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佐藤優『沖縄・久米島から 日本国家 を読み解く』――その根本的な批判

佐藤優『沖縄・久米島から 日本国家 を読み解く』小学館、に基づく

 

 

佐藤優『沖縄・久米島から 日本国家 を読み解く』――その根本的な批判

 

 

 佐藤は、この本を、「内省的な」本だ、と言う。それは、外交官になって、「深夜まで仕事をしている霞が関(中央官庁)のわれわれ官僚の姿」と、「1991年、8月ソ連共産党守旧派による」「クーデターの最中も、ソ連国家の中枢である共産党中央委員会で、有能な官僚たちが……一生懸命仕事をしていた」にもかかわらず、「ソ連国家の崩壊を防ぐことができなかった」ことを目の当たりにして、日本国家の運命と自らの人生と一体として考えるようになったからだ、と佐藤は言う。この「日本国家の運命と自らの人生と一体として考えるようになった」という、この佐藤の、感じ方の様式・考え方の様式・行動の様式は、根本的な誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて、国家<主義>、「権威」としての天皇・天皇制の護持に基づくその権威と権力の分離による国家(国体)の保持と強化、を目ざすものであり、それへと向かうものである。

 

 

佐藤の主張について――

 

1)日本国家の原理原則は、「北方四島に対する日本の主権……回復」にあった。その北方領土問題について、佐藤は、ウラル国立大学でマルクス・レーニン主義哲学の主任教授をやり・リトアニア系であるがロシア正教徒でロシア化した・「1991年12月……ソ連崩壊のシナリオを描いた」・「ロシア国務長官のブルブリス」(33頁)の次のような見解を首肯している(この詳細は、佐藤のいつものエリート<主義>と自慢話とともに、20・21頁にある。また、第2章・3章もそうである)――それは、第一に、対内的政策においては、スターリン主義の負の遺産を払拭し、「民主化、市場経済を社会に根づかせ」る必要がある、というものである。第二には、北方領土問題もスターリン主義の負の遺産だから、対外的政策としては、ロシアは、北方領土を返還することで、スターリン主義との決別を世界に示すことができる、というものである。例えば、彼らによれば、スターリンの「大国主義」が「日露戦争に対する復讐」としての1945年2月のヤルタ会談における日ソ中立条約を侵犯しての「北方四島……占領」要求(ルーズベルトとチャーチルに対する)を否定することで、すなわち北方領土を返還することで、スターリン主義との決別を世界に示すことができる、というものである(15・16・17頁)。このように佐藤の語りは、いつも外在的で一面的皮相的独断的固定的なのである。というのは、佐藤自身が、「権威」としての天皇・天皇制の護持に基づく権威と権力の分離による国家(国体)、国家<主義>を標榜しているからである。佐藤自身にある、内なるスターリン主義は、彼自身の発言の中に、その発言の党派性の中に、党派的思想・党派的共同性・党派的多元主義、にある。
 言い換えれば、スターリン主義等々の党派<主義>、党派的思想・党派的共同性・党派的多元主義、国家<主義>を包括し止揚して、そこから超出するためには、佐藤のようなエリート<主義>、エリートの育成やそのエリートに基づく外部注入的な大衆啓蒙においては全く不可能なのであって、ほんとうは、知識の、その原理自体、その認識方法と概念構成自体において、思想にとっての普遍的な価値基準としての大衆に対して知識を完全に開いていく、その共同性を完全に開いていく、という知識・知識人の課題、その知識・知識人の共同性の課題、大衆に対して国家を完全に開いていくという国家の課題、を意識的自覚的に引き受けることにあるのである。この課題を、神学においては、バルトだけが、「イエスの信仰」を主格的属格として理解することにおいて、すなわちそれを啓示の客観的現実性として理解することにおいて、意識的自覚的に引き受けたのである。このことを理解している、神学者・牧師・著述家は、バルト読みのバルト知らずの佐藤や富岡幸一郎はもちろんのことであるが、私が読んだ中には一人もいなかった。ただ、『福音と律法』の中の「イエスの信仰」を主格的属格として理解したバルトを、<正直に>受けとめ翻訳した優れた文芸批評家の井上良雄だけは、そのことを認識し自覚していたと言える。なぜならば、井上良雄の翻訳本以前に、バルトの根本的な総体像と真意を全く無視し、それゆえに恣意的に曲解して、バルトはそれを目的格的属格として理解している、と翻訳した最低の馬鹿げた似非翻訳者がいたからである。

 

