している「宗教的共同体」・宗教的共同性ではないから、「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなる」のである(『キリスト者共同体と市民共同体』)――そこには、教会は存在しないのである。また、「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ところには、教会は存在しないのである。また、宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」・党派的共同性・党派的多元主義・国家主義等におくところには、教会は存在しないのである。(25−27頁)

 

(2)教会は、「神の言葉の三形態」の構成要素として、啓示の実在そのものに根拠づけられ従属させれれている、「人間的な集まりであり、制度……でありつつ」、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事の一つである。この意味で、教会は、「神の啓示の実在以外の何ものでもない」・また、それは、啓示それ自体が持つ、啓示に固有な証明能力における、「神ご自身の業である」(37頁)。「聖書的な等置」――すなわち、教会は「キリストのからだである」(ローマ12・4以下、Tコリント10・16以下および12・12以下、コロサイ1・18、24、エペソ1・22以下、4・12、5・23、29以下等々)とは、次のことを意味する。

 

ア)第一に、それは、教会の歴史的現実存在において、終末論的限界の下での、「独一無比性」としての神の第二の存在の仕方である神性を本質とする「イエス・キリストの人格〔位格〕の中で起こった神の受肉」(啓示・和解、インマヌエルの出来事)の「繰り返し」・反復・「例証」ではなく「解釈」・媒介・告白・証し・宣べ伝え、ということである。

 

 このことは、次のように、言い換えることができる――@神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味している。この神性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。言い換えれば、そこにおいて、バルトの現存性は、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯するのである。A「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではない。言い換えれば、あのインマヌエルの出来事が惹き起こされた場合、「肉の世から神の子供たちの生活へと目覚め」させられるのである(36頁)。あのインマヌエルの出来事が惹き起こされた場合、新約聖書の使信において、私たち人間は、「見えないもの、知りえないもの、勝手に処理しえないものへの信頼としての信仰」へ、「自己自身の現在から神の将来への方向転換」へ、「そのことによって神と(≪マタイ26・6−13およびマルコ14・3−9にあるように、人間の、直接的無媒介的なそれではなく、すなわち一面的部分的相対的過渡的なそれではなく、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和、インマヌエルの出来事、啓示・和解、の告白と証しと宣べ伝えとしての≫)隣人に対する愛」へ、「そのままで、人間の本来的実存であり、真に自然な実存である新しい被造物の『終末論的』実存」へ、その神の恵みに対する感謝の応答としての実存へと召しだされるのである。言い換えれば、キリストの復活・成就された時間においては、すなわち私たちの人間的存在が「イエス・キリストの人間的存在である限りは」、「そのままで、人間の本来的実存」なのである。もっと具体的に言えば、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ」なのである(『福音と律法』)。

 

 また、次のように、言い換えることができる――イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する。したがって、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する。したがってまた、その神の側の真実としてのみある神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)の場所は、<宗教>としての<自然神学的>な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。

 

 このことは、次のように言うことができる。私たち人間の、その類・歴史性――個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)の場所だけである、と。人は自分の意志とは全く関係のないところで、ある親や家族のもとで、ある社会構成・支配構成・文明・文化の時代水準の中に、すなわちある歴史的現存性の中に生誕する。そして、その個としての人間は、その中で、その存在・その思考・その実践をもち、喜怒哀楽し生誕から死へのその個の現存性を生きる。バルトにとって、そうした私たち人間の歴史性・類――現存性・個の生誕から死までを見渡せる場所は、あの神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の場所だけなのである。したがって、この場所においては、万物に質量(重さ)を与える根元であるヒッグス粒子の概念も、「正直に受け取ることができる」のである。バルトは、人間の寛容の精神や意志等の人間的自然に基づく、神学と科学との対話とか、神学とマルクス<主義>との対話とか、という形而上学的抽象的皮相的空想的な対話論においてではなく、そうした科学的研究成果に対して、根本的包括的に、完全に開くのである。このことは、例えばヒッグス粒子が発見されても、宇宙の謎の90何%以上が未解明のままであると言われているからではない。たとえ宇宙(自然)の謎が100%解明されそれが人間の対象性として人間的自然となったとしても、それはあくまでも人間によって対象化された宇宙・自然(人間的自然)であって、神そのもの、啓示の実在そのものではないからである。すなわち、バルトの、その信仰・神学・教会の宣教の認識方法および概念構成においては、神そのもの・啓示の実在そのものは、常に、天然自然を含めてそうした人間的自然の、彼岸・外にある、からである。言い換えれば、科学や技術の進歩発達およびその知識の増大や生活の利便性の向上・増大は、自然史的必然に属する事柄であり、停滞したり逆行したりすることはあり得ないことを正直に受け取ることができる、と同時に、しかしそれは、人間によって対象化された自然・人間的自然でしかないものであるから、私たちは、それらの研究成果等を、<人間的自然・人間的世俗的真理>として正直に受け取ることができるのである。その時、初めて、そこにある本質的な問題や課題も見えてくるのである。

