カール・バルトの三位一体論 その1 序説(イ−1)
カール・バルト『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体論』吉永正義訳(新教出版社)、等々に基づく
神学における思想としてのカール・バルトの三位一体論 その1 序説(イ−1) 邦訳1−75頁
バルトは、「二章 神の啓示<上>三位一体の神」の「八節 その啓示における神」について、またその根拠について、次のように教義学的「定式化」を行っている。
神の言葉は、その啓示における神ご自身である。なぜならば、神は主(≪「神の主権」・「神のみ国、神の支配、の告知」≫)としてご自身を啓示されるのであり、そのことは聖書によれば、啓示の概念にとって、このこと――神はご自身、破壊されない単一性において、しかしまた、破壊されない差異性において、啓示者、啓示、啓示されてあること〔啓示の結果〕(Offenbarsein)であり給うということ――を意味しているからである。
先ず以て、バルトが述べたい事柄は、次の点にあった(邦訳5・6頁)。すなわち、バルトは、いつもそうであるが、「福音と律法」の真理性と現実性の構造としてある啓示の客観的現実性(主格的属格としての「イエスの信仰」におけるイエス・キリストの名)の場所で、そしてそれ自体と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与されたキリスト教に固有な聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としてある啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類)、と、その啓示の「概念の実在」の歴史的現存性(キリスト教に固有な歴史性・時間的連続性・帰属性・自己表出性)に不可避的に規定された場所で、この定式化を行っているということである。したがって、バルトは、この定式化を、キリスト者にとって・神学者にとって、ほんとうは、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史的現存性性である三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」――イエス・キリストにおける啓示・啓示の実在そのもの、聖書(その証言・証し、その宣教・説教)、教会の宣教(教会の客観的な信仰告白・教義)――に信頼し固執し帰属することによって行っているということである。言い換えれば、神の言葉は、神自身においてのみ「実在であり真理」である自在であって他在としての「自由・主権」に基づいて、またその神自身の隠蔽性と顕現性に基づいて、人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示、そしてその啓示の出来事と聖霊の「注出」による信仰の出来事に基づいて授与された人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・啓示教義・啓示神学・啓示宣教においてある。すなわちそれは、不可避性として、キリスト教に固有な聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義においてある。また、それは、不可避性として、そのキリスト教に固有な歴史的現存性・歴史性・自己表出性においてある。したがって、バルトは、その信仰・その神学の認識方法と概念構成それ自体において、啓示の真理と啓示認識・啓示信仰から授与された自己相対化視座としての神の不把握性と終末論的限界の概念を包括して、不可避的なキリスト教に固有な「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類)と、その啓示の「概念の実在」の歴史的現存性・自己表出性に帰属した場所で、三位一体論とその根拠について、人間理性によって教義学的「定式化」を行ったのである。したがって、このバルトの定式化は、理性<主義>・合理<主義>ではないのである。マルクスは「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(『ユダヤ人問題』)と述べたが、神学における思想家であるバルトは、「人間的な理性」――もちろん、その思惟と思惟の成果が、神に祝福されたものとなるかどうかについては、あるいは神に祝福されたものであるかどうかについては、神のその都度の自由な決断に基づく聖霊の注ぎによる更新された理性を必要とするのであるが――を用いて、キリスト教に固有な類としての「普遍的な概念」・啓示の「概念の実在」とその「概念の実在」の歴史的現存性・自己表出性に基づて、「教義学的な定式化」を行ったのである。したがって、バルトは、この定式化が、人間の理性・思惟によるものであり、それ故「合理的」で論理的な構成となることは当たり前であると述べたうえで、ただしかしとバルトは言うのである。すなわち、バルトは、「聖書に服従することによってではなく」、人間学的な哲学的原理や認識論や世界観を第一次化した原理による人間の理性・思惟による「定式化」は、神と人間・神学と人間学との混淆・「共働」に基づくものであって、したがってその神学の認識方法と概念構成それ自体に、自己相対化視座を持を持たず、またそれは人間学の「後追い知識」として非自立的で中途半端な位相のものでしかなから、人間中心<主義>的・理性<主義>的・合理<主義>的な人間学的神学・宗教そのものでしかない、と述べるのである。したがって、例えば、ブルトマンの人間学的神学は、宗教としてのブルトマン教の位相にあるものであり、アジア的日本的な自然原理の歴史性に帰属した滝沢克己の哲学的神学は、宗教としての滝沢教の位相にあるものである。ここにおいても、バルトは、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を根本的にトータルに批判しているのである。