 さて、今回の本で、佐藤は、自身を、はっきりと「国家主義」者として規定している。言い換えれば、佐藤は、東西イデオロギー・権力も、ナチズムも、全体主義も、スターリニズムも、修正資本主義も、国家を第一義(価値)とする国家社会主義でしかない、ということが、理解できないのである。竹中・小泉路線がそれであったが、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義も、国家を第一義(価値)とする経済的自由至上主義であり・至上市場主義経済化でしかないものなのである。大多数の被支配としての一般大衆のことを第一義的に考えない国家を第一義(価値)と考える小泉と竹中は、大多数の被支配としての一般大衆にとってよき伝統であった終身雇用制度と年功序列型賃金体系を破壊してしまった。しかし、ほんとうは、マルクスが言うように、日本においては、高度な消費資本主義の「肯定的成果をわがものにすることによって」、大多数の被支配としての一般大衆にとってよき伝統であった終身雇用制度と年功序列型賃金体系を「破壊しないで、それを発展させ変形すること」が必要であったのである(『資本主義的生産に先行する諸形態』)。しかし、消費税増税の時もそうであったが、その時も、知識人とメディアは、支配上層の根本的な責任を徹底的に追求しないで、法(的言語)と政策(的言語)を介して、国家(の体制)に加担していったのである。こうした事態は、知識人やメディアのベクトルが、大多数の被支配としての一般大衆の全体の幸福に向いていないことの証左なのである。したがって、私たちは、知識人の知識や情報やメディアの知識や情報を鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、責任転嫁のはなはだしい支配上層の制度としての官僚・政治家・資本家に対して、また知識人やメディアに対して、あくまでも自らの生活実感と自立した生活思想によって、徹底した断固たる抗議の発言と行動をとる方がいいのである。ほんとうは、ここに、大多数の被支配としての一般大衆の世界的連帯の根拠と可能性があるのである。
 いずれにせよ、佐藤の思考のベクトルからは、決して、現実的な社会を第一義(価値)とする社会主義国家への移行という国家の過渡的相対的緊急的課題も、国家の無化を伴う、それゆえに戦争廃絶を伴う、人間の社会的現実的な解放という究極的包括的永続的な課題――この課題は、観念の共同性を本質とする政治的国家に第一義性・価値を疎外するのではなく、身体を座とする個や家族や市民社会を生きる現実的な対自的で対他的でもある個の現存に、第一義性・価値を自己還帰させるところにある――も生まれ出てはこないのである。こうした認識・自覚が、事実的政治屋の佐藤には、皆無なのである。したがって、馬鹿げた似非使徒の佐藤は、平然と、あのような国家<主義>を標榜できるのである。このように、反スターリン主義を標榜しているから、反スターリン主義とは限らないのである。したがって、あるがままの戦争体験の思想化を介して発言する吉本は、現在も、「いかにもマスコミ受けするような、明るくて建設的なことをいっている政治家とか知識人とか文化人とかが、一杯います」・しかし、「そんなやつらは、一番ダメで、そんなやつらこそ、一番危ないんです。いざとなったら、真っ先に、『戦争をやれっ、やれっ』っていうのは、そんなやつらに決まっています」、と語るのである(『超「戦争論」下』)。

 

 「エリツィン政権の最重要課題はスターリニズムとの決別だ」った・したがって、ブルブリスは、ロシアに対して日本がなすべき外交努力は、「ロシアの政治勢力配置を正確にとらえ、北方領土問題解決に貢献する勢力にてこ入れすることだ」と述べた・ここで、政治勢力配置とは「エリートの配置」のことである・ロシアには、第一に、旧ソ連共産党中央委員会の官僚や旧国営企業幹部で、新時代に対応できないエリートがおり、第二に、民主改革運動への関与やエリツィンとの個人的つながりのあったモスクワの中堅インテリ、地方の共産党官僚やインテリで、閉鎖的・縁故主義的腐敗体質を持っている、巨大なロシア国家を動かすノウハウをもたない、偶然のエリートがおり、第三に、20歳代から30歳代前半の未来のエリートがいる、と佐藤は言う。この中で、10年後のロシア、ロシアの将来を本格的に支えていくのは第三のエリートである、ロシアの将来は、そのエリートの育成の成否にかかっている、したがって、そのエリートとの交流が必要である、と佐藤は言う。また、佐藤は、「反スターリン主義を基軸に北方領土返還(中略)に取り組」み・それに「理解を示す政治エリートがたくさん出てきた」、と述べている。(36−38頁)

 

 モスクワやホワイトハウスに世界の中心があると考えていた佐藤は、『おもろさうし』を読み、その本の中に、「世界は久米島の字西銘、新垣の杜から始まったという記述」を見出して、地域「久米島の新垣の杜を中心にして世界を描くことも可能のはずだ」・「これまで自分に見えなかった『何か』が見えてくるはずだ」と思った、と述べている。したがって、私たちは、これ以降で、この佐藤の「何か」は何かを見ていこう。

 

 

2)佐藤は、ソ連帝国には「民族を示唆する言葉が一つもない」から、「国民国家」、民族国家ではない、と言う(12頁)。しかし、「民族を示唆する言葉」があろうがなかろうが、ソ連は、国民国家・民族国家である。国家の構成要素として主権・領土・国民(観念の共同性としての国民・民族)があるが、ソ連は、ロシア語の規範としての標準語化政策はとらなかったとしても、ソ連国家支配上層の意思で動く強大な軍事組織である国軍も持っているおり、国民国家・民族国家である。また、佐藤は、帝政ロシア時代は、宗主国・ロシアと植民地・フィンランドやトルキスタン(中央アジア)という構成の帝国であったが、ソ連帝国は、ソ連共産党中央委員会という中心とソ連共産党中央委員会「書記長」という「中心の中の中心」を持っていたが、宗主国と植民地という構成をとっていなかった、と述べている(17頁)。

 

 

3)佐藤は、「ロシア民族学で用いられる独特な概念」――「亜民族(ナロードノチス)」について、この概念は、「近代的な民族が出現する前に存在した文化的共通性が強く、同朋意識をもった人々の集団」を意味している、と述べている。「南ロシアでは、18世紀頃まで、ロシア中央部や北部とは異なる独特の言葉と文化をもつ亜民族が存在したが、19世紀末には他のロシア人と完全に同化ししてしまった」。また、佐藤は、琉球王国が、明治時代初期まで、日本に帰属するとともに中国にも朝貢するという二重帰属の状態だったことについて述べている(31・32頁、49・50頁)。
 さて、佐藤は、「国家の侵略性を隠蔽する」ものが「神話」だ、と言う。したがって、佐藤は、「領土は最終的に国家神話によって基礎づけられる」から、日本は、「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は誰が何といってもわが国固有の領土である」という神話を堅持することが、「北方領土問題解決の大前提」である・これを日本の神話として定着させことが重要である、と述べている。逆にロシアは、「南クリル四島は誰が何といおうとも絶対にロシア領だ」という神話を堅持する。しかし、このロシアの神話は、エリツィンの時代には「カリーニングラードからウラジオストクまでの大国ロシア」というように変容したから、佐藤は、この変容した神話を定着させることが「日本のロシアにおけるロビー活動の鍵」だ、と言う。

 

 