 

 このことは、次のように言うことができる――バルトは、『神の人間性』において、人間自身の「素晴らしさ」を語るのであるが、人間の理性・感情・意志・実存・構想等を含めた人間的自然や人間的能力や人間的試みの根本的かつ究極的な限界性をも語るのである。また、「神の人間性」という概念と、その「神の人間性」から与えられた「人間の人間性」との無限の質的差異についても語るのである。すなわち、人間における労働や性・夫婦・家族や理性や感情や意志や実存や言語が対象化した文明や文化等の人間的自然・人間の人間性の一切は、「神の人間性」ではないということを語るのである。人間の人間性の限界づけが行われるのである。神学における思想家・バルトは、神学者・倉松功のように、恣意的独断的に、平然と、これは「われわれの結論」だとして、『ルターによれば文明の建設と発展は理性・知能の課題であり、全人類の課題であり、特定の宗教の特権ではない。ルターの二つの統治の区別は、かれの文明論の恒常的基礎である。その区別が人間の責任と活動の分野を自由にしている。(中略)被造物的・生物的現実……の中にわれわれに直接出逢う当為の要求が自然に存在する。その要求こそ心に記された理性の基本的規範である。ルターによれば、こうした文明の体系は全体として、神律的側面と相対的に自律的な側面とを持っている。神律的というのは、文明を担う諸力は神の恒常的創造者としての活動であるという意味……相対的に自律的だというのは、神の創造者としての働きは人間理性によって把握されるからであり、理性に基づく、人間の神との共働の行為は自発的に形成されるからである』」というような、まさしく<宗教>としての<自然神学的>な考え方に過ぎない馬鹿なことを決して言わないのである。

 

 これらの事柄は、「神がイエス・キリストにあって人間の歴史を……を直接、限界づけ、触れられ、規定し給うたということ」である。「彼はその苦しみを通して地に葬られ、不格好な根のように世にあって隠されていた。しかもそれから美しい木」、先に述べたような意味での「キリスト教会が生え出て、全世界に広がった(ルター)」。「彼がそのようになし給うたのは」、神自身においてのみ「実在であり真理」である自在であって他在としてのその自由な決断において、「自分ひとりだけのこととしてご自分のためになされたのではなく、われわれの兄弟としてわれわれのために、なし給うたのである」。(26・27頁)

 

 『神の人間性』に即して言えば、イエス・キリストは、啓示の弁証法において、神性を本質とする、神の第二の存在の仕方である神にして人間、神の子、神の言葉、神の性質・行為・働き・業として、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」、と規定されていた。27頁で、翻訳者の吉永正義が、『神の言葉U/1』321頁以下を参照して、「アン・ヒポスタジー」について、「キリストの人間的な性質は、神性と人性の結合の出来事の中で生起する神の中での具体的な存在を度外視してそれ自身の存在をもっていないということ」であると述べているのであるが、このことは、前述したように理解しなければならないのである。したがって、神性を本質とする、「神の人間性」の「主文章」化は、「神の神性」の「主文章」化と「対立」関係にあるのではなく、バルトにおけるその主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでもある時代状況に規定された言表であったのである。すなわち、ある牧師がWeb上で形而上学的抽象的一面的に述べていたような、「後期」のバルトが、『神の人間性』の論述において、神学的な論理的一貫性を捨て去って場当たり的に変節したということでは決してないのである。バルト自身が述べているように、啓示の弁証法に基づいて、ある時はその一方が「中心部から周辺へ、強調された主文章からさほど強調されない副文章へ」と退いたりするだけなのである。形而上学抽象的一面的思考の神学者や牧師には、このことが理解できないのである。