教義学における三位一体論の位置 邦訳1−19頁
さて、キリスト教に固有な類・歴史的現存性・自己表出性としてある啓示の「概念の実在」に信頼し固執し帰属してそれを媒介・反復したバルトが、すなわち「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」(『啓示・教会・神学』)たバルトが、そしてその一方でその信仰・神学に個性や時代性を刻んだバルトが、この定式化で述べたい事柄は、次の点にある。
1)神の自己啓示は、三位一体論の「根」・「根拠」・「基礎」である。したがって、三位一体論は、神の自己啓示を「根」・「根拠」・「基礎」として生じたものである。
2)神は、一方で、「存在」上・「認識」上、自由・主権において、また神性・単一性・永遠性において、三位一体の神として自己啓示する。この自由・主権は、神自身においてのみ「実在であり真理」である。これは、神の自由な主権、すなわち自在であって他在としての自由を本質とする神の自在性の規定である。この自在性において、「神の内三位一体的父」は、子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である、したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。このように自己啓示する神は、他方で、私たち人間へと向かうその他在性において、すなわちその「存在の仕方」・「存在の様態」(行為・性質・働き)において、「三度別様に」・「解消されない差異性」において創造主(父)・和解主(子)・救済主(聖霊)なる神である。ヘーゲルにおける他在であって自在である自由な自己還帰する自己意識は、表出と表現の構造を介して、社会的な客観的対象性を獲得する。したがって、バルトは、神と人間との無限の質的差異という概念、また自由・主権は神自身においてのみ「実在であり真理」であるという概念、そしてまたその都度の神の自由な決断によるイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎよる信仰の出来事基づく啓示認識・啓示信仰という概念によって、すなわちこれらの単純で根本的な概念によって、ヘーゲル哲学を紙一重で超えているのである。こういった点に、神学における思想家としてのバルトの貌があるのである。このことはさておき、「神の内三位一体的父」という神自身においてのみ「実在であり真理」である自由・主権における自在性は、神の「存在の本質」である「解消されない単一性」・神性性・永遠性の規定である、神の「内在的」本質性の規定である、神の隠蔽性の規定である。この規定から、神の不把握性の認識・概念や終末論的限界の認識・概念や自己相対化視座の認識・概念が得られるのである。理解しやすくするために例示すれば、例えば、聖霊は、私たち人間の「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけではない。聖霊は、その神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また「父および子とともに創造主なる神」でもある、ということである。また、イエス・キリストにおける啓示と和解(「存在の仕方」)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である神性性がイエス・キリストにおける「啓示と和解を生じさせる」、ということである。このように、神は、「解消されない単一性の中で啓示者(≪父・啓示する神≫)であり、啓示(≪子・啓示の出来事≫)であり、啓示されてあること(≪聖霊・「人間の身に起こるその作用」――聖霊の注ぎによる啓示認識と啓示信仰の主観化とその時間的連続性・歴史性・自己表出性≫)である」(邦訳11頁)。
また、自由・主権は神自身においてのみ「実在であり真理」である、というバルトのこの概念は、次のことを意味する――イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」、ということを意味する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」としてのみ承認し確認することを意味する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認することを意味する。
さて、このように自己啓示する神は、他方で、私たち人間へと向かうその他在性において、すなわちその「存在の仕方」・「存在の様態」(行為・性質・働き)において、「三度別様に」・「解消されない差異性」において創造主(父)・和解主(子)・救済主(聖霊)なる神である。そしてその「存在の仕方」において神は、「解消されない単一性」・神性性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、創造主(父)・和解主(子)・救済主(聖霊)の三つの「存在の仕方」の、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがってまた、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、創造主(父)・和解主(子)・救済主(聖霊)の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さなのである。