4)佐藤は、次のように述べている――
@沖縄には易姓革命論がある。日本に「革命が起きないことは、皇統によって担保された権威とその他の聖俗の権力が分離されているからである。この権威と権力を分離するというシステムは、寛容と多元性によって担保されている。この寛容と多元性のなかに、寛容と多元性を認めない思想や革命思想も含まれている。そして、その革命思想が現実に体現されている地域が沖縄なのである。換言するならば、沖縄の思想には、日本の既存の思想を破壊する力が潜んでいる。従って、沖縄問題は思想問題であり、対処を誤ると日本の国家体制が内側から崩壊する危険性がある」。
A「久米島は早くから、沖縄本島とは別の一つの国家を形成し、久米島国家の代表団が8世紀初めに奈良の朝廷を訪問している」・「奈良の朝廷に貢物をあげている」。「奈良時代、久米島を含む沖縄とヤマトとの交流は頻繁で、言語もいまよりもずっと近接していたようである」・しかし、「平安時代になると……日本と支那との交通も止み、……朝廷でも南の方に注意しなくなり……」「その後、久米島は独自の文化を発展させていく」。(44・46頁)

 

 この語りの内容は、『国家と人生』と同じである。易姓革命論の位相について――易姓革命は、「フランスの市民革命やロシアの社会主義革命の類の、下からの革命思想ではなく、上からの……革命思想である」、と佐藤は述べている。先ず、こう述べる佐藤には、人類史的段階の差異の認識と自覚がない。それだけでなく、ロシア革命は、国家の無化を伴う、人間の社会的現実的な解放を目指し実現させるそれではなかった、また、それは、<社会>を第一義(価値)とする社会主義国家を目ざし実現させるそれではなかった、すなわち、それは、<国家>を第一義(価値)とする国家社会主義でしかなかった・そして、今でもそうである。また、フランスの市民革命の理念は、北アメリカ自由主義国家で実現したが、それは、人間の観念的政治的法的部分的解放の問題、すなわち国家の宗教からの解放の問題であり、政治的法的に信教の自由が保証された政教分離の政治的近代国家の成立の問題である。この段階において、国家の問題は、現世的問題、すなわち政治的近代国家の批判の問題となる。なぜならば、人間は社会的現実的に自由でなくても・解放されていなくても、観念の共同性・共同幻想である国家は自由主義国家であり得るからである。その場合、人間は恣意的に自由であり得るだけである。また、人間は、経済的社会的な不平等や格差があっても、法的には平等であり得る。このように完成された政治的近代国家の場合、人間の思惟や現実的生活において、天上の観念的非日常性(政治的共同性)と地上の現実的日常性(市民社会生活・個別的私的現実的生活)との二重の生活が強いられる。マルクスも吉本も、このように考えた。

 

 人類史のアジア的段階における中国にも孟子の「民本主義」と「易姓革命」論があるから、すでに中国にも西欧的段階が存在したのではないかという異議申し立て(金谷治『中国思想を考える 未来を開く伝統』中央公論新社)もあり得る。しかし、その異議申し立てに対して、吉本隆明の、方法としての「時間―空間の<指向性変容>」論・「構造的時空置換」論に基づいてその問題を扱えば、次のように<否>と答えることができる。すなわち、第一に、人類史のアジア的段階においては、人びとの間に、近代市民社会の成立に根拠を有する、西欧近代の特徴である他在であって自在・対自的であって対他的という自由な自己意識の無限性の認識や自覚がなかった、第二に、「民本主義」と「易姓革命」論の内容は人類史のアジア的段階の前の、プレ・アジア的段階・アフリカ的段階・縄文的段階における絶対的専制の遺制・名残り・心性・認識構造に依拠していたということができる。アフリカ的段階において王は、政治制度としても、土地所有者としても、絶対的専制君主ではあったが、「疾病のような凶事が襲ったり、失政をまねいたり、天変地異などが永く続いたりすると、王の無能や不手際とみなされ、罷免されたり、殺害されたり、障害の生けにえ にされた。この意味で王は裏返された絶対奴隷だともいえた」からである(吉本『アフリカ的段階について 史観の拡張』)。「王殺しの伝承」も残っている(山口昌男『文化人類学への招待』)。そうした絶対的専制君主の後者の在り方が、孟子のいうところの「民を貴しと為し、社稷これに次ぎ、君を軽しと為す」や、武王による殷から周への王朝革命(殷周革命)における「民衆にデタラメをして忠義な家来をないがしろにするようなのは本当の」王ではないから、「そんな者は殺してしまってもかまない」とされる王の在り方に対応しているということができる(『中国思想を考える 未来を開く伝統』)。ヘーゲルも「中国ではすべての個人の平等がたてまえとされ、統治権は皇帝という中心に集中して、特殊な個人が自立したり主体的な自由を獲得することがなかった」(『歴史哲学講義』)と述べているが、その「平等のたてまえ」とは人類史的・世界史的なプレ・アジア段階・アフリカ的段階・縄文的段階における、氏族制の遺制・名残りとしてそうであったということができる。
 また「アジア的」段階にあった江戸期(地域日本)の離婚制度における男性の側の三行半と、女性の側の衣類や家具や持参金に対する財産権的な対抗措置という男女の平等性の在り方は、「アジア的」段階の前、すなわち血縁の氏族共同体を基礎とする「原始的」段階における、所有権や管理権はなかったとしても女性から女性への財産等の相続・継承という、また家族においては妻の自主性や自由の度合が大きかった「母系制」(祖父江孝男『文化人類学入門』)の遺制として、世界普遍性の中に位置づけることができる。したがって、江戸期の男女平等性は、個人原理に基づき明確に法制化された西欧近代の萌芽では決してなく、逆にプレ・アジア的段階・アフリカ的段階・縄文的段階の遺制として位置づけ得るのであって、その意味でそれは新しいことでも進歩的でも革新的でもない。また、人類史のアジア的段階における、自分の所属する村落が世界のすべてであるという閉じられた農耕村落共同体の在り方は、相互扶助の自然感情・意識を育むが、一方で未開の心性や「村八分」や「世間体」や、村落以外のことに対する無関心をはりつかせており、共同体至上意識がいつも個体性を越えていくという負の心性も有しているので、それらは人間個体を抑圧したり、自死に追い込んだり、共同体構成を中央集権化させたりする根拠ともなるものである。
 佐藤は、久米島について、「首里王府に税を供出した後は、できるだけ外部世界とかかわりをもたずに、島民が相互扶助によって生き残ることを考えてい」た、と述べている(205頁)。