 

 教会の基礎としての神性を本質とするイエス・キリスト(啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)は、「イエス・キリストの故に〔存在する〕神の子供たちの生」――「教会の実在、啓示の主観的実在」の「法則」であり、「限界づけ」である。言い換えれば、このことは、「神の言葉の三形態」の第一次性・第一義性である神性を本質とするまことの神にしてまことの人間であるイエス・キリストに信頼し固執しなければならないという教会の「内的な本質」から言って、教会が、その宣教において、「イエス・キリストに相対して自主独立的」に、恣意的独断的に、「主権的に思惟し行動しようと欲すること」を、限界づけているのである。なぜならば、もしも教会が、第一次的・第一義的な「啓示」に対して、「自主独立的」になることを、恣意的独断的になることを、主権的になることを、欲し、そのことを目指したならば、教会は、「確かに既に教会がキリストにあって取り除かれた、贖われない」、「義とされない」、「聖化されない性質の中に、逆戻りして落ちてしまうことになる」からである。その場合、それは、教会の人間的側面・制度としての教会の「死」を意味する。そして、あの限界づけは、教会が聖書を支配することを、そしてまた教会の客観的な信仰告白・教義を恣意的独断的に捨て去ることを、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)を恣意的独断的に捨て去ることを、限界づけていることを意味している。いわば、その限界づけは、教会の宣教の<宗教>化・<自然神学>化の否定である。近代以降の教会やその宣教は、そうしたことに自覚的でない場合、必然的に、すぐに、<宗教>化・<自然神学>化していく。人間<教>になっていく。人間の対象化された自己意識の類的本質として、「存在者レベルでの神への信仰」になっていく。そして、その場合、信徒と求道者は、神性を本質とするイエス・キリストに対する感謝の応答としての信頼と固執ではなく、牧師なり神学者なりの対象化された自己意識の類的本質である神、すなわち人間<教>を信奉することになっていく。それくらいなら、何度も述べているように、ほんとうに、狭い枠組みの中で恣意的独断的に停滞と循環を繰り返しているだけのあの人間<教>の増産者である神学者やそれに類する牧師やそれに類する著述家に耳を傾けるよりも、人間や世界の本質を指し示してくれ、また人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれる、吉本やフーコーやヘーゲルやマルクスや太宰や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているのである。(27・28頁)

 

イ)教会は「キリストのからだである」とは、第二に、それは、教会の歴史的現実存在の「自主独立性を、排除している」、ということである。「からだがそのかしらと共に生きるのと同様」に、「教会はキリストと共に生きる」。なぜならば、独一無比の、究極的包括的総体的永遠的な赦罪や和解や救済や平和や慰めや励ましの根拠・源泉・原動力は、神性を本質とするイエス・キリストだからである。すなわち、私たち人間から「生じる現実は何もない」からである。したがって、啓示の客観的実在である神性を本質とするイエス・キリストにおいてのみ、「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類に対する、完全に開かれた、教会の宣教は可能なのである。「イエス・キリストにあって、人間の身に、人間のために、起こったところのその同じことが実際に繰り返されるということ以外の何ものも起こらないということによって」、教会は生きる。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか」(Tコリント10・16)。「このあずかることの中で、このあずかることから教会は生きる」。「イエス・キリストは教会の主体であるし、あくまでも教会の主体でありつづける」。「教会ノ全体モ一部モ、神トシテ崇メラレヨウト欲シテハナラナイ」(アウグスティヌス)。「キリスト教会はローマにないし、サンタ・ヤコブにないし、ニュールンベルクにないし、ウィッテンベルクにないし、農夫たちの間にも、市民たちの間にも、貴族の間にもない」・「キリストの肩に担われている」(ルター)。啓示それ自体が持っている啓示に固有な証明能力によって、「み言葉」と「み霊」によって、「主ハ完全ナ仕方デワレワレニ語リカケ給ウ。ソレデアルカラワレワレハ生キルニモ死ヌニモ主ノ教エヲカタクトッテ離サズ、人間ノ教エヲ拒否シナケレバナラナイ。ナゼナラバ〔人間ノ教エト主ノ教エノ〕混合ハタダ腐敗デシカナイカラデアル。……教会ハイツモ何ヨリモイエス・キリストガ崇メラレルコトニヨッテ、ウチ立テラレナケレバナラナイ」(カルヴァン)。このカルヴァンの言葉は、近代<主義>、<自然神学的なもの>を根本的包括的に止揚できる・揚棄できる、時代を超えて今でも未来にも通用する水準を持っている。時代を超えて生きる、このカルヴァンの言葉の水準の高さと質の良さは、西欧において近代の洗礼を受けながら、にもかかわらず、状況論も持たず・人間学や神学における思想的課題も認識し自覚でき得ていないエーバーハルト・ユンゲルの次のような言葉の水準の低さと質の悪さ――すなわち、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことである」という言葉の水準の低さと質の悪さ、とを比較考量すれば、一目瞭然である。