理解しやすくするために例示すれば、例えば、「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、『福音と律法』の「真理性」と「現実性」の構造における神の愛を意味している。それは、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」=イエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(《啓示者》)と言葉(《啓示》)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできないのである。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において神性・単一性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、自在性における神の「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、私たち人間へと向かう他在としての神の「存在の仕方」の差異性を意味している、ということである。
ここまで書けば、拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』における三位一体論の論述も明瞭化すると考える。
バルトは、次のように述べている――「三位一体論こそ、キリスト教の神論をキリスト教の神論として、したがって三位一体論こそ確かにキリスト教の啓示概念をキリスト教の啓示概念として、すべてのほかの神論および啓示概念から、根本的に区別し、ぬきん出させるところのものである」(邦訳15頁)。「自分を啓示する神はだれであるか」という「啓示の問題は……三位一体論の問題と共にたちもすれば、倒れもする」(邦訳18頁)。すなわち、三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常に、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」における三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜなら、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論等に埋没していく以外にないからである。良質な神学における思想としての三位一体論を持たない場合、例えば、滝沢克己のようにキリストの神性性を否定してしまうことになる、蘇のように『教会教義学』を曲解して「父の霊の排他性」を強調してしまうことになる。いずれにせよ、三位一体論の教義は、「聖書の中にあからさまに表現されている教えではなく、むしろ教会的な教えである」。すなわち、「啓示についての聖書の教えは、……三位一体論の梗概として解釈されなければならない」。事実、三位一体論は、聖書の「注釈」である。しかし、それは、「恣意的になされた、その対象を聖書以外のところにもつような思弁、ではない」。したがって、三位一体論は、「教会的な釈義」であるが、「間接的には、聖書の啓示の証言の諸命題と同一であると理解されるべき」ものである(邦訳73−75頁)。ここにおいて、神学の一つの学科である教義学は、「キリスト教に特有な神についての語り(Rede)について、キリスト教会がなす、学問的な自己吟味」として、「教会の一つの機能である」(『教会教義学 神の言葉T/1 序説』)。この意味における教義学は、「決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜなら、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである。したがって、「教義学者」やそれに類する牧師・著述家は、「信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである。
三位一体論の根 邦訳20−75頁
神の啓示は、「存在的にも認識的にも」、「その実在および真理を……自分自身の中に持っている」。このことは、一切の天然自然や一切の人間的自然や一切の近代主義や一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教によって左右されることのない、啓示の客観的現実性のことを述べているのである。神の啓示においては、神の言葉は「神自身と同一」である。しかし、聖書および教会の宣教においては、神の言葉は、「預言者と使徒が啓示についてなす証言」・「聖書の注解者と宣教者が啓示についてなす証言」・「注解者や宣教者や人間的な人格」を通して、間接的に「仲介」されてある。すなわち、それは、神の言葉・啓示の実在そのものではない。したがって、聖書および教会の宣教が神の言葉となるためには、神自身の自由な恵みの決断によって、「常に繰り返しその都度神の言葉とならなければならない」のである(邦訳20ー22頁)。なぜなら、神の啓示は、神自身のその都度の自由な決断に基づく神の言葉の「出来事の運動」の中において、すなわち神自身を通した出来事(イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事)として初めて「実在であり、……真理である」からである。聖書によって義務づけられた教会の宣教は、「教会の宣教の規準」としての聖書に「聴従」することによって、すなわち(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」の出来事=インマヌエルの出来事≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられている。このように、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する啓示「認識」・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。この出来事は、徹頭徹尾全面的に、「人間の業」・神と人間との「共働」・「神人協力説」によって惹き起こされるもののではなくて、神のその都度の自由な決断に基づく神の言葉の「出来事の運動」の中において、神の「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」・啓示の出来事と「聖霊の注出」による信仰の出来事によって惹き起こされるものである。教義学そのもの、また神についての教会の語りは、「信仰のない」人間の、「信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、教義学そのものが、「神についての語りをはかる規準を、イエス・キリストの中で、受けとる限り、教義学は真理の認識として可能」となる。その場合、教義学は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができる。しかし、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないのである。したがって、教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立するのである。
「神は主(≪「神の主権」・「神のみ国、神の支配、の告知≫)としてご自身を啓示される」。この聖書における神の自己啓示は、三位一体論の「根」・「根拠」・「基礎」である(邦訳26頁)。このことは、次のことを意味する。
1)三位一体論は、啓示についての教会の信仰の業・命題・翻訳と釈義・解釈・神認識・教義・神学である。すなわち、聖書の証言・証しにおける啓示の「概念の実在」としてのそのキリスト教に固有な類と歴史的現存性・自己表出性への連帯(帰属)表現と時代性に規定された付加表現との構造である――「三位一体論の本文は、聖書の本文にあるものをただおうむ返しに繰り返すだけでなく、聖書の本文の中に書かれているものに対してそれの説明として新たなものを付け加え対置するということを意味する」(邦訳28頁)。
2)三位一体論は、教会の宣教が、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に抗するための・また神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論に抗するための神学における思想的武器であり、キリスト教に固有な神論の構成要素であり、「啓示の認識原理」であり、また「教会の宣教の批判と訂正」の原理である。
さて、啓示概念における「決定的な問い」・自己啓示する神は「誰かという問い」に対する答えを探求する場合、三位一体論の中において、ということが教義学的思惟の前提となる(35頁)。神は「主」として自己啓示する、という命題は、「三位一体論の根」である(39頁)。聖書的証言の本来的テーマは、「三位一体の第二」の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている点にある(40頁)。
1)聖書の啓示における「主」・「主権」は、「自分を自分自身から区別し、自分と別のものとなると同時に、あくまでも自分と等しくあり続ける」、神自身においてのみ「実在であり真理」である自在であって他在という神の「自由」を意味している(49頁)。この自由な神の存在の本質は、完全な自在性において自己還帰する「神の内三位一体的父」として「自分を自分から」父・子・聖霊として「区別」する、聖性、単一性・神性・永遠性、にあるということである。
2)したがって、神は、隠蔽性・秘義性本質としている、ということである。したがってまた、神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル=「神われらと共にいます」という存
在の仕方で、顕現・自己啓示したことは、神性を存在の本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」としての神が、その「存在の仕方」において子として「自分を自分から区別」したことを意味する。この神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態(≪可視的な「具体的姿」邦訳51頁≫)、イエスの名」・「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。このことは、徹頭徹尾全面的に、神自身の自由な決断によるものであるから、神自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、言い換えれば神自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義をさえ持つことはできないことを意味している――「神の現臨とは常に、現臨せんとする神の決断である。神の賜物とは、神が与えることである。神の自己啓示……とは、最高絶対の神の自由な行為であり、あくまで神の自由な行為であり続ける。(中略)啓示は、つねにくり返し、言葉の完全な意味で、啓示である」(邦訳52・53頁)。ここで、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態(≪可視的な「具体的姿」邦訳51頁≫は、人間ナザレのイエスの現実存在・「キリストノ人間性」のことである。