 

 国家<主義>を標榜する一方通行的一面的皮相的独断的固定的な思考の佐藤は、国家無化を伴う、それゆえに戦争廃絶を伴う、人間の社会的現実的な解放という究極的総体的永続的課題を持たないのである。したがって、佐藤は、「権威」としての天皇・天皇制の護持に基づく、その権威と権力を分離させた国家(国体)を目ざすのである。すなわち、佐藤は、スターリン主義を批判しながら、自ら、スターリン主義、ロシア・マルクス主義、すなわち国家を第一義(価値)とする国家社会主義を目ざすのである。したがってまた、このような事実的政治屋の佐藤は、国家の過渡的相対的緊急的課題である社会を第一義(価値)とする社会主義国家への移行の構想も持たないし・持とうともしないのである。また、佐藤は、沖縄から日本国家を読み解く、と言いながら、南島・沖縄から「権威」としての天皇・天皇制・天皇制的国家を相対化し無化するという南島論における思想的な課題も持たないのである・持とうともしないのである。

 

 

5)8世紀、「奈良の朝廷(≪例えば、「聖武天皇」≫)に朝貢が行われてい」た。易姓革命は、その「ヤマトでは起きな」かった。「日本の国体(国家体制の基本理念)は革命が起きないことにある」、と佐藤は言う。その根拠は、「権威」としての天皇・天皇制の護持に基づく、その権威と権力を分離させた「国体」にある、と佐藤は言う。それに対して、琉球・沖縄では孟子の易姓革命論が継承されていた。その例証が、古来の天孫氏の王から舜天王への移行である(48頁)。
 沖縄には「独特な生命観」があって、霊(プネウマ)は生命の根源であり、魂(プシュケー)は生命体から離れることのない個性性であって、「一人の人間に魂が複数ある」。佐藤は、ユタには、「一般の人々には見えないものが見えたり、未来を予知することができる……特別の才能が必要」であって、ユタは、そうした「霊感力」を駆使して「ハンジ(判示)」の依頼者に対して、判示する、と述べている(61頁)。佐藤は、その沖縄のユタに見てもらった時、「あなた(≪佐藤優のこと≫)魂を一つ落としているいるわ」、と言われ、京都の禅寺で落としたことが分かり、ユタに「呼び戻す儀式をしてもら」ったら、「海の向こうから何かが飛んでくる感じがした」、と述べている。ユタとは「在野のシャーマン」のことである(53頁)。沖縄には、ユタとは別に「ノロという琉球王朝によって制定された神棺がいる」。制度的なノロは「裁判権と領地をもっていた」。「パラダイムの異なる神話を近代的な実証科学の観点から批判しても意味がない。神話を忌避するのではなく、解釈することが重要だ。解釈とは同じ内容を別の表現で行うことである」(54頁)。「呪いをオカルトとして見てはいけない」。「表面上は負けた姿をして、相手を徹底的に……呪う。そこから……相手の弱点が見えてくる」。「呪いとは、武器なき戦争、つまりインテリジェンス戦の一部なのである」(57・58・61頁)。「久米島の呪いは、自己が直面した問題を解決する技法」・「道具的知性」である(59頁)。こうした佐藤に対して、問題に直面した時、マルクスや吉本やフーコーはどうであったか?――「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である。ユダヤ人問題への批判は、ユダヤ人問題への解答である」、とマルクスは述べた。佐藤は、本居宣長を真似て、7,8世紀を起源とする「権威」としての天皇・天皇制、沖縄神話をそのままで信奉せよ、と言っているだけなのである。ただ、それだけなのである。すなわち、佐藤には、沖縄の宗教性・宗教観・・宗教祭儀から、「権威」としての天皇・天皇制・天皇制的国家を相対化し無化する思想的な課題が皆無なのである。
 前述した佐藤の「神話を忌避するのではなく、解釈することが重要だ。解釈とは同じ内容を別の表現で行うことである」というこの言葉は、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」。「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である、というバルトの『教会教義学 神の言葉』にある言葉を、その神学における思想の内実を全く捨て去ってしまって、皮相的にまねたものである。なぜそう言えるかと言えば、佐藤は、「権威」としての天皇・天皇制、沖縄神話は非論理でそのあるがままに信奉せよと言いながら、『はじめての宗教論』においては、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学が不可欠なのです。神学的な操作(≪前期ハイデッガーの哲学原理に基づいたブルトマンのような非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」、と述べているからである。このことからだけでも、私たちは、佐藤の発言の出鱈目な<場当たり性>を、場当たり的な知識やインテリジャンスの質を知ることができるのである。

 

 

6)佐藤は、マルクスの宗教批判を紹介しているのであるが、マルクスが一方で過渡的相対的緊急的な人間の観念的法的政治的解放(<社会>を第一義・価値とする社会主義的国家への移行)と同時に、他方で観念の共同的形態を本質とする国家の無化を伴う、それゆえに戦争の廃絶を伴う、人間の社会的現実的な解放という究極的総体的永続的な革命像を構想していたことを認識し自覚していないのである。したがって、佐藤は、平然と国家<主義>を標榜し、「権威」としての天皇・天皇制の護持に基づく、その権威と権力の分離した国家(「国体」)を述べるのである・述べ続けるのである。この佐藤は、ソ連は、「無神論を標榜する名の宗教によって支配されていた」と述べているのであるが、佐藤自身が、宗教としての国家<主義>者そのものなのである。また、佐藤は、「科学的共産主義の教祖はマルクスである」と述べているのであるが、その言い方は、佐藤自身が宗教としてのロシア・マルクス<主義>しか知らないことの証左である。マルクス自身は、唯物<主義>者ではなかったし、経済決定論者でもなかったのである。このことについては、すでに述べているので、今回は省略する。この佐藤は、臆面もなく、マルクスの宗教批判を「正直に受け入れた」と述べながら、フォイエルバッハの宗教批判、マルクスの宗教批判、ハイデッガーの「存在者レベルでの神」・その神への「信仰」に対する揶揄・批判を、根本的包括的究極的に包括し止揚したバルトのその信仰・神学の原理、その認識方法と概念構成――神の側の真実、主格的属格としての「イエスの信仰」、啓示の客観的現実性、啓示に固有な証明能力、一切の近代主義・一切の自然神学に対する根本的<批判>――を全く認識し理解し自覚していないのである。佐藤は、全く以て、バルト読みのバルト知らずなのである。