 

 「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」を、すなわちイエス・キリストが「律法の終わりとなられた方」であることを聞かず承認せず、神との「共働者」・協働者・共労者であることを求め続ける場合、人間は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げる。このような神に対する「熱心さの無知」は、人間自身の欲求・自主性・自己主張・自己義認(無神性)に基づいており、「神の要求」を、人間によって恣意的独断的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変える。この時、人間のその存在・その思考・その実践は、「罪」に「勝利を収め」させる熱心さ・「不従順」・「虚偽」となる。なぜならば、その「無数の儀文」は、「偶像崇拝」・「神冒?」を生じさせるからである。その場合、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」。また、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する。そしてまた、ある者は即時的に「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する。「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」。このバルトの言葉は、倫理の言葉ではなく、神学における還相過程からの思想の言葉である。この言葉は、「この世にあって、そこなわれた、弱い、困窮するすべての人々への黙々たる奉仕」は、神学における還相的な究極的永遠的課題である全人間・全世界・全人類の救済・平和の根拠である、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)に対する感謝の応答としてのその告白・証し・宣べ伝えにあることを意味している(マタイ26・6−13およびマルコ14・3−9)。
 したがって、即時的に直接的無媒介的な自己愛の外化(自分を愛するように隣人を愛するのであるから)としてある隣人愛や奉仕を目指すならば、人類史の縄文的段階における共同体的生活やその断続性と連続性において成立したアジア的段階における相互扶助意識の在り方と比較考量してみる時、明治期にすでに、イザベラ・バードが述べていたように、その隣人愛や奉仕の堕落ぶりは一目瞭然なのである。(28・29頁)

 

ウ)三位一体論的――キリスト論的に、「神はご自身との共同性の中に生きてい給う。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う」。この信仰の類比・関係の類比において、「人間は他人との共同性の中で生きている」ことを自己認識・自己理解・自己規定できるし、「共同性ということが神に似ていることの根拠」であることを知る。新約聖書の「体」の概念は、個と共同性の近代的な対立を超えた水準にあるものである(『バルトとの対話』)。神性を本質とするイエス・キリストにおいては、個と共同性は対立するのではなく、正立し平和なのである。教会、啓示の主観的実在は、「信仰共同体的」である。したがって、「神の子供たちの生活」は、独一無比の啓示・和解そのものである神性を本質とする神にして人間であるイエス・キリスト――「肉となった言葉」に感謝をもって信頼し固執する「信仰共同体的生」である。したがってまた、シュラェルマッハーが考えたような「自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体」や「敬虔性と関連した共同体」、すなわち「単なる〔精神〕共同体」ではない。すなわち、教会は、「愛と兄弟としての親しさの共同意識……に基づいて」成立しているのではなく、「キリストに基づいて」成立しているのである。イエス・キリストに基づいてだけ、「教会の中にいるものは〔現に〕兄弟であり、姉妹である」、すなわち「人がキリストに属することによって、同時にまたキリストに属するすべてのものにも属している」、と言うことができる。

 