ここに、「キリスト論の最も困難な問題の一つに出くわす」(邦訳55頁)。なぜなら、イエス・キリストの人間性への偏向による神性性(旧約の神聖性)の揚棄の問題、すなわちイエス・キリストの「俗化」の問題が現れるからである――この場合、イエス・キリストは、「神秘主義の『いとうるわしき主イエス』、敬虔主義の『救世主』」、啓蒙主義における知恵の教師および人間の友なるイエス、シュライエルマッハーにおける高められた人間性の……総体であるイエス、ヘーゲルおよびその学派の者たちにおける宗教の理念の具現化としてのイエス」、人間実存の範型としてのイエス等々というように、神と人間との混淆論・「共働」論へと変容していく、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか《暗号》にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く(バルト『ヨブ』ゴルヴィッツアー編・解説)。バルトは、『神の人間性』においても、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べたうえで、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べた。しかし、WEB上でバルトの「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」につい書いた牧師は、「神の神性において、」という神の「存在の本質」規定を揚棄してしまっていた。滝沢克己の場合、世界史のアジア的段階の日本における神人論のそれであるのか・天台本覚論の草木国土悉皆仏性論のそれであるのかは別として、滝沢にとってイエスは、あくまでも滝沢の第一次的な「根本的事実」の概念に規定された限りにおいてであるが、「まことの神」・「まことの人」である。しかし、すべての近代主義者のように滝沢は、イエス ・キリストの「存在の本質」である神性性を揚棄してしまった 。このような時代状況・事情であるから、したがってバルトは、新約聖書においては、「キリストノ人間性」は「神の神聖性の留保のもとに立っている」(邦訳55・56頁)、と述べたのである。したがってまた、バルトは、キリストの神性の「内在性」が、すなわち神性を本質とする神の「存在」としてのキリストが神の「和解させる行為」を生じさせるのである(邦訳56頁)、と述べたのである。このことは、先ほども述べたように、イエス・キリストにおける啓示と和解(「存在の仕方」)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である神性性がイエス・キリストにおける「啓示と和解を生じさせる」、ということを意味している。また、この神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」=和解の主・「和解の力」であるイエス・キリストの「新しい神の業」・「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない、ということを意味している。イエス・キリストは、神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性を本質とする、まことの人・まことの神(「存在の仕方」)である。したがって、神性を本質とする「イエス・キリストの神の愛」は、神自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。このことを『福音と律法』で言い換えれば、主格的属格としての「イエスの信仰」におけるイエス・キリストの啓示=「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造における啓示の客観的現実性のことである。
3)聖書における神の啓示は、「神の時間」・「まことの実在の時間」の中で遂行されたイエス・キリストの出来事における「和解の善き業」・「唯一」の「恵みの契約」のことである。そしてこの「契約の仲保者」は、神性を本質とする「人なるキリスト・イエスである」。したがって、キリストの誕生・死と復活の宣教における「福音の歴史の正しい考察」・正しい歴史認識の方法は、「啓示は歴史の賓辞ではない」、「歴史が啓示の賓辞である」という点にある。すなわち、人間の歴史は、「神的自由の行為」としての啓示となることはできない。言い換えれば、神の側の真実である超歴史・救済史・永遠は、常に、人間が人間的に所有する人間の歴史・時間の彼岸・外にある。 さて、「聖書の中で物語られているもろもろの歴史」は、史実史や神話ではなく、「ただ、(一人、あるいは何人かの)物語者が物語られた歴史に対して、多かれ少なかれ(主観を交えて脚色しており、そういう意味で)干渉し、関与する」という「歴史物語あるいは古譚の要素を持ったもの」である、とバルトは述べて、聖書の歴史認識の方法について、次のように論じている(邦訳59−69頁)――@「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものである。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされた。A史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Geschichten)」について語っているという点にある。B聖書の中の歴史は歴史物語あるいは古譚であって、そのような「神と人間との間に起こったもろもろの歴史」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史認識・概念の彼岸・外にあるものである。