 

 また、佐藤は、「生者は死者のメディアとなることなしには創造的なことはなしえないのではないか」、と歴史的相対化の拒否を述べている。引用の言葉の意味は、「死者」を先行するすべての世代からゆずられた成果(個体的自己の成果の世代的総和)の媒介・反復において読み換えれば、ほんとうは、純粋にオリジナルな成果やオリジナルな思想というものはない、ということである。人は、不可避的に、個・現存性と類・歴史性との交点で生きるということである。そうした中で、個性や時代性を刻むということである。それにしては、佐藤は、読者に対して、バルトは読むべきだと言いながら、バルトの三位一体論、唯一の啓示の類比である神の言葉の三形態、聖書の証言・証し及び教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)を全く認識し理解し自覚していないのである。(59−70頁)

 

 

7)やはり、ほんとうのところは、コンプレックスの裏返しだと思うのだが、佐藤は、ほんとうにエリートという言葉が好きな人物である。久米島は、1510年、首里王国に支配されるまで独立国だった。按司(「主が訛ったものという説がある」)たちが支配していた。佐藤は、「堂のひや」と呼ばれる堂集落の親方(「土着エリート」)の物語を軸に久米島性を考えた、と述べている(84・85頁)。「国家は、暴力を背景に社会から租税を収奪することなくして存在することはできない」(95頁)。佐藤は、マルクス等の観念の共同性を本質とする国家という認識・理解・自覚を持たないのである。「久米島の政治エリートである親方(土着の親方、共同体の代表者)や、宗教的エリートであるノロは、武力をもって侵入してきた新支配者の按司たちに対して、不満をもっていたが抵抗しなかった。それどころか按司に積極的に協力して」いた(89頁)。「堂のひやには一種のマキャベリズムがあ」った(94頁)。「久米島における革命思想は、住民が積極的に新たな政治体制を構築することではない。(≪易姓革命論に基づく≫)天命によって、外部からどの支配者が現われるかを正確に見極めて、強い者によりそっていこうとする小さな島に生まれた人々の生き残り戦略なのである」(104・105頁)。

 

 佐藤は、その「久米島性から学んだのは、国家に対する社会の優位という思想である」(96頁)と述べながら、ここでもまた、「現役官僚時代には、官僚としてのマブイが活性化し、それに学者としてのマブイが少しだけ活動し、(中略)東京拘置所で……キリスト教徒としてのマブイ」、「国家主義者としてのマブイ」が活性化し始めたと述べるのである(101頁)。269頁では、佐藤は、はっきりと自分を「人権よりも国権を重視する国家主義者」と規定している。このように、佐藤は、概念的な<根本的>矛盾と誤謬を、普遍性とメディア的組織性の後光をかぶせて、平然と語るのである。このことからも分かるように、それゆえに吉本が述べているように、<自称>エリート・知識人のそれはもちろんのことであるが、大学等の知識人の知識や情報、あるいはメディア的知識や情報を、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることはしない方がいいのである。

 

 「国家に対する社会の優位という思想」を学び持つという場合、それは、社会を第一義(価値)として考えるということであるから、そこからは、国家<主義>者という規定は決して出てこないし、むしろ、当然にも、そこからは、国家の過渡的課題である社会を第一義とする社会主義国家への移行の思想的課題と、その究極的課題である国家の無化を伴う人間の社会的現実的な解放という思想的課題、の認識・自覚が出てくるはずなのである。しかし、佐藤は、国家<主義>者として、「権威」としての天皇・天皇制の護持、それに基づく権威と権力を分離した国家(「国体」)を目指しているだけなのである。したがって、佐藤は、天皇教的キリスト教として、神学においてだけでなく人間学においても、非自立的で中途半端な馬鹿げた似非使徒でしかないのである。

 

 

8)「マブイ」とは魂のことである。状況論も持たず、思想的な課題も持たない、佐藤の、皮相的独断的固定的な笑える話が、これである――「マブイの観点から現下日本を見てみよう。自殺が連続するというのも」「生者を死に誘」う「シニマブイが生きた人間の魂に働きかけるから起きる現象だ」(98頁)。

 

 

9)佐藤は、マルクス『資本論』を引用して、一面的独断的固定的出鱈目に、「商品が貨幣になるためには、『命がけの飛躍』が必要とされる」・「資本主義システムとは、この『命がけの飛躍』があたかも存在しないかの如く、商品から貨幣への転化が順調に行われるという擬制の上で成り立っている」。この『命がけの飛躍』は、資本主義的段階にはなかった久米島の場合、「中国や日本本土、沖縄本島から珍しい商品を手に入れ、それらの商品が希少である場所で、売却することによって得られた。要するに、海を越える冒険という『命がけの飛躍』によって貨幣(資本)の増殖を確保したのである。この増殖した貨幣の一部を、久米島の支配エリートが収奪したのである」(174−176頁)。私は、今回も、この本を近くの図書館で借りて来て読んだのであるが、佐藤の観点は、いつも、エリート<主義>、国家<主義>、「権威」としての天皇・天皇制の護持、インテリジェンス、であって、大多数の被支配としての一般大衆にはないから、第14章(マルクス『資本論』の引用がある)の論述においても、支配エリートとか統治エリートとか言う言葉だけが目立って、価値や価値の源泉について、それに関わる労働者や労働力や労働について、資本が蓄積された労働であることについて等々の論述が皆無なのである。ほんとうは、少なくとも次の点についてだけは、触れておくべきであろう。吉本に依拠して述べてみよう。