 このことから、教会は「キリストのからだである」とは、第三に、その「はじめからひとつの、分割できない全体であるということである」。人間が、イエス・キリストにおける、人間の「生」と「性質」の「義認と聖化にあずかる」ことによって、「イエス・キリストとひとつであるように、互いの間でひとつである」。「すべてのものは彼を共通にもち、しかもそれでいて各人は彼を完全に心の中に持っている」――このように、とはいって確かにキリスト者であれ、ある社会構成・支配構成・文明や文化構成の中で、市民社会の精神である私利・私意に自らも規定されて、それぞれが様々な感情・理性・信条・思想・意志・喜怒哀楽を持って生き生活しているのではあるが、神性を本質とするイエス・キリストをほんとうに主と頭とする教会においては、個と共同性は、近代的に対立するのではなく、また「同じ思想とか類似した思想の故に」ひとつなのではなく、「父とわたし(≪子≫)」一つであるように、「ひとりのキリスト」および「ひとつの霊と信仰」を持つ者として、「ひとつの肉および血として」、正立し平和なのである、ひとつなのである、イエス・キリストの「肢体」なのである。したがって、「もしも全キリスト信徒を構成しているからだのうちの最もいやしい肢体が苦しむならば、すぐにからだ全体がそのことを感じ、それらの肢体が皆、直ちに騒ぎたち、嘆き、泣きはじめるといった具合にからだ全体が動いてくる。なぜならばそのようにわれわれの頭であるキリストがそれを聞き、感じ給うからである」。「われわれはただ(≪啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて≫)そのことを信じ」ることができるだけである。したがって、神性を本質とするイエス・キリスト・神の「言葉を離れてはもはや一致」はないのである。したがってまた、そうでない場合は、「そこにあるものはただ」、「悪魔が引き起こした」「人間の教え」・人間の対象化された自己意識の意味的世界やプログラム、「空しい分裂」、「分派と徒党があるだけである」・党派的多元主義があるだけである。(29−33頁)

 

エ)教会、啓示の主観的実在、「神の子供たちの生活」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方におけるインマヌエルの出来事――啓示・和解がそうであるように、神的側面と人間的側面を持つ、永遠的側面と歴史的時間的側面を持つ、不可視的側面と可視的側面を持つ、隠蔽性と顕現性を持つ。すなわち、神性を本質とするイエス・キリストは、「永遠にご自身の中で神でいますと同時に、われわれと共なる神であり給う」ようにである。

 

 さて、アウグスティヌスやハイデッガーには、イエス・キリストにおける啓示の時間・時間そのもの・実在の時間についての認識・概念が欠けていた。「『神はご自身を啓示し給う』という命題」は、「『神はわれわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味である。この啓示の時間は、神の側の真実として「啓示そのものによって教えられなければ」その一部分でさえ認識することはできない。また、この事柄にある隠蔽性と顕現性・不可視性と可視性との構造には恣意的独断的な誤謬への「誘惑」と「躓き」が存在しているから、私たちは、イエス・キリストの出来事を聖霊の注ぎにおいて「神の啓示として理解」する時初めて、イエス・キリストの現臨の出来事である啓示の時間は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時」に生起した「われわれのための神の時間」であることを認識し理解することができるのである。例えば、その時初めて人間的側面における可視的な教会の背後には、不可視的な「神の子供たちを……現にあるところのものとさせる神的選び、召命、照明、義認、聖化」が隠されてあることを、また、教会の頭として「教会を支配し給う目に見えない主の目に見えない恵み」が隠されてあることを、その構造・同時性・同在性において、認識し理解することができるのである。また、その時初めて、イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、「われわれのための神の時間」――それは、イエス・キリストの受難と死および復活(キリスト復活の40日)・「成就された時間」であり、「待望の旧約聖書的時間」、「想起の新約聖書的時間」、「この出来事についての証しの時間」である、ということを認識し理解することができるのである。さらにまた、その時初めて、「神によって造られた時間」・「イエス・キリストにおける啓示の時間」・「時間そのもの」・「実在の時間」・永遠・超歴史・救済史は、常に、「罪におちた人間によって惹き起こされて生じた」私たちが知り持っている時間・「罪にそまった時間」・「われわれの時間」・人間の時間・歴史の、彼岸・外、にある、ということを認識し理解することができるのである。

 