すなわち、聖書証言の報知における歴史(Geschichte)・「特殊な歴史〔的出来事〕」については、いかなる「『史実的な(historisch)』判断」認識・概念もあり得ないのである。C聖書の中の歴史である歴史物語あるいは古譚は、すなわち『和解論』における「原歴史」あるいは「史実以前の歴史」は、無空間的無時間的な神話ではない。なぜなら、「神話が事実として報告していること」は、「少なくとも潜在的に存在している根源的なそして自然的な結びつきとの関係の中に立っている」ところの、「思弁の前形式」として、自然生に依拠した世界史のアフリカ的縄文的段階においては世界普遍的に起こり得た出来事であって、世界史的に「決して一回的な出来事ではなく、繰り返され得る出来事」だからである。歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜなら、啓示は、人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある。Dバルトは、神話を「思弁の前形式」である、と述べている。したがって、思弁は、逆に、自然から超出し、抽象に抽象を重ねて概念や理念へと抽象度を高めた観念である。この「思弁の前形式」である神話についてバルトは、神話は「人間自身の事柄」として、「歴史を意図しているのではなく」「空間〔領域〕や時間を超越して(無空間的に、無時間的に)」、「人間存在の基本的な諸関係についての物語の形で述べられた描写」である、と述べている。吉本隆明は、世界のどの地域にもあてはまる未明の社会に普遍的にあった「風俗や生活」について、次のように論じている――大和朝廷の側から神話の形で書かれた支配の歴史である『古事記』や『日本書紀』の初期神話には、場所と時間が特定できない記述がある。すなわち、日本列島のどの地域・地勢・自然風土なのか場所が特定できない記述や、世代的継承・親子関係や兄弟姉妹関係と関わりのない無時間的な「ひとり神」の概念の記述がある。例えば、初代天皇の神武天皇・「カムヤマトいわれひこ」は、「地名を名前とする日本列島に特徴的な呼称」である。しかし、その祖先神である「ヒコなぎさたけうがやふきあえずのみこと」(「波うち際に建てた産屋の屋根を葺くのが間にあわないうちに生まれた」)は、「日本語の人名とは思われない名称を持った」その場所を特定できないものである。
以上の事柄から、次の事柄を導き出すことができる――聖書における完全に自由な自己啓示する神は、「隠レタ神」(隠蔽)と「アラワサレタ神」(顕現)という啓示の弁証法において行為される神であって、私たち人間によって「遂行される弁証法」において行為される神ではない。したがって、土俗性とヘーゲル主義に依拠して、低次の神の愛と高次の神の愛という段階的概念を恣意的に作った北森嘉蔵の弁証法においては、神は決して行為されることはないのである。神性をその「存在」の本質とする神の子・神の言葉・神の「存在の仕方」であるイエス・キリストの啓示の出来事と、「垂直に天から落ちてきた出来事」(聖霊降臨日)・「垂直に天から」注がれる聖霊による信仰の出来事に基づいて啓示認識・啓示信仰が「事実生起しているとして確かめ得、また承認しうるようになるそのことが、啓示の歴史性である」(邦訳69頁)。このことは、キリスト教に固有な啓示の「概念の実在」(類)とその「概念の実在」の歴史的現存性・自己表出性のことを述べているのである。バルトは、このことを、次のようにも述べている――「歴史的な(Geschitlich)神の啓示されてあること」(邦訳71頁)というように、また、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、というように、そしてまた、「聖書の証言の中では、神が第三の意味で主」・神性を本質とする聖霊であることが「啓示の決定的な特徴である」(邦訳72頁)というように。繰り返しになるが、。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではない。神の言葉は、「人間の現実存在の内部」・人間の感覚と知識を内容とする経験・感情や理性や実存や意志・人間論や人間学的な哲学原理や認識論や世界観の中にはないのである。なぜなら、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。神の言葉は、その都度の神自身の自由な決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」る。この神の隠蔽性・神の秘儀性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に、神の不把握性と終末論的限界(《自己相対化》)の前に立たされるということである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・啓示信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」=啓示の出来事と「聖霊の注出」においてのみ可能となる。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、啓示認識・啓示「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示=イエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことのない自然神学的な「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。