 

 「『経済学と哲学とにかんする手稿』が、市民社会の内部構造としての経済学の範疇をとりあつかったものとすれば、『資本論』は、人類の生産社会の歴史的発展段階としての資本制社会を、資本と労働との総過程としてあつかったものということができる」。マルクス『資本論』の<価値>概念の対自的・対他的関係の本質――ある商品が<価値>を持つのは、それが、人間の労働(自然への働きかけ)を介した自然の非有機的身体化、すなわち自然の人間化であり、人間の対象化された<労働>であるからである。そして、その価値の度合は、時間によって計られる。したがって、その商品の価値は、その労働の時間に比例し、生産力に反比例する。この価値は、労働者の存在を必須条件とする。しかし、この価値は、「商品に附着する表象であって、労働、労働力、労働者に附着するものではない」。すなわち、その価値は、<労働>を介して、いつも商品の側に移行してしまうものである。また、この商品は、自分で消費しない場合、社会的な使用価値である。この商品の価値は、流通の場では、他の商品との対他的な関係において――すなわち等価交換価値形態において、自らの価値を示すことになる。「このことは個人的な<労働>は、社会的労働となることなしには、自身を個人的な<労働>となしえないことと同義である」。
 この<価値>概念の対自的・対他的関係の本質を、歴史性において――すなわち「すべての生産社会の段階をへて実現されてゆく」ことにおいて考えれば、次のように言うことができる。第一に、「<価値>は商品間の関係としての<等価>を、ますます個別性から普遍的等価へおしすすめ、貨幣・紙幣・有価証券等々のかたちとして自己を実現する」。商品は、民族国家の一国性と経済の世界性という中での実体経済と金融市場の幻想性における貨幣の高次な具体的普遍性の生々しい獲得競争へと向かう。芹沢俊介の言う信用<商品>であるクレジット・カード使用による「掛売り(掛買い)」の「新しい市場の形成」を可能としたそれは、消費資本主義段階の新しい価値形態なのである。第二に、「<労働>はある市場意図のもとにおこなわれるようになり、それにつれて、使用価値は、……交換価値とますます分離するようになる」。使用価値そのものが価値の源泉である労働力の価値よりも、交換に供される人間の対象化された労働としての商品の価値の方が大きいから、その分が剰余価値(利潤)として蓄積されていく。このように、資本は、蓄積された労働である。
 資本主義的段階において、価値としての商品の流通は、<資本>として現われる。貨幣(商品に変え)→商品(商品を販売)→貨幣(自己再生。剰余価値を生み出して自己還帰する、区別を包括した自己同一性)――この繰り返しの場合、貨幣は、自己増殖する運動体である<資本>に転化する。資本家にとっては、この価値を自己増殖する運動体の維持だけが問題である。そして、その場合、その「過程の外に、使用価値そのものが価値の源泉であるという特殊な商品」「労働力」を必要とする。この労働力は、「労働者の内部にあり、同じように自己再生する」。この意味の労働者は、「労働力の所有権だけは手離さないようにし」て、労働市場で貨幣をもった資本家にその<労働力>の時間を売る契約を結ぶ。この労働力の価値は、他の商品と同じように時間によって計られる。この場合、労働者が商品なのであって、労働力が商品ではない。
 したがって、フーコーは、次のように述べたのである――マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。なぜならば、資本主義制度における生産は、制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである、と(『セックスと権力』)。また、マルクス自身は、『資本論』で次のように述べたのである――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」。

 

 「久米島共同体の統治エリートは、島民から収奪した租税を首里王府に上納する機能を果たした。それと同時に、これらの統治エリートは首里王府から派遣された官僚ではなく、久米島土着のエリートである。従って、島民と祭祀を共有する」。島津支配後は、沖縄は、二重の租税を負担していた(179頁)。佐藤は、ただこのような事実を述べるだけで、南島における思想的な課題である、南島の宗教性・宗教観・宗教祭儀から「権威」としての天皇・天皇制・天皇制的国家を相対化し無化していくことについては、一言も述べないのである。このことは、最後の第23章「復古と反復」においても同じなのである。

 

10)佐藤は、次のように言う――ユタは、生者と死者の間を、亀甲墓で「一族の祖霊」と交通する。沖縄の「人々の世界観と宇宙観に関心をもっている」。久米島には、このことを考える「絶好の場所」・「新垣の庭」がある。それは、海の向こう・海の底にあるニライ・カナイから神々がやってくる場所である。この神は、村落に幸福、豊穣をもたらしてまた帰って行く(71・72頁)。
 ニライ・カナイとは、折口信夫によれば、常世の国の原形、母の国・根の底の国、異界、この異界からまれびと・来訪神はやって来てまた帰って行くところである。佐藤は、この宗教観を「超自然観」と述べているが、そうではなくて、そこに暮らす人びとの自然に対する自然に溶解した宗教性・宗教観・宗教祭儀、感じ方の様式・考え方の様式・行動の様式、なのである。この宗教観は、南島だけに限ったことではなく、人類史のアフリカ的段階・縄文的段階には世界普遍的にあった、宗教観なのである。
 佐藤は、「キジムナーガジュマルの樹に住んでいる妖怪」のことについても述べているが、これも、西欧近代を生み出した<地域>西欧にもあった樹木(自然)崇拝の名残りと同じ位相のものである。そのことを例証した書物が、フレイザーの『金枝篇』である。そして、この事実から分かることは、西欧近代を生み出した<地域>西欧も、人類史のアフリカ的段階・縄文的段階(時間)を経由してきた、ということである。この事実は、吉本の方法としての時間・空間の構造的変容論、時間・空間の指向性変容論を根拠づけるものである。また、この吉本の方法論は、マルクスの「もしもロシアが世界において孤立しているとしたら、ロシアは、西ヨーロッパが原始共同社会の存在以来現状にいたるまでの長い一連の発展を経過してはじめて獲得した経済的征服を、独力でつくりあげなければならないであろう。(中略)しかし、……、ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的(≪人類史のアジア的段階≫)である形態(≪例えば、自然な相互扶助感情・意識≫)を破壊しないで、それを発展させ変形することができる」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)、という言い方の読み替えでもある、と言うことができる。

 

 このことから、佐藤が護持しようとしている7,8世紀を起源とする「権威」としての天皇・天皇制、宗教としての天皇制は、吉本が述べているように、その「接木」の構造において(この「接木」の構造についてはすでに述べたのでここでは省略する)、「西欧の近代的な思想」も「受け入れる」し、「婚礼の儀式」にあるように「母系制社会の儀式……婿入婚」という「考古学的な古層」も持っており、また、空間的には「来訪神」であり、時間的には縄文期にまで時代を遡ることができるところの「祖先崇拝」である。来訪神には、地域や地勢によって差異があり、@「小さな島」の村落なら、「海の彼方に原郷」、ニライ・カナイがあって、「そこから神々がやってくるという信仰」・「水平来訪神」信仰があり、A「盆地の村里」の村落なら、「山の頂」「名だなる樹木を伝わって……上の方から垂直降りて」やってくるという信仰・「垂直来訪神」信仰がある。ここで、問題は、この種族は@の類型に入り、この種族はAの類型に入る、ということを空間的に確定することではなくて、問題は、これらの「信仰がいつからはじまったか」ということを、時間的に縄文期にまで時代を遡って考察し追究していく点にある。したがって、宗教としての天皇制の本質的な課題の究明、すなわち天皇制の相対化・無化の課題は、7,8世紀を起源とする天皇制それ自体を時間的な起点としては全く駄目なのである。言い換えれば、宗教としての天皇制の本質的な究明の課題、すなわちその相対化・無化の課題は、「稲作農耕が入ってきた」弥生時代(農耕を経済的基盤とした人類史におけるアジア的段階)の日本の農耕村落共同体や「海辺の村落」(漁村)にあった信仰を考察し追究するだけでなく、もっとそれ以前・天皇制以前にまで、すなわち狩猟採取を経済社会構成の基盤としていた人類史のアフリカ的段階・縄文的段階――アイヌは「縄文人の末裔で、混血を……避け……孤立した村落をつくって……縄文時代の、信仰から言葉からいろんなものがのこっている」――における「磐座(いわくら)とか樹木信仰」や「社会のあり方」や「言葉のあり方」にまで、歴史的に時代を遡及して考察し追究していく点にあるのである。
 しかし、佐藤には、この観点が皆無であるから、彼の場合は、いつも、一面的皮相的独断的固定的な思考と言説に終始してしまうのである。すなわち、佐藤のこのような思考と言説が、最後の第23章「復古と反復」の終わりの行まで続くのである。佐藤は、この本で、「沖縄以外の日本の近代化の過程で封じ込めた非合理性の世界を沖縄思想は正面から見つめ、世界の存立様式を両義性(≪幸・よきもの、不幸・悪しきもの≫)によって読み解いている。この観点から久米島の歴史を読み解き、そこから敷衍して世界史と現在の世界を解釈することが私の課題だ」と述べながら……。
 この佐藤が、「私が弁護士に『おもろさうし』の差し入れを頼んだこと自体が、ニライ・カナイからの神々による絶対他力の働きなのであろう」、と言うのである(77頁)。ここまでくると、読み手の方も、笑えなくて、惨めになる、溜息が出てくる。それに対して、確かに、中上健次が角川春樹との対談『俳句の時代』で、長編でも「パッと決まったら」、「言葉の生理そのもの」となって、「神がかりみたいになって」、すなわち生理的反応のようにあるいは自然の湧水のように、「言葉が出」てきて、「正味……三日」で書きあげる、と語っていた時、それはありうるだろうなと納得できるのであるが……。

 

 「神のいる森または林は『高くば』『まあに』等が生えていてここを御嶽または御拝所」と言う。石も「御嶽または御拝所」になっている(114頁)。
 吉本は、次のように述べている――神が「高千穂の峰に天降」るという信仰は、「縄文時代あるいは弥生初期からあった巨石・磐座・樹木信仰と同じもの」である。また、「初期の天皇が大和盆地」に入り、「そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰のありかたは、沖縄の聞得大君の即位のやり方と同じ」である。すなわち、それは、「一種の巨石信仰あるいは樹木信仰、……あるいは小高い丘の頂点から神が降りてくる」という類型に入る。聞得大君の即位式・「お新下し」の場所は、ニライ・カナイからやってくる神々が降臨する御嶽である。とすれば、その信仰は、天皇家・「農耕民に特有な信仰」というよりも、それよりももっと古い、そこに「前からいた先住民」・原日本人の「信仰」と言うことができる。天皇制無化の課題を日本における宗教祭儀の問題で扱えば、南島・琉球の視点から宗教的祭儀を調べ、その新しい形態とその古形を調べることで、天皇制固有のものとされてきた宗教祭儀を相対化し無化することができる。現在でも天皇が行っている農耕的な宗教祭儀は、中国ではそれ以前から行われており、日本の天皇制に固有なものではない。また、その宗教性の基本的性格は、ひとつは、祖先を信仰するという、南島に「宝庫のごとく保存されている一種の祖霊信仰」にあるから、天皇制における宗教性は、古形としてのそれではなく、それよりも新しい形態である。
 佐藤には、こうした観点が、皆無なのである。佐藤は、ただ、一面的皮相的独断的固定的に、国家<主義>を標榜し、「権威」としての天皇・天皇制の護持に基づくその権威と権力の分離による国家(国体)を目ざすのである。したがって、佐藤は、知識の思想的な課題、南島論の思想的な課題、を認識せず・自覚せず、ただ、次のような事実的なことばかりを述べるのである――「アメリカは、自由と平等を体現した民主主義国家である」。「民主主義政体の国である」(227頁)。一方で、「アメリカは帝国主義の国」である。なぜならば、「中国進出の橋頭保として、琉球占領を計画した」からである(228頁)。「米兵による沖縄県民への暴行事件の原型」はここにある(242頁)。「清国と冊封関係にあり、日本にとっては幕藩体制内の異国であった琉球が、国際基準(≪アメリカの基準――琉米修好条約と琉球王府の裁判の容認≫)では独立国として取り扱われたことに気づいたことが、ペリー来航の最大の意義だった」(244頁)。「久米島は学問の島である。字ごとの夜間学校で、大人と子供が一緒になって討論会を行う」・「ディベートの技法を身につけていく」(256・257頁)。「ディベートは、真理を探求するための議論ではない。対立するどちらの方が説得力をもつ議論であると示すことができるかを競う」ものである。「久米島のエリート層は、子供たちの知力、修辞力、さらに指導力を見るのだ。そして、将来のエリートを久米島の共同体として育成していくのである」(258頁)。また、佐藤は、「日本のナショナリズム」や、久米島・琉球の「アイデンティティー」やに包摂されてしまわない、「天上界、あるいは海上のはるかにあると表象されるニライ・カナイ(彼岸)のような超越的感覚」が、「人権よりも国権を重視する国家主義者である私」(佐藤自身のこと)が、「国家に包摂されてしまうしまう」ことを阻止している・そして、この「感覚は、久米島出身の傑出した知識人で沖縄学者である仲原善忠のテキストを読み解くなかで身についた」、と述べている(269頁)。佐藤は、このように、重々しく何か意味あり気に書いているのであるが、この「超越的感覚」の言葉の内容の位相は、たかだか、7,8世紀を起源とする「権威」としての天皇・天皇制であり、それが、「国家に包摂されてしまうしまう」ことを阻止している、と言っていることと同じことなのであるが、その「権威」としての天皇・天皇制の護持に基づくその権威と権力を分離した国家(国体)を目指す佐藤は、やはり国家<主義>者そのものなのである。この本の読者は、『国家と人生』においてと同様に、すぐに、このことに気づくであろう、このことを認識するであろう。

 

 佐藤は、「沖縄人にとって共通の原故郷である二ライ・カナイに『堂のひや』精神は存在する。この精神に復古するのだ」、と言う(305頁)。ここで私たちは、この復古的精神の内実を、『国家と人生』や様々な佐藤の発言の中で捉えかえす必要があるのである。そうすると、その佐藤が復古・退行する精神は、7,8世紀を起源とする佐藤の言う「権威」としての天皇・天皇制でしかないことを認識することができるのである――「大城氏の指摘通り、沖縄には天皇信仰はない。しかし、誰もがニライ・カナイに対する畏敬の念をもっている。このニライ・カナイの隣に存在するのが日本神話の高天原であると私は考える。ここに沖縄問題を解決する鍵があると思う」・「内地人と沖縄人がそれぞれの神話を回復して、相互に認め合う。これによって日本の国家体制は強化されると私は信じる」。これが、この本の結論である。要するに、佐藤は、ただ、国家<主義>者そのものとして、「権威」としての天皇・天皇制の護持に基づくその権威と権力の分離された国家(国体)を目指すことが必要である、ということを、言っているだけなのである。このような佐藤は、やはり、メディア的組織性の後光に守られた、いっときのメディア的著述家でしかないのである。佐藤は、全く以て、吉本や梅原猛のような<思想家>ではないのである。このことは、やはり、メディア的組織性の後光に守られた、いっときのメディア的著述家に過ぎない富岡幸一郎も同じである。

 

 7,8世紀に律令体制を作る場合、……天照大神中心の神の体系をこしらえて、それを日本国家を統一するイデオロギーとした。その神道が祓いみそぎの神道です。……祓いみそぎの神道(記紀神道)というのは律令に応じた神道だと思う。(中略)私の古代研究は、国学の目でみるゆがみを、真淵や、宣長の目のゆがみを正して、ありのままにみたいということなのです。本居宣長が日本語を研究しましたけれども、結局8世紀以上に遡れない。(中略)琉球語とアイヌ語(≪南島やアイヌの宗教世界を含めて≫)という二つの灯の中に、我われが失ったものが浮かび上がってくるのではないかという気がするのです(江上波夫・梅原猛・上山春平『アイヌと古代日本』梅原猛「ユーカラの世界」小学館)。
 本居宣長が、『古事記』にあらわれた8世紀以降の日本を問題にしたように、また天皇制に文化的な価値観(漢学的な美意識)を収斂させていった三島由紀夫のように、「歴史的に<天皇制>を問題とするとき、歴史時代的にこれを問題にしたらだめで歴史時代以前の視点を包括する眼で問題にしなければ、南島の問題やアイヌの問題や在日朝鮮人の問題を包括する」ことはできない。神であり人であり、尊ばれると同時に蔑まれた神人は、差別用語ではなく、非農耕民を総称した呼び方であり、そしてその非農耕民は村のはずれで、手厚く処遇されたのである。この処遇からすれば、天皇も神人の一人であった。ただ天皇は、政治的には専制君主として権力を有していた。天皇族の祭儀は、それより古い南島の祭儀に基づいたものであり、儒教や仏教の知識も農耕技術も大陸からの輸入によるものであった。このように、「祭儀ひとつとっても、天皇族独自の祭儀はなかった」ことを根拠づけることができれば、天皇制の根拠を相対化し無化することができる。この天皇制の相対化・無化の課題は、日本においてまだ山の民と海の民と陸の民の相互変換が可能であった共同体の水準、「<法>が法以前の<宗教>的な<威力>であったときの共同体」の水準、「国家が国家以前の共同体」の水準であった時期にまで遡及し鳥瞰図の時間軸を拡張させて考察していくところにある。なぜならば、天皇制という「歴史時代の一国家の歴史は、千数百年」に過ぎず、「そういうものに、人類的にも生活的にも文化的にも価値を収斂させるわけにはいかない」からである。そのような作業において、地域としての南島やアイヌや在日朝鮮人の問題は、世界普遍的な課題に連帯させることができる(吉本『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。

 

 

 次回は、私自身の勉強のためにも、吉本隆明の<南島論>について、整理して述べてみたいと思う。