 このことから、教会は「キリストのからだである」とは、第四に、教会は、「肉となった神の言葉」と、神性を本質とするイエス・キリストがその教会を「ご自分の空間的――時間的な現実存在との交わりの中へと取り上げることによって」、それは、「空間的――時間的広がりと形態を持って」いるということ、すなわち可視的であるということ、である。したがって、教会は、「人間によって見られ、経験され、思惟され、認識されることができるということ」である(37頁)。神の第二の存在の仕方である「神のみ子」が、教会の存在可能性の根拠であり、教会の可視性の根拠である。言い換えれば、その「み子の中で、み子を通して」、不可視的な「ただ単にそのみ言葉から生まれた教会の霊的生活」の実在が存在するだけでなく、可視的な「教会のからだ的生活」の実在も存在するのである。このように、教会は、啓示の主観的実在の「具体的な場所」、すなわち人間の義認と聖化が出来事となって起こる場所、神性を本質とするイエス・キリストとの出会い・信仰的契機と信仰的決断が存在する場所、「それの現実存在を通して啓示が具体的に人間によって認識され、証しされ、それを通して」、他人ごとではない自分自身の信にある不信の問題等についての真剣な切実な「信仰の問いが人間に対して具体的に立てられる場所」である。例えば、次のようにである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか(≪このことは、私自身の信仰的体験に基づく信仰的事実である。すなわち、私自身が信における不信のただ中にいることは、信仰的事実である。私自身がいつも神から遠ざかり・遠ざかり続け、また罪を新たな罪を犯し・犯し続けていることは信仰的事実である≫)。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう」。「信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえに自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。この、信における<無神性>を、信における<真実の罪>を、信における<不信>を、包括し止揚し克服した、主格的属格としての「イエスの信仰」(啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)と聖霊の注ぎによる<信>こそが、ほんとうの<信>なのである。そのようにして、信と不信が架橋された信なのである。このような言葉こそが、不信とむなしさと不確かさと不安が蔓延する現在から未来に生きる、信における・神学における、<思想の言葉>なのである。

 

 「ルターはガラテヤ四・二六を注釈し」、「上なるエルサレム、自由の女ということでもって、勝利ノ教会ではなく」、地上にある「コノ時代ノ教会のことが理解されなければならない」ことを強調した。(33−37頁)

 

(3)次に、(2)における啓示の主観的実在の<場所>としての教会と同時に、その教会の<内容>が規定されなければならない。
聖霊の注ぎ
 その内容は、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのもの)それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性としての神の不把握性と終末論的限界の下での、「聖霊の注ぎ」による、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の<授与>(啓示の主観的現実、啓示の主観的実在)の指し示しにある。「教会の存在を問う問いに対する決定的な答えは、……聖霊降臨日の秘義の指し示しでなければならない」。啓示の客観的実在である神性を本質とするイエス・キリスト「からキリストのために、キリストに向かって生きる存在という賜物、『神の子となる力』(ヨハネ一・一二)への指し示しでなければならない」。

 

○「どのように啓示はキリストから人間のところに来るのか」。
○「どのように啓示はかかるものとして人間の中に入ってゆくのか」。
 この問いは、啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力についての問いである。バルトが、ここで「もう一度客観的な問いと主観的な問いに分けられる」というとき、彼は、啓示の出来事と啓示認識・啓示信仰の出来事との架橋の問題、媒介性の問題を問うているのである。なぜならば、その問いを、人間的自然、人間に内在する神的本質(人間の、対自的で対他的な、自由な自己意識の無限性)に基づいて近代<主義>的に、後者の側から問うならば、また直接的無媒介的に問うならば、<宗教>としての<自然神学的>な根本的誤謬に陥っていくことは必然だからである。また、「使徒行伝二章」――「一同が一つになって集まっていると、……一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」――は、「使徒行伝一章」――キリスト復活40日(成就された時間)、「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」――に基づいて理解しなければ、やはり<宗教>としての<自然神学的>な根本的誤謬に陥っていくことは必然だからである。神の啓示は、「神からして実在となり、言葉が肉となり、キリストがそこにいますという前提(≪神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事、インマヌエルの出来事、啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在という前提≫)のもとで、啓示が人間に対して明らかにされ、キリストが人間の救い主となり給うために」、その啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力によって、すなわちその啓示の出来事を人間のために人間に授与するために・人間へと架橋するために、神性を本質とする神の第三の存在の仕方(性質・行為・働き・業)である「聖霊の注ぎ」により啓示認識・啓示信仰が授与され、「キリストに対する感受性を持つようになり、彼に向って語られた言葉を実際に聞くようになる」という信仰の出来事(啓示の主観的現実、啓示の主観的実在)が惹き起こされる。言い換えれば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、イエス・キリストにおける神の自己啓示を通して、すなわちその啓示に固有な証明能力に基づいて、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。(38